今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

大岩山 日石寺(富山県中新川郡上市町大岩163)

2024年09月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月4日

大岩山 日石寺
磨崖仏があるということを知り初めて訪れた
路上駐車で周囲を散策し参道は見つけたが、駐車場の場所が分からずにいた
年齢と体型を考慮されたのか、地元の方から楽に参拝できる駐車場を教えていただいた

さざれ石
さざれ石の中に「真言密宗 大本山 大岩山 日石寺」と書かれた金属が埋め込まれている



手水舎



本堂
数人の参拝者が堂内に入ったので、後で回ることにした






鐘楼



干支の額



多羅葉文殊



八体仏









藤水



不動明王御霊水



大岩の奥山より湧き流れる霊水で、眼病に効くとされ、全国からこの水を汲みに来るという



六本瀧
元来瀧行は日石寺境内近くの千巌渓にて行っていた
行者の安全を確保と、一般参詣者に修行鍛錬を推奨するために、明治元年に境内内に建設した
寒修行の場でもあり、毎年大寒には多くの人が参詣し、滝に打たれている



六基の龍頭は人間国宝の須賀松園の作
六大(地・水・火・風・空・識)により
六大煩悩(貪・瞋・痴・慢・疑・邪見)を祓い
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清浄にすることが六本の因である



愛染堂



恋愛成就・子孫繁栄・夫婦円満の利益がある



堂内の様子



「木造愛染明王」



絵馬掛け



夫婦岩
斜面を進むと鳥居と大きな岩が見えてくる



鳥居の額には「夫婦岩」



岩と岩の奥に社が見える



大岩山熊野権現堂



三重塔(上市町指定文化財)
富山県内で最も古い木造の三重塔(江戸時代後期)高さ15m
回りに壁が無く、心柱など丸見え状態である



建造時の財政難で省略したためと考えられているが、これがこの塔の特徴となっている
私自身全国の塔巡りをしているが、初体験である






塔周辺の場所が狭く、塔全体を撮ることができず同じアングルになってしまった






石仏群



大日堂






これまで歩いていて、この寺を訪れた目的の「磨崖仏」が何処にあるのか探していた
他の参拝者に尋ねても、「初めてなので分からない」と
始めに訪れた本堂に戻ることにした

扁額には山号の「大岩山」



堂内を見た瞬間驚いた
探していた磨崖仏が目の前にあった

大岩日石寺磨崖仏(重要文化財)
この本堂は、摩崖仏の不動王像を囲んで建てられていた



不動明王・二童子像(当寺の本尊)、阿弥陀如来像、僧形像の5体を凝灰岩の巨岩に半肉彫りで彫り出した磨崖仏



不動明王像の像高は約2.8m



角度を変えて立体感を出してみた






本堂の磨崖仏(重要文化財)拝観後、「古仏堂と大日堂」への案内が目に入った






古仏堂
堂内には50~60cmの仏像が安置されていた
自分好みの仏像を選んでみた






真言宗と真言密宗との違いは分からないが「不動明王」は重要な仏像の一つ



これも魅力的な仏像だ



拡大してみた



説明文が一切ないが、空海像だろうか



「五鈷杵」は密教の重要な法具



一般の方も古仏堂に仏像を預けることができるとHPに記載があった



大日堂



「木造大日如来と真言八祖」が祀られている



真言密教には、密教の正統を示す「付法の八祖」と実在の人物として密教を広めた「伝持の八祖」がある
このお堂では、「伝持(でんじ)の八祖」の「龍猛→龍智→金剛智→不空→善無畏→一行→恵果→空海」を祀る









大日堂から古仏堂を観る



古仏堂で気になった仏像を撮る






これなど妖艶で他の仏像とは一線を画す



本堂に戻る
参拝者が熱心に何かをしているのを遠くから見ていた



若い頃は「貧・困・貪」という生活をしていたが
「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」という仏教用語は恥ずかしながら初めて目にした



人間を悩ませ迷わせて害し、誤りに導く根本的な3種の煩悩(三毒)
これを護摩供で梵焼し清浄なる大欲を成就させるという



本堂内からの眺め



まだ、訪れていない場所がある



多羅葉(タラヨウ)
葉にキズをつけて経文を書いた多羅木に似ていたので名づけられた



観音堂



堂内の様子



観音堂横にある観音像






十二支滝
昭和42年(1967年)の火災後、二度と火災が起こらないように
昭和49年(1974年)に十二支の守り本尊から流れる瀧を配し、寺内安穏を祈願している






この瀧は一般の方や子供も自由に入ることができる



阿覚窟(あがくつ)






巨岩をくり抜いた中に、秘剣大師の石像を祀る



洪水で流された旧八十八箇所霊場の石仏も多数祀られている






「秘剣大師像」は弘法大師が疫病退散の際の姿だと



山門(上市町指定文化財)
参道の百段坂を登る参詣者の健脚に利益がある






仁王像
いつものように隙間にレンズを突っ込んで適当にシャッターを押す



限られた場所で適当に撮っているのだが、時々迫力ある写真を撮ることができる















地蔵堂
駐車場に戻る際に立ち寄った最後のお堂となる



「木造地蔵菩薩(延命地蔵)」を祀る
寿命長寿のご利益があることから延命地蔵と呼ばれている



江戸期に魚津の廻船問屋からの寄贈



地蔵菩薩というと地味な感じというイメージがあったが……
手を合わせると長生きできるような雰囲気を持っている



初めて訪れた日石寺、実に楽しい時間を過ごすことができた
写真を整理しながら調べて行くと抜け落ちている場所が数カ所あった

撮影 令和6年6月4日
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駒形山 妙高寺(新潟県小千谷市大字川井114)

2024年09月08日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

駒形山 妙高寺
創建は正平年間(1346年~1370年)内ヶ巻城主の田中義房が開基となり、天海が開山
当初は真言宗だったが、文禄3年(1594年)洞照寺の五世果翁良柵が「曹洞宗に改宗」した
大正13年(1924年)火災により本堂、庫裡、山門などが焼失し、現在地に再建した

やすらぎ地蔵
お参りする人全ての、悩み、苦しみが消え、やすらぎが得られますよう願いをこめて建立(高さ6m)



手水舎



ここを訪れるのは初めてで、目的は案内板にある「木造愛染明王坐像(重要文化財)」の拝観であった
ところが、御開帳日が毎月26日との記載があった



本堂



扁額には「愛染殿」



仁王像
堂内に入ると仁王像が安置されていた
畳の上に置かれた仁王像も初めて見た



しかもお神籤が掛けられている(これも初めて)









堂内の様子



本尊:木造愛染明王坐像(重要文化財)
寺伝によれば、もとは伊豆国田中荘の愛染堂に安置され、源頼朝も信仰していたという
その後、田中義房が内ヶ巻城の守護仏として、この地へもたらしたと



本堂からの眺め



整備されていて気持ちがいい



蔵王堂



蔵王権現縁起






蔵王権現は800年前、当地の山を切り開き霊場とする際に現れた
以来、妙高寺の内鎮守として安置された



蔵王堂から本堂を眺める



蔵王堂周辺には岩を多く見かける






石仏群






境内に咲く花



やすらぎ地蔵に手を合わせ駐車場に戻る



平成6年春の旅も妙高寺で終え、新潟港から小樽港航路で戻ることにした

撮影 令和6年6月5日
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船岡山 慈眼寺(新潟県小千谷市平成2丁目3-35)

2024年09月07日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

船岡山 慈眼寺(じげんじ)
作家 司馬遼太郎氏が昭和40年に取材で「慈眼寺」を訪れた時の写真である
学生時代「国盗り物語」を読んだのが初めで大ファンに
今回の旅に出る前に映画「峠 最後のサムライ」を視たのが慈眼寺を訪れるきっかけとなった



これまで持っていた本は全て処分したので、帰宅後に文庫本を購入して読む
若い頃には理解できなかった河井継之助の魅力をこの年齢になって得心した
小説では慈眼寺の歴史的場面は文庫版の「下」の後半数ページに記載がある



河合総督・岩村軍監「会見の間」
慶応4年(1868年)5月2日、戦いを避けるために藩主の嘆願書を持った長岡藩家老・河井継之助が
小千谷に本陣を構える新政府軍(西軍)の軍監、土佐藩士・岩村精一郎と講話談判をおこなった場所



談判は岩村軍監が嘆願書を無視し、長岡藩に降伏を迫ったため決裂し、北越戊辰戦争の発端となった
河井継之助はやむなく戦火を交える事となり、最終的に落城し長岡藩は滅亡する事となった(戊辰戦争)



長岡藩家老「河井継之助」(42歳)



土佐藩士「岩村精一郎」(23歳)



会見の間の額



会見の様子を人形で表現している
河井継之助は上段の間にも入れてもらえなかったとの説明もあった



官軍戦死者 位牌



会見の間に隣接している本堂前の額には山号の「船岡山」



廊下側欄間の彫刻






本堂内の様子






内陣欄間の彫刻









本尊:聖観世音菩薩



慈眼寺拝観は事前予約が必要ということを直前に知り、居多神社駐車場から連絡を取る
廊下に置かれている弥勒菩薩のような対応をしていただき拝観することができた(感謝)



本堂
平成16年(2004年)10月の新潟県中越地震により、会見の間を含む本堂が全壊した
多くの寄付などにより、平成18年(2006年)9月に復旧した



真言宗智山派の寺院
慈眼寺の創建は弘文元年(672年)薩明大徳が開山したのが始まりと伝わっている
当初は船岡山の麓にあり「池源寺」と称し、弥彦明神と神仏習合した後は「魚沼神社」の別当寺として隆盛した



南北朝の争乱による敗北と、戦国時代の兵火により衰退し寛永元年(1624年)に「船岡山観音院慈眼寺」として現在地に再興された






司馬遼太郎 石碑
作家司馬遼太郎は小説「峠」の取材にて昭和四十年八月当慈眼寺を訪れ 左記の一文を残している
河合継之助の風 姿を知らむがため 慈眼寺に来る 山内の蝉声を聞きつつ
昭和四十年八月 司馬遼太郎



司馬遼太郎直筆の一文
戊辰150年を記念して建立



六地蔵



山門(国登録有形文化財)
明治25年(1892年)の造営
入母屋、銅板葺、正面軒唐破風、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚楼門、上層部高欄付き






風神雷神像
山門観音堂側に安置












手水舎



山門正面に観音堂が見える
周辺に遊具があるが、幼稚園が併設されている



船岡観音堂
木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行4間、梁間4間、正面1間向拝付、外壁は真壁造板張



「船岡観世音」の扁額と彫刻






本尊:聖観世音御菩薩



この地を訪れた弘法大師が、衆生済度を念じて、一刀三礼、これを彫刻したものと伝えられている



向拝の彫刻









前述したが、帰宅後に「峠」を再読
地震後、復元された「会見の間」のことを思いつつ余韻を愉しんだ

撮影 令和6年6月5日
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居多神社(新潟県上越市五智6-1-11)

2024年09月06日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

居多神社(こたじんじゃ)
10数年前、五智国分寺を最初に訪れた時、地元の歴史研究家(ボランティアガイド)に案内してもらった場所である

社号標
南北朝時代以降は、守護上杉家からの崇敬を受けて「越後国一宮」に位置づけられたとされる
<越後国の一宮として知られる神社には彌彦神社がある>



親鸞聖人 越後七不思議「片葉の芦」



社号標周辺の芦を確認してみると、片方だけに葉が伸びている
アシは別名:ヨシとも呼ばれている
「悪(あ)し」に通じるのを忌んで、「善(よ)し」にちなんで呼んだものという



さて、越後七不思議の残りは
①逆さ竹 ②焼鮒 ③八房の梅 ④珠数掛桜 ⑤三度栗 ⑥繋ぎ榧



鳥居



正面に社殿が見えてくる



手水



狛犬






拝殿
額には「居多大明神」



拝殿内の様子



創建は不詳であるが
弘仁4年(813年)に「居多神」の神階が無位から従五位下に昇叙
貞観3年(861年)に従四位下に昇叙
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、「居多神社」と記載
承元元年(1207年)に親鸞が越後国府に流罪になった際に居多神社に参詣が記録として残っている






拝殿から鳥居を眺める



居多神社は「気多神」を祀る神社と考えられており、兵庫県北部から新潟県にかけての日本海側に分布する気多神社の一社とされる
明治12年(1879年)に現在地に社殿が造営され遷座したが、明治35年(1902年)に火災で焼失
平成20年(2008年)6月に本社殿が造営されて現在に至っている



祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと)
   奴奈川姫命(ぬながわひめのみこと) - 大国主命の妻
   建御名方命(たけみなかたのみこと) - 大国主命の子



大国主命と奴奈川姫命(祭神像)
大国主命は越後国の沼河姫と結婚しようとして、姫の家へ行って歌(略)を詠んだ
そのとき沼河姫は、戸を閉じたまま、家の中から次の歌(略)で答えた
その夜は会わないで、翌晩会ったという「妻問の歌」の説明板が近くにある



縁結び・子宝祈願の神として信仰されている



親鸞聖人像
境内には、葉が片方にのみ生える芦「片葉の芦」が群生する
伝承では、親鸞が居多神社に参拝して祈願をすると境内の芦が一夜にして片葉になったという



神社に浄土真宗の親鸞聖人像置かれていることは珍しい






撮影 令和6年6月5日
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安国山 華蔵院 五智国分寺(新潟県上越市五智3-20-21)

2024年09月05日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

安国山 華蔵院 五智国分寺
もう何度目になるのか、上越市付近を走ると本来の目的地ではないのだが、つい立ち寄ってしまう
最初に訪れた時の親切なボランティアガイドとの再会を願っているのかも知れない

山門(上越市指定文化財)
聖武天皇の詔により各地に建立された国分寺のうち、「越後国国分寺」の後継寺院にあたる
現在は、天台宗の寺院である



額の「安国山」は山号



仁王像
天保7年(1836年)に名立町出身の長井要壱と弟子2人によって製作
平成6年(1994年)に仁王像が倒壊した為、3年をかけて修復した






芭蕉句碑
元禄2年(1689年)7月8日。『奥の細道』旅中、越後高田の医師細川春庵亭に一泊した折
「薬欄にいづれの花を草枕」
こんなに沢山の花々に囲まれたらどの花の傍で寝たものやら



経蔵(上越市指定文化財)
棟札から元禄6年(1693年)の建立
上越市内で記録の残っている最古の建物
鉄眼版一切経と呼ばれる一大仏教全集が納められている



白山神社神輿殿



本堂
天平年間(740年代)に、聖武天皇の勅願によって建立された越後国分寺の所在地は不明だが
永禄5年(1562年)近隣の春日山城主上杉謙信によって、現在の場所に再建された

いつもは閉じられている扉が何と開放されているではないか
初めての事なので駆け寄り堂内に入った



大日如来を中心として薬師如来・宝生如来・阿弥陀如来・釈迦如来の5体の五智如来像が本尊として安置されている
写真のように立ったままでは拝顔できないようになっている

住職と話しをする機会を得た
今日は団体の参拝者が入るため堂内を開けたとのこと



内陣は撮影禁止だが、この撫で仏は許されるであろう






竹之内草庵
承元元年(1207年)専修念仏禁止の弾圧により、親鸞聖人は越後の国に流罪となった
国分寺住職は、聖人とは比叡山で同学の友で、国司に申し出て境内の五仏のそばに草庵を結んだ
その草庵は、竹林に囲まれていたので竹之内草庵と呼ばれるようになった



団体の参拝者の為なのか、この建物の戸も開放されていた
遠くから眺めていた親鸞像も近くで拝顔することができた



伝親鸞聖人坐像(上越市指定文化財)
聖人が関東に旅立たれる際、別れを惜しむ同行の心根を思い
国分寺の北にある鏡ヶ池に姿を映し刻まれたのが親鸞聖人坐像



親鸞聖人像



親鸞聖人御真筆の「南無阿弥陀仏」の石碑









三重塔(新潟県指定文化財)
上越地方では唯一残る塔
寛政6年(1794年)の焼失後の安政3年(1856年)に再建を着工
慶応元年(1865年)に棟上がされたが高欄等は未完成である






三重塔周辺の木々が生長し塔全体を撮ることが難しくなっている
ここはトイレ周辺からのもの






三体の石仏



六地蔵




親鸞聖人上陸の地
承元元年(1207年)専修念仏禁止の弾圧により、親鸞聖人は越後の国に流罪となった



階段を上ると、日本海が見えてくる



ここが、上陸の地とされる「居多ケ浜(こたがはま)」
およそ800年前の出来事である



この石段であるが6段になっている
「南無阿弥陀仏」の6文字を意識して造られた(3回唱える)



撮影 令和6年6月5日
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能生白山神社(新潟県糸魚川市大字能生7239)

2024年09月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

能生白山神社(のうはくさんじんじゃ)
令和3年6月に重要文化財の社殿があるということで訪れたことがある
この茅葺屋根の建物が「重要文化財の社殿」だと思い込み、夢中で写真を撮っていた

拝殿(糸魚川市指定文化財)
ところが、自宅に戻り写真の整理をしながら歴史などを調べていくうちに間違いに気づいた



しかも、重要文化財の本殿の写真が一枚も撮していなかった
その事が頭の中でモヤモヤしていて、3年後になったが、再訪してみた



歴史を少し
崇神天皇の11年11月初午の日に草創されたと伝えられている
元正天皇の時代には、泰澄大師が深く崇拝し、仏像を安置し、社号を「白山権現」とした
寛弘年間(11世紀初頭)には加賀白山神社より分霊して旧社に合祀した



個人的に茅葺屋根が好きで、その美しさに魅了されている



額には社号の「白山神社」
「能生白山神社」と記載しているが、正式名称は「白山神社」である



拝殿内の額には「白山社」というのもある



拝殿内の様子



遅い時間に訪れたため、本殿の存在を確認するため拝殿周辺を歩く

手水鉢



本殿(重要文化財)
永正12年(1515年)に建造され、室町時代の特色を残す
三間社流造杮葺、正面に一間の向拝を付ける



ここで地元の方に出会い、話しを聞くことができた
この神社は無人で「氏子」がお世話をしているそうだ
この男性も氏子の一人で、戸締まりをするために来たという



話しを聞いた中で記憶に残っているのは
重要文化財の本殿修復後、本殿後ろにある土砂が崩れ本殿が破損したという
(周辺の社業<通称:尾山>は国の天然記念物に指定されている)
重要文化財の修復は国や都道府県から補助金が出るのでいいが……



拝殿裏の見えない部分の茅葺屋根がこのような状態になっている
氏子の数も少なく修復には経済的負担も多く、悩んでいるという



祭神:奴奈川姫命(ヌナカワヒメ)
   <奴奈川姫命は、糸魚川市を中心とする地域一帯で信仰されてきた女神>
   伊佐奈岐命(イザナギ)
   大己貴命=大国主(オオクニヌシ)



秋葉神社









白山トンネル
北陸本線旧線の能生駅 - 筒石駅間の廃線トンネル







「恋する灯台」能生港灯台
国道8号線を走っていると、この赤い橋と島が目に入ってくる
いつかは行ってみたいと考えてはいたが、能生白山神社の近くに駐車場があった



「恋する灯台」の文字は、老人にとってこの先進むには恥ずかしい感じもする



能生港の中央に位置する小さな岩島の上に立つ灯台
陸から赤い橋が架けられている



岩島は「弁天岩」と呼ばれており、海底火山の噴火によって形成された



航路注意としての役割を終えた後も町民の要望で廃止されず、観光資源として再活用されている



灯台の近くには小さな厳島神社(白山神社末社)がある



余談になるが、以前発信した能生白山神社の写真を見て、元同僚が北海道からの旅で訪れた事を知った
彼は美食家で近くの道の駅で日本海のベニズワイガニをたらふく食べたという



道の駅「うみてらす名立」へ移動
夕陽の沈むのを眺めていると、傍に同じ匂いのする男性が来たので話し掛けてみた
これまで全国の山を登ってきたという
今回は、鳥取県の「大山登山」を終え、自宅のある福島県に戻る途中とのこと



話しの中でいつの間にかビールの事が話題になった
ビールの旨みが感じなくなるので、冷やして飲んだことがないと
この後、車内で常温のビールを飲むのが楽しみだと話してくれた



この場所で夕陽を眺めるのは3回目だが、今回は雲が多く一番条件が悪かった
夕陽が沈むと同時に話しも終わり、それぞれの車内へ
私は併設されている温泉へ
夕陽を見終わった時間帯から割引料金になるのも旅の楽しみ方の一つだ



撮影 令和6年6月5日
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小川山 千光寺(富山県魚津市小川寺2934)

2024年09月03日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月4日

小川山 千光寺
初めて訪れる寺は期待が高まるのだが、駐車場に近づいた瞬間(来たことがある)記憶が蘇った
最近、このような事が時々ある

山門
切妻、桟瓦葺き、三間一戸、八脚単層門



山門扁額には「大悲殿」
大悲殿とは聖観音や千手観音や如意輪観音などの観音菩薩が安置されている建物のこと



仁王像












階段を上りきった正面に石仏が見えてくる



石造千手観世音菩薩立像



観音堂
創建は奈良時代の天平18年(746年)に行基菩薩により開かれたのが始まりと伝えられている
往時は16坊を有したが、天文20年(1551年)長尾景虎(上杉謙信)が魚津城を攻めた際に魚津城城主が千光寺に逃げ込んだところを攻撃し13坊が焼失
存続しているのは観音堂のほか、心蓮坊、光学坊、蓮蔵坊の三坊



蟇股の彫刻



金銅千手観世音菩薩立像(富山県指定文化財・秘仏)
大同6年(806年)経田浦で大威徳明王像と共に漁網にかかり、海中から引き上げられ、千光寺に納められたとされる
秘仏で33年毎の開帳であったが、近年は17年目毎に中開帳が行われている



弘法大師一千百回御忌塔
大きな2本の木の中央に石碑のようなものが見える



緑の絨毯に誘われるように塔に近づく



「弘法大師一千百回御忌塔」と刻まれている(千光寺は、真言宗の寺院)



白山社
千光寺に隣接している



観音堂周辺を散策



六地蔵かと思ったが像の部分が無い



近寄ってみると仏さまの様なものが刻まれていた






こちらはの石仏は歴史の流れを感じる



欠落した部分が置かれている



観音堂に戻る
この「観音堂と金銅千手観世音菩薩立像」の管理は心蓮坊・光学坊・蓮蔵坊の3ヵ寺が行っている



石仏の前に手向けられた美しい花
何気ない見慣れた景色だが、日本人の大切な部分をいつも感じている



光学坊
長尾景虎に攻撃を受け13坊が焼失し、存続している観音堂と三坊のうちの一つ



固く閉ざされている門扉






撮影 令和6年6月4日
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大岩山 日石寺 その2(富山県中新川郡上市町大岩163)

2024年09月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月4日

大岩山 日石寺 その2
<前回に続く>
本堂の磨崖仏(重要文化財)拝観後、「古仏堂と大日堂」への案内が目に入った






古仏堂
堂内には50~60cmの仏像が安置されていた
自分好みの仏像を選んでみた






真言宗と真言密宗との違いは分からないが「不動明王」は重要な仏像の一つ



これも魅力的な仏像だ



拡大してみた



説明文が一切ないが、空海像だろうか



「五鈷杵」は密教の重要な法具



一般の方も古仏堂に仏像を預けることができるとHPに記載があった



大日堂



「木造大日如来と真言八祖」が祀られている



真言密教には、密教の正統を示す「付法の八祖」と実在の人物として密教を広めた「伝持の八祖」がある
このお堂では、「伝持(でんじ)の八祖」の「龍猛→龍智→金剛智→不空→善無畏→一行→恵果→空海」を祀る









大日堂から古仏堂を観る



古仏堂で気になった仏像を撮る






これなど妖艶で他の仏像とは一線を画す



本堂に戻る
参拝者が熱心に何かをしているのを遠くから見ていた



若い頃は「貧・困・貪」という生活をしていたが
「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」という仏教用語は恥ずかしながら初めて目にした



人間を悩ませ迷わせて害し、誤りに導く根本的な3種の煩悩(三毒)
これを護摩供で梵焼し清浄なる大欲を成就させるという



本堂内からの眺め



まだ、訪れていない場所がある



多羅葉(タラヨウ)
葉にキズをつけて経文を書いた多羅木に似ていたので名づけられた



観音堂



堂内の様子



観音堂横にある観音像






十二支滝
昭和42年(1967年)の火災後、二度と火災が起こらないように
昭和49年(1974年)に十二支の守り本尊から流れる瀧を配し、寺内安穏を祈願している






この瀧は一般の方や子供も自由に入ることができる



阿覚窟(あがくつ)






巨岩をくり抜いた中に、秘剣大師の石像を祀る



洪水で流された旧八十八箇所霊場の石仏も多数祀られている






「秘剣大師像」は弘法大師が疫病退散の際の姿だと



山門(上市町指定文化財)
参道の百段坂を登る参詣者の健脚に利益がある






仁王像
いつものように隙間にレンズを突っ込んで適当にシャッターを押す



限られた場所で適当に撮っているのだが、時々迫力ある写真を撮ることができる















地蔵堂
駐車場に戻る際に立ち寄った最後のお堂となる



「木造地蔵菩薩(延命地蔵)」を祀る
寿命長寿のご利益があることから延命地蔵と呼ばれている



江戸期に魚津の廻船問屋からの寄贈



地蔵菩薩というと地味な感じというイメージがあったが……
手を合わせると長生きできるような雰囲気を持っている



初めて訪れた日石寺、実に楽しい時間を過ごすことができた
写真を整理しながら調べて行くと抜け落ちている場所が数カ所あった

撮影 令和6年6月4日
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大岩山 日石寺 その1(富山県中新川郡上市町大岩163)

2024年09月01日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月4日

大岩山 日石寺
磨崖仏があるということを知り初めて訪れた
路上駐車で周囲を散策し参道は見つけたが、駐車場の場所が分からずにいた
年齢と体型を考慮されたのか、地元の方から楽に参拝できる駐車場を教えていただいた

さざれ石
さざれ石の中に「真言密宗 大本山 大岩山 日石寺」と書かれた金属が埋め込まれている



手水舎



本堂
数人の参拝者が堂内に入ったので、後で回ることにした






鐘楼



干支の額



多羅葉文殊



八体仏









藤水



不動明王御霊水



大岩の奥山より湧き流れる霊水で、眼病に効くとされ、全国からこの水を汲みに来るという



六本瀧
元来瀧行は日石寺境内近くの千巌渓にて行っていた
行者の安全を確保と、一般参詣者に修行鍛錬を推奨するために、明治元年に境内内に建設した
寒修行の場でもあり、毎年大寒には多くの人が参詣し、滝に打たれている



六基の龍頭は人間国宝の須賀松園の作
六大(地・水・火・風・空・識)により
六大煩悩(貪・瞋・痴・慢・疑・邪見)を祓い
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清浄にすることが六本の因である



愛染堂



恋愛成就・子孫繁栄・夫婦円満の利益がある



堂内の様子



「木造愛染明王」



絵馬掛け



夫婦岩
斜面を進むと鳥居と大きな岩が見えてくる



鳥居の額には「夫婦岩」



岩と岩の奥に社が見える



大岩山熊野権現堂



三重塔(上市町指定文化財)
富山県内で最も古い木造の三重塔(江戸時代後期)高さ15m
回りに壁が無く、心柱など丸見え状態である



建造時の財政難で省略したためと考えられているが、これがこの塔の特徴となっている
私自身全国の塔巡りをしているが、初体験である






塔周辺の場所が狭く、塔全体を撮ることができず同じアングルになってしまった






石仏群



大日堂






これまで歩いていて、この寺を訪れた目的の「磨崖仏」が何処にあるのか探していた
他の参拝者に尋ねても、「初めてなので分からない」と
始めに訪れた本堂に戻ることにした

扁額には山号の「大岩山」



堂内を見た瞬間驚いた
探していた磨崖仏が目の前にあった

大岩日石寺磨崖仏(重要文化財)
この本堂は、摩崖仏の不動王像を囲んで建てられていた



不動明王・二童子像(当寺の本尊)、阿弥陀如来像、僧形像の5体を凝灰岩の巨岩に半肉彫りで彫り出した磨崖仏



不動明王像の像高は約2.8m



角度を変えて立体感を出してみた






次回に続く

撮影 令和6年6月4日
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真宗大谷派井波別院瑞泉寺(富山県南砺市井波3050)

2024年08月30日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月3日

真宗大谷派井波別院瑞泉寺
浄土真宗の宗派の1つで、阿弥陀如来一佛を本尊とし、親鸞を宗祖とする
山号は「杉谷山(さんこくさん)」
大谷派の根本道場である東本願寺を本山とする

寺号標
寺号標には「井波御坊 瑞泉寺」
その奥の石柱には「井波別院 高岡門」と彫られている



15世紀末には、「井波城」と称した
戦国時代には、越中一向一揆の拠点とされ、伽藍は堅牢な石垣に囲まれている



花が咲いている石垣というのは珍しい



山門(富山県指定文化財)
明徳元年(1390年)本願寺第5代 綽如により建立された堂宇であるが
天正9年(1581年)織田信長の北陸方面軍佐々成政の軍勢と戦うが焼き討ちに遭い焼失した



天明5年(1785年)東本願寺の大工の棟梁であった柴田新八郎貞英により釿始(起工式)が執り行われたが、同8年本山の火災復興のため帰京
副棟梁の地元井波の大工、松井角平恒徳が引継ぎ、文化6年(1806年)に上棟式を行い見事に山門を完成させた



額には山号の「杉谷山」
楼上に釈迦三尊の木像を安置している



山門正面の「波に龍」の彫刻
京都彫刻師の前川三四郎に依頼し、京都から運ばれてきた




式台門(南砺市指定文化財)
寛政4年(1792)に柴田清右衛門が再建した



井波彫刻の元祖番匠屋七左衛門作の「獅子の子落し」の彫刻



門扉に菊の紋章があり、「勅使門」「菊の門」ともいわれている



蟇股には、人の悪夢を食べるという「莫」の彫刻



山門に戻り中に入る(拝観料:500円)



明治12年(1879年)本堂から出火、火の手が山門に燃え移るのを防いだのが、門中央の唐狭間の「雲水一匹龍」



傍らの松に絡みつき、井戸から水を吹き上げて消火したと伝えられる



親鸞聖人像



本堂
瑞泉寺は、明徳元年(1390年)、本願寺5代綽如上人によって開かれた
多数念仏信者の浄財により瑞泉寺が建立された
北陸の浄土真宗信仰の中心として多くの信者を集め、越中の一向一揆の重要拠点ともなった寺院となっていく
本尊:阿弥陀如来






本堂から太子堂へ向かう廊下



梵鐘



太子堂
大正7年(1918年)に井波彫刻の粋を集めて再建された
毎年7月21日から29日まで行われる恒例の「太子伝会」は、八幅の絵伝に描かれた聖徳太子の一生を絵解きされる、全国でも稀な仏事
20年程前に初めて訪れた時に絵解きを聞いたことがある

蟇股の彫刻(一部)












手挟(たばさみ)彫刻
桐に「鳳凰」と「雲水龍」をあしらった「龍風」という一対(2組)をなしている



中心を空洞にして彫る「竜彫り」という高度な技法が用いられている



堂内の彫刻(一部)












宝物殿



渡り廊下からの眺め



遊び心で



本堂から外に出る
瑞泉会館



手水舎



太子堂を外から






本堂は国内木造建築で4番目の大きさ
(1 東本願寺 2 東大寺 3 西本願寺の順)



鐘楼堂
昭和8年(1933年)の再建
梵鐘は口径124cm、重さ3.4tで北陸随一



井波大工の代表的建造物として名高く、北陸随一の大きさを誇る



後小松天皇廟
大正15年・昭和元年(1926年)に砺波の相撲講の募財で建立された
碑文題字は彰如上人の筆






撮影 令和6年6月3日
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白山比咩神社(石川県白山市三宮町ニ105-1)

2024年08月27日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月1日

白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)
加賀国一宮
全国に2,000社以上ある白山神社(はくさんじんじゃ)の総本社である
地元では「しらやまさん」とよばれ親しまれている

北参道鳥居
この日は土曜日ということもあり、「混むのかな」と思い、いつもより早めに道の駅を出た
初めて訪れる神社なので様子が分からない
カーナビが案内したのは、3つある駐車場のうちの「北駐車場」



かなり大きな駐車場で私が着いた時にはまだ多少の余裕があった
帰りには満車状態であった



狛犬1






手水舎






芭蕉句碑
元禄2年(1689年)7月、芭蕉が「おくのほそ道」の旅で詠まれた句とされる



「風かをる越の白嶺を國の華」
さわやかに風が吹き渡る白山こそは、国の誇りであることだなあ



社務所



大ケヤキ(白山市指定天然記念物)
胸高周り約5m、樹高25m、推定樹齢は1000年



荒御前神社 (あらみさきじんじゃ)
参道を進む先には長蛇の列



鳥居の額で確認すると「荒御前神社」だった



荒御前大神は、『日本書記』の中に、「神功皇后」が三韓征伐した際、守護した神として登場する




白山奥宮遙拝所(はくさんおくのみやようはいじょ)
またまた長い列が……



その先に何があるのかを確認をすると、岩があった
後に調べて見ると、大汝峰、御前峰、別山の「白山三山」の形をした大岩だという



ここは、霊峰白山を御神体とする全国白山神社の総本宮(奥宮)の遥拝所となる
長い列をつくり、拝もうとする理由が分かった気がする



神馬舎
私はと言うと信仰心も無く、記念に一つでも拝んでみようかと短い列の所に並んでみた
目の前に現れたのは神馬だった
翌日は金沢競馬場で一日楽しもうと考えていたのでちょうど良かった



白山比咩大神を乗せて白山に登拝するといわれる神馬
白山麓の大欅を素材に絢爛豪華な装飾がこれまで観てきた神馬と違うところだ



拝殿
当然のことながら、拝殿前も長い列
境内に入った時から、次回は平日に訪れゆっくりお参りしようと心に決めていた



初めて訪れた場所で何処になにがあるのか分からず、人の歩いている方へ進んでみた



狛犬2






この参道の緑の素晴らしさは感動もの



社号標、一の鳥居
着いたようなので振り返ってみると、社号標と鳥居があった
白山比咩神社には長らく鳥居がなく、白山七不思議のひとつといわれていた



どうやら歩いて来た道は「表参道」のようだった
(この時は表参道ということも知らず)がっかりして戻ったと記憶している



今、振り返ってみると、表参道駐車場から参道を歩き、社殿を目指すのがいいと感じている



杉や欅、楓などの樹木に覆われたおよそ250mの表参道が続く



参道左に流れ落ちている小さな滝



上流を見ると緑の中を小さな川が流れている



御神木<老木>(白山市指定天然記念物)
根元の周り約12m、胸高幹周り約10m、樹高約42mの巨木
樹齢はおよそ800年



二の鳥居



社殿(下白山、白山本宮)
主祭神:白山比咩大神 - 菊理媛神と同一神
    伊邪那岐尊
    伊弉冉尊



白山奥宮遙拝所前には長い列が続いている
日本人の神々に対する信仰心には驚く



狛犬3






拝殿前の様子



お御籤掛け



宝物館



土産店に立ち寄り、駐車場に戻る
次回は平日に訪れることにする



撮影 令和6年6月1日
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安宅住吉神社(石川県小松市安宅町タ17)

2024年08月26日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月31日

安宅住吉神社
境内に安宅の関址があり、「安宅」「勧進帳」にも取り上げられた伝承から、難関突破の神として知られる



陽のみち
6月1日月次祭当日の早朝、大鳥居の真正面から太陽が昇り、光は本殿まで差し込み、表参道は「陽のみち」となるという
前日の5月31日に訪れたのだが、「陽のみち」についてこの時は理解していなかった(残念)



狛犬1






鳥居



額には社号の「安宅住吉神社」



社殿へつながる参道は木々に囲まれ趣がある



神輿倉



狛犬2






神亀石






稲荷社






勧進帳



勧進帳を読み上げる弁慶像



拝殿
古くより陸・海路の要所として栄えた北国の港安宅の地に祀られ「安宅の住吉さん」として親しまれている
昔は安宅住吉大明神・二宮住吉大明神・住吉宮とも称された



創建は古く、歴史を遠く溯る事1200有余年前、奈良時代天応2年(782年)で、琴佩山(ことおびやま)に鎮座
天暦2年(948年)鷹降山に、天正5年(1577年)小倉野に遷座
正保4年(1647年)現在の二堂山に遷座された



「縁ありて社頭に詣づる人、誠を込めて神前に祈りを捧げば、その祈りは必ずや成就されん」
義経と弁慶一行が、安宅の関守・富樫に疑われながらも難を逃れたとの伝承から、難関突破に霊験ありとされる



本殿
主祭神:住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
相殿神:別雷神・少彦名命



安宅関址(石川県指定史跡)
寿永元年(1182年)創設と伝えられる北陸道の要衝
源義経の北国落ちを題材とした歌舞伎《勧進帳》,謡曲《安宅》の舞台として有名



「安宅の関 こまつ勧進帳の里 勧進帳ものがたり館」
勧進帳にまつわる資料や遊んで学ぶ体験展示、歌舞伎「勧進帳」のダイジェスト映像
テラスでは日本海を一望しながら食事やショッピングも楽しめる



この近くの道路を何度か通っているのに「安宅の関」がこの場所にだとは気づかなかった






3体の銅像が並ぶ
銅像の武蔵坊弁慶は七代目松本幸四郎が、富樫泰家は二代目市川左團次がモデルとなっている



「智・仁・勇」の文字は、我国の古来の国民性の美しさを端的に表現している
智は「弁慶の知恵(中央)」
仁は「富樫の情け(右)」
勇は「義経の勇気(左)」



弁慶一行は山伏に、義経は荷物持ちに主従逆転の変装して奥州平泉へと逃れて行く
「安宅の関」で関守・富樫左衛門は「義経ではないか?」と疑いをかけ厳しい尋問をする



弁慶は「勧進(寄付)を集める旅をしている」と嘘をつき、たまたま持っていた巻物を勧進帳に仕立てた



関守・富樫左衛門は、主君を思う弁慶の強い気持ちに心をうごかされ、自分が罰せられるのを覚悟で一行を見逃す



去ろうとした弁慶一行について行く強力が義経に似ていると番卒が告げ、富樫は一行を呼びとめる
疑いを晴らすため、弁慶は杖を取り、義経を打つ
家来として絶対にはたらいてはいけない無礼であった
あえてそうしてでも主君を助けようとする弁慶の姿に富樫は心を打たれた



関ノ宮



右には「源義経」左には「富樫左衛門」が祀られている



与謝野晶子歌碑






金比羅社






絵馬掛け



社殿に戻る



この神社を巡り日本人の美しい心「惻隠の情」という言葉が頭に浮かんだ



撮影 令和6年5月31日
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蓮如の里 吉崎(福井県あわら市吉崎)

2024年08月25日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月31日

蓮如の里 吉崎
道の駅 「蓮如の里あわら」ができたということで立ち寄ることにした
道の駅ができる前に「蓮如の里」には、平成21年(2009年)7月に訪れたことがある

史蹟 蓮如御坊跡
浄土真宗中興の祖・蓮如上人が北陸での布教の中心拠点に選んだ場所
付近一帯は「蓮如の里」と呼称されている



蓮如上人像
御山の上に7mの高座を設け、その上に高さ4.85mの銅像を安置
高座の正面には「慧燈高照」の文字(諡号:慧燈大師)
「智慧の燈を高く照して大衆を済度された」蓮如上人の徳をたたえたもの



高村光雲の手により型が作られ鋳像された銅像で、高村光雲の3大名像の一つ
(あと2つは皇居外苑の「楠木正成」、上野公園の「西郷隆盛」)



吉崎御坊 本堂跡
永正3年(1506年)、朝倉氏が加賀より越前に侵攻した加賀一向一揆勢を九頭竜川の戦いで退けた後、吉崎の坊舎を破却し、以後廃坊となる



お腰掛けの石
吉崎御坊の本堂西側の庭に据えられた庭石



蓮如上人はこの庭石によく腰掛けて日本海を眺めることを好まれたという



蓮如上人が眺めたであろう景色



北潟湖
福井県では三方五湖の水月湖、三方湖に次いで3番目に大きい
正面の大きな島が「鹿島の森」 奥に日本海が見える
室町時代、文明7年8月吉崎退去の際、蓮如上人は小舟によりこの北潟湖から日本海を経て小浜へと移動
夕日に照らされた吉崎の山を振り返り「夜もすがら たたく船端吉崎の 鹿島続きの山ぞ恋しき」と句を残した



見玉尼のお墓
蓮如上人第1夫人の第4子二女
蓮如は、5人の妻との間に27子をもうけた(13男、14女)
*第1夫人(7人)第2夫人(10人)第3夫人(1人)第4夫人(2人)第5夫人(7人)



蓮如上人の吉崎御坊の建立をきき父のもとへ馳せ参じたが、まもなく病に伏せて1年余りで亡くなった
お墓に今も美しい花が手向けられている



真宗大谷派吉崎別院(東別院)
山門



吉崎東別院会館



本堂
本尊:阿弥陀如来



蓮師堂
蓮如上人58歳御姿



本願寺派吉崎別院(西別院)
山門<念力門>(あわら市指定文化財)
かつての西本願寺北総門。天正19年(1591年)に豊臣秀吉から寄進されたと伝承



中宗堂
蓮如像を安置



本堂
本尊:阿弥陀如来



蓮如上人御影






撮影 令和6年5月31日
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雄島・大湊神社(福井県坂井市三国町安島)

2024年08月24日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月31日

雄島・大湊神社
東尋坊を訪れた時、遠くに見える赤い橋と島の存在がずっと気になっていた
今回は東尋坊には寄らず、気になっていた橋と島を目指した

雄島橋(おしまばし)
橋の近くに無料の駐車場がある
雄島橋周辺は小学生の校外学習(写生)で賑わっていた
そのバスの運転手から「北海道からですか」と声を掛けられ、しばらく会話を楽しんだ



雄島(おしま)
橋の奥に見えるのが「雄島」
標高27m、周囲2kmの越前海岸では一番大きな島である



土地の人は昔から、「神の島」とあがめている
島全体が流紋岩でできている
東尋坊同様に「柱状節理」が発達しているほか、「板状節理」も見ることができる



この橋の長さは224m






鳥居
鳥居の奥には洞穴のようなものがある
初めて訪れるので不気味な感じがする



鳥居の額には「大湊神社」



今にも雨が降ってきそうな空模様なので「大湊神社」を目指すことにした



社務所
遠くから見て洞穴と思っていた(実際は木のトンネル)入口近くに社務所がある
無人で無防備でも安全なとことが日本の良いところ



社務所を過ぎると石段が続く



社号標



更に、石段が続く



参道に置かれている扁平の石だが、溶岩の名残を示す美しい縞模様が美しい



木を利用した鳥居のようだ



神木 藪椿
案内板には「神木 藪椿(やぶつばき)」とある
昔から椿は長寿を保つ崇められた霊木



燈籠 一対









参道の石
平地を歩くより、石の上を歩く方が楽しい






目的地に到着
この島に渡るまでこの神社の存在すら知らなかった



手水舎



拝殿(福井県指定文化財)
白雉年間(650年~654年)に勤請されたと伝えられる
源義経が落ち延びる際に立ち寄って家臣の兜を奉納した



社が朝倉義景の後援を受けていた際に明智光秀が訪れて漢詩を詠んだという話もある
かつての社殿は天正年間(1573年~1591年)織田信長の兵によって焼き払われた
現在の社殿は元和7年(1621年)福井2代藩主 松平忠直により再建されたものである



拝殿内部







扁額「大湊神社」が拝殿内に置かれていた



本殿(福井県指定文化財)
祭神:三保大明神(三尾大明神)



鳥居



鳥居の先には東尋坊が見える



少し前に、この女性に気持ちの良い挨拶をされ、数分間、話しをする機会を得た
とても上品で美しい女性であった
岐阜県からの旅人で、スマホではなく一眼レフカメラで撮影していたことに興味を持った



駐車場に戻る



散策路の板状の岩はリズミカルな歩きに誘い、疲れが軽減されるような気がする



最後の石段を用心深く下りる



晴れていたら、一周約1.2km、約40分の散策路を歩いてみたいと一瞬思った
「磁石岩・瓜割の水・雄島灯台」などがあるようだ






東尋坊は賑わっていると思うが、こちらは閑かで趣がある
車に戻るとポツポツ雨が落ちてきた



撮影 令和6年5月31日
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三國神社(福井県坂井市三国町山王6-2-80)

2024年08月23日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月31日

三國神社(別名:山王宮、お山王さん)
この近くを何度か走っていたのだが、訪れたのは今回が初めてとなる
正面鳥居の右側50mの所に駐車場がある

社号標
天文9年(1540年)竹田川 の支流の兵庫川から流れてきたとされる御神体を住人が拾い、当地の正智院に納めたのに始まる
天文13年(1544年)正智院の院主・澄性が境内に小社を建立
永禄7年(1564年)澄性の弟子の澄元が現在地の桜谷を開き、「山王宮を建立」したのが創建年となる



鳥居
額には「三國神社」
明治2年(1869年)山王宮を桜谷神社に改称
明治18年(1885年)に三國神社と改称し、現在に至る
地元では「おさんのさん(お山王さん)」と呼ばれている






狛犬1






手水舎



大好物のツブ貝が奉納されている
日本海の豊富な海産物に恵まれ、近くには有名な観光地「東尋坊」がある



随身門(福井県指定文化財)
鳥居の正面に見えるのが随身門
この楼門は元治元年(1864年)に釘始・明治3年(1870年)に完成した



棟梁・森町大工・安右ェ門・23歳
神社楼門(随身門)は和様を基調としながら扇垂木など禅宗様を加味している



楼門上の額「光華閣」は慶応4年(1868年)第17代福井藩主 松平茂昭の寄進



随身像
明治2年(1869年)松ケ下町の寄進



随身像の作者は志摩竜斉









宝物殿



山王宮旧跡



天文9年に「御神体」を拾い上げ、永禄7年に「山王宮」を建立した場所となる
御神体:大山咋命(山王権現)



跡地に「大岩」を据え鳥居を建てるとある



木立神社



明治24年(1891年)に三国神社内に建立



狛犬2






祭神:松平慶永
*伝説的な英雄ではなく、幕末から明治における福井藩の名君



郷土出身の彫刻師島雪斎が彫刻した松平慶永の寿像に太刀一振りと立願文を添えて氏子が祭った



随身門と直線で結ばれる地点に社殿が建っている



八幡神社



扁額には社号の「八幡神社」



拝殿正面の彫刻






祭神:応神天皇
「桜谷地主神」として古くから祀られていた
鍛冶職が多く居住していた関係から、弓矢の神である応神天皇が守護神として崇敬されていた



初めて訪れたこともあり、左回りで移動してきた
最後になったが、三國神社の拝殿に着いた



拝殿
天保2年(1831年)窮民救済のため社殿改築、境内整備の工事がはじまる
天保11年(1840年)還宮式 棟梁 八十島四郎兵衛



狛犬3






拝殿正面



額には「三國神社」



拝殿内部



主祭神の額が掲げられている
右から「大山咋命(山王権現)」「継体天皇」



唐破風の彫刻
大きな「鳳凰」が目立つが、一番下にある「群猿像(28匹)」が坂井市の文化財に指定されている



本殿
祭神:大山咋命(おおやまくいのかみ)
*竹田川 の支流の兵庫川から流れてきた御神体
明治5年(1872年)に水門宮の御神体 継体天皇を合祀



神輿堂






撮影 令和6年5月31日
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