今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

智恵子の生家・智恵子記念館(福島県二本松市油井字漆原町)

2020年03月26日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和元年11月6日
走行中「智恵子の生家」の案内板が突然目に入ってきた
「高村光太郎」との関係に興味をもっていたので立ち寄ることにした

智恵子の生家・智恵子記念館
明治19年(1886年) 福島県安達郡油井村字漆原の酒造業・斎藤今朝吉(後に長沼家に養子入り)とせんの二男六女の長女として生まれた
戸籍名は「チヱ」



長沼家は清酒「花霞」を醸造する酒造家で、使用人を多数抱えた資産家であった



明治の初期に建てられた生家、造り酒屋として新酒の醸成を伝える杉玉が下がっている



屋号は「米屋」、酒銘「花霞」



生家内に入る






「しろしき」 杜氏・酒男など男衆のたまり場



女衆の寝室



「帳場兼接客室」



「 酒林(さかばやし)」
酒屋の看板として、杉の葉を球形に束ねて軒先につるしたもの
「搾りを始めました」と新酒が出来たことを知らせる役割を果たしている。



「蓄音機」 智恵子は光太郎の影響を受けてか、ベートーヴェンの「田園」を好んで聞いていたという



「茶の間」



「奥座敷」






庭から生家を見る






二本松市智恵子記念館
生家の裏庭にある。当時の酒蔵をイメージしている



明治36年(1903年)福島高等女学校を総代として卒業して日本女子大学校へ進学
在学中に油絵に興味を持つようになった
卒業後は、女性洋画家の道を選び、太平洋画会研究所で絵画を学んだ



明治44年(1911年)、創刊された雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど、若き女性芸術家として人々に次第に注目されるようになっていった
柳八重の紹介で光太郎のアトリエで光太郎と出会った
光太郎との出会いは智恵子の心を揺り動かして絵画の創作を増進することとなった
その後結婚



長沼家の破産・一家離散、自身の絵画制作への閉塞感など心労が多く、昭和6年(1931年)8月に光太郎が取材旅行で留守中に統合失調症の最初の兆しが表れた
東京南品川のゼームス坂病院に入院。精神病には易しい手作業が有効だと聞いた光太郎は病室へ千代紙を持っていき、病室で紙絵の創作をするようになり、病床から千数百点の紙絵を生み出した



昭和13年(1938年)夏ごろから具合が悪化して10月5日、長らく冒されていた粟粒性肺結核のため死去
光太郎は智恵子が亡くなってから3年後の昭和16年(1941年)に、生前の智恵子を偲んで詩集「智恵子抄」を発表した
十和田湖にある 「乙女の像」は高村光太郎の最後の作品。モデルは愛妻「智恵子」



生家隣にあるお土産屋「戸田屋」に入店
笑顔で迎えられ、温かいお茶と甘い柿をご馳走になった
清酒「花霞」2本と詩集「智恵子抄」を購入。若女将が離れた駐車場まで送ってくれた
会津の人の親切は学生の時に初めて経験したが、今も変わっていないことに感動した

撮影 令和元年11月6日
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二本松城跡<霞ヶ城>(福島県二本松市郭内)

2020年03月25日 | 
訪問日 令和元年11月8日
予定していた2つの寺社が駐車場の関係でキャンセル
コンビニ駐車場で「最寄りの観光地」で検索すると200m以内に「霞ヶ城」がヒットした

史跡 二本松城跡<霞ヶ城>
二本松市街地の北に位置し、麓の居館と、標高345mの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城である
江戸時代は二本松藩主丹羽氏の居城となった



二本松少年隊群像<制作:橋本堅太郎>
戊辰戦争「二本松の戦いにおいて、藩の兵力は約1千人、それに対して薩摩・長州・土佐などの西軍は約7千人
徹底抗戦の末、慶応4・明治元年(1868年)7月、二本松城は炎上し、落城した









会津藩の「白虎隊」とは違って、二本松藩の場合は西軍が二本松城下に切迫する直前に、出陣を志願した13歳から17歳までの少年たちが緊急に各部隊へ配属されたため、正式な名称はなかった



戊辰戦没者の50回忌法要の際「二本松少年隊」と命名され、少年隊に対する公然的な顕彰が行われるきっかけとなった



城内案内板



現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、石垣と再建された箕輪門がある



石垣・箕輪門
昭和57年(1982年)箕輪門と附櫓が復元された
平成5年(1993年)から平成7年にかけて本丸の修復、復元工事がなされ、天守台や本丸石垣が整備された






毎年10月~11月に二本松菊人形展が開催されている



箕輪門から城内に入る






振り返るとこのようになっている



「二本松菊人形展」の入り口付近



このように沢山の菊で飾られている



花には興味の無い私でも綺麗だなあと思う









この辺りまでは無料だが、「菊人形展」からは有料スペースになる






これだけでも十分満足できたので戻ることにした



箕輪門のアカマツ(二本松市指定天然記念物)















撮影 令和元年11月8日
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安達太良神社(福島県本宮市本宮字舘越)

2020年03月24日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年11月8日
道の駅「はなわ」にて快晴の朝を迎える。コンビニが併設されていて便利な場所である
寒さが苦手で、朝夕の冷え込みが身体に堪えるようになってきた

安達太良神社
駐車場が狭いため車が枠の中に収まらず、4・5台分のスペースを占領し駐める
他に迷惑がかかるため急いで参拝する

一の鳥居



狛犬






社号標



二の鳥居



更に長い石段が続く



鈴木広視歌碑
「菅山や神の鉾杉高々に しらゆう桂し雪の曙」



貴船神社



津島神社・金比羅神社






拝殿
創建は久安2年(1146年)と伝えられ、安達太良山の神々と大名倉山の神々を勧請し里宮とした事が始まりとされ、氏子達からは「明神様」と呼ばれている



近隣地域に点在する安達太良神社の総本宮であることから、鎮座地の名前が「本目村」から本宮村となったとされ「本宮」という地名の由来になったとされる。



本殿



本殿は屋根で覆われた流造









熊野大神・疱瘡神・大山祇神・稲荷大神



天満宮



神楽殿



狛犬(拝殿前)






拝殿の唐風屋根



扁額には社号の「安達太良神社」 天井画が描かれていることもあり立体的に見える






撮影 令和元年11月8日
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白河関跡(福島県白河市旗宿白河内)

2020年03月23日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年11月7日

史跡 白河関跡
「白河の関」の名は時々耳にすることがあり、ずっと興味を持っていたが訪れたのは初めてである
ナビによると「らしき場所」に到着したはずなのだが想像していたものとは随分違っていた
「白河関の森公園」の駐車場に車を駐め彷徨ってこの場所に着いた



白河の関は、鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに、奥州三関の一つに数えられる関所
都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として名高い



設置時期も明らかではなく、関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた






古関蹟(こかんせき)の碑
白河藩主松平定信が寛政12年(1800年)8月、「ここが白河関跡である」であることを断定し、建立した碑



松平定信は文献による考証を行い、その結果、「白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡である」と論じた



白河神社

狛犬






手水舎



鳥居前参道にある。凄いとしかいいようのない木。芸術的だ



鳥居



拝殿
135年、白河国造命と天大玉命を奉納し勅命により鎮座






社殿は仙台藩主伊達政宗が奉納したものと伝えられている






古歌碑



「白河関」に題材をとる平安時代の著名な和歌三首を歌碑とした






西山(せいざん)国師遺跡霊場
浄土宗西山三派の祖で、法然の高弟である証空(西山国師あるいは西山上人ともいう)ゆかりの寺社を巡る霊場巡拝である



中世の遺構
中世には、丘陵全体が居館として使用され、敵の侵入を防ぐために造られた土塁や空堀で囲まれた範囲に主郭が存在した

「土塁跡」敵の攻撃や侵入を防ぐため、曲輪の縁に土を盛って築いた堤上の防御施設



「空堀跡」敵の侵入を防ぐため、曲輪に沿って掘られた防御施設



関跡を散策する



従二位の杉
鎌倉初期の歌人で「新古今和歌集」の撰者の一人である藤原家隆が手植えし奉納したと伝えられている



樹齢約800年と推定される巨木



旗立の桜
治承4年(1180年)源義経が平家追討のため平泉を発し、この神社に戦勝祈願をするため旗揃えをした際に、この桜に源氏の旗を立てたと伝えられている



ただの桜の木だが、源義経にまつわる伝説が残される木だと知ると価値が変わって見える









芭蕉と曽良









白河関の森公園









撮影 令和元年11月7日
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乃木神社(栃木県那須塩原市石林)

2020年03月22日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年11月7日

乃木神社
明治期の軍人の乃木希典の名がついた神社である
「二百三高地」の映画と司馬遼太郎の小説を読んだ程度で知識はないが興味を持っていた



社号標と鳥居
乃木希典は、武人、教育者、また文人として多くの詩歌を遺している
「乃木大将」「乃木将軍」と親しまれ、東京乃木坂の地名の由来でもある



日露戦争における旅順攻囲戦では第三軍司令官として指揮を執った






手水舎



二つ目の鳥居から中に入る。七五三の祈祷を待つ家族連れが順番を待っている



神馬舎
皇太子時代の大正天皇から下賜された馬で「殿下」にちなんで殿号(しんがりごう)と名付けられた



殿号は別邸で亡くなり静子林に葬られた



生駒神社



碁盤の儀(七五三)
皇室に伝わる古い儀式で、碁盤の上に立ち地面に向かって降りる



世界の上にしっかりと立ち、碁盤の目のように筋目正しく美しく育つよう願いが込められている



「乃木希典像」



「細石(さざれ)石の巌」






宝物館
拝殿周辺には七五三詣での家族が数組いたので「宝物館」に入る



「乃木静子夫人肖像」
婚礼に際し将軍の「乃木家はすこぶる厳格な家である。もし多少なりとも気遣いの点があるのであれば、いっそ盃をせぬのがあなたのためだ。」との言葉に対し…



「いかような困難に遭いましても必ず辛抱致します」と応えられたと伝えられている



「乃木希典写真」






「忠孝の額面と国旗」



「軍服と外套」






「乃木将軍夫人静子像」






「東郷平八郎謹書 乃木神社」



辞世の和歌
明治45年7月30日明治天皇が崩御され、そのご大葬が行われた9月13日夜、ご夫妻は殉死を以て明治天皇のご聖恩に報いられた
自殉された部屋に遺された辞世の和歌で将軍最期の筆である

うつし世を 神さりましし 大君の 御あと慕ひて 我はゆくなり









乃木希典那須野旧宅(栃木県指定史跡)






1892年(明治25年)に乃木が自ら設計した、農家風造りの木造平屋建て別邸「乃木希典那須野旧宅」(乃木別邸)跡



乃木は明治25年、31年および34年から明治37年の間、この別邸に閑居し、農業に従事して休職の期間を過ごした



乃木別邸は1990年(平成2年)10月28日の不審火によって焼失し、乃木神社ではこれを過激派による放火であるとしている



その後1993年(平成5年)に復元されている


















「殿号厩」



「静沼」
元は乃木家の水田だったが戦後池として地元の憩いの場となっている



拝殿
御祭神:乃木希典命 配祀:乃木静子命






乃木夫妻は明治天皇崩御の後を追う形で殉死し、大正元年(1912年)9月18日に葬祭が執り行われた
住民は別邸前でその遥拝式を行い、式の終了後、乃木希典を祀る神社を創立しようという声が上がった
大正5年(1916年)4月13日に社殿が竣工、鎮座が行われた



青空がとても綺麗だ



撮影 令和元年11月7日
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与楽山 大悲心院 観音寺(栃木県矢板市長井)

2020年03月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年11月7日
温泉で身体を温め熟睡。道の駅「やいた」で朝を迎える。今日も天気に恵まれた
地元北海道では雪が降り積もっているというニュースが流れた

与楽山 大悲心院 観音寺(通称:寺山観音寺)
途中狭い道もあったが観音堂近くにある大きな駐車場にたどり着いた
このような時はスタート地点になる山門へ移動することにしている



初めて訪れる寺で、そのきっかけとなったのは重文の像があることを知ったからだ



この先、わくわくするような参道が続く



「象頭山」と彫られた石碑



「國寶記念」と刻まれている。
現在は重文であるが、本尊の「千手観世音菩薩(秘仏)」が国宝だった頃に建てたと思われる



石橋



アーチ状に組まれた石橋の下には満願ケ池



周囲の風景と見事に同化している






参道横に小さなお堂がある



はっきりはしないが、形から「不動明王像」か



遠くに「楼門」が見える、この参道の景色が素晴らしい






楼門
天和4年(1618年)に建てられたもので、1997年に「やいた建物十選」に選ばれた



山号院号の「与楽山 大悲心院」



観音寺のイチョウ(栃木県指定天然記念物)
この木の下に石地蔵が祀られていた
木が大きくなるに従って石地蔵が木の中へ抱え込まれ、木の中に入ってしまったことから「子持ちイチョウ」と呼ばれるようになった



樹齢約350年(樹高28.5m、幹周4.8m)。
徳一僧都手植えのものといわれ、この地方第一の古木



寺山観音寺の周辺には、第一に霊湯、第二に牛石、第三に白土、第四に赤根土、第五に青ノリ、第六に一度も盗賊が侵入しない、第七にバン字池の水が年中絶えない七不思議があると伝えている
第二「牛石」
大同元年(806年)、法楽寺が現在の寺山観音寺の場所に移転する際、解体した観音堂の材料を運んでいた牛が、現在の寺山観音寺の場所で止まり全く動かなかった
それを観音様の意向と考えた人々が、そこに観音堂を移築して現在の寺山観音寺になったという伝承がある



観音堂
高原山の頂上近くに、神亀元年(724年)聖武天皇の勅願により行基が建てた法楽寺が始まりであるという
その後法楽寺は803年(延暦22年)雷火により焼失するが、この際、観音堂は焼け残り本尊は安泰であったという



大同元年(806年)平城天皇の勅願により、徳一が本尊を現在の地に移し、七堂伽藍を建立し現在の寺山観音寺に至るという
楼門と同じく、天和4年(1618年)に建てられたもので、「やいた建物十選」に選ばれている






本尊は「千手観世音菩薩(重要文化財)」
秘仏であり、60年に1回、甲子年の旧暦9月10日より7日間のみ開帳される



奉納額の「國寶」には大正14年5月の記載


















「賓頭盧尊者像」






「洗心童子」






境内には魅力的な石仏が数多く安置されている









「十六羅漢」






「弘法大師像」






「六地蔵尊」
この猫は楼門周辺から私の行く先々に先回りして待っている。まるで、八咫烏のような存在だ(笑)
途中、いなくなったと思ったら駐車場の私の車の下で寝ていた



庫裏周辺



この「千手観音像」はとてもいい。






銅造大日如来坐像(栃木県指定文化財)



像高115cm・天明元年(1781年)作・丸山善太郎易親









虚空蔵堂?



額には「福一満虚空蔵菩薩」



「百観音御砂踏み霊場」






周辺の石仏群から















稲荷神社









撮影 令和元年11月7日
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木幡神社(栃木県矢板市木幡)

2020年03月17日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年11月6日
この日最後の訪問地は重文の社殿を持つ木幡神社
昼時ということもあり駐車場で鳥居をみながら昼食を済ませる

木幡(きばた)神社
坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され、蝦夷討ちの途中にこの地に宿陣
「功あらば一祠を建立せん」と日ごろ崇敬していた山城国許波多神社に向かって戦勝を祈願した
延暦13年(795年)、戦に勝っての帰り道、ここに社を勧請したのが始まりとされている



鳥居



扁額には「鹽谷惣社大明神」
鎌倉時代から戦国時代の400年間にわたり塩谷地方を支配する塩谷氏の惣社・鎮守の森として厚く尊ばれた






左手に湯殿山、熊野三神、易體山の石碑がある



楼門(重要文化財)



楼門と本殿は栃木県最古の神社建築で国の重要文化財に指定されている
昭和35年から大規模な解体修理が行われれ、建物の特徴から室町時代中頃の建造物だということがわかった



手水舎



手水鉢には社紋の「三つ巴」



鉄灯籠(矢板市指定有形文化財)






拝殿
江戸時代に再建された拝殿
奉納された和算扁額、安政年間の絵馬などを見ることができる



「狛犬」



社殿遠景



扁額には「正一位木幡社 日光山大明神」
日光山輪王寺の支配下のもと、「木幡社日光大明神」と称して神仏混合となり、楼門には仁王像が安置された












幣殿・本殿



本殿(重要文化財)
祭神は「正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)」で天照大神の子



無盡水(尽きる事の無い水)
本殿裏手にある









本殿(重文)






稲荷神社



拝殿左手












社務所
普段は無人のようだ



神輿舎









駐車場に戻る



撮影 令和元年11月6日
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密興山 地蔵院 高宗寺(栃木県芳賀郡芳賀町祖母井)

2020年03月16日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年11月6日

密興山 地蔵院 高宗寺
建物は再建されてはいるが、開山は応永10年正月(1403年)良慶大和尚の創立というから古い



山門
白木の豪壮な桜門造りで、延宝元年(1673年)維親という人が建てたと横堀家の古書にある






額には寺号の「高宗寺」
一説によると、真岡藩主稲葉正成建立の「政城寺」の山門といわれている



仁王像
いつものように格子の隙間にレンズを突っ込み撮る
日差しが強く格子の影が像に当たって面白い



迫力ある仁王像である



本堂
仁王像の正面奥にある



真言宗豊山派の寺院で、本尊は「胎蔵大日如来」



寺伝によると、天文2年(1533年)国歌安穏のため祖母井信濃守が再建
東京湯島の「根生院」の末寺である



額には山号の「密興山」



前本堂は、明治24年の大暴風雨によって倒壊
仮本堂として再建されその後百年余の星霜を経て、平成14年より新築工事を進め平成17年5月に完成



「弘法大師像」



観音堂



額には「千手堂」とある



堂内にあるのは「千手観世音菩薩坐像」なのか






観音堂から本堂を見る



庭園
小鯛(鯉)は、大海より瀧を昇し、龍となる



蓬莱の大海より小鯛(鯉)が瀧に、龍(九頭竜垣)となり方丈の庭に至る






山門横にある駐車場に戻る



撮影 令和元年11月6日
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延生山 地蔵院 城興寺(栃木県芳賀郡芳賀町大字下延生)

2020年03月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年11月6日
入浴施設が併設されている、道の駅「はが ロマンの湯」に車中泊
雲一つ無い快晴の朝を迎えた

延生山 地蔵院 城興寺
道の駅から5分ほど走った所にある。大きな駐車場の駐車しているのは私の車のみ
中に入って分かったが、境内にある幼稚園も休みだった

山門



額には山号の「延生(のぶ)山」



「延命地蔵尊」



天正12年(1584年)堂塔伽藍全焼し、その折に記録も消失、開基・造立も詳かでない



鐘楼



お堂の額には「平和観音」



観音堂









「地蔵菩薩像」






子育地蔵堂



後鳥羽・土御門・順徳の頃か、天皇の后が妊娠するも臨月になっても産気づかなかった
帝の夢枕に「女人の安産は地蔵菩薩十種の大願の第一なれば、此の菩薩を信仰給わば御安産疑いなし」と消え失せた



帝は、后の産紐を解かれ、安々と王子を産んだ事により「紐解地蔵」とも称される



帝は仏師・運慶に地蔵菩薩を造らせ、堂塔房宇を建立し地蔵菩薩を安置
皇城繁興を念じられて寺名を「城興寺」と号すべしと宣ぜられ、またこの霊地を「延びて生まれた」より「延生」と名付けた



額には「延生地蔵尊」



狛犬



手水舎



銅像地蔵菩薩座像(芳賀町指定有形文化財)






本堂
残念ながら休みのため施錠されていた



間引の絵馬(芳賀町指定有形文化財)



心眼でも見えず、カメラのレンズを通しても見えない









参拝者は私一人、整備された境内は気持ちがいい






撮影 令和元年11月6日
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曛静山 華徳院 薬王寺(茨城県桜川市青木)

2020年03月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年11月5日
この日は予定して通りに事が進まず、「最寄りの有名寺院」で検索していくつかの候補の中からここを選んだ

曛静山(くんせいざん) 華徳院 薬王寺
選択の基準は、国宝・重文の建築物や塔のある寺院だが、いずれにも該当しない
だが、引きつける何かを感じていた

山門
駐車場から山門が見える。何と素晴らしい景色だろう



久し振りに「二宮尊徳像」を見た
知らなかったが、この地区・青木村を復興させた人物だという



「二宮尊徳像」
この地を潤していた青木堰という堰があり、青木村にとって無くてはならないものだった
堰があった桜川は急流であった為に増水により流される度に改修をしていた
改修費を払えなくなり、堰は壊れたまま放置されることとなり、それに伴い収穫量は激減
村の救済を二宮尊徳に頼み、青木村復興事業の一つとして青木堰が完成した



山門は、青木堰が改修される事となった為、その用材を使う事により二宮尊徳の偉業を後世に伝える為に造られた



山門から中に入ると右手に二つの石仏「如意輪観音」がある。艶めかしくて大好きな像だ



春は桜、秋は紅葉で有名だという



私の後に2組の参拝者が来たが「まだ、早いみたい」とすぐ帰ってしまった



釈迦堂



「誕生仏」 誕生後すぐに七歩歩んで天地を指さし「天上天下唯我独尊」と唱えたという釈迦の姿を表している
私には「やあ、いらっしゃい」と手を上げ迎えられたように感じたのだが……(笑)



手水舎



本堂
大同3年(808)、徳一大師により法相宗の寺院として創建
その後、下野国真岡・宗光寺の末寺となり天台宗へ






「山号・寺号の額」
貞享4年(1687)、良循法印により薬師堂・本堂を再建し中興開山とする
享保7年(1723)現本堂再建



境内の落ち葉を集めていた住職に挨拶し、しばらく話をする



武士の家計簿ではないが、気になっていた寺の運営について聞いてみた
公開することはできないが貴重な話を聞くことができた



再び山門へ
柱にある不自然な穴は、堰で使われていた時の桟を通した穴の名残



山門遠景



昔は全国各地の小学校に置かれていた。「世のため人のため」の学問は姿を変えたのか



二宮金次郎と車に戻る



一般道路から駐車場までの参道も木に囲まれとてもいい景色だ



この辺りは少し色づいてきている



撮影 令和元年11月5日
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雨引山 楽法寺(茨城県桜川市本木)

2020年03月12日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年11月5日

雨引山 楽法寺(らくほうじ)<通称:雨引観音>
この日は朝から訪問地の予定が狂い、移動中に「最寄りの有名寺院」で検索し選択した寺の一つである

薬医門<黒門>(桜川市指定文化財)
初めての寺だと思い楽しみにしていたが駐車場に着いた瞬間、見覚えのある風景が広がっていた
2年前に大洗港から関東地方を回った時に訪れていた



長い石段の参道で絵を描いていた男性と話をした記憶がはっきり残っている



仁王門が見える。前回とは違った道を進むことにした



小安地蔵堂



享保年間、徳川吉宗の台命より造建






この彫刻に興味を持っていた






駐車場に私の車が見える



奥の院(客殿)
寛政4年(1792)再建。旧幕時代は雨引山楽法寺運営の中枢的建物



「千手観世音菩薩」



鬼子母神堂






六角堂
堂内の様子



不動明王像(茨城県指定文化財)
永享10年(1438)将軍足利義教が関東鎮護の本尊として謹刻させ、納めたもの



この建物の本尊薬師如来は、享保8年(1723)徳川八代将軍吉宗公が養女竹姫の眼病平癒祈願のために、仏師円哲に彫刻させた仏像



多宝塔(茨城県指定文化財)






東照山王社殿(茨城県指定文化財)
東照大権現と山王大権現を合祀するもので、正面の入口扉が2つあるのはそのため









本堂(茨城県指定文化財)









本堂内外の彫刻は、江戸の人無関堂円哲の刻んだもの






本堂裏から見る多宝塔



額には「観音堂」 本尊は「観音菩薩(寺伝延命観音)」















絵馬堂
お休み処・おみやげ処になっている
























「宿椎(桜川市指定天然記念物)」



手水舎



仁王門(茨城県指定文化財)






境内には雉やアヒルなどが放し飼いされている






鐘楼



関ヶ原の戦(1600)以前は真壁城の城門であった



撮影 令和元年11月5日
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米井山 無量寿院 龍禅寺(茨城県取手市米ノ井)

2020年03月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年11月5日
千葉県柏市にある、道の駅「しょうなん」で朝を迎える
訪問予定の2つの寺院には道路幅や駐車場が無いなどの問題で断念せざるを得ない状況に追い込まれた

米井山 無量寿院 龍禅寺
3つ目がここ龍禅寺。実はここもナビの案内する道は道路幅がかなり狭く、他の道を探すため周辺を20分ほど走ってみたが無かった
意を決してナビの案内する道へ。小回りが苦手な私の車は右左折も切り返しをしなければ曲がってくれない(冷汗)

寺号標柱



山門



本堂
宗派は天台宗。天慶2年(939)の創建と伝えられる
山号の米井山(べいせいざん)は、平将門が武運長久を祈願するために龍禅寺に参詣した際に、井戸から米が噴き出したことに由来するといわれている



将門はこれを吉祥と喜び、地名の「米ノ井」もこれに由来すると伝えられている



額には山号の「米井山」



仁王像
本堂内に安置されている









このように間近で拝観できる機会が少ないので、貴重な体験をした






額には院号の「無量寿院」だと思うが……






天井に籠のような物が架けられていた



屋外に出る。本堂左手に六地蔵






本堂遠景



三仏堂(重要文化財)
この茅葺き屋根のお堂を見たいとの思いでこの寺を訪れた






将門は三仏堂で生まれたとも伝えられ、近くには将門の愛妾桔梗御前の菩提を弔う桔梗塚があり、龍禅寺と将門伝説との深いつながりが窺える



正面三間、側面三間で左右と背面に裳階が付いている



三方に裳階が付く形式の建物は、他に例をみない



内陣には禅宗様の須弥壇が置かれ、三仏堂の名称の由来ともなった釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩の三体の仏像が安置されている









鐘楼









撮影 令和元年11月5日
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日光東照宮・日光田母沢御用邸(栃木県日光市)

2020年03月09日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年11月3日
昨夜は2年毎に開催している学生時代の同期会をプレ五輪と称して東京で開催
2日目は道路の渋滞が予想されるため電車で日光に移動した

日光東照宮
この選択は大正解で車なら身動きがとれなくなっていた
東武日光駅から循環バスを利用し東照宮へ向かう予定だったが、渋滞のため徒歩の方が早いと判断し昔話をしながら歩く

疲労しかけたことに目的地に到着したが、この観光客の賑わいぶりには正直驚いた



この重要文化財の五重塔を撮るために前年に訪れたが、この日はこの一枚だけ



「三猿」の建物付近もこのような状態



少しズルをしながら三猿に近づく



陽明門前の入口側通路は特に混雑していて、階段付近は注意が必要なほどだ



反対側からも



立ち止まって、ゆっくり写真を撮るなどとてもできない状態だった






流れに逆らって堂々と歩いているのが私の仲間の二人だ。



自分の意思ではなく、人の流れにのみ込まれて歩いている状態だったので、すぐ戻ることにした
拝観券売り場には長蛇の列。日光東照宮単独拝観券1,300円×○○万人=…… と計算してしまう



昼食後、旅館へ向かって歩いている途中に「金谷ホテル歴史館」があった



日本初の西洋式リゾートホテル「金谷ホテル」
その歴史を今日も形として残している「金谷侍屋敷」
日本人特有の外国人へのおもてなしの原点がここにあるという



日光田母沢御用邸記念公園
数分歩くと、大きな門が見えてきた。栃木県立の都市公園(歴史公園)である。ここに寄るらしい



元は皇太子時代の大正天皇の静養所として造営された旧御用邸の建物と庭園を公園として整備し一般公開している



病弱であった皇太子の避暑地向けの静養先



明治期以降に数多く造られた御用邸建築のうち、全体がほぼ完存する唯一の例として貴重であり、建造物群は国の重要文化財に指定されている






表御食堂(重要文化財)
赤坂離宮から移築。明治時代の建物



床は檜の柾目寄木張りで90年経った現在でも狂いのない「匠の技」がいきている



御玉突所(ビリヤード室)



障子紙の貼り方も皇室では違うと説明を受けた



謁見所(重要文化財)
大正時代増築部






このような便器も初めて見た












劔璽(けんじ)の間
皇位継承の象徴である天叢雲剣の複製と、八尺瓊勾玉の安置するための3畳の小部屋である
劔璽は、天皇の1泊以上の行幸にはともにする習わしである。剣と勾玉の安置所には繧繝縁(うんげんべり)の畳が置かれている



御寝室
天皇の寝室。旧紀州徳川家中屋敷部分の2階にある。御座所、御学問所と異なり、畳敷きである
また、この部屋のみ電灯を用いず燭台を置く






御座所(重要文化財)
大正天皇の執務室・居間。赤坂離宮から移築した旧紀州徳川家中屋敷部分の1階にある
床(とこ)・棚を設けた和室だが、床(ゆか)にはじゅうたんを敷き、天井からはシャンデリアを吊るした和洋折衷形式になる
この部屋と御学問所、謁見所のじゅうたんは20色のアキスミンスター織である






撮影 令和元年11月3日
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東京国立博物館(東京都台東区上野公園)

2020年03月07日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和元年11月2日
湯島天神から靖国神社も考えたが、東京国立博物館に足が向いた
週末ということもあり上野公園内は想像以上に賑わっていた

東京国立博物館
東京では私の観光の定番となっている博物館
常設展示の多くは写真撮影が許可されている
今回は一眼レフではなく、不慣れなポケットカメラでの撮影になる




黄釉銹絵海樹図大瓶(重要文化財)



「執金剛神立像」



矢の根五郎図額(重要美術品)



大好きな浮世絵が展示されていた。





















太刀 福岡一文字助真(国宝)



伝源頼朝坐像(重要文化財)



「聖徳太子立像」



「菩薩立像」



飛鳥時代前期の木彫。頭体幹部をクスノキの一材から彫り出している



「聖観音菩薩立像(模造)」



埴輪 猿(重要文化財)



「火焔型土器」



「貴賓室」



「四天王立像」






不動明王立像(重要文化財)



十二神将立像(重要文化財)



「阿弥陀如来立像」



企画展会場にて拝観後、休憩していると、すぐ横に室生寺の「十一面観音立像(国宝)」が展示されていた
個人的には全仏像の中で最も美しいと思っている仏像で、時々顔が見たくなり室生寺へ行くことがある

東洋館に移動する

クメールの彫刻



偶然だが、水野敬也著「夢をかなえるゾウ3」を読んでいる最中だ












仏頭



独特の表情






日本の仏像とはかなり違うが魅力的だ



























国立西洋美術館周辺の彫刻





















撮影 令和元年11月3日
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湯島天満宮(東京都文京区湯島三丁目)

2020年03月05日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年11月2日
2年毎に開催している同期会をプレ五輪と称して大学のあった東京でこの日に行うことになった
時間に余裕があったので宿泊するホテルに荷物を置き、ポケットカメラを持ち近くの観光地へ向かう

湯島天満宮(通称:湯島天神)
最寄りの観光地の一つが湯島天神。近い場所にあるはずなのだがいつものように迷ってしまった
グーグルやヤフーマップを使ったが目的地が遠ざかり、結局、人に尋ねてやっとたどり着く

唐門
いくつかの門があるようだが、唐門から入る



門扉の彫刻。神紋の「加賀梅鉢紋」



さすが大都会、祭りの法被を着た猿が普通に歩いている(笑)



祭事の「菊まつり」が開催されていた



今夜、宿泊するホテルの菊も展示されている



拝殿
社伝によれば、雄略天皇2年(458年)、勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建
南北朝時代の正平10年(1355年)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀した



拝殿内で結婚式が行われていた



学問の神様の菅原道真を祀っているため多数の受験生が合格祈願に訪れる



牛に乗った菅原道真の絵馬にそれぞれの思いが書き込まれている



「御神田初穂 イセヒカリ」



境内図



「瓦斯灯」
明治時代を象徴する、文明開化のシンボル「ガス灯」



都内で屋外としては唯一点灯しているという



「撫で牛」






「筆塚」



参拝者が多く落ち着かない感じがする



撮影 令和元年11月2日
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