今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

関ケ原古戦場 決戦地(岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1202)

2024年07月05日 | 名所・旧跡
訪問日 令和6年5月16日
国史跡 関ケ原古戦場 決戦地
笹尾山・石田三成陣跡
関ケ原の北西、北国街道を押さえる位置にあり、西軍を指揮した石田三成が、約6,000の兵とともに布陣した



慶長5年(1600年)9月15日 濃霧と雨
西軍約8万2千人、東軍7万4千人が布陣
午前8時 東軍の井伊・松平隊が西軍の宇喜多隊に発砲し開戦



午前11時 全戦線で西軍は戦いを優勢に進める
*小早川・毛利・吉川ら諸隊は動かず
正午 小早川隊は寝返り、大谷隊へ攻撃開始
*大谷隊壊滅<大谷吉継自刃>



見晴台
午後2時 石田三成、宇喜多秀家、小西行長らは伊吹山中へ敗走し西軍は総崩れ
天下分け目の戦い・関ケ原の合戦の勝敗は、わずか半日程度で決した
*島津隊が伊勢街道方面へ敵中突破



石柱「史蹟 関ケ原古戦場 石田三成陣地」
現在は周辺一帯が国指定史跡となっている



皇太子殿下御野立所
御野立所は「おのだてしょ、おのたてしょ、おのだちしょ、おのたちしょ」と読む
移動中の貴人(主に天皇)が野外で休憩した場所という意味のようだ
明治43年4月15日と刻まれているので、大正天皇が皇太子の時になる



美男美女の外国人観光客(絵になる)
英語による音声ガイドを熱心に聞いていた



見晴台からは、関ケ原に布陣した東軍を正面から見下ろす形で、関ケ原古戦場が一望できる
400年前、石田三成がどのような思いでこの地に立っていたのか……



「関ヶ原の戦い」において、敗軍となった「島津義弘」の部隊が、敵陣を正面突破して退却した
このとき島津軍が選んだ戦法「捨て奸」(すてがまり)は、味方を犠牲にして追撃隊を食い止める壮絶な策だった
その結果、大将の島津義弘は薩摩国に生還し、断絶をまぬがれた島津氏は江戸時代を生き残り、幕末まで大きな存在感を示す大名家になった



この陣形図を見ると、小早川の寝返りによる大谷隊壊滅は致命的だということが分かる
個人的には西軍武将に魅力的な人物が多く、小早川の裏切り行為を苦々しく思ってきた



そのような事を考えながら古戦場を眺めるのも楽しい



雨が降ってきたので、駐車場に戻る



田圃の中央に「決戦地」の幟がたっている






撮影 令和6年5月16日
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山居倉庫(山形県酒田市山居町1丁目)

2024年04月19日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年10月18日

山居倉庫(国指定史跡)
明治26年(1893年)旧藩主 酒井家によって建てられた米保管倉庫
NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなった



今回は倉庫の正面から回ってみた



小鵜飼船
倉庫から舟までは、女丁持(おんなちょうもち)と呼ばれる女性によって運ばれた
一俵60kgの米俵を5つ(300kg)背中に担いだという記録(写真)が残っている






平成30年(2018年)時点で12棟が残り、このうち9棟は現役の米蔵として使用されていた
山居倉庫は令和3年(2021年)国の史跡に指定され、米倉庫としての使用は2022年度末で終えた



倉庫の中央に通路があり、その先に神社が見える






東宮殿下行啓記念館
東宮(後の昭和天皇)の山居倉庫行啓を記念して建てられた
昭和元年(1926年)に建てられた米穀貯蔵の研究施設



東宮は皇太子の居所、転じて、皇太子そのものを意味する言葉
大正時代は皇太子ではなく東宮が一般的だったのか



さんきょばし



歴史ある外観だが、竣工は平成5年7月



庄内米歴史資料館
12棟のうち1棟は資料館として改装された



奥まで歩き反対側に出る
陽射しの影響で倉庫の色が白っぽく見えているが実際は黒色に塗られている



観光客がいないこの瞬間を撮るには、それなりの忍耐力が必要になる



三居稲荷神社



12棟ある倉庫の中間に位置している



額には寺号の「三居稲荷神社」
山居倉庫の「山居」ではなく「三居」になっている



拝殿内の「奉納額」












振り返って一枚



欅並木
倉庫の西側には41本の欅が植えられ、陽射しを遮ると同時に冬の強い季節風から建物を守っている



欅並木は、様々なCM撮影等でも活用されている
酒田で一番人気のフォトスポットになっている
写真家 土門拳氏も冬の山居倉庫の作品を残している



山居倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)
夏の高温防止のために背後に欅並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にしている
自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫になっている









12棟ある倉庫の2棟は酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」として利用されている
酒田の様々なお土産を購入することができる
前回は大阪に住む大学時代の朋友に勧められ、山形県産ブランド米「つや姫」を購入した

売店の奥にこのような場所があった

坂田山王祭祭礼用亀笠鉾(酒田市指定有形民族文化財)












連続テレビ小説「おしん」のロケ地
昭和58年(1983年)4月から1年間にわたって放送されたNHK朝の連続ドラマ「おしん」
私は平成31年(2019年)4月にBSプレミアムで再放送されたのを視聴した



最高視聴率62.9%を記録し、世界では60の国を超える国々が放送
少女期のおしん役の小林綾子の演技には感動した



人形作家 大滝博子
物産館「酒田夢の倶楽」では人形作家 大滝博子さんが、明治・大正・昭和と激動の時代を力強く生き抜いた女一代記を表現している

「おしんの生家」












「最上川の別れ」






「奉公先のおしん」






『おしん』の脚本を手掛けた橋田壽賀子は、山居倉庫の存在を知り、その倉庫を見た瞬間、これでドラマができると確信したという
貧しい農家に生まれた「おしん」が米一俵で、身売りされ、酒田に奉公に出される……






テレビの内容など忘れかけていたが、この小さな人形を夢中で撮っているうちにいくつかの場面が鮮明に蘇ってきた



「我々は、おしんに忍耐を学ぶのではない、心の美しさと、その持ち方を学ぶのだ」






撮影 令和5年10月18日
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乙女の像(青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋)

2024年03月08日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年10月4日

乙女の像<高村光太郎>
20年ほど前に一度訪れたことがある
数年前、福島県二本松市で「智恵子の生家・智恵子記念館」を訪れたことがきっかけとななり、再び訪れようと思った



駐車場から「乙女の像」まで少し歩くことになるが、木道が設置されていてとても歩きやすい



「智恵子の生家・智恵子記念館」は下記で発信済
智恵子の生家・智恵子記念館(福島県二本松市油井字漆原町) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

智恵子の生家・智恵子記念館(福島県二本松市油井字漆原町) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

訪問日令和元年11月6日走行中「智恵子の生家」の案内板が突然目に入ってきた「高村光太郎」との関係に興味をもっていたので立ち寄ることにした智恵子の生家・智恵子記念館明...

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「智恵子の生家・智恵子記念館」では智恵子本人よりも高村光太郎の方に興味を持った
昨夜、記念館で購入した「智恵子抄」を読み直してみた



光太郎は「智恵子抄」のなかで
「私はこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の廃頽生活から救い出される事ができた……」
「自分の作ったものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力になるものはない……
私はそういう人を妻の智恵子に持っていた」と語っている



十和田湖を世に出した功労者3名の顕彰をねらいとした像の制作を高村光太郎に依頼した
光太郎は「自然美には、人工を受け入れるものと受け入れないものの2つがある。現地を見て決めましょう」と十和田湖入りをした
「十和田湖の美しさに深く感動し、湖上を遊覧しているうちにいくつも制作イメージが湧いた」という



乙女の像
「二体の背の線を伸ばした三角形が″無限″を表す」
「彫刻は空間を見る。二体の間にできるスキ間に面白味がある」と、モチーフを語っている



東京のモデルクラブに所属する藤井照子(当時19歳)がモデル
制作中、像の頻は白布で覆われ、だれにも見せることはなかったという



智恵子抄「裸形」
智恵子の裸形を私は恋ふ。
つつましくて満ちてゐて
星宿のやうに森厳で
 -中略-
わたくしの手でもう一度、
あの造形を生むことは
自然の定めた約束であり、
 -中略-
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中に帰らう。



完成後、「あれは智恵子夫人の顔」といわれるようになった
それを確かめた横山武夫(当時県教委教育次長でのち副知事、歌人)に対し
「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と



原型となった小型像は青森県立郷土館に展示されている



昭和13年(1938年)に智恵子と死別
昭和16年(1941年)詩集『智恵子抄』を出版
昭和28年(1953年)10月21日「乙女の像」除幕式
昭和31年(1956年)4月2日 自宅アトリエにて肺結核のために死去(73歳没)
戒名は光珠院殿顕誉智照居士






「乙女の像」が最後の作品となった






撮影 令和5年10月4日
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奥入瀬渓流(青森県十和田市奥瀬)

2024年03月07日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年10月4日

奥入瀬渓流(特別名勝、天然記念物)
十和田湖東岸の子ノ口(ねのくち)から北東に、焼山までの約14 kmにわたる奥入瀬川の渓流
十和田八幡平国立公園に属する
渓流に沿って流れとほぼ同じ高さに車道と歩道がつくられている

銚子大滝
奥入瀬渓流本流にかかる随一の滝、銚子大滝は高さ7m、幅20m



十和田湖への魚の遡上を妨げ、魚止の滝とも呼ばれている
長い間、十和田湖には魚が住めないといわれてきた



奥入瀬渓流はミシュラン・グリーンガイドで二つ星に選ばれた観光名所
約14km続く渓流は絶景の連続
私は駐車スペースのある場所に車を駐め周辺を巡ったが、多くの人は歩いていた



雲井の滝
森林にかこまれた断崖から、三段になって落下するこの雲井の滝の高さは20m



この滝は、岩を少しずつ浸食しながら上流に向かって後退し、いつかは消える運命にあるという



観光客が集まっていた場所に近づくと地元の渓流画家が絵を描いていた



自然の中に絵が溶け込んでいるように感じた
筆が止まったので完成したのかと尋ねると、まだ2・3割程度で自宅に戻り完成させるという



画家が書いていた場所を撮ってみたが、絵の方が数段美しい
芸術家の感性には驚く



話しをしているうちに、画家から画商に変わる瞬間もあった(笑)



阿修羅の流れ
「奥入瀬を代表する」のが、この阿修羅の流れ
テレビや雑誌、ポスターなどでも頻繁に紹介されている



その名のとおり激しく流れる水がつくりだす景観は美しい




自然の美しさにはあまり感動しないが水の流れる音は心地よい



「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず……」
流れる水は飽きずに見ることができる



最近、水の流れる音に体内が反応し尿意を催す年齢になってきた



寒沢の流れ



奥入瀬渓流巡りは今回が2回目になる
初回は20年ほど前、アルファードというミニバンを新車で購入し函館までドライブ
急に思い立って、フェリーにて大間港へ
その流れで奥入瀬渓流をドライブした
車中泊もこの時初めて経験した(想い出の地である)

撮影 令和5年10月4日
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尻屋埼灯台と寒立馬(青森県下北郡東通村尻屋字尻屋崎1-1)

2024年03月03日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年10月2日

尻屋埼灯台(しりやざきとうだい)と寒立馬(かんだちめ)
尻屋埼灯台の周辺に寒立馬が放牧されている観光雑誌の写真に興味を持ち訪れた
灯台に向かう道路には門があり、滞在時間が決められている(9:00-16:00)

尻屋埼灯台(重要文化財)
尻屋埼灯台は、工事期間3年4ヶ月を費やし明治9年(1876年)10月20日に点灯開始した
「日本の灯台の父」と称されるブラントンによって設計された、二重のレンガ壁による複層構造の灯台となっている



高さ30mを誇る日本一高いレンガ灯台である
日本最初の霧笛が設置された灯台でもある



のぼれる灯台16のうちの一つで、日本の灯台50選に選ばれている
参観期間は、令和6年4月6日(土)から令和6年11月10日(日)まで
参観寄付金 300円(中学生以上)



訪れた日は風が強く、体重があり重心が低い私でも油断すると飛ばされそうになる



尻屋埼灯台百周年祈念碑



強風のため空模様がめまぐるしく変わる
文化庁の資料によると重要文化財に指定されている灯台は13基
①尻屋崎 ②犬吠埼 ③清水 ④御前崎 ⑤菅島 ⑥経ヶ岬 ⑦江崎
⑧美保関 ⑨出雲日御碕 ⑩角島 ⑪六連島 ⑫鍋島 ⑬部崎 *釣島灯台(答申中)



寒立馬とその生息地(靑森県天然記念物)
灯台周辺には「寒立馬」と呼ばれる馬が放牧されていると思ったら様子が違った
「寒立」とはカモシカが冬季に山地の高いところで長時間雪中に立ちつくす様を表すマタギ言葉



寒風吹きすさぶ尻屋崎の雪原で野放馬がじっと立っている様子がそれに似ていたことから「寒立馬」と呼ばれるようになった
寒気と粗食に耐え持久力に富む農用馬として重用されてきた



厳しい冬にも耐えられるたくましい体格の馬である
南部馬の系統で足が短く胴が長くて、ずんぐりしている



柵の近くでカメラを構えていると、警戒することなく近寄ってくる



時代背景により軍用馬、農耕馬、大型肉用馬として外来種との交配がなされ現在にいたっている



撮影 令和5年10月2日
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旧閑谷学校(岡山県備前市閑谷784)

2023年09月13日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年6月4日

特別史跡 旧閑谷学校
平成2年の秋に初めて訪れたが、その時、きっと再訪するだろうと思っていた
岡山県に入ってから道路地図で閑谷学校をずっと見ていた



この門の右側に受付がある
受付担当者やボランティアカイドの親切で丁寧な対応も魅力の一つだ



校門(重要文化財)
貞享3年(1686年)の造営
額には「閑谷学校(しずたにがっこう)」



中国最古の詩集である「詩経」の中の詩に因んで「鶴鳴門」ともよばれる



屋根は備前焼の本瓦葺き






廟の正門として建てられたもので閑谷学校の校門でもある



正面に最も重要な「聖廟(せいびょう)」がある



石塀(重要文化財)
学校全体を取り囲む765mにも及ぶ石塀(せきへい)



300年経つ現在も、石と石との隙間が無く雑草が生えないというから驚く



近くに寄り触れてみてもなめらかである



講堂(国宝)
一際目立つ建物が国宝の講堂
訪れた時期は燕が入るとのことで、障子が閉められていた



創建当時は「茅葺き」だったが、改築され現在の堅牢な「備前焼瓦」に葺き替えられた






講堂内の様子
以前訪れた時、女子中学生に対し論語の講義が行われていた



学而篇の冒頭部分であった
「子曰く 学びて時に之を習う また説ばしからずや
 朋有り遠方より来たる また楽しからずや
 人知らずして慍おらず また君子ならずや」



最初は戸惑っていたが、講師の読んだ後に続けと指示された後は大きな声で読み始めた
それはまるで合唱のように心地よかった



しばらくすると論語で一番重要と思われる「恕(じょ)」についての説明が始まった



2年前の講義の内容と生徒達の真摯な態度を思い出しながら過ごした



小斎(重要文化財)
閑谷学校は江戸時代前期の寛文10年(1670年)に岡山藩主池田光政によって創建された
現存する世界最古の庶民のための公立学校である



小斎は藩主御成の間であるが、子供達が学ぶ豪華な講堂に対して簡素であり下座に位置している場所にある



藩主の池田光政は子供達の学んでいる姿を笑顔で小斎から見ていたのではないかとガイドの女性が話してくれた



簡素とはいえ柱には飾り細工が施されている



飲室門(重要文化財)
日通いの生徒や、毎月朔日(ついたち)の朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門



文庫(重要文化財)
閑谷学校の教科書・参考書をおさめた書庫



飲室と習芸斎(重要文化財)
飲室は教師と生徒たちが、湯茶を喫した休憩室
習芸斎は農民たちも学んだ、教室として使われた施設



小斎と講堂



公門(重要文化財)
藩主臨学の際に使用した門で御成門ともいう






楷の木(かいのき)
聖廟前に植えられた二本の楷の木は、中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り苗に育てられた内の2本



聖廟(重要文化財)
儒学の祖、孔子の徳を称える最も重要な施設



最も重要な施設として中央の一番高い所に配されている



「孔子廟、西御堂」とも呼ばれている






奥の大成殿には孔子像が安置されている



閑谷神社(重要文化財)



閑谷学校の創始者、池田光政を祀っている









閑谷神社からの眺め



特別史跡旧閑谷学校 椿山
椿山には約400本近いヤブツバキが植えられている



木に(本物の)猿がしがみついているような感じがする



池田光政の髪・爪・歯などを納めた供養塚「御納所」



撮影 令和5年6月4日
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番所鼻自然公園・たまて箱温泉(鹿児島県)

2023年08月24日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月27日

番所鼻自然公園(鹿児島県南九州市頴娃町別府5202)
開聞岳の絶景を見ることができる観光スポットの一つに「番所鼻(ばんどころばな)自然公園」がある
番所鼻自然公園は、薩摩藩の番所があったことから名づけられた
走っていた道路から比較的近い場所にあることから立ち寄ることにした



海の池(ドラゴンホール)
番所鼻自然公園には火山活動と海の浸食によって岩礁がぐるりと円を描いている
海の池(ドラゴンホール)があり,竜宮城の入口だったという言い伝えもある
干潮時には池の周りを一周できる



幸せの鐘「吉鐘」
願い事に合わせて鳴らす回数がある
1回:幸運,2回:健康,3回:夫婦円満と縁結び,4回:子宝,5回:安産



遊歩道を歩く



南国の花?



花には興味はないのだが不思議と旅先では見入ってしまう



開聞岳は標高が924mで日本百名山の一つ
整った山頂となだらかな稜線が美しく「薩摩富士」とも呼ばれている



伊能忠敬・絶景の碑
日本地図作成のために立ち寄った伊能忠敬が「天下の絶景なり」と賞賛した
伊能忠敬が、測量の道に進むのは49歳のこと
日本全国を歩いて測量して回り、「大日本沿海輿地全図」を完成させた






目の前の「海の池」を歩こうと思ったが、潮風と塩水がカメラに悪いので止めた(理由付け)



特攻隊が見た「最後の本土」開聞岳
開聞岳の存在に興味を持ったのは「知覧特攻平和会館」を訪れてからだ
昭和20年(1945年)初頭には、最前線の沖縄はもちろん日本本土も連合軍から空襲を受けるようになった
日本政府は沖縄を本土の最前線と考えていたので、沖縄を守るために採られたのが、特攻作戦だった



特攻機の多くは、知覧(鹿児島県南九州市)や海軍鹿屋基地(鹿児島県鹿屋市)など九州南部の基地から飛び立った
遺書を残し、別れの杯を交わして知覧基地を飛び立った特攻隊員は2時間半かけて、一路沖縄に向かった
知覧基地を飛び立ち、開聞岳を見ながら海岸線を越えると「もう戻れない、行くしかない」と、何度も何度も振り返りながら覚悟を決めたという



出撃までの数日間を過ごす三角兵舎や基地周辺で、身の回りの手伝いをしたのが知覧高等女学校3年生の「なでしこ隊」だ
出撃の知らせがあると指揮所や滑走路の周りに並び見送った
敬礼して飛び立った飛行機が開聞岳に向かい、翼を3回振って、さようならの合図をしたという



ヘルシーランド露天風呂「たまて箱温泉」(鹿児島県指宿市山川福元3292)
旅の途中、本州の道の駅で声を掛けられた男性(温泉好きの宮司)に鹿児島に行くなら是非「たまて箱温泉」にと勧められた
入浴施設を探していた時にその事を思い出し調べてみた
「行ってよかった日帰り温泉&スパ」部門で4年連続1位に輝いた絶景露天風呂のようだ



竹山(別名:スヌーピー山)
垂直に突き出した岩肌が特徴的な「竹山」は古来から修験道の修行の場であったという



この山の麓に「たまて箱温泉」がある
小屋のような建物が入口(料金所510円)でそこから30m程歩く
2つの露天風呂は男女日替わりで、どちらも雄大で美しい大自然のパノラマを楽しめる
晴れた日には遠く屋久島や、竹島、硫黄島も見える



風呂に入って感動することなどないが、浴槽に浸かると目の前にある海と一体化した感覚になる
これを考えた人は凄いと思った
紹介してくれた宮司にお礼を言わなければならないと思い、帰りに管理している姫路市にある神社に立ち寄った



撮影 令和5年5月27日
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端島<通称:軍艦島>(長崎県長崎市)

2023年08月11日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月25日

端島<通称:軍艦島>(世界遺産)
平成27年(2015年)国際記念物遺跡会議(イコモス)により、端島炭坑を構成遺産に含む
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの世界文化遺産に登録された



長崎港から「軍艦島上陸ツアー」というのもあるが年金生活者には厳しい価格帯だった
軍艦島を一番近くから見えるという野母崎総合運動公園(軍艦島展望所)に車を走らせた



長崎市内で渋滞はあったが海岸線を走る国道499号線は快適で軍艦島の姿を見ながらのドライブ
野母崎総合運動公園はきれいに整備されていて、そこから見える景色は美しい



端島での石炭の発見は一般に文化7年(1810年)のこととされる
江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった
明治23年(1890年)端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡した
譲渡後は端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜くまでに成長した



この頃には社船「夕顔丸」の就航、製塩・蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始
社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備され、島の周囲が段階的に埋め立てられた
大正5年(1916年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅が建設された
この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道



大正10年(1921年)に長崎日日新聞も、当時建造中だった戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいる
「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる



野母崎総合運動公園の小高い場所に「軍艦島展望所」がある



端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった
労働者のための福利厚生も急速に整えられていたが、仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制
「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない」との言葉もある



大正5年(1916年)以降から少年および婦人の坑内使役が開始
大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始される
昭和14年(1939年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化する



人口が最盛期を迎えた昭和35年(1960年)には5,267人の人口があった
人口密度は83,600人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退



1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、昭和45年(1970年)に端島沖開発が中止になり、会社側が鉱命終了期を発表
その後数百万トンの石炭を残したまま昭和49年(1974年)1月15日に閉山した
4月20日の連絡船の「最終便」で退去した担当者らの離島をもって、端島は無人島となった



軍艦島展望所からの眺め



野母崎総合運動公園



軍艦島展望所から軍艦島までの距離は直線で約4km
肉眼ではぼんやり見える程度だが、デジタルカメラで撮影しパソコンで拡大するとこの程度まで見ることができる
帰り際、「良い写真が撮れたかい」と高齢者に声を掛けられた
父親が戦艦武蔵に乗っていた(生還者)そうで戦争の話しに耳を傾けた



夫婦岩
バス停近くに、4億8000万年前にできた夫婦岩がある



近くに2階建ての展望室があり撮影スポットの一つになっている



遊び心で撮ってみた



撮影 令和5年5月25日
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九十九島(長崎県佐世保市)

2023年08月10日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月24日

九十九島(西海国立公園)
車での九州への旅は今回が最後になると決めていた
九十九島の美しい景色は雑誌等で知ってはいたが、自分の目で一度確かめてみたかった



九十九島は、佐世保湾の外側から北へ平戸までの約25kmの海域に点在する海域
この場所に来る途中、時折車から見える海の景色は最高で期待は高まっていた



複雑に入り組んだリアス海岸と島々が織りなす美しい自然景観が広がっている
九十九(くじゅうく)とは数がたくさんあるという意味で使われる例え言葉で、実際の島の数は208ある
平戸藩主松浦静山が、出羽国(秋田県)の「象潟九十九島」に倣い名づけたとされる



佐世保市内には「九十九島八景」と呼ばれる8ヶ所の展望スポットがある
ここは、その一つで佐世保市下船越町にある展望公園「展海峰(てんかいほう)」という場所



右側には佐世保市が遠くに見える






写真を撮っていると、ある男性から声を掛けられた
「平戸城の駐車場でも一緒でしたよね」と



私の車が札幌ナンバーだったので声を掛けてくれたようだ
現在は大阪に住み悠々自適の生活を送っているが、少し前まで北海道で競走馬の牧場を経営していたという
馬主でもあり武豊騎手や福永祐一騎手などにも騎乗してもらったという



競馬好きな私としては知り合いになりたかったが、あっさりと去って行った



こちらは1階の展望台



2・3m下がるだけで見え方も変わってくる






現地では気付かなかったが写真をよく見ると佐世保湾に軍艦がいる



調べて見ると前日の23日まで、世界最大級のアメリカ海軍原子力空母「 ニミッツ」が停泊していたという
広島で開かれたG7サミットに合わせた寄港ともみられている



撮影 令和5年5月24日
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湊の立神岩(佐賀県唐津市湊町595)

2023年08月04日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月23日

湊の立神岩(唐津市天然記念物)
この周辺を走っていたとき、人気YouTuber「あいたの~愛犬と楽しくお出かけ~」でこの景勝地を訪れていたことを思い出した
今回の旅でこのYouTuber影響を受け、訪れた3つ目の場所になる



カーナビでは違う場所を案内されUターンもできず諦めかけた場所でもある
スマホのナビに救われたどり着くことができた



別名夫婦岩とも呼ばれている
約30mの大きな岩の柱が人のように寄り添っている



この巨岩は火山の噴火によってマグマが冷え固まったとき、ブロック状になった玄武岩でできている



確かに人の姿に見える、これが男岩か女岩かはわからない
女岩なら幼子を抱いているように見える



私の横を老人のサーファーが通っていく(いつの間にか沖に向かっている)
湊の立神岩は九州におけるサーフィンの発祥地として有名だそうで波打ち際には若者達が楽しんでいた



この老サーファーは独り波の高い場所へ移動しスタート
お爺さんは山に柴刈りに行ったのは昔の話しで、海に波乗りに行く時代になった



私の旅は寺社巡りが中心で景勝地を訪れる事は珍しい
旅の幅を広げる意味でいい刺激になった



撮影 令和5年5月23日
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角島大橋(山口県下関市本土 - 角島間)

2023年07月16日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月20日

角島大橋
若い頃から車の運転は好きだったが初めて角島大橋を走ったときには鳥肌が立った
北海道からは遠いが2年に一度は訪れている



平成5年(1993年)に着工し、平成12年(2000年)11月3日に開通した
全長1780m。完成後はその景観から山口県の新たな観光名所となっている



北長門海岸国定公園内に位置することから、橋脚の高さを抑え、周囲の景観に配慮した構造となっている



横断歩道を渡りながら



橋の両側の海は晴れた日には、エメラルドグリーンやコバルトブルーの美しい色をしている
今日は波もありサーファーの姿も見える



いつもならこの数キロ先にある角島灯台まで行くのだが、この後の予定もあり断念した



天気の良い日に訪れた時の動画



撮影 令和5年5月20日
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稲佐の浜(島根県出雲市大社町杵築北稲佐)

2023年07月10日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年6月18日

稲佐の浜
出雲大社の西方1kmにある海岸で、国譲り、国引きの神話で知られる浜
出雲大社には数度訪れているが、稲佐の浜を訪れたのは初めてである



国譲り神話の舞台でもあり、古事記では「伊那佐之小濱」、日本書紀では「五十田狭の小汀」と記されている
この浜は旧暦10月10日に、全国の八百万の神々をお迎えする浜でもある



弁天島
かつては稲佐湾のはるか沖にあったため、沖ノ御前、沖ノ島と呼ばれていた
神仏習合の頃には「弁財天」が祀られていたが、明治のころから「豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)」が祀られている



弁天島の前にある砂浜の砂を袋に入れている人を見かけた
近くにいた若者に尋ねてみると、出雲大社の砂と交換すると御利益があると



この日の1時間ほど前に出雲大社で見たある光景を思い出した
自宅に戻り調べてみるとその勘は当たっていた
出雲大社の素鵞社で稲佐の浜の砂と「お清めの砂」として交換する由来は、古くからあったという



それには正式な手順があるようだ
① 稲佐の浜で砂を収集(お砂取り)
② 出雲大社での正式な参拝が必要
<勢溜・祓社・祓橋・手水舎・拝殿・八足門・十九社・素鵞社・神楽殿の順>



出雲大社素鵞社
素鵞社で参拝後に砂の交換ができる
③ 社を左側から回り込み、木箱に稲佐の浜の砂を入れる



④ 木箱から乾いた色の砂をいただく
  最後に、素鵞社の正面にまわり、一礼



私も御利益があるならと砂を袋にいれた記憶があるのだが……
御利益よりも加速する忘却のほうが深刻だ



ベンチに腰掛け神話の世界を想像しながら海を眺める



周辺の景色









撮影 令和5年6月18日
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出雲阿国の墓(島根県出雲市大社町杵築北)

2023年07月09日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年6月18日

歌舞伎の創始者 出雲阿国の墓
出雲大社から稲佐浜へ向かう途中にある
出雲の阿国は慶長8年(1603年)、京でかぶき踊りを演じ、歌舞伎をはじめた人物といわれている









石段を登っていくと中村家の墓があり、出雲阿国の墓は、特別に石棚で囲った平たい自然石で作られている



出雲国杵築中村の里の鍛冶 中村三右衛門の娘であり、出雲大社の神前巫女となり
文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている



慶長5年(1600年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録がある
ヤヤコ踊りとは、ヤヤコ(幼女・少女)による小歌踊の芸能で 出雲の阿国が歌舞伎踊を創始する前に演じていたという
3年後の慶長8年(1603年)に「かぶき踊」を始めたと考えられている



当時多くの芸能は、河原や寺社の境内などに作られた仮設の舞台で演じられ、興行が終わると舞台は取り壊された
しかし阿国は、京都の北野神社の境内に自分専用の舞台を作って踊ったといわれている
北野天満宮の祠官松梅院の僧禅昌は、阿国の芸と人物に対する最も理解のある有力な庇護者であった



慶長8年(1603年)5月6日に女院御所で踊ったという記録がある
文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっている



阿国役を演じた女優には大原麗子、多岐川裕美、内田理名、菊川怜、森田望智などがいる
これだけでも自分のなかでは阿国という女性が魅力的な女性であったことが想像できる



慶長12年(1607年)に江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えた
出雲に戻り尼になったという伝承もある
京都大徳寺の三玄院にも同様に阿国のものといわれる墓があり、夫の名古屋山三の墓と共に供養されている



撮影 令和5年6月18日
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余部鉄橋「空の駅」(兵庫県美方郡香美町香住区余部)

2023年06月26日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月15日

余部鉄橋「空の駅」
旧余部鉄橋は、明治45年1月に完成した東洋随一の鋼トレッスル橋
昭和61年12月の列車転落事故を契機に、架け替えに向けた取り組みがなされ、平成22年8月に現在の余部橋梁が完成した



旧余部鉄橋の歴史を後世に継承し、人々の交流を促す観光拠点とするため、鉄橋の一部を展望施設として残した



旧鉄橋直下に自由広場等からなる公園施設とあわせ、平成25年5月に展望施設「空の駅」が完成した



展望施設へ行くには急勾配の上り坂(高低差約40m、延長約300m)を歩いていたが……



平成29年11月にエレベーター(愛称:余部クリスタルタワー)を整備した



ガラス張りのエレベーターは眺めもいい



空の駅から海岸線を眺める






山陰線時刻表



待合室に置かれていたノートを開いてみる
文字だけの物が多いなか、イラスト付きの凝ったものもある



短時間でしかも即興で描いたとは思えない一枚だ



こちらの線路は山陰線で実際に運行しているもの



隣には、平成25年5月に完成した展望施設「空の駅」



「空の駅」側の線路は自由に歩くことができる
観光バスのガイドに案内されながら集団がやって来る



この先には線路がなく、ブログをやっていなければ高所恐怖症の私には近寄りたくない場所だ



同じ場所を下から見るとこのようになり高さ40mの橋梁側に立っている
この橋梁は平成26年度 土木学会選奨土木遺産に認定されている



駐車場に戻る途中、大きな亀に出会した
調べてみると、「カメの駅長」で 体長約40cm、体重約4.4kgのメスのケヅメリクガメとのこと



地元余部小学校の児童が「かめだそら」と命名し、愛称は「そらちゃん」
会えれば幸運だという。確かにこの場所には何度か訪れているが会ったのは初めてだ



この日は定休日ではあったが、隣接している道の駅にも「そらちゃん」の姿があった



撮影 令和5年5月15日
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犬山城下町<城とまちミュージアム、どんでん館>(愛知県犬山市)

2023年06月14日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月12日

犬山城下町を歩く
国宝犬山城を含むセット券を購入(760円)
犬山市文化史料館(城とまちミュージアム+IMASEN 犬山からくりミュージアム)と「どんでん館」に向かった
「城とまちミュージアム」に入館すると、隣の「犬山からくりミュージアム」で実演が始まることを案内された

IMASEN 犬山からくりミュージアム
初めて犬山城を訪れ周辺を歩いていたとき、からくり人形の制作しているところを見たことがある
からくり文化の発信の地であることを後になって知った
地元の犬山高校「からくり文化部」では、からくり人形の操作と、そのお囃子の練習を行っている
全国でも唯一の部活動だということをテレビで見たことがある



平日は2回、土休日は5回、からくり人形の解説と実演を行っている
この人形だけで、軽自動車が購入できると聞いた
あの有名な「茶運び人形」の実物を観ることができるとは思わなかった
ゼンマイや歯車などの組み合わせで動いていることが良く理解できた



茶運び人形は、その設計図と製作方法が記載されている「機構図彙(からくりずい)」と呼ばれる江戸時代に書かれた唯一の指南書の中にのみ存在し、
この機構図彙を手本に、幻の人形とされていた「茶運び人形」を完全復元させたのが「七代玉屋庄兵衛」だという
毎週金曜日と土曜日には、九代玉屋庄兵衛のからくり人形制作風景が公開されている



からくりには「山車からくり」と「座敷からくり」がある
「山車」は神が出現する機微を示す象徴で、からくり人形は神の具現として「山車」に設置されている



この「大型からくり」の操作を間近で見学することができる



館内に展示されている作品










































城とまちミュージアム



犬山城と城下町の模型



商人や職人のなかでも同業者を近くに住まわせることで町の発展をうながしてきた
鍛治屋町、魚屋町、鵜飼町といった町名をみることができる



現在も江戸時代とほぼ同じ町割りのまま、城と城下町が残っている全国でも数少ない町だという



どんでん館
何があるかもわからず、少し離れた場所にもあり、途中で疲れて戻ろうかと弱気になってしまった



ここには、毎年4月の第1土日に行われる「犬山祭」の高さ8mの巨大な車山(やま)が展示されていた
犬山祭は、寛永12年(1635)に始まる針綱神社の祭礼で、国の重要無形民俗文化財に指定されている



愛知県の有形民俗文化財に指定されている3層の車山13輌が城下町に繰り出し、笛や太鼓に合わせてからくり人形を披露する
どんでん館では、祭りの様子を短くまとめられた画像も用意されていて、その雰囲気がよく伝わってくる



重さ3トン超の車山を、男達が豪快に持ち上げて方向転換する「どんでん」は大迫力だという



夜は、各車山に365個もの提灯がともされ、満開の桜並木の城下町を練り歩くさまは、豪華絢爛で錦絵を見るようだとも



この高さのある建物のなかに車山が保管されている



街並みの先には犬山城
歴史ある地域の伝統文化は素晴らしい






撮影 令和5年5月12日
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