今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町大字川上1)

2023年07月31日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月23日

與止日女神社(よどひめじんじゃ)
創建は、欽明天皇25年(564年)
肥前国一宮
「淀姫神社」とも表記され、別称として「河上神社」

三の鳥居(佐賀市指定文化財)
佐賀初代藩主 鍋島勝茂公が慶長13年(1608年)に寄進した鳥居
柱や貫、笠木が三本継ぎになっていて、柱の下部が太くなっている形状は「肥前鳥居」の特徴を示している



與止日女神社の楠(クスノキ)
樹齢1400年 



樹高20m 幹回り7.2m 枝張り22m



河上神社金精さん






手水舎



龍の彫刻の口から水が出ている



與止日女神社略記



狛犬1






狛犬2






拝殿



拝殿内に入ることができるとの案内があった
過去を振り返ってみてもこのようなことは珍しく貴重だ



副島種臣公揮毫扁額「火国鎮守」



祭神:與止日女命(よどひめのみこと)
神功皇后の妹という。また一説に、豊玉姫であるとも伝える



拝殿内部



三十六歌仙絵札額
平安時代の和歌の名人三十六歌仙の人物画に代表的な和歌1首ずつを書き込んだ絵札






天井絵馬
祭神の與止日女命は一節によると豊玉姫ともいわれ
豊玉姫と関係ある「山幸彦海幸彦縁起絵巻」と境内社の天満社にちなむ「菅原道真公絵巻」の2巻から構成された250枚からなっている



元々、江戸時代後期に奉納されていた三十六歌仙絵札が老朽化していたため、新たに描きなおし2015年(平成27年)に奉納された






奉納額









拝殿内から



佐賀県を中心とする北九州地方には、與止日女神(淀姫神)を祀る神社が多数あり、そのうち当社を含めた6社が嘉瀬川流域にある



本殿
延長5年(927年)の『延喜式』神名帳では肥前国佐嘉郡に「與止日女神社」と記載され、式内社に列した
弘長元年(1260年)に最高位の正一位の神階を授けられた



応保年間(1161年~1163年)には肥前国一の宮になる
(千栗八幡宮も一宮を称している)



西門(佐賀県指定文化財)
本殿西北方に建つ四脚門
元亀4年(1573)年の建立









大楠の由来






境内社 與止日女天満宮






菅原道真像



社殿全景



撮影 令和5年5月23日
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戒壇院(福岡県太宰府市観世音寺5-6-1)

2023年07月30日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月22日

観世音寺を訪れたときに金堂をずっと戒壇院だと思い発信してきた
金堂の奥に戒壇院があり今回初めて訪れた

戒壇院
奈良時代において、出家者が正式の僧尼となるために必要な戒律を授けるために設置された施設
筑紫野の戒壇は天平宝字5年(761年)聖武天皇勅願により観音寺境内に設置された
「筑紫戒壇院」「西戒壇」とも称される



西戒壇として、中央戒壇(奈良の東大寺)・東戒壇(栃木の下野薬師寺)とともに「天下三戒壇」の1つである
元禄16年(1703年)福岡藩主 黒田光之の藩命により博多禅宗、四ヶ寺(聖福寺、崇福寺、承天寺、妙楽寺)の管理下に置かれ観世音寺から独立
明治6年(1873年)臨済宗妙心寺派 博多 聖福寺の末寺となった



戒壇院の菩提樹(太宰府市指定天然記念物)



境内の石仏



地蔵菩薩
地蔵菩薩は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊
釈尊が入滅してから弥勒菩薩が成仏するまでの無仏時代の衆生を救済することを釈迦から委ねられたとされる






鐘楼・梵鐘(福岡県指定文化財)






山門(東門)



天平勝宝5年(753年)12月20日に唐僧 鑑真は仏舎利を携え薩摩坊津で来日に成功した
同年12月26日に太宰府を訪れこの戒壇院の地で初の授戒を行った
開山は鑑真であり、戒壇院は現在も奈良時代以来同じ場所にあるとされている



山門東門土塀(歴史的風致形成建造物)



歴史的風致形成建造物とは
歴史的風致を形成し、その維持向上のために保全すべき建造物として、市町村長が指定している






本堂(福岡県指定文化財)



西海道唯一の戒壇として興隆を続けるも、中世に至って衰退を重ねた
現在の本堂は延宝8年(1680年)、藩主黒田光之の命により豪商、天王寺の了夢再建のもの





額には「西戒壇」



額には「戒壇院」



鑑真は754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行なった。これが最初の戒壇である
その後、東大寺に戒壇院を建立し、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国の薬師寺に戒壇を築いた(天下の三戒壇)



本堂内の戒壇には天竺(インド)、唐(中国)、大和(奈良)三国の土が納められているとされる



本尊:木造盧舎那仏坐像(重要文化財)
脇仏:文殊菩薩、弥勒菩薩(太宰府市指定文化財)



木造盧舎那仏坐像(重要文化財)



供養塔と宝篋印塔



鑑真和上供養塔(右)と変形宝篋印塔(左)



五重塔









撮影 令和5年5月22日
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清水山 観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺五丁目6番1号)

2023年07月29日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月22日

清水山 観世音寺
天台宗の寺院 
天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願した
発願から約80年も経った天平18年(746年)に完成した

講堂(福岡県指定文化財)
観世音寺は空海ゆかりの寺でもある
大同元年(806年)年8月に寧波から出航した空海は同年10月に九州に着き、観世音寺に落ち着いた
空海は、20年の留学の期間をわずか2年ほどで帰国したことで入京の許可が得られなかった



先に帰国していた最澄は太政官に送られた空海の請来目録を見て驚く
真言密教のことでは最澄が請来したものと大きな隔りがあるため最澄はそれを書写して手許に置いた
空海の請来したものが貴重と認識され始め、3年後に入京を許され、高雄山の神護寺に住むこととなった



その後天平宝字5年(761年)鑑真によって「戒壇院」が設けられた
僧になる者が受戒をするためにわざわざ都へ出向かずとも、観世音寺で受戒ができた
*元禄16年(1703年)に戒壇院は観世音寺から独立した



平安時代以降の観世音寺は、たび重なる火災や風害によって、創建当時の堂宇や仏像をことごとく失った
現在の講堂(本堂)は、元禄元年(1688年)再建
入母屋造瓦葺き二重屋根の仏堂



本尊:聖観音坐像(重要文化財)<宝蔵に安置>
堂内には金堂にあった聖観音立像を安置する



碾磑(重要美術品)
重要美術品は重要文化財に指定されるほどではないものの貴重な文化財



奈良時代のものと伝承する石臼(碾磑)
日本最古と言われており、一段で400Kgの重さがある



木槵樹(もくげんじゅ)



その種子で数珠を作り、百万遍の念仏を唱えると極楽往生できるというのが、謡曲『道明寺』に謡われている



金堂(福岡県指定文化財)
康和4年(1102年)に大風で倒壊
その後復旧したが、康治2年(1143年)の火災で再度焼失
寛永7年(1630年)の暴風雨で、当時唯一残っていた金堂が倒壊し、観世音寺は廃寺同然の状況に追い込まれた



寛永8年(1631年)藩主黒田家や博多の豪商である天王寺屋浦了夢らによって復興された



平安時代後期以来、東大寺の末寺であったが、明治時代以降は天台宗の寺院となっている



梵鐘(国宝)
重要文化財として貴重な仏像は数多くあるが、国宝は梵鐘だけである



現存する梵鐘は、正確な鋳造年次は不明ながら、「戊戌年」(698年)の銘がある京都・妙心寺の梵鐘と同一の木型によって鋳造された兄弟鐘とみなされる



初めてこの場所に訪れた時、国宝の梵鐘が軟弱な金網と数百円の南京錠で護られていることに驚いたものだ
さて、その梵鐘だが「九州国立博物館」で公開しているとの案内があった



宝蔵
拝観料:500円
18体の重要文化財の仏像が安置され、その大きさにも圧倒される
十数年前、地元のタクシーに乗った時に歴史的には天満宮より価値があると運転手が話してくれたことを思い出す



撮影 令和5年5月22日
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太宰府天満宮(福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号)

2023年07月28日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月22日

太宰府天満宮
駐車場から天満宮への参道
予想通りの観光客の多さ、カメラを大きく出た腹の上に固定し歩きながら撮る



社号標には「太宰府天満宮」と刻まれている



今回で3回目の参拝になるが個人で訪れたのは初めてである
前回は退職の年で職場の同僚と訪れた。それから10年以上も経つ



記憶が正しければ、並んでいる先には有名な……



「御神牛」があり、撫でられるのを待っている



菅原道真は承和12年(845年)の乙丑(きのとうし)に生まれた
大宰府の地で亡くなった道真の遺骸を牽いていた牛が、あるところで伏して動かなくなった
その場所に門弟の味酒安行が墓所を造営したことが、御本殿の創建につながった
境内に奉納されている11体の御神牛像のすべてが臥牛であるのは、これに由来する



石造鳥居
不確かではあるが「福岡県指定文化財」



狛犬






心字池と太鼓橋



ここでしばらく待つと絵になるカップルが現れてくれた



心字池という名前は、漢字の「心」を象ったことに由来している



心字池に架かる三つの橋は太鼓橋と呼ばれ、それぞれ「過去・現在・未来」という仏教思想に基づく三世一念を表す






末社 今王社



それにしてもこの参拝者の数には驚く



着物を着た外国人カップル



麒麟と鷽(福岡県指定文化財)












蘇峰詩碑



(文の意味)
菅原家から、道真公という人物が出て、右大臣に抜擢された。
宇多上皇や醍醐天皇の御厚情によるもので、そのご恩に感謝して、身命を投げ打ってお勤めに励んだ。
このことが、思いがけず讒言され、無実の罪で、太宰権師(だざいのごんのそつ)におとされた。
その悲しみに心が痛むときは、いつも、ひまわりの花が太陽の方を向いて回るように、青空を仰ぎ、宇多上皇や醍醐天皇のお情けを思い出して慕った。
今でも、天満宮は、全国各地にあって拝まれているが、その天皇に対する純粋な誠の心は、いつの世までも、手本とすべきである。



末社 保食社



摂社 楓社



末社 人丸社



和魂漢才碑
「漢学に精通しつつも、日本精神を失うな」






手水舎



楼門
道真の曽孫、菅原輔正によって造営された
その後、幾度かの焼失があり、その度に再建され、戦国時代には石田三成の寄進もあった
現在の楼門は、大正3年(1914年)に再建されたもの



表と裏で形の異なる珍しい門
太鼓橋側から見ると屋根が2層、御本殿側から見ると1層という珍しい形をしている



人のいない場所を選んで移動する
おみくじの色が黄緑






仮殿
約3年間という御本殿大改修期間に限り、御神霊が御本殿から遷る場所として御本殿前に建てられた
周囲の天神の杜との調和を重んじ、屋根に緑を湛えるという穏やかで美しいデザイン



神事やご祈願、参拝の場所は仮殿となる



最初、違和感があったが、期間限定の仮殿だけに貴重な時期に訪れた
屋根の上の木々は改修後には天神の杜へと移植するという



御本殿(重要文化財)
延喜5年(905年)道真公の墓所に門弟の味酒安行が廟を建てたことが、太宰府天満宮の始まり



延喜19年(919年)に醍醐天皇の勅命を受け最初の社殿が造営された



現在の御本殿は天正19年(1591年)に筑前国主 小早川隆景によって造営されたもの
多くの神社とは異なり、御本殿の前に幣殿や拝殿を設けていない



現在、令和9年に迎える「菅原道真公1125年太宰府天満宮式年大祭」記念事業の一つとして、124年ぶりの大改修を行っている



御神木「飛梅」



人気の場所だけに多くの外国人観光客から写真を頼まれた






ここからは今回初めて訪れた場所になる

厄晴れひょうたん






樹齢千年の大樟



包丁塚



野見宿禰公碑



筆塚



絵馬掛け



摂社末社



宝物殿



絵馬堂
九州に現存する最大最古の絵馬堂
文化10年(1813年)奥村玉蘭の発願によって建てられた



様々な時代の人々の願いが込められた絵馬がご奉納されている









太鼓橋






好物の「梅ヶ枝餅」を購入
夕食時に食べたが3個が限界であった、体は太いが食が細くなった



撮影 令和5年5月22日
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筥崎宮(福岡県福岡市東区箱崎1丁目22番地1号)

2023年07月27日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月22日

筥崎宮
筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられる
「はこ」の字は円筒状の容器を意味する「筥」が正字である
筥崎宮の所在地・駅名など地名「はこざき」は筥崎宮の「筥崎」では筥崎八幡神に対して畏れ多いとして「箱崎」と表記している



石造一ノ鳥居(重要文化財)
本宮の鳥居は、御本殿近くより数えて一之鳥居、二之鳥居と呼ばれている
慶長14年(1609年)藩主 黒田長政が建立したとその銘にある



鳥居の柱は三段に切れ、下肥りに台石に続いている
笠木と島木は1つの石材で造られている
貫と笠木の長さが同じ異色の鳥居であり、「筥崎鳥居」と呼ばれている



鳥居の額には「八幡宮」
筥崎宮は筥崎八幡宮とも称している






狛犬






福岡市内は交通量も多く駐車場が完備されている神社と云うことで選んだため予備知識はない
案内板により祭神や歴史的背景等を頭に入れる






手水舎



お潮井






湧出石



「触れると運が湧き出る」と云うので手を伸ばしたが届かなかった(残念)



絵馬殿



奉納額









亀山上皇尊像奉安殿



亀山上皇御尊像(福岡県指定文化財)
鎌倉時代中期の元寇(蒙古襲来)に際し
「我が身を以て国難にかわらん」と敵国降伏の祈願をし、博多の街の安寧を祈願された亀山上皇を顕彰し、明治37年(1904)完成した
彫刻家・山崎朝雲作で、その大きさは約6m



御神木(筥松)






楼門(重要文化財)



文禄3年(1594年)筑前領主 小早川隆景が建立



「敵国降伏」と掲げていることから「伏敵門」とも呼ばれている



元寇の際に亀山上皇が「敵国降伏」を祈願し、神門に「敵国降伏」の扁額が掲げられた
以来、海上交通・海外防護の神として信仰されている



本殿・拝殿(重要文化財)
醍醐天皇の延喜21年(921年)大宰少弐 藤原真材朝臣が神のお告げにより神殿を造営
長徳元年(995年)大宰大弐 藤原有国が回廊を造営したと伝えられている



その後、元寇の戦火、兵乱などにより幾度かの興廃があった
現存する本殿、拝殿は天文15年(1546年)大宰大弐 大内義隆が建立したもの



拝殿と本殿は拝観することはできない
写真を撮ろうとすると「撮影禁止」の札



西末社












こちらから見えるのは本殿の屋根なのか



東末社












「敵国降伏」の扁額に最初は驚いたが、当時、モンゴル帝国に勝利したのは日本だけで世界を驚嘆させた
当時の日本人の気概を感じた言葉に思えてきた






撮影 令和5年5月22日
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宮地嶽神社 その2(福岡県福津市宮司元町7-1)

2023年07月26日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月22日

宮地嶽神社 「奥の宮八社巡り」
境内に設置されていた案内板
初めて訪れる神社ということもあり巡ることにした
「一社一社をお参りすれば大願がかなう」という



鳥居
「奥の宮八社巡り」の入口となる



中央の額には「奥之宮不動社」



参道にはこのような案内板がある



一番社・七福神社
<福を運ぶ七福神>






七福・大黒堂
奥に巫女の姿が見えたので近づくと、お堂の開扉と清掃を行っていた



堂内には、大黒天を中心に大きさの異なる七福神が安置していた






二番社・稲荷神社
<食物とお米の方策を守る神様>






三番社・不動神社
<災いや厄を除く神社>



この神社だけ他とは異なり石室の奥に不動尊が祀られ、社殿内は撮影禁止となっている



神官に尋ねてみると横穴式石室古墳の中あるという
少し離れて社殿を見るとよく理解できた



この古墳は地下の正倉院と呼ばれ、金の鐙・冠・馬具類・大太刀等数多くの埋蔵物が発掘され、20点が国宝に指定を受けている



「奥の宮八社巡り」の入口鳥居の額にあった「奥之宮不動社」はこの神社を指している



話しを聞くまではこんもりした森だと思っていた
実は古墳で埋蔵物が国宝と知り、確認のため裏に回ってみた(確かに古墳だ)
女性が合掌しずっと見つめている姿が印象に残っている



四番社・万地蔵尊
<子供達の守り神>






五番社・恋の宮
<女性の心身内外をお守りする神様>






淡島神社と濡髪大明神の二柱を併せ祀っている






六番社・三宝荒神
<かまど、火除けの神様>









七番社・水神社
<水がコンコンと湧き続ける龍神様>
案内板は見た記憶があるのだが、何故か写真が残っていなかった

八番社・薬師神社
<あらゆる病難から救う神様>









紫陽花
賑やかな女性の声が聞こえてきたので自然と足が向いた
言語から韓国からの観光客のようだ



奥之宮の稲荷神社から不動神社にかけて、十二単、深山八重ムラサキ、墨田の花火などの品種を400株ほど植栽している









自宅に戻り調べてみるとこの神社には3つの日本一があるようだ
1 大注連縄 2 大太鼓 3 大鈴
大注連縄は事前に知っていたが「大太鼓・大鈴」は見逃してしまった



車での九州旅は今回が最後になると思っていたが悔いが残る



2月と10月の年二回しか見られない奇跡の絶景も見てみたい



撮影 令和5年5月22日
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宮地嶽神社 その1(福岡県福津市宮司元町7-1)

2023年07月25日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月22日

宮地嶽神社
宮地嶽神社の総本社
年間参拝者数220万人を数え初詣参拝者(100万人以上)は太宰府天満宮に次ぐ2番目と九州を代表する神社の一つ

三之鳥居
初めて訪れる神社で600台規模の第1駐車場にも驚いたが年末年始には第6駐車場まで稼働するという
この鳥居は駐車場から歩き2つ目の鳥居になる
一之鳥居というのは約1キロ先にある宮地浜にあるという



男坂とよばれる参道石段
2016年「嵐」のテレビCM「光の道」の舞台になり、宮地嶽神社の名前は全国に知れ渡ることになったらしい



神馬1



六百俵の碑









狛犬1






歴史を感じる石灯籠



五之鳥居
「光の道」最後の鳥居となり階段はこの先で終わる



階段上から眺めていると何か仕掛けがあると直感した



2月下旬、10月下旬の年に2度、男坂の石段から宮地浜まで真っ直ぐに伸びる参道の延長線上に夕日が沈み、「光の道」と呼ばれている
この時期に「夕日のまつり」が開催され、参道の階段は観覧席として使用される為、閉鎖される



その様子が大きな写真の看板で知ることができる
参道の階段の上段は、有料で事前予約制、中段以下は無料で整理券配布により観覧できる



神馬2



神牛



先に進むと門と鳥居が、社殿の姿がまだ見えてこない



神馬3



狛犬2






鳥居の奥に楼門が見えてきた



うぶすな石
手水舎の横にたくさんの産土石(ウブスナイシ)が置かれている



宮地嶽神社巫女日記によると
この石は安産祈願に使われていた
赤ちゃんが無事に生まれます様にそして健康に成長しますようにと願いを掛け持ち帰り
無事に生まれた暁には、その石を神社に返し、再び次の方が持ち帰る
安産祈願の運の良い石として母親たちの願いを叶えてきたという



手水舎
このような手水舎は寺社巡りをして初めて見た
水が透明の板の上から流れ、下には花(実に美しい)



狛犬3






楼門



額には「宮地嶽神社」



楼門の先には拝殿が見える



拝殿



拝殿前の空間は咲いてはいなかったが花で一杯になっている



社伝によると、創建は約1700年前にさかのぼる
息長足比売命(神功皇后)が、渡韓のおりに宮地岳の頂に祭壇を設け天神地祇を祀り、祈願し船出したのが始まりと伝わる



拝殿内の額には「宮地嶽三柱大神(みやじだけみはしらおおかみ)」
祭神:「息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)」別名「神功皇后」
    随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神」として祀っている



神功皇后とは、第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母
 仲哀天皇2年、1月に立后。天皇の九州熊襲征伐に随伴する
 仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する
 同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させる(三韓征伐)
 同年12月、天皇の遺児である誉田別尊(応神天皇)を出産






社務所



日本一の大注連縄
この神社を訪れるきっかけとなったのは日本一だという大注連縄
ここを訪れる数日前に出雲大社を参拝し大注連縄を見ているだけに興味が湧いた



感覚的には出雲大社の方が大きく仕上がりも丁寧に感じるのだが……



本殿
奥之宮八社巡りを考えなければこの姿を観ることはなかった



宮地嶽古墳からの出土品で九州北部王朝の王の墓ではないかといわれていることもあり、本殿御遷座80年の節目に黄金の屋根に仕上げた



次回に続く

撮影 令和5年5月22日
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宗像大社 辺津宮(福岡県宗像市田島2331)

2023年07月24日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月21日

宗像大社(世界遺産)
宗像大社は、沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮(総社)の三社の総称
現在では「辺津宮」のみを指す場合も多い
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして世界文化遺産登録されている

鳥居
4・5年前に一度訪れているが、参拝者の数はその頃と同じように思えた



社号標には「官幣大社宗像神社」と彫られている



宗像神社境内は国の史跡になっている



太鼓橋



鳥居から真っ直ぐ伸びた参道



祓舎



手水舎



柄杓がなく直接水を受ける



狛犬
文政7年(1824年)奉納
山鹿平十郎 作






神門
拝殿前には参拝者が並んで待っている



拝殿(重要文化財)
天正18年(1590年)、時の筑前領主・小早川隆景が再建
切妻妻入造で屋根は柿葺



額には「宗像宮」



拝殿内部






案内板



本殿(重要文化財)
辺津宮 祭神:市杵島姫神(イチキシマヒメ)



天照大神が素盞鳴尊の剣を噛み砕き、息を吹きかけると宗像三女神が誕生した
沖津宮 : < 第三宮>田心姫神
中津宮 : < 第二宮>湍津姫神
辺津宮 : < 第一宮>市杵島姫神



宗像氏貞の建立で、大島に在する中津宮の本殿を参考したといわれる



摂社・末社



江戸時代初期の建立
神郡宗像にあった神社群を時の福岡藩主、黒田光之がまとめ寄進したもの



本殿の周辺には大小のお社が24社あり、121の神様が祀られている



御神木



樹齢550年の楢の木



枝は横に伸び、その先には参拝者がガイドの話を聞いている



さらにその枝は本殿の方へ向かっている



第二宮(ていにぐう)
沖津宮分社 祭神:田心姫神(タゴリヒメ)






第三宮(ていさんぐう)
中津宮分社 祭神:湍津姫神(タギツヒメ)









本殿周辺に戻る






社務所



拝殿前には参拝者の列が続いている



太鼓橋横にある池の鯉



第二次世界大戦後、荒廃していた境内は、宗像大社を崇敬していた実業家、出光佐三(小説『海賊とよばれた男』のモデル)の寄進により整備された
本人が畏れ多いと辞退したため境内にその名を示す痕跡は永く無かったが、現在は神宝館などに佐三を顕彰する展示が為されている
大鳥居は、麻生太吉の寄進(麻生太郎の曾祖父)



撮影 令和5年5月21日
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屏風山 鎮国寺(福岡県宗像市吉田966)

2023年07月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月21日

屏風山 鎮国寺
宗派は真言宗御室派で別格本山
創建は大同元年(806年) 開山は空海(弘法大師)
昔は宗像大社の神宮寺であった

仁王像
九州に入ると(感覚的に)仁王像は石造りで野ざらしが多い






境内






このような可愛い置物もある



手水舎



文殊堂



堂内の仏像






ぼけ封じ いきいき観音



地蔵堂内部









大師堂



木食上人座像
木喰(もくじき)とは、米殻を断ち、木の実などを食べて修行することをいい、そのような僧を木喰上人と呼ぶ



鎮国寺の子院「華蔵院」の清算法師



貞享元年(1684年)に入定



弘法大師
空海が遣唐使船で唐に渡航中に大暴風雨に遭遇した際に、海の守護神・宗像三神などに祈誓を込めたところ、波間に不動明王が現れた
右手に持っていた利剣で波を左右に振り払い、暴風雨を静め、空海は無事に入唐することが出来たという



その後、長安(現在の西安)に於いて青龍寺の恵果和尚より真言の秘法を授かる
大同元年(806年)に博多に到着し帰国すると、まず宗像大社に礼参した



奥の院岩窟において修法を始めたところ、「この地こそは鎮護国家の根本道場たるべき霊地」とのお告げがあった
一宇を建立し、「屏風山鎮國寺」と号した



薬師如来像
鎮国寺の子院「華蔵院」の本尊









本堂<五仏堂>(宗像市指定文化財)
慶安3年(1650年)藩主 黒田忠之により再建






五仏(福岡県指定文化財)
中央の三仏(左から薬師如来・大日如来・釈迦如来)は空海作と伝わる



おみくじ掛け



境内には多様な花木が植えられており「花の寺」とも呼ばれている
その花に蝶が蜜を吸いにやって来る









護摩堂



護摩堂内部






中央の厨子に4月28日のみ開帳される、秘仏「身代り不動明王立像(重要文化財)」






シャボン玉が境内を舞う



武丸正助像
勤勉実直の人で両親をいたわり、上を敬い、近隣と親しみ、生類にまであわれみをかける
その篤行は広く余に知られた



下駄と草履は雨を予想する父と晴れると思う母の言い分を聞き、片方ずつはいた姿



撮影 令和5年5月21日
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日清講和記念館(山口県下関市阿弥陀寺町4-3)

2023年07月18日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日

日清講和記念館(国登録有形文化財)
明治維新後、日本は朝鮮半島の権益を巡って清国(中国)と対立を深め、明治27年(1894年)8月、甲午農民戦争(東学党)の乱をきっかけに開戦した
日本軍が平壌、黄海で勝利し、遼東半島を制圧した戦況を受け、清国は講和を打診
会議の開催地は、長崎、広島などが候補に挙がったが、伊藤博文が「下関の春帆楼で」と発表した

伊藤博文・陸奥宗光胸像
下関の料亭春帆楼で日清講和会議が開催された
この講和会議には日本全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章をはじめ両国の代表11名が出席した



日本側は内閣総理大臣 伊藤博文と外務大臣 陸奥宗光の両名を全権弁理大臣に任じた



日清講和記念館(国登録有形文化財)
明治28年(1895年)春、日清講和会議と、下関条約と呼ばれる講和条約の歴史的意義を後世に伝えるため、昭和12年(1937年)6月、講和会議の舞台となった春帆楼の隣接地に開館した
会議で使用された調度品や貴重な資料などを展示している



国の登録有形文化財で無料で入館できる



会場となった「春帆楼(しゅんぱんろう)」の屋号は伊藤博文が名付けた
春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様からとった



伊藤博文と李鴻章の写真
館内展示物はガラスケースにより保護されているため、太めの人物が亡霊のように写ってしまう



講和会議が開かれた春帆楼の二階大広間を再現



会議の様子



清国 李鴻章の座席



李鴻章の甥で養子の李経方と馬建忠の座席



会議期間中に、李鴻章が講和に反対する一日本人青年によりピストルで近距離から狙撃される事件が起こった
日本側は、あらゆる手段を講じて国際世論からの非難をかわそうと尽力したが、李鴻章もまたしたたかで、自身に起こった災厄を清国にとっての利益に転換させようと図った



陸奥外相は、即座に手を打ち、清がいま最も望んでいるはずの即時停戦を日本側のリーダーシップによっていち速く実現すべきことを伊藤に訴えた
伊藤はこれを受けて、反対する日本軍部を数日間でまとめ、かなり早い段階でこれを清に伝え、李鴻章狙撃事件のダメージを最小限にとどめることとした



このとき調印された講和条約は下関条約と呼ばれ、清国は日本に朝鮮半島の独立承認・領土の割譲・賠償金の支払い等を約束した



史跡 春帆楼 日清講和談判場
江戸時代の末、豊中中津(大分県)奥平藩の御殿医だった蘭医・藤野玄洋は、御殿医を辞し、下関の阿弥陀寺町(現在地)で医院を開いた
専門は眼科だったが、長期療養患者のために薬湯風呂や娯楽休憩棟を造り、一献を所望する患者には妻・みちが手料理を供した
明治10年(1877年)玄洋は「神仏分離令」によって廃寺となった阿弥陀寺の方丈跡を買い取り、新たに「月波楼医院」を開業
春帆楼は玄洋没後の明治14~15年頃、伊藤博文の勧めによってみちがこの医院を改装し、割烹旅館を開いたことに始まる



明治20年(1887年)の暮れ、伊藤博文が春帆楼に宿泊した折、海は大時化で漁がなく、困り果てたみちは打ち首覚悟で禁制だったふぐを御膳に出した
法律にも「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていたが、禁令は表向きで下関の庶民は昔からふぐを食していた
若き日、高杉晋作らと食べてその味を知っていた伊藤博文は、初めてのような顔をして「こりゃあ美味い」と賞賛
翌明治21年(1888年)には、当時の山口県令(知事)原保太郎に命じて禁を解かせ、春帆楼はふぐ料理公許第一号として広く知られるようになった



撮影 令和5年5月20日
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赤間神宮(山口県下関市阿弥陀寺町4-1)

2023年07月17日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月20日

赤間神宮
初めて訪れたときには歴史的背景も理解していなかった
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に興味を持ち、この時代の本なども購入しての再訪である



水天門及び回廊(国登録有形文化財)
壇ノ浦を望む竜宮造の楼門
屋根の大棟両端に鴟尾(しび)を飾り、門の両脇に回廊が延びる
「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることによる



由緒



太鼓楼






獅子



父獅子



母獅子



外拝殿



外拝殿側から水天門を観る
水天門の奥の海は関門海峡(壇ノ浦)である



勅額






内拝殿



貞観元年(859年)に阿弥陀寺として開かれた
文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水
建久2年(1191年)赤間関(下関)に、勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させた



明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称
明治8年(1875年)天皇社は赤間宮に改称
昭和15年(1940年)8月1日、赤間宮は赤間神宮に改称
第二次世界大戦により社殿を焼失し、昭和40年(1965年)4月に新社殿が竣工した



八咫鏡 奉鎮
天照大御神の「御神体」としての「八咫鏡」は伊勢神宮の内宮に奉安されている
赤間神宮には御神体として、壇之浦の戦いの際に安徳天皇とともにあった八咫鏡が安置されている
この八咫鏡は、岡山県の郷土史研究家・春名義雄により、昭和33年(1958年)に、同県作東町(現・美作市)で発見されたもの
発見された場所は「天皇谷」という地で、古くは天皇社が建てられていた
平家の家臣であった妹尾兼康の一族の者が、壇之浦の戦いの際に八咫鏡を海から拾い上げ、当地に落ち延びたためだと言われている






日本西門鎮守八幡宮









耳なし芳一堂



子供の頃読んだ本というのは記憶に残っているものだ
この像の前に立つと不気味な感覚が蘇ってくる






この芳一像は(防府市出身)押田政夫氏の作品で昭和32年に奉納された



平家一門之墓(七盛塚)



壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門(14名)の合祀墓(供養塔)
名前に「盛」字の付く者が多いことから「七盛塚」とも称する






耳なし芳一の伝説地としても殊に有名である






高浜虚子句碑



宝物殿
この笛は複製だがこの物語は有名で感動的だ
熊谷直実はその後、法然上人の弟子になり誕生寺を開山(岡山県久米郡久米南町)



安徳天皇像



安徳天皇阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)
安徳天皇は、第81代天皇
高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘の徳子
治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子
治承4年(1180年)2月21日に数え年3歳(満1歳2か月)で践祚し、4月22日に即位



寿永4年(1185年)4月、壇ノ浦の戦いで平家一門は滅亡に至る
この際に安徳天皇は入水し、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した



『平家物語』では二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける
二位尼は「この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる
「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた



雲間の中から青空も見えてきた



郵便ポストの上に「せきまる」が置かれている
フグやクジラをモチーフとした下関市のメインキャラクター



平家物語や吾妻鏡に目を通すだけでも社殿や平家一門の墓、阿弥陀寺陵の見方が変わってくるから面白い



駐車場から鳥居を眺める



下関市と北九州市門司区の間の関門海峡を跨ぐ関門橋(高速道路)
高所恐怖症に加え強風に煽られた恐怖体験から、今回も関門トンネルを利用する



撮影 令和5年5月20日
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角島大橋(山口県下関市本土 - 角島間)

2023年07月16日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月20日

角島大橋
若い頃から車の運転は好きだったが初めて角島大橋を走ったときには鳥肌が立った
北海道からは遠いが2年に一度は訪れている



平成5年(1993年)に着工し、平成12年(2000年)11月3日に開通した
全長1780m。完成後はその景観から山口県の新たな観光名所となっている



北長門海岸国定公園内に位置することから、橋脚の高さを抑え、周囲の景観に配慮した構造となっている



横断歩道を渡りながら



橋の両側の海は晴れた日には、エメラルドグリーンやコバルトブルーの美しい色をしている
今日は波もありサーファーの姿も見える



いつもならこの数キロ先にある角島灯台まで行くのだが、この後の予定もあり断念した



天気の良い日に訪れた時の動画



撮影 令和5年5月20日
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元乃隅神社(山口県長門市油谷津黄498)

2023年07月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月20日

元乃隅神社(もとのすみじんじゃ)
外国人観光客が日本に凄い神社があるとインスタで紹介し外国で話題になった神社である
そのことが日本でも紹介され人気となり、訪れてみたいと思っていた



その頃、地元の方からは渋滞で3~4時間はかかる、道が狭くUターンもできない
ハイエースでは離合困難であるなど云われ決断できないでいた
前日、道の駅の案内所で確認すると最近はそれほど混雑していないと話してくれた



曇天ではあったが土曜日、渋滞を避けるため早めに出発した
拍子抜けするほど順調で駐車場に着く



一般の人の滞在時間は平均30分程度だという



アメリカのCNNが平成27年(2015年)3月に発表した日本の最も美しい場所31選の一つとして選ばれた
外国人を含む観光客の参拝が急増したが、長い社名(旧称:元乃隅稲成神社)が外国人にわかりにくいという事もあり、
平成31年(2019年)1月に社名が元乃隅神社に改名された



旅番組などを見て感じるのだが、外国人は稲荷神社の鳥居の並ぶ姿が好きなようだ






鳥居の横にスペースがあったので立ち寄ると布で包まれている石仏のようなものがあった
その先は断崖と思われるが赤のスズランテープで注意を促しているのか



鳥居
昭和30年(1955年)地元の網元であった岡村斉の枕元に白狐が現れた
「吾をこの地に鎮祭せよ」というお告げがあり「元乃隅稲成神社」として建立された
宗教法人に属せず個人所有の神社である



額には社号の「元乃隅神社」



昭和62年(1987年)から10年かけて奉納された123基の朱色の鳥居






龍宮の潮吹



しばらく眺めていたが全く変化がなかった



案内所に分かりやすい写真があった






運が良ければこのような瞬間を見ることができる



周辺の景色









戻ることにする
最初はなだらかな坂だが



上に進むと階段になる



大鳥居



鳥居中央にある高さ5mのハートマークの賽銭箱
「日本一入れづらい」と云われている



訪れてみたいと思ってから数年経ったが念願が叶った



撮影 令和5年5月20日
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松陰神社・松下村塾(山口県萩市椿東1537)

2023年07月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月19日

松陰神社
明治維新の先覚者 吉田松陰を祀る

大鳥居
石柱の「松陰神社」は吉田松陰自筆の文字(松陰の書簡等から文字を抜き出したもの)
鳥居扁額の「松陰神社」は岸信介元首相により揮毫されたもの



表参道を進む



境内案内図



吉田松陰 歌碑
松陰が家族にあてた別れの手紙の中の短歌
親思ふ こころにまさる 親ごころ けふの音ずれ 何ときくらん



幼時の名字は杉。幼名は寅之助。吉田家に養子入り、大次郎に改める。通称は寅次郎



石碑 天皇陛下 皇后陛下 行幸啓(上皇陛下)



石碑 皇太子殿下 皇太子妃殿下(天皇陛下)






松下村塾(世界遺産)
天保13年(1842年)に松陰の叔父、玉木文之進が八畳一間の私塾を開き「松下村塾」と名付け、少年だった松陰も入門した
ついで松陰の外叔、久保五郎左衛門がその名を継承し、塾生の教育にあたった
長州藩の公立校である明倫館は武士身分の者しか入れなかった
対照的に松下村塾は身分の隔てなく塾生を受け入れた



安政4年(1857年)より、藩校明倫館の塾頭を務めていた吉田松陰が同塾を引き継いだ
著名な門下生である高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれた
この2人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称された



安政5年(1858年)、松陰が野山獄に再投獄され、また幕末動乱期に至って塾生の多くが地元を離れたため中絶した






吉田松陰が同塾で指導した短い時期の塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出した



吉田松陰幽囚ノ旧宅(世界遺産・史跡)



旧宅は、木造瓦葺き平屋建て214㎡の建物で、8畳3室、6畳3室、4畳、3畳7分、3畳半・3畳および2畳各1室ほか、板間・物置・土間を有する



松陰は、安政元年(1854年)3月27日に伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸伝馬町の牢に捕らえられ、ついで萩に送られ野山獄に入れられた
翌年に釈放となったが、父杉百合之助預けとなり、この実家である杉家に帰され謹慎生活を送り、読書と著述に専念した



幽囚室は東側にある3畳半の一室



松陰は家族からの薦めもあり幽囚室で孟子や武教全書などを講じた
次第に多くの若者が参加するようになり、やがて松陰は松下村塾を主宰するようになった



松陰神社



狛犬






拝殿



拝殿内部



本殿



勧学堂







松門神社









傘みくじ



運が開けるという



学びの道
道の左右には松陰語録



暗い夜道でも足もとを照らしてくれる






撮影 令和5年5月19日
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清瀧山 浄光院 萬福寺(島根県益田市東町25-33)

2023年07月13日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月19日

清瀧山 浄光院 萬福寺
応安7年(1374年)益田七尾城11代城主 益田兼見により建立
益田道場 浄光院 萬福寺と改め、益田氏の菩提寺とした

山門



額には寺号の「萬福寺」






本堂(重要文化財)
萬福寺の前身は「安福寺(天台宗)」といい平安時代に建立された
万寿3年(1026年)大津波のため流失
元応元年(1319年)遊行呑海上人が入寺された際、時宗の道場になった



応安7年(1374年)益田七尾城11代城主 益田兼見が現在の地に移築して「萬福寺」と改称した



室町時代前期(1374年)の建立
桁行七間、梁間七間、一重、寄棟造、桟瓦葺



案内板



雪舟像
文明11年(1479年)15代城主 益田兼堯(かねたか)が画聖雪舟を招き、石庭を造らせた



本堂額には山号の「清瀧山」



本堂内部に入る<拝観料:500円>



襖絵















慶応2年(1866年)第2次長州征伐・益田口戦争の際には幕府軍の陣営となった
軍略の天才「大村益次郎」が率いる長州藩1,000人の兵員で石州口を防衛し勝利
その時の鉄砲玉の跡が柱に残っている



兵火のために総門は焼失したが、本堂と庫裏は残った









欄間の彫刻









賓頭盧尊者



梵鐘



収蔵庫の仏像



弥陀三尊像(江戸時代)



阿弥陀如来像



勢至菩薩



観世音菩薩




普賢菩薩像(江戸時代)






青面(しょうめん)金剛像(江戸時代)



千手観音像(江戸時代)



持国天像(益田市有形文化財)平安時代



多聞天像(益田市有形文化財)平安時代



千手観音菩薩像(益田市有形文化財)平安時代






阿弥陀如来坐像(益田市有形文化財)鎌倉時代



庭園(国の史跡及び名勝)
須弥山式の庭園(雪舟作庭)



正面の心字池の向こうになだらかな築山と石組群が見える



殿様になった気分で部屋から鑑賞



境内に咲いていた花



本堂屋根









撮影 令和5年5月19日
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