今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

彌彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦)

2020年02月29日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年10月29日
本格的に寺社巡りをする十数年前に一度訪れたことがある
弥彦競輪場の近くにあった神社との記憶だけが鮮明に残っている

越後一宮 彌彦神社
この日は競輪開催日のため周辺駐車場は満車状態で、少し離れた場所に車を駐めた
周囲の風景を注意深く見ながら歩いてみたが、寂しい場所にあったという感じではなく近くは商店街になっていた

彌彦神社は創建から2400年(紀元前392年)以上の歴史を有する神社



一の鳥居(登録有形文化財)
高さ約6mの両部鳥居。かつて社殿が朱塗であったと伝えられており、その名残りから朱塗になっている






彌彦神社(いやひこ)が正式名だが、一般的には「やひこ」と呼ばれている



石橋の下を流れる川



境内では毎年11月1日から始まる「弥彦菊祭り」の準備をしている



当日は雨天のため屋内での実施となったが、屋外ではこのような準備が整えられていた最高の皇室儀礼



「即位の礼」を菊花で表現している



丹精込めて育てられた菊の花



二の鳥居(登録有形文化財)



手水舎(登録有形文化財)



神馬舎
彌彦神社の神馬は木像で、近代の彫刻家として名高い高村光雲の高弟・山本瑞雲の作



随神門
昭和15年(1940)、紀元2600年を奉祝して建立された



左右には紀伊国熊野から伊夜日子大神に随行し宮居を警護する長気(おさげ)・長邊(おさべの兄弟神を奉祀している






拝殿(登録有形文化財)
現在の本殿以下の諸殿舎は明治末の焼失後、5年の歳月をかけて大正5年(1915)に再建された



祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)で、越後開拓の祖神である
「伊夜日子大神(いやひこのおおかみ)」とも称される



摂社・末社
伊夜日子大神の御子神をはじめ六代の御子孫神(六王子)を奉祀する摂社と、所縁深い神社である末社が境内外に合せて十八社ある









末社 十柱神社(重要文化財)
十柱神社(とはしらじんじゃ)大穴牟遅命をはじめ山川草木等の十柱の神を奉祀している









いつ見ても茅葺きの屋根は趣がある



舞殿(登録有形文化財)
伊夜日子大神に奉納する神楽を奏するための建物



楽舎と橋掛かりで連結され一体となっている










斎館(登録有形文化財)



撮影 令和元年10月29日
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如意山 乙宝寺(新潟県胎内市乙)

2020年02月28日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年10月29日
例年、9月中旬に出発する秋の旅だが、大型台風の影響で予定が大幅に狂ってしまった
各地の被害状況から中止も考えたが、学生時代の同期会が東京と日光で開催されるため出発することにした

如意山 乙宝寺
小樽~新潟航路を利用し、最初に向かったのが重文の三重塔を持つ「乙宝寺」へ






参道の中央に置かれている「石」に何か意味があるのか



金毘羅堂






仁王門






仁王像



行基菩薩の作だという






仁王門扁額には山号の「如意山」



手水舎
平安時代に、空海が巡錫中に立ち寄った場所といわれており、空海が乙宝寺境内の地面を仏具の「独鈷杵」で突くと水が湧き出した(独鈷水)という



新潟県名水100選。水の勢いが凄い



鐘楼






三重塔(重要文化財)
全国の国宝・重要文化財の「塔巡り」も私の旅の目的の一つ






塔内安置仏は普賢菩薩で、辰年と巳年生まれの守り本尊というから縁を感じる



塔の周辺には木が多く、全体像を撮る場所を探すのに苦労した












大日堂(金堂)









本尊に大日、弥陀、薬師の三尊を祀る









露座佛









「釈迦如来坐像」



六角堂









八所(はっしょ)神社
大同2年(807)創立、「市川八所大明神」と称し、奥山荘黒川条内乙郷44カ村の総鎮守として崇敬されてきたと伝えられる






現在の宮殿は、元和6年(1620)乙宝寺大日堂の南側の小高い丘に建立された






松尾芭蕉句碑
「うらやまし 浮世の 北の山桜」






観音堂









地蔵堂









最後は重文の「三重塔」



撮影 令和元年10月29日
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札幌芸術の森<有島武郎旧邸・美術館・野外美術館>(北海道札幌市南区芸術の森2丁目)

2020年02月27日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和元年10月16日
例年、春と秋に出かけている「車中泊による放浪の旅」だが、長引く台風の影響で出発できないでいる
知人から、札幌芸術の森美術館での『奇蹟の芸術都市バルセロナ展』がよかったという話を聞いた

札幌芸術の森<有島武郎旧邸・美術館・野外美術館>
ここへは2年か3年ぶりになる。年齢とともにフットワークが悪くなっている
駐車場から歩いているとカメラを構えている人がいたので近くに行ってみた



池の周辺の景色を撮っていたようだ



写真は好きなのだが、風景写真は撮ったことがない



有島武郎旧邸



大正2年に建てられた邸宅を当時の姿そのままに芸術の森に移築復元した



札幌にゆかりの深い文豪の有島武郎、絵を描いていたとは思ってもいなかった





















有島旧邸を後にして目的地の美術館へ向かう



『奇蹟の芸術都市バルセロナ展』 ガウディからピカソ、ミロ、ダリまで、スペインの至宝が札幌へ上陸!とある



札幌芸術の森美術館



館内は撮影禁止。印象に残った2作品のうちの一つがこのポスターの絵だ
フランセスク・マスリエラ《1882年の冬》1882年 油彩 カンヴァス カタルーニャ美術館蔵



札幌芸術の森 野外美術館
何度も来ているが、この秋の季節は初めてかも知れない






全作品の中で、一番好きな作品だ



特にこの女性に魅力を感じている












冬期間にも訪れたことがあるが、この作品は雪の中で首だけが見えるようになっている






宗教的で神々しい作品だ



散策路に敷き詰められた落ち葉が印象的だ





















人気の作品






ノルウェーの彫刻家グスタフ・ヴィーゲランの作品


















予報通り、雨が落ちてきた









撮影 令和元年10月16日
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大和ミュージアム( 広島県呉市宝町5)

2020年02月26日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和元年6月12日
「令和元年 春の旅」最後の訪問地となる。海上自衛隊呉史料館「てつのくじら館」の向かいにある

大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)
正式名称は「呉市海事歴史科学館」だが、愛称の「大和ミュージアム」の方が広く定着している



戦艦「陸奥」のスクリュープロペラ



戦艦「陸奥」の41インチ主砲身



「陸奥」建造当時は世界最大の艦載砲






第27回企画展 海底に眠る軍艦 「大和」と「武蔵」
太平洋戦争の経過を概観し、潜水調査により撮影された動画や静止画によって、海底に遺された日本海軍艦艇の現状を紹介している

「太平洋戦争のはじまり」






「戦局の展開 ミッドウェー海戦」






「戦局の展開 マリアナ沖海戦」



「戦局の展開 レイテ沖海戦」






「レイテ沖海戦の武蔵」






「坊ノ岬沖海戦の大和」






戦艦「大和」引揚げ品
平成28年(2016)年には呉市が戦艦「大和」潜水調査を実施、その前年には民間調査によって大和型戦艦「武蔵」を発見
同28(2016)年には「大和」とともに沖縄戦に向かった第二艦隊駆逐艦「磯風」が発見された






「ハンドル」と「バルブ」



「空中線付き碍子(がいし)」



「計器盤」



「測距儀」









「46cm 主砲火薬缶と蓋」






常設展

戦艦「大和」
全長26.3mある10分の1戦艦「大和」は、設計図や写真、潜水調査水中映像などをもとに、可能な限り詳細に再現している






映画『男たちの大和/YAMATO』の撮影の際、尾道市にあった戦艦大和実寸大オープンロケセットの不足部分を補うため、CGの合成用素材として使用された






人物と比較すると、その大きさが把握できると思う



スクリュープロペラ






「宇宙戦艦ヤマト」を意識したアングル






戦艦「金剛」搭載のヤーロー式ボイラー






「探照灯と太陽炉」



戦艦「金剛」



「二式魚雷」



「九三式魚雷」
射程距離の不足、航跡発生の問題を解決するため、燃料酸化剤に純粋な酸素を用いた



「零式艦上戦闘機六二型」



開発には、広海軍工廠で研究・開発された技術が活かされた



運動性重視から主翼を片方だけで支える強度維持の技術、桁と外板で主翼の強度を保持する技術などは、日本国内では広海軍工廠から始まった






「特殊潜航艇「海龍」(後期量産型)」



飛行機のように翼を使って自由に潜航・浮上する事を目指して呉海軍工廠などで潜航実験や研究・開発が行われた小型潜水艦



全長:17.28メートル、水中速力9.8ノット、乗員2名



大和は、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備えた日本の最高の技術が駆使された軍艦であった
太平洋戦争開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役
1942年(昭和17年)2月12日に連合艦隊旗艦となった(司令長官山本五十六大将)



ミッドウェー作戦が初出撃。1944年(昭和19年)6月、マリアナ沖海戦に参加。同年10月中旬、アメリカ軍の護衛空母部隊に対し46cm主砲砲撃を実施した(レイテ沖海戦)
1945年(昭和20年)4月7日、第二艦隊(第一航空戦隊)旗艦として麾下の第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃したがアメリカ軍の機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された






撮影 令和元年6月12日
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海上自衛隊呉史料館(広島県呉市宝町5)

2020年02月23日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和元年6月12日
江田島の旧海軍兵学校から呉市に向かう
以前、大和ミュージアムを訪れた際に巨大な潜水艦が目の前にあったが、隣接している商業施設の置物だと軽視していた
ところが、呉に住む学生時代の友人から本物の潜水艦だという事を聞き艦内を見てみたいと思っていた

海上自衛隊呉史料館「てつのくじら館」
海上自衛隊の広報を目的とした施設で、愛称は「てつのくじら館」
海上自衛隊佐世保史料館の「水上艦」、鹿屋航空基地史料館の「航空機」と並んで、「潜水艦と掃海」を展示する史料館だ



確かに「海上自衛隊呉史料館」と書いている
この潜水艦は実際に海上自衛隊で就役していた潜水艦「あきしお」である



史料館に入る。もちろん無料である

1階:「海上自衛隊の歴史」(省略)
ショップやカフェなどもある

2階:「掃海艇の活躍」
戦後日本の復興を陰から支えた航路啓開活動から、湾岸の夜明け作戦における国際貢献まで、掃海部隊の活動を紹介

機雷の種類と技術
<機雷という兵器の恐ろしさを、その特徴や種類、用いられている技術などを説明>









掃海艇甲板再現
<クレーンや巻揚げ機などを用いて、掃海艇の甲板の様子を再現>









3階:「潜水艦の活躍」
常に隠密に行動し、深い海の中から日本を守っている潜水艦の活躍を、その歴史と技術、乗員たちの生活など、さまざまな角度から紹介

艦内生活
<潜水艦という限られた空間の中での生活術などを紹介>
















潜水艦「あきしお」艦内体験
全長76m、重さ約2200t、1986年から2004年まで、実際に海上自衛隊で使用されていた

艦内に入る



思っていた以上に狭い通路だ。見学は一方通行で後ろから来る人の迷惑になるので写真も歩きながら撮らなければならない






一般乗組員の寝室(三段ベッド)
私の車のベッドよりも狭い空間だが、勤務以外はここがプライベートな空間となる



調理室



作戦室なのか、見学場所では一番広い空間であった



士官の寝室(二段ベッド)
学生時代生活していた学生寮の8人部屋の二段ベッドより狭い
「起きて半畳寝て一畳」人間が必要な最低限の広さを実践している



さらに先に進む



操舵室
ここが艦内で一番重要な場所であり、計器類で埋め尽くされている



機械音痴の私にはさっぱり理解できないが、好きな人にはこの空間は垂涎もの






車でいうと、真っ暗闇を無灯で走るようなもの。素人からみると「神業」ともいえる技術だ



昔の話になるが「原子力潜水艦シービュー号」というアメリカのテレビドラマに熱中していたことがある
この年齢になっても、潜水艦に関する戦争映画が大好きで良く視聴する



「潜望鏡」
憧れの潜望鏡を艦長の気分で覗いてみる。呉港の自衛隊船に照準が合っている。



艦内では元潜水艦乗組員から説明を受ける。カメラを持っている私を見て赤色灯の艦内を撮りますかと点灯してくれた



艦内では音が敵に所在を知らすことになるため、緊急時には赤色灯が用いられる



この赤色だけでも緊張感が増幅する。貴重な体験をした



日本の潜水艦技術は現在でも世界最高水準で、海底奥深くから国民を守ってくれている
心から敬意を表したい



次は数十メートル先にある「大和ミュージアム」に向かう



撮影 令和元年6月12日
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旧海軍兵学校跡地(広島県江田島市江田島町国有無番地)

2020年02月22日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月12日
「令和元年春の旅」もこの日が最終日。「江田島の海軍兵学校」は、一度訪れてみたかった場所だった
道の駅「スパ羅漢」を早めに出発し、何とか1回目の見学時間に間に合った

旧海軍兵学校跡地(海上自衛隊第1術科学校)
「校内見学」に来たことを告げ駐車場に車を駐める
受付を終えると待機場所を移動するように指示される



江田島クラブ
前方に見える建物が見学者の待合所になる。売店や食事処もある



護衛艦「びえい」の主錨






大講堂
昭和35年から広報の一環として校内見学を実施しており、年間約7万人が来訪する
海軍兵学校は、1876年(明治9年)から1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終戦まで存続



大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教育機関である
英国の「王立海軍兵学校」、米国の「合衆国海軍兵学校」とともに、世界三大士官学校の一つにも数えられ、総計1万2433名の卒業生を出している



海上自衛隊の教育機関のため、案内人の指示に従うことが見学の原則
自由見学や自由行動はできず、場所は指定された場所のみ



山の名前は忘れたが、山頂まで登り走って帰ってくる訓練もあるようだ






大講堂内入る。平日にもかかわらず10代の若者の姿が目につく



入学式や卒業式が行われる場所



成績優秀者のみが帯刀を許され、中央の赤い絨毯の上を歩き卒業証書を授与できるという名誉を与えられた



来賓席



天井の照明



「操舵手」が操作する輪状の操作部を模したデザインのようだ






大講堂の横に煉瓦の建物がある



海上自衛隊「幹部候補生学校」
兵学校においては、常に同期生間の席次を意識させ、席次を競わせる方針が徹底しており、自習室の机の順番・寝室のベッドの順番に至るまで、全てが席次の順であった
この席次を「ハンモックナンバー」と呼んだ。海軍兵科将校は、兵学校卒業席次を基礎とする同期生間の先任順位(ハンモックナンバー)の順に進級した



明治26年に完成した当時の生徒館、現在は幹部候補生学校庁舎として使用されている
英国人の設計でレンガもイギリス製。一個一個、油紙に包まれて輸入されたという



横に長い建物で144.8m。当時の駆逐艦と同じ長さで、陸上にいる間から船での生活に慣れるためにこの長さにしたと言われている
説明によると、「防衛大学卒業者」のみが約1年間、この施設で基礎知識を習得している



約140mの長い廊下






日の丸の国旗が風になびく



学生館



一般大学卒業者、自衛隊勤務部内選抜組み等が学ぶ場所になる



戦艦「陸奥」砲塔



戦艦陸奥に搭載されていた実際の砲塔。隣にあるのが砲術講堂と呼ばれる当時の講堂室



軍艦「大和」主砲砲弾



特殊潜航艇
昭和16年、ハワイ真珠湾太平洋艦隊の攻撃に参加した5隻のうちの1隻






昭和35年米国により引き揚げられ、翌年、日本に持ち帰られた



奥にももう1隻あったが立ち入り禁止のため詳細は不明



日英同盟百周年記念植樹



教育参考館
これまで旅を始めて広島・長崎・沖縄の戦争に関する資料館、鹿児島県知覧の特攻記念館や靖国神社遊就館の遺書に感動したことをブログに書くと……
読者の方から「江田島」が残っていると言われた。そのことがずっと頭にあり、今回ここを訪れることになった
教育参考館に貯蔵されている約4万点の資料から、終戦時に貴重な資料を約1万点を選出し、広島県の厳島神社と愛媛県の大山祇神社に奉納(後に戻された)



教育参考館には16000点近くの資料を保存しており、その中から約1000点を選んで展示している
海軍兵学校の職員と学生が先人の偉業を偲び、過去を振り返ることで自己鍛錬と学術を深める目的で作られた場所である
見学時間は30分程度、目的だった「海軍特別攻撃隊の遺書」は最後の方に展示されていて、時間不足で悔いが残った



多くの戦艦が停泊していた呉は大空襲の被害に遭い絶大な被害を受けたが、この海軍兵学校に関しては空襲禁止区域になっていたという
歴史が浅い日本海軍が世界最強と謳われたバルチック艦隊を日露戦争で破ったのは不思議な出来事で、軍艦の質より、軍人の質が注目され、この海軍兵学校の存在が気になったらしい



海軍兵学校の教えとして有名な「五省(ごせい)」は松下元校長が考案したもので、兵学校の精神を代表するものとして名高い
一、至誠悖もとる勿かりしか<真心に反する点はなかったか>
一、言行に恥はづる勿かりしか<言動に恥ずかしい点はなかったか>
一、氣力に缺くる勿かりしか<精神力は十分であったか>
一、努力に憾み勿かりしか<十分に努力したか>
一、不精に亘わたる勿かりしか<最後まで十分に取り組んだか>



全体の見学時間は90分に設定されているが、あっという間でリピーターが多いというのも頷ける



食事処で「海軍カレー」を注文し呉市に向かう



撮影 令和元年6月12日
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厳島神社・千畳閣・五重塔・多宝塔(広島県廿日市市宮島町)

2020年02月20日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年6月11日
「錦帯橋」観光を終え、次に何処へ行くか。真っ先に頭に浮かんだのが宮島だった
職場の同僚と、もみじ饅頭や牡蠣を食べながらの楽しい会話、絶品の穴子飯の味を思い出したのだ

厳島神社・千畳閣・五重塔・多宝塔
船上からこの景色が見えると、何故か気持ちが高ぶってくる



「みせん丸」を利用。十数分の旅だが趣がある



駅の広場に出るとこの混雑。修学旅行生、国内外の観光客で賑わっている



鳥居
何時もは人を入れないのだが、ここでは無理だと諦めた



狛犬
厳島神社で狛犬を撮ったという記憶がない






狛犬
少し歩くともう一組の狛犬。前者との違いは……






大鳥居
鳥居の重さだけで立っていると聞いたことがある



潮の干満差が激しい場所で、干潮に向かい、水面(潮)が動いているのが分かる



外国人観光客に写真を撮ってほしいと頼まれたので、彼女のスマホで数枚撮ってあげた
「おもてなし」を実践できて嬉しい。ついでに私も一枚撮らせてもらった



社殿の方は完全に海水が引いている



末社 豊国神社(重要文化財)
前回訪れた時に偶然見つけた場所だ。豊臣秀吉と加藤清正を祀られている



高い場所にあり、四方が吹き抜けとなっていて涼をとるには最適な場所だ。勿論眺めも最高だ



若くて気立ての良い娘さんに声を掛け、後ろ姿を撮らせてもらった



所狭しと奉納額で埋め尽くされているといっても過言ではない



島内では最も大きな建物で、畳857枚分の広さがあることから「千畳閣」と呼ばれてきた
秀吉の死により工事が途中で中止され、板壁も天井の板もない未完成の状態のままとなっている



天井に羅針盤のような物が吊されている。柔軟性のない私には辛い一枚



五重塔(重要文化財)
応永14年(1407)の建立。総高29.3m



狭い場所にあるが、千畳閣からだと全体が入るのでお勧めだ






下に降りてきて窮屈な場所から



塔が好きなので何時ものように枚数が増えてしまった



千畳閣の特別の通路を抜け反対方向に移動する



再び「名残塔」



「神馬」



厳島神社へは4~5度目の参拝になる
今回は違った角度から国宝の社殿を撮ってみようと考えた












摂社 三翁神社(さんのうじんじゃ)



「後白河法皇行幸松」















干潮の時に海側から撮るのも面白いと思った



反橋(重要文化財)






宝物殿(登録有形文化財)
入館しようと思っていると奥に塔の姿が目に入った



多宝塔(重要文化財)
道を探し石段を上がると多宝塔だった。しかも、重文の指定されていることが分かった



事前に調べていると分かることだが、私にとっては嬉しい発見だった



「勝海舟・木戸孝允氏等会談の部屋」












いつの間にか潮が満ちてきている



帰りは「安芸」で戻る。なかなか実現できないが次回は「弥山登山」をしてみたい



撮影 令和元年6月11日
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錦帯橋(山口県岩国市)

2020年02月19日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月11日
昨夜は、大阪府警富田林署に勾留されていた容疑者が逃走し、餅や菓子パン、総菜などを万引したとして、現行犯逮捕された周南市の道の駅「ソレーネ周南」で車中泊
コンビニも併設されている便利な道の駅で私も今回で三度目の利用になる
この日の朝に計画していた場所に向かって走っていたのだが急遽変更して錦帯橋へ

錦帯橋(きんたいきょう)
岩国市の錦川に架橋された木造のアーチ橋で、日本三名橋や日本三大奇橋に数えられている



5連のアーチからなるこの橋の全長は193.3m、幅員は5.0m



主要構造部は継手や仕口といった組木の技術によって、釘は1本も使わずに造られているというから驚く



目の前を美しい女性が歩いていく



橋の上では自撮りをしている女性



錦帯橋は1673年(延宝元年)に、岩国藩主吉川広嘉によって杭州(中国)西湖にある連なった橋からヒントを得て建造された
しかし、翌年の延宝2年(1674年)、洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまった



昭和25年(1950年)の台風で全て流失したため、現在の橋は昭和28年に建造当時のまま復元されたもの



釣りを楽しんでいる人もいる



錦帯橋入橋券(往復のみ)を購入し、歩いてみる



川岸が無料駐車場になっている。愛車のハイエースが小さく見える



山の上には、吉川広家築城の山城「岩国城」が見える
完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に幕府の一国一城令により廃城となった



「槍倒(こか)し松」






巌流ゆかりの柳



原作も学生時代夢中になって読んだが、「三船敏郎・八千草薫・鶴田浩二」出演の宮本武蔵は最高だった



対岸からの眺め



ソメイヨシノ開花標準樹
桜の名所として、吉香公園と共に日本さくら名所100選に選定されている



この日は大変暑く、散歩の犬も涼を求めて行水



私も木陰から



吉川広嘉公像



岩国第三代藩主。延宝元年(1673年)、同2年(1674年)と連年錦川に架橋工事を行い、現在の形の錦帯橋を架橋した
特に延宝2年の架橋工事は緻密を極め、橋は以後第二次世界大戦後にキジヤ台風で崩壊・流失するまで一度も流失しなかった



香川家長屋門(山口県指定有形文化財)









書状集箱
現役の郵便ポストとして使用されている






観光客が多くて、なかなか撮れなかったアングル






撮影 令和元年6月11日
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浄瑠璃山 周防国分寺(山口県防府市国分寺町)

2020年02月17日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年6月10日
山口県防府市に入った。防府市内にいる学生時代の朋友と再会することになっている
それまでの時間調整で「防府天満宮」に向かったが、駐車場が満車で近くにある国分寺へ

浄瑠璃山 周防国分寺
「周防国分寺旧境内」として国の史跡に指定されている
国分寺は今回が二度目で、前回は島根県の津和野巡りをした後に入った



仁王門(山口県指定有形文化財)



三間一戸の入母屋造り、本瓦葺の楼門、高さは12m



正面に金堂(本堂)が見える



境内に何故か参拝者の姿がない



金堂(重要文化財)
天平13年(741年)の聖武天皇の詔により、68ケ寺建立された国分寺のうち、周防国の国分寺である
建立の時期は不明だが、続日本紀に周防国分寺の名前が出てくることから、天平勝宝8年(756年)までには完成していたと考えられる



応永24年(1417年)に焼失、応永28年(1421年)に大内盛見により金堂(本堂)が再建される
現在の金堂は、安永8年(1779年)に毛利重就によって再建されたもので、旧周防国分寺の金堂跡に位置している






この寺の金堂内には重文の像を含め記憶できないほどの仏像が安置されている



ところが、この日は休館日になっていた



この寺で記憶に残っている場所がある



衛門三郎(えもんさぶろう)という、四国霊場にまつわる伝説上の人物である



前年、愛媛県松山市にある「石手寺」でこの話を思い出した



佛足跡






招魂碑






樹齢約1000年の「槇」



水鑑の井戸






菅原道真が太宰府に向かう途中、この井戸で姿を映し自画像を描き奉納した



金堂の横を通り聖天尊に向かう



聖天尊(歓喜天)






金堂の後ろ姿もいい



撮影 令和元年6月10日
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保寧山 瑠璃光寺(山口県山口市香山町)

2020年02月16日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年6月10日

保寧山 瑠璃光寺
山口県に入ったら「瑠璃光寺の五重塔」のことが真っ先に頭に浮かぶ
相輪の尖端まで31.2メートル。高さを感じて貰うために人物を入れてみた



瑠璃光寺五重塔(国宝)
五重塔は応仁の乱(足利義満との戦い)で亡くなった大内義弘の霊を弔うため、弟の盛見が嘉吉2年(1442年)に建築した
大内文化の最高傑作と称され国宝に指定されている



京都の醍醐寺、奈良の法隆寺、そして山口の瑠璃光寺と、日本三名塔の1つに数えられている



塔を背景に数組から記念写真を頼まれる
大阪からきたという庶民的なファッションG「し○む○」の女店員だというが話しを聞いているだけで楽しくさせてくれる






以前来たときに地元の人がここから見る五重塔が一番だと話してくれた場所だ



画聖 雪舟像






山門
扁額には山号の「保寧山」 境内には先ほどのグループの笑い声が聞こえてくる
これまで4・5回訪れているの寺なので、今回は塔だけと思っていたのだが……



「慈母観音」



「わらべ地蔵」



「経塚(石造五重塔)」



正面に本堂が見える



「後生車(閻魔大王)」



「身代り地蔵」



「知足の手水鉢」



「吾唯足知」 「足るを知る」実に良い言葉だ



「水掛け地蔵」 ぼけはかなり進行しているので大量に水を掛けてみた



本堂
本堂前が静かになってきたので移動することにした。






堂内の様子



私のお腹も立派になってきている






弥勒菩薩









本尊「薬師如来」


















佛足石






鐘楼


















大内 弘世公像
室町幕府時代初期の守護大名。周防一国の守護から、厚東氏を降して長門の守護も獲得
さらに 南朝方の足利義冬を石見から追い払って石見守護の地位も手にする



正平15年/延文5年(1360年)に本拠を大内館から山口へ移転
京都に倣った都市計画に基づく市街整備を行い、後の大内文化に繋がる基礎を築いた












「長州は、いい塔をもっている」(司馬遼太郎:街道をゆく)






撮影 令和元年6月10日
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住𠮷神社(山口県下関市一の宮住吉)

2020年02月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年6月10日
九州の道の駅「なかつ」で朝を迎える。家を出て30日が過ぎた
少し寄り道をして北海道へ戻ることにした
まずは「関門トンネル」を通り山口県に入る

住𠮷神社
この日の朝まで山口県に国宝の社殿がある神社があるとは知らなかった
全国で2,300社あると言われる住吉神社の中でも、総本社である大阪の住吉大社、博多の住吉神社にならび、三大住吉のひとつである



鳥居
九州では雲がかかっていたが、青空が見えている。旅を始めて約1ヶ月、雨の日はたった2日間と天気には恵まれてきた
社号標には「長門一宮 住𠮷神社」



案内板を見て、社殿の形に驚く



寶物殿






手水舎



何時も神社に来て感じることだが、きちんと並べて置かれている
日本人の心を感じる瞬間である



和服姿の女性が「手水の作法」を解説






青銅製狛犬
平成27年に復活した狛犬(詳細は案内板にて)









楼門(国登録有形文化財)






随神像
いつもは光の反射で苦労するのだが、今回はいい効果を上げている






楼門の正面に拝殿が見える



拝殿(重要文化財)
室町時代、天文8年(1539年)毛利元就の寄進により造営



扁額には「住𠮷荒魂本宮」
三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后に住吉三神(住吉大神)が神託してその渡海を守護し、帰途
大神が「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と再び神託があり、祠を建てたのを起源とする












本殿(国宝)
山口県内で国宝に指定されている、三軒の建造物の内の一つ(功山寺仏殿、瑠璃光寺五重塔)



応安3年(1370年)に大内弘世により造営されたもので、5つの千鳥破風付き一間社を合の間とともに一列に連ねた「九間社流造」



本殿は「第一から第五」の5殿が連なり、それぞれ次の神が祀られている
第一殿:住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命) 
第二殿:応神天皇
第三殿:武内宿禰命
第四殿:神功皇后
第五殿:建御名方命
大阪の住吉大社が住吉三神の和魂を祀るのに対し、当社は荒魂を祀るとされる



透塀(国登録有形文化財)









儀式殿



「唐門」は国登録有形文化財



「絵馬掛け所」



楼門を通り駐車場へ戻る












撮影 令和元年6月10日
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峨眉山 文殊仙寺(大分県国東市国東町大恩寺)

2020年02月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年6月9日

峨眉山 文殊仙寺
国東半島のほぼ中央に位置する文殊山 (617m) の東北側の中腹にある古刹
狭い山道を走り何とか広い駐車場にたどり着いた



「三人寄れば文殊の知恵」の発祥の地と称している



「日本三文殊 峨眉山 文殊仙寺」と刻まれている
日本三文殊巡りは完結したと思っていたが、ここもそうだと知って驚いた



天台宗開祖 最澄が残したことば 「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」



表参道入口 約300の石段があることなど、この時は考えてもいなかった






仁王像(大分県指定有形文化財)
仁王像と書いていなければ見落としてしまうほど周囲の風景に溶け込んでいる



仁王像が置かれている場所が国東半島独特のものなのか……






長く急な石段を上がって行く



山門
到着を喜んだが、奥の院の本殿まで更に80段程あるとの案内に力が抜ける



最後の石段を上がる途中に本殿の姿が見えてくる



懸造りの本殿になる
大化4年(648年)に、中国の五台山から迎えた文殊菩薩を本尊とし、役行者により創建された



奥の院本殿 文殊堂
飲むと智恵が授かるとされる「智恵の水」が岩窟から湧出している
本尊は高さ約30cmの金銅仏で、秘仏(卯年の春の大祭の際に開帳)



十六羅漢


















開山 役之行者
本殿横の岩窟に安置されている



役行者が好きで多くの像を見てきたが、これほど穏やかな表情は初めてかも知れない









本殿を後にする






聖徳太子殿
山門まで降りて来た。天台宗寺院と聖徳太子との関係がよく分からない



鐘楼門



梵鐘(大分県指定有形文化財)



宝篋印塔
鐘楼門から宝篋印塔が見える



高さが約9mで、日本一大きいとされる



御神木「千年欅」 文殊仙寺の自然林は、大分県の天然記念物に指定






「21世紀に残したい日本の自然100選」に選ばれている



客殿
参拝者の休憩所として湯茶も用意されている



仁王像を後ろから。自然に同化している感じがする






撮影 令和元年6月9日
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足曳山 両子寺(大分県国東市安岐町両子)

2020年02月12日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年6月9日

足曳山 両子寺(ふたごじ)
この日の朝、訪問先をネットで検索し選択しているときに、この仁王像に出会った
いつもは歩いている順に写真を載せているが、仁王像の場所を通り過ぎてしまったため順番を変えた



両子寺仁王(安岐町指定有形文化財)
これまで愛嬌のある仁王像を見てきたが、ここは阿・吽とも筋肉質で彫りが深く、力強さを感じる
両子寺のシンボルで、ネットでこの景色を見ただけで行きたいと強く思った



江戸後期の作とされる国東半島最大級(総高245cm、像高230cm)の石造の金剛力士(仁王)像



石段を上がると護摩堂周辺にたどり着く
仁王像周辺には駐車場がないので注意が必要だ



国東半島だけで130の石造仁王像が確認されているというから驚く



正面からだと足下の注意書きが目立つので横から撮ってみた






駐車場から少し歩くと社号標があり石段を上がる



平和の鐘
世界平和を祈念して戦後間もなく再建された



護摩堂






扁額には「護摩堂」 本尊は鎌倉時代作の「不動明王」
堂内には、観音菩薩、阿弥陀如来、毘沙門天なども拝観できる



「絵馬掛け」と掃除小僧像






道祖神「さいのかみ」
禍・悪・霊を防ぎ、縁結び・安産の神






両子山七不思議「しぐれもみじ」 この紅葉の下に立ち、上を見上げると、晴天の日でもしずくが落ちるといわれている







両子山七不思議「鬼橋」 昔、千徳坊という力持ちのお坊さんが山から引きろして橋にしたといわれる大石



鬼橋を渡ると仁王像が見えてくる









先の見えない石段が続く



大講堂



桜や紅葉の季節も美しいだろうなと思うが、私はこの季節が好きだ






阿弥陀如来(大分県指定有形文化財)






鳥居
鳥居の額には「両子大権現」
両子寺を含む国東半島に広がる寺院群は、宇佐神宮の八幡神の化身である「仁聞(にんもん)菩薩」によって開かれた
その後、山岳仏教「六郷満山」として発展していく中で、「神を仏」とし、「仏を神」とする神仏習合文化が生まれた



国東塔(大分県指定有形文化財)









狛犬






崖上国東塔(安岐町指定有形文化財)



板碑



先に進むと朱色の欄干の建物が見えてくる



奥の院












十一面千手観音立像









奥の院岩屋洞窟






「石像千手観音」









三面出世大黒天



正一位両子稲荷大明神






撮影 令和元年6月9日
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史跡 安国寺集落遺跡公園「弥生のムラ」(大分県国東市国東町安国寺)

2020年02月11日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月9日
道の駅「ゆふいん」 この日は温泉地で有名な「由布院」の近くにある道の駅から出発



湯けむりが立つ別府市を経由して、国東半島を目指す一般道を走る



道路の両サイドには緑一色に染まった山があり、その中を快適に走る



あまりの景色の美しさに車を止めカメラを取り出した程だ



史跡 安国寺集落遺跡公園(弥生のムラ)
始めに園内にある有料施設である「資料館」に入る
館内の展示物の全てが撮影禁止ということを事前に伝えられた

屋外は無料となる。復元とはいえ昔の建物が好きなので楽しみだ



美しく広がる敷地の中に「竪穴住居」が見える



平成5年の発掘調査で発見され復元されたと書いている



国東の自然・弥生時代からの歴史・生活・文化を体感できる公園になっている



床面の形が方形と円形のものが復元されている



竪穴住居は床を少し掘り下げ床をつくり、数本の柱を柱穴に立てカヤで屋根を覆った住居
キャンプ用テントの原形だといつも思うのは私だけか……



弥生時代から古墳時代初期にかけての貝塚・集落遺跡で「国の史跡」の指定を受けている



青空がとても綺麗だ
鍬、田下駄等の木製農具や建築部材、柱穴等の遺構、植物の種子等が多数出土したことから、「西の登呂」とも呼ばれた



二重口縁壺に特殊な櫛目模様を付けた土器がみつかり、遺跡名をにちなんで「安国寺式土器」と命名されている



生活は漁撈・狩猟・採集を主体としながら小規模な稲作を行い、国東半島という地理から瀬戸内海から中国・四国地方と海洋交易をしていたと考えられている






復元した建物を見ても昔の人の高い技術力には驚く









撮影 令和元年6月9日
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太陽山 安国寺(大分県国東市国東町安国寺)

2020年02月10日 | 神社・仏閣
訪問日 令和元年6月9日
前夜は道の駅「ゆふいん」にて車中泊。硫黄臭が気になっていたが、そのことさえ忘れてしまうほど爆睡
大分市に住む高校時代の友人から国東半島は海岸線の風景が美しいと聞いていたので向かうことにした

太陽山 安国寺
美しい風景の事など頭からすっかり抜け向かったのは重文の像があるという寺
山門前にはマイクロバスと十数名の人がいた。参拝者ではなく集合場所にしていたようだ

山門
天明4年(1784)に建立。仁王像がいるだけで印象に残る山門になっている



扁額には山号の「太陽山」



仁王像
大分県に入ってから石造仁王像をよく目にする。しかも愛嬌があって見ていて楽しい
躍動感があり、今にも走り出しそうな感じがする






この重文の像を拝観したいと思いここへ来たが、願いは叶うか






境内には風雨に耐え年月を重ねた多くの石仏があるが、このように可愛いのも置かれている



「地蔵尊」









手水舎



鐘楼



本堂
足利尊氏が後醍醐天皇をはじめとする南朝の戦没者の菩提を弔うために日本全国68か所に建てた安国寺のひとつ
応永元年(1394年)にその最後(68番目)の寺として建立された



扁額には寺号の「安國禅寺」 臨済宗妙心寺派の寺院
天正年間(1573年-1591年)の島津氏の豊後侵攻の際に全伽藍を焼失。以後、寺院は衰退したが、明治時代に再建



廃寺となった京都山科の地蔵寺から、足利尊氏坐像や地蔵菩薩立像(延命地蔵)が移された



木造足利尊氏坐像(重要文化財)
堂内に入ると写真で見た像の姿が目に入ってきた。重文と書かれた札も何も無く、本物かどうか不安に……



足利尊氏の存命中に製作された最古とされる尊氏像で、束帯姿、等身大の寄木造



元は京都の東岩蔵寺に尊氏の分骨とともに安置されていた
応仁の乱で同寺が焼失すると、尊氏の信仰が篤かった京都山科の地蔵寺に移された



廃仏毀釈により地蔵寺が明治11年(1878年)廃寺となったのに伴い、近くの華山寺に移され、明治40年(1897年)に安国寺に移管された












欄間の彫刻









「大石良雄ゆかりの女 おかるの像」
意外な人物に会ったような気がした



「おかる」の名は知っていたが、何故ここに……



昔の女性の責任感の凄さに触れたような感じがした
また、それに応え像にする日本人の心に感動する



本堂から鐘楼、山門を見る



境内を散策する









地蔵堂
寺伝では恵心僧都作「木造地蔵菩薩立像(大分県指定有形文化財)」が安置されているか分からないが、像には歴史がある
尊氏の信仰が篤く、この像を本尊として京都山科に地蔵寺を創建したとされる



大石良雄(大石内蔵助)が浅野家断絶後に山科に隠棲した際に祈願をしたと言われ、足元の蓮華座には、四十七士の戒名が書かれた巻物が収められている
足利尊氏坐像と同様に廃仏毀釈により地蔵寺が廃寺となったのに伴い、近くの華山寺に移され、明治40年(1897年)に安国寺に移管された






「小菊地蔵」



「重陽地蔵」



「国東塔」



境内はよく整備されて美しい





















「運慶作 仁王像」
天正年間(1573年-1591年)の島津氏の豊後侵攻の際に全伽藍を焼失した
この像は安国寺創建の時、京都「東福寺」より移管されたもの



駐車場に戻ることにする



石仏からも合掌され……



仁王像からも「またね」と言われたような感じがした






撮影 令和元年6月9日
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