今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

仙台東照宮(宮城県仙台市青葉区東照宮一丁目6-1)

2024年04月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月17日

仙台東照宮
正式名称は「東照宮」だが、他の東照宮と区別するために仙台東照宮と呼ばれている
承応3年(1654年)仙台藩の2代藩主「伊達忠宗」によって創建された

石鳥居(重要文化財)
明神鳥居形式の美しい白色の鳥居で、宮城県最古の石鳥居である
主な部材である花崗岩は伊達忠宗夫人 振姫の郷里である岡山県犬島から海路で運んだもの



実は、東照宮を訪れようと1週間ほど前に、仙台市内にいたのだが雨天のため参拝を諦めていた
前日に「相馬中村神社」で声を掛けられた男性から「仙台にもいい神社がありますよ」と言われたことも気になっていた
悔いを残すのも嫌なので、道の駅から車を走らせた



狛犬






境内図



石段(仙台市登録文化財)
参道の石段にも工夫があるという
説明によると、緩やかな勾配で、階段と踊り場が交互に配置されている
階段も4段・3段・2段の所がリズミカルに配置されているようだ(気付かなかった)



案内板



石灯籠(重要文化財)
境内には石灯籠が38基あり、そのうち28基が表参道の石段脇に並んでいる



伊達家一族家臣より38基奉納されていたが寛文事件(伊達騒動)後、事件に関係した家臣の石灯籠は取り除かれた
承応3年(1654年)刻銘30基、延宝8年(1680年)刻銘2基、天和2年(1682年)刻銘2基の計34基が重要文化財に指定されている



随身門(重要文化財)
三間一戸の八脚門の楼門形式
欅の素木造、屋根は入母屋造り銅板葺



妙法院宮堯親王筆の「東照宮」の扁額



大きな屋根は1.5km離れた宮町通りの南端からでもはっきりと視認できるという



案内板



境内では写真同好会の方々が各場所でカメラを構えていた
いつもは大きなカメラを持ち周囲から浮いているような存在なのだが、この日は気にせず撮れた



随身像






神輿殿



神楽殿






手水舎(宮城県指定文化財)
宮城県最古の手水舎建築
水を貯める石は石鳥居と同じく岡山県から運んだもの






承応3年(1654年)の造
花崗岩の水盤が設置されている



拝殿
昭和10年(1935年)放火により炎上し、黒焦げになるが原形を残し、昭和39年(1964年)に再建された



多くの社殿が国や県の重要文化財に指定されているなか、拝殿だけその記載がないので不思議に思っていた
90年前の出来事ではあるが、許せない行為には変わりない



拝殿内部
この日も七五三の祈祷が行われていた



唐門(重要文化財)
一間一戸、向唐門で、銅瓦葺。花崗岩の素板の上に建つ
金網で保護されている



案内板






偶然、障害物の無い良い場所を見つけた



扉は現在では4月17日の例祭日のみ開く



鳳凰、麒麟、獅子の円形彫刻により装飾されている



透塀(重要文化財)
本殿の周りを囲む透塀は一周約80メートルで、神職以外立ち入ることのできない塀の中を透かして見ることができる
前にある石灯籠も重要文化財



本殿(重要文化財)
祭神:東照大権現(徳川家康)



非公開
鷹や天女、龍などの彫刻が彫られ、当時最先端の技術である七宝金具を使用した金具で装飾されている
七宝金具は全国に数十ある東照宮の中でも日光東照宮と仙台東照宮にしか使用されていない



仙台藩の社寺建築は大工棟梁梅村氏が担当している
大崎八幡宮本殿(国宝)、瑞巌寺本堂(国宝)、仙台東照宮本殿(重要文化財)等その建築は後世高く評価されている



明治維新以後の廃仏毀釈と相まって廃社や合祀が相次ぎ、現存する東照宮は約130社
本宮の日光東照宮、御遺体を祀る久能山東照宮に、自社を加えて「日本三大東照宮」と称す東照宮は多い



石段を下り、駐車場に戻る






撮影 令和5年10月17日
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勝楽山 高蔵寺(宮城県角田市高倉字寺前49)

2024年04月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月16日

勝楽山 高蔵寺
嵯峨天皇の弘仁10年(819年)に「徳一(とくいつ)」が開創したと伝わる
真言宗智山派の寺

寺号標



山門






石碑には「高蔵寺阿弥陀堂」と刻まれている



参道横の細身の「観音様」






手水舎



阿弥陀堂(重要文化財)
高蔵寺阿弥陀堂は平泉文化の流れを汲んでおり、奥州藤原氏3代目 藤原秀衡の妻により治承元年(1177年)に創建された



現存する宮城県最古の木造建築である
阿弥陀堂は飛騨工の手よるもので鎖釘を全く使用していないという



茅葺き屋根から植物が垂れ下がっている






平安時代の建造物は全国でも26箇所しか残っておらず、阿弥陀堂としては7箇所だけ
岩手県平泉町の「中尊寺金色堂」、福島県いわき市の「白水阿弥陀堂」と並ぶ東北三大阿弥陀堂の一つとなっている



高蔵寺の大杉(宮城県指定天然記念物)
推定樹齢800年 樹高35m 幹周8.3m



訪れたこの日には、阿弥陀堂の周りには重機が置かれ作業中であった
参拝者が来るとエンジンを止め対応してくれた



何の工事かと尋ねると「阿弥陀堂の屋根の工事」と応えてくれた
高い木が屋根に倒れてこないように、準備段階として木を切っているとのこと
右側の高い木に作業員が上り枝を払い、木を切っているところだった



ということは、この周囲と一体化しつつある、この魅力ある屋根の姿がもう見ることができないということだ



作業中の人にお願いし、数枚撮らせてもらった



真新しい茅葺きの屋根より、年月を経過して周囲の環境と溶け合っていく姿の方が好みなので絶好の機会になった



本尊:木造阿弥陀如来坐像(重要文化財)
拝観には予約が必要らしい



経蔵



本堂



庭園






旧佐藤家住宅(重要文化財)
江戸時代中期(18世紀中頃)の仙台領内中農家の家屋
国の文化財指定を受け昭和47年(1972年)に現在の場所に移築・復元された



間口約15m、奥行約8mの直屋様式(すごやようしき)をとり、屋根は寄棟造の茅葺






この頃の農家の基本的な間取りの1つである広間型三間取の単純な構成になっており、土間が全体の4割を占めている






天井は煙り出しのための藩の禁止令のため設けられず、太く荒削りの柱は鳥居建(とりいだて)という古式の構造で、
木材の曲がりを巧妙に利用した柱や梁からなっている






来た道を戻り駐車場へ向かう






撮影 令和5年10月16日
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相馬中村神社(福島県相馬市中村字北町140)

2024年04月13日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月16日

相馬中村神社<別名:妙見中村神社>
相馬氏の始祖である「平将門」が承平年間(931年 - 937年)に下総国猿島郡に妙見社を建立したことに始まるといわれる
別名「妙見中村神社」と呼ばれ、南相馬市の「相馬太田神社」「相馬小高神社」とともに「相馬三妙見社」の一つとして知られている


社号標



神馬






狛犬






神橋から境内に入る



鳥居
額には社号の「相馬中村神社」



皇大神宮遥拝所
この遙か先に伊勢神宮がある






神楽殿






北野天満宮









社務所



相馬野馬追(国の重要無形民俗文化財)
平将門公ゆかりの伝統的な神事「相馬野馬追」では、出陣式の舞台となっている
伝説によれば、相馬野馬追は今から一千年以上もの昔、相馬氏の遠祖とされる平将門が
下総国小金ヶ原(現在の千葉県北西部)に放した野馬を敵兵に見立てて
軍事演習に応用したことにはじまったと伝えられている




相馬野馬追 - Google 検索 ←クリック

手水舎



ここにも馬が



祭神:「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」



鳥居



この石段なら難なく行けそうだ



狛犬






石段の途中で、あることに気付いた
手すりの横に違った表情の馬が並んでいる



自分好みの馬を探して選んでみた(競馬の調子が悪いと悩む自分と重ねた)



拝殿(重要文化財)
現在の社殿は寛永20年(1643年)に中村藩2代藩主 相馬義胤(相馬氏第18代当主)により建立された



拝殿内の様子



奉納額もやはり馬



扁額には「妙見中村神社」
明治時代に入って廃仏毀釈により本尊の「妙見菩薩が廃棄」され、相馬中村神社と改称した









本殿・幣殿・拝殿(重要文化財)
日差しが強すぎるため反対方向に移動する



幣殿・本殿と続く
現在の社殿は、ほぼ20年ごとに都合10回の修理を重ねてきている



本殿(重要文化財)
祭神:天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)



本殿横の戸が換気のためだと思うが開いていた
本殿内を観る機会などないので、なかの様子をうかがってみた
「鏡」とその奥には黒塗りの宮殿(重要文化財)が見えた



仙台市から参拝に来られた男性から声を掛けられた
男性からは、祭神の「天之御中主神」について説明を受けた



天地開闢の時にあらわれた神で
神名は天の真中を領する神を意味し、「古事記」では神々の中で最初に登場する至高の神だと
帰り際、確認して見ると「天上界第一位の神」との記載があった



社殿周辺を歩いてみた

御水神舎



国王社
「国王社」の額の文字の横に「平親王将門■」<*■漢字が読めない(ヨの下に大)>と書かれていた
平将門については、NHK大河ドラマ『風と雲と虹と』を視聴しその存在を知った
最近読んだ「空也」という小説のなかでも登場し魅力的に描かれていた



松尾神社



塩釜神社・黄金神社






奉納額が納められている建物



奉納額









旅の楽しさは人との出逢いであるが、声かけ頂いた男性から多くを学ぶ事ができた
別れ際に「仙台にもいい神社がありますよ」と言われた



令和3年(2021年)2月13日の福島県沖地震で鳥居が損傷した
その後、2021年12月にステンレス製の大鳥居(高さ7.4m)が神社に寄進された



中村神社の親子杉(天然記念物)



撮影 令和5年10月16日
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瑠璃光山 医王寺(福島県福島市飯坂町平野字寺前45)

2024年04月12日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月16日

瑠璃光山 医王寺
東北地方を巡る旅のなかで、芭蕉ゆかりの地を訪れてみたいと考えていた
滞在していた場所の近くにその寺があった
「おくのほそ道」で芭蕉が感涙をおさえきれなかったという寺である

寺号標
「醫王密寺」と刻まれている
薬師如来の別称「医王」を寺号としている



平安時代の天長3年(826年)「空海」による開山とされている



貴船神社



奥州藤原氏の一門であり飯坂をおさめていた「佐藤一族」の菩提寺である



宝篋印塔



初めて訪れる寺で案内標示に従って歩く



始めに「本堂・芭蕉句碑」



正面に本堂



慈母観世音菩薩



親子地蔵



南無大師遍照金剛(弘法大師 空海)



本堂入口



入り口前の階段には「眠り猫」が



扁額には山号の「瑠璃光山」



堂内に入ると「佐藤一族位牌殿」と書かれた文字が目に入ってくる
義経に関する小説は読んだことがあるが、このときは佐藤一族についての理解はできていなかった



佐藤一族位牌殿
芭蕉が感涙したという物語がここから始まる



佐藤継信の妻「若桜」
奥州藤原氏の一門であり信夫(しのぶ:現在の福島)の地をおさめていた佐藤基治公の息子継信、忠信兄弟は源義経に付き従った
継信、忠信兄弟は義経の身代わりとなり壮絶な最後を遂げた(後述)



佐藤忠信の妻「楓」
二人の息子を失い悲しみにくれる老母「乙和」の姿を見ていた継信の妻「若桜」と忠信の妻「楓」は、
乙和の悲しみを慰めようと夫の武者姿に扮したという悲しくも美しい物語である

この美しい人形はこの物語をより感動的にさせる






本尊:大日如来



本堂の天井画



私はこちらの歴史を感じる方に魅力を感じている






襖絵



駕籠



欄間の彫刻






芭蕉句碑
芭蕉が医王寺を訪れたのは、元禄2年(1689年 )5月「おくのほそ道」の途中である



佐藤兄弟を偲び「笈も太刀もさつきに飾れ紙のぼり」と詠んでいる



謡曲「摂待」と医王寺
源義経一行主従十二人は、山伏姿に身をやつして奥州へ下るというので、佐藤継信の母は山伏摂待の高札を立てて、毎日主君義経の通過を待っている。
義経は弁慶以下十一人の家臣をつれて、この高札の所へ忍び着いたのである。
佐藤の館で山伏摂待をするというので、素通りはかえって怪しまれるからと、知らぬ体にて一同は佐藤の館に立ち寄る。
すると佐藤継信、忠信の母と名乗って老女が出てきて、まことの主君よと喜び迎え、古い記憶をたどりつつ武蔵坊弁慶をはじめ、
増尾の十郎兼房、鷲尾の十郎など、一々名を指し示して懐かしみ、継信の忘れ形見の一子鶴若も、けなげにも十二人の山伏の中から、
主君義経を選び出して取りすがるので、義経も包み隠すことが出来ず、遂に打ち明け主従は涙ながらに対面をする。
義経は老母の心を思いやり、弁慶に継信、忠信兄弟の者が屋島で功名を立てた最後の有様を詳しく語らせたりして、
一同はくつろいで夜もすがら酒宴を催し、鶴若も亡き父にあったような気持でお酌をする。
やがて夜も明け方になったので、義経主従十二人は、自分もお供するという鶴若を、あれこれとなだめすかして、老母に見送られながら、涙とともに出発するのである。






参道に出る






中央に源義経、右に佐藤継信、左に佐藤忠信の像が建てられている
<物語は続く>
平安末期、信夫の荘司佐藤基治は大鳥城を居城として陸奥南部の広域を治めていた
後年、基治は源平合戦に臨むため平泉の鎮守府将軍藤原秀衡のもとから旗揚げする源義経の従臣として
その子、継信と忠信の兄弟を遣わせて義経に対する徹底した護衛を命じた



佐藤継信
その命令通り、兄 継信は四国の屋島の戦で義経を射んと放たれた能登守教経の矢を身体で受け止め主君の一命を守った



佐藤忠信
後に源頼朝との和を失った義経が追手に遭い危機に陥った時、京都で弟 忠信は義経を名乗って応戦し、一行を無事遠ざけ自分は犠牲となった
更に故郷に残された兄弟の妻たちが、気丈にも悲しみを抑えて兄弟武将を装って姑の乙和を慰めた孝心等、数々の故事は後世に感動を与えてきた



源義経
源義経一行が山伏姿に身をやつして奥州へ下る際、佐藤の館に立ち寄る
義経は老母の心を思いやり、弁慶に継信、忠信兄弟が屋島で功名を立てた最後の有様を詳しく語らせた
義経が佐藤基治に形見に与えられたと伝えられるものに、着物の端切れや恨みの矢の根、笈などがある






このような歌になっているのも地域に愛されているからこそ



案内通り参道を進んで行く



その先に薬師堂が見える



行啓祈念碑



鯖野薬師堂(さばのやくしどう)
平安時代末に玄心僧都が勧請し、この里にお堂を建てた






扁額には「薬師堂」



堂内の様子
本尊は、弘法大師御作の「薬師如来」






小石に穴を開けお堂に吊り下げているというのを、初めて見た
調べてみると、多くは耳病平癒とされ、地蔵尊や薬師如来を祀る堂宇でよく見かけるそうだ






佐藤氏奉先碑






乙和の椿



佐藤継信・忠信兄弟を失った母乙和の深い悲しみと母情が宿ったと言われ、蕾のまま落ちてしまう椿
いつしか人々は「乙和の椿(おとわのつばき)」と呼ぶようになった



この木が「乙和の椿」






佐藤基治・乙和墓碑(福島県指定文化財)






継信・忠信墓碑(福島県指定文化財)
墓はすべて板碑で作られており、かつてこのお墓の石を削って飲むと病が治ると信じられており削られた跡が見られる



芭蕉の「おくのほそ道」にこのような記述がある
<前略>また、近くに佐藤氏の菩提寺があり、境内に佐藤一家の石碑が残っている。
なかでも、継信・忠信兄弟の妻二人の墓碑は、深い哀情を誘わずにはおかない。
女の身でありながら、けなげな評判を後世に伝えたものだ、と感涙にむせんだ。<後略>






参道を引き返す



参道横に咲いていた花






瑠璃光殿(宝物殿)
源義経が佐藤基治に形見に与えられたと伝えられる着物の端切れや、佐藤継信・忠信兄弟にまつわる物、また木地鞍(きじくら)・恨みの矢の根・鍍金装笈(おい)など多数展示されている
なかでも笈は、義経と共に逃れてきた弁慶が、奉納したという



「笈も太刀もさつきに飾れ紙のぼり」(芭蕉)



鐘楼



撮影 令和5年10月16日
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中野不動尊<中野山 大正寺>(福島県福島市飯坂町中野字堰坂28)

2024年04月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月16日

中野不動尊(中野山 大正寺)
前日からの雨が朝方まで降っていたが、急に天気が良くなった
道の駅「ふくしま」の車中で「最寄りの有名寺社」で検索したところ近くにこの寺があった

寺号標
寺号標には「中野不動尊」とあるが、正式名称は「中野山 大正寺」である
明治36年(1903年)に永平寺64世貫首の森田悟由が、中野不動尊本堂の「大正寺」を建立した
曹洞宗の寺院



狛犬






祈祷殿



総欅造りのお堂
祈祷殿周囲の彫刻






「眼守不動明王」が祀られている
眼にかかわる霊験あらたかとのこと



初めて訪れるため案内に従って歩く



納札堂
総ステンレスで造られたお堂
注連飾りや松飾りなどを納める場所



「毘沙門天」が祀られている
アニメに出てくるようなユーモラスな像だ



先に進むと朱色のお堂が見えてくる



眼下のお堂は「寂光門」



大日堂
昭和54年(1976年)に開山800年を記念して建てられた



堂内の様子






豪華な装飾の堂内



中央に「大日如来」を祀る
脇立は不動明王と愛染明王



不動滝
大日堂からは目線と同じ高さでみることができる



治承3年(1179年)春、恵明道人が1匹のカモシカに導かれ入った滝
修験者によって雨露をしのぐ洞窟が穿たれ、不動明王が祀られ聖域が整えられていった






滝の横には不動明王像が置かれている



大日堂下層入口は「顕霊門(けんれいもん)」と呼ばれている



内部は薄暗いが先に進むと……



「洞窟巡り」の入口となっている
1周5分~10分で巡ることができるそうだ



洞窟の様子をみたが、閉所恐怖症なので入口から戻ることにした



寂光門の左側にある祠に不動明王が祀られている






寂光門






奥の院「洞窟巡り」の出入り口の一つ






神社に比べると寺社へ訪れる参拝者は少ない感じがするが、ここは団体の観光客などもいて賑やかであった
調べてみると、福島県有数の参拝数を誇る寺院の一つとのこと



日本における「六三除け」の祈祷発祥の地と伝えられている
「六三除け(ろくさんよけ)」とは、年齢による身体の部分的な厄除け
原因不明の痛みや治療が思うように進まない時等は、六三に当たっている場合がある
厄を祓い清め、身体健全をお祈りするという祈祷のようだ



不動滝周辺は「奥の院」と呼ばれていて、そちらの方ばかりに意識が集中していた
そして、一番重要な場所である「本堂」を撮り忘れていた(本尊:厄除不動明王)



撮影 令和5年10月16日
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堂山王子神社(福島県田村市船引町門沢東ノ前)

2024年04月10日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月15日

堂山王子神社
堂山王子神社は大同2年(807年)に坂上田村麻呂が創建したと伝わる神社

朝からの強い雨が降り止まず、駐車場にて待機する
終日雨予報ということもあり、あきらめて目の前にある石段を駆け上がる



坂上田村麻呂伝説
東北の寺社巡りをしていて気付くことだが「坂上田村麻呂」という名をよく目にする
各寺社の創建に係わり、大同2年(807年)が共通する年号になる



平安時代この一帯には修験僧が宿泊する施設が13カ所あった
本殿はそれらをまとめる大きな寺院、「龍頭山 堂山寺」の観音堂として建てられたものと伝えられている



鐘楼
明治初期に全国で起こった神仏分離による廃仏毀釈運動から逃れるために「堂山王子神社」と改称した



山門(旧仁王門)
旧仁王門と思われる神社山門
文化2年(1805年)に再建した棟札あり



内部には青色に塗られた仁王像と木造神馬が安置されている



仁王像
雨脚が強くなってきたので雨宿りをしながら、仁王像を眺める



これまで多くの像を観てきたが、これほど青いのは初めてだ



歌舞伎役者の隈取りのような顔面



宝暦11年(1761年)の棟札があるということから長い歴史を持つ






東北地方の仁王像は個性がある



参道の階段を上がる



本殿(重要文化財)
本殿は別当寺院だった「堂山寺の観音堂」だった建物
室町時代中期の御堂建築の遺構として大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されている



カメラ本体はコンビニの袋で覆っているが、カメラを上に向けると傘をさしてもレンズに雫がつく程の強い雨






扁額には「観世音」
本殿は「観音堂」にもなっていて、仙道三十三観音霊場第7番礼所



神仏分離による廃仏毀釈運動から逃れるために観音堂に国挟槌之命と稚産霊之命を勧請
明治3年(1870年)に社号を「堂山王子神社」と改称した






五龍地神社



さらに参道が続く



白山比咩神社(はくさんひめじんじゃ)






この奥に「奥の院」があるようだが、足元が悪いため断念した



白山比咩神社からの眺め



木々に囲まれている本殿の姿が美しい



境内には多くの碑が点在している



本堂から仁王門へ降りる



最後に神馬にお別れして車に戻る
強い雨の影響でこの日の観光はここだけで終わった



撮影 令和5年10月15日
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梅福山 報恩院 専称寺(福島県いわき市平山崎字梅福山5)

2024年04月09日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月14日

梅福山 報恩院 専称寺
浄土宗の寺院
応永2年(1395年)に良就十聲(りょうしゅうじゅっしょう)が開創した寺院
東北地方を中心とした浄土宗名越派総本山的寺院であった

細い坂道を上り、カーナビの案内する駐車場らしき場所に着いた
だが、駐車スペースもなく幹から伸びた小枝が車体を擦りUターンもできない状況であった

鐘楼堂(いわき市指定文化財)
とりあえず車を置き、急いで階段を上がり記録用の写真を撮りに行くことにした
階段の途中にあったのが鐘楼堂だった



階段の途中から撮るとこのようになっている



上に上がると、かなり低い位置に、鐘を撞く棒(撞木<しゅもく>)がある



本堂(重要文化財)
寛文8年(1668年)の焼失後、寛文11年(1671年)に再建されたと伝える
入母屋造、瓦形鉄板葺き
本尊:阿弥陀如来



2011年の東日本大震災で、総門と本堂が全壊した
平成の大改修(東日本大震災災害復旧)で現在の姿に復旧した



庫裏(重要文化財)



元禄3年(1690年)の建立 寄棟造茅葺き



専称寺は東北地方における浄土宗の中心で,有数の檀林(学問所)となった寺院
本堂や庫裏の規模はその格の高さを示している






開山堂



額には「開山堂」
震災の影響がまだ残っている感じがする



歴代上人の墓所






数メートル先は崖のようになっているため、車から降り何度も何度も安全を確認してハンドルを切った
ハイルーフでワイドのロングボディの車体は小回りがきかず苦労する



撮影 令和5年10月14日
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飯野八幡宮(福島県いわき市平字八幡小路84)

2024年04月08日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月14日

飯野八幡宮(いいのはちまんぐう)
平安時代の康平6年(1063年)源頼義が奥州討伐の際、源家が崇敬している石清水八幡を磐城の地に勧請し、戦勝を祈願したのが始まりと伝えられている
9月15日の例大祭直前の土・日曜日に400年も続いている古式大祭及び流鏑馬神事が執り行われている

鳥居



額には「八幡宮」



楼門(重要文化財)
楼門の建立は、二階柱墨書より万治元年(1658年)である
一階は、柱は八角造柱で礎石建ち
桁行三間、梁間二間で、両側面前端間に随身像を安置している



二階は、円柱で、中央間二本の柱は一階からの通し柱とし八角造
桁行三間、梁間二問、内部は一室で、仲哀天皇社を安置している



扁額を拡大してみると「八幡宮」と書かれている
その額を、前面がガラスのような額で覆っているところから貴重なものと想像できる






随身像






拝殿側から



所蔵している文化財の数に驚いた



この日は、七五三のお参りで駐車場は満車、境内にはその家族で賑わっていた
誰もいないこの一瞬を撮るため、短気な私が我慢強く待っている



末社 春日神社



斎館



仮殿(重要文化財)
仮殿の建立は大瓶束墨書により寛文13年(延寶元年1673年)で、本殿を延寶2年(1674年)に修理するため建立されたとみられている
この建物は、本殿、拝殿を中心とする飯野八幡宮境内の中にあって、若宮社と対照的の位置にある
規模も同程度で境内を構成するうえでは重要の位置を占める



拝殿



このような立派な拝殿ではあるが、文化財という観点から建造物としての価値がないのか情報がない



現地では重要文化財だと思っていて、一番多くの枚数を撮っていた
今、写真の整理をしながら歴史などを調べていて重文とは違うことに気付いた






拝殿の彫刻









本殿(重要文化財)
現在の本殿は元和元年(1615年)に着工し、翌2年に上棟したことが墨書銘から明らかになっている
延宝3年(1675年)には増改築が行われた



桁行梁間共3間の入母屋造平入杮葺
屋根は当初流造であったが、延宝2年(1674年)と元禄16年(1703年)の修理で入母屋造となる



祭神:品陀別命(応神天皇)
   息長帯姫命(神功皇后)
   比売神(仲姫命)









末社 白幡神社



神楽殿(重要文化財)
元和9年(1623年)の建立
本殿と拝殿・幣殿を取り囲む瑞垣の南面東半を占め、唐門の東にある
建物は桁行二間、梁間二間、入母屋造で南面している



若宮八幡宮拝殿(いわき市指定文化財)




若宮八幡宮本殿(重要文化財)
本殿玉垣の外、向かって左側に「仮殿」、右側に「若宮八幡神社」が位置する
元和5年(1619年)に完成した記録がある



天気に恵まれたこともあり、七五三のお参りにくる家族も順番待ちをしている状況であった
数カ所撮り忘れた建物もあり悔いはあるが諦めた



撮影 令和5年10月14日
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白水阿弥陀堂(福島県いわき市内郷白水町広畑221)

2024年04月07日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月14日

白水阿弥陀堂
東北6県を巡る旅が今回が最後と決めていたので、訪れたことのない場所を選んできた
この旅に出る前、9月の台風13号から変わった熱帯低気圧による大雨で阿弥陀堂が被害に遭ったということをニュースで知った
どのような状態になっているのか、気になっての再訪である

福島民報YouTube「ドローンによる空撮 いわき豪雨」<下記をクリック>
白水阿弥陀堂+台風による被害 - Google 検索

公園駐車場には車は駐まっていたが、参拝者は私一人であった

これは、豪雨から一ヶ月後の様子である



鯉が元気よく泳ぎ口を開けて餌をまっていた池もこのような状態である



真言宗智山派の寺院・願成寺が「阿弥陀堂」を所有する



受付所から阿弥陀堂への道は以前と変わらないと思っていたが、汚泥を除去し砂利を敷き詰めたそうだ



橋の床板がくすんだ色をしているような気もする



水の無い部分は本体の池の底ではなく、流れ込んできた汚泥だという



白水阿弥陀堂(国宝)



平安時代末期の永暦元年(1160年)に、岩城則道の妻・徳姫(藤原清衡の娘)によって建立された
徳姫は、夫・則道の菩提を弔うために寺を建てて「願成寺」と名付け、その一角に阿弥陀堂を建立した



阿弥陀堂は東・西・南の三方を池に囲まれ、正面に当たる南から中の島を経由して堂にいたる参拝道が設けられている
さらに北・東・西は山で囲まれており、阿弥陀堂を中心としたこれらの空間は平安時代末期に盛んだった「浄土式庭園」の様を成している



これらの構造は、徳姫が奥州藤原氏の娘であることも手伝って、毛越寺や無量光院といった平泉の寺院の構造に影響を受けている



「白水」という地名は、平泉の「泉」という文字を2つに分けたもので
岩城氏の本拠地であった平という地名の由来も平泉の「平」を取ったものだという説がある



桁行と梁間はともに3間、一重の宝形造、屋根はとち葺である

境内一帯が水没し、国宝の阿弥陀堂も約20cm床上浸水した
「須弥壇」の上にある重要文化財の仏像5体までは浸水せず、建物にも損傷はなかった



堂内の仏像
木造阿弥陀如来及両脇侍像 3躯(重要文化財)
木造持国天立像(寺伝広目天像)・木造多聞天立像 2躯(重要文化財)

堂内の仏像を「いわきデジタルミュージアム」で(下記をクリック)
白水阿弥陀堂|いわきデジタルミュージアム



帰り際に受付の人に尋ねてみると
現在、池の水を抜いて汚泥を乾燥させているとのこと



その後、重機で汚泥を取り除き、水を入れると説明してくれた



紅葉にはまだ早いが数本の木を見つけ撮ってみた



石仏









今回が最後になるかも知れない「白水阿弥陀堂」



撮影 令和5年10月14日
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八槻都々古別神社(福島県東白川郡棚倉町八槻大宮 224)

2024年04月06日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月13日

八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)
「陸奥国一宮」ということで訪れた

社号標
「国幣中社都都古別神社」と刻まれている



鳥居
第12代景行天皇の時に皇子の日本武尊が奥羽に至り八溝山の東夷を討った
日本武尊を守護した3神が建鉾山に隠れたので、尊は東方に箭(や)を放ち箭の着いた地(箭津幾:やつき)に神社を創建したという



「境内図」



参道の正面に随身門が見えてくる



社務所






狛犬
個性的な風貌をしている






手水舎



随身門(福島県指定文化財)
正徳元年(1711年)に焼失した後、享保年間(1716~36年)に再建されたとみられている
八脚門形式で、彫刻や彩色などの装飾も細部までまとまっている



扁額には「奥州一宮」
「陸奥国一宮」ということで訪れたが、境内図と随身門には「奥州一宮」と
調べていくと陸奥国の別称で奥州と陸州が出てきた
「陸奥国一宮」は鹽竈神社(宮城県塩竈市)、都々古別神社(福島県東白川郡棚倉町内に2社)となっている



随身像






随身門の彫刻






天井画



獅子像
随身門背面にあり、数センチの隙間にレンズを当て撮ってみた






面白い写真が撮れたと思う






拝殿



扁額には社号の「都々古別神社」
神社の名前を知らなければ読めなかった



随身門から外に出る



社殿



本殿(福島県指定文化財)
祭神:味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
   日本武尊(やまとたけるのみこと)



室町末期から江戸初期に当地を治世した佐竹氏により社殿群が充実されたが、正徳元年(1711年)に焼失
現在の社殿群は享保年間(1716~1736年)に再建されたもの



形式は基本的に三間社流造を基調としている
奥行きを通例より長くとるといった独創性が見られ、彫刻などの細部装飾も華やかなつくり



社殿全景



この日は、一宮神社4社と1寺を精力的に巡った
この年の春に「一宮神社」巡りを旅の目的の一つに加えたが実に楽しい



撮影 令和5年10月13日
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馬場都々古別神社(東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場39)

2024年04月05日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月13日

馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)
陸奥国一宮ということで訪れた
江戸時代から、久慈川沿いに並んで鎮座する「八槻都々古別神社・近津神社(茨城県久慈郡大子町」と合わせて「近津三社」と呼ばれている
この馬場都々古別神社は、そのうちの上之宮にあたる

二の鳥居
先に訪れた「石都々古和気神社」、現在訪れている「馬場都々古別神社」、次に訪れる「八槻都々古別神社」
いずれも陸奥国一宮であり、社号も似ている






参道の正面に随神門らしき建物が見えてくる



手水舎



社務所



随神門



額には「陸奥國一宮」



随神像






更に先に進むと社殿が見えてくる



参道や社殿は高い木に囲まれている



始めて訪れる神社なので周辺の社などを確認しながら参道を進む



寅卯神社






三の鳥居
社殿前の鳥居
周辺は塀によって囲まれている



甲山天満宮



神明社



拝殿
その昔、日本武尊が蝦夷征伐に赴く際、現在の表郷・建鉾山に自らの鉾を祀ったことが始まり
大同2年(807年・平安時代) 坂上田村麻呂によって棚倉に移された



寛永元年(1624年・江戸時代)棚倉城築城に際し、白河藩主・丹羽長重によって御神体は現在の地に遷宮された
白河初代藩主の丹羽長重を始め、足利義満や豊臣秀吉、徳川水戸家など多くの武将が参拝に訪れ、武具や刀剣なども奉納された



扁額には社号の「都々古和氣神社」と書いてあると思うのだが……



これが現実なのか(賽銭箱のメモ)
<一部抜粋>全体に過疎化・高齢化・少子化・人員不足・人口減・若手不足・猛暑・酷暑・異常気象・経済異変・収入不安
「手入れ不調、ご理解のほど お許しを」と結んでいる



この神社は国の重要文化財を有し、陸奥国一宮である
歴史的背景はすばらしいが、経済的には厳しい現実があるということをメモから知らされた




本殿(重要文化財)
本殿は、文禄3年(1594年)の佐竹義宣による再建
もとは棚倉城の地にあったが,寛永2年(1625年)に現在地へ移された






祭神:味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
   日本武尊(やまとたけるのみこと)
本殿付近にはロープが張られ「まむし注意」と書かれていたため先に進むことができなかった



撮影 令和5年10月13日
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石都々古和気神社(福島県石川郡石川町下泉269)

2024年04月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月13日

石都々古和気神社(いわつつこわけじんじゃ)

社号標
陸奥国一宮ということで訪れた
駐車場の傍に社号標と社務所はあるが社殿の姿が見えない(嫌な予感がする)



狛犬(石川町指定文化財)
「飛翔獅子」と呼ばれる構図の作品で「高遠石工」の技術を受け継いだ作品
高遠石工とは、高遠藩領内(現在の長野県伊那市)出身の石材加工の職人集団









昭和の時代の作品であるが、高遠藩の石工文化の伝承による貴重な作品



「境内図」
神社まで250mはいいが、(徒歩9分)っていうのは……



嫌な予感というものは高確率で当たるもので、目の前には先の見えない階段が待っていた



胡桃下意成神社(くるみしたいなりじんじゃ)
立派な案内板がある
ここで神に祈ると近いうちに願い事が叶うという
「いなり」といえば、稲荷・稲成だが「意成」なら確かに願いが叶いそうだ



看板の割には小さな社だった



鳥居
階段を上りきった所に鳥居がある
ここかと思ったら違った



更に先が見えない参道が続く



木の根径(きのねみち)
「楽しく歩いて」書いてある



独りで笑顔で歩くのも変だし、鼻歌は呼吸が苦しくなる、スキップでもしようものなら捻挫の危険性もある



天狗岩
ここから大きな岩が続く



古くから山岳信仰の場として山そのもの、点在する磐境(巨石)が信仰の対象として、土着の人々に崇敬されていたという



まだまだ、階段が続く



亀岩
ただただ呼吸が苦しく、カメラを持つ手が震えてピントが合わない



あまりにも巨石すぎてどこが亀の頭で甲羅がどこなのか分からない



離れた場所から見ると亀の形だと想像できる



石門(鳥居)
私自身信仰心もなく、ましてや山岳信仰の知識もない
この石門から向こうが聖域になるということか



鳥居と同じように一礼して入った



神籬岩(ひもろぎいわ)
恥ずかしながら「神籬」という漢字が読めず、その意味も分からなかった
古来、日本人は自然の山や岩、木、海などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきた



古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祀るのではなく、祭りの時はその時々に神を招いて執り行った
その際、神を招くための巨木の周囲に玉垣をめぐらして注連縄で囲うことで神聖を保ち、古くはその場所が「神籬」と呼ばれた



勾玉岩
全国的にも数少ない祭祀遺跡の跡地として、考古学的にも大変重要な遺跡といわれている



多くの「磐境(いわさか)」が山々に点在しているが、更には三種の神器と言われる「剣、玉(勾玉)、鏡」もある






天龍桜



社殿がみえているので、これが最後の階段となる



鳥居
食習慣と運動不足による肥満、肥満による足腰への負担等で最後の一歩が出ない






鳥居の額には「石川郡総鎮守 石都々古和気神社」



拝殿
社殿は八幡山の頂上にある
創建の年代は不詳であるが、八幡山には磐境が多数あり、古代から祭祀の地とされていた



「奉納額」



「由緒」
永承6年(1051年)、源有光が源義家の安倍一族追討の軍に加わって功績を挙げ、代官として石川の地を賜った
有光は康平6年(1063年)にこの地に移って名を石川有光とし、八幡山山頂の当社東側に三芦城(石川城)を築城した
治暦2年(1066年)、源氏の氏神である石清水八幡宮の分霊(八幡神・大国主命)を勧請して石都々古和気神社に合祀した







本殿
主祭神:味鉏高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
    大国主命(おおくにぬしのみこと)
    誉田別命(ほんだわけのみこと)の三柱



近寄って観ると本殿だと思っていた建物が覆堂であり、その中に本堂があった



祖霊社



多賀神社



諏訪神社



石造りの小さな社



剣石
先述した「三種の神器」の一つ






石造五重塔






五重塔の横にある龍神像



御神木
樹齢500年の「高野槇」






額殿
社殿の他に大きな建物はここだけになる



額には「額殿」とある



名前の通りだと奉納額が置かれているはずだ



周辺を散策していたら可愛い石仏に出逢った



山岳信仰の聖地ということも知らずに山頂にある社殿まできた
途中の磐座や磐境も大きな岩程度の認識でいた



境内図によるとこの鳥居の真下に狛犬の場所がある



まちなか駐車場に到着
近くには高校野球で甲子園に出場した「学法石川」がある



撮影 令和5年10月13日
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文殊院 清龍寺(福島県大沼郡会津美里町字文殊西3611)

2024年04月03日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月13日

文殊院 清龍寺
清龍寺はもとは伊佐須美神社境内だった
寛文年間(1661~73)に、社地から分離し、伊佐須美神社奥の院別当を司っていた

寺号標
寺号標には「文殊院」
文殊院清龍寺の文殊菩薩は「筆の文殊」として信仰を集めている
「紙の文殊」(天の橋立て)、「硯墨の文殊」(大和桜井)と並び日本三文殊に数えられている



仁王門



仁王像
東北地方にはユニークな仁王像が多いと感じている
縄と藁を用いている像は珍しい



過去に撮ったなかでも記憶に残っている像の一つだ









文殊堂
清龍寺は暦応2年(1339年年、円済法師がこの地に立ち、独鈷等(仏具の一種)を投げたところ光を放ったので、土を盛り、堂を建てたことから始まる
天海大僧正はこのお堂に祈願して授かったといわれている



「天海大僧正とは」
戦国時代の末期から江戸初期にかけて活躍した天台宗の名僧
現在の会津美里町高田の出身で、幼い頃に天台宗の龍興寺で得度し、各地で学びを深めた
会津を治めた葦名氏に始まり、武田信玄、徳川家康・秀忠・家光に仕えた
特に徳川三代には政治的、宗教的な支えになった人物
焼失した比叡山の復興再建や日光東照宮の造営などに尽力した



三大文殊の一つに数えられている
①奈良県桜井市②京都府宮津市は鉄板であるが、残りの一枠には諸説ある
ここを訪れる2・3日前にも三大文殊の寺を巡り秘仏を拝観してきた



扁額には「獅子吼」
私の出身大学の寮歌の一節にこの言葉が出てくる
仏教用語で、百獣の王である獅子が吠えるがごとく法を説く様子を表す言葉である



隙間にレンズ入れ堂内の様子を撮る
本尊:文殊菩薩
毎年2月25日、1年に1度だけ御開帳にあわせ「文殊大祭」が開催される



天海大僧正の死後、清龍寺の文殊菩薩は大僧正誕生に関わる霊験あらたかな文殊菩薩像として江戸上野寛永寺に移された
寛永寺からは、公辨法親王が開眼された文殊菩薩を、幕府から三つ葉御紋葵の御紋を拝領した
天明の頃、文殊堂は火災により灰塵に帰し、その文殊菩薩も焼失
その後再び寛永寺より文殊菩薩像が贈られ、現在に至っている



文殊堂の彫刻






清龍寺の文殊菩薩は「筆の文殊」として信仰を集め、書道上達の霊験があらたかで、堂内には、4本の大筆が奉納されている






智鏡塚(会津美里町指定文化財)
布教に尽力した智鏡上人を祀った塚



天文22年(1553年)智鏡上人は高田村に疫病が流行したとき、穴を掘り棺に入って生き埋めとなった
棺の中から鐘を鳴らしながら念仏を唱え疫病から人々を救おうとした
その音もついに絶え、捨身往生を遂げた



村人は塚に「五輪塔」を建て、供養したと伝えられている
この五輪塔が人の顔に見えるのは私だけか



芭蕉翁袖塚碑(会津美里町指定文化財)
野面石に「芭蕉翁袖塚」と刻まれている



松尾芭蕉が元禄2年(1689年)奥の細道への旅に出立するとき、右袖は筆のすさびに邪魔になるとたち切り、弟子の堀伊賀之助に与えた
それをもらい受けた高田村の弟子は伊佐須美神社の薄墨桜の下に埋め碑を建立した
その後、現在地に移された






撮影 令和5年10月13日
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伊佐須美神社(福島県大沼郡会津美里町字宮林甲4377)

2024年04月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月13日

伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)
岩代国一之宮(福島県西半部)会津総鎮守
2000年を越える歴史を誇り、「会津」地名発祥の由来を伝える神社

鳥居



末社 菅原神社



祭神:菅原道真
学問成就・出世開運の守護神



参道の先に楼門が見える



手水舎



末社 道主命神社(みちぬしのみことじんじゃ)
祭神:道主命
交通安全の祈願所



楼門
楼門は平成元年(1989年)の造営、高さは約14m



神像






獅子像







仮社殿
主要社殿は平成20年(2008年)の火災で焼失したため、現在は拝殿跡に建てられた仮社殿をして祀られている
火災後、新社殿として、古代の出雲大社を連想させる高さ32㍍の「天空にそびえ立つ神殿」を計画していたが頓挫



拝殿内部
数年前に一度訪れたことがあるが、本格的な再建が進んでいないようだ



拝殿前に供えられた花がやけに目に入ってくる



祭神:伊佐須美大神(下記 四柱を総称)
   伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
   伊弉冉尊(いざなみのみこと)
   大毘古命(おおひこのみこと)
   建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)



飛龍の藤< 別名「瑞木の藤」>(福島県指定天然記念物)
天に舞い昇る龍の姿になぞらえられる力強さが溢れる






「厄割石」



「厄割玉」



天海大僧正御手植の檜別名「南光檜」
何も知らないとただの背の高い木……



この札があると、この木に対する見方が変わってくる
現在の会津美里町に生まれたとされる
徳川家康より三代に亘り側近として仕え、没後に朝廷より「慈眼大師」の諡名を賜る



推定樹齢:450年(伝承)幹回り約5m
天正6年(1571年)に帰省した天海大僧正が、母親の病気回復を祈願して植えられたと伝わる



縁結びの紅葉
二本の幹が一本の幹になる連理樹
縁結びの御神木として信仰されている






撮影 令和5年10月13日
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新宮熊野神社(福島県喜多方市慶徳町新宮字熊野2258)

2024年04月01日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月12日

新宮熊野神社
平安時代後期の永承6年(1051年)、前九年合戦の折り源頼義、義家父子が紀州にある熊野権現に武運を祈願し見事勝利した
神意に感謝し、天喜3年(1055年)熊野堂村(福島県会津若松市)に分霊を勧請したのが始まり

鳥居



案内板



額には社号の「熊野神社」
鳥居の注連縄としてはかなり大きい



神社で拝観料:大人300円は珍しいが宝物殿入館料と思えば納得できる
初めて訪れる場所で周囲を確認しながら参道を進む



手水舎



御神木「大イチョウ」(喜多方市指定天然記念物)
樹高37m 樹齢800年以上
晩秋になると落ち葉が黄色い絨毯のように境内を美しく彩る
11月中旬~下旬の見頃の時期にはライトアップが行われ、大イチョウが幻想的な雰囲気を醸し出す



狛犬






熊野神社長床(重要文化財)
「大イチョウ」と巨大な長床



寄棟造、茅葺、正面9間、側面4間、建立年代は不明
形式・技法から平安時代末期から鎌倉時代初期には「拝殿」として建立されたと思われる



案内板



本殿はこの先の高い場所にある
慶長16年(1611年)に大地震で倒壊し、同19年(1614年)に旧材を用いて再建



昭和46年(1971年)~49年(1974年)にかけて解体修理復元工事が行われた
長床の平面は、間口27m・奥行12mの長方形
直径1尺5寸(45.4cm)の円柱44本が10尺(3.03m)の間隔で10列×5列に並び、柱間はすべて吹き抜けで壁がない



大きすぎて画角に収まらず、横に移動した









鐘楼
古くから神仏習合し別当寺院である新宮寺や奥之院である神宮寺が祭祀を司っていた
明治時代初頭に発令された「神仏分離令」により形式的には仏教色が一掃され、県社に列した



境内には文殊堂や鐘楼、多数の仏像が残されているなど神仏習合の名残が随所に見られる



梵鐘(福島県指定文化財)






長床の横を通り本殿を目指す



熊野神社本殿(福島県指定文化財)
出羽国で発生した後三年合戦の際、応徳2年(1085年)に源義家が再び会津まで進軍
熊野本宮社を耶麻郡慶徳村岩沢、那智熊野社を耶麻郡熱塩加納村宇津野)、新宮熊野社を耶麻郡慶徳村新宮にそれぞれ祀るように命じた



その後、当社の地に熊野本宮社と那智熊野社が合祀された
最盛期には300を越える末社があり神職には100余人が置かれ奥州の熊野と呼ばれていた



寛永20年(1643年)に保科正之が領主(会津藩主)となると崇敬社となり広く信仰された
保科正之と水戸光圀(水戸藩)が明治の神仏分離を江戸時代にすでに始めていた



本殿は熊野三山を模した配置が継承されている
中央には当社の本殿である新宮証誠殿、向かって左側には末社である那智山飛龍権現の本殿、右側には末社である本宮十二社権現の本殿が配されている



本社新宮証誠殿



額には「熊野新宮」
主祭神:家都御子神(けつみこのかみ)






末社 那智山飛瀧権現



額には「熊野那智」
祭神:熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)



末社 本宮十二社権現



額には「熊野本宮」
祭神:熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)



本殿の下には長床









宝物殿



宝物殿内は写真撮影が認められている



中央に「不動明王」向かって左に「制多迦童子」右は「矜羯羅童子」



「不動明王」



「制多迦童子」



「大黒天」



木造相撲力士像(喜多方市指定文化財)






鰐口(福島県指定文化財)



熊野山牛玉宝印版木(福島県指定文化財)



木造如意輪観音坐像(喜多方市指定文化財)






木造虚空蔵菩薩坐像(喜多方市指定文化財)






木造薬師如来坐像(喜多方市指定文化財)






銅造阿弥陀如来立像(喜多方市指定文化財)



「厨子入 木造弁財天・大黒天・毘沙門天像」



仏像を撮る機会に恵まれた
魅力的な「木造文殊菩薩騎獅像」は修復作業中だった






撮影 令和5年10月12日
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