今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

彦根城 その1(滋賀県彦根市金亀町)

2014年11月30日 | 
この日は土曜日で、ある程度の覚悟はしていたが、それにしても人が多く城近くの駐車場も何故か閉鎖、交通規制もされていた
話しを聞くと「ご当地キャラ博in彦根2014」というイベントが駐車場で開催されているらしい

大手門橋から入城
 


人間慣れした鴨が迎えてくれる



天秤櫓(重要文化財)
大手門から坂を上がっていくと「廊下橋」が見える
この橋がなければ本丸へ侵入ができない。非常時には「落とし橋」となる



廊下橋を中央にして建てられているのが天秤櫓。天秤のような形からそう呼ばれる
この形式は日本の城郭では彦根城だけとなる



私の大学の大先輩に石垣が好きな人がいるが、その影響なのか、圧力なのか石垣にも目を向けるようになった
この天秤櫓左右の石垣の積み方が違う
幕末の寛永年間に積み替えた切石の「落し積み」



右手の高石垣
越前の石工が築いたと伝える築城当初の「牛蒡(ごぼう)積み」


 
櫓内に入る。侵入者を防ぐための工夫がなされている。明かり取りのような窓も
窓の格子木は弓や鉄砲で敵陣を広く狙えるように菱形の木材を使用している



櫓内に侵入しようとする敵が死角無く目視できる






櫓の壁は防火や防弾のために厚い(30cm超)土壁になっている
外は「大壁造り」、内面は柱を見せる「真壁造り」になっている



時報鐘(日本の音風景百選)
城全体に響くようにと鐘の丸から移され、今も定時に撞かれている。近くの聴鐘庵で茶を楽しめる



さらに石段を上がっていくと遠くに天守が見えてくる



 


太鼓門櫓(重要文化財)
本丸への最後の関門となる



「太鼓」が櫓の中に置かれ、登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれている



さらに上に進むと周囲が賑やかになっている
彦根市のキャラクター「ひこにゃん」が登場するという
ゆるキャラブームの火付け役となった数年前に一度城内で見たことがあり可愛いと思ったので、柄にもなく列に加わることにした
彦根藩の2代目藩主・井伊直孝に縁ある1匹の白猫をモデルとしている



兜は井伊の赤備えとして有名な井伊家の伝来品をモデルとしているそうだ



天守(国宝)
姫路・松本・犬山とともに国宝4城の1つである



雲一つ無い青空に白色の城が映える






内部の様子(矢狭間と鉄砲狭間)







 

井伊直弼像



天井の立派な梁を見ているとあることを思い出す



一番高い場所に神様を祀っているということ



下の板戸の中は千鳥破風の屋根裏を使用して一室が設けられている
この日は観光客が多く上るのも降りるのも列に加わり順番待ちの状態
その通路にある隠し部屋を撮すに苦労したが、同じカメラを持っている人が止まってくれた



このように人がいない場所もある



武者溜(むしゃだまり)






近くにいた係の人が重要な鉄の扉だと話してくれたが



何が重要だったのかまったく思い出すことができない。



前回、訪れた時にはここで帰路についたが、案内図を見るとまだまだ見るところがある。



撮影 平成26年10月18日
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渡岸寺観音堂<向源寺>(滋賀県長浜市高月町渡岸寺)

2014年11月29日 | 神社・仏閣
日本一美しいといわれる十一面観音像に急に会いたくなった
横蔵寺からの距離も60Kmと近い。途中の風景もよく楽しいドライブとなった



慈雲山 向源寺
拝観終了時間が迫っていることもあり、最初に十一面観音像の安置されている場所に急いだ



本堂



浄土真宗では阿弥陀如来以外の仏を本堂に祀ることを認めていないため

 

向源寺飛地境内観音堂に祀っている
本堂左側の廊下奥にあるのが観音堂



所有は向源寺、維持管理は高月町国宝維持保存協賛会とどうも複雑な関係にあるようだ
私は向源寺と渡岸寺の関係がわからなかったが、渡岸寺(どうがんじ)は地名で渡岸寺という地域にある観音堂ことがわかった

姉川の戦いの時、住僧巧圓は門信徒とともに観音像をはじめ、多くの仏像をこの地に埋めて災禍を逃れた



手水所



本堂から見た仁王門






仁王門
門前に立つこの木によって、仁王門の価値が高まる



仏像前の金網が障害となりこれまで手動でもこの程度しか撮れなかったが



今回はCanonG1Xを購入し、ここまで撮れるようになった



メインとサブ機の「阿吽の呼吸」



昨年の、旅行中に知り合った人から紹介された寺で2年連続で訪れることになったが、観音像とともに魅力あるのがこの場所だ






近くにある資料館に立ち寄ってみた。7つある国宝の十一面観音像のポスター
資料館に貼っているポスターも情報源となる、他にもいいものを発見した



撮影 平成26年10月17日
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両界山 横蔵寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原)

2014年11月28日 | 神社・仏閣
華厳寺とそう遠くないところにある横蔵寺(よこくらじ)
ミイラがある寺として、数年前に訪れたことがあり、今回が2回目となる

医王橋
大きな駐車場に車を駐めると、札幌ナンバーを見て参拝者に声を掛けられた
「遠くから」といういつもの会話であるが、多くの人と話ができることは嬉しいことだ
貴重な情報を得ることができる



話しによると、この橋は紅葉の季節には撮影スポットになるという



寺名が刻まれた石柱が参道の入口となる



多くの寺と共通することだが、しばらく石段を上ることになる



寺門



仁王門(岐阜県指定重要文化財)
かつて、ここに木造仁王尊立像2体(重要文化財)が安置されていた



現在は、他のお堂の仏像を含め、瑠璃殿において公開されている
 





両側には大きな草鞋が奉納されている






本堂側から見ると山門の上に釣鐘が見える



香堂
香堂と奥にあるのが山門



香堂。こちらの正面奥に見えるのが本堂になる



三重塔(岐阜県指定重要文化財)
この寺を訪れた大きな要因のひとつに三重塔があることがあげられる



日差しが強すぎるため、木陰や建物の影を探して撮ることに



 


周辺の風景



本堂(岐阜県指定重要文化財)
寺伝によれば、横蔵寺は天台宗の宗祖・最澄が自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている



最澄は比叡山延暦寺を開創する際に、本尊薬師如来像を自ら刻んだが、その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から、もう1体の薬師如来像を造った
 


信長の比叡山焼き討ちによって、延暦寺の伽藍が灰になった後……



横蔵寺の本尊薬師如来像は、「延暦寺本尊と同じ霊木から造られた、最澄自作の像」という由緒ある像だということで延暦寺に移された



観音堂



観音堂の横を通り瑠璃殿、舎利堂を目指す



瑠璃殿
この寺を訪れた大きなもう一つ要因は瑠璃殿の仏像の拝観にある
多数の重要文化財を有し、「美濃の正倉院」とも呼ばれている
西遊記の沙悟浄といわれる「深沙大将」、重要文化財の彫像としては明通寺、金剛院とともに全国で3体
仏像が好きな人には価値がある



舎利堂
妙心上人の舎利仏(ミイラ)が安置されている



諸国を巡って仏道修行をし、文化14年(1817年)、断食修行の後、今の山梨県都留市の御正体山で即身成仏したという
明治13年に明治天皇が天覧になられた際に、故郷へ戻すようにとのお言葉があり、明治23年出身地の横蔵寺に移された



帰り際に三重の塔を撮す



撮影 平成26年10月17日
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谷汲山 華厳寺 その4(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積)

2014年11月27日 | 神社・仏閣
華厳寺の広い境内の中で、誰もが笑顔になりリラックスできそうな場所がある
そこでは、石造りの狸が参拝者を迎えてくれる



狸から見るとこのような感じになる。私はこの道から歩いてきた



「見ざる、聞かざる、言わざる」も猿ではなく、ここでは狸









満願堂
巡礼者はここで納め札を納める



満願堂前には立派なお腹の人間が酒に酔って寝ている



笈摺堂、子安観音堂を出て、三十三段の階段を上るのが一般的な順路になるようだが



私は満願堂から子安観音堂の方向へ



階段を下りると「笈摺堂、子安観音堂」が本堂に隣接している



子安観音堂
本尊は子安観音
この一角は特に参拝者が多く、人が入りこまないように写真を撮るのには根気が必要だ



通常はこのように線香の紫煙が漂っている。



安産・子宝祈願、赤子の身体健康を願い事を記したたくさんのよだれかけが奉納されている



観音堂の内部の様子






笈摺堂
西国三十三所霊場の中興者である花山法皇は徒歩で巡幸し、華厳寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺)、杖、及び三首の御詠歌を奉納したと伝えられる



西国三十三所巡礼を終えた人々が奉納した笈摺、朱印帳、千羽鶴



千羽鶴は折鶴(おりつる)が笈摺(おいづる)にちなむことから奉納される 






本堂左奥から見た、笈摺堂、子安観音堂






本堂左奥の上に掲げられている人物画



痛いところに札を貼るそうだが、翌朝訪れた時には札の多くは剥がされていた



私などは痛いところばかりでミイラ状態になってしまう
札を購入する金が無いのが一番痛いところだが









この仏像には興味を持っていたのだが、華厳寺に安置されていることなどすっかり忘れてしまっていた
何故興味を持っていたかというと、全身にお経が書かれているからだ



目立たない仏像なのか写真もこの1枚だけ
今、整理をしていてこの存在を知ってショックを受けている
大きくして加工してみた。それにしても悔いが残る



中門を通って帰路につく



元三大師堂
中門の右手にある歴史を感じる堂



右手に庫裏、正面は玄関



玄関に置かれていた石



時計を見るとこの寺に3時間も滞在していたことになる。昨夕の下見を加えると4時間
案内板の境内図をメモしてもれなく廻ろうと努力したが、それでも悔いが残っている



撮影 平成26年10月16日・17日
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谷汲山 華厳寺 その3(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積)

2014年11月26日 | 神社・仏閣
華厳寺仁王門から本堂までは一直線で結ばれているが、その距離は長い
途中大好きな石仏もあり、道草を楽しんでしまった



この長く急な石段の先にあるのが本堂だ



本堂
西国三十三所第三十三番札所、満願結願の寺として参拝者が絶えない



「谷汲山」という山号は、寺付近の谷から油が湧き出し、灯明用の油が汲めども尽きなかったことに由来する



本尊は十一面観世音菩薩、脇侍として不動明王像と毘沙門天像を安置する(非公開)



正面向拝の左右の柱に「精進落としの鯉」が打ち付けられているいるが、今回も撮すのを忘れてしまった



鐘楼側から見た本堂






鐘楼







緑ケ池



池の奥に妙法ケ滝の案内札があったが、獣道のようになっている
前回訪れたときには酷暑と空腹で倒れてしまったが、今回は足がもつれてしまい転倒
何かがあるのか



妙法ケ滝
この奥に滝があるはずだが、水の音が聞こえてこない



地面がかすかに湿気を帯びている程度で、台風後でもこうだと普段も滝としての機能を果たしていないはずだ
前回も同じ状況でがっかりしたことを、今になって思い出した



この石に囲まれた空間に小さな石仏が数個あることを発見
この置かれている状況では大きな喜びである
肉眼でもレンズを通しても目立たないところがいい



不動堂
本堂付近に戻ると、石段がありその先に朱色の建物が見える



 


奥に見えるのが本堂になる



阿弥陀堂






この先に「奥の院」があるらしいが往復80分の道のりは辛い
昨夕は下見で1時間、今日はすでに2時間も経過している
修行僧ではないので楽な道を選ぶことにした

視界に満願堂が入ってきた。



撮影 平成26年10月16日・17日
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谷汲山 華厳寺 その2(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積)

2014年11月25日 | 神社・仏閣
華厳寺本堂までの道のりは長い
中間地点と思われる「百度石」から本堂までの参道を紹介する



手水屋



この周辺に興味深い石仏が点在している





















石碑も周囲の風景に飲み込まれているようだ



焼香場



焼香場周辺には歴史を感じる建物がある。

英霊堂







一切経堂



格子の隙間から堂内を撮ってみる



三十三所堂






 





勢至菩薩・観音菩薩






周辺にある石仏






長い石段の上に見えるのが本堂



華厳寺本堂



撮影 平成26年10月17日
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谷汲山 華厳寺 その1(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積)

2014年11月24日 | 神社・仏閣
過去に一度訪れたことのある寺であるが、猛暑と空腹で一瞬ではあるが意識が薄らぎ、転倒してしまったために途中で車に戻った寺である
今回は隅々まで丁寧に廻ろうと決意したため写真の枚数が多くなってしまった

谷汲山 華厳寺
華厳寺には夕方に到着した。大型で無料の駐車場に駐め仁王門までの道を歩く
1丁の長さが110m。緩やかな上り坂ということもあり、疲れたときには長さを感じる



仁王門から振り返った風景。道路横には歩行者用の道もあり土産物店が軒を並べている



仁王門
入母屋造、三間の二重門。歩くのが苦手な人や歩行に支障がある人は仁王門の左側に大型の無料駐車場がある



左右に仁王像が安置されている



仁王像。格子の中に手を入れ旅行前に購入した小型カメラで撮したもの
周囲からは不審者として見られていたと思う



作者はわからないが、この2体の像は迫力を感じるすばらしい像だ



左右に巨大な草鞋が奉納されている






地蔵堂 
仁王門をこえると右手に「放生池」があり、池の中央にあるのが地蔵堂






三十三度石
参道の中央に置かれている



参道を進むと左右に建物がある



一乗院






法輪院






念仏石



延命地蔵菩薩



十王堂






羅漢堂






明王院






 


水琴弁財天






正一位御童丸稲荷大明神






百度石



撮影 平成26年10月16日・17日
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関市円空館・弥勒寺官衙遺跡(岐阜県関市池尻)

2014年11月23日 | 博物館・美術館・記念館
寛永9年(1632年)美濃国(岐阜県)で生まれた円空は、「円空仏」と呼ばれる木彫りの仏像を残している
これまで円空作の仏像を目にする機会がなかった

史跡 弥勒寺官衙遺跡
駐車場に車を駐め周囲の状況を把握する
目的地の円空館までは少し歩くことになるらしい
まったく知識はないが、かつてこの場所に弥勒寺あり、現在は国史跡に指定されている

中門跡



金堂跡



塔跡



経蔵跡



緑に囲まれた史跡を400m程歩くと右手に建物が見えてくる



初めて訪れる場所でもあり、不安もあったが近づいて確認してみる



この場所に来て、ここが円空館であることがわかった



円空館では関市に数多く残されている円空仏のうち約30体を拝観することができる
普段見慣れていない仏像だけに、驚きも大きい



円空の墓
晩年は関市池尻弥勒寺の地に自坊をかまえ、ここを本拠地として活躍し、長良川河畔で入定し(1695年)その64年にわたる生涯を終えた



円空の入定塚の案内板もあったがよくわからなかった






弥勒寺
美濃地方の豪族身毛津(むげつ)氏の氏寺と推定される古代寺院弥勒寺はその後廃寺となっていたが、円空が再興



寺門周辺に現代彫刻家による、円空仏が置かれている


 



 


 
ここに置かれている円空仏の方が完成度が高いと思うのだが、素人考えか



撮影 平成26年10月16日
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臨滹山 大仙寺(岐阜県加茂郡八百津町八百津)

2014年11月22日 | 神社・仏閣
杉原千畝記念館から車で5分程の帰り道、気になる案内板が目に入った

大仙寺
案内板には「宮本武蔵」と書かれてあり、気になったので車を止めて確かめることにした
学生時代に吉川英治の宮本武蔵を読み、それ以来映画やドラマも見続けてきているだけにほってはおけない

惣門

惣門横には大仙寺由緒と、剣聖「武蔵」の伝説を伝える「大仙寺」と書かれた2つの案内板が立っていた
由緒によると寛正元年(1461年)に建立されたという古刹である






参道横には石仏が並べられている



大仙寺の寺名が刻まれている



宮本武蔵座禅石
今から400年前、京の都で剣術に明け暮れていた武蔵は、禅の修行をすることにより真の剣術への道を開こうと沢庵和尚について修行をしていた



晩年を迎えた沢庵は「禅の修行は愚堂に習え」との言葉を残し、この世を去った
武蔵は美濃の国の大仙寺にやってきた
愚堂とは大仙寺八世住職で、京にいたころ沢庵と禅問答をするほどの名僧であった



武蔵は愚堂国師に参禅問法の為に入門を請い、三日三晩座禅をしたと伝えられている



鐘楼
ちょうど昼休みの時間帯だったということもあり、近くの工場の人達が外で弁当を食べていた



地蔵堂






方丈



「臨滹山」山号が掲げられている






この寺は臨済宗の寺で、正眼寺、永保寺と共に美濃三道場の一つに数えられる
「生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人」



庫裏












「求道」精神は昔から現在に至るまで日本人の心のどこかにある
私の放浪の旅もそうだと、自分に言い聞かせつつ車に乗る
安全運転のために道を求めて走るのも修行
旅はまだまだ続く

撮影 平成26年10月16日
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杉原千畝記念館(岐阜県加茂郡八百津町八百津)

2014年11月21日 | 博物館・美術館・記念館
道の駅「可児ッテ」で入手した資料の中に、杉原千畝の名前があった
道の駅から遠くない場所に記念館があるようなので向かうことにした

杉原千畝記念館
「シンドラーのリスト」という感動的な映画を見たあとに、シンドラーよりもっと凄い「杉原千畝」という人物が日本にいたことを初めて知った
記念館などの存在も知らなかったが、道の駅から発信された情報により、杉原千畝について理解する機会に恵まれた



第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情
外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる
その避難民の多くが、ユダヤ系であった

記念館前には駐車場が整備されている



記念館では、千畝が育まれた地域風土を、岐阜産の総檜づくりと新伝統構法によって空間化されている



館内は狭い空間ということもあり、教育関係の団体に館長が説明していたのを側で聞くことができ理解を深めることができた
その後、その団体に加わり研修室でイスラエル人職員から説明を受けることも許されたが、その内容の多くは胸に迫るものがあり感動した



個人で入館した場合には、最初に館内のビデオを視聴することを勧める
基本的な知識を身につけて資料を見ることによって、より理解することができる

私がこの部屋に入ったときに外国からの団体が入館してきた
イスラエルからの観光客だそうだ
机の上に印鑑とスタンプがあったので、ビザ発給のまねごとをしてあげた



2階にも資料が展示してあるが、イスラエルから何故この記念館を訪れるかのよくわかる



ユダヤ人は汽車でシベリア大陸を横断し、ウラジオストックから福井県の敦賀港についた
着の身着のままで逃げてきたためシャツ1枚でふるえているのもいたが、港の人達が熱い飲み物を作ってみんなにふるまった
みんな日本人の思いやりに心から感謝したという
この話を聞いて、自分が日本人でよかったと思った



人道の丘公園
約6,000人のユダヤ人の命を救った人杉原千畝の功績を称え、後世に伝えるための記念公園









シンボルモニュメント



「命のビザ」モニュメント



幾枚もの命のビザを重ね、希望の光を反射させながら空へとのびていくモニュメント
3つのカリオン(愛、心、勇気)を自由に奏でることができる



日本政府の許可なしであったことを私たちが知ったのは、1969年に杉原氏とイスラエルで再会した時である
杉原氏が訓命に背いてまで、ビザを出し続けてくれたなんてことは、再会するまで考えられなかったので、とても驚いたことを覚えている



私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない
しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった

(東日本大震災への義援金を募る際の米国のユダヤ人組織オーソドックス・ユニオンによる公式声明)
東日本大震災が発生し、地震と津波による甚大の被害が世界中に報道されるや
窮状にある人々に手を差し伸べることは、主のいつくしみの業に倣うことである
1940年、杉原領事夫妻は身職を賭して通過ビザを発給し、6,000人のユダヤ人の命を助けて下さった
いまこそわれわれがその恩義に報いるときである

撮影 平成26年10月16日
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虎渓山 永保寺(岐阜県多治見市虎渓山町)

2014年11月20日 | 神社・仏閣
虎渓山 永保寺
神社仏閣を廻っていると自然と足が向く場所がある
永保寺もその一つである。確か今回が3回目となるはずだ
観光用駐車場に車を駐め、踏切を渡って永保寺へ向かう道は少し遠いが迷わず行ける

観音堂(国宝)
禅宗の伽藍の中では一番大切な仏殿すなわち本殿となる



夢窓国師一行が道に迷い、白馬に乗った女性に道を尋ねた所、返事が無かった



そこで夢窓は「空蝉(うつせみ)の もぬけのからか 事問えど 山路をだにも 教えざりけり」と歌を詠んだ



すると女性は「教ゆとも 誠の道はよもゆかじ 我をみてだに 迷うその身は」と返歌して忽然と消え失せ、付近の補陀岩上に一寸八分の観世音菩薩像が出現した



夢窓はこの観世音菩薩像を本尊とし、1314年に水月場(観音堂、国宝)を建立した
私の側にすっと見知らぬ老人が近寄ってきて、この観音堂の建物の説明や、なぜ水月場と呼ばれているかとか詳細に説明してくれた
額に「水月場」と書かれていることを老人に教えられた
肉眼では判別できないがレンズを通すとわかる



正面観音開きの桟唐戸には上半に精巧な美しい花狭間の組子がはめこまれている
観音堂の魅力は桧皮茸の軒ぞりの屋根と思っていたが、説明されると戸もすばらしい
老人にお礼を言って別れる



名勝 永保寺庭園
池の中央にある「無際橋」
土門拳の庭園に架かる無際橋の写真を見たのがきっかけとなり数年前に訪れたのが最初だ。






「梵音巌」 写真ではわからないが石仏が点在している。






この庭園の他の池を含めて高所から見ると「心」という字になると、先ほどの老人が話してくれた



池の周囲を歩きながら開山堂の方へ歩いて行く
場所を変えると風景が大きく変わるのもこの庭園の面白いところだ



開山堂(国宝)
先ほど観音堂で説明してくれた老人が開山堂の前で絵を描いていた
1年前には入ることができた場所が、立入禁止区域になっていた



老人から撮影ポイントを教えてもらったが、立入禁止区域
気の小さい私は両方の顔を立てるため、5歩・5秒だけ進入し撮った一枚である



スケッチブックにデッサンしていた老人の作品である
鉛筆に加え色鉛筆で彩色していた



先ほど別れたばかりなのに、もう一枚の絵が描かれていた



私がバシバシとシャッターを切るのを気にしてか
「こんな白い空を撮ってどうする」「土門先生はじっくり考えて撮っていた」と
「土門先生って、土門拳のことですか」と私
ここから二人の長い話しが続く…
この老人は若いときに陶芸家の道を歩んでいたらしい
荒川豊蔵の下で数十年間働いていたと話してくれた
その師匠が彫った石碑が永保寺にあると、案内してくれた



石碑の後ろに「斗出庵」と彫られていた
この石碑のおかげで永保寺の山門の場所を知った
この時は斗出庵(荒川豊蔵)という人物が、人間国宝だということを理解していなかった
荒川豊蔵(志野焼)の作品を土門拳が撮影していた現場を見ていたと話してくれた



近くの寺の石碑も彫っていると案内され、ついていくことにした
戻ることができないかも知れないと思い、途中の建物を撮していく

鐘楼




庫裏



定番となる場所からも






僧堂 座禅堂
臨済宗ではこの禅堂は食堂・浴堂とともに三黙堂とされている



六角堂
千体地蔵が祀られている



六角堂からの様子



虎渓山 保壽院
山門の横にある石碑も、斗出庵の作品






ここで、老人と別れたが長時間にわたり貴重な話しを聞くことができた
毎朝、自宅近くの神社の清掃から1日が始まり、今日は何を描くか考えているという

虎渓山 続芳院
駐車場に戻る途中にあった寺



最後の一枚は、無際橋
毎年3月15日の1日のみ、釈迦の命日である涅槃会に合わせて国宝「観音堂」と「開山堂」が公開される



撮影 平成26年10月15日
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応夢山 定光寺(愛知県瀬戸市定光寺町)

2014年11月19日 | 神社・仏閣
行ったことのない寺を訪れたいと思い道路地図から定光寺を選んだ
寺へと続く細い道に入った所で嫌な予感が

応夢山 定光寺
建武3年(1336年)、覚源禅師が尾張国山田荘水野郷を訪れ、この地方の領主の水野致国と美濃国小田の山内入道が開基檀越となり、臨済宗建長寺派の寺院として創建した

経蔵
嫌な予感というのは、この寺は初めてではなく1年前訪れていたのだ
脳細胞の働きが低下していることは毛髪と共に薄々感じてはいたが、確信に変わった



寛政元年(1789年)に建てられたもので一切経(大蔵経)を収めている
この白い経蔵に違和感があったことも思い出してきた



観音堂



聖観世音菩薩、薬師如来、毘沙門天などを祀っている



仏殿(重要文化財)



1340年に建立され災害に遭い、1534年に修理再興された



通称は「無為殿」



本尊は延命地蔵願王菩薩



薄暗い堂内に千体他地蔵を祀る



仏殿正面の木に遮られてしまうが、これはこれで趣がある



源敬公廟(重要文化財)



尾張徳川家初代徳川義直の廟所



獅子の門(重要文化財)



左甚五郎の獅子の彫刻があるらしいが、門が建物に護られていてよくわからない。



龍の門(重要文化財)



ヒッチコックや横溝正史のように時々画面の片隅に登場する私だが、この門ほど重要な存在ではない



源敬公廟・石塔(重要文化財)
慶安3年(1650年)に尾張徳川家初代徳川義直が没すると、その翌年から3年をかけて源敬公廟(徳川義直廟墓)が造営され、尾張徳川家の菩提寺となった



源敬公は義直の諡号



自ら「二品前亜相尾陽候源敬候」と号し石塔・位碑に刻ませる



印象に残っているのは殉死者の墳墓
源敬公に殉じた家臣の碑(前列5基)と陪臣の碑(後列4基)



客殿



敬霊閣 法要等を行う所



庫裡
聚星寮 僧院において炊事など日常の雑務を行う所



鐘楼
この下で住職が作業をしていたため上の部分だけ



地蔵尊 合同供養墓
本尊「延命地蔵尊」の石仏。仏殿脇に安座し合同墓となっている
身寄りのない方、祭祀継承者のない方、お墓を建立する予定のない方の為の合同墓



二度三度訪れることによって新たな発見があるのも寺のいいところだ



 


撮影 平成26年10月15日
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成道山 大樹寺(愛知県岡崎市鴨田町広元)

2014年11月18日 | 神社・仏閣
大樹寺(だいじゅじ)
松平親忠は応仁元年(1467)井田野の合戦で勝利したが多くの戦死者を出した
文明7年(1475年)、松平氏宗家当主の松平親忠が戦死者供養のため、勢誉愚底を開山として創建した

山門(愛知県指定文化財)
寛永18年(1641)三代将軍徳川家光が建立した



後奈良天皇の勅額「大樹寺」



本堂からは山門、総門を通して一直線上に岡崎城を望む事が出来る



多宝塔(重要文化財)
大樹寺には創建当時の建物はなく、最古の建物がこの多宝塔



天文4年(1535)松平清康が建立した。室町末期の様式を示している



この多宝塔の存在は知っていて楽しみにしていたが、撮影できる場所が限定され、しかも日差しが強く難儀した




本堂
永禄3年(1560年) 桶狭間の戦いで今川軍は敗走し、松平元康(徳川家康)はここに逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとしたが、住職の登誉に諭されて思い留まった



木造阿弥陀如来坐像(愛知県指定文化財)
平安末期、寄木造、彫目、像高140cm、安政の火災後、京都泉湧寺から迎えられた



大阪の陣で豊臣を滅ぼして徳川幕府を確立したが次の年発病し、病状が悪化する中、家康の死後の処置について遺言した
「遺体は駿河久能山に葬る事、葬礼は江戸増上寺で行うこと、位牌は三河大樹寺に立てること
本堂奥に歴代将軍の位牌が安置されている



春日局の念持佛







 

 





松平八代墓
元和元年(1615)徳川家康は先祖松平八代廟所を寺内に建立



元和三年には家康の一周忌が営まれ、現在の墓の姿が整ったとされている



昭和44年には岡崎市民が家康の徳を顕彰して遺品を納めて墓と碑を建立した



鐘楼(愛知県指定文化財)
寛永18年(1641)三大将軍徳川家光が建立した



鐘楼周辺に車が駐められており、全体を撮すことができなかった



大樹寺熊野権現社



帰り際にもう一度、多宝塔のある場所に行ってみる



名残惜しいが多宝塔を後にして山門に向かう



台風19号避難場所として藤川宿を選び、道の駅で入手したパンフにより徳川家康と関わりの深い法蔵寺・六所神社・岡崎城・伊賀八幡宮そして大樹寺を丸一日かけて廻った
日光、久能山と並ぶ日本三大東照宮の一つとされる滝山東照宮も近くにあったが、次の旅の宿題として残しておくことにする

撮影 平成26年10月14日
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伊賀八幡宮(愛知県岡崎市伊賀町東郷中)

2014年11月17日 | 神社・仏閣
伊賀八幡宮
伊賀八幡宮は、松平四代親忠が、松平家〔徳川家の祖〕の子孫繁栄の守護神 『氏の神』として創建
鳥居の横の細長い居酒屋が印象に残っている



鳥居を歩くと朱色の神橋がある



更に歩を進めると、下りの石段があり鳥居が見えてくる



石鳥居(重要文化財)
この明神鳥居を含め、この神社の多くの建築物は重要文化財に指定されている



鳥居の前には「神橋」が架けられているが通行することは許されていない
先に進むには、左右どちらかの道を選択しなければならない



景色のよい左側を選ぶことにした。朱色の建物は随神門



神橋(重要文化財)
蓮池にかかる石橋
寛永13年境内が整備された際、架けられた



随神門(重要文化財)
神域を守る随神様を門の両側に祀っている






拝殿前には柵が設置され、一般参拝者はここから祈願することになる



左側には国家『君が代』にうたわれた「さざれ石」が置かれている



拝殿・幣殿・本殿(重要文化財)
拝殿・幣殿は寛永13年(1636)三代将軍家光によって本殿に増設し、造営された
同じ年に日光東照宮も改築完工されている






「本殿}「幣殿」「拝殿」の三連で権現造りとなっている
蛇足になるが、一枚目の写真の鳥居からこの本殿までは一直線で結ばれている



三代将軍家光が社殿を拡張し、祖父家康(東照大権現)を祭神に加えた

 

御供所(重要文化財)
供物を調整したり、物を置いたりして、使用した



神馬
競走馬のような躍動感があると思っていたら、この週末万馬券が的中した



八幡宮の余韻を楽しみながら、蓮池周辺を散策する
予備知識もなく家康関連の神社ということで訪れたのだが重要文化財の多さには驚いた



神橋の遠くに私の愛車が見える



駐車場の横には稲荷社が



これは、マンホールの蓋だが、このような所にも歴史の深さを感じるのは私だけか



撮影 平成26年10月14日
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岡崎城(愛知県岡崎市康生町)

2014年11月16日 | 
岡崎城(岡崎市指定史跡)
岡崎城公園内にある大型駐車場に車を駐める
駐車料金は30分100円、岡崎城と家康館を見学しても1,000円で楽しむことができる

徳川家康の生誕地
家康は6歳で織田信秀、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしたが、桶狭間の合戦で今川義元が戦死したことを契機に自立した
ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めた



現在の岡崎城二の丸能楽堂のある場所で、家康が誕生した



江戸時代には、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視されていた



足もとには竹千代と家康の石像が置かれている



明治維新を迎えると城郭の大部分は取り壊されてしまった
岡崎の象徴である天守閣がないままではしのびないとする市民の思いは強く、昭和34年(1959)に、ほぼ昔どおりの外観の天守閣が復元された



天守閣は2階から4階までが歴史資料館に、5階は展望室となっており、三河平野を一望することができる



堀と石垣が昔日の面影をわずかに伝えている



私の大学の大先輩に石垣が好きだといわれているので、無言の圧力ではないがついカメラを向けてしまう
積まれている石の色の違いが時代を現している



色々な人の刺激を受けながら、自分の知識が広がっていくことは本当に楽しいことだ



岡崎城を後にして、岡崎公園内を歩いてみることにする



公園内にある公衆電話



徳川家康公銅像



からくり時計塔
この場所を通った時に時報とともに時計の中から…… 



三河武士のやかた家康館
常設展示では徳川家の歴史を学ぶことができる



館内の様子であるが、先を急ぐ旅のため斜め読みで回ったがとてもわかりやすい









岡崎城の前にも石碑があるが、館内の出口に展示していた、徳川家康の遺訓の前で足が止まった



「人はただ身のほどを知れ草の葉の 露も重きは落つるものかな」



人の一生は重荷を負うて
遠き道を行くがごとし
いそぐべからず
不自由を常とおもえば不足なし
こころに望みおこらば
困窮したる時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基
いかりは敵とおもへ
勝つ事ばかり知りて
まくる事を知らざれば
害その身にいたる
おのれを責て 人を責むるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり


撮影 平成26年10月14日 
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