今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

無礙智山 大通寺<長浜御坊>(滋賀県長浜市元浜町)

2021年07月30日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月28日

無礙智山(むげちざん) 大通寺
琵琶湖汽船の係員に勧められた寺院で竹生島クルーズ後に訪れた

台所門(長浜市指定文化財)
薬医門形式で、旧長浜城追手門と伝えられる



山門(長浜市指定文化財)
大型の二重門で33年かけ、天保11年(1840年)に完成



山門前の道路の左右には商店が連なっている



扁額には山号の「無礙智山」



山門の彫刻












手水舎






佛骨奉安忠魂塔






鐘楼



本堂<阿弥陀堂>(重要文化財)
真宗大谷派の寺院
天正年間に織田信長に対抗していた大阪の石山本願寺の支援のため協議を行う寄り合い道場を開いたのが始め



慶長7年(1602年)徳川家康より本願寺分立が許され、教如を開基として長浜城跡に創建






大広間附玄関(重要文化財)
江戸時代中期の宝暦10年(1760年)に当寺の住職・横超院の内室であった彦根藩主・井伊直惟の息女数姫が祖師聖人500年忌に建立したもの






本堂内に入る



「無量寿」の額  載仁親王の筆



本尊は阿弥陀如来、親鸞聖人絵像(向かって右の厨子)、蓮如上人絵像(左厨子)



渡り廊下を進むとそこに受付があった
この先から有料(500円)となる



梵鐘(滋賀県指定文化財)
元は、若狭国(福井県小浜市)多田寺のもので貞治2年(1363年)の銘がある



順路に従い先に進む



大広間(重要文化財)
本堂とともに、伏見城の遺構を移築したものと伝えられる
伏見城であったころは「謁見の間」として使用されたと考えられる
中央部分が空間になっているため、上段中央に人物が座ることを想定して描かれている



左部分(作者不明)



右部分



違い棚と書院






帳台構え



砂千代の調度品
大通寺は江戸時代を通して、彦根藩 井伊家と深い関係を維持してきた
井伊家からは寺領や建造物の寄贈だけでなく、井伊家の息女や息男を迎えた



砂千代姫は井伊直弼の七女で安政5年(1858年)に大通寺の養女となり、その後大通寺の第10代の住職の内室となった






大通寺には砂千代姫の調度品を多く所蔵している






大広間から本堂を見る






「黒漆塗ビロード貼橘紋 女乗物」
砂千代の婚礼調度の駕籠



内部には花や鳥など、彩りあざやかな絵が施されている



金地墨画梅の図襖(長浜市指定文化財)
新御座の西側一列を構成する長さ13m、12面の巨大な梅樹の墨画
金地の襖に黒色もあざやかに一幹の老梅が描かれている



岸派を起こした絵師の岸駒が天明6年(1786年)に描いた



新御座(長浜市指定文化財)
天明7年(1787年)彦根藩井伊家より寄進された建物



上段の間は書院造りとなり、京狩野派9代目狩野永岳による「琴棋書画図」






杉戸絵「牡丹唐獅子図(作者不明)」






客殿<含山軒及び蘭亭>(重要文化財)
庭園を望む一の間に狩野山楽筆の山水画、二の間に狩野山雪筆の山水画

山水花鳥押絵貼屏風(長浜市指定文化財)









名勝 含山軒及び蘭亭庭園
含山軒庭園






蘭亭庭園



蘭亭(重文)
江戸時代の宝暦5年(1755年)建立



円山応挙筆の蘭亭曲水宴図の襖絵












岸駒作「鶏図」















蓮如上人御影道中 輿
蓮如没後、北陸での教化の苦労とその徳を偲んで、吉崎御坊で厳修される御忌法要に東本願寺より御影を乗せて240kmの道中を往来した



この寺院の存在は知らなかったが、地元の方の勧めだけあり素晴らしいものであった



長浜周辺には毎年のように訪れているので、もう一度訪れてみたい



撮影 令和3年5月28日
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都久夫須麻神社<竹生島神社>(滋賀県長浜市早崎町)

2021年07月24日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月28日

都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)
琵琶湖の北端近くに浮かぶ竹生島に位置する
「竹生島神社(ちくぶしま じんじゃ)」とも呼ばれている



永禄元年の大火後、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として竹生島権現を復興
現・宝厳寺の唐門・観音堂・渡り廊下、その渡り廊下と繋がっている現・都久夫須麻神社本殿である本堂が復興された



本殿(国宝)
宝厳寺の唐門・観音堂・渡り廊下は豊臣秀吉の霊廟である豊国廟から移築し
現 本殿は伏見城の「日暮御殿」を移築したものである



明治時代の廃仏毀釈運動により、宝厳寺を廃寺にして、社名を「都久夫須麻神社」に改めるよう命じられた
しかし、日本全国の崇敬者の強い要望によって廃寺を免れ、寺院と神社が並存することとなった
明治7年(1874年)に都久夫須麻神社と宝厳寺の境界が決められ、これまでの本堂が都久夫須麻神社の本殿となった



<祭神は4柱>
 市杵島比売命(イチキシマヒメノミコト)宗像三女神のうちの一柱
 宇賀福神(ウガフクジン)
 浅井比売命(アザイヒメノミコト)承平縁起はこの女神のみを祭神としている
 龍神(リュウジン)八大龍王の一尊である黒龍



宝厳寺観音堂からの参拝だと直接本殿前に出るため違和感があるが……
宝厳寺本堂であったとの歴史を知ると納得することができる



船着場から階段を上がり、「竹生島神社」鳥居から直接神社に向かうとこの場所に出る



末社 江島神社・厳島神社
本殿に向かって右に鎮座



祭神は、江島大神(江島神社祭神)と厳島大神(厳島神社祭神)



二柱とも竹生島大神(市杵島比売命)と同神



末社 天忍穂耳神社・大己貴神社
本殿に向かって左に鎮座



祭神は天忍穂耳命(あめのおしおみのみこと)と大己貴神(おおなむちのかみ)



摂社 白巳社
弁才天の神使としての白蛇神である白巳大神を祀る祠
柱に「金寶冨貴」



阿吽の龍



白巳大神の像(阿形)



白巳大神の像(吽形)



弁財天社
招福弁財天(招福・招財の弁才天)を祀る祠
立て札には「日本五弁天」として「安芸国 厳島大神、大和国 天川大神、近江国 竹生島大神、相模国 江島大神、陸前国 黄金山大神 金華山」の名が掲げられている



一年に一度、6月10日に竹生島神社において三大弁天を祀る「三社弁才天祭」が行われる
宝厳寺・竹生島神社(滋賀県 竹生島)江島神社 (神奈川県 江の島)大願寺・厳島神社 (広島県 厳島)



八大竜王拝所(通称「竜神拝所」)



この拝所にはかわらけ投げの風習が残る
湖にいる八大竜王に願いを届けて成就してもらおうというもの



土器(かわらけ)は、二枚一組(厄除文字入)になっている
一枚にお名前、もう一枚にはお願い事を書いて、波打ち際の鳥居(宮崎鳥居)をめがけて投げる



投げた「かわらけ」が鳥居をくぐれば、願い事が成就するともいわれている



長浜港行きの出航時間が近いためか、周囲に参拝者の姿が見えなくなった



竹生島に渡る前には寺社以外に何があるのかと思っていたが、何もなかった(笑)



重要文化財の渡廊(船廊下)の横を通り船着場へ向かう



床下に長い柱を立てて支える懸造



黒龍堂
祭神は黒龍大神と黒龍姫大神の二柱






鳥居
扁額には「竹生島神社」
右に進むと都久夫須麻神社<竹生島神社>
真っ直ぐ進むと宝厳寺へ



この島には、寺社関係者と土産物店関係者以外は誰も居ない
手前の三艘は彼らの所有船であり「通い」である



船着き場から国宝の唐門を眺める



「琵琶湖就航の歌」歌碑
琵琶湖周航の歌は1~6番まであるが、4番の歌詞が刻まれている



重文の五重塔があると思って竹生島を訪れたのだが、それが石造五重塔で……
重文だと思いこみ写真で見た塔は実は三重塔で、2000年(平成12年)5月に再建されたもの(汗)



それでも天気にも恵まれ竹生島の歴史について、少し知ることができ満足している



撮影 令和3年5月28日
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巌金山 宝厳寺 その2(滋賀県長浜市早崎町)

2021年07月20日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月28日

巌金山 宝厳寺 その2
宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より
「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。
すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」
というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まり
行基は、弁才天像を本尊として本堂に安置。翌年には観音堂建立を発案した

唐門(国宝)と観音堂(重要文化財)
平成25年(2013年)4月から令和2年(2020年)3月にかけて唐門・観音堂・舟廊下の全体修理が行われた
「唐門」とは、唐破風をもつ門で、「観音堂」に接続している



「唐門」は、豊臣秀吉を祀った京都東山の豊国廟に建っていた「極楽門」を豊臣秀頼の命により片桐且元を普請奉行として移築された
豪華絢爛と言われた桃山様式の唐門の代表的遺構



「観音堂」は慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって豊国廟から移築、本尊の秘仏千手観音立像を安置する






桧皮葺、建物全体を総黒漆塗りとした上に金鍍金の飾金具が散りばめられいる






虹梁中央の蟇股の周囲には鳳凰や松・兎・牡丹の彫刻



二枚の大きな桟唐戸や壁には牡丹唐草の彫刻を極彩色塗りとして飾っている



賓頭盧尊者像



唐門内の装飾









渡廊<舟廊下>(重要文化財)
観音堂から懸造舟廊下を見る



千手千眼観世音菩薩を納めた観音堂から都久夫須麻神社に続く渡廊・舟廊下



舟廊下は朝鮮出兵のおりに秀吉のご座船として作られた日本丸の船櫓を利用して作られたところから、その名がついている



都久夫須麻神社側から見た舟廊下



撮影 令和3年5月28日
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巌金山 宝厳寺 その1(滋賀県長浜市早崎町)

2021年07月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月28日

巌金山 宝厳寺(ほうごんじ)その1
滋賀県長浜市の竹生島にある寺院で船で渡らなければならない
一度訪れてみたいと思っていた島である
私は長浜航路(3,130円)を利用したが、他に今津航路(2,640円)とびわ湖横断航路(2,880円)がある



前日は大雨で私も道の駅の駐車所の車内で一日を過ごしたのだが
琵琶湖も強風と高波でこの船も欠航していたと係員から聞いた
片道30分の航路だが船内での説明に加え「琵琶湖周航の歌や琵琶湖哀歌」などが流れる



竹生島は湖岸から6kmの沖合にある周囲2kmの小島で、国の史跡・名勝に指定されている
島の周囲は南東部にある船着き場を除いてほとんどが急な断崖になっている



琵琶湖八景「新緑 竹生島の沈影」



着岸したが何せ初めてなので、出航までの80分間をどう過ごすか想像がつかない
とりあえず人の流れの最後方からついて行くことにした



「都久夫須麻神社」へ続く階段の次に「宝厳寺」行きの階段がある
階段があると知っていればそれなりの覚悟があるのだが、精神的に疲れてしまう



「竹生島 宝厳寺」の石柱と鳥居が見えてきた



鳥居の扁額には山号の「巌金山(がんこんさん)」



「瑞祥水」 本尊大弁才天の御託宣により平成14年11月に掘られた霊泉
深さ230m(湖底下約 130m)の清浄水



安心もつかの間、まだ階段が続く



若い頃は階段を見るとトレーニングだと思い胸が高鳴ったものだが、今は動悸……



途中、呼吸を整えるために周囲の建物を撮る






鐘楼






まだまだ階段が続く



西国三十三の文字が見えるということは近いのか



手水舎



左手に本堂(弁才天堂)が見えてきた
周辺を散策してみる



石造五重塔(重要文化財)



竹生島を訪れたかったのは、この島に重文の五重塔があるからだったのだが石造りだったとは……
写真で見た塔ではなかったのか……この後に知ることとなる



五層の仏塔
「地・水・火・風・空」の五大をかたどったものといわれている



初重塔身には四仏が彫られている



納経所
納経所にて拝受できる御朱印は、「大弁才天御朱印」と「西国三十三所観音霊場 第三十番札所御朱印」の二種類



本堂(弁才天堂)
寺内最大の建物。本尊「大弁才天像」を祀る
昭和17年(1942年)に平安時代様式で新築された






本尊の大弁才天は、江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁才天」の一つ
その中で最も古くに建立された弁才天で、「大」の字をつけ、大弁才天と称する



本堂後陣 「弁才天像」 永禄8年(1565年)銘



堂内扁額に「辨財天」



内陣は撮影禁止、外陣の様子






三龍堂






「天狗堂」



重文の案内があったので階段を上る



三重塔
平成12年5月、当寺では江戸時代初期に焼失したと言われている「三重塔」を、約350年ぶりに復元



どこで勘違いをしたのか
この場所に来るまで重文の五重塔だと思っていた



石造五重塔(重文)と、過去に遠景で塔の写真を見たのが重なってしまったようだ






雨宝堂
雨宝童子を祀る
神仏習合の両部神道における神で、天照皇大神が地上に降り立った時の姿といわれている



「宝物殿」



もちの木
慶長7年(1602年)豊臣秀頼の命を受け、片桐且元が観音堂、唐門、渡廊下を移築したときに、記念にお手植えした木



階段を下りる



西国三十三ケ所観世音奉安殿






さらに階段を下りる






次回に続く

撮影 令和3年5月28日
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元興寺<元興寺極楽坊>(奈良県奈良市中院町)

2021年07月18日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月26日

元興寺<元興寺極楽坊>
興福寺から元興寺までの距離は約500mだが、道に迷い約3km歩いてやっと到着した
偶然「元興寺」の看板を目にしたとき疲れと汗が噴き出した



東門(重要文化財)
元興寺極楽坊の正門として、応永年間に東大寺西南院四脚門を移建
元興寺東室南階大房が極楽堂と禅室に大改造され、東向きの中世寺院として改められ
後の元興寺極楽律院(南都極楽院)へと変遷してゆく契機となった



本堂<極楽坊本堂・極楽堂>(国宝)
寄棟造、瓦葺で、東を正面として建つ(東を正面とするのは阿弥陀堂建築の特色)
この建物は寄棟造の妻側(屋根の形が台形でなく三角形に見える側)を正面としている



元興寺旧伽藍のうち、僧坊と講堂の一部を伝え、中世には元興寺極楽坊、近世には南都極楽院と称された寺域



初めて訪れるため周辺を散策する
「かえる石(大阪城の蛙石)」
大坂城の乾櫓の向かい側にあった石



大坂城落城の折には、この蛙石の下に淀君の亡骸を埋めたという説もある
淀君の霊がこもっているとも云われている



禅室(国宝)
切妻造、瓦葺。本堂の西に軒を接して建つ
元は現・本堂も含んで東西に長いひと続きの僧房であったものを鎌倉時代に改築した






正面の4箇所に板扉がある
現存部分は4区画分で、1区画には5-8人の僧が生活していたという






「弁天社」



浮図田(ふとでん)






浮図とは仏陀のことであり、文字通り仏像、仏塔が稲田のごとく並ぶ場所という意味



その種類は
「五輪塔・宝篋印塔・舟型五輪塔(宝篋印塔)板碑・地蔵石龕仏・自然石板碑」など2500余基












「獅子国型(スリランカ)仏足石」



周辺を散策し本堂へ戻り、堂内を拝観する
内部は板敷きの内陣の周囲を畳敷きの外陣が囲んでおり、内陣の周囲を念仏を唱えながら歩き回る「行道」に適した構造になっている






屋根瓦の一部にも飛鳥〜奈良時代の古瓦が使用されている
古瓦は上部が細くすぼまり、下部が幅広い独特の形をしており、この瓦を重ねる葺き方を行基葺という









「収蔵庫」
元興寺を訪れた目的はこの収蔵庫にある「五重小塔(国宝)」を観ることだ



高さ5.5mほどの小塔で収蔵庫中央に置かれている
内部構造まで省略せずに忠実に造られており、「工芸品」ではなく「建造物」として国宝に指定されている



「元興寺講堂礎石」



平成10年(1998年)に奈良市教育委員会が中新屋町で発掘調査を行った際に発見したもの



この日は朝から薬師寺・唐招提寺・興福寺と大人の修学旅行を愉しみ元興寺へ
エネルギーを使い果たしベンチに座り込んだ時の一枚
この時、この寺は屋根瓦でも有名だったことを思い出す(遅い)



元興寺を出ると興福寺の五重塔が近くに見える
塔の近くの駐車場に駐めているのでもう迷うことはないだろう



撮影 令和3年5月26日
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法相宗 大本山 興福寺(奈良県奈良市登大路町)

2021年07月17日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月26日

法相宗 大本山 興福寺
藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺
興福寺には何度か訪れているが、プライベートでは今回が初めてである

五重塔(国宝)
五重塔は興福寺の創健者 藤原不比等の娘、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された
その後、5度の焼失・再建を経て、現存の塔は、応永33年(1426年)の再建



高さは50.1m、現存する日本の木造塔としては東寺五重塔に次いで高い






東金堂(国宝)
神亀3年(726年)聖武天皇が伯母にあたる元正上皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建した
治承4年(1180年)の兵火による焼失
応永18年(1411年)に五重塔と共に焼失



現在の建物は応永22年(1415年)の再建となる室町時代の建築
唐招提寺金堂を参考にした天平様式



五重塔と東金堂



中金堂
創建当初の建物は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定
享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、町屋の篤志家達の寄付によってようやく再建



創建1300年となる平成22年(2010年)に中金堂再建工事が着工
平成29年(2017年)翌年に中金堂が完成するのを見越し仮金堂内の諸仏を中金堂に移す
平成30年(2018年)10月に9代目となる中金堂が落慶した



南円堂(重要文化財)
藤原北家の藤原冬嗣が、父・内麻呂の追善のため、弘仁4年(813年)に創建した八角堂



堂の前に生える「南円堂藤」は南都八景の一つ



堂の扉は常時閉ざされており、開扉は10月17日の大般若経転読会という行事の日のみである









三重塔(国宝)
今回、興福寺を訪れた目的はこの国宝の三重塔を撮るためであった
興福寺には数回訪れているが三重塔の姿を見た記憶がなかった



興福寺最古の建物という三重塔は康治2年(1143年)崇徳天皇の中宮・皇嘉門院聖子によって創建された
現在の塔は建築様式から大火後まもなく再建された鎌倉建築と考えられている



高さ19m、本瓦葺の三間三重塔婆である
高さ50mの五重塔を観た後だけに小さく感じる



北円堂方面に向かう。遠くに五重塔が見える



北円堂(国宝)
養老5年(721年)8月、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇・元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させた
現在の建物は承元4年(1210年)の再建で、興福寺に現存する中で最も古い建物である
現在、回廊の復元が計画中



木造無著菩薩・世親菩薩立像(国宝)などが安置されている
春と秋に特別開帳される



猿沢の池に下りる
右側にはカフェ等が並び若者たちで賑わっている



五重塔の先端部分が見える



再び、五重塔。何処から見ても絵になる



国宝館
何度も訪れているので今回はやめようと思っていたが、やはり「阿修羅像」の魅力には勝てない



撮影 令和3年5月26日
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律宗 総本山 唐招提寺(奈良県奈良市五条町)

2021年07月16日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月26日

律宗 総本山 唐招提寺
薬師寺の隣にあるのが唐招提寺
開基は中国・唐出身の僧鑑真である

南大門
昭和35年(1960)に天平様式で再建された、五間の中央に三扉とする、切妻造り



額には寺号の「唐招提寺」
扁額は複製で、実物は新宝蔵に収蔵



南大門から金堂を見る



世界遺産 唐招提寺の石碑



境内案内図



金堂(国宝)
唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたもの
寄棟造、本瓦葺きで、大棟の左右に鴟尾を飾る
正面7間、側面4間(「間」は柱間の数)で、手前の7間×1間を吹き放しとすることがこの建物の特色



中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の国宝3体の巨像を安置
写真家土門拳氏の「千手観音立像」を撮った写真はあまりにも有名
以前は堂内で拝観できたが、今回は外からのため魅力が半減した



鐘楼



戒壇へと続く道






戒壇
戒壇は、出家者が正式の僧となるための受戒の儀式を行う場所
戒壇院の建物は江戸時代末期の嘉永元年(1848年)に放火により焼失して以来再建されていない



現在、3段の石壇のみが残っている
昭和53年(1978年)にインド・サンチー式の古塔を模した宝塔が壇上に置かれた



戒壇から観た金堂



右に金堂、中央は鼓楼、左は講堂



鼓楼(国宝)
鎌倉時代の仁治元年(1240年)建立
西側の対称的位置に建つ鐘楼に対し「鼓楼」と称する



この建物には太鼓ではなく、鑑真が唐から請来した仏舎利を安置しており、そのため「舎利殿」とも称する



講堂(国宝)
平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、天平宝字4年(760年)頃、平城宮の改修に伴って移築された
入母屋造、本瓦葺き、正面9間、側面4間



講堂は僧侶が習学するための空間であったことから講師、読師が座る論義台が置かれる
堂内には本尊弥勒如来坐像(重文)と、持国天、増長天立像(国宝)を安置
ここも拝観は堂外からとなる



礼堂・東室(重要文化財)
桁行19間、梁間4間、入母屋造、本瓦葺き
中央やや南寄りに馬道(めどう)があり、それより北の10間分が東室、南の8間は礼堂となる

「礼堂(らいどう)」
隣の鼓楼(舎利殿)に安置された仏舎利を礼拝するための堂



堂内には清凉寺式釈迦如来立像(重文)と日供舎利塔(重文)を安置



「馬道(めどう)」
土間の通路で礼堂と東室の中央にある






宝蔵・経蔵(国宝)
礼堂の東側に並んで建つ(北が宝蔵、南が経蔵)
奈良時代の校倉造倉庫。宝蔵と経蔵の外観は似ているが、規模は経蔵の方がやや小さい



「宝蔵」
唐招提寺創建にあわせて建立されたといわれる
経蔵より一回り大きいその堂々たる姿は、校倉の典型といえる



「経蔵」
唐招提寺創建以前の新田部親王邸の米倉を改造したものといわれる



唐招提寺で最も古い建造物であり、日本最古の校倉



開山堂
元禄時代に徳川家歴代の御霊殿として建立
かつては御影堂安置の国宝「鑑真和上坐像」が安置されていた



平成25年(2013年)鑑真和上の姿を写した「御身代わり像」がつくられ祀られている



芭蕉句碑



御廟への道






開山御廟
鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された
「戒律」とは、仏教教団の構成員が日常生活上守るべき「規範」「きまり」を意味する
一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある



出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という場で、「三師七証」という授戒の師3人と、証明師(授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと、「具足戒」を受けねばならない
当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた



天平5年(733年)遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧がいた
彼らが揚州の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった
普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た



鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ
弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する
しかし、当時の航海は命懸けであった上に、当時、唐から出国することは国禁を犯すことであった



鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった
1回目の渡航計画(743年)は密告により普照と栄叡が捕縛
2回目の渡航計画(同年)では強風で難破、第3・4回目の渡航計画(744年)は密告によって頓挫



748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流、栄叡が病死し、高弟の祥彦も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった
753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた



天平勝宝5年(753年)12月、薩摩国に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した
同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた
鑑真は天平勝宝7年(755年)から東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)、唐招提寺の地を与えられた
大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった



「新宝蔵」
昭和45年(1970年)に完成した収蔵庫
特に印象に残るのは「木造如来形立像」だ(右端の写真の像)
頭部、両手先、両脚先を欠失し「唐招提寺のトルソー」の通称で著名な像は必見



金堂から見える南大門



撮影 令和3年5月26日
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法相宗 大本山 薬師寺(奈良県奈良市西ノ京町)

2021年07月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月26日

法相宗 大本山 薬師寺
旅の途中で薬師寺東塔の完成していることを知り、写真を撮りたいと思った
駐車場に着いて驚いたのは広い駐車場に私の車のみ



*白鳳伽藍
南門(重要文化財)
室町時代の永正9年(1512年)建立。境内南正面にある小規模な四脚門
拝観料が値上がりしている。お得なセット料金でも1600円に



六根清浄と刻まれた手水鉢



「平木大明神社」



「弁財天社」



「若宮社」



中門
昭和59年(1984年)再建



仁王像






金堂
天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願



昭和51年(1976年)の再建
再建にあたっては、「鉄は持って数百年程度、木材(ヒノキ)は千年持つ。鉄を使うとその部分から腐食する」と主張する宮大工で文化財保存技術者の西岡常一



「台風や地震、火災からの文化財保護の観点からも鉄筋コンクリート補強が望ましい」と主張する名古屋工業大学教授竹島卓一の意見が衝突する
結果、金堂の内陣のみは鉄筋コンクリートで造られることとなった



薬師三尊像(国宝)
奈良時代仏教彫刻の最高傑作の1つとされる本尊・薬師三尊像(国宝)を祀る
中尊は薬師如来、左脇侍(向かって右)に日光菩薩、右脇侍に月光菩薩を配している



薬師如来
中尊像は男性的な堂々たる像容を表す



日光菩薩
両脇侍像は首と腰を軽くひねり、頭部、上半身、下半身がそれぞれ異なった角度を表し「三曲法」と呼ばれる



月光菩薩



西塔
昭和56年(1981年)の再建









東塔(国宝)
天平2年(730年)に平城京にて新築されたとする説が通説
総高34.1(東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さ)



平成の解体修理にあたり、9割の木材は再利用され、残りは補修または新材を利用



薬師寺には10回以上訪れているのだが、プライベートでは前回が最初
正直言って東塔の記憶が全く残っていないので違和感があった



六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階であり
構造的には三重の塔だという面白おかしく説明する僧侶の話しを聞き何度も目にしているはずなのに……



東塔西塔



「鐘楼」



「薬師如来本尊台座(国宝・模型)」
模型とはいえ、普段近くで目にすることができないので貴重だ



朱雀(南方)



青龍(東方)



玄武(北方)



白虎(南方)



東院堂(国宝)
鎌倉時代の弘安8年(1285年)再建



堂内の厨子に本尊・聖観音立像(国宝)を安置



「不動堂」






持統桜




*玄奘三蔵院伽藍
「礼門」



額には「玄奘三蔵院」



「玄奘塔」



玄奘三蔵坐像と玄奘の頭部の遺骨であるご頂骨・真身舎利を祀る裳階付き八角円堂



「大唐西域壁画殿」
日本画家平山郁夫が30年をかけて制作した、縦22m、長さが49m(7場面、計13壁面の合計)からなる「大唐西域壁画」が祀られている



東塔



薬師寺休ケ岡八幡宮
薬師寺の鎮守社



創建は寛平年間(889年 - 898年)
慶長8年(1603年)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建



本殿・南北脇殿は重文



撮影 令和3年5月26日
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磯長山 叡福寺(大阪府南河内郡太子町太子)

2021年07月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月25日

磯長山 叡福寺
昨年秋に初めて訪れ、「聖徳太子御廟」に感動した
駐車場に着くなり檀家だというご家族から声をかけられ歓迎された(嬉)

「南大門」



天正2年(1574年)の兵火で焼かれ、慶長年間に再建
腐朽のため昭和33年(1958年)に再々建築された



扁額「聖徳廟」は(内閣総理大臣)岸信介筆



金剛力士像






由緒



手水舎



多宝塔(重要文化財)
承応元年(1652年)の再建



本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、西面に金剛界の大日如来を安置



4本の柱には四天王の像が描かれている



「宝蔵」
土・日・祝日に開館



金堂(大阪府指定文化財)
享保17年(1732年)に再建



本尊は高さ90mの如意輪観音の坐像
聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいている



額には山号の「磯長山」



聖霊殿<太子堂>(重要文化財)



太子堂とも呼ばれ、聖徳太子16歳植髪等身像と南無仏太子2歳像が祀られている



文治3年(1187年)後鳥羽天皇が宮中にあった16歳像を下賜された




聖徳太子御廟(宮内庁管轄)

「二天門」
1688年の再建



東に持国天、西に増長天を安置






「聖徳太子御廟」



空海や親鸞が御廟の前で額ずいたと何かの本で読んだことがある



「上の御堂」
熱心に写真を撮っている方がいたので先に周辺を歩いてみる
元禄元年(1688年)丹南藩主・高木主水正が、回廊・二天門・鐘楼などと一緒に寄進
聖徳太子摂政像(42歳)を祀る



「五字ケ峰」
太子が黒駒に載り全国行脚の道中、富士山頂に至った折、西方より五色の光を見いだされた場所



御廟を斜め横から
直径54・3m、高さ7.2mの円墳
横穴式石室



聖徳太子と太子の母・穴穂部間人皇女、太子の妃・膳部大郎女の三体を合葬した三骨一廟



寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたという
推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇女が没するとここに葬られる
推古天皇30年(622年)には、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたといわれる



太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている






「太子廟窟偈」



聖徳太子が遺言の形として記された偈文
一度この御廟を参詣すれば極楽浄土にいけると最後に記されている






「浄土堂」
慶長2年(1597年)伊藤加賀守秀盛の再建
弘法大師参籠の時、九十九夜にわたって御廟の中から音楽が聞こえ、三尊がご来迎されたという



鐘楼(大阪府指定文化財)
慶長年間(1596年 - 1615年)豊臣秀頼により再建



「見真大師堂」
明治45年(1912年)の建立



本尊は親鸞聖人坐像
聖人が88歳で参籠の折、自らこの像を刻んで遺されたという



「弘法大師堂」
本尊の弘法大師像(60歳)は、自ら三鈷をもって刻んだと伝えられる



「念仏堂」



金堂と多宝塔






撮影 令和3年5月25日
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檜尾山 観心寺(大阪府河内長野市寺元)

2021年07月13日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月25日

檜尾山 観心寺
雨続きの天気だったがこの日は久し振りの青空で気持ちも晴れる
数年前初めて訪れた時に係の人の対応が良かった観心寺のことを思い出した

山門<大門>(大阪府指定文化財)
万治2年(1659年)再建
山門中央に箱が置かれていて入山料300円を入れる



緩やかな石段が金堂へと続く



「後村上天皇御旧跡 (旧惣持院跡)」
観心寺境内は国の史跡



槙本院中門(大阪府指定文化財)
寛永21年(1644年)再建



楠木正成学問所



地蔵尊



鎮守堂拝殿(大阪府指定文化財)



拝殿を背に訶梨帝母天堂を眺める



訶梨帝母天堂<鎮守堂>(重要文化財)



天文18年(1549年)再建






金堂(国宝)
文武天皇の大宝元年(701年)役小角によって開かれ、初め雲心寺とよばれていた
その後、大同三年(808年)に弘法大師空海が当寺を訪ねた時、境内に北斗七星を勧請
弘仁六年(815年) 衆生の除厄のために「本尊如意輪観音菩薩」を刻み寺号を観心寺と改称



南北朝時代、正平年間(1346年 - 1370年)の建立
金堂は大阪府下で本堂として最古の国宝建造物
七間四方、単層入母屋造、和様、禅宗様折衷様式の代表的な遺構



「弘法大師礼拝石」



扁額「観心寺」



外陣



内陣中央厨子前写真の奥に秘仏「如意輪観音像(国宝)」が安置されている



木造四天王立像(重要文化財)
撮影禁止でないこと確認し、格子内にレンズを突っ込み撮ったもの












賓頭盧尊者



室町時代初期に建立され、豊臣秀頼の時、江戸時代の中期、明治の初め、昭和の初め等たびたび修理
昭和59年に昭和大修理の落慶をみた






建掛塔(重要文化財)
一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた未完成の建築



伝承によれば楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願
造営なかばで湊川の戦いで討死したため建築が中断され、そのままになったという






鐘堂






弁天堂



阿弥陀堂



御影堂<大師堂>(大阪府指定文化財)



江戸時代中期再建






行者堂



修行大師像






開山堂<本願堂>(大阪府指定文化財)



正保3年(1646年)再建






楠木正成首塚
数年前にはなかった柵が設置されていた



湊川の戦いで討死した正成の首は当寺に届けられ、首塚に祀られている
観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺



建掛堂と金堂






石仏群
霊宝館、恩賜講堂に向かう参道の左右に点在している石仏



周囲の緑と同化しているため見逃すこともある


















牛滝堂






恩賜講堂(重要文化財)



1930年(昭和5年)移築・改造



昭和天皇即位大典のために京都御苑内に建てられた大饗宴場の一部を移築・改造したもの



霊宝館
重要文化財の仏像等が収蔵されている
本尊:如意輪観音像の試作(重文)と伝えられる像が印象に残っている



金堂



楠木正成像






撮影 令和3年5月25日
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日根神社(大阪府泉佐野市日根野)

2021年07月12日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月25日

日根神社
国宝の多宝塔のある慈眼院の隣にある神社
慈眼院は日根神社の神宮寺

鳥居
由緒を調べると驚くことに、紀元前663年4月9日 神武天皇が東征の途次で戦勝を祈願
後にこの地を「日根野」と名付け「日根神社」が祀られるとある



手水舎



神門
天武天皇2年(673年)には境内に隣接して神宮寺の無辺光院(現・慈眼院)が建立されている
鳥居が見えたので立ち寄った神社だが歴史的背景には驚く



神門の正面に見えるのは拝殿



拝殿
太陽の出る根の意から日根と云い、日の神と根の神をお祀りした野原から日根の野、日根野と呼ばれるようになった
公式サイトを見ると、冬至の日の出の写真がある
由緒の如く、日を背に受けるようにして本殿の真上から太陽が昇る



天正年間(1573年 - 1593年)に兵火によって焼失
天正13年(1585年)には羽柴秀吉により社領が没収
慶長7年(1602年)豊臣秀頼によって社殿が再建された



女性の参拝者が多いと感じたのは
ご利益に「縁結び・子授け」「安産・子育て」「美容・恋愛」があるためか



摂社の比売神社祭神「衣通姫(そとおりひめ)」は、本朝三美人の1人に数えられるほど大変美しい女性
その美貌が衣服を通して光り輝くほどであったという
美人で名高い小野小町のことを紀貫之は「衣通姫のようだ」と評したという
他の2人は光明皇后、蜻蛉日記の作者の藤原道綱母



本殿(大阪府指定文化財)
主祭神 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
    玉依姫命(たまよりひめのみこと)



慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって再建






末社 新道宮(しんどうのみや)
菅原道真を祀る






目的が隣にある慈眼院だったこともあり、この神社では十数枚の写真を撮り駐車場に戻った
他の人のブログを見ると見逃している場所も多く悔いが残っている



撮影 令和3年5月25日
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大悲山 願成就寺 慈眼院(大阪府泉佐野市日根野)

2021年07月10日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月25日

大悲山 願成就寺 慈眼院
前日の夕方、道の駅「いずみ山愛の里」で休憩していると、大学時代の朋友が訪ねてくれたというハプニングがあった
心も天気も快晴の朝を迎え、この旅で行きたいと思っていた場所に向かった

多宝塔(国宝)
ここには私が旅の目的の一つにしている国宝の多宝塔がある
事前予約が必要だと云うことを朝に知り、電話で連絡をとった



この塔で、6つある国宝の多宝塔をすべて回った事になる
昨年秋、この近くを通った時に寄ろうとも思ったが、目的が達成されると旅への意欲が低下するため止めていた



境内の建物は苔に包まれていて、歩く場所が限定されてしまう
おまけに強い日差しに逆光という悪条件でカメラも悲鳴をあげていた



文永8年(1271年)建立
高さ約10mで、屋外にある木造多宝塔で国宝・重要文化財に指定されているものの中では日本最小



石山寺、金剛三昧院の塔とともに日本の多宝塔の三名塔の一つとされる
内部には大日如来坐像(大阪府指定有形文化財)を安置



境内に点在する石仏



庭園にもなっている



緑に囲まれた境内は美しい
拝観料の200円にも驚いた



金堂(重要文化財)
寺の歴史について
天武天皇2年(673年)天皇の勅願寺として、また日根神社の神宮寺として開創
奈良時代の天平年間(729年 - 749年)聖武天皇の勅願寺となる



弘仁6年(815年)弘法大師空海によって金堂、多宝塔をはじめとする諸堂が再興されたと伝える
天正13年(1585年)羽柴秀吉の紀州征伐の兵火を受けて金堂、多宝塔を除いた全山が焼失



鎌倉時代後期の建立
方3間、単層、寄棟造、本瓦葺



「杮経(笹塔婆)」が保管されている



<国宝の多宝塔>
石山寺(滋賀県大津市)
慈眼院(大阪府泉佐野市)
長保寺(和歌山県海南市)
金剛三昧院(和歌山県高野町)
根来寺(和歌山県岩出市)
浄土寺(広島県尾道市)



撮影 令和3年5月25日
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高野山<奥の院>その5(最終回)(和歌山県伊都郡高野町高野山)

2021年07月09日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月24日

高野山<奥の院>(最終回)
金剛三昧院から駐車場に戻ると雨が降ってきた
残るは奥の院だけになったが、奥之院入り口の一の橋から中の橋を経て御廟橋まで、約2kmにわたる参道が続く
30分ほど待つと小降りになってきたので、中間地点となる「中の橋」近くの駐車場に移動し出発した



日産自動車慰霊碑
中世以降、高野聖による勧進や納骨の勧めにより参道沿いには約20万基を超すともいわれている石塔(供養塔、墓碑、歌碑など)が立ち並ぶ
近年では、大手企業による物故者従業員慰霊碑なども立っている



芭蕉句碑



加賀前田家二代利長墓
歴史上でも前田利長は好きな人物の一人だ



安芸浅野家墓所



松平秀康及び同母霊屋(重要文化財)
松平秀康は徳川家康の次男で越前松平家初代当主
右側が松平秀康を祀る霊屋 慶長12年(1607年)建立
左側が松平秀康の母を祀る霊屋 慶弔9年(1604年)秀康が建立



幅・奥行き共7.5mの二基の石廟を並べ、木材を使わず全て石造りとした



肥前島原 松平家墓所



豊臣家墓所(和歌山県指定史跡)



墓所の表面には豊臣秀吉と母、秀吉の弟 秀長と夫人など一族の墓がある



信長に続き高野攻めを行った秀吉は、高野山の「興山応基(こうざんおうご)上人」の説得により高野攻めを取り止めた
以後、応基上人の言葉に耳を傾け、高野山の庇護と復興興隆につとめた



織田信長・筒井順慶墓所



御廟橋
通称「無明橋」
この橋は、36枚の橋板と橋全体を1枚として37枚と数え、金剛界37尊を表している
御廟橋の裏には36の梵字が刻まれている



玉川にかかる橋を渡ると「弘法大師空海御廟」への霊域に入る
この川は特に神聖とされ、橋が掛かるまでは川に浸かりながら渡ることで、手足を清め御廟へ参ったと伝わる



正面に見えるのは弘法大師空海御廟ではなく「燈籠堂」
その奥に、空海が入定留身の地。檜皮葺三間四面宝形造の堂宇で正面に唐戸とよばれる扉がある
御廟は瑞垣に囲われている。入定塚は石室に小石が積まれた形状



水向地蔵



地蔵菩薩や不動明王、観音菩薩などが安置されており、これらを総称して水向地蔵と呼ぶ






護摩堂
不動明王、毘沙門天、大師像を祀る



御供所
弘法大師への食事や供え物を準備する場所で大黒天を祀る
大師に食事を供える儀式の事を「生身供」とよび、朝食(午前6時)、昼食(午前10時半)の1日2回供えられる
食事を供える前に、御供所の脇の「嘗試地蔵(あじみじぞう)」に供え、地蔵が味見をしてから御廟の大師に供えられる



手水舎



頌徳殿
大正4年(1915年)建立。茶処で無料休憩所



興山応基上人廟
応基上人は、高野山焼き討ちから救うとともに、その復興に活躍した傑僧
興山上人とも木食応基(もくじきおうご)とも呼ばれている



浅野内匠頭墓所



法然上人圓光大師墓所



見真大師御墓
見真大師は親鸞の諡号。親鸞聖人は尊称



救世観音



高野山大門から壇上伽藍、金剛峯寺から奥の院まで約5kmの距離がある
歩いて回るのも良し、車で回るのも無料駐車場が完備しているので良し

撮影 令和3年5月24日
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高野山真言宗別格本山 金剛三昧院(和歌山県伊都郡高野町高野山425)

2021年07月08日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月24日

高野山真言宗別格本山 金剛三昧院
高野山を訪れた目的の一つが金剛三昧院の多宝塔
雨が落ちてこなければいいなと願いながら向かう



山門(鐘楼門)
文政年間(1818年 - 1831年)の建立
梵鐘(重要文化財)は承元4年(1210年)の作



正面奥に本堂が見える
扁額には「毘張尊」 この地を守護する天狗の名前



建暦元年(1211年)北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建
承久元年(1219年)源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰された



多宝塔(国宝)
北条政子により貞応2年(1223年)に建立



檜皮葺、高さ14.9m
源頼朝によって建立された石山寺多宝塔に次いで日本で2番目に古い多宝塔






塔内には、仏師 快慶作と伝えられる五智如来坐像(重文)を安置









経蔵(重要文化財)



北条政子により貞応2年(1223年)頃に建立






建築様式は正倉院と同じ「校倉造り」



屋根は「檜皮葺」



中には空海の書いた書物や経典を刻んだ版木である「高野版(重文)」が約500枚残されている



四所明神社(重要文化財)



室町時代の天文21年(1552年)建立






高野山の守り神4体を祀る



祭神:丹生明神(胎蔵界大日如来)、高野明神(金剛界大日如来)、気比明神(千手観音)、丹生御息(文殊菩薩)









「天満大自在天神社」 菅原道真を祀る



「六本杉」



本堂



本尊:愛染明王(伝 源頼朝等身大持念仏、伝 運慶作)
源頼朝・北条政子・足利尊氏の位牌を安置している



本堂から山門を見る



本坊・客殿・庫裏(重要文化財)
法要を行う大広間、客間、台所などがあり、僧侶の住居も兼ねている



本坊内の公開はされていなかった



開いている場所からのぞき見
重文の襖絵があるというが、これなのか






再び多宝塔へ






次回に続く

撮影 令和3年5月24日
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高野山 <金剛峯寺②>その4(和歌山県伊都郡高野町高野山)

2021年07月07日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月24日

高野山 <金剛峯寺②>
東西 54 m 南北 63 m の書院造建築
拝観順路は矢印で示されていて分かりやすい



最初の部屋には「金剛峯寺」の額と襖絵



奥の院霊木「高野杉」



金剛峯寺については拝観券の裏面に簡単な説明書きがある程度
詳細を知るには、このような案内板に頼るしかない



横には何やら豪華な部屋がある



大広間
重要な法事・儀式が行われる間



斎藤等屋作による群鶴図の襖絵(撮影禁止)がある



梅の間



高野開創三鈷杵



狩野探幽作と伝わる梅月流水の襖絵(撮影禁止)がある



柳の間



山本深斉の四季の柳の襖絵がある
文禄4年(1595年)に豊臣秀次が自刃したことから「秀次自刃の間」ともよばれている
撮影禁止であるが雰囲気だけでも



「輿(こし)」
高野山には連綿と伝えられる法会儀式があり、輿による行列によって始まるものがある



入定された承和2年(835年)旧暦3月21日にちなんで、御影堂での「旧正御影供法会」など



廊下を進んでいくと石庭が視界に入ってくる



蟠龍庭



昭和59年(1984年)弘法大師御入定1150年御遠忌大法会記念事業として造園された
日本最大級の2340平方メートルの石庭



雲海の中で雌雄一対の龍が奥殿を守っている姿を表現している






新別殿
昭和59年(1984年)弘法大師御入定1150年御遠忌大法会記念事業として参詣者への接待所として建立
91畳と78畳の二間からなり、169畳の大広間として使用できる









「恵果和尚座像」
延暦24年(805年)に空海が青龍寺において恵果から金剛界、胎蔵界の灌頂を受け「遍照金剛」の法号を贈られた
この年の12月恵果は60歳で寂した






上壇の間



天皇・上皇が参詣した際に応接間として使用された



壁は総金箔押し、天井は折上式格天井の書院造り



奥書院



皇族方の休憩所として、上段の間と共に高野山最高の部屋として使用されていた
雲谷等益、雲谷等爾作と伝わる襖絵がある



稚児の間
上段の間の武者隠しの間で、天皇・上皇に随行した護衛が待機した部屋



狩野探斎作と伝わる襖絵があり、旧伯爵副島家より奉安された地蔵菩薩が祀られている



「断崖図」千住博画伯作
ここから襖絵の撮影が可となる 












「金剛峯寺の寺紋」 一般には寺紋は一つだが、高野山は二つの寺紋とされている
寺紋は五三桐紋と三頭右巴紋



「五三桐紋」 豊臣秀吉拝領の清願寺の寺紋



「三頭右巴紋」 高野山の鎮守・丹生都比売神社の定紋



真然大徳堂(和歌山県指定文化財)
750回忌の寛永17年(1640年)に建立され、平成2年(1990年)真然大徳1100年御遠忌記念事業で解体修理された



解体修理の際に、遺骨が入っていた舎利器が発見されたため、現在、真然廟として整備されている



「瀧図」千住博画伯作












「竃(かまど)」



現在、この竃は重要行事の時に使われている



「食物保管庫」
棚の上部に和紙を貼って、ネズミの侵入を防ぐ(ネズミ落とし)






「二石釜」



大釜が3基並び、1基で約7斗(98kg)、3基で約2000人分の米を炊くことができる



次回に続く

撮影 令和3年5月24日
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