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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

淨瑠璃山 醫王院 淨光寺(長野県上高井郡小布施町雁田676)

2025年03月28日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月25日

淨瑠璃山 醫王院 淨光寺
真言宗豊山派の寺院
別名:雁田薬師、妻恋薬師

仁王門
久し振りになるが、3度目の訪問になる
仁王門横の説明機のスイッチを押すと境内に大音量で流れる



仁王像
雁田薬師には七不思議というものがある
「七不思議 其の五」に、土中から掘り出された紅白の仁王像もその一つ






二人の仏師によって彫られたためで、色も縁起の良い赤と白に塗られている






参道の石段
「七不思議 其の四」に自然石の石段がある
一見雑然としているが、下の方から体を低くして見上げると、石段の鼻先が一直線に揃っている






石段横に安置されている石仏









薬師堂(重要文化財)
室町時代の応永15年(1408年)の建立
「七不思議 其の一」には、この時代に施薬院が置かれ、薬師堂が建立されたことがそもそも不思議だという



「国宝薬師堂」と彫られている
昔は国宝に指定されていた



茅葺屋根は、平成19年(2007年)に葺き替えられた



翌年の平成20年(2008年)に建立満600年を迎えた






本尊:薬師瑠璃光如来十二神将
(通称:お薬師さま)
「七不思議 其の二」には、人々の病気をなおし、寿命を延ばすことを本願とするお薬師さんが「縁結びのお薬師さん」になった



岩座の上に日光・月光両菩薩と十二神将に囲まれている
胎内銘に応永16年(1409年)とあり、薬師堂 建立の翌年の作である



何百年も崩れたことがないという石段を下りる



社務所



時代の流れか駐車場の一部がRVパークになっていた

撮影 令和6年9月25日
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金峯神社(新潟県長岡市西蔵王2丁目6-19)

2025年03月25日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月24日

金峯(きんぷ)神社

鳥居
鳥居横にある駐車スペースに車を駐める
鳥居の前に道路があり、車に注意しながら撮った



鳥居から少し歩いた所に社殿があり、その近くに駐車場があった



手水舎



手水鉢には美しい花が飾られている



拝殿へと続く参道では風車が迎えてくれる



よく見ると金峯神社と書かれた風鈴もある
この日は30℃を超える高温で風が吹くと涼やかな音が耳に入ってくる



振り返ると三色の風車が規則的に置かれている



神馬



拝殿
和銅2年(709年)元明天皇の勅願により北国鎮護のため大和国吉野山の蔵王権現を分霊して古志郡楡原の地に創建
秋葉三尺坊は後に信州戸隠を経て遠州に渡り一大修験勢力を築いたが戦に破れ仁治3年(1242年)現在の又倉村の地に遷座



信濃川河川交通の重要地であるこの地に門前町を築き、軍事勢力を持ち蔵王堂城を築き長岡の町の基礎を築いた
河川沿いの長い丘状に発展した町の様から「長岡」という地名が起こった



蔵王堂城主堀直竒は信濃川にかけるこの地から平方原に城を築城した(長岡城)
江戸時代、東叡山寛永寺天海僧正により別当寺の「安禅寺」が真言宗から天台宗に宗旨替えとなる



明治維新の神仏分離令により別当寺の「安禅寺」は分離・廃寺となり、蔵王堂は「金峯神社」と改名



本殿
祭神:金山彦命(かなやまびこのみこと)



明治40年(1907年)社殿炎上し、大正2年(1913年)再建
平成15年(2003年)出火により拝殿の外壁の一部と屋根部分を焼失
平成16年(2004年)新潟県中越地震により本殿基礎部分に被害



平成21年(2009年)創建千三百年祭を斎行



間断なく参拝者が訪れている



撮影 令和6年9月24日
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雲高山 国上寺 その2(新潟県燕市国上1407)

2025年03月24日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月24日

雲高山 国上寺 その2
<前回の続き>
寺号標
寺号標には「越後一之寺 国上寺」とある



風神・雷神像
山門前の風神・雷神像は昨年訪れた、新潟県小千谷市の「慈眼寺」にもあったが珍しい
*慈眼寺には、河井継之助と新政府軍軍監 岩村精一郎との「小千谷談判」に臨んだ「会見の間」が保存されている






山門の彫刻



大黒天像






講堂前の香炉



参道の風車



講堂前の参道は風車で飾られている



文殊菩薩
合格突破鳥居と学問向上の文殊菩薩



講堂の扁額
扁額には山号の「雲高山」



元文2年(西暦1737年)に建てられた



本尊:木造千手観音菩薩立像(新潟県指定文化財)
千手観世音菩薩像は、戦国武将上杉謙信が信心された霊尊と伝えられている



幸せ観音



観音様の周囲を三回巡ると幸せが授かると説明書きがあった
3名の熟女が「遅いかも知れないが」と言いながら楽しそうに歩いていた



少し離れた「六合庵」を目指す

鏡井戸



縁切り地蔵



長寿地蔵



香児山(かごやま)



彌彦神社は越後国一の宮



史跡 良寛修行之地



六合庵
この庵は当寺を再建した「萬元」の住居として建てられたものである
五合庵の名は国上寺の客僧萬元が貫主良長の扶養を受け、毎日粗米五合を寄せて頭陀の労を援けたことによって名づけられた



頭陀の労とは、煩悩の 塵垢を振り払うために行う、衣・食・住に関する貪りなどを振り払う特に厳しい出家生活法のこと



良寛句碑
「焚くほどは 風がもてくる落葉かな」



五合庵は良寛が玉島より帰国してしばらく転々とした後、文化元年(1804年)良寛47歳頃から文化13年(1816年)までの最盛期を過ごした草庵



五合庵の良寛は何事にもとらわれず何者にも煩わせることもないといった生活を送った
筍が顔を覗かせれば居間を譲り、子供にせがまれれば日が落ちるまで鞠付きに興じた



歌集『布留散東』に「この里に手まりつきつつ子どもらと遊ぶ春日は暮れずともよし」と残している



ここで書を学ぶうち、従来の書法では自身の心情を表すことができなくなり、良寛独自の書法を編み出している



五合庵での階段の昇り降りが辛くなり、61歳の時乙子神社境内の草庵に居を構えた
円熟期に達した良寛の書はこの時に生まれている



名書家として知られたものの、高名な人物からの書の依頼は断る傾向にあった
しかし、子供達から「凧に文字を書いて欲しい」と頼まれた時には喜んで『天上大風』という文字を書いたという



良寛に興味を持ち、生誕地にある「良寛記念館」を訪れたこともある

千眼堂吊橋



良寛ゆかりの国上山の中腹にあり、朝日山展望台と五合庵を結ぶ長さ124mの赤い吊り橋



高所恐怖症克服のため渡ってみた



撮影 令和6年9月24日
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雲高山 国上寺 その1(新潟県燕市国上1407)

2025年03月23日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月24日

車載のサブバッテリーの他にポータブルバッテリー2個を積んできているが、ポタ電の1個が故障
メーカーとの連絡が取れず、最悪、旅を中断し北海道に戻る事も考え新潟港付近に留まることにした

雲高山 国上寺(こくじょうじ)
和銅2年(709年)に越後一の宮弥彦大神の託宣により建立された越後最古の古刹
今回が2度目の訪問となる

ぼけ防止・癌防止地蔵
他人事とは思えない症状もあるので手を合わせた



やすらぎ観音



参道途中から右に入ると本堂が見えてくる



鐘楼



良寛像
良寛が玉島より帰国してしばらく転々とした後、文化元年、良寛47歳頃から文化13年までの最盛期を過ごした草庵がある






六角堂



額には「開運大黒天」



本尊:大黒天像
文治3年(1187年)源頼朝に追われる身となった義経は、武蔵坊弁慶をはじめ数人の家来と共に奥州へ落ちのびる途中、寺泊を経て当寺に参詣



今後の無事を祈願して持仏の大黒天木像を寄進したといわれている
文化3年(1816年)六角堂を建立し、大黒天像が本尊として安置された



天井画






欄間にも美しい絵が描かれている






石碑「聖徳太子報恩」






本堂
国上山は、雲高山もしくは雲上山と言われていた
聖徳太子がこの山に登って雲上記を書かれたとも伝わっている



扁額の文字が読めない
山号なら「雲高山」なのだが……



堂内の様子



本尊:上品上生阿弥陀如来(行基菩薩の作)<秘仏>
開帳は12年に1度の開帳(次回2026年)
聖武天皇の后である光明皇后より奉納された



堂内の配置図



須弥壇



開山 泰澄大徳 像



萬元上人 像
「五合庵」と呼ばれる草庵は当寺を再建した萬元(ばんげん)の住居として建てられたもの



引声祭用神輿



イケメン偉人空想絵巻
謙信、義経、弁慶、良寛、酒呑童子がモデルとなっている
























閻魔大王
本堂裏に安置されている












この空想絵巻、賛否両論があるようだ(私は否定的な考え)






大師堂(御仮堂)
宝永8年(1711年)に建造
本堂(阿弥陀堂)を建立している間、本尊:阿弥陀如来・脇侍等を安置していたことから、「御仮堂」とも言われている



弘法大師像を安置






天井画



五鈷掛の松
弘法大師が中国より帰国の途次、仏具である「三鈷と五鈷」を投げられた
三鈷は高野山の松に、五鈷が国上寺のこの木に掛かり真言道場になった



唐から806年に日本に帰国した年代からすると1200年前の松になる



雷井戸
「今昔物語」にも記載のある井戸









次回に続く
撮影 令和6年9月24日
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五頭山 華報寺(新潟県阿賀野市出湯794)

2025年03月22日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月23日

弘法大師空海が開湯したという温泉が周辺にあり、華報寺境内にも共同浴場がある

五頭山 華報寺
新潟県阿賀野市出湯に境内を構えている曹洞宗の寺院
地名の「出湯」で想像できるように、温泉街のなかにある寺院という感じがする



本堂
創建は大同年間(806~810年)この地訪れた空海が五頭山の山頂に五頭権現を勧請し山麓に堂宇を建立したのが始まりとされている



一説には天平年間(725~749年)に行基菩薩が五頭山で修行した際、霊木から4躯の優婆尊像を彫刻し一宇を設けて安置したのが始まりとし、
現在、華報寺の本堂で安置されている1躯の「優婆尊(うばそん)像」は4躯のうちの1つとも云われている



領主である城氏から乙宝寺(新潟県胎内市)、法音寺(新潟県新発田市)と共に領内3カ寺として庇護された
五頭山は山岳信仰の拠点の1つとし大きく繁栄、全盛期の鎌倉時代には4支院、32坊を抱える大寺院となり周辺にも大きな影響力をもっていた
文明5年(1473年)真言宗から曹洞宗に転宗した



華報寺廿九世 泰山師 像



案内板



扁額には山号の「五頭山」









本尊:釈迦牟尼仏



賓頭盧尊者



案内板があったので移動してみる















仏石



板碑(阿賀野市指定文化財)



天井画









鐘楼






地蔵堂
額には「親子地蔵尊」とある



共同浴場
開湯から1200年 県内最古の歴史を誇る弘法大師伝説の温泉(250円)
湯船だけとういうシンプルなものだった



撮影 令和6年9月23日
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旦飯野神社(新潟県阿賀野市宮下968番地)

2025年03月21日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月23日

旦飯野神社(あさいいのじんじゃ)
日出ずるところ 始まりのときを意味する「旦(あさ)」
眼下に広がる豊かな越後平野を現す「飯野(いいの)」
この郷に稲作を初めて伝えたという

鳥居
秋分の日の振替休日ということもあり、近くの駐車場は満車で少し離れた場所に駐めた



道の駅で得た情報で訪れたが千年以上の歴史を持つ神社だという



手水鉢
石鉢は、阿賀野市村杉温泉のラジウムを多く含んだ石
水は旦飯野神社の清らかな地下水で流水を直接手に取るとのこと



「旦飯野神社」と書かれた鳥居を進む



神門
明治初期に建てられた神門



参拝者の多くが神門の彫刻を移動しながら眺めていた
彫刻は十一支



後に知ったが、十二支のうち何故か一つ彫られていない干支があり、それを探していたようだ



狛犬
神門の足元にある愛嬌のある「こま犬さん」



撫で狛犬のようで、多くの参拝者の手により輝いていた



石段
「長い石段」の先に社殿がある



石段の左右には苔が地面を覆っている



苔の美しさは未だ理解できないが、長い階段では呼吸を整えるために眺めている






拝殿
神様のおさがり
旦飯野神社では、おみくじや福飴、御朱印などを神様からの「おさがり(めぐみ)」として参拝者に無料で配っている
そのような事もあり、拝殿前は家族連れで賑わっていたので社殿周囲を散策することにした



雷神社
耳が不自由な方を助け、お守りする
耳を表す「おわん」が供えられている



三峰神社
粟嶋神社(婦人病、産後を守る神様)、三輪神社、香椎宮の合祀社



御神霊石
社殿の裏にある直径1.5メートルほどの大きな「御神霊石」



神様が宿る石として、触れると神様の御力が授かるとされている
邪気を祓い、災難を消除し、様々なご利益があるといわれている



人の手を一切加えていない天然のままの丸い形状は、妊婦のおなかにも似ている



とんがり石と丸石
左手をとんがり石に、右手を丸石に置くと、負の力をとんがり石が吸い込み、正の力を丸石がもたらすといわれている



本殿
創建は、御宇元年(391年)大山守皇子へ貢米を奉った際に「角鹿笥飯大神、飯津神を祭れば汝の里に百姓また種物が出来る」との御教によって、旦飯野神社と号し、奉祭したことによる
長野麿(神官の大祖)が、応神天皇(第15代天皇)の御弓、御衣、御石を祀ったとされる八幡宮
祭神:誉田別命(応神天皇=八幡大神)



村を開拓した長野麻呂という人物の子孫である鈴木氏が代々神職を務めているようで、その歴史は約1700年以上も遡る






大山祗神社
山を守る神様、山を支配する神様



伊夜彦神社と薬神社
伊夜彦神社(木々を守る神様)と薬神社(薬の神様)の合祀社



旦飯野神社御神田令和六年初穂



私も形の良い穂を選んで持ち帰ることにした






再び拝殿へ
ご祈祷が行われていたので静かにお参りをして移動した



もりのこみち
帰りは鎮守の森の中にある遊歩道をゆっくり歩く



稲荷神社
五穀豊穣と商売繁昌の神様



持ち帰った「初穂」とともに



神門に戻る



「神様のおさがり」を初めて経験した
多くの神社を巡ってきたが、これほど清々しい気持ちになったのは初めてだ






撮影 令和6年9月23日
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新潟総鎮守 白山神社(新潟県新潟市中央区一番堀通町510番地)

2025年03月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月22日

小樽港発、新日本海フェリーにて新潟港へ向かい、秋の旅が始まった
新潟市は予報通りの大雨で、観光をあきらめ道の駅「新潟ふるさと村」にて退避
400台という駐車場も満車状態で、道の駅内の日本酒売り場で目の保養をしていた

新潟総鎮守 白山神社
珈琲を飲みながら車内でのんびりと過ごしていると空が少し明るくなり小雨になった
気になっていた千有余年の歴史のある神社が近くにあったので車を走らせた

古町の赤い鳥居
神社には参拝者用の無料駐車場があったが場所が分からず近くの白山公園駐車場へ
初めて訪れる神社なので鳥居まで移動し参拝することにした



「新潟総鎮守」とは、新潟の総(すべ)てを鎮(しず)め守(まも)る神様、神社という意味
神社建立の年代は、永禄(1558年~)と天正(1573年~)の2度の火災により古記録を失っているため不詳であるが、延喜(901年~)とも寛治(1087年~)とも伝えられる



狛犬1






はす池



石の鳥居
広島県尾道から北前船で運ばれ、船主らが海上安全を願い奉納した



備前焼の狛犬
赤銅色の備前焼の狛犬は、瀬戸内から北前船で運ばれてきた






境内図



手水舎



コロナ以降、寺社の手水鉢に花を浮かべ飾るところが多くなった



随身門



拝殿側から



拝殿
日曜日ということもあり、若い女性の姿を多く見かける



「神明照覧(しんめいしょうらん)」は、神が衆生を照らし見て守っていることを意味する言葉



「拝殿」と記された額



随身門を背に左側には「絵馬掛け」






御朱印
「月詣御朱印」の一覧を目にしたのは初めてである
最近では工夫を凝らした高価なものもあるようだ



おみくじ
こちらは「金山おみくじ」
佐渡金山は江戸幕府の財政を支えていたということで「商売繁盛・金運上昇」



「(紅白)鯛のおみくじ」



白色は「恋みくじ」



願いの叶う「恋愛成就」の願掛け



風車
昼間でもスポットライトによりキラキラ光るようになっている


この風車、かなり高級感がある
最近の神社は(経営ということもあると思うが)工夫が素晴らしい



御稲御倉(みしねのみくら)
昭和28年、第59回式年遷宮で伊勢神宮に建立され、昭和49年に白山神社に下賜された御稲御倉



お供えする稲を納める社殿で伊勢神宮では内宮のみに建てられている
伊勢神宮にしか存在しない「唯一神明造」



白山くくり石
富士山、立山とならび「日本三名山」に数えられている白山
開山1300年を記念し、白山神社総本宮である白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)から特別にいただいた「御神石」






道祖神
男神・女神が睦まじく餅をつく姿が石に刻まれたこの道祖神



日本の最北端に安置されている白山神社の道祖神



蛇松(じゃまつ)神社



松尾神社
祭神:大山咋神、中津島姫神(市杵島姫神=弁財天)
美人の女神ということもあり、美しい女性と出会うことができた



黄龍(おうりゅう神社)
祭神:黄龍八一分身金鶏供養宝船大権現



白山神社 本殿
主祭神:菊理媛大神(白山大神=白山比咩大神)、伊邪那岐命、伊邪那美命



菊理媛大神(白山大神)は別名を、白山比咩(しらやまひめ)大神と言い、加賀の霊峰白山頂上に祀られている女神
願うことを正しくよりよい方法で導き、乱れた糸をくくり整えるように融和され仲を取り持ち和す縁結びの神様






中尊寺奇跡のハス
岩手県平泉町の世界遺産「中尊寺」金色堂に安置されている奥州藤原氏4代目泰衡の供養品の一つとして発見されたハスの種子を平成10年(1998年)に蘇らせたもの



平成29年(2017年)3月、白山開山1300年を記念し中尊寺から10株のハスが届けられた



撮影 令和6年9月22日
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大岩山 日石寺(富山県中新川郡上市町大岩163)

2024年09月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月4日

大岩山 日石寺
磨崖仏があるということを知り初めて訪れた
路上駐車で周囲を散策し参道は見つけたが、駐車場の場所が分からずにいた
年齢と体型を考慮されたのか、地元の方から楽に参拝できる駐車場を教えていただいた

さざれ石
さざれ石の中に「真言密宗 大本山 大岩山 日石寺」と書かれた金属が埋め込まれている



手水舎



本堂
数人の参拝者が堂内に入ったので、後で回ることにした






鐘楼



干支の額



多羅葉文殊



八体仏









藤水



不動明王御霊水



大岩の奥山より湧き流れる霊水で、眼病に効くとされ、全国からこの水を汲みに来るという



六本瀧
元来瀧行は日石寺境内近くの千巌渓にて行っていた
行者の安全を確保と、一般参詣者に修行鍛錬を推奨するために、明治元年に境内内に建設した
寒修行の場でもあり、毎年大寒には多くの人が参詣し、滝に打たれている



六基の龍頭は人間国宝の須賀松園の作
六大(地・水・火・風・空・識)により
六大煩悩(貪・瞋・痴・慢・疑・邪見)を祓い
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清浄にすることが六本の因である



愛染堂



恋愛成就・子孫繁栄・夫婦円満の利益がある



堂内の様子



「木造愛染明王」



絵馬掛け



夫婦岩
斜面を進むと鳥居と大きな岩が見えてくる



鳥居の額には「夫婦岩」



岩と岩の奥に社が見える



大岩山熊野権現堂



三重塔(上市町指定文化財)
富山県内で最も古い木造の三重塔(江戸時代後期)高さ15m
回りに壁が無く、心柱など丸見え状態である



建造時の財政難で省略したためと考えられているが、これがこの塔の特徴となっている
私自身全国の塔巡りをしているが、初体験である






塔周辺の場所が狭く、塔全体を撮ることができず同じアングルになってしまった






石仏群



大日堂






これまで歩いていて、この寺を訪れた目的の「磨崖仏」が何処にあるのか探していた
他の参拝者に尋ねても、「初めてなので分からない」と
始めに訪れた本堂に戻ることにした

扁額には山号の「大岩山」



堂内を見た瞬間驚いた
探していた磨崖仏が目の前にあった

大岩日石寺磨崖仏(重要文化財)
この本堂は、摩崖仏の不動王像を囲んで建てられていた



不動明王・二童子像(当寺の本尊)、阿弥陀如来像、僧形像の5体を凝灰岩の巨岩に半肉彫りで彫り出した磨崖仏



不動明王像の像高は約2.8m



角度を変えて立体感を出してみた






本堂の磨崖仏(重要文化財)拝観後、「古仏堂と大日堂」への案内が目に入った






古仏堂
堂内には50~60cmの仏像が安置されていた
自分好みの仏像を選んでみた






真言宗と真言密宗との違いは分からないが「不動明王」は重要な仏像の一つ



これも魅力的な仏像だ



拡大してみた



説明文が一切ないが、空海像だろうか



「五鈷杵」は密教の重要な法具



一般の方も古仏堂に仏像を預けることができるとHPに記載があった



大日堂



「木造大日如来と真言八祖」が祀られている



真言密教には、密教の正統を示す「付法の八祖」と実在の人物として密教を広めた「伝持の八祖」がある
このお堂では、「伝持(でんじ)の八祖」の「龍猛→龍智→金剛智→不空→善無畏→一行→恵果→空海」を祀る









大日堂から古仏堂を観る



古仏堂で気になった仏像を撮る






これなど妖艶で他の仏像とは一線を画す



本堂に戻る
参拝者が熱心に何かをしているのを遠くから見ていた



若い頃は「貧・困・貪」という生活をしていたが
「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」という仏教用語は恥ずかしながら初めて目にした



人間を悩ませ迷わせて害し、誤りに導く根本的な3種の煩悩(三毒)
これを護摩供で梵焼し清浄なる大欲を成就させるという



本堂内からの眺め



まだ、訪れていない場所がある



多羅葉(タラヨウ)
葉にキズをつけて経文を書いた多羅木に似ていたので名づけられた



観音堂



堂内の様子



観音堂横にある観音像






十二支滝
昭和42年(1967年)の火災後、二度と火災が起こらないように
昭和49年(1974年)に十二支の守り本尊から流れる瀧を配し、寺内安穏を祈願している






この瀧は一般の方や子供も自由に入ることができる



阿覚窟(あがくつ)






巨岩をくり抜いた中に、秘剣大師の石像を祀る



洪水で流された旧八十八箇所霊場の石仏も多数祀られている






「秘剣大師像」は弘法大師が疫病退散の際の姿だと



山門(上市町指定文化財)
参道の百段坂を登る参詣者の健脚に利益がある






仁王像
いつものように隙間にレンズを突っ込んで適当にシャッターを押す



限られた場所で適当に撮っているのだが、時々迫力ある写真を撮ることができる















地蔵堂
駐車場に戻る際に立ち寄った最後のお堂となる



「木造地蔵菩薩(延命地蔵)」を祀る
寿命長寿のご利益があることから延命地蔵と呼ばれている



江戸期に魚津の廻船問屋からの寄贈



地蔵菩薩というと地味な感じというイメージがあったが……
手を合わせると長生きできるような雰囲気を持っている



初めて訪れた日石寺、実に楽しい時間を過ごすことができた
写真を整理しながら調べて行くと抜け落ちている場所が数カ所あった

撮影 令和6年6月4日
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駒形山 妙高寺(新潟県小千谷市大字川井114)

2024年09月08日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

駒形山 妙高寺
創建は正平年間(1346年~1370年)内ヶ巻城主の田中義房が開基となり、天海が開山
当初は真言宗だったが、文禄3年(1594年)洞照寺の五世果翁良柵が「曹洞宗に改宗」した
大正13年(1924年)火災により本堂、庫裡、山門などが焼失し、現在地に再建した

やすらぎ地蔵
お参りする人全ての、悩み、苦しみが消え、やすらぎが得られますよう願いをこめて建立(高さ6m)



手水舎



ここを訪れるのは初めてで、目的は案内板にある「木造愛染明王坐像(重要文化財)」の拝観であった
ところが、御開帳日が毎月26日との記載があった



本堂



扁額には「愛染殿」



仁王像
堂内に入ると仁王像が安置されていた
畳の上に置かれた仁王像も初めて見た



しかもお神籤が掛けられている(これも初めて)









堂内の様子



本尊:木造愛染明王坐像(重要文化財)
寺伝によれば、もとは伊豆国田中荘の愛染堂に安置され、源頼朝も信仰していたという
その後、田中義房が内ヶ巻城の守護仏として、この地へもたらしたと



本堂からの眺め



整備されていて気持ちがいい



蔵王堂



蔵王権現縁起






蔵王権現は800年前、当地の山を切り開き霊場とする際に現れた
以来、妙高寺の内鎮守として安置された



蔵王堂から本堂を眺める



蔵王堂周辺には岩を多く見かける






石仏群






境内に咲く花



やすらぎ地蔵に手を合わせ駐車場に戻る



平成6年春の旅も妙高寺で終え、新潟港から小樽港航路で戻ることにした

撮影 令和6年6月5日
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船岡山 慈眼寺(新潟県小千谷市平成2丁目3-35)

2024年09月07日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

船岡山 慈眼寺(じげんじ)
作家 司馬遼太郎氏が昭和40年に取材で「慈眼寺」を訪れた時の写真である
学生時代「国盗り物語」を読んだのが初めで大ファンに
今回の旅に出る前に映画「峠 最後のサムライ」を視たのが慈眼寺を訪れるきっかけとなった



これまで持っていた本は全て処分したので、帰宅後に文庫本を購入して読む
若い頃には理解できなかった河井継之助の魅力をこの年齢になって得心した
小説では慈眼寺の歴史的場面は文庫版の「下」の後半数ページに記載がある



河合総督・岩村軍監「会見の間」
慶応4年(1868年)5月2日、戦いを避けるために藩主の嘆願書を持った長岡藩家老・河井継之助が
小千谷に本陣を構える新政府軍(西軍)の軍監、土佐藩士・岩村精一郎と講話談判をおこなった場所



談判は岩村軍監が嘆願書を無視し、長岡藩に降伏を迫ったため決裂し、北越戊辰戦争の発端となった
河井継之助はやむなく戦火を交える事となり、最終的に落城し長岡藩は滅亡する事となった(戊辰戦争)



長岡藩家老「河井継之助」(42歳)



土佐藩士「岩村精一郎」(23歳)



会見の間の額



会見の様子を人形で表現している
河井継之助は上段の間にも入れてもらえなかったとの説明もあった



官軍戦死者 位牌



会見の間に隣接している本堂前の額には山号の「船岡山」



廊下側欄間の彫刻






本堂内の様子






内陣欄間の彫刻









本尊:聖観世音菩薩



慈眼寺拝観は事前予約が必要ということを直前に知り、居多神社駐車場から連絡を取る
廊下に置かれている弥勒菩薩のような対応をしていただき拝観することができた(感謝)



本堂
平成16年(2004年)10月の新潟県中越地震により、会見の間を含む本堂が全壊した
多くの寄付などにより、平成18年(2006年)9月に復旧した



真言宗智山派の寺院
慈眼寺の創建は弘文元年(672年)薩明大徳が開山したのが始まりと伝わっている
当初は船岡山の麓にあり「池源寺」と称し、弥彦明神と神仏習合した後は「魚沼神社」の別当寺として隆盛した



南北朝の争乱による敗北と、戦国時代の兵火により衰退し寛永元年(1624年)に「船岡山観音院慈眼寺」として現在地に再興された






司馬遼太郎 石碑
作家司馬遼太郎は小説「峠」の取材にて昭和四十年八月当慈眼寺を訪れ 左記の一文を残している
河合継之助の風 姿を知らむがため 慈眼寺に来る 山内の蝉声を聞きつつ
昭和四十年八月 司馬遼太郎



司馬遼太郎直筆の一文
戊辰150年を記念して建立



六地蔵



山門(国登録有形文化財)
明治25年(1892年)の造営
入母屋、銅板葺、正面軒唐破風、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚楼門、上層部高欄付き






風神雷神像
山門観音堂側に安置












手水舎



山門正面に観音堂が見える
周辺に遊具があるが、幼稚園が併設されている



船岡観音堂
木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行4間、梁間4間、正面1間向拝付、外壁は真壁造板張



「船岡観世音」の扁額と彫刻






本尊:聖観世音御菩薩



この地を訪れた弘法大師が、衆生済度を念じて、一刀三礼、これを彫刻したものと伝えられている



向拝の彫刻









前述したが、帰宅後に「峠」を再読
地震後、復元された「会見の間」のことを思いつつ余韻を愉しんだ

撮影 令和6年6月5日
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居多神社(新潟県上越市五智6-1-11)

2024年09月06日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

居多神社(こたじんじゃ)
10数年前、五智国分寺を最初に訪れた時、地元の歴史研究家(ボランティアガイド)に案内してもらった場所である

社号標
南北朝時代以降は、守護上杉家からの崇敬を受けて「越後国一宮」に位置づけられたとされる
<越後国の一宮として知られる神社には彌彦神社がある>



親鸞聖人 越後七不思議「片葉の芦」



社号標周辺の芦を確認してみると、片方だけに葉が伸びている
アシは別名:ヨシとも呼ばれている
「悪(あ)し」に通じるのを忌んで、「善(よ)し」にちなんで呼んだものという



さて、越後七不思議の残りは
①逆さ竹 ②焼鮒 ③八房の梅 ④珠数掛桜 ⑤三度栗 ⑥繋ぎ榧



鳥居



正面に社殿が見えてくる



手水



狛犬






拝殿
額には「居多大明神」



拝殿内の様子



創建は不詳であるが
弘仁4年(813年)に「居多神」の神階が無位から従五位下に昇叙
貞観3年(861年)に従四位下に昇叙
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、「居多神社」と記載
承元元年(1207年)に親鸞が越後国府に流罪になった際に居多神社に参詣が記録として残っている






拝殿から鳥居を眺める



居多神社は「気多神」を祀る神社と考えられており、兵庫県北部から新潟県にかけての日本海側に分布する気多神社の一社とされる
明治12年(1879年)に現在地に社殿が造営され遷座したが、明治35年(1902年)に火災で焼失
平成20年(2008年)6月に本社殿が造営されて現在に至っている



祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと)
   奴奈川姫命(ぬながわひめのみこと) - 大国主命の妻
   建御名方命(たけみなかたのみこと) - 大国主命の子



大国主命と奴奈川姫命(祭神像)
大国主命は越後国の沼河姫と結婚しようとして、姫の家へ行って歌(略)を詠んだ
そのとき沼河姫は、戸を閉じたまま、家の中から次の歌(略)で答えた
その夜は会わないで、翌晩会ったという「妻問の歌」の説明板が近くにある



縁結び・子宝祈願の神として信仰されている



親鸞聖人像
境内には、葉が片方にのみ生える芦「片葉の芦」が群生する
伝承では、親鸞が居多神社に参拝して祈願をすると境内の芦が一夜にして片葉になったという



神社に浄土真宗の親鸞聖人像置かれていることは珍しい






撮影 令和6年6月5日
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安国山 華蔵院 五智国分寺(新潟県上越市五智3-20-21)

2024年09月05日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

安国山 華蔵院 五智国分寺
もう何度目になるのか、上越市付近を走ると本来の目的地ではないのだが、つい立ち寄ってしまう
最初に訪れた時の親切なボランティアガイドとの再会を願っているのかも知れない

山門(上越市指定文化財)
聖武天皇の詔により各地に建立された国分寺のうち、「越後国国分寺」の後継寺院にあたる
現在は、天台宗の寺院である



額の「安国山」は山号



仁王像
天保7年(1836年)に名立町出身の長井要壱と弟子2人によって製作
平成6年(1994年)に仁王像が倒壊した為、3年をかけて修復した






芭蕉句碑
元禄2年(1689年)7月8日。『奥の細道』旅中、越後高田の医師細川春庵亭に一泊した折
「薬欄にいづれの花を草枕」
こんなに沢山の花々に囲まれたらどの花の傍で寝たものやら



経蔵(上越市指定文化財)
棟札から元禄6年(1693年)の建立
上越市内で記録の残っている最古の建物
鉄眼版一切経と呼ばれる一大仏教全集が納められている



白山神社神輿殿



本堂
天平年間(740年代)に、聖武天皇の勅願によって建立された越後国分寺の所在地は不明だが
永禄5年(1562年)近隣の春日山城主上杉謙信によって、現在の場所に再建された

いつもは閉じられている扉が何と開放されているではないか
初めての事なので駆け寄り堂内に入った



大日如来を中心として薬師如来・宝生如来・阿弥陀如来・釈迦如来の5体の五智如来像が本尊として安置されている
写真のように立ったままでは拝顔できないようになっている

住職と話しをする機会を得た
今日は団体の参拝者が入るため堂内を開けたとのこと



内陣は撮影禁止だが、この撫で仏は許されるであろう






竹之内草庵
承元元年(1207年)専修念仏禁止の弾圧により、親鸞聖人は越後の国に流罪となった
国分寺住職は、聖人とは比叡山で同学の友で、国司に申し出て境内の五仏のそばに草庵を結んだ
その草庵は、竹林に囲まれていたので竹之内草庵と呼ばれるようになった



団体の参拝者の為なのか、この建物の戸も開放されていた
遠くから眺めていた親鸞像も近くで拝顔することができた



伝親鸞聖人坐像(上越市指定文化財)
聖人が関東に旅立たれる際、別れを惜しむ同行の心根を思い
国分寺の北にある鏡ヶ池に姿を映し刻まれたのが親鸞聖人坐像



親鸞聖人像



親鸞聖人御真筆の「南無阿弥陀仏」の石碑









三重塔(新潟県指定文化財)
上越地方では唯一残る塔
寛政6年(1794年)の焼失後の安政3年(1856年)に再建を着工
慶応元年(1865年)に棟上がされたが高欄等は未完成である






三重塔周辺の木々が生長し塔全体を撮ることが難しくなっている
ここはトイレ周辺からのもの






三体の石仏



六地蔵




親鸞聖人上陸の地
承元元年(1207年)専修念仏禁止の弾圧により、親鸞聖人は越後の国に流罪となった



階段を上ると、日本海が見えてくる



ここが、上陸の地とされる「居多ケ浜(こたがはま)」
およそ800年前の出来事である



この石段であるが6段になっている
「南無阿弥陀仏」の6文字を意識して造られた(3回唱える)



撮影 令和6年6月5日
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能生白山神社(新潟県糸魚川市大字能生7239)

2024年09月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

能生白山神社(のうはくさんじんじゃ)
令和3年6月に重要文化財の社殿があるということで訪れたことがある
この茅葺屋根の建物が「重要文化財の社殿」だと思い込み、夢中で写真を撮っていた

拝殿(糸魚川市指定文化財)
ところが、自宅に戻り写真の整理をしながら歴史などを調べていくうちに間違いに気づいた



しかも、重要文化財の本殿の写真が一枚も撮していなかった
その事が頭の中でモヤモヤしていて、3年後になったが、再訪してみた



歴史を少し
崇神天皇の11年11月初午の日に草創されたと伝えられている
元正天皇の時代には、泰澄大師が深く崇拝し、仏像を安置し、社号を「白山権現」とした
寛弘年間(11世紀初頭)には加賀白山神社より分霊して旧社に合祀した



個人的に茅葺屋根が好きで、その美しさに魅了されている



額には社号の「白山神社」
「能生白山神社」と記載しているが、正式名称は「白山神社」である



拝殿内の額には「白山社」というのもある



拝殿内の様子



遅い時間に訪れたため、本殿の存在を確認するため拝殿周辺を歩く

手水鉢



本殿(重要文化財)
永正12年(1515年)に建造され、室町時代の特色を残す
三間社流造杮葺、正面に一間の向拝を付ける



ここで地元の方に出会い、話しを聞くことができた
この神社は無人で「氏子」がお世話をしているそうだ
この男性も氏子の一人で、戸締まりをするために来たという



話しを聞いた中で記憶に残っているのは
重要文化財の本殿修復後、本殿後ろにある土砂が崩れ本殿が破損したという
(周辺の社業<通称:尾山>は国の天然記念物に指定されている)
重要文化財の修復は国や都道府県から補助金が出るのでいいが……



拝殿裏の見えない部分の茅葺屋根がこのような状態になっている
氏子の数も少なく修復には経済的負担も多く、悩んでいるという



祭神:奴奈川姫命(ヌナカワヒメ)
   <奴奈川姫命は、糸魚川市を中心とする地域一帯で信仰されてきた女神>
   伊佐奈岐命(イザナギ)
   大己貴命=大国主(オオクニヌシ)



秋葉神社









白山トンネル
北陸本線旧線の能生駅 - 筒石駅間の廃線トンネル







「恋する灯台」能生港灯台
国道8号線を走っていると、この赤い橋と島が目に入ってくる
いつかは行ってみたいと考えてはいたが、能生白山神社の近くに駐車場があった



「恋する灯台」の文字は、老人にとってこの先進むには恥ずかしい感じもする



能生港の中央に位置する小さな岩島の上に立つ灯台
陸から赤い橋が架けられている



岩島は「弁天岩」と呼ばれており、海底火山の噴火によって形成された



航路注意としての役割を終えた後も町民の要望で廃止されず、観光資源として再活用されている



灯台の近くには小さな厳島神社(白山神社末社)がある



余談になるが、以前発信した能生白山神社の写真を見て、元同僚が北海道からの旅で訪れた事を知った
彼は美食家で近くの道の駅で日本海のベニズワイガニをたらふく食べたという



道の駅「うみてらす名立」へ移動
夕陽の沈むのを眺めていると、傍に同じ匂いのする男性が来たので話し掛けてみた
これまで全国の山を登ってきたという
今回は、鳥取県の「大山登山」を終え、自宅のある福島県に戻る途中とのこと



話しの中でいつの間にかビールの事が話題になった
ビールの旨みが感じなくなるので、冷やして飲んだことがないと
この後、車内で常温のビールを飲むのが楽しみだと話してくれた



この場所で夕陽を眺めるのは3回目だが、今回は雲が多く一番条件が悪かった
夕陽が沈むと同時に話しも終わり、それぞれの車内へ
私は併設されている温泉へ
夕陽を見終わった時間帯から割引料金になるのも旅の楽しみ方の一つだ



撮影 令和6年6月5日
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小川山 千光寺(富山県魚津市小川寺2934)

2024年09月03日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月4日

小川山 千光寺
初めて訪れる寺は期待が高まるのだが、駐車場に近づいた瞬間(来たことがある)記憶が蘇った
最近、このような事が時々ある

山門
切妻、桟瓦葺き、三間一戸、八脚単層門



山門扁額には「大悲殿」
大悲殿とは聖観音や千手観音や如意輪観音などの観音菩薩が安置されている建物のこと



仁王像












階段を上りきった正面に石仏が見えてくる



石造千手観世音菩薩立像



観音堂
創建は奈良時代の天平18年(746年)に行基菩薩により開かれたのが始まりと伝えられている
往時は16坊を有したが、天文20年(1551年)長尾景虎(上杉謙信)が魚津城を攻めた際に魚津城城主が千光寺に逃げ込んだところを攻撃し13坊が焼失
存続しているのは観音堂のほか、心蓮坊、光学坊、蓮蔵坊の三坊



蟇股の彫刻



金銅千手観世音菩薩立像(富山県指定文化財・秘仏)
大同6年(806年)経田浦で大威徳明王像と共に漁網にかかり、海中から引き上げられ、千光寺に納められたとされる
秘仏で33年毎の開帳であったが、近年は17年目毎に中開帳が行われている



弘法大師一千百回御忌塔
大きな2本の木の中央に石碑のようなものが見える



緑の絨毯に誘われるように塔に近づく



「弘法大師一千百回御忌塔」と刻まれている(千光寺は、真言宗の寺院)



白山社
千光寺に隣接している



観音堂周辺を散策



六地蔵かと思ったが像の部分が無い



近寄ってみると仏さまの様なものが刻まれていた






こちらはの石仏は歴史の流れを感じる



欠落した部分が置かれている



観音堂に戻る
この「観音堂と金銅千手観世音菩薩立像」の管理は心蓮坊・光学坊・蓮蔵坊の3ヵ寺が行っている



石仏の前に手向けられた美しい花
何気ない見慣れた景色だが、日本人の大切な部分をいつも感じている



光学坊
長尾景虎に攻撃を受け13坊が焼失し、存続している観音堂と三坊のうちの一つ



固く閉ざされている門扉






撮影 令和6年6月4日
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大岩山 日石寺 その2(富山県中新川郡上市町大岩163)

2024年09月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月4日

大岩山 日石寺 その2
<前回に続く>
本堂の磨崖仏(重要文化財)拝観後、「古仏堂と大日堂」への案内が目に入った






古仏堂
堂内には50~60cmの仏像が安置されていた
自分好みの仏像を選んでみた






真言宗と真言密宗との違いは分からないが「不動明王」は重要な仏像の一つ



これも魅力的な仏像だ



拡大してみた



説明文が一切ないが、空海像だろうか



「五鈷杵」は密教の重要な法具



一般の方も古仏堂に仏像を預けることができるとHPに記載があった



大日堂



「木造大日如来と真言八祖」が祀られている



真言密教には、密教の正統を示す「付法の八祖」と実在の人物として密教を広めた「伝持の八祖」がある
このお堂では、「伝持(でんじ)の八祖」の「龍猛→龍智→金剛智→不空→善無畏→一行→恵果→空海」を祀る









大日堂から古仏堂を観る



古仏堂で気になった仏像を撮る






これなど妖艶で他の仏像とは一線を画す



本堂に戻る
参拝者が熱心に何かをしているのを遠くから見ていた



若い頃は「貧・困・貪」という生活をしていたが
「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」という仏教用語は恥ずかしながら初めて目にした



人間を悩ませ迷わせて害し、誤りに導く根本的な3種の煩悩(三毒)
これを護摩供で梵焼し清浄なる大欲を成就させるという



本堂内からの眺め



まだ、訪れていない場所がある



多羅葉(タラヨウ)
葉にキズをつけて経文を書いた多羅木に似ていたので名づけられた



観音堂



堂内の様子



観音堂横にある観音像






十二支滝
昭和42年(1967年)の火災後、二度と火災が起こらないように
昭和49年(1974年)に十二支の守り本尊から流れる瀧を配し、寺内安穏を祈願している






この瀧は一般の方や子供も自由に入ることができる



阿覚窟(あがくつ)






巨岩をくり抜いた中に、秘剣大師の石像を祀る



洪水で流された旧八十八箇所霊場の石仏も多数祀られている






「秘剣大師像」は弘法大師が疫病退散の際の姿だと



山門(上市町指定文化財)
参道の百段坂を登る参詣者の健脚に利益がある






仁王像
いつものように隙間にレンズを突っ込んで適当にシャッターを押す



限られた場所で適当に撮っているのだが、時々迫力ある写真を撮ることができる















地蔵堂
駐車場に戻る際に立ち寄った最後のお堂となる



「木造地蔵菩薩(延命地蔵)」を祀る
寿命長寿のご利益があることから延命地蔵と呼ばれている



江戸期に魚津の廻船問屋からの寄贈



地蔵菩薩というと地味な感じというイメージがあったが……
手を合わせると長生きできるような雰囲気を持っている



初めて訪れた日石寺、実に楽しい時間を過ごすことができた
写真を整理しながら調べて行くと抜け落ちている場所が数カ所あった

撮影 令和6年6月4日
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