今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

二上山 當麻寺(奈良県葛城市當麻)

2020年11月30日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月24日

二上山 當麻寺(たいまでら)
今回が二度目の参拝になる。車中泊していた道の駅から近いこともあり立ち寄ることにした
国宝の三重塔が2基(東塔・西塔)ある、唯一の寺としても知られる

「仁王門<東大門>(奈良県指定文化財)」



「仁王像」












當麻寺由緒



境内図



梵鐘(国宝)
日本最古級の梵鐘で、當麻寺創建当時の遺物と推定



在銘で国内最古の妙心寺鐘(698年)よりも古い日本最古の梵鐘として知られている
「日本最古」と「国宝」の案内がなければ通りすぎてしまうほど目立たない



「中之坊」
當麻寺最古の塔頭で、熊野権現が現れた場所に役行者が道場として開いた
もとは「中院」とよばれ、中将姫の師である實雅や、弘法大師の弟子の實弁などの高僧が住房とした



中将姫剃髪の地と伝承されている



参道左手に国宝の東塔が見える



本堂<曼荼羅堂>(国宝)
参道の左右に金堂と講堂があり、正面の位置に本堂がある。拝観受付は本堂で行う
拝観できるのは、曼荼羅堂(本堂)、金堂、講堂の3カ所で係の女性が案内と説明をしてくれる



本尊は仏像ではなく「當麻曼荼羅(国宝)」
源頼朝寄進の須弥壇(国宝)上に安置されている
中将姫が蓮の糸を用い、一夜で織り上げたという伝説がある……



姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がった
五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが「当麻曼荼羅」である
29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立った



講堂(重要文化財)
次に案内されたのが講堂



丈六仏 阿弥陀如来坐像、妙幢菩薩立像、伝阿弥陀如来坐像、地蔵菩薩などが祀られている(全て重文)



「中将姫像」が講堂の横に立っている



金堂(重要文化財)
最後に案内されたのは金堂で、裏の方が入り口となっている



堂内を回って正面にくると驚くほど見事な仏像が安置されている



本尊:塑造弥勒仏坐像(国宝)は日本最古の塑像である
四天王のうち、持国天立像、増長天立像、広目天立像の3体は、日本最古の乾漆像。多聞天は鎌倉時代の木像



中世以降、當麻寺の信仰の中心は当麻曼荼羅を安置する本堂(曼荼羅堂)に移っているが、本来の中心堂宇は金堂であった



石灯籠(重要文化財)



白鳳時代に作られた日本最古の石灯籠。二上山の凝灰岩で作られている



石灯籠の奥に金堂



東塔(国宝)
東塔は、當麻寺に現在残っている最も古い建造物



塔を撮すのがが好きな私でも、ここの塔は難しい
正面には木があり全体を撮すことができないし、周辺は立入禁止になっている



木組みなど全く興味がないのだが、これしか撮れないのだ



相輪が見えるのはこの位置だけになる



少し離れた場所から箱の上に乗って撮ってみた(努力している)
相輪には、一般の塔では「九輪」であるが、「八輪」に
相輪上部の水煙が、他に例をみない魚骨状のデザインになるなど、異例の点が多い塔である



西塔(国宝)
もう一つの西塔は、東塔よりやや遅れて作られている
以前訪れた時には近くまで行けたと記憶しているが、立入禁止の柵がある



相輪が八輪になっている点は東塔同様だが、水煙のデザインは未敷蓮華(みふれんげ)をあしらったもの



帰る時間になり、青空が見えるようになってきた
正面が本堂(国宝)、左に金堂(重文)、右に講堂(重文)



中之坊の奥に見える東塔、ここが一番よく見える場所かも



鐘楼と仁王門



仁王門前の門前町の商店街
右手の電柱横に民営駐車場がありそこを利用した



撮影 令和2年9月24日
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鳥形山 飛鳥寺(奈良県高市郡明日香村飛鳥)

2020年11月28日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月23日

鳥形山 飛鳥寺
先に訪れた岡寺からは10分程度と聞いたので歩いて移動することにした
途中、方向音痴であることと歩幅が短いことに気付き30分以上もかかってしまった



疲れ気味で到着、水分補給をしつつ休憩



フランケンシュタインのような飛鳥大仏の姿が無性に見たくなる



「飛鳥大佛標石」 寛政4年(1792年)飛鳥寺参拝の道しるべとして彫刻された文字



「山門」 今回が4回目の参拝になる。前回は女子高校の修学旅行生で賑わっていたが、今は静かだ



最近になって飛鳥大仏の撮影ができることを知ったため受付でその確認をする
今回、明日香村を訪れたのはこの仏像を撮りたいと思ったからだ



銅造釈迦如来坐像(重要文化財)
「日本最古の仏像」であることは、よく知られている
推古天皇17年(609年)に鞍作鳥(止利仏師)によって、高さ3mで、当時銅15t、黄金30kgを用いて造られた



鎌倉時代の建久7年(1196年)の火災によって大きく破損し、その後に修復された
頭部と右手指の一部のみが創建当時のままだという



注視すると仏像全体に修復の痕跡が見られる
最古の仏像でありながら国宝に指定されない理由はここか



正面から観ると仏像の顔が少し横向きになっている
聖徳太子が生まれた「橘寺」を見ていると寺の僧が説明していたのを聞いたことがある



参拝者は私一人だったので色々な角度から撮ってみる






アルカイックスマイルとアーモンドに似た目といわれているが……



私には微笑んでいるようには見えない






仏像を撮影する機会はほとんどないため、とても楽しい時間だが……
実際撮ってみるととても難しい



「阿弥陀如来像」 木造 藤原時代



「聖徳太子孝養像」 木造 室町時代






「本堂」 
飛鳥大仏が安置されている。創建時には、この位置に中金堂があった
江戸時代の文政8年(1825年)に建てられたもの



「鐘楼」



入鹿の首塚
入鹿は皇極4年(645年)飛鳥板蓋宮で中大兄皇子、中臣鎌足等によって殺害される(乙巳の変)



その時切り落とされた首は飛鳥板蓋宮から約600~650m離れたこの地まで飛び
その祟りを祓うために首塚が建てられたという



地元の同世代の男性に声をかけ話しを聞く
首塚の奥に見えるのが「甘樫丘(あまかしのおか)」である
明日香村内や橿原市内の大和三山や藤原京などの風景を望むことができる
丘の一部分の木に透いて見える場所がある



天皇陛下が明日香村を眺望できるようにと配慮されたようである
この地区には白いガードレールもないと聞いた



目の前を観光客がレンタサイクルで駆け抜けていく
長閑な風景が明日香村の魅力でもある



歩いて遠くにある駐車場へ戻る。途中、果樹園などもあり楽しいはずが上り坂が辛い
年々体力が落ちている。橘寺も少し考えたがやめた



撮影 令和2年9月23日
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東光山 岡寺<龍蓋寺>(奈良県高市郡明日香村岡)

2020年11月27日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月23日

東光山 岡寺<龍蓋寺>
岡寺周辺には何度か訪れているのに何故か縁のない寺であった
岡寺駐車場に車を駐め、係の女性に寺の場所を聞いた



しばらく歩くと山門らしきものが見えてきた



受付所で拝観料を納める



仁王門(重要文化財)
慶長17年(1612)建立



明日香村において建造物で唯一、重要文化財に指定されているのは、岡寺のこの仁王門と書院だけ



扁額には寺号の「龍蓋寺(りゅうがいじ)」
「岡寺」「龍蓋寺」の2つの寺号がある
「岡寺」は地名に由来する寺号、「龍蓋寺」は建立当初の正式名



「仁王像」 金網が障害となり片方のみ






「手水舎」 コロナ禍で使用できない寺社も多い



手水鉢には花がいっぱい浮かんでいて心が和む



「歌碑」  君が目に 永遠に消ざらむ
       ふるさとの あすかの岡の 夕日の月 <利文>



初めての寺では散策がてら周囲を記録していく






境内図によると、この階段を上がると塔があるはずだ



階段の上から仁王門を眺める



「大師堂」



本尊:宗祖 弘法大師



「稚児大師像」と「修行大師像」



「三重宝塔」
古来三重宝塔は旧境内地に建っていたが、文明4年(1472年)大風により倒壊



昭和61年に実に514年ぶりに再建



平成6年より三重宝塔の荘厳として扉絵・壁画・琴などの作成に着手し、平成13年に完成



軒先に荘厳として琴が吊るされている



楼門・開山堂が見える



本堂が見える



「歴代供養墓」



「開山 義淵僧正廟所」
義淵僧正は日本の法相宗の祖
門下には東大寺創建に関わった「良弁や行基」などがいた



延文5年(1360年)建立



細い参道を歩き石窟を目指す



「奥の院石窟堂(弥勒の窟)」
私の前に若い男女が入って行った
「ぎゃー」という男女の声の後に蝙蝠が飛び出てきた



弥勒菩薩座像



「稲荷明神社(如意稲荷社)」






周辺にあった石仏。苔が袈裟のようになっている






「十三重石塔」 大正15年(1926年)建立



「龍蓋池」 龍蓋寺の由来となった池。義淵僧正の伝説が伝わる



義淵がこの地の民を苦しめていた悪龍を当寺の池(現、龍蓋池)に封印して石で蓋をし、悪龍の厄難を取り除いた



以来、「日本最初のやくよけ霊場」となり、鎌倉時代にはすでにその信仰が広まっていた



「本堂(奈良県指定文化財)」
創建は寺伝によると1300年前、天智天皇の勅願によって義淵僧正が建立



<義淵僧正伝説>
大和国に子供に恵まれない夫婦がおり、彼等は日々観音様に子が授かるよう祈りを捧げていた
ある日の夜突然子供の泣き声がして、表に出てみると柴垣の上に白い布に包まれた赤子がいた
驚き中に連れて入ると馥郁たる香りがたちまちに家の中に満ちた
その後,この夫婦に養育されていた



その噂を聞いた天智天皇は観音様の申し子だとしてこの子供を引き取られ、岡宮で草壁皇子(662~689)とともに育てられた
この子供こそ後の義淵僧正その人である






本堂外陣









塑造如意輪観音坐像 (重要文化財)
奈良時代、像高4.85mの日本最大の塑像である



寺社連続油被害事件の被害に遭った寺社の一つでもある






「開山堂」






「鐘楼堂」



「楼門(奈良県指定文化財)」
慶長年間(1596年 - 1615年)頃建立
独特の形式を持つ小型の鐘楼門として大変珍しい遺構であるといわれている



手水舎、仁王門を後に駐車場に戻る



撮影 令和2年9月23日
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キトラ古墳(奈良県高市郡明日香村)

2020年11月26日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月23日

キトラ古墳
LINE仲間(悪巧みの会)に高松塚古墳にいると知らせると「キトラは…」という返信があった
キトラ古墳はこの日の予定になかったが、今後の(酒を飲むという)付き合いのために行かねばならぬと思った

キトラ古墳壁画体験館 四神の館
キトラ古墳に行くにはこの施設内を通らなければならない



漫画家 里中満智子さんはNHKの歴史番組ではよく顔をみる



初めて訪れる場所で勝手が分からず受付所に行く。親切な女性が対応してくれ明日香村の資料もどうぞと渡された
展示室も無料と聞いて気持ちが動いた。昔から親切な女性と無料と言う言葉には弱い



展示内容について紹介していく

キトラ古墳とは



キトラ古墳の断面



石室
全体



正面



左側面



右側面






獣頭人身十二支像



四神像



石室天文図






「キトラ」という名前の由来



高松塚古墳とキトラ古墳の比較を繰り返し大型テレビジョンで放映している



とても理解しやすい内容でぼんやりした爺の頭にもスッと入ってくる
ただ残念なのは出て行くのも早いということだ



私のLINE仲間の一人は、このキトラ古墳の天文図をモチーフにした絵を描いている



LINEで高松塚古墳にいると知らせると「キトラは…」という返信があった人物である
その絵は最後に紹介する



キトラ古墳 調査・研究の歩み









初めて目で観察したときのイメージ






その後の流れが説明されている


















見学は一方通行となっている
丁寧に説明文を読み、動画をみていくとなると1時間はかかる



さて、掲載した天文図をみて私の仲間はどのような絵を描いたのか……



タイトル「きこえる」 2017年 第103回 光風会展、第92回 北海道展出品
作者 武石 英孝



この作品が好きだったこともあり尋ねると、背景がキトラ古墳天文図だと話してくれた
彼は2020年 日展 第2科 洋画 応募点数1663のなか「history」で特選(10名)を受賞した



絵に興味のある方は下記の絵をクリックしてください
2018年「命の脈動 武石英孝展」その1~6

命の脈動 武石英孝 展  その1(市立小樽美術館:北海道小樽市色内1丁目) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

「命の脈動」武石英孝展1ヶ月前に、「武石氏日展入選のお祝い」と称して、いつもの仲間で酒を飲んだその時、絵の写真を撮ってブログで紹介してほしい...

命の脈動 武石英孝 展  その1(市立小樽美術館:北海道小樽市色内1丁目) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

 


2020年「武石英孝展」

武石英孝展(北海道岩見沢市7条西1丁目7番地) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

武石英孝展岩見沢市絵画ホール・松島正幸記念館2階展示室(岩見沢市7条西1丁目7番地電話0126-23-8700)開催期間/2020年7月24...

武石英孝展(北海道岩見沢市7条西1丁目7番地) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

 


「四神の館」から外に出てキトラ古墳を目指す






円墳の姿が見えてきた



案内板



特別史跡 キトラ古墳



二段築成の円墳である
上段が直径9.4m、高さ2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さ90cm






「四神の館」で休憩し、お土産を購入し駐車場に戻る



撮影 令和2年9月23日
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高松塚古墳・鬼の雪隠・猿石・酒船石(奈良県高市郡明日香村)

2020年11月25日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月23日

特別史跡 高松塚古墳
学生時代に極彩色の壁画が発見されたことを鮮明に覚えている
世紀の発見と報道されていたため、いつか見てみたいと思っていた



46歳の頃だと思うが三重県に出張になり、空いた時間を利用して訪れたのが最初だ



飛鳥駅に着いたのが閉館30分前
ミッション・イン・ポッシブルのトムクルーズのように走り高松塚古墳を目指した



15分前に現在の壁画館に到着、石棺の中の「女子群像」を見た時には心底感動した(本物と思っていた)
数分後、何か変だと思い係の人に尋ねると古墳は外にあると教えてくれた



こんもりと盛り上がった所が古墳で、その時はブルーシートで全体が覆われていた
その後は退職した年に訪れ、今回が3回目になる



今は遊歩道もでき、近くから見ることができるようになった



この場に立つと、初めて訪れた時のことを思い出す



ここも最初は無料だった記憶がある



有料施設としては展示物が少なすぎる感は否めないし、撮影禁止も理解できない




鬼の雪隠
国営飛鳥歴史公園館で展示物を見た後に休憩、外に出ると「鬼の雪隠」の案内があった
「石舞台古墳」に感動したことがあるので行ってみようと思った



普段歩くという習慣がないので、少しの距離でも随分歩いた気がする



言い伝えによると、風の森と呼ばれるこの地方に鬼が棲んでおり、通行人を騙してとらえ食べたと云われている
「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したという



昔は穴を掘り、その両脇に板を置き便所として使っていたことを思い出した



近くに「鬼の俎」があるようだが、行って見たいという気持ちがなくなった



周辺の田園風景



駐車場に戻る途中「猿石」の案内があった
地元の人に尋ねるとすぐ近くにあるという

吉備姫王の墓(猿石)
地元の人の話によると「吉備姫王(きびひめのみこと)の墓」の近くにあると
周辺を探しても見つけることができない
諦めて「吉備姫王の墓」でも見るかと案内板を読むと、そこに答えがあった



案内板は墓の裏側にある。横道を通って歩いて行く



桜井皇子(欽明天皇の皇子)の王女
茅渟王の妃となり、宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)・軽王(孝徳天皇)を儲けた



墓域内に猿石があるというので探す



すぐに猿石が見つかった
こんな所に捕らえられていた(笑)



柵の隙間からレンズを突っ込み撮る



調べてみると、猿ではなく渡来人を象った人面石像であるといわれている(右側2体)



確かに人間にも見える(左側2体)










欽明天皇陵
吉備姫王の墓の向かいに29代天皇となる「欽明天皇陵」がある



百済の聖明王から仏像、仏典を献じられ、信ずべきか否かを群臣にたずね
蘇我氏(受け入れ)と物部氏(反対)と対立(古代の宗教戦争)した時代の天皇である










史跡 酒船石(さかふねいし)






江戸時代から多くの仮説が唱えられている
酒を造る設備、薬などを造るための設備、庭園の施設とも諸説あるが定かではない






撮影 令和2年9月23日
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霊禅山 久米寺(奈良県橿原市久米町)

2020年11月24日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月22日

霊禅山 久米寺
LINE仲間に「橿原神宮・神武天皇陵」にいると伝えると、近くに久米寺という、いい寺があると連絡がきた
心身とも疲れていたが、今後の付き合い(笑)もあるので行くことにした
橿原神宮からすぐ近くあるはずだが方向音痴のため30分も要してやっとたどり着いた

「山門」 別格本山 霊禅山 久米寺とある



「虫塚」 初めての寺院は歩いた順に撮っていくようにしている






五体の石仏



金ピカの仏像は「大日如来」



「観音堂」



「本堂」 
この日、この寺が5つ目の訪問地となり、疲労で立っているのが辛くなり、しばし休憩をとる






「久米仙人像」 
吉野・龍門寺の久米仙人は仙術で空を飛べるようになった
空を飛んでいる時、川で洗濯をしている女のふくらはぎに見とれて法力を失い、地上に落ちてしまった
久米仙人はその女とめでたく結婚。その後は普通の俗人として暮らしていた






「鐘楼」









多宝塔(重要文化財)
この寺に多宝塔があることも、重文に指定されていることも知らなかった
この寺を勧めてくれたLINE仲間(悪巧みの会)に感謝



万治2年(1659年)に京都の仁和寺より現・大塔跡に移築



昭和62年(1987年)に解体修理された際に現在地に移される









「金刀比羅宮」






「修行大師」



「仁王門」 初めて訪れたため仁王門があることも分からなかった






扁額には山号の「霊禅山」



「仁王像」
いつもなら像の前の金網が障害となって諦めることが多いのだが、ここは何故かうまく撮ることができた



不思議だが金網の前に仁王像が立っているような迫力を感じる(自画自賛)



嬉しさのあまり枚数が多くなった









「大塔礎石」



伝・東塔跡で巨大な礎石が残る
塔平面の大きさは国分寺を除けば最大規模である



前述の通り、万治2年(1659年)に京都の仁和寺より「多宝塔」が大塔跡に移築された



この場所からみえる多宝塔も美しい



「大師堂」



横目でちらりと眺め本堂へ向かう



「本堂」
開基は聖徳太子の弟の「来目皇子(くめのみこ)」ともいうが未詳
空海は当寺の東塔において真言宗の根本経典の1つである『大日経』を感得したとされている



唐に留学した空海が大同2年(807年)に帰国すると、当寺で真言密教を宣布
このため、当寺は「真言宗発祥の地」とされている



本堂外陣の彫刻



奉納額



LINE仲間が勧めてくれた由緒ある古刹
機会があればもう一度訪れたいと思っている

撮影 令和2年9月22日
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神武天皇 畝傍山東北陵(奈良県橿原市大久保町)

2020年11月23日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月22日

神武天皇 畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)
橿原神宮から1.2kmの距離を徒歩にて移動
この日の4カ所目の訪問地である「神武天皇陵」入り口付近に着いた



これまでかなりの距離を歩き、疲れ気味の肥満老人には玉砂利の参道は辛い



今回が二度目の参拝で、先は見えないがおおよその距離感はある



遠くに鳥居が見えてきた



神橋をこえると間もなく到着する



「手水鉢」



「鳥居」 正面に参拝者がいたので待つことにする



現在神武天皇の史学的立ち位置は
「神武天皇の史的実在は、これを確認することも困難であるが、これを否認することも、より以上に困難なのである」であるとされる



三つの鳥居がある
一般参拝者は一つ目の鳥居の前から、その先は入ることはできない



令和元年11月、天皇皇后両陛下は「即位の礼」「大嘗祭」を終えられたことを報告にこられた
その後は京都の「泉涌寺」へ



参拝者が少ないこともあり警備員の姿が外にない



撮影 令和2年9月22日
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橿原神宮(奈良県橿原市久米町)

2020年11月22日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月22日

橿原神宮(かしはらじんぐう)
二度目の参拝になる。印象に残っている神社なので参拝順序は頭に入っている



「第一鳥居」
橿原神宮の鳥居は南参道(表参道)に二基、北・西参道に各一基の計四基ある
鳥居の形状は「明神鳥居」 高さ9.77m、幅約7.5m



「第二鳥居」
高さ10.51m、幅約8.1m
手前には「神橋」 手前を横切る宮川を渡る反り橋として架かっている



「南手水舎」



「南神門」
第一鳥居から南神門までの距離は300m程ある
素木建の八脚門で屋根は切妻造の銅板葺



参集所・受付所と続く



「神楽殿」
本殿とともに安政2年に建造された元京都御所の神嘉殿で、明治23年当神宮創建の際、明治天皇から下賜されたもの



火災により消失し、現在の建物は平成8年6月に竣工された



外拝殿が見えてくる



「外拝殿(げはいでん)」
畝傍山を背景に、両脇に長い廻廊を連ねた壮大な入母屋造
昭和14年に完成した建物



「開運干支」 武漢肺炎がこれほど世界に悪影響を及ぼすとは思わなかっただろう



遠くに内拝殿が見える



「内拝殿」
内拝殿は紀元祭その他重要な祭典に使用され、また特別参拝の拝殿となる
京都御所の内侍所(明治天皇から下賜)を移築した本殿(重要文化財)、手前に内拝殿、外拝殿が立つ
明治23年(1890年)、神武帝が造営し即位した場所とする「日本書紀」の記述を基に創建された
第一代神武天皇と皇后を祀る



「廻廊」






「さざれ石」



橿原神宮の前に訪れた壺阪寺で歩き疲れたのか写真の枚数が少なく雑になってしまった
この後、北の鳥居から「神武天皇陵」を目指す

撮影 令和2年9月22日
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壺阪山 南法華寺<壺阪寺>その2(奈良県高市郡高取町壺阪)

2020年11月21日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月22日

壺阪山 南法華寺<通称:壺阪寺>その2

三重塔(重要文化財)
塔の姿は遠くから見えてはいたが、重文に指定されているとは知らなかった



室町時代の明応6年(1497年)再建












礼堂(重要文化財)
本尊を礼拝するために建てられたお堂で、創建当初から、建てられていたと伝わっている
昭和解体修理時に室町時代の「禮堂」の姿が判明し、お堂の大きさ等を室町時代に戻して、建てられている



参拝者入り口はお堂の横にある
「普照堂」と読めるが確かではない



扁額には寺号の「南法華寺」 壺阪寺は通称



「不動明王立像」 鎌倉時代 13世紀






「開山 弁基上人像」 伝承によれば大宝3年(703年)に元興寺の弁基上人により開かれた



「本尊:十一面千手観世音菩薩坐像」



室町時代の樫材の寄せ木造り「眼の佛」として広く信仰を蒐めている



四十の慈手をひろげ、その一手に二十五有界の衆生の苦しみを救うと説く



「執金剛像」 江戸時代 仏教の護法善神
金剛杵は、仏の智恵が煩悩を打破する武器であることを象徴している



「地蔵菩薩」 藤原時代



「弘法大師坐像」






「夫婦観音像(聖観音像)」



「お里・沢市の像 」






人形浄瑠璃『壺坂霊験記』に出てくるお里・沢市夫婦の像



「めがね供養観音」



高さ3mインドで制作され、日本で組み立てられた



「ブッダガヤの仏足石」 ブッダガヤは仏教の聖地



天竺渡来 佛伝図レリーフ「釈迦一代記」
原図は、奈良教育大学教授小川清彦氏
このレリーフは、南インド カルカラにおいて、延べ5万7,000人の石彫師の手によって、インドの石に彫刻され製作されたものである












レリーフのまえで数人のインド人が彫刻を見ながら議論していた(言葉は分からないが)









4~5枚撮ろうという気軽な気持ちでいたが、次第にその魅力に引きずられていた



























ブログには2~3枚投稿しようと思っていたが、つい枚数が増えてしまった(全部掲載)



昭和62年安置 高さ3m 全長50m 重さ300t



「天竺門」



「中興堂」



廃仏毀釈の法難で廃寺になりかけた時に壺阪寺を復興させた「諸大徳」を祀る



「天竺渡来 大観音石像」 全長20m、全重量1200t



インド政府によって提供された古石をインドのシェノイ氏とその一門
さらに延べ7万人のインド人石工の手によって66個のパーツに分けて制作され、日本で組み立てられた



「天竺渡来 大涅槃石像 」 全長8m インドで制作され、日本で組み立てられた



天竺渡来 大石堂



納骨永代供養堂 総重量1,500t



インドのアジャンター石窟寺院をモデルとし、延べ12万人の日本・インドの人々によって彫刻され、日本で組み立てられた



これまで数多くの寺院を回ってきたが、このような彫刻は初めてだ(感動)






壺阪寺には約2時間の滞在、歩き疲れたが異文化に触れた喜びもあった



撮影 訪問日 令和2年9月22日
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壺阪山 南法華寺<壺阪寺>その1(奈良県高市郡高取町壺阪)

2020年11月20日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月22日

壺阪山 南法華寺<通称:壺阪寺>その1
この寺も道路地図を見て選んだ。初めて訪れる寺で予備知識もない
駐車場は2つあり、運良く寺に近い場所に駐める事ができた

受付を済まし境内に入る



壷阪寺は昔から眼の不自由な人々にとっての聖地として知られている
昭和36年日本で最初の「養護盲老人ホーム慈母園」が誕生した



個性ある石仏が置かれている



「大講堂」



堂内に入る。500人以上収容できるという



「弘法大師像」






「薬師如来坐像」






堂外に出る



「仁王門」
建暦2年(1212年)建立






「仁王像」






「多宝塔」
平成14年4月落慶 本尊:大日如来(平安時代)






灌頂堂
平成17年4月落慶






堂内の様子
本尊:十一面千手観音菩薩(室町時代) 豊臣秀長公像・本多俊政公像安置(安土・桃山時代)



十一面千手観音菩薩(室町時代)



「手水舎」



「大石仏群」






天竺渡来 大釈迦如来石像と十一面千手観音菩薩石像



石仏群の向かいに置かれている石仏






「蓮石曼荼羅」



参道に置かれている石仏



「慈眼堂」
平成18年秋 落慶



堂内にはインドの画家カーマット氏による佛伝図がある



①「降誕」 
  右手で天を指し左手で地を指す有名な「天上天下唯我独尊」



②「出家」



③「苦行」



④「降魔」



⑤「成道」
  菩提樹の下で悟りを開く



⑥「転法論」



⑦「涅槃」



これには笑ってしまった。いかにも日本的で微笑ましい



次回に続く
撮影 令和2年9月22日
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学晶山 榮山寺(奈良県五條市小島町)

2020年11月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月22日

学晶山 榮山寺
道路地図を眺めずっと気になっていた寺である
開門の1時間前に到着。狭い駐車場で車内の整理をしながら待っていた
受付所には10分前に、開門の時間になっても人の気配がない……

梵鐘(国宝)
いきなり国宝の梵鐘の収蔵庫が目の前に、残念ながら梵鐘は見えない
京都の神護寺、宇治の平等院の鐘と共に「平安三絶の鐘」として知られている






七重石塔(重要文化財)






塔之堂<大日堂>(重要文化財)
大日如来像を安置



扉の中央にレンズが入る程の空間がある



堂内の様子



少し歩くと本堂らしき建物が見えてくる



本堂<薬師堂>(重要文化財)
養老3年(719年)に藤原不比等の長男 藤原武智麻呂が菩提寺として創建したと伝えられる
天文22年(1553年)の再建



山号「學晶山 」の扁額
堂内の拝観はできなかった



本尊の木造薬師如来坐像(重文)、脇侍の日光菩薩、月光菩薩、十二神将(重文)が安置されている






石燈籠(重要文化財)












八角円堂(国宝)
天平宝字(757年-765年)の建立と推定






藤原武智麻呂の菩提を弔うために子の仲麻呂が建立したと伝えられる本瓦葺の八角形の建物



内陣の柱や天蓋には壁画が施されているなど天平建築の中でも法隆寺夢殿と並ぶ貴重な遺構である






年2回の特別開帳期間時に八角円堂内の特別拝観ができる



寂しいかな拝観者は私一人だった。受付所に誰も居ない理由が分かったような気がする






駐車場に戻る。整理された車内を見ると、決して無駄な待ち時間ではなかった(笑)



撮影 令和2年9月22日
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一乗山 大伝法院 根来寺(和歌山県岩出市根来)

2020年11月18日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月21日

一乗山 大伝法院 根来寺
秋の旅では重文の多宝塔を持つ寺をいくつか回ってきた
根来寺はこれまで拝観した多宝塔のなかでは一番大きく、全国に6基ある国宝の多宝塔の一つでもある

大門(重要文化財)
根来寺の参拝は二度目になるが、この「大門(仁王門)」の存在は知らなかった
道の駅「ねごろ歴史の丘」の敷地内に「ねごろ歴史資料館」があり、その資料により存在を知った



この日は日差しが強く正面からは逆光で撮れず、木陰からねらう
根來一山の総門で嘉永3年(1850年)に再建、左右に仁王像を配している



「仁王像」






上層には釈迦三尊と十六羅漢像が安置されている
高さ16.88m 横幅17.63m 奥行6m



大門横にある「不動明王」



大門駐車場から不動堂近くの駐車場へ移動する
「新義真言宗総本山 根来寺」の石柱



前回訪れた時はこの門は閉ざされていた



大伝法堂(重要文化財)
根來寺の本堂で文政10年(1827年)に再建



真言宗の最も大切な修法を伝える道場で「傳法大会」「傳法潅頂」など、僧侶が厳しい修行をする場所



本尊:大日如来 脇仏:金剛薩埵(こんごうさった)、尊勝仏頂(そんしょうぶっちょう)






大塔(国宝)
正式名:大毘廬遮那法界体性塔(だいびるしゃなほっかいたいしょうとう) 通称:大塔



高さ40m、幅15mの木造では日本最大の多宝塔



秀吉に攻められた際の火縄銃の弾痕



本尊・胎蔵大日如来



大塔前には芝生の大きな広場があり、ベンチに座って多宝塔を眺める









大師堂(重要文化財)
明徳2年(1391年)の建立。大塔とともに秀吉の焼き討ちをまぬがれた建物



真言宗を開宗された弘法大師・空海像を本尊として祀っている






「奥の院」への参道



「興教大師(覚鑁)廟所」



覚鑁(かくばん)は、平安時代後期の高野山の僧で空海以来の学僧といわれた



真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖
康治2年(1143年)12月12日に入滅



本坊から入り、堂内を拝観する



名草御殿に面した江戸時代の名勝庭園



「光明殿(重文)」内陣



「閼伽井(あかい)」



「行者堂 ( 重文)」本尊:役行者



「聖天堂」内陣



聖天堂から見える「聖天池」



廊下を歩き置かれているものを撮っていく「大黒天尊像」



人生訓になる



薄暗い場所に置かれていた弥勒菩薩



屋久杉に書かれた「抱甕(ほうおう)(かめをいだく)」






光明殿(重要文化財)



本尊・興教大師。江戸時代後期の享和元年(1801年)建立



聖天堂(重要文化財)
聖天池に浮かぶ堂で聖天尊を安置している



「鐘楼門」 鐘楼が付いた門



毎日、午前6:00に鐘が鳴る



不動尊参道に移動する



不動堂(重要文化財)



「三国一のきりもみ不動」で有名な不動尊が本尊
興教大師覚鑁が難に遭った時に身代わりとなって守ったので、この名がある



「春日堂」



身体の痛い所や病気の場所と観音像の同じ場所をタワシで洗い「病気平癒」を祈願する
かなり美形の女性が観音像の顔を洗っていたので思わず「美人なので必要ないでしょう」と声をかけた



撮影 令和2年9月21日
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旧和歌山県会議事堂(和歌山県岩出市根来)

2020年11月17日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月21日

旧和歌山県会議事堂(重要文化財)
和歌山城の東側に明治31年(1898)に建設された和歌山県会(現県議会)の議事堂
道の駅「ねごろ歴史の丘」の近くに移築復元された



現存する唯一の和風意匠の府県会議事堂で、平成29年に国の重要文化財に指定された



車寄せ
正面車寄せには華麗な彫刻が施され県会議事堂の正面玄関を引き締めている



写真上 兎の毛通し「鳳凰」 中央 笈形「波」 下 蟇股「雲」
これら彫刻群は棟札にある彫工「大窪嘉輔」の手になるものとみられる



議場
間口18m 奥行23m 高さ6m 正面奥に唐破風付き「床の間」






唐破風付き「床の間」



上部には唐破風が設けられ、鬼板をはじめ、鶴や亀をあしらった彫刻で飾る
写真上 「鬼板」 中央 笈形「亀」 下 蟇股「鶴」



中央 笈形「亀」 下 蟇股「鶴」を拡大



「議場の天井」
中央部を折上格天井、周囲を鏡天井とした構成



折上格天井の天井板は、杉の杢目板



一つの格間を一枚張りとした贅沢な木取り
前後左右で木目の向きを変え、市松模様になっている



議場の模型から当時の議会の様子が分かる



「書記室」



「議長室」



夏目漱石の和歌山講演
明治44年(1911年)に和歌山を訪れ、県会議事堂で有名な講演「現代日本の開化」を行った



和歌山を講演先にした理由や宿泊先の変更、和歌浦への触れ方などは、小説『行人』で描かれている



「濱口梧陵翁之像」
和歌山県会は明治12年(1879年)5月5日、第1回通常会を開会した
初代議長は濱口儀兵衛(梧陵)であった



「議員休憩室」






道の駅「ねごろ歴史の丘」周辺散策マップを参考に立ち寄った



撮影 令和2年9月21日
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紀州東照宮(和歌山県和歌山市和歌浦西)

2020年11月16日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月20日

紀州東照宮
徳川御三家の一つである紀州にある「東照宮」ということでかなり期待してきた
駐車場(300円)を利用した参拝者は拝観料が無料になる

「鳥居」
扁額には「東照宮」と書かれている



「境内案内図」
数ヶ月後、ブログを作成する時に、この境内図が大変役に立つ



初めて訪れる場所なので周囲を眺めながら参道を歩く



木々に囲まれ爽快な気分になり、自然大きく息を吸い込んでしまう
先に鳥居が見えてくる



さらに先に進むと石段が見えてくる



「侍坂」
約400年前紀州藩祖徳川頼宣が指揮をとり、石組などは「士分」以上のものに運ばせた
これは源頼朝の鶴岡八幡宮造営の古例にならったもの



毎年5月の「和歌祭」では、御輿をかついだ男衆が108段の階段(侍坂)を勇壮に練り下りる(神輿おろし)



上から見るとこのような感じだ
若い頃は煩悩などなくスイスイ上って行けたが……
歳をとると多くの煩悩を引きずって上がらなければならず辛い



楼門(重要文化財)
楼門横の休憩用椅子に長時間座っている参拝者がいたので上の部分だけとなった



周囲を眺めて見る
楼門の正面には「唐門(重文)」と奥に「拝殿(重文)」



「神輿蔵」の奥には「手水舎」



その横には「絵馬奉納所」



「渡御蔵」



「唐門」と「拝殿」を右から



「灯籠」



唐門(重要文化財)
紀州初代藩主であり、徳川家康の第10子徳川頼宣が父家康を祀るために元和7年(1621年)に創建した権現造の神社
日光東照宮と同様、社殿内には左甚五郎作の緋鯉真鯉の彫刻や狩野探幽の襖絵がある
東西「瑞垣 」も重要文化財に指定されている



紀州東照宮では唐門前の石段から先は撮影禁止となっている
社殿内なら分かるが外観の撮影も禁止とはかなり厳しい
各地の東照宮を回ってきているが、これは初めてだ






楼門から、和歌山市街地を眺望できる



108段の「侍坂」を下りようとした時に、ふと考えた
これまで、男坂には女坂があった。侍坂にはきっと姫坂があると……



姫坂だったら良かったのに「ユルイ坂」とは何というネーミングだ、カックンと膝にキタ-
だが何事も経験、ユルイ坂を下りることにした



最後は男坂の上り口に合流する
確かにネーミング通りの坂だった



参道を通り駐車場へ戻る



撮影 令和2年9月20日
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宝遊山 善福院 釈迦堂(和歌山県海南市下津町梅田)

2020年11月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月20日

宝遊山 善福院 釈迦堂
国宝の釈迦堂があるということで訪れた
初めての場所には駐車場探しにいつも苦労する。カーナビが案内したのはいつもの狭い道
目的地が近くなった時に案内された場所をみるとそこは階段だった(笑)

善福院 釈迦堂(国宝)
善福院は健保2年(1214年)栄西禅師によって創設されたといわれる「広福寺五ヶ院」の一つである
広福禅寺は古くは七堂伽藍を備えていたといわれたが、加茂氏の没落にともない荒廃した
その後、高野山に頼り真言宗に転宗し伽藍を修復し、更に紀州藩となってからは天台宗になった



釈迦堂は広福禅寺の本堂で「釈迦如来(和歌山県指定文化財)」は広福禅寺の本尊であった
明治に入り山内全ての管理を子院であった善福院が管理。それ以後「善福院」と呼ぶようになった






釈迦堂の前で写真を撮っていると、お堂の内部を拝観しますかと住職に尋ねられたので「是非に」とお願いした
住職の熱のこもった説明はとても理解しやすく、拝観料200円では申し訳ないほどだった



釈迦堂は、山口県の「功山寺仏殿(国宝)」とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもの
功山寺仏殿は公開していないので、このお堂の拝観は極めて貴重である



堂内の撮影は許可されたがネット等による発信は不可とのこと……
つい雰囲気だけでもと思い……






参拝者は私一人だったが扉を開けてくださったり、他に対する配慮が素晴らしい住職だった



江戸時代紀州徳川家の菩提寺の候補にあがり真言宗から天台宗に改宗したが選ばれなかった
「もし、菩提寺になっていたなら」との話しが特に印象に残っている



離れた場所にある駐車場に戻る



撮影 令和2年9月20日
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