マクロス外伝大本営 新統合軍極東太平洋軍管区司令部

マクロスやロボット大好きなブログです。二次創作などを主にやります。

公式ではなく非公式です。

戦国レーション

2018-01-15 15:39:08 | 日記
戦国時代に用いられた野戦糧食である。
今で言うレーションである。
簡単に携行・保存性・入手しやすさ・作りやすさをメインにしており冬の保存食が使われる。

一部の食事は医療薬として使われる。
(干し柿の周りの糖は止血剤・喘息止めに使われる。)

・握り飯
・五平餅
・きりたんぽ
・あくまき
・ちまき
・餅
・煎餅
・味噌玉
・梅干
・鶏卵
・干物
・燻製
・漬物
・干し柿
・諸白
・片白
・並酒
・濁酒
・みりん
・焼酎
・熟れ寿司
・押し寿司
・弁慶飯
・朴葉飯
・きなこ餅
・ずんだ餅
・あんころ餅
・ぼたもち
・おやき
・吉備団子
・栃餅
・櫨餅
・ゆべし
・朝鮮飴
・兵糧丸
・納豆
・味噌松風
・高野豆腐
・燻り豆腐
・芋茎
・芋がら縄
・切干大根
・雑穀飯
・粥
・湯漬け
・おかき
・揚げ餅
・葛湯
・蕎麦がき
・蛍飯
・飛飯
・味噌汁
・ぜんざい
・汁粉
・雑煮
・すいとん
・ほうとう
・索餅
・素麺
・うどん
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警視庁創立記念日

2018-01-15 14:49:21 | 日記

明治7年1月15日、津山藩江戸藩邸。
明治政府は近代国家を目指すべく、国内の治安組織を設立しようとしていた。
その名は内務省警視庁である。
元薩摩藩士川路利良により創設、3年後。
戊辰戦争に実戦投入されるなどの活躍し、以後は東京の治安維持に当たる。

東京以外にも警察組織を作るが、地方警察は知事の指揮下.東京府だけ内務省の管轄であった。
この体制は1948年に国家地方警察東京都本部と東京23区を管轄する警視庁などの自治体警察に再編されるまで続く。

なお警視庁創立の日は本日1月15日である。
我が国が安心できるような国家を維持してくれている警察官の方々に感謝しましょう。
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武田勝頼

2018-01-15 11:05:34 | 戦国武将・戦国姫図鑑
武田勝頼
【諱】
勝頼
【苗字】
武田
【朝臣】

【通称】
四郎
【生没】
1546年ー1582年
【父親】
武田晴信
【母親】
諏訪姫
【兄妹】
武田義信
海野信親
武田信之
黄梅院(北条氏政室)
見性院(穴山信君室)
真竜院(木曾義昌室)
仁科盛信
葛山信貞
武田信清
菊姫(上杉景勝正室)
松姫(織田信忠と婚約)
【正室】
遠山夫人(前妻)
北条夫人(後妻)
【子息】
武田信勝
周哲大童子
貞姫:宮原義久室
武田勝親
望月信永室
【解説】
武田晴信と諏訪頼重の娘諏訪姫との間の子として生まれる。
兄義信などの年少期の記録があるが、勝頼の年少期の情報は特に記されていない。
対上杉戦に備えて信濃豪族の勢力を取り組むべく母の実家諏訪家を継ぎ諏訪四郎勝頼と名乗る。
諏訪家を継ぐと秋山虎繁に代わり信濃高遠城主になっている。
初陣は17歳の時であり、上野箕輪城攻めであり長野氏の家臣で偵察中の藤井豊後を討ち取り。
武蔵滝山城攻めでは北条氏照の家老諸岡山城守と三度槍を合わせ。
上杉謙信でも失敗した北条氏の本拠地小田原城攻めからの撤退戦では殿を務め、松田憲秀の家老酒井十左衛門尉と戦い死闘の末討ち取っており武将としての才能を開花した。

今川義元が桶狭間の戦いで戦死し、方針で対立し廃嫡された義信の変わりに武田家の後継者になる。
二人の兄がいるが信親は失明、信之は早世し勝頼が後継者として決まる。

織田家との同盟で嫁いできた遠山夫人の間に信勝が生まれる。
夫人が亡くなり、織田包囲網の嵐が吹く中。
父信玄が上洛するため進軍三方ヶ原の戦い、徳川家との戦いに従軍し三方ヶ原の戦いに参戦する。

その道中に父が亡くなり、家督を相続する。

一時は追い詰められた織田信長と徳川家康だが、その隙を見逃すはずがなく。
家康は武田側についた山家三方衆の奥平貞能・貞昌親子を寝返り工作を行い武田から離反した。

勢力拡大を目指して外征を行い、明知城を落とすなどその動きを封じるが・・・・
長篠の戦いで惨敗する。

この戦いで・・・・

馬場信春
山県昌景
内籐昌豊
原昌胤
原盛胤
真田信綱
真田昌輝
土屋昌続
土屋直規
安中景繁
望月信永
米倉丹後守
高坂昌澄
河窪信実
三枝昌貞
五味高重
和田業繁
名和宗安
飯尾助友
ら家臣とほぼすべての戦力を失ったに対し、織田・徳川家側の武将松平伊忠と60名の兵士の損害しか与えなかった。。

そこから武田家は没落が始まり徳川家により田峰城・武節城・作手城を奪還。
諏訪原城が奪取され一時は撃退するが、猛攻は止まらず。

岩村城の秋山虎繁が捕られて処断、依田信蕃が高天神城へ敗走。
孤立した高天神城救援のため横須賀城を攻めるが、大須賀康高の反撃で撤退している。

この頃、北条氏や佐竹氏・里見氏などと同盟を結び北条氏康の娘を正室として迎え入れている。
しかし、上杉家の後継者争いの御館の乱により目論みは失敗している。

その結果、織田・徳川・北条の3方向に戦う事になる。

どんどん追い詰められる勝頼だが、最後の華々しい活躍は。
北条家との戦の膳城素肌攻めであり。

平服で視察していた勝頼の軍に酒に酔って喧嘩をしていた膳城の城兵が武田軍に襲い反撃し落城させたと・・・・

1581年、新府城の築城し拠点を移動する。
しかし、重税と家臣への負担から勝頼への不満が募る事になり後に影響する。
高天神城の戦いでは救援を要求されるが、信長と和睦したい勝頼は刺激するのを避け援軍を出さず高天神城は落城する。

それが原因で国人衆に動揺させ、武田家の威信を低下させる。
翌1582年.木曽義昌の寝返りがきっかけで織田・徳川の連合軍総攻撃開始。
穴山信君.小笠原信嶺らが次々に寝返るなどどんどん追い詰められる。
家臣小山田信茂の居城、岩殿城へ向かい道中.妹松姫や娘貞姫と分かれる。
信茂が造反し道を塞ぐと天目山に逃れ一族と共に自害する。

首は長谷川宗仁によって信勝の首と共に一条大路の辻で梟首される。
その後、武田家は織田家の執拗な追撃でどんどん一族や家臣の生き残りが殺されるが武田信清や甥の武田信道や盛信の遺児が他国へ逃亡し生存。
武田の家臣の大半は家康の家臣になり軍事力強化され徳川家の天下統一の力になる。
武田家の家督は穴山信治を経て家康の5男信吉まで続くが、断絶。
甲斐武田家が本当の意味で再興されるのが、1701年の勝頼の兄海野信親の末裔である武田信興が表高家衆に列する時を待たなくてはならない。

辞世
おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは

【朝敵】
勝頼は信長と和睦を結ぼうとしていたが、全て黙殺されている。
そればかりか信長は時の天皇.正親町天皇に勝頼は帝に叛逆する国家反逆者として報告。
すぐさま、勝頼を東夷として討伐する大義名分を信長に与え。
石清水八幡宮などの有力寺社で祈祷が行われている。
【軍人タイプ】
武田勝頼は政治家と言うより軍人タイプの人間であった。
戦で何度も自らの手で敵将を討ち取っている功績が存在している。
それが故に父信玄や家臣から後継者として危ぶまれていた。
【家臣】
武田信豊
長坂光堅
跡部勝資
土屋昌恒
小宮山友晴
小原継忠
小原下総守
向山出雲守
小田切孫右衛門
安部宗貞
竹内与五右衛門
秋山源三郎
山県昌景
大熊朝秀
秋山紀伊守
秋山善右衛門尉
秋山助六郎
土屋源蔵
横田尹松
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