萬松山 泉岳寺
今から40年前、大学を卒業し故郷北海道へ戻る最後の日に訪れた思い出の場所でもある
師走のこの時期になるとテレビなどでも赤穂浪士の討ち入りに関する番組が増えてくる
忠臣蔵の物語は興味深く毎年のことだが、テレビの前に座り見入ってしまう
中門
泉岳寺には三門(総門・中門・山門)があったが、現在は中門と山門のみが残っている
現在の中門は天保7年(1836年)に再建されたもの
「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖動霈(いりんどうはい)による書
萬松山は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意
山門
天保3年(1832年)に再建されたもので、二階部分には釈迦三尊及び十六羅漢が安置されているという
「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書
一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめこまれている
大石内蔵助吉雄銅像
浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造され、泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したもの
内蔵助が元禄羽織を身につけ、連番状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したもの
山門の横から入る
東京は周囲に近代的な建物があり、それが入らないように撮るのに苦労する
本堂
旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい消失。現本堂は昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築
歴史を調べると、寛永18年(1641年)の大火によって伽藍が焼失、三代将軍家光の命により現在の高輪の地に移転再建されたという
「獅子吼」の額。母校の校歌の一節に「世に先駆けて獅子吼する」があり、水墨画家の渡邊ちょんとさんの獅子を描く姿を母校で見てきた直後だけに感慨深いものがあった
仏教用語で、相手が誰であろうとひるむこと無く、正しいことを言う勇気ある姿勢の意
澤木興道老師像
坐禅をもって生涯を貫いた20世紀にもっとも活躍した禅僧の一人
凜としたこのお姿、見とれてしまった
梵鐘・鐘楼堂
大正2年に造られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞かれている。
江戸から明治まで使われていた梵鐘は、ウィーンの国立民族博物館に所蔵されている
義士墓入口の門
水琴窟。水を流してみると確かにいい音が響いてきた
血染めの梅、血染めの石
浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石
首洗い井戸
義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれている
史跡 浅野長矩墓および赤穂義士墓
浅野長矩公之墓
長矩公夫人之墓
赤穂義士墓地の配置。細川家17人、松平家10人、毛利家10人、水野家9人
討入り以前に自害した萱野重実(三平)の供養墓を含め48基。戒名はすべて最初の文字が「刃」となっている
大石内蔵助良雄之墓
大石主税良金之墓(左)と十三回忌碑
行年十六逝。死んで名を残したが若すぎるだけに生きていればと考えてしまう
線香の煙が絶えないのは日本人の心に触れるものがあるのだろう
本堂の獅子吼の額を確認し帰路につく
撮影 平成28年11月8日
今から40年前、大学を卒業し故郷北海道へ戻る最後の日に訪れた思い出の場所でもある
師走のこの時期になるとテレビなどでも赤穂浪士の討ち入りに関する番組が増えてくる
忠臣蔵の物語は興味深く毎年のことだが、テレビの前に座り見入ってしまう
中門
泉岳寺には三門(総門・中門・山門)があったが、現在は中門と山門のみが残っている
現在の中門は天保7年(1836年)に再建されたもの
「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖動霈(いりんどうはい)による書
萬松山は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意
山門
天保3年(1832年)に再建されたもので、二階部分には釈迦三尊及び十六羅漢が安置されているという
「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書
一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめこまれている
大石内蔵助吉雄銅像
浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造され、泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したもの
内蔵助が元禄羽織を身につけ、連番状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したもの
山門の横から入る
東京は周囲に近代的な建物があり、それが入らないように撮るのに苦労する
本堂
旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい消失。現本堂は昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築
歴史を調べると、寛永18年(1641年)の大火によって伽藍が焼失、三代将軍家光の命により現在の高輪の地に移転再建されたという
「獅子吼」の額。母校の校歌の一節に「世に先駆けて獅子吼する」があり、水墨画家の渡邊ちょんとさんの獅子を描く姿を母校で見てきた直後だけに感慨深いものがあった
仏教用語で、相手が誰であろうとひるむこと無く、正しいことを言う勇気ある姿勢の意
澤木興道老師像
坐禅をもって生涯を貫いた20世紀にもっとも活躍した禅僧の一人
凜としたこのお姿、見とれてしまった
梵鐘・鐘楼堂
大正2年に造られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞かれている。
江戸から明治まで使われていた梵鐘は、ウィーンの国立民族博物館に所蔵されている
義士墓入口の門
水琴窟。水を流してみると確かにいい音が響いてきた
血染めの梅、血染めの石
浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石
首洗い井戸
義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれている
史跡 浅野長矩墓および赤穂義士墓
浅野長矩公之墓
長矩公夫人之墓
赤穂義士墓地の配置。細川家17人、松平家10人、毛利家10人、水野家9人
討入り以前に自害した萱野重実(三平)の供養墓を含め48基。戒名はすべて最初の文字が「刃」となっている
大石内蔵助良雄之墓
大石主税良金之墓(左)と十三回忌碑
行年十六逝。死んで名を残したが若すぎるだけに生きていればと考えてしまう
線香の煙が絶えないのは日本人の心に触れるものがあるのだろう
本堂の獅子吼の額を確認し帰路につく
撮影 平成28年11月8日