巨鼇山 清見寺
正式には『巨鼇山 清見興国禅寺』(こごうさん せいけんこうこくぜんじ)
約1300年程前の白鳳年間(7世紀後半)東北の蝦夷に備えてこの地に関所(清見関)が設けられ、関所の鎮護として仏堂を建立
この仏堂を以って清見寺の始めと伝えられている
総門
清見寺と刻まれた石柱横に駐車スペースがある。階段上に総門がある
『東海名區』の扁額は、朝鮮人錦谷居士筆
山門
慶安4年(1651)に建築され、屋根は檜皮葺であったが、明治22年(1889)に現在の瓦葺に
山門の設計は、左甚五郎の弟子で、釘を一本も使ってないのが、この山門の特徴である
田中清左衛門逆修塔
関ヶ原合戦後に伊吹山中に潜伏していた石田三成を捕らえた
六道地蔵尊
人はこの世を終わって後 冥土の長旅をして六道の辻に出る
生前の行いに因って 六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の内 何れかを自ら選ぶと云う
大方丈
受付で拝観料を納め注意事項を聞く。写真撮影が自由というのも嬉しい
正面に琉球王子筆の「永世孝亨」の額
慶長12年(1607)以来、清見寺は東海道を往還した歴代朝鮮通信使の宿泊や供応を行った関係から、通信使や随員たちの書蹟や絵画など、歴史資料が多数保存されている
西の間の奥には家康「手習いの間」の遺搆が保存されている
名勝 清見寺庭園
江戸時代初期に築庭、中期に改修された。家康はこの庭に駿府城より虎石、亀石、牛石を移しこの庭に配した
庭前の砂利盛りは銀砂灘と称し、周囲の緑色に反映している
書院
慶応3年(1876)に建築。桁行20.4米、梁間13.3米に34畳の総入側がある
木材は木曽の檜材を用い上段8畳の間は格天井にして、東面に床及違棚がある
部屋の様子が細かなところまで他と大きく違う感じがした
例えば八方睨みの龍
説明文など一切無いが惹きつけられる
左を見ると「玉座」
明治天皇御成の間が保存されている
予備知識も無く、この寺訪れたがこの寺の格式の高さを知った
古来より戦乱時に(信玄駿河乱入、家康甲州攻め、秀吉北条征伐)この寺が拠点になっていた
「潮音閣」から受付となる場所を見る
外に出る。「東玄関」との案内札があった
鐘楼
麓鐘は正和3年(1314)の鋳造である
天正18年(1590)4月豊臣秀吉伊豆韮山城攻伐の際、陣中に於いて使用したと云われている
文久3年(1863)に改築。梵鐘は静岡県指定文化財
臥龍梅
家康が清見関の梅を取らせて接樹したもの
「龍臥して法の教えを聞くほどに梅花開く身となりにけり」 与謝野晶子
咸臨丸殉難碑
明治維新の際、清水港において咸臨丸が明治政府の軍艦に砲撃された
20余名は格闘したが殺され海に投げこまれた。その霊を憐れみ明治20年記念碑の除幕と法要が営まれた
仏殿
天保13年(1842)の再建
正面には釈迦如来の坐像を泰安し、両脇に迦葉、阿難の両尊者の像が安置されている
扁額の「興国」は寺名(清見興国禅寺)
大玄関
建物は唐破風造り、元和2年(1616)家康三女静照院より大方丈の大玄関の寄進
玄関の天井板は清見関の古材を使用したもので、血天井を見ることができる
海會塔
18世宗詮和尚の遺骨が納められている
川の水の全てが海に集まるがごとく、死ねば皆同じところで会うのだという意味をこめて「海會塔」と名付けられた
聖観世音金銅像
新西国観音霊場第1番に清見寺が指定された記念と日華事変の戦死者の菩提を弔うため昭和12年に落成
その後、戦争のため供出。昭和24年再建
五百羅漢石像
天明年間(1781~1788)の彫造
雑草の中の羅漢像もなかなか面白い
個性的な石像が多く、つい夢中になってしまう
顔ではなく、お腹に注目してほしい
この場所は、島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面になっているそうだ
何故この寺を訪れたのか記憶は定かではないが、来てよかったと思った
駐車場では地元の女性に、「遠いところからお詣りにきてくれた」と感謝された
「朝鮮通信使」に対する地元に伝わる裏話から、静岡県から眺める富士山は日本一に至るまで面白い話しを聞くことができた
山門と総門の間には東海道本線の線路が横切っている
撮影 平成29年5月14日
正式には『巨鼇山 清見興国禅寺』(こごうさん せいけんこうこくぜんじ)
約1300年程前の白鳳年間(7世紀後半)東北の蝦夷に備えてこの地に関所(清見関)が設けられ、関所の鎮護として仏堂を建立
この仏堂を以って清見寺の始めと伝えられている
総門
清見寺と刻まれた石柱横に駐車スペースがある。階段上に総門がある
『東海名區』の扁額は、朝鮮人錦谷居士筆
山門
慶安4年(1651)に建築され、屋根は檜皮葺であったが、明治22年(1889)に現在の瓦葺に
山門の設計は、左甚五郎の弟子で、釘を一本も使ってないのが、この山門の特徴である
田中清左衛門逆修塔
関ヶ原合戦後に伊吹山中に潜伏していた石田三成を捕らえた
六道地蔵尊
人はこの世を終わって後 冥土の長旅をして六道の辻に出る
生前の行いに因って 六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の内 何れかを自ら選ぶと云う
大方丈
受付で拝観料を納め注意事項を聞く。写真撮影が自由というのも嬉しい
正面に琉球王子筆の「永世孝亨」の額
慶長12年(1607)以来、清見寺は東海道を往還した歴代朝鮮通信使の宿泊や供応を行った関係から、通信使や随員たちの書蹟や絵画など、歴史資料が多数保存されている
西の間の奥には家康「手習いの間」の遺搆が保存されている
名勝 清見寺庭園
江戸時代初期に築庭、中期に改修された。家康はこの庭に駿府城より虎石、亀石、牛石を移しこの庭に配した
庭前の砂利盛りは銀砂灘と称し、周囲の緑色に反映している
書院
慶応3年(1876)に建築。桁行20.4米、梁間13.3米に34畳の総入側がある
木材は木曽の檜材を用い上段8畳の間は格天井にして、東面に床及違棚がある
部屋の様子が細かなところまで他と大きく違う感じがした
例えば八方睨みの龍
説明文など一切無いが惹きつけられる
左を見ると「玉座」
明治天皇御成の間が保存されている
予備知識も無く、この寺訪れたがこの寺の格式の高さを知った
古来より戦乱時に(信玄駿河乱入、家康甲州攻め、秀吉北条征伐)この寺が拠点になっていた
「潮音閣」から受付となる場所を見る
外に出る。「東玄関」との案内札があった
鐘楼
麓鐘は正和3年(1314)の鋳造である
天正18年(1590)4月豊臣秀吉伊豆韮山城攻伐の際、陣中に於いて使用したと云われている
文久3年(1863)に改築。梵鐘は静岡県指定文化財
臥龍梅
家康が清見関の梅を取らせて接樹したもの
「龍臥して法の教えを聞くほどに梅花開く身となりにけり」 与謝野晶子
咸臨丸殉難碑
明治維新の際、清水港において咸臨丸が明治政府の軍艦に砲撃された
20余名は格闘したが殺され海に投げこまれた。その霊を憐れみ明治20年記念碑の除幕と法要が営まれた
仏殿
天保13年(1842)の再建
正面には釈迦如来の坐像を泰安し、両脇に迦葉、阿難の両尊者の像が安置されている
扁額の「興国」は寺名(清見興国禅寺)
大玄関
建物は唐破風造り、元和2年(1616)家康三女静照院より大方丈の大玄関の寄進
玄関の天井板は清見関の古材を使用したもので、血天井を見ることができる
海會塔
18世宗詮和尚の遺骨が納められている
川の水の全てが海に集まるがごとく、死ねば皆同じところで会うのだという意味をこめて「海會塔」と名付けられた
聖観世音金銅像
新西国観音霊場第1番に清見寺が指定された記念と日華事変の戦死者の菩提を弔うため昭和12年に落成
その後、戦争のため供出。昭和24年再建
五百羅漢石像
天明年間(1781~1788)の彫造
雑草の中の羅漢像もなかなか面白い
個性的な石像が多く、つい夢中になってしまう
顔ではなく、お腹に注目してほしい
この場所は、島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面になっているそうだ
何故この寺を訪れたのか記憶は定かではないが、来てよかったと思った
駐車場では地元の女性に、「遠いところからお詣りにきてくれた」と感謝された
「朝鮮通信使」に対する地元に伝わる裏話から、静岡県から眺める富士山は日本一に至るまで面白い話しを聞くことができた
山門と総門の間には東海道本線の線路が横切っている
撮影 平成29年5月14日