今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

国宝の城(現存12天守:国宝五城)

2024年09月20日 | 
国宝の城(現存12天守:国宝五城)
長野県(松本城<烏城>)
愛知県(犬山城<白帝城><追加>
滋賀県(彦根城<金亀城>)
兵庫県(姫路城<白鷺城>)
島根県(松江城<千鳥城><追加>

01 松本城(長野県松本市丸の内)
永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まり
後に甲斐の武田氏の侵攻を受け小笠原氏は没落、武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として松本平を支配下におく
武田氏滅亡後の天正10年(1582年)、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し「松本城」に改名した



天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城主小笠原秀政に代わりに石川数正が入城
石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う



現存する天守を築造したのは石川康長で、文禄2~3(1593~4)年頃
別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている



月見櫓の様子






<一部追加>
02 犬山城(愛知県犬山市大字犬山北古券)
木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城である。別名の白帝城



明元年(1469年) 応仁の乱の最中に 岩倉織田氏当主の織田敏広の弟・織田広近がこの地に砦を築いたのが始まり
天文6年(1537年) 清洲三奉行の織田信秀の弟・織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭(乾山の砦)を造営して移った



天守は現存する日本最古の様式



現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した元和3年(1617年)ごろである
平成16年(2004年)3月末日までは日本で唯一の個人所有の城であった



この写真を撮影したのは平成15年11月で、城の持ち主は確か犬山市長の娘さんだったと記憶している












03 彦根城(滋賀県彦根市金亀町)
滋賀県彦根市にある彦根山に、井伊氏の拠点として置かれた平山城(標高50m)
山は「金亀山(こんきやま)」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう



井伊直政は、関ヶ原の戦いの後、その軍功により佐和山城に入城したが三成の居城であったことを嫌ったという
直政は、関ヶ原の戦傷が癒えず、慶長7年(1602年)に死去
直政の遺志を継ぎ、慶長8年(1603年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した



明治に入り、各地の城は廃城令で破壊・売却されていった



彦根城の天守閣は明治元年に700円で落札され解体される寸前であった
明治天皇が巡幸で彦根を通過した折、城の保存を命じたため破却を逃れたという






04 姫路城<白鷺城>(兵庫県姫路市本町)
姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城



姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力



関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された



明治時代には維新の初期に払い下げが行われ、百円で落札されたが、取り壊し費用が莫大であったことから落札者が願い下げした



国宝の大天守は外から眺めると5階建てに見えるが、内部の造りは地上6階、地下1階の7階構成になっている






<一部追加>
05 松江城<千鳥城>( 島根県松江市殿町)
亀田山に慶長12年(1607年)から5年の歳月をかけ築城



慶長16年(1611年)に竣工。完成数カ月前に堀尾吉晴公死去(69歳)
孫の三之助(忠晴)(13歳)が城主となる






廃城令により、松江城諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げることとし、ことごとく取り壊された
天守閣は180円で落札されたが、出東村の勝部本右衛門、高城権八らにより資金を調達、買い戻され取り壊しは中止、保存されることとなった



松江のシンボル松江城は、全国で現存する12天守のうちのひとつで、唯一の正統天守閣ともいわれている



人柱伝説:
天守台の石垣が何度も崩れ落ち、人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から出た
そこで、盆踊りを開催し、最も美しく、踊りの上手な少女が生け贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという
石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となった
人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置された
その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残る
また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかった



石垣積は、築城工事にあたって、全体の半分以上の労力を要した
松江城は5年間で完成したが、そのうちの3年間を石垣に費やされた



いくつかの城巡りをしているが、石垣の除草作業を目にするのは初めてである
綺麗な石垣を維持管理していくには、かなり危険で地道な手作業が必要ということを知った












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丸岡城<別名:霞ヶ城>(福井県坂井市丸岡町霞)

2024年08月22日 | 
訪問日 令和6年5月30日

丸岡城(別名:霞ヶ城)
現存12天守(江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守)の一つ
国宝-5城(松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城)
重要文化財-7城(弘前城、丸岡城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城)



一筆啓上碑
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
徳川家康の家臣であった本多作左衛門重次が、戦場から妻に送った手紙文
簡潔にして要を得たこの文は、手紙文の手本として今日でもよく紹介されている
「お仙泣かすな」のお仙は、後に「丸岡城」の城主になった「本多 成重(幼名:仙千代)」



丸岡城には、これまで4~5回訪れている
2年前には地元のお祭りか何かで駐車場に屋台が出ていて駐めることができずに諦め、今回の訪問になった



城周辺を歩き石垣を撮る



丸岡城を支える石垣は「野づら積み」という古い方式
すき間が多く粗雑な印象ながら排水がよく大雨に崩れる心配がないといわれている



石垣の高さ約6.2m



昭和23年(1948年)の福井地震によって天守が倒壊
現在の天守は、昭和30年(1955年)に部材を70%以上再利用して組み直して修復再建されたもの
この石垣が崩れたという資料はなかった



鯱(石製しゃち)
木彫銅板張りであったものを昭和の修理の際に、(戦禍中で銅板入手困難)石製の鯱に改めた
昭和23年(1948年)の福井地震の際、棟より落下した鯱である



現在、天守閣の上にのっている鯱は、もとの「木彫銅板張り」に復元したもの



雲井龍神
城主となった有馬氏によって勝利の守神として祀られたが、廃城後は荒れ果て、昭和40年(1965年)に再興された






「霞ヶ城」の名の由来






高齢者には厳しい石段でここで諦める人もいる
安全対策はなく、自己責任でということも気に入っている



現存12天守巡りも旅の目的の一つに加えたが、あと、3つ残っている(備中松山城、松山城、宇和島城)
年齢的にも2年以内に達成したいと考えている



「石落とし」



「狭間」



1階と2・3階の間に通し柱がなく、1階が2・3階を支える構造



天井の柱にも匠の技が



急階段
私が訪れた城の中では一番の難所
カメラを左手に持ち、右手でロープを操作することはとても難しい
この男性は、両手両足を使って上がっている



1階から2階に上る階段が65度
2階から3階部分で67度の全国でも珍しい急階段
今回、この階段を見て、断念した高齢の女性がいたが賢明な選択だと思う






高所恐怖症なので窓の近くに寄ることができないが
屋根は石瓦で葺かれている(現存天守では唯一の事例)



天正4年(1576年)、柴田勝豊が豊原を離れ、坂井平野東部の独立丘陵である丸岡に城郭を築き、拠点を移したのが築城年
初代城主:柴田勝豊



無事、何事もなく下りてきた
いつも思うことだが、城は下から眺めるのが一番いい



お静慰霊碑



昭和の工事の際、天守台石垣からは人柱の証拠となるような遺構が検出されず、この逸話はあくまでも伝説として扱われている






牛ケ島石棺(坂井市指定文化財)



被葬者は有力な首長層か



一筆啓上 日本一短い手紙の館(福井県坂井市丸岡町霞町3-10-1)
丸岡城の入場券で入館できる



選考委員の紹介



一筆啓上賞の歴史とともにこれまでの入賞作品を展示



快適な空間であった



撮影 令和6年5月30日
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津山城(岡山県津山市山下135)

2024年08月03日 | 
訪問日 令和6年5月23日
津山城(別名:鶴山城)
津山盆地の中央部に位置する
城郭の形式は梯郭式平山城
日本三大平山城のひとつ(他は兵庫県の姫路城、愛媛県の松山城)

森忠政公像
元亀元年(1570年)美濃金山城で織田信長の家臣・森可成の六男(末子)として生まれる
天正10年(1582年)織田信長に小姓として兄らと共に召し抱えられる
兄にはあの有名な「森蘭丸」がいる
同僚の梁田河内守にちょっかいをかけられ、信長の前で梁田の頭を扇子で殴打したのを見咎られ親許に返された
これが幸いして本能寺の変に巻き込まれずに済んだ



天正12年(1584年)兄の長可が小牧・長久手の戦いで戦死後家督を継ぐ
豊臣秀吉に続き、徳川家康に仕え慶長5年(1600年)信濃川中島13万7千石を領す
慶長8年、美作国18万6500石を与えられ津山に入封
慶長9年より津山城の築城に着手、城下の町づくりを始め、現在の津山の基をなした
寛永11年(1634年)3代将軍徳川家光に随伴して上京するが、食傷により急死する 享年65歳



明治6年(1873年)の廃城令で、建造物は取り壊されたが、地上から45mに及ぶ立派な石垣が当時の面影を残している



往時は外郭を含めて、広島城の76棟、姫路城61棟をしのぐ77棟の櫓が建ち並んでいたという






備中櫓
天守の南東側の「備中櫓」が、築城400年の記念事業として復元され、平成17年春から一般公開されている






美しい石垣を眺めながら石段を上がるが先が見えないだけに辛い









欠損している石垣があった



石垣内はこのようになっていた



城跡は鶴山公園(かくざんこうえん)として整備されている
入園は有料で大人310円
桜の名所となっており、日本さくら名所100選にも選ばれている



備中櫓



復元された備中櫓内は総畳敷きになっている
初代津山藩主の森忠政が、13年の歳月をかけて完成させた天守閣も総畳敷きであった



各部屋の照明は古風でセンスがある
上部の「鶴の丸の家紋」は森家の家紋
下部の「葵の御紋」は森家の次に津山藩を統治した松平家の家紋



こちらは、津山市の市章「剣大」



柱のヒビ
備中櫓内に使用されているヒノキの柱は「芯持ち材」といって丸太から1本の柱を創りだしたもの
芯持ち材は乾燥が進むにつれどこかにヒビが入るのが避けられない
現在ではこのような木材には「背割り」といって、人工的に切り込みを入れて、それ以外の部分にヒビが入らないような処理を行う



便所の向きは
後ろに見える棒は手でつかむものではなく「衣掛(きぬかけ)」といって、着物の裾を掛けるためのもの



御上段
ここだけが立入禁止になっている



殿様専用ということになる



畳敷きの城内は他の城では経験できない貴重なものだ






ハートの石「愛の奇石」
城巡りをしているとこのような案内板をよく見る



普段は「つまらない」とスルーするのだが、周囲に誰もいなかったので探すことにした
直ぐ見つけることができると思っていたが、なかなかたどり着くことができない



案内板に戻り、真剣に探し始めた(←矢印の存在を無視していた)
見つけた時の喜びは想像以上だった(老乱)



鐘の音が聞こえていたので不思議に思っていた



城内に咲いていた紫陽花









撮影 令和6年5月23日
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松江城(島根県松江市殿町1-5)

2024年07月29日 | 
訪問日 令和6年5月22日
松江城(国宝)
国宝に指定された松江城を観てみようと、昨年周辺まできたが駐車場が満車で断念
この日は早い時間帯に駐車場に到着した



松江城には平成21年(2009年)7月に一度訪れた事がある
その時には、駐車場の男性が「札幌」ナンバーを見て「遠くからよく来てくれた」と歓迎されたことを覚えている
帰りには「いい物をあげようかな」と係の男性が笑顔で話しかけてきた
数回子どものようなやりとりの会話があり手に入れた「いい物」とは松江市内の観光マップが書かれている「うちわ」であった
「使わないけどもらっていく」と私。互いに笑顔で手を振りながら別れたことを今でも思い出す



二ノ丸下の段の遺構
江戸時代には米蔵や屋敷などがあったところ
明治維新となり不要になった建造物群は天守閣を除いて取り壊されてしまった






城といえば石垣



場所によって積み方が異なっている



いくつかの城巡りをしているが、石垣の除草作業を目にするのは初めてである



綺麗な石垣を維持管理していくには、かなり危険で地道な手作業が必要ということを知った



国宝 松江城(別名:千鳥城)
松江城は全国に12城しか残っていない現存天守の1つ
慶長16年(1611年)完成の松江城天守は、彦根城、姫路城と並び、近世城郭最盛期を代表する天守



山陰地方で唯一の現存天守であり、国宝指定された5城のうちの一つである
他は、犬山城、松本城、彦根城、姫路城



天守入城料は大人 680円



城内の様子



旧鯱



国宝指定の要因



祈祷札



通し柱
全国で同時期に多くの城が築城されていた中で松江城の築城も始まり、木材が不足していた



そのため姫路城の心柱のような大きな柱を作る木が手に入らなかった
心柱を使わない2階分の短い「通し柱」を配置して天守を支える構造となっている
天守の柱308本の柱のうち96本が通し柱



包板(つつみいた)
天守を支える柱には、一面だけ、あるいは二面、三面、四面に板を張って鎹(かすがい)や鉄輪(かなわ)で留められている物がある
この柱を覆う板を「包板」と呼ぶ
天守にある総数308本の柱のうち130本に施してあり、割れ隠しなど不良材の体裁を整えるためのものと考えられている



石落とし



松平直政公初陣之像
真田信繁(幸村)が守る真田丸を攻める14歳の松平直政の初陣姿
信繁は、その勇ましい姿に軍扇を投げ与えたという



刻を知らせた太鼓



天守からの眺望(宍道湖方面)



修復作業中の城内



歴史を少し
天正 18年(1600年)堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)、関ヶ原の戦功により浜松より出雲隠岐24万石加増移封
慶長16年(1611年)正月までに松江城が完成<同年6月吉晴死去>
寛永10年(1633年)堀尾忠晴死去 嗣子無く改易



寛永10年(1634年)若狭小浜藩から京極忠高が移封
三の丸を造営し、ここに松江城の全容が完成
寛永14年(1637年)京極忠高死去 嗣子無く改易



寛永15年(1638年)信濃松本藩から松平直政移封(約230年の治世)



写真では観光客の姿はないが、実際は平日でも予想以上に多い
半数は外国人観光客で高齢者も多く、急な階段の昇降には苦労していた



松江神社(島根県松江市殿町1番)
松江城に隣接している



明治10年(1877年)旧松江藩の有志により、西川津村(現松江市西川津町)楽山に松平直政を御祭神とする楽山神社として創建
寛永5年(1628年)堀尾忠晴が朝酌村(現・松江市西尾町)に創建した東照宮の御神霊を明治31年(1898年)に合祀
翌、明治32年(1899年)に現在地の松江城山二之丸に遷座して、神社を「松江神社」と改めた



狛犬






手水舎
寛永16年( 1639年)の建造 前述の東照宮から移設



拝殿
寛文元年(1661年)建造の権現造



本殿
寛永5年(1628年)建造
祭神:松平直政(松江松平家初代藩主)
合祀神・徳川家康(東照宮)



興雲閣(島根県松江市殿町1-59)
松江城内に明治36年(1903年)に明治天皇行幸時の御宿所として建設された擬洋風建築の迎賓館



松江市が松江工芸陳列所の名目で建設した明治天皇行幸の際の御宿所
日露戦争勃発により明治天皇の行幸は実現しなかった
明治40年(1907年)5月に当時の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が行啓し、当館を宿泊施設として使用した



石碑
明治21年(1888年)建立
「西南の役」と島根県民のかかわりを示す貴重な歴史資料



入館料は無料
ポーチ上にある応接室兼拝謁所



貴顕室
大正天皇が皇太子時代に宿泊された場所(立入禁止)で3部屋ある

「御寝所(畳敷)」



「拝謁の間」



「御座所」



駐車場に戻る
松江開府の祖 「堀尾吉晴公の像」



撮影 令和6年5月22日
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墨俣一夜城(岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1)

2024年06月30日 | 
訪問日 令和6年5月15日
墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)
木下藤吉郎が天下人の出発点となった墨俣城
この城跡に城郭天守の体裁を整えた歴史資料館として建設された



「千成瓢箪と出世橋」



墨俣城(墨俣歴史資料館)の前を流れる犀川にかかっている橋は「太閤出世橋」と呼ばれている
この橋には誰もが出世できるようにとの願いが込められている



昨年秋、近くを走っていたときに偶然見かけた城で訪れて見たいと思っていた
歴史小説が好きで、永禄9年(1566年)木下藤吉郎が一夜にして築いたと伝えられる墨俣一夜城のことは印象に残っている



「木下藤吉郎秀吉像と墨俣城」



「出世ひょうたん」



千成瓢箪の由来は、美濃の稲葉山城攻略において、軍師竹中半兵衛の進言により奇襲攻撃を行い、瓢箪を棒の先に掲げて振り、これを合図に攻撃を開始したことにある
稲葉山城は落城(1567年)功あった木下藤吉郎に、織田信長が 瓢箪を馬印にすることを許可した



周辺を散策



州股築城犠牲者墓
いつのものか分からないが「墨俣」ではなく「州股」になっている
近くに長良川と犀川が流れていて「州」という想像ができる



実際の墨俣城は簡易な建築や柵で構成されたものであったとされている
資料館の資料によると「墨俣一夜城」は、その年の長良川の氾濫で流失したとあった(知らなかった)



名も無き犠牲者の墓ではあるが日本人的配慮にとても感動した



城内に入る(入場料200円)



天守からの眺望
出世橋の先に4~5台の駐車スペース



長良川と犀川が流れていて「州股」という地名が理解できる



天正14年(1586年)6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まり、墨俣は戦略上の重要性を失った






撮影 令和6年5月15日
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島原城 その2(長崎県島原市城内1丁目1183-1)

2023年08月17日 | 
訪問日 令和5年5月26日

島原城 その2
昭和39年(1964年)に天守が復元され、キリシタン資料・藩政時代の資料を展示する歴史資料館になっている
入館料:550円 写真撮影ができることを確認し入館する






1階 キリシタン展



島原城下絵図



キリスト教が島原へ伝わる
フランシスコ・ザビエルによって日本にもたらされたキリスト教は九州西部や東部に浸透
永禄6年(1563年)には島原半島にも伝わった












石像マリア観音







キリシタン火鉢
花十字模様がデザインされている



隠しマリア聖像
マリア聖像が描かれているというが……






影踏・踏絵
島原藩では「板踏」とともに「箱踏」といって穴を開けた箱に聖画像を入れた道具も利用していた

「箱踏」は島原藩オリジナル



「踏絵(レプリカ)」



鬼子母神に仮託された聖母子像



天草びな



島原の乱大手門の戦い



天草軍記
島原の乱では、天草四郎が3万もの一揆農民をまとめた



2階 郷土資料展
有馬、松倉、高力氏とめまぐるしく領主が変わったが、松平忠房が入国してからは200年近く安定した統治が続いた
領民の人心も安定し、文化や経済が発達する



人体解剖図
シーボルトに学んだ西洋科学の知識を元に、解剖を実行して記録したもの









「山水図」第七代藩主 松平忠馮 筆



島原藩印



3階 民族展
庶民生活上の文物を展示



島原地方の焼き物


















象と京美人



精霊流し
盆前に逝去した人の遺族が故人の霊を弔うために毎年8月15日に行われる伝統行事



5階 天守閣・展望所
天守閣からの眺め






島原半島を訪れたのは遠くに見える「雲仙普賢岳」を見たかったのもある



係の人の話ではここ数日天気が悪く、今日は久し振りに良く見えているとのこと



200mmの望遠レンズで撮ったものを拡大してみた
1991年6月3日に発生した大規模火砕流では43人が死亡
6月3日は犠牲者の追悼と災害の教訓を後世に伝えていくために「いのりの日」を実施している



悲劇のヒーロー・天草四郎がお見送りしてくれる



島原城御馬見所(国登録有形文化財)






撮影 令和5年5月26日
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島原城 その1(長崎県島原市城内1丁目1183-1)

2023年08月16日 | 
訪問日 令和5年5月26日

島原城
島原城は元和4年(1618年)から、松倉豊後守重政が約7年の歳月をかけて築いた
五層天守閣を中核に、大小の櫓を要所に配置した、安土桃山期の築城様式を取り入れた壮麗な城だった



寛永14年~15年(1637年~1638年) 初代 松倉重政、2代勝家の圧政により島原の乱が起こる
勝家は領内を騒乱に導いた責により斬首。松倉氏は改易となる
明治9年(1876年)廃城令により 天守以下建造物が破却される
昭和39年(1964年)天守復元。キリシタン資料・藩政時代の資料を展示する歴史資料館となる



景華園遺跡の支石墓撑石(島原市指定文化財)



弥生時代から鎌倉時代に至る約1500年の長期にわたる住居跡、墓域跡だったと推定される
この撑石(しょうせき)の重量は18.4t



初めて訪れる城で、周辺を歩きながら撮る






城の周辺は駐車場になっている



RVパークsmart島原城
事前予約が必要だが車中泊用のスペースもあった



15時~翌12時まで利用でき、設置されたAC電源を使用することができる
料金は1泊4000円(税込)



民具資料館(丑寅の櫓)



西の櫓



西望記念館(巽の櫓)



お城の鐘



彫刻家 北村西望 作品
長崎市の平和公園にそびえる「平和祈念像」の作者でもある
城の周辺に展示されている作品を撮ってみた

若き日の織田信長
ー力強く、たくましく、自由奔放ー



天草四郎
ー信念に燃える凛々しい姿ー









浦島
ー西望の浦島は戦後、力強く新たに生き抜く若者ー



狛犬
ーどの狛犬も表情や尾の形が異なるー



日蓮上人
ー辻説法の姿ー









獅子咆吼






人類の危機
ー平和を脅かす争い事に警告を発しているー






聖観世音菩薩
ー人類平和への祈願の精神が込められているー









聖火
ー東京オリンピック開催にちなんで制作ー



自由の女神
ー精神性の表現を主としたポーズー



青空無限
ー大正期の力感溢れる男性ー






北村西望87歳時の胸像






次回に続く

撮影 令和5年5月26日
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平戸城(長崎県平戸市岩の上町1458)

2023年08月08日 | 
訪問日 令和5年5月24日

平戸城(別名:亀岡城)
初めて訪れる場所は駐車場探しに苦労する
困っていると、地元の親切な女性が城に一番近い場所を教えてくれた



乾櫓(いぬいやぐら)
駐車場から少し歩いた場所に乾櫓が見えてくる



二の丸御殿を守護していたとされる乾櫓
平戸の乾の方角(北北西)にあたることから、乾櫓と呼ばれた



「日本最初 たばこ種子渡来之地」の石碑
慶長6年(1601年)に「たばこ」の種子がこの地に伝えられたという記録をもとに建てられた
*「たばこ」が日本へ伝わった正確な年代や状況については諸説あるらしい
 天文12年(1543年)に種子島に漂着したポルトガル人が、鉄砲とともに伝えたとする説
 慶長10年(1605年)前後に、ポルトガルやスペインなどの西欧諸国から渡来したとする説



案内板
平戸藩では家臣団の再編や領国支配の強化を進める上から、居城の拡充と城下町の整備が必要となっていた
そこで慶長4年(1599年)松浦鎮信(法印)が亀岡の地(日の岳)に新城の築城を開始
平戸城はこの年に着工し、12年以上の歳月をかけて完成した



地蔵坂櫓
二の丸北側に位置する櫓
乾櫓と北虎口門を結ぶ中間点にある



城壁に張り出して、側面から北虎口門を守ることを想定している
城壁の曲線部分が美しく印象に残っている



天守閣
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃、徳川家康からの嫌疑を晴らすため、城の一部を破却したと伝わる
慶長18年(1613年)火災により大半を焼失した
自ら火を放ち城を破却したとも言われている
豊臣氏と親交が厚かったことによる江戸幕府の嫌疑から逃れるためともいわれている



元禄15年(1702年)松浦鎮信(隠居により改名)は幕府に平戸城の再築城を願い出て、翌元禄16年(1703年)に許可された
江戸時代中期に築城が裁可されたのは異例であった
これは徳川家との姻戚関係と、東シナ海警備の必要性によるものといわれている



5代藩主松浦棟が山鹿流の築城術を用いて築城に着手
元禄17年(1704年)2月に着工、宝永4年(1707年)にほぼ完成した
天守は上げられず、二の丸に建てた3重3階の乾櫓をその代用とした



城からの景色が美しい
遠くに見える朱色の「平戸大橋」を渡りやってきた
橋からの眺めは高所恐怖症ということも忘れるほどの絶景であった



北に位置する「見奏櫓」






平戸湾を往来する船



城よりもこの場所に佇み風景を愉しんでいる時間の方が長かった



見奏櫓(けんそうやぐら)
二の丸北部を守る見奏櫓は、「五段ハグチ」と呼ばれる急な崖の上にある
絶景を見ながら休憩できるスペースになっている



明治4年(1871年)廃藩置県後の廃城令により廃城となる
現存する狸櫓と北虎口門(搦手門)を残し、城の建物は解体された



昭和37年(1962年)模擬天守及び復興の見奏櫓、乾櫓、地蔵坂櫓、懐柔櫓が建てられた
天守内は松浦党などの資料館になっている
現在の城跡は亀岡神社の境内や亀岡公園となっている



撮影 令和5年5月24日
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唐津城(佐賀県唐津市東城内8−1)

2023年08月02日 | 
訪問日 令和5年5月23日

唐津城(別名:舞鶴城)
唐津城に向かう途中、「虹の松原」という約100万本のクロマツの林の中を約4.5 km にわたって走行した
写真や動画に記録していないが運転してトリハダが立つほど感動した
静岡の「三保の松原」、福井の「気比の松原」と共に日本三大松原の一つに数えられている



駐車場に入り急に嫌な気分になった
料金案内板を見ると普通車が1時間100円に対しキャンピングカーは4倍の400円だという
2時間の料金を見ると900円、倍以上になっている

1時間以内に戻るには急がなければならない
目の前の石段など上っては間に合わない
高齢者用のエレベーターを利用し、時間短縮に努めた



文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣 寺沢広高がこの地に封ぜられた
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった



慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成
廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した



広高は松浦川の流路変更に見られるように土木事業に長け、防風林として松原の保護育成を行った
これが日本三大松原として今日に残る虹の松原となっている



明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、建造物が解体された
昭和41年(1966年)文化観光施設として5層5階の模擬天守が築かれ、門・櫓も同時に再建された



城周辺の景色






海岸沿いに弧を描くように伸びているのが「虹の松原」である



左右が海に囲まれているため時折突風が吹き抜ける



1時間以内で何とか駐車場に戻ることができた
400円を手に料金場へ。表示された駐車料金は何と100円だった
本来なら嬉しく思うが、何故か一層腹立たしい気持ちになってしまった



撮影 令和5年5月23日
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長浜城<長浜城歴史博物館>(滋賀県長浜市公園町)

2023年06月20日 | 
訪問日 令和5年5月14日

長浜城<長浜城歴史博物館>
最近、長浜市には毎年のように訪れている
長浜城跡地にある豊公園駐車場はよく利用し長浜城の姿はよく見ていたが、近くに来たのは初めてである



天正元年(1573年)に羽柴秀吉が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した
当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を、信長の名から一字拝領し「長浜」に改名した






羽柴秀吉が最初に築いた居城で、天正年間の3年・4年頃に完成し入城した



天正10年(1582年)に本能寺の変で織田信長が殺害されると、明智光秀に加担した阿閉貞征が長浜城を占領した
明智は信長の仇討を掲げる羽柴方に敗戦し、阿閉は秀吉方に捕縛され阿閉一族全て処刑された
長浜城は羽柴氏の支配下に戻った



天正13年(1586年)の天正地震により城が全壊
慶長11年(1606年)に長浜藩の内藤信成・信正が城主になる
大坂の陣後の元和元年(1615年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城となる



長浜城の資材の大半は彦根城の築城に流用された
彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている



現在の天守は昭和58年(1983年)に犬山城や伏見城をモデルにした復興天守で、市立長浜城歴史博物館として運営されている



長浜築城・開町450年、長浜城歴史博物館開館40周年の記念の年になる






撮影 令和5年5月14日
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大垣まつり、大垣城 他(岐阜県大垣市)

2023年06月15日 | 
訪問日 令和5年5月13日

大垣まつり(国重要無形民俗文化財)
大垣城に向かうため大垣市内を走り駐車場を探していると、多くの警察官の姿が目に入ってきた
駐車場に車を置き市役所周辺に来ると、犬山市で観た車山(やま)が集まってきていた



平成27年に国の重要無形民俗文化財に登録された
平成28年にはユネスコ無形文化遺産にも登録された



開会式で知ったのだが、この日は、4年ぶりの開催となる「大垣まつり」の当日だった
偶然とはいえ絶好の機会に恵まれた



地域はちがうが、前日訪れた犬山市で予備知識を得ていたのも大きい



大垣まつりは、大垣八幡神社の例祭に行われる山車行事である
開会式後に地元のお偉いさんの前で披露して市内に移動するようだ



周囲から見えない幕の中では人力でからくり人形を動かしているのだろう



車山を、男達が豪快に持ち上げて方向転換する「どんでん」は確かに迫力がある
狭い道路上ではかなりのテクニックが必要になることは想像できる



360年余の歴史がある大垣まつり
この日は雨予報で周囲からは、午前中何とかもってくれたという安堵の声を何度か耳にした



コロナで中断していたこともあり、多くの関係者や待ち望む市民のためにも無事終えて欲しいと思った



大垣城(岐阜県大垣市郭町)
大垣市を訪れた目的はこの城だった
前回は駐車場を探すことができなく諦めてしまった



平城ということもあり、先を歩く3歳児を連れた母子でも楽しく上がれる階段だ



宮川安定(安貞)が築いたともいわれているが、築城年代、築城者は特定できていない
戦国時代には大垣城は戦略上重要な地点であったため争奪戦が繰り返された
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、石田三成ら西軍の主力部隊が入城して根拠地となった
寛永12年(1635年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田家の居城となった



城内に入る
弓と鉄砲の体験ができるというので試してみた
弓の弦は固くて引けないし、鉄砲は重い



武具の展示









大垣城からみた関ケ原合戦 東西武将列伝
私は西軍の武将たちに魅力を感じている












国宝だった大垣城は昭和20年の空襲で焼失した
天守は昭和34年(1959年)に、乾櫓は昭和42年(1967年)に鉄筋コンクリート構造で郡上八幡城を参考に外観復元された



戸田氏鉄公騎馬像



大垣市郷土館
枯山水の庭園が美しい
入場料:200円(大垣城と共通券)



大垣祭 朝鮮山車附属品



大黒のお頭



道路沿いの背の高い建物の中に車山が保管されている



奥の細道むすびの地記念館
元禄2年3月27日に江戸深川を出立した芭蕉は、門人の曽良をともない、東北・北陸地方をめぐり、8月21日に大垣に到着した
係の女性の話によると、芭蕉は奥の細道のむすびの場所に、この地を最初から選んでいたという



黛まどか氏が名誉館長でAVシアター(200インチスクリーンの3D映像)による説明を行っている
昔からファンで惹きつけられる魅力がある



撮影 令和5年5月13日
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犬山城(愛知県犬山市犬山北古券65-2)

2023年06月12日 | 
訪問日 令和4年5月12日

犬山城(国宝)
別名の「白帝城」
天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城・松本城・彦根城・松江城)



全国唯一の個人所有の城として保存されてきたが、平成16年(2004年)「財団法人犬山城白帝文庫」の所有となって現在にいたっている
若い女性が所有している国宝の城というのを雑誌か何かで知って訪れたのが最初である



調べてみると6年ぶり4回目の訪問になる
自分の意思で訪れた最初の城ということもあり思いれが深い
犬山駅から木曽川沿いを城を眺めながら徒歩で訪れた時の記憶が今でも鮮明に残っている



最近では緩やかな坂も体重過多と運動不足により辛くなってきている



天文6年(1537年)、織田信長の叔父、織田信康によって築城された
江戸時代に入り、元和3年(1617)尾張徳川家の重臣成瀬正成が拝領
このとき、現在の天守の姿ができたといわれている
以後、成瀬家が幕末まで城主を務めることになる



ここが入場受付になる
国宝犬山城を含むセット券を購入(760円)
犬山城+犬山市文化史料館(城とまちミュージアム+IMASEN 犬山からくりミュージアム)+どんでん館
犬山城+日本庭園有楽苑(国宝茶室如庵)セット券(1,450円)もある



城の外観が記憶していたものと少し違っていた
前回訪れた時に修復中だったことを思い出した



新緑の季節ということもあり樹木の枝葉が多く、城全体を撮れる場所がなかった



城内に入ると狭くて急な階段が待っている
靴袋とカメラで両手が使えずいつも苦労する



鬼瓦






「上段の間」と「武者隠しの間」






最上部の望楼型天守からの眺め
年々高所恐怖症がひどくなっているような気がする
下にある橋を通って道の駅に向かったが、あの高さでも嫌な感じがする






天守の建つ本丸は木曽川に面する標高約85メートルの城山の山頂にある
天守の背後は木曽川まで落ちる断崖



成瀬家初代城主「成瀬正成(犬山藩初代藩主)」~



成瀬家12代城主「成瀬正俊」 周囲のものとは違う写真
写真家 篠山紀信氏が撮影したという
この写真を選んだのが13代城主「成瀬淳子(公益財団法人 犬山城白帝文庫 理事長)」だという



係りの人と話をしながら貴重な時間を過ごすことができた
足を踏み外すことなく下まで降りることができた



今回が最後と思って訪れたのだが次回はあるのだろうか



撮影 令和4年5月12日
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福知山城(京都府福知山市字内記)

2022年09月19日 | 
訪問日 令和4年6月4日

福知山城
福知山城は丹波国を平定した明智光秀によって築かれた城
(横山城を石垣づくりの城として改修)
江戸時代には福知山藩の居城



駐車場からはこの橋を通って城内に入る



織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた
豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った
丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした



天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が昭和61年(1986年)に復元された









石垣の転用石



五輪塔・宝篋印塔・石仏・石臼・灯籠などが利用されている









美しい石垣だがよく見ると「転用石」が使われていることが分かる









銅門(あかがねもん)番所









城の周辺を散策する(石垣を注視してしまう)






「野面積み」「乱石積み」と呼ばれる未加工の自然石が積み上げられている



この石段を上がり城内に向かう



鉄砲石






城内に入る
福知山市郷土資料館の施設となっている

「明智軍記」から抜粋
左ページ1行目
光秀が愛宕百韻で詠んだ「トキハ今 アメガ下知るル五月哉」



「山崎の戦い」



「光秀辞世の句」



木造明智光秀坐像(日下寛治 1959年作 )



「絵本豊富勲功記」より抜粋
「内助の功の図」



「信長嫌て光秀を打擲する図」
快川紹喜が燃え盛る三門の上で「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と喝破したことに感銘を受け恵林寺を訪れたことがある



信長が光秀を打擲する場面との結びつきを思い出すことができた



「三宅藤兵衛 光秀が生害を止める図」







天守閣で将棋の「竜王戦」の対局が行われた






将棋界も顔ぶれが変わり、藤井聡太へ



天守閣からの眺望






豊磐井(とよいわいのい)









いつもは北海道に帰るために舞鶴港へ向かう通過点であったが立ち寄ることができてよかった



撮影日 令和4年6月4日
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竹田城(兵庫県朝来市和田山町竹田)

2022年09月16日 | 
訪問日 令和4年6月4日

竹田城(別名:虎臥城)
平成25年11月に一度訪れたことがある
GoogleのCMで竹田城跡が取り上げられることにより、観光客が約60万人に激増した時期である
当時書いたブログの一部だが
朝の7時半頃には竹田城へと続く道にたどりついたが、車が渋滞していてというよりまったく動かない
Uターンできる場所もなく、反対車線に入り強引に引き返した

車中泊した道の駅から近かったこともあり、現在はどのような状況なのか確認したくて立ち寄った



駅内にある観光課の女性に話しを聞き、立雲峡(城の南東)を目指すことにした
以前は狭い砂利道の山道で危険回避のためタクシーを利用した場所である
現在は舗装され道幅も広く快適に走れるようになっている

環境整備協力金300円を納め山道を歩く



運動不足で直ぐ呼吸が苦しくなる
すると、休息するのにふさわしい岩が現れる



「立雲峡」には3つの展望台がある



第3展望台は下から眺める場所にある(写真右下に町並み)






第2展望台は目線と同じ高さで



単調なので木の枝を入れてみた



第1展望台は見下ろす場所にありここから15分ほど上る
迷ったが15mほど歩いたところで行くのを止めた



戻った場所の駐車場に素晴らしい写真があったので撮して気分を味わった
雲海に浮かぶ城跡を眺める事も出来る条件は
 日本海に高気圧の中心があり、よく晴れている
 朝方と日中の気温の差が大きい
 風が無い、または弱い
 但馬南部地方の濃霧注意報が参考になる




平成25年(2013年)に訪れた時の写真である
この日は雨模様で雲が多く発生していた
タクシーの運転手に「天空の城」が撮れるスポットに案内を頼んだ






車で行ける場所は竹田城と同じ高さの場所で、その運転手は写真の撮れる場所まで案内してくれた



その場所から望遠レンズで撮ったものだが雲が多く何も見えない



とりあえず「ここに来た」という証拠に撮ってみた
運転手の話では写真を撮る人たちは前日の夜から陣取っているという




撮影日 令和4年6月4日(平成25年11月16日)
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姫路城(兵庫県姫路市本町)

2022年09月15日 | 
訪問日 令和4年6月3日

世界遺産 姫路城(別名:白鷺城)
この日の朝には予定していなかったが急遽変更し姫路城を選択した
朝にタイヤがバーストしてホイールにも傷が入り応急処置はしてもらったが不安があったので人の多い場所を選んだ






2年前に5つある国宝の城廻りを終えたが、最後が姫路城だった
国宝に指定された古い順だと、姫路城→松本城→彦根城→犬山城→松江城となる
日本最古の天守は丸岡城。日本三大名城となると、名古屋城・熊本城・姫路城のようだ



池田輝政が築いた姫 路城は、全体がらせん式の縄張りになっていて、内曲輪、中曲輪、外曲輪に分けられている
その面積は約233㌶。甲子園球場の約60倍の広さを持つ



右側が本丸で



左側が西の丸



撮影場所を探して歩いていると、多くの小学生が絵を描いている場所があった



子供達の感性は鋭い、その場所から撮ってみた



有料場所に入城する
要所要所にガイドがいるが外国人だった
これまでも寺院で外国人から説明を受けたことがあるが不思議な感覚だ



前半は石垣を中心に












「姥が石」という伝説が姫路城に残っている
羽柴秀吉が3層の天守を持つ姫路城を築いたとき、 石垣の石が集まらず 困っていた



秀吉に、城下で焼きもちを売る老婆が、店にあった古い石臼を「せめてこれでもお役にたてれば」と献上
この話がたちまち城下の評判になり、人々が競って石を寄進したという



城内では各階に案内板があるが、ガイドに話しを聞く方が楽しい



「東大柱」
姫路城大天守の東西の心柱は、築城当時は東が樅(もみ)の1本材、西は3階床上部分で2本継ぎされていた



多くの城の階段は狭くて急だが、姫路城は比較的楽だ
この上りの階段は築城当時のもので、下りは昭和の時代に設置されたもの



ガイドから案内された普段はあまり注視しない階段の裏話し
この手すりの部分だが高度な匠の技術が使われているという
釘を使わずに造られている(匠の技)
よく見ると確かに凄い木組みになっている



最上階にある神社
「刑部神社」は姫路城が姫山に築かれる以前より、姫山にあった「小刑部宮」という
地元の人たちの信仰の対象となっていた地主神を祀ったもの



額には「刑部大神(おさかべおおかみ)」
火災・災害などの災いの神として崇められている



最上階のガイドは若い男性で普段通り過ぎる場所に案内してくれた
この写真も何かあったのだが忘れた(金具がハート型に抜かれていることだったか)



木に穴が空いた時など、埋木という技術で修復するがここにも匠の技が……



この星形が一番高度な技術だという



これは男性器だが、どの時代にも洒落た男がいるものだ
各所に花などもあり探すと楽しいものだ



鯱も間近で見ることができる
遠くから観ると真っ白な城だが実際は灰色部分も多く、白の漆喰部分だけが見えているようだ



この場所にあるベンチで休んでいると老齢の女性から写真を頼まれた
千葉県から孫の運動会を見に来たという
話しを聞くと亡くなった姉の家の近くに住んでいるということがわかり話しが盛り上がった



撮影日 令和4年6月3日
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