今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

巨鼇山 清見興国禅寺<清見寺>(静岡県静岡市清水区興津清見寺町)

2017年06月29日 | 神社・仏閣
巨鼇山 清見寺
正式には『巨鼇山 清見興国禅寺』(こごうさん せいけんこうこくぜんじ)
約1300年程前の白鳳年間(7世紀後半)東北の蝦夷に備えてこの地に関所(清見関)が設けられ、関所の鎮護として仏堂を建立
この仏堂を以って清見寺の始めと伝えられている

総門
清見寺と刻まれた石柱横に駐車スペースがある。階段上に総門がある




『東海名區』の扁額は、朝鮮人錦谷居士筆



山門
慶安4年(1651)に建築され、屋根は檜皮葺であったが、明治22年(1889)に現在の瓦葺に



山門の設計は、左甚五郎の弟子で、釘を一本も使ってないのが、この山門の特徴である



田中清左衛門逆修塔
関ヶ原合戦後に伊吹山中に潜伏していた石田三成を捕らえた



六道地蔵尊
人はこの世を終わって後 冥土の長旅をして六道の辻に出る



生前の行いに因って 六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の内 何れかを自ら選ぶと云う



大方丈
受付で拝観料を納め注意事項を聞く。写真撮影が自由というのも嬉しい
正面に琉球王子筆の「永世孝亨」の額



慶長12年(1607)以来、清見寺は東海道を往還した歴代朝鮮通信使の宿泊や供応を行った関係から、通信使や随員たちの書蹟や絵画など、歴史資料が多数保存されている






西の間の奥には家康「手習いの間」の遺搆が保存されている






名勝 清見寺庭園
江戸時代初期に築庭、中期に改修された。家康はこの庭に駿府城より虎石、亀石、牛石を移しこの庭に配した



庭前の砂利盛りは銀砂灘と称し、周囲の緑色に反映している



書院
慶応3年(1876)に建築。桁行20.4米、梁間13.3米に34畳の総入側がある
木材は木曽の檜材を用い上段8畳の間は格天井にして、東面に床及違棚がある



部屋の様子が細かなところまで他と大きく違う感じがした



例えば八方睨みの龍



説明文など一切無いが惹きつけられる



左を見ると「玉座」



明治天皇御成の間が保存されている



予備知識も無く、この寺訪れたがこの寺の格式の高さを知った



古来より戦乱時に(信玄駿河乱入、家康甲州攻め、秀吉北条征伐)この寺が拠点になっていた



「潮音閣」から受付となる場所を見る






外に出る。「東玄関」との案内札があった



鐘楼
麓鐘は正和3年(1314)の鋳造である
天正18年(1590)4月豊臣秀吉伊豆韮山城攻伐の際、陣中に於いて使用したと云われている



文久3年(1863)に改築。梵鐘は静岡県指定文化財



臥龍梅
家康が清見関の梅を取らせて接樹したもの
「龍臥して法の教えを聞くほどに梅花開く身となりにけり」 与謝野晶子



咸臨丸殉難碑
明治維新の際、清水港において咸臨丸が明治政府の軍艦に砲撃された
20余名は格闘したが殺され海に投げこまれた。その霊を憐れみ明治20年記念碑の除幕と法要が営まれた



仏殿
天保13年(1842)の再建



正面には釈迦如来の坐像を泰安し、両脇に迦葉、阿難の両尊者の像が安置されている



扁額の「興国」は寺名(清見興国禅寺)



大玄関
建物は唐破風造り、元和2年(1616)家康三女静照院より大方丈の大玄関の寄進
玄関の天井板は清見関の古材を使用したもので、血天井を見ることができる



海會塔
18世宗詮和尚の遺骨が納められている
川の水の全てが海に集まるがごとく、死ねば皆同じところで会うのだという意味をこめて「海會塔」と名付けられた



聖観世音金銅像
新西国観音霊場第1番に清見寺が指定された記念と日華事変の戦死者の菩提を弔うため昭和12年に落成



その後、戦争のため供出。昭和24年再建



五百羅漢石像
天明年間(1781~1788)の彫造



雑草の中の羅漢像もなかなか面白い



個性的な石像が多く、つい夢中になってしまう



顔ではなく、お腹に注目してほしい



この場所は、島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面になっているそうだ



何故この寺を訪れたのか記憶は定かではないが、来てよかったと思った



駐車場では地元の女性に、「遠いところからお詣りにきてくれた」と感謝された



「朝鮮通信使」に対する地元に伝わる裏話から、静岡県から眺める富士山は日本一に至るまで面白い話しを聞くことができた



山門と総門の間には東海道本線の線路が横切っている



撮影 平成29年5月14日
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浜松市立博物館(静岡県浜松市中区蜆塚)

2017年06月26日 | 博物館・美術館・記念館
浜松市立博物館(はまはく)
昨夜からの雨が降り止まず、天気予報も終日雨。このような日は美術館か博物館で過ごすようにしている
ネットで調べてみると比較的近くに博物館があった
歴史系博物館で、原始から近代まで、浜松地域の歴史資料を紹介している

ナウマンゾウの復元
館内に入り最初に視界に入ってくるのが「ナウマンゾウ」



浜松市西区佐浜町で化石が発見された



浜名湖が形作られた10~35万年前、入り江付近にはワニが生息し、陸地にはゾウがいた



蜆塚屈葬人骨「蜆塚遺跡 第25号人骨」
蜆塚(しじみづか)遺跡から縄文人の墓地が見つかった
4000年前の人物の骨格や埋葬方法がわかった貴重な遺跡



貝塚の貝殻



土器



詳細は不明だが仏像が展示してあった



仏像を撮る機会が少ないので貴重な経験だ



普段は一眼レフで撮っているが、雨脚が強く博物館にはコンデジとスマホを持ち込んだ
スマホも驚くほど良く撮れる



テーマ展として「浜松の林業の道具」、屋外では史跡 蜆塚遺跡が公開されていたが、雨が激しく断念

撮影 平成29年5月13日
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久能山東照宮 その2(静岡県静岡市駿河区根古屋)

2017年06月24日 | 神社・仏閣
久能山東照宮
徳川家康が元和2年(1616年)に死去した後、遺命によって埋葬された
元和2年(1617)2代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された
3代将軍・家光の代になって久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂、神楽殿、鐘楼、五重塔、楼門が増築された

玉垣(重要文化財)
玉垣は御社殿の周囲にめぐらされた垣
玉垣腰に92枚・渡廊下腰に14枚・計106枚の彫刻があり、それぞれ一枚の板を彫り上げた透彫
御社殿の入口になる



御社殿(国宝)
御祭神徳川家康公をお祀りする「本殿」と参拝をするための「拝殿」を「石の間」で連結した「権現造」と呼ばれる様式






拝殿の内部



本殿東側



本殿西側
極彩色の建造物に違和感をもっていたが、何故か東照宮独特の色づかいにはいつも魅了される



西側壁画






御社殿全景



この場所から記念撮影をする人が多い



廟所参道(重要文化財)
廟門から神廟までの間をつなぐ参道。厳かな雰囲気が漂う



神廟(重要文化財)



創建当初は木造桧皮葺の造りであったが、寛永17年(1640)に3代将軍徳川家光により現在の石造宝塔に造替された



宝塔の高さは5.5m、外廻り約8m。神廟は家康公遺命により西向きに



西には両親が子授け祈願の参籠をされたという鳳来寺があり、さらに西に岡崎の松平家の菩提寺大樹寺、家康誕生の地である岡崎城がある



家康公愛馬之霊所
家康の愛馬を埋めた場所



「金の成る木」
金の成る木について家臣に問われたところ、家康は自ら三本の木を描き「よろず程よ木」「志ひふかき(慈悲深き)」「志やうぢ木(正直)」これを常々信用すれば必ず富貴が得られよう



楼門に戻る



表側左右の格子戸内の随身






この日は雨予報であったが、その心配もなくなり参拝者が午後になり増えてきた。



徳川家の家紋の「双葉葵」
調べてみると、葉っぱが2枚、近くにつくところから「双葉」の名になったとのこと
徳川家の家紋(葵の御紋)は、この葉が3枚使われたデザイン



撮影 平成29年5月14日
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久能山東照宮 その1(静岡県静岡市駿河区根古屋)

2017年06月23日 | 神社・仏閣
久能山東照宮
徳川家康の4つの遺言の最初に「遺骸は久能山に埋葬すること」とある
たったこれだけの予備知識で比較的近くにいたこともあり久能山に向かった



1,159段の表参道を登る方法もあったが、日本平からロープウェイで久能山に渡る方法を選んだ
日本平の大型駐車場に車を駐め、往復券と拝観券を購入
下ること僅か5分で東照宮に到着



案内板は、後日、写真の建物を確認するために利用している



手水処
参拝者が多いと手水(参拝前に手を清める水)もこのような形になっている



目の前には急な階段、奥に見える建物は「楼門」



楼門(重要文化財)
第108代 後水尾天皇の宸筆「東照大権現」の扁額が掲げてある為、「勅額御門」とも言われている



裏側左右の柵内に狛犬(角のない方が獅子、角の有る方が狛犬)が据えられている






徳川家康公手形



参拝者が入らないように斜め横方向から






久能稲荷神社・厳島神社
末社稲荷神社と末社厳島神社と合殿になって西向きに建っている



手水舎



神厩(重要文化財)
当時は家康の愛馬を飼育していた



現在は左甚五郎作と伝えられる木像の神馬が納められている



五重塔跡
三代将軍家光公の命により寛永13年正月に完成した、高さ約30メートルの五重塔があった
明治時代の神仏分離の際に取り払われた



鼓楼(重要文化財)
創建当時は鐘楼だったが、明治時代の神仏分離の際、鐘を太鼓に替えて今の名称に改められた






唐門(重要文化財)
拝殿正面にある門で、屋根は銅瓦本葺黒漆塗の四方唐破風造






神楽殿(重要文化財)



神庫(重要文化財)
校倉造りの建物で、博物館ができるまでは神社に伝わる宝物類が納められていた






日枝神社(重要文化財)
創建当時は本地堂として薬師如来像(東照大権現の本地仏が安置されていた



神仏分離の際に仏像を移し、楼門内東側に鎮座していた山王社の御神体を納めて社名を日枝神社と改めた






撮影 平成29年5月14日
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登呂遺跡(静岡県静岡市駿河区登呂)

2017年06月20日 | 名所・旧跡
特別史跡 登呂遺跡
昔、歴史教科書で学んだ記憶はあるが、詳細については全く理解していない
弥生時代後期のもので2度目の洪水で集落が埋没する直前の住居のうち4軒と高床倉庫2棟、祭殿1棟が復元されている



祭殿
正面の幅7m、奥行き4m。棟木を建物本体の外側で支える棟持柱(むねもちはしら)が特徴



登呂ムラ全体の儀式(豊作祈願やその占い)や重要な話し合いなどに使われたと考えられる
建物の前に広場が設けられ、周囲の溝によって、住居とは区別された特別な区域であったと考えられる



廃絶後の状況を示す住居跡
柱や梁、羽目板、屋根などの上屋の構造材を取り去った住居跡
環状に盛土された周堤と土留めの板材、床面には抜き去られた柱の跡を再現している



2号住居
昭和25年に発見された住居跡を復原



上屋は4本の柱で支え、床の中央に炉を設けている



周堤は盛土され、内側に羽目板をめぐらす






3号住居
昭和23年に発見






1号住居
昭和22年に発見



住居の中で炉を使用しての各種の体験をしている



4号住居






2号高床倉庫
平成12年の再調査で発見された。6本柱の高床倉庫跡
柱間は3.9m×2.3m、床板までの高さは推定で1.3m。穀物類の保管を目的とした建物



火おこし体験



摩擦熱を利用した体験で小学生姉妹が挑戦。見事に成功し大喜び



次に姉妹の父親が違った道具による難関の火おこしに挑戦
結果は残念ながら失敗、楽しい一時だった



丸太割体験
丸太をそれよりも硬い木片でくさびを入れ、木槌で割っていくというもの



現在、遺跡は登呂公園として整備されている
親子連れが多く体験などもあり十分楽しむことができる



残っている場所を廻ってみる
住居を見ながら、現在のキャンプ用のテントと構造が似ていると考えていた



屋外では大昔の人の智慧が、文明の発達した現代にも活かされているとしたら凄いことだ






静岡市立登呂博物館
登呂公園内に隣接している。博物館内は初めての経験だが写真撮影禁止になっている



撮影 平成29年5月13日
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初山 宝林寺(静岡県浜松市北区細江町)

2017年06月17日 | 神社・仏閣
初山 宝林寺
道の駅に向かう途中に見覚えのある寺名の案内板が出ていたので立ち寄る
大規模な駐車場を有しているということは経験上かなり期待できる

仏殿(重要文化財)
寛文7年(1667)建立、黄檗宗伝来初期の中国明朝風様式を現代に伝える






「宝林禅寺」の扁額は隠元禅師の書



釈迦三尊像(静岡県指定文化財)









達磨大師像(静岡県指定文化財)



梁の武帝像(静岡県指定文化財)



二十四諸天像(静岡県指定文化財)









報恩堂
宗祖隠元禅師や開基近藤貞用の洪徳に報いるためのお堂






隠元禅師の等身大の木像を祀り、近藤家代々の位牌を安置



龍文堂
願掛けの「鎮守龍文坊大権現」を祀るご祈祷と座禅のお堂



「金運上昇」という旗の文字に惹かれ念入りにお詣りをする



「鎮守龍文坊大権現」



金鳴石
「支那金鳴石初山永宝」と彫りこまれ独湛禅師が中国から持ってきたと伝えられる摩訶不思議な石



叩くと澄んだ音がなることから「金鳴石」とよばれ、商売繁盛の石「お金の成る石」「宝くじが当たる石」としてお参りが絶えることがない
場所によって音色が異なり叩いているうちに楽しくなっていく
かなり金運が向いてきそうな感じがした



石仏
奥浜名湖にはたくさんの石仏、石碑道祖神が点在する
その中に「初山系石仏」と呼ばれている石仏があり、宝林寺が発祥の地

阿弥陀三石仏



右奥は方丈



石仏五如来









方丈(重要文化財)
正徳6年(1716)に歴代住職の起居堂として建てられた






中央仏間に独湛禅師の等身大の木像が祀られている



玄関脇の水琴窟が澄んだ音色を響かせている



仏殿裏に「蔵経所」の扁額



広隆寺の弥勒菩薩を思わせるような魅力的な仏像



撮影 平成29年5月12日
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万松山 龍潭寺(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)

2017年06月16日 | 神社・仏閣
万松山 龍潭寺(りょうたんじ)
NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』で「おとわ」は井伊家の跡取りが代々受け継ぐ
「次郎」の名を与えられ次郎法師と名乗り出家し、厳しい修業の日々を送った寺である
すぐ忘れるのだが案内板で境内の状況を頭に入れる



伝井伊共保出生井(浜松市指定史跡)
寛弘7年(1010)井伊氏初代の井伊共保(ともやす)が生まれたと伝えられる井戸
周囲は畑というより畑の中にある






江戸時代に建てられた笠塔婆形の石碑に井戸の傍らに橘の木があったことから「橘」を家紋、「井」を旗幕の紋としたことが記されている



井戸の整備は彦根藩主が繰り返し行っており井伊氏にまつわる聖地として篤く崇拝していた






山門
明暦2年(1656)建立。四脚門。扁額には山号の「萬松山」



「浄苑」と記された建物



内部に「観音大菩薩尊銅像」が安置されている。



鐘楼



ある程度覚悟はしていたが、大河ドラマの影響で予想以上の観光客で落ち着くまで屋外を廻ることにした



井伊氏歴代墓所
正面右に初代 井伊共保、左に22代 井伊直盛(桶狭間で戦死、直虎の父)



写真右から、直盛夫人、井伊直虎(次郎法師)、23代 井伊直親(今川の手で殺害)、直親夫人、24代 井伊直政



宗良親王 御墓
元中年間(1384年 - 1392年)、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの寺を中興した



摂社 井伊社



「水原秋櫻子 句碑」 水無月の 落葉とどめず 神います



「慈母観音石」
慈母の胸に抱かれた赤子の姿がうかがえるところにより信仰されている
信仰心のない私にはどうしてもみえない



井伊谷宮



本堂
一時の混雑が解消されてきたので堂内に入ることにした



戦国時代の永禄3年(1560)に戦死した井伊直盛がこの寺に葬られると、直盛の法号から龍潭寺と改められた



大河ドラマではこの場所で畑を耕したり、剣術の稽古をしたりしている



やはり現地で歴史を感じることは大切なことだ









本尊 虚空蔵菩薩(秘仏)  御前立 釈迦如来三尊佛






開山堂
元禄15年(1702)建立









開山黙宗瑞淵和尚






井伊家霊屋



堂内には元祖共保公、22代直盛公、24代直政公の木像を安置する。幕末の大老井伊直弼公の位牌もお祀りされている



24代直政公



22代直盛公



元祖共保公



萬松稲荷
享保1年(1716)稲荷大明神建立



寛政8年(1796)稲荷堂再建






井伊家赤備具足



庭園(国名勝)
池泉鑑賞式庭園。寺伝によれば小堀遠州の作庭



音声により庭園の詳細な説明がなされ、2度も聞いたが想像力が欠如しているためか良く理解できない






仁王門
昭和62年(1987)に建立






撮影 平成29年5月12日
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大乗山宝池院 摩訶耶寺(静岡県浜松市北区三ヶ日町)

2017年06月15日 | 神社・仏閣
大乗山宝池院 摩訶耶寺(まかやじ)
道の駅の情報で重要文化財の仏像があるということで訪れた

高麗門
駐車場から少し歩くと遠くに山門が見えてくる



家康が浜名湖に水城として築城した「野地城」の城門を山門として移築



門には山号と寺名が記されている



笠塔婆
正面と左右に六地像を彫っている。裏に元禄7年(1694)造立とある



西国三十三観音像



歴史(江戸初期1660年頃)を感じる像の中で比較的顔の形がわかるものを撮ってみた



くりからの滝



少し高いところから滝を眺めてみる。百観音巡礼(西国・板東・秩父)石仏が各所に点在している



津島神社






近藤用行公夫婦御廟
元亀4年(1573)武田信玄軍の兵火により旧地にあった諸堂が焼失
江戸時代になり、三ヶ日地方の領主なった近藤用行の力添えにより寛永9年(1632)に本堂再建



石灯籠
領主近藤用高が大目付に昇進したお礼として奉納。遠州地方の石灯籠では最古級



本堂
摩訶耶寺は、神亀3年(726)行基によって新達寺として開創
平安時代に千頭ヶ峯の観音岩と呼ばれる場所に移り名を真萱寺へと変え、マカヤ寺と呼ばれるようになった



現本堂は寛永9年(1632)年に建造。入母屋造、5間4面総欅



屋根には山号の「大乗山」、これまで多くの寺を訪れたが初めて見たかも知れない



彫刻も美しい



堂内は撮影可。格子天井には法橋関中の筆による極彩色の花鳥












仏像のみ撮影禁止のため掲載できないが不動明王と千手観音は重要文化財
間近で拝観できるため仏像が好きな私には大きな喜びとなった



「南無大師遍照金剛(弘法大師空海に帰依するという意味)」



本堂蛙股「飛天像」の彫刻






摩訶耶寺庭園
平安末期から鎌倉初期の日本の中世庭園を代表するもので、座視鑑賞式池泉庭



庭園の良さが理解できない自分が情けない



庭園を一周し本堂に戻る



撮影 平成29年5月12日
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常霊山 本興寺(静岡県湖西市鷲津)

2017年06月14日 | 神社・仏閣
常霊山 本興寺
道の駅「潮見坂」の案内板による情報で4つの訪れる場所の候補を選択。ナビに電話番号を入力し距離の近い順に車を走らせる
最初の寺院は道路が狭く断念、本興寺は2番目の候補地で駐車場の広さから、かなりの規模の寺院と想像できた

惣門(湖西市指定文化財)



延宝2年(1674年)三州吉田城の城門を移築



惣門を進むと参道の左右に塔頭が四院ある

「東光院」






「光明院」






「玉葉院」






「長勝院」






「護国塔」



大黒堂
貞享元年(1684年)の建立。延享元年(1744年)再建



「大黒天」の扁額



招福・開運・学問増進の神である大黒天が祀られている



弁天堂
元禄13年(1700年)建立。嘉永3年(1850年)再建



音楽・弁財・財福・智慧の徳がある弁財天女が祀られている



三十番神堂(湖西市指定文化財)
応永11年(1404年)勧請、寛永18年(1641年)再建、文政5年(1822年)再造立



番神堂は日替わりの守護神である三十番神を祀る建物






本堂(重要文化財)
参道を歩いていると屋根の部分が現れ、やがて全貌が視界に入ってくる
「ちびまる子ちゃん」の頭を想像してしまった



もとは真言宗の寺院であったが、永徳3年(1385年)に開山日乗聖人により法華宗に改宗
天文21年(1552年)に再建された



本尊は本仏釈迦牟尼世尊及び十界勧請の諸尊を祀っている



扁額には何が書かれているのか、全くわからない



桁行5間・梁間5間の萱葺き



実に魅力的なお堂だ



鐘楼
延宝2年(1674年)に建立、文政5年(1822年)に再建、大将4年(1915年)に修復
梵鐘は太平洋戦争の時に供出された



形のいい鐘楼だが袴の部分にポスターが貼られていたので上部のみの写真となった。



千仏堂(湖西市指定文化財)
元禄3年(1700年)に建立、天保13年(1842年)に再建



渡辺方綱(武蔵国野本藩主)夫人が娘の息災延命を願って千体仏とともに寄進したもの



客殿(湖西市指定文化財)
寛永14年(1637年)に建立、安永2年(1773年)に再建






中門(湖西市指定文化財)
修復中である






大書院
書院内のみ有料である









小堀遠州の庭。北原白秋の歌にも詠まれている
「水の音ただに一つぞ 聞こえける その外は何も 申すことなし」



最後に再び本堂。アンバランスな感じがするが不思議な魅力があり、すっかり気に入ってしまった
係の女性の話しでは、雨漏りがあるので修復申請中とのこと



撮影 平成29年5月12日
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円福山 豊川閣 妙厳寺<通称:豊川稲荷> その2(愛知県豊川市豊川町)

2017年06月11日 | 神社・仏閣
広大な敷地の豊川稲荷、初めて訪れたこともあってボランティアガイドのお世話になった
約1時間説明を聞く事に徹し、その後写真を撮るためもう一度同じ場所を廻った



宝雲殿
本尊に釋迦牟尼佛十三佛を祀り、後壇を檀信徒の位牌堂とする仏事、法要を行う殿堂






禅堂(万燈堂) 
文久3年(1863年)建立。かつては信者が燈明をあげられたお堂で、中央に不動尊を祀る



戦後、座禅堂に改修された。座禅修行の道場






小窓を開けると内部に七福神が安置






「准提観音」



弘法堂



大黒堂



堂前の左右に立つ石像は、手に触れさすることで福徳を授かるといわれる
新しい石像が参詣者の手によって変化していく様子が面白い



どこに触れさすっているかがよくわかる
かなり進行しているがこれ以上ボケないようにと頭を、これ以上出ないようにとお腹をさすってみた



大黒堂内に置かれていた石像。多くの人に福徳を与えたことがよくわかる



奥の院参道



ところどころに置かれている狐像



霊狐塚






大きな岩の塊は富士山噴火の溶岩



岩の上の狐



赤い箱の奥の隙間にも狐(どん底の状況)






商売繁盛などの願いが叶った人が



お礼に狐像を奉納していくそうだ



この数を見ているとご利益がありそうな感じがする



奥の院
文化11年建立。もと本殿の拝殿であったのを昭和5年の改築に際して奥の院拝殿とした






納符堂



景雲門
安政5年創建。もとは奥の院拝殿であったが、昭和5年に移転






三重塔






人生の後半を生きている人達が間断なく訪れる



書院



立願所



書院と立願所の中央にある赤いポスト。現役では日本一古いポスト



正式名称はわからないが境内にたくさん並んでいるのぼり。有名人も寄進している
大リーガーの鈴木一朗(イチロー)氏もその一人。有名すぎて室内に置かれている



総門横に咲いていた美しい花



撮影 平成29年5月11日
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円福山 豊川閣 妙厳寺<通称:豊川稲荷> その1(愛知県豊川市豊川町)

2017年06月10日 | 神社・仏閣
円福山 豊川閣 妙厳寺(みょうごんじ)<通称:豊川稲荷>
日本三大稲荷の1つ。境内に祀られる鎮守の稲荷(吒枳尼天)が有名なため、一般には「豊川稲荷」の名で広く知られる

総門
少し離れた駐車場から5・6分歩くと総門が見えてくる
現在のものは明治17年(1884年)に改築したもの



門扉は「如輪目」の欅一枚板で造られている
向かって右側の扉の表面が浮き出ており、触れると幸運がくるとのこと



左側の扉は反対に窪んでいるいることが触れてみるとはっきりわかる
普段なら見逃すところだがガイドさんをお願いしたことによって知ることとなった



柱の金具には鯉が龍に変化していく様子が刻まれている






総門の正面には山門が



左に20~30mほど歩くと鳥居がある



鎮守堂
別名龍天堂。祭神は白山妙理大権現、曹洞宗の寺院では守護神として祀られている



昔の神楽殿であったものを本殿落慶開帳に際し修築したもの



鐘楼堂
昭和12年春、本殿落慶記念に寄進された。



梵鐘は戦中、国に徴用されたため昭和20年12月8日改鋳造したもの。



山門
入母屋造楼門。天文5年(1536年)、今川義元により寄進される






扁額には山号の「円福山」



いつも撮影に苦労する仁王像。金網が試練となり、一眼レフではうまくいかず…



困ったときのスマホ頼み。うまくいった



寺宝館
しばらく閉館が続いていると説明を受けた。



漱水舎



お札授与所



鳥居の奥に本殿が見える



豊楽殿
文政7年(1824年)の建立で旧本殿の祈祷殿であった



大本殿の新築により移築された






御輿殿






本殿
明治41年起工、昭和5年完成の御祈祷根本道場
本殿前正面の階段工事のため車両が駐まっている



ガイドさんが教えてくれた撮影ポイント



総欅造妻入二重屋根三方向拝構造



狐が本殿を護っている



吒枳尼天を祀る






賽銭箱の大きさには驚く



「瓢箪から駒が出る」
中国の仙人張果老は白い驢馬に乗って各地を廻り歩き、休むときは驢馬を瓢箪の中に収めていたという伝説がある






堂内各所にある見事な彫刻が参詣者の目を楽しませてくれる



撮影 平成29年5月11日
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北星山 西福寺(愛知県西尾市吉良町吉田桐杭)

2017年06月09日 | 神社・仏閣
北星山 宝幢院 西福寺(さいふくじ)
北条時頼により、天台宗の寺院として創建され、文安元年(1444)に浄土宗の寺院として再興されたと伝えられる



北斗星が境内の松に来臨した夢を見たことから山号を北星山に



「手水舎」



この日の朝に供えられたと思われる花。日本人の信仰心の厚さを感じる



「星福弁財天」



本堂
堂内の扉は閉じたままで内部を窺うことができなかった



鐘楼(愛知県指定文化財)
明治維新の神仏分離令に際し、岡崎市の伊賀八幡宮より、明治4年(1871)に移築した
伊賀八幡宮の諸建築が寛永13年(1636)に建立されているので、この鐘楼もこの時の建立と考えられる



桁行3間、梁間2間の袴腰付の建物で、屋根は入母屋造、桟瓦葺(もとはとち葺)
姿形がいいだけに周囲の電線が気になり、目立たぬ場所をさがしたらここになった



撮影 平成29年5月11日
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青龍山 金蓮寺(愛知県西尾市吉良町饗庭七度)

2017年06月08日 | 神社・仏閣
青龍山 金蓮寺(こんれんじ)
道の駅で隣に駐まっていた方に挨拶。埼玉県在住で全国の地名を現地で調べ研究しているという旅人だ
金蓮寺に行く予定だと話すと、忠臣蔵の敵役として悪名高い吉良上野介ゆかりの場所だと教えてくれた

本堂
金蓮寺には2年前に訪れたことがある。その時は台風が接近し、激しい雨が降りだし途中で最寄りの道の駅に避難した
この日は快晴で国宝の弥陀堂と堂内の仏像拝観ができると思い車を走らせた



駐車場に着いて驚いたのは境内に重機が入り参道の工事をしている
はりきってきただけに急に気持ちが萎えてしまった



弥陀堂(国宝)
弥陀堂前の参道が工事中で赤いコーンや重機が置かれ、それを避けているために不自然な写真になっている






堂内の仏像拝観を受付で申し出ると、住職が転倒による怪我で公開をお断りしていると
この寺とは相性が悪いのか、更に気持ちが萎えてしまった



次にこの寺を訪れることがあるのか無いのか……
複雑な気持ちで寺を後にした



撮影 平成29年5月11日
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大悲山 岩屋寺 (愛知県知多郡南知多町山海)

2017年06月07日 | 神社・仏閣
大悲山 岩屋寺(いわやでら)
尾張高野山宗の総本山。霊亀元年(715年)元正天皇の勅願所として、行基菩薩によって創建されたという

本堂
横幅のある本堂で、かなり後方からでなければ全体を撮ることができない



本堂内部だが撮影禁止だった



鐘楼
古来は四本柱の鐘楼であったとの伝承。元禄十年(1697)の火災により焼失。宝暦三年(1753)に再建された



阿弥陀堂
平治元年(1159)に野間の地に葬られた源義朝公の墓地をお詣りに訪れた親鸞聖人が参詣



この地へ我が門徒を詣でさせんと弘法大師七井の井戸の水を汲み、自ら阿弥陀如来の一尊を書き納められたと伝わる
現在の阿弥陀堂の本尊となっている



経蔵
一切経が収蔵されていた、三間四面の瓦葺二層総欅造り



寛政11年(1799)に着工、2年後に完成。係の女性によると一番歴史のある建物だと話してくれた



日本人なのに読めない。何て書いているのと尋ねても「………」



五百羅漢像
文政3年(1820)に当山の住職であった豪潮律師によって開眼された



もしかして被害に遭ったのではと考えてしまった



石工源吉の作と伝わっている。この帽子は何のためなのか



大師山 百八尊仏 遙拝所



係の女性から40分程で四国八十八箇所巡りができると紹介されたので、ついその気になったのだが……



石段を上がったところで、急に息切れと右膝に違和感が。旅の初日で無理はできないと即断



周辺の石仏から自分に合ったものを探した



奥ノ院
案内板から奥ノ院があることを知った
奥の院では疲れるだけであまりいい思いはないが、車でも行けるというので気持ちが動いた



「迷いを救う六地蔵菩薩」



「豪鉄大僧正」 尾張高野山開祖



数分歩くと建物が見えてくる



この辺りも石仏が多い






「波切不動明王」






「女人堂」内部



「岩窟」内部



空海は百日間の護摩修行を終えられた際に護摩の灰で千手観音を作り、行基菩薩が開眼された聖観音の御光の中へ奉安された
是が奥之院本尊になっている



岩屋寺の石仏は個性的で魅力がある









撮影 平成29年5月10日
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安養院(愛知県知多郡美浜町野間東畠)

2017年06月06日 | 神社・仏閣
安養院
白河天皇勅建の大御堂寺(野間大坊)一山の一院で「南ノ坊」と称し、江戸時代に安養院と改称した



野間大坊境内に地元の小学生が作成した周辺の寺院の歴史を記した案内板がある
気になる記載があったので訪れることにした



「手水鉢」



本堂



本尊は阿弥陀三尊仏。この地で源義朝と共に無念の最期を遂げた、鎌田政清の次男 政直が父の菩提を弔うための念持仏である



受付の女性に織田信長の三男 信孝が自刃した部屋について尋ねてみた
部屋の傷みも酷く公開はしていないが古い写真はあると持ってきていただいた
小学生の記事によると信孝は悔しさのあまり「梅の掛け軸に腸をを投げつけた」とある



貴重な写真を見せていただいた。お礼を述べ、お寺で販売していたミカンを一袋購入し本堂をあとにした



「みちびき地蔵尊」



「大蘇鉄」



撮影 平成29年5月10日
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