今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

大間崎 (青森県下北郡大間町大間大間平)

2021年09月27日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月12日

大間崎
大間崎に着いたが、雨が降っていたので車内で休憩し遅い朝食を摂った
予約していたフェリーの出航時間まで3時間もある

日本海軍特務艦「豊国丸」戦死者慰霊碑
太平洋戦争中「豊国丸」は、横須賀鎮守府所管特設運送艦として、北海道ー横浜間の石炭輸送に従事した艦船
昭和20年7月、大間沖から大湊へ向かっていた豊国丸は函館市街の攻撃を終えた戦闘機の標的となる
135名もの死者を出し、今なお約90名が大間崎沖の海で眠りに就いている



石川啄木歌碑
代表作の「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
この「東海歌」が詠われた舞台は大間崎ではないかという説がある



東海といえば函館の海岸が一般的だが……
大間啄木会では「啄木が大間の光景を東海歌に詠んだのはほぼ間違いない」として平成10年7月、大間崎に石川啄木歌碑を建立した



いやいや、東海はK国だと隣国からクレームがくるかも(笑)



大海にむかひて一人 七八日 泣きなむとすと家を出でにき
東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
大といふ字を 百あまり砂に書き 死ぬことをやめて 帰り来れり



「日本最北端 宗谷岬、日本最東端 納沙布岬、本州最北端 大間崎」
日本全国の主だった岬が地図で紹介されている
これを見て、岬巡りも面白いと思った



「ここ本州最北端の地」



マグロのモニュメントの前で5人組の若者に記念写真の撮影を頼まれた
喜んでもらえたようで笑顔で気持ちの良い礼をされた
海岸に下りて行こうとする彼らに声を掛けるとポーズをとってくれた



大間の漁師に一本釣りされた440キロのマグロがモデルになっているという



マグロでも食べて帰るかと思っても値段を見てびっくり
年金生活者には無理だと思ってしまう









弁天島と大間埼灯台
弁天島は、大間崎から沖合およそ600m、約2万羽のカモメ類の大繁殖地






津軽海峡フェリー「大函丸」
大間ー函館間航路の一文字をとった船名だと想像できる「大函丸」



大間ー函館間航路はノスタルジック航路と名付けられている
90分間の所要時間は最も短く、運賃も安い



これにて、2021年春の放浪の旅も終わりになる
出発時には四国にでも行こうかと思っていたが、いつのまにか日本海側を北上していた



撮影 令和3年6月12日
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仏ヶ浦(青森県下北郡佐井村長後 他)

2021年09月26日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月12日

仏ヶ浦(国名勝・天然記念物 )
平成17年(2005年)夏、アルファードを購入し函館までドライブをした
ついでにと思い大間行きのフェリーに乗船し、青森に向かっている途中にこの景色が目に入った



私は自然の美しさにはあまり感動することはないが、この仏ヶ浦の景色だけは別だ
もう一度、訪れてみたいと長い間思っていたが、ついにその日がやってきた



しかし、雨がずっと降っていて海岸まで下りるかどうか悩んでしまう
しかも、下りる遊歩道が見つからない



雨が強くなってきたので車内で待機し、望遠レンズにつけ替える
この日、大間発~函館行のフェリーを予約していたため海岸に下りるのを諦めた



しばらくすると雨が上がり、空が明るく視界がよくなってきた






大間岬に向けて車を走らせる
途中、海と岩とが綺麗な場所が数カ所ある






撮影 令和3年6月12日

下記は、2005年に海岸まで下りた時の写真である(2013年に発信)

名勝・天然記念物 「仏宇陀(仏ヶ浦)」
国道338号線を南下すると道路沿いに展望台があり数台車が駐まっている
私も展望台からの景色を眺めてみると「あっと」驚く光景が眼下に



100メートル以上の高低差がある急峻な地形で車道を通せず、近年整備の歩道のみが海岸に通じる
階段が続き所要約15分だが結構疲れる



断崖により陸上から近付くのが困難な土地で、長らく地元民のみに知られる奇勝であった



陸奥湾口の平舘海峡に面した峻険な海岸沿いに2キロメートル以上に亘り、奇異な形態の断崖・巨岩が連なる
緑色凝灰岩を主とした岩石が非常に長い間の海蝕を受けた結果形成されたものである



海上からでなければその全体像は把握できない
佐井村佐井港およびむつ市脇野沢港からの観光船が一般的な交通手段






宗教家の青木慈雲は霊界の入口であるとした



文人で、登山家・紀行家の大町桂月は、1922年9月に下北半島を訪れた際、仏ヶ浦を見て強い感興を覚えた



「神のわざ 鬼の手つくり仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」の和歌をもってその奇観を賞した  

 

撮影 平成17年7月撮影
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太宰治記念館「斜陽館」(青森県五所川原市金木町朝日山)

2021年09月22日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和3年6月11日

太宰治記念館「斜陽館」(重要文化財)
明治40年(1907年)に太宰の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって建てられたもの
和洋折衷・入母屋造りの建物は、米蔵にいたるまで青森ひばが使用されている



階下11室278坪、2階8室116坪、付属建物や泉水を配した庭園など合わせて宅地約680坪の規模を有する大地主の豪邸である



太宰が中学進学に伴い大正12年(1923年)に青森市へ転居するまでこの家で暮らした






太宰はこの家を「苦悩の年間」の中で
「この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである」と書いている









欄間の透彫






襖絵









津島家仏壇






絵皿には興味はないが、金銭的にどの程度の価値あるものなのかには興味がある



柱時計
これもただの大きなのっぽの古時計ではないはず



「SEIKOSHA」の文字
文字盤の周りの装飾も普通ではない






「太宰治像(中村晋也 作)
芦野公園にある太宰治像の原型



文庫蔵展示室
この先は撮影禁止となる
展示室では多くの作品の中に「トカトントン」という懐かしい本を見つけた
若い頃に読み、印象に残っている本だった



数年前に「走れメロスの裏話」をTVで知った
走れメロスは太宰治の実体験が元になっている
<以下引用>
ある時、熱海の村上旅館で遊んでいた太宰の元に、彼の妻の依頼で檀一雄は金を持ち駆け付ける。
しかし太宰はあろうことか、檀一雄をひき止め遊び倒して、金を使い切ってしまう。
呑み代や宿代が払えないので、太宰は檀一雄を人質にし、師匠の井伏鱒二に金を借りに東京に駆ける。

「逃がした小鳥が帰って来るというのか」
「そうです。帰って来るのです」



しかし何日待っても帰って来ない太宰に、檀一雄は痺れを切らし、支払いを待ってもらい井伏鱒二を訪ねる。
すると太宰は呑気に井伏鱒二と将棋を指していたという。何でも迷惑をかけ続けた師匠に、金を借りるとは言いにくかったそうである。
激怒した檀一雄に太宰は「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」といきり立って反駁したという。

このような実体験が、あの感動小説になるのだから、太宰はある意味天才だ



庭園



金融執務室



2階に上がる



洋間






書斎・母の居室
子供達の勉強部屋・遊部屋でもあった
襖には4枚の漢詩(左から2枚目に注目)



太宰はこの漢詩の前に机を置き勉強していた
漢詩の最後の文字に「斜陽」と書かれていてる
太宰には見慣れた文字で小説「斜陽」との関連性をうかがえる貴重な部屋



主人室
全室で一番質素な部屋
貴族院議員になってから東京の別宅で過ごす事が多くなった



金襖の日本間
貴賓室として使われていた



西側和室
一般の来客や議員のお付きの人が通された部屋












昭和23年(1948年)農地改革によって津島家が手放すことになった
昭和25年(1950年)から平成8年(1996年)まで46年間は、旅館として太宰ファンに親しまれた



平成10年(1998年)から旧金木町が買い取り、現在の太宰治記念館となっている



平成16年(2004年)国の重要文化財に指定
平成17年(2005年)の市町村合併に伴い、五所川原市の所有となる



太宰治の代表作「斜陽」は、没落していく上流階級の人々を指す「斜陽族」という意味の言葉を生みだした
太宰治の生家である記念館は、本書の名をとって「斜陽館」と名付けられた



米蔵
小作人が納めた米俵を収納していた
2250俵の米を納めることのできる米蔵が全部で3棟あった



駐車場近くにある津軽三味線会館



撮影 令和3年6月11日
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太平山 長勝寺(青森県弘前市西茂森)

2021年09月21日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年6月11日

太平山 長勝寺
津軽家の先祖大浦光信の死後、その子盛信(大浦城主)が亡き父のため享禄元年(1528年)種里(現在の鯵ヶ沢町)に創建
慶長15年(1610年)二代信枚公が弘前城築城とともに現在地に移した
種里の太平城から「太平山」の山号、光信の法名から「長勝寺」と号した

三門(重要文化財)
寛永6年(1629年)二代藩主信枚により建立
文化6年(1809年)の大修理で、下層に花頭窓を設け仁王像を置く



扁額には山号の「太平山」



仁王像















鐘楼



銅鐘<嘉元鐘>(重要文化財)
嘉元4年(1306年)の紀年銘が切られているところから嘉元の鐘と呼ばれる
この鐘は、長勝寺の創建より200年程前の銅鐘で、満蔵寺(現万蔵寺)から寄進されたものと伝えられる



庫裏(重要文化財)
文亀2年(1502) 津軽の祖 大浦光信が岩木山麓賀田に建築した大浦城の台所






以前訪れた時は有料で本堂・霊廟含め境内全域を案内してもらえた



庫裏内で声をかけ、しばらく待ったがだれも来なかったので拝観することにした






庫裏から本堂へ



本尊の釈迦如来か



これも初めて見たが何だろう
よく見ると菊花紋章のようなものが入っている



本堂(重要文化財)



慶長16年(1610年) 二代藩主 信枚造営の書院造り建造物






僧堂



扁額の「蒼龍窟」
「蒼龍窟」の意味を調べてみると
龍の持つ霊玉を取るには、蒼龍の棲む窟中に乗り込まなくてはならず
洞窟の中に入れば、一瞬にして襲われ命を落とすかもしれない
悟りをひらこうと志を立てたなら、文字通り命をかけて修行をする
ということらしい



神仏分離令により「百澤寺(現岩木山神社)」から移し安置したとの説明
今回の旅で回った弘前八幡宮・弘前城・革秀寺・岩木山神社・最勝寺と長勝寺が線でつながった



三尊仏及びその厨子堂(青森県指定文化財)












十六羅漢


















五百羅漢









厨子の彫刻









長勝寺とミイラ
昭和29年(1954年)8月3日菩提寺長勝寺の墓地移転で、地下7mの場所に座棺に土葬されており自然ミイラ化(死蝋)した状態で発見された
板に描かれているような状況で発見されたようだ



12代藩主になることを嘱望されていた津軽承祐が18歳で病没
副装品とともにこの柩に



津軽家霊屋(重要文化財)



撮影 令和3年6月11日
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金剛山 光明寺 最勝院(青森県弘前市大字銅屋町)

2021年09月20日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年6月11日

金剛山 光明寺 最勝院
駐車スペースが少ないということを知っていたため早めに道の駅を出発した
重要文化財に指定されている五重塔は日本最北に位置する

新仁王門
昭和58年(1983年)の再建



正面に本堂



鐘楼
藩政時代から戦前まで『時の鐘』があったが、戦争の供出により一時その姿を消した
昭和31年(1956年)に商工会が中心となり普請を行い、最勝院境内に復元した



「平和の鐘」
この鐘楼、梵鐘は商工会から最勝院へ寄進された
現在は『平和の鐘』として平和を祈りつつ心を込めて撞かれている






本堂
昭和45年(1970年)九月の再建
天文元年(1532年)に高僧 弘信上人が、堀越城外萩野の地に三宇の伽藍を造営し開基
慶長14年(1609年)二代 津軽藩主信枚が現在の弘前城を築いた
慶長16年(1611年)弘前城の鬼門に当たる田町へ移転し弘前八幡宮別当となる



明治時代の神仏分離令により12か寺の塔頭寺院は、最勝院以外の11か寺は廃寺となった
最勝院は廃寺となった寺院の檀家衆を引き受けて現在地(旧大圓寺跡)に寺籍を移転した



扁額「最勝院」



本尊:大日如来像



本坊



輪廻塔



水屋



水屋を飾る彫刻












護摩堂
護摩堂は、旧大圓寺の本堂であった



「密厳舎」額
密教の大日如来の浄土が密厳浄土ということからきている



聖徳太子堂



六角堂(如意輪観世音菩薩堂)



五重塔(重要文化財)
寛文7年(1667年)に完成した旧大圓寺の塔で方3間、総高31.2m



藩祖 津軽為信の津軽統一の際に戦死した敵味方の将士らを供養するために建立された



文化財の指定説明にも
「實ニ東北地方第一ノ美塔ナリ」とあるなど均整のとれた美しい姿として有名である













撮影 令和3年6月11日
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岩木山神社(青森県弘前市百沢字寺沢)

2021年09月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年6月10日

岩木山神社
弘前市郊外岩木山の南東麓にある神社。津軽国一宮
鳥居の奥に見えるのが岩木山である

一の鳥居
平日ではあったが参拝者の姿が多くみられた



二の鳥居



三の鳥居
鳥居が弁柄色に変わる



参道は足腰に負担のかからない程度の緩やかな上りになっている
初めて訪れる神社でこの先がどのようになっているか分からない



参道の先に大きな建物が見えてくる



守札授与所



社務所(青森県指定文化財)



楼門 (重要文化財)
寛治5年(1091年)神宣により、下居宮(おりいのみや)を岩木山東南麓の百沢地区に遷座
「百沢寺(ひゃくたくじ)」と称したのが現在の岩木山神社となっている



寛永5年(1628年)津軽信枚により、百沢寺の山門として建立された
五間三戸楼門、入母屋造、とち葺形銅板葺



上層に十一面観音、五百羅漢像が祀られていたが、神仏分離による廃寺の際に姿を消した









随神像



日本の神道において、随神は主神の護衛を役とする従者



神社では社殿の中か左右の随神門に安置した






中門(重文)と拝殿(重文)
写真では一つの建物の様に見えるが実際は分かれている



中門(重要文化財)
江戸中期 元禄7年(1694年)の建立
四脚門、切妻造、とち葺形銅板葺






扁額には「北門鎮護」
門の上を見ると龍の天井画






中門の彫刻






瑞垣(重要文化財)
瑞垣(みずがき)は、神社・神域の周囲にめぐらされる垣根



一周延長四十間、とち葺



拝殿(重要文化財)
寛永17年(1640年)神仏習合の時代に、百沢寺の本堂として建立された
天正17年(1589年)の岩木山の噴火により焼失



慶長8年(1603年)に津軽為信により再建
桁行5間、梁間5間、入母屋造平入、とち葺形銅板葺
明治の神仏分離により寺院を廃止、津軽総鎮守・岩木山神社とされた



三つの米俵と注連縄



拝殿内部



本殿(重要文化財)
宝亀11年(780年)岩木山の山頂に社殿を造営したのが起源とされる



延暦19年(800年)東北平定を為し得たとして、坂上田村麻呂が山頂に社殿を再建
十腰内地区に下居宮(麓宮、現在の厳鬼山神社)が建立され、山頂の社は奥宮とされた
三間社流造、正面千鳥破風及び軒唐破風付、銅瓦葺



拝殿と中門









撮影 令和3年6月10日
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津軽山 革秀寺(青森県弘前市藤代)

2021年09月18日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年6月10日

津軽山 革秀寺(かくしゅうじ)
重文の本堂と霊屋があることを知り訪れた
駐車場を探すために寺の周囲を走り、墓地の空き地に駐めた



朱色の「華雲橋」の奥に山門が見える



山門






扁額には「仰髙門」
仰髙を調べてみると論語(子罕第九-10)からきているようだ



門扉



寺紋



山門から本堂を眺める



本堂(重要文化財)
弘前藩祖津軽為信が慶長年間(17世紀初)現在の藤崎町に創建



津軽為信が没した翌年の慶長13年(1608年)弘前藩2代藩主 津軽信枚が為信の遺言により岩木山の眺望の美しい現在地に移した
長勝寺八世格翁禅師を開山として、父・為信の菩提寺とした









桁行17.8m、梁間16.2m、背面庇付、一重、入母屋造、茅葺



扁額には山号の「津軽山」



鐘楼



津軽為信霊屋(重要文化財)
江戸時代初期に建立された当時は質素であったが、文化年間(1804年~1817年)に大修理し、現在の華麗な姿になった






土塁と板塀に囲まれている



入母屋造り、妻入りで、正面に軒唐破風をつけ、屋根は杮葺



文化年間(1804〜17年)の修理で、木部はすべて漆塗り、内部は極彩色の華麗なものになったといわれている



霊屋は非公開
(霊屋の拝観は事前に寺務所に申込む。拝観料は志)






墓地の奥に岩木山が見える



撮影 令和3年6月10日
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弘前城(青森県弘前市下白銀町)

2021年09月17日 | 
訪問日 令和3年6月10日

弘前城<別名:鷹岡城、高岡城>
この日の朝に決めた予定では、弘前城は入っていなかったが、市内を走っているうちに気持ちが変わった



前回は「津軽藩ねぷた村」の駐車所を利用、今回は弘前工業高校周辺の駐車場を利用した
工業高校口の「埋門(うずみもん)跡」から入る(現在位置)



弘前公園内で絵を描いている女性
長閑な風景だ






蓮池



濠の風景も美しい



二の丸南門(重要文化財)
築城時の姿で現存する5棟ある門の一つ









「埋門跡」から目指す天守は近いと聞いていたが、その姿は見えない
またまた方向音痴の本領発揮



伯爵 津軽義孝 篆額



弘前市立博物館



辰巳櫓(重要文化財)
二の丸の現存櫓3棟のうちの一つ






三の丸追手門(重要文化財)



弘前城植物園



杉の大橋
南内門外の大橋。名称は杉材を用いた橋ということから付けられた






未申櫓(重要文化財)









迷ってここまで来たが天守は見えない
疲れたので東屋で休憩し、誰か人が来たら尋ねようと思っていた



園内には明治36年(1903年)以降、桜の植樹が行われ、現在では約2,600本を数える






鷹丘橋
南の端から来たまで歩いてきたようである



遠回りをしたようだが天守は近いと通行人に聞いた
以前、中央高校口から入った時には石垣が多く見ることができたが、今回は初めて目にする石垣となる



石垣が好きな人生の大先輩がいて、城では石垣を探して撮るようにしている



弘前城天守(重要文化財)
工業高校口の「埋門跡」から約1時間(通常10分弱)も要して目的の場所に着いた(笑)



現存12天守に数えられる内の天守1棟



最初の天守は、鷹岡藩2代藩主の津軽信枚により慶長14年(1609年)頃に本丸南西隅に建てられた5重の建物
寛永4年(1627年)9月の落雷で出火し、天守内部に収納されていた火薬に引火して大爆発を起こして本丸御殿や諸櫓とともに焼失した



大爆発して焼失した天守の代用として、本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として建てられた
往時は幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていた



外側に面する東面と南面は1層目と2層目に大きな切妻出窓を設け、窓には狭間窓を用いている



一方で、内側である西面と北面には破風を全く付けずに連子窓を単調に並べただけ
いわゆる「二方正面」である






城内に入る「石落とし」



駕籠(男乗物)






屋根瓦には寒冷地のため銅瓦を葺いている



弘前城から見える岩木山



桜のトンネル



撮影 令和3年6月10日
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弘前八幡宮(青森県弘前市大字八幡町)

2021年09月16日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年6月10日

弘前八幡宮

二の鳥居
塗って間もない鮮やかな朱色の鳥居



振り返ると遠くに一の鳥居が見える
道路の延長線上にあり、駐車場は鳥居の下を進んだ所にある



由緒によると、草創は平安初期 坂上田村麻呂が蝦夷征伐で苦戦を続けたとき八幡村に小祠を建て、宇佐八幡宮を遙拝し武運を祈願したことに始まる



境内にある祠



法喜神社神社



田代大神



右側には社務所がある



拝殿






扁額には社号の「八幡宮」



目的の唐門・本殿の姿が見えずがっかりしていたが、その入口を見つけた
本殿へは左手の赤い格子戸を潜り抜けて行くのだが、社務所の許可が必要だ



重文の社殿があるということで訪れた
本殿・唐門ともに地方色を示しながら全体の形はよく整っており、桃山時代の巧みな建築手法を示す建築物



この神社は始め大浦城(現岩木町)の鎮守として大浦城下にあった
それを津軽藩主二代信枚が高岡城(現弘前城)完成の翌慶長17年(1612年)に鬼門の押さえとして現在地に遷座した



唐門(重要文化財)
慶長17年(1612年)の建立 四脚門、入母屋造、前後軒唐破風付、こけら葺
この門の特徴は、軒の唐破風や四隅の軽い反りなど屋根部分の形態にある
天井を小組格天井とするのも当地の門としてはめずらしい 



近年の修理で屋根葺替と彩色の補修をおこない、全体を弁柄塗、組物等を極彩色で復元した



本殿(重要文化財)
慶長17年(1612年)の建立 三間社流造、銅板葺
本殿は、桁行三間梁間二間の身舎(もや)と、桁行三間梁間一間の向拝で構成
身舎の縁廻りを二手先斗と栱(きょう)の腰組で受けている



反対側に回ってみる
本殿、唐門は桃山時代の様式の神社建築として、昭和11年国宝指定、現在は重要文化財建造物となっている



祭神:誉田別命・息長足姫命・比売女神



弘前八幡宮は弘前総鎮守、弘前城鬼門守護の藩内における最も尊貴な社として祭典の斎行社殿社地の維持管理、社家の処遇等一切藩費によって賄われた









神馬






撮影 令和3年6月10日
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田沢湖(秋田県仙北市)

2021年09月15日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月9日

田沢湖
私の旅では好んで湖を訪れるということはほとんどない
初めて訪れる田沢湖の知識といえば日本一深い湖という程度だ



漢槎宮(浮木神社)



漢槎宮(かんさぐう)は浮木神社(うききじんじゃ)とも言い、田沢湖畔の潟尻に立つ社殿
流れついた浮木(大木が湖面から2メートルぐらい顔を出し、斜めに水底に深く消えている流木)を祭ったものといわれている









若い女性が楽しそうに魚に餌を投げスマホで撮影している



湖面を見るとウグイが餌を求めて集まってくる



辰子像(舟越保武 作)
知人からラインで1枚の画像が送られて「何処にある、何という像か」と質問された
見たこともない像で答えることができなかった
それが、田沢湖にある、この辰子像だった



質問者が大学の後輩ということもあり悔しい思いが倍増
普段の私なら目的地にならない湖だが、その像を確かめたくて訪れた



「たつこ姫伝説」
まれにみる美しい娘 辰子はその美しさと若さを永久に保ちたいものと、密かに大蔵観音に百日百夜の願いをかけた
満願の夜に「北に湧く泉の水を飲めば願いがかなうであろう」とお告げがあった
泉の水を手にすくい飲むと何故かますます喉が渇き、ついに腹ばいになり泉が枯れるほど飲み続けた
時が過ぎ、気がつくと辰子は大きな龍になっていた
龍になった辰子は、田沢潟の主となって湖底深くに沈んでいった



御座石神社
辰子像から数キロ離れた場所にある
途中、餌やりをしていた2人の女性が先を争うようママチャリをこいでいた



社名は、慶安3年(1650年)に秋田藩主 佐竹義隆が田沢湖を遊覧した際、腰をかけて休んだことに由来



北海道に住む私としては摩周湖が日本一美しい湖だと思っている
だが、田沢湖の湖畔から眺めるこのコバルトブルーの湖面の美しさは感動する



田沢湖は円形で直径は約6km、最大深度は423.4mで日本第1位(第二位は支笏湖、第三位は十和田湖)、世界では17番目に深い湖
過去には隕石クレーター説なども検討されたことがあるが、調査の結果、180万年前から140万年前の爆発的噴火によるカルデラとの説が有力



古くから漁業が行われ、正徳5年(1715年)には固有種であるクニマスに関する最古の記述があり
久保田藩主の佐竹氏および分家の佐竹北家(角館佐竹家)の献上品として利用されてきた



餌やり、ママチャリの元気のいい女性が一番景色の良い場所で佇んでいた
動く気配がなかったので声を掛けてみた



「後ろ姿を撮らせて下さい」と
写真が気に入ってくれたようで、彼女たちのスマホでも撮って欲しいと依頼された
会社の同僚だという2人、底抜けに明るく笑顔が素敵だった



御座石神社(ござのいしじんじゃ)周辺には、この「辰子姫伝説」にちなんだ名所が多く残されて
辰子が飲んで龍となった「潟頭の霊泉」、辰子が姿を映した「鏡石」などの名所もある






茅の輪(茅草で作られた大きな輪)は、正月から6月までの半年間の罪穢を祓う夏越しの大祓に使用される
それをくぐることにより、疫病や罪穢が祓われるいわれている



拝殿



扁額には社号の「御座石神社」



美貌成就の神社の神社でもある



神社によって特色があり面白い



「たつこ姫像」






拝殿からの眺望






撮影 令和3年6月9日
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角館武家屋敷 その2(秋田県仙北市角館町)

2021年09月14日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月9日

角館武家屋敷 その2

角館歴史村 青柳家(秋田県指定史跡)
<前回の続き>
秋田郷土館



雪国ならではの頑丈な造りの旧家を移築
1階は素朴な農村の暮らしぶりを伝える農具などを展示






2階では音の世界・戦乱の歴史について展示している



指揮者・演奏者の直筆サイン入りというから凄い



若い頃、オーディオ機器に興味を持ち集めていたが、今回の旅の前に全て処分し旅の資金にあてた



ジャズを中心にLPレコードも夢中になって集めていた
クラシックも良く聴いたが、さすがに、この時代のジャケットは観たことがない






若い頃のカラヤン
カラヤンはジャケットの写真にこだわりをもち、横顔の写真が多い



昔のジャケットはデザインが秀逸
ジャケ買いしてしまいそうな1枚だ



興味ある分野だけに時間を忘れてしまった



外には「消防組」書かれている消防ポンプ車が置かれている



ポンプ車を所有しているというのにも驚く



武家道具館
土蔵を利用した館内には、当時の武士の生活様式を伝える武家道具が並んでいる






青柳家に代々伝わる文献書籍や押絵、焼物、絵皿






押絵
角館には江戸時代より数多くのお雛様が伝えられている
庶民の間では手作りの押絵が雛壇を飾った



押絵は厚紙に下絵を描いて形を作ったものに裂(きれ)を貼り、その間に綿を入れ立体感をだして仕上げた人形






歴史を感じる「番付表」 番付では大関が最高位
「大関(関脇)」の地位の中で横綱を付けられる者のことを「横綱」と呼んでいた時代






時代体験庵
籠掻体験・兜体験ができる



ハイカラ館 2F展示室
平賀源内、小田野直武など角館ゆかりの先人の先取的思想とハイカラ指向を受け継ぐアンティークミュージアム






カメラコーナー






蓄音機



青柳神社






山車
毎年9月7~9日に行われる角館の祭典の山車






母屋(重要文化財)に戻る









石黒家(仙北市指定史跡)
石黒家は佐竹北家の用人を勤めた家柄で、家伝によると嘉永6年(1853年)に現在地に移転した



薬医門には、文化6年(1809年)日付の矢板がある
残念ながら臨時休業中だった



道路面にはのぞき窓を付けた黒板塀がめぐり現存する武家住宅の中でも最も古い



旧石黒家(恵)


















撮影 令和3年6月9日
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角館武家屋敷 その1(秋田県仙北市角館町)

2021年09月13日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月9日

角館武家屋敷 その1
象潟の道の駅から100km程走り武家屋敷周辺の桜並木駐車場に着く
受付所で武家屋敷は初めてだと告げると簡単な地図を渡された
公開武家屋敷は有料3軒、無料3軒の6軒

旧松本家住宅主屋(秋田県指定文化財)
松本家は、佐竹家の重臣今宮家の組下で佐竹氏の国替により主家に従って常陸から角館に移った
屋敷は万延元年(1860年)作製による屋敷割絵図に表6間裏15間とある






建物は茅葺の簡素な造りで下屋をおろした入口を入って居間、その右に座敷兼仏間が配されている
裏側は水屋に続いて広縁があり、その奥に寝室が配されている



旧藩時代は、殖産事業の原料となる植物や食用植物が植え込まれていた



松本家を出て周辺を歩いていると方向音痴の本領発揮、迷子ではなく迷爺になってしまった(笑)
近くを歩いていた女性に道を尋ねると、「美人ですね」と思わず発してしまったほどの秋田美人
とても親切丁寧でしかも美人。坩満寺の西施像を思い出した



角館樺細工伝承館
ヤマザクラ類の樹皮を用いて作られる工芸品を樺細工(かばざいく)という



角館の樺細工は、天明年間(1781~1789)にかけて佐竹北家の藤村彦六によって御処野家から伝授されたことから始まった



下級武士の手内職ではあったが、侍らしく妥協を許さない一品入魂の作風で、印籠、眼鏡入、根付、緒締などの製作を手がけた



通りに出る
コロナの影響で観光客の姿がほとんどない



角館歴史村 青柳家(秋田県指定史跡)
400年の歴史を語る武家屋敷
芦名氏の家臣として常陸佐竹氏の国替えにより角館に入った



薬医門
万延元年(年)藩への功績が認められ特別に許された青柳家の薬医門
上級武士にしか許されない重厚で格調高い造りは青柳家の誇りだった






案内図
順路が示されていなければ迷ってしまう3000坪の屋敷



青柳家 母屋(重要文化財)



龍野萬黄(たつのまんおう)画
青柳家に泊まり描いた屏風



この日は非公開だったが、「母屋探訪ツアー」も開催されている



武器蔵
青柳家の貴重な武具や文献が収められている












青柳家が甲府にて武田の武器作りをしていた当時の鎧兜
五輪塔旗印は鎌倉時代のもの
陣羽織や刀も家の誇りとされていた



神明水






解体新書記念館
『解体新書』は日本で初めて翻訳された全5冊の西洋医学書で、安永3年(1774年)江戸で発刊された



翻訳したのは、杉田玄白、前野良沢だが、当時の日本に衝撃を与えたのは、初めて正確な人体解剖図がついていたこと
この人体解剖図を描いた画家が小田野直武という角館の武士だった



若い頃、文庫本で解体新書を購入し解剖図に衝撃を受けたことを思い出した



小田野直武
画家としての才能を見いだしたのは、江戸の才人・奇人といわれた平賀源内だった
蘭学に精通した平賀源内の手ほどきで解体新書の解剖図を描く




その後、日本で最初の西洋技法絵画「秋田蘭画」を創始する












解体新書の画家「小田野直武」












解体新書は5分冊の書籍
この解体新書は小田野直武から、当時の青柳家8代当主 青柳正躬に贈られたもの






小田野直武像



次回に続く

撮影 令和3年6月9日
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角館武家屋敷 その1(秋田県仙北市角館町)

2021年09月13日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月9日

角館武家屋敷 その1
象潟の道の駅から100km程走り武家屋敷周辺の桜並木駐車場に着く
受付所で武家屋敷は初めてだと告げると簡単な地図を渡された
公開武家屋敷は有料3軒、無料3軒の6軒

旧松本家住宅主屋(秋田県指定文化財)
松本家は、佐竹家の重臣今宮家の組下で佐竹氏の国替により主家に従って常陸から角館に移った
屋敷は万延元年(1860年)作製による屋敷割絵図に表6間裏15間とある






建物は茅葺の簡素な造りで下屋をおろした入口を入って居間、その右に座敷兼仏間が配されている
裏側は水屋に続いて広縁があり、その奥に寝室が配されている



旧藩時代は、殖産事業の原料となる植物や食用植物が植え込まれていた



松本家を出て周辺を歩いていると方向音痴の本領発揮、迷子ではなく迷爺になってしまった(笑)
近くを歩いていた女性に道を尋ねると、「美人ですね」と思わず発してしまったほどの秋田美人
とても親切丁寧でしかも美人。坩満寺の西施像を思い出した



角館樺細工伝承館
ヤマザクラ類の樹皮を用いて作られる工芸品を樺細工(かばざいく)という



角館の樺細工は、天明年間(1781~1789)にかけて佐竹北家の藤村彦六によって御処野家から伝授されたことから始まった



下級武士の手内職ではあったが、侍らしく妥協を許さない一品入魂の作風で、印籠、眼鏡入、根付、緒締などの製作を手がけた



通りに出る
コロナの影響で観光客の姿がほとんどない



角館歴史村 青柳家(秋田県指定史跡)
400年の歴史を語る武家屋敷
芦名氏の家臣として常陸佐竹氏の国替えにより角館に入った



薬医門
万延元年(年)藩への功績が認められ特別に許された青柳家の薬医門
上級武士にしか許されない重厚で格調高い造りは青柳家の誇りだった






案内図
順路が示されていなければ迷ってしまう3000坪の屋敷



青柳家 母屋(重要文化財)



龍野萬黄(たつのまんおう)画
青柳家に泊まり描いた屏風



この日は非公開だったが、「母屋探訪ツアー」も開催されている



武器蔵
青柳家の貴重な武具や文献が収められている












青柳家が甲府にて武田の武器作りをしていた当時の鎧兜
五輪塔旗印は鎌倉時代のもの
陣羽織や刀も家の誇りとされていた



神明水






解体新書記念館
『解体新書』は日本で初めて翻訳された全5冊の西洋医学書で、安永3年(1774年)江戸で発刊された



翻訳したのは、杉田玄白、前野良沢だが、当時の日本に衝撃を与えたのは、初めて正確な人体解剖図がついていたこと
この人体解剖図を描いた画家が小田野直武という角館の武士だった



若い頃、文庫本で解体新書を購入し解剖図に衝撃を受けたことを思い出した



小田野直武
画家としての才能を見いだしたのは、江戸の才人・奇人といわれた平賀源内だった
蘭学に精通した平賀源内の手ほどきで解体新書の解剖図を描く




その後、日本で最初の西洋技法絵画「秋田蘭画」を創始する












解体新書の画家「小田野直武」












解体新書は5分冊の書籍
この解体新書は小田野直武から、当時の青柳家8代当主 青柳正躬に贈られたもの






小田野直武像



次回に続く

撮影 令和3年6月9日
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皇宮山 蚶満寺(秋田県にかほ市象潟町象潟島)

2021年09月12日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年6月8日

皇宮山 蚶満寺
この寺はこれまで三度訪れているが、受付の方やガイドさんが親切でついつい足が向いてしまう
途中、予定になかった「十六羅漢岩・大物忌神社」に立ち寄ったため到着が遅れた

松尾芭蕉像
元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が訪れた『奥の細道』最北の地である



私が旅先で訪れる所、かなりの高い確率で芭蕉が訪れていることが多い(笑)
芭蕉は西行を追いかけこの地を訪れたが、芭蕉の足跡を辿る旅も面白そうだ



芭蕉歌碑
芭蕉が象潟(きさかた)を訪れた日は生憎の雨で、芭蕉は、中国の悲劇の美女西施(せいし)を思い浮かべ
「象潟や 雨に西施が ねぶの花」と詠んでいる



西施像



三國志・孫子など中国の歴史ドラマをよく視るが紀元前から権力者は美女に弱い
現在も中国訪問から急に変節し、親中派となった政治家などは怪しいワナ



歴史を変えた悲劇の美女西施



山門(にかほ市指定文化財)
木造切妻造瓦葺の八脚門
年代不詳だが江戸中期の建立と推定



山門の彫刻






扁額の文字は薄くて読めないが以前受付で尋ねると
「羽海法窟(羽州の海にある修行場)」と書かれているそうだ



仁王像
矢島藩生駒氏の奇進とされる金剛力士(仁王)像












受付所に誰もいなかったので墓地の方から回ることにした

袖掛地蔵堂
木造宝形造瓦葺






堂内を観たのは今回が初めて



神功皇后袖掛の松
神功皇后が三韓征伐の帰路、大時化に遭って象潟沖合に漂着したとき、濡れた着物を乾かすため掛けたという









受付所には誰もいないので、そっと中に入る

位牌堂



夜泣きの椿



本堂
仁寿3年(853年)に天台座主円仁(慈覚大師)の開創と伝えられる



彫刻









本堂扁額「蚶満珠禅寺」
蚶方(きさかた)の美景と神功皇后の伝説によりこの地を占い、皇后山干満珠寺と号したという






紅蓮尼の碑



広葉杉



鐘付堂



芭蕉



拝観料を納めていないので戻ることにした
受付所は無人で施錠されていた

山門



山門彫刻(裏側)









九十九島



過去の詳細画像があります(クリックしてください)
「坩満寺」
「九十九島めぐり」

撮影 令和3年6月8日
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鳥海山大物忌神社(山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字布倉)

2021年09月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年6月8日

鳥海山大物忌神社
「十六羅漢岩」で地元の男性に声を掛けた際に、自己紹介として寺社巡りをしていると話した
その時に由緒あるという、この神社を紹介された

一の鳥居



額には「正一位大物忌神社 鳥海山出羽國一宮」と読める
正一位は、神社における神階の最高位で、紹介された理由が良く分かった



手水舎



由緒
創祀は欽明天皇25年(1400余年前)の御代と伝えられている
歴代天皇の崇敬篤く、八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修など時々の武将にも篤く崇敬されてきた



山頂の本殿は伊勢野神宮と同じく20年毎に建て替える式年造営の制となっている
現在の本殿は平成9年に造営されたもの



上記「境内案内図」を拡大
紹介された男性によると、階段を上り 三ノ鳥居からの拝殿・本殿が素晴らしいと……



二ノ鳥居
鳥居の奥が駐車場になっている
石段も見える



100段あるという石段を見てため息が……
「十六羅漢岩」で不安定な岩の上を歩き「もう限界」と膝の叫び声が聞こえてきた



社務所



下拝殿
階段を上がれない人はここで拝んでも同じご利益が……と書いてあったような(笑)



賽銭を多めにして、今回は無理をしないという結論に達した






下拝殿からの眺め



他のブログをみると確かに石段を上った拝殿や本殿は魅力的だ
数年後になると思うが訪れてみたい

撮影 令和3年6月8日
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