道の駅「会津」で得た情報で立ち寄った寺
駐車場には観光バスが数台駐まっており人気の寺ということを知った
仁王門
慶長16年(1611)の会津大地震で伽藍が倒壊し、3年後に再建した最初の建造物

残念ながら仁王像を観ることができなかった

仁王門の裏側は賑やかなことになっている

影霊堂
この地区から日清・大東亜戦争に出征し戦病歿された方々を護国守護神として祀っている

手洗石鉢「狐石」
約250年前に掘られた井戸からの清浄水

20リットルまで持ち帰ることができる

三仏堂
薬師如来、阿弥陀如来、六地蔵菩薩の三仏が安置されている
正面がガラス張りのため内部がよく見えない

苦労して撮った一枚となる。

観音堂<立木観音堂>(重要文化財)
鎌倉時代、建久年間(1190年~1199年)の建立
慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊するが、元和3年(1617年)に修理・再建された

桁行5間、梁間4間の寄棟造で屋根は茅葺き

欽明天皇元年(540年)に梁の僧・青岩が高寺山に庵を結び、その後、舒明天皇6年(634年)に僧・恵隆が恵隆寺(えりゅうじ)と名付けた

山号「金塔山(きんとうさん)」の扁額
団体が堂内に入ったため周辺を散策してみる

「櫛の奉納」
江戸時代頃から女性(嫁)が櫛(苦と死)を納める風習がある

霊験あらたかな鰐口

堂内に入る。観音堂内に安置される42臂の千手観音像
一木造で総高8.5m、像高7.4mの大きさで、一木造としては日本最大級の仏像
立木を刻んだとする伝承があり、長年「立木観音」と呼ばれて親しまれてきた。鎌倉時代の作
狭い空間に御本尊の他に「二十八部衆」と「風神・雷神像」が安置されている
拝観する場所も狭く、立ち止まってゆっくりとは他の迷惑になるのでできない。満足できない人はぐるぐる回ることになる
内陣・外陣にある「だきつき柱」
抱きついて離れない老婆もいた。願い事が叶うらしいが…

小金塔(こきんとう)
会津風土記の記述により調査・発掘。発掘された4個の大石を四隅に配して再建された

御本尊は大日如来

歌手 春日八郎の少年時代を見守ったという地蔵
私の出身大学近くに邸宅を構えていたことを思い出した

参拝者に老人が多かったのは「安楽ころり信仰」のためか。死ぬまで元気に過ごし、最期はコロリと浄土に行く
高齢化社会、本人や家族にとっても理想だ。最期は楽に逝きたい

撮影 平成28年5月21日
駐車場には観光バスが数台駐まっており人気の寺ということを知った
仁王門
慶長16年(1611)の会津大地震で伽藍が倒壊し、3年後に再建した最初の建造物

残念ながら仁王像を観ることができなかった

仁王門の裏側は賑やかなことになっている

影霊堂
この地区から日清・大東亜戦争に出征し戦病歿された方々を護国守護神として祀っている

手洗石鉢「狐石」
約250年前に掘られた井戸からの清浄水

20リットルまで持ち帰ることができる

三仏堂
薬師如来、阿弥陀如来、六地蔵菩薩の三仏が安置されている
正面がガラス張りのため内部がよく見えない

苦労して撮った一枚となる。

観音堂<立木観音堂>(重要文化財)
鎌倉時代、建久年間(1190年~1199年)の建立
慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊するが、元和3年(1617年)に修理・再建された

桁行5間、梁間4間の寄棟造で屋根は茅葺き

欽明天皇元年(540年)に梁の僧・青岩が高寺山に庵を結び、その後、舒明天皇6年(634年)に僧・恵隆が恵隆寺(えりゅうじ)と名付けた

山号「金塔山(きんとうさん)」の扁額
団体が堂内に入ったため周辺を散策してみる

「櫛の奉納」
江戸時代頃から女性(嫁)が櫛(苦と死)を納める風習がある

霊験あらたかな鰐口

堂内に入る。観音堂内に安置される42臂の千手観音像
一木造で総高8.5m、像高7.4mの大きさで、一木造としては日本最大級の仏像
立木を刻んだとする伝承があり、長年「立木観音」と呼ばれて親しまれてきた。鎌倉時代の作
狭い空間に御本尊の他に「二十八部衆」と「風神・雷神像」が安置されている
拝観する場所も狭く、立ち止まってゆっくりとは他の迷惑になるのでできない。満足できない人はぐるぐる回ることになる
内陣・外陣にある「だきつき柱」
抱きついて離れない老婆もいた。願い事が叶うらしいが…

小金塔(こきんとう)
会津風土記の記述により調査・発掘。発掘された4個の大石を四隅に配して再建された

御本尊は大日如来

歌手 春日八郎の少年時代を見守ったという地蔵
私の出身大学近くに邸宅を構えていたことを思い出した

参拝者に老人が多かったのは「安楽ころり信仰」のためか。死ぬまで元気に過ごし、最期はコロリと浄土に行く
高齢化社会、本人や家族にとっても理想だ。最期は楽に逝きたい

撮影 平成28年5月21日