日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

夏祭り・・・

2013-08-09 17:12:34 | Weblog
 平成25年8月9日(金)、上天草市立上天草総合病院の表玄関の道路を隔てて斜め前にある老人保健施設「きららの里」で、恒例の「夏祭り」がありました。
 「夏祭り」の会場で、4人のお誕生会が13:20から始まりました。ケーキが前に置かれ、司会者が、年齢を尋ね、「きららの里」の生活の感想を尋ねていました。
 私の母と同じで、生年月日はちゃんと言えるのに、年齢がはっきりしてなくて・・・77歳、82歳、95歳、83歳でしたが・・・。「きららの里」の生活の感想では、4人共、施設の生活が「たのしかー」「よかー」と言われていました。(→その時、後ろにいた職員が喜んで大きな拍手をしていましたが・・・)。
 ケーキの上のろうそくの火を消す時に、篠笛で、「ハッピバースデイツーユー」の歌を演奏しました。
 お誕生会後、直ぐに、「夏祭り」が始まりました。初めに施設長の挨拶があり、その後、施設長の初披露の「バイオリン演奏(二曲)」がありました。F先生、外科の手術の時以上に、緊張されていた感じでしたが・・・F先生の優しい気持ちが充分に伝わりました。
 「バイオリン演奏」後に、私の篠笛演奏と太鼓演奏がありました。篠笛による炭坑節では、皆さん、大きな声で歌って頂きました。
 その後、有志の方の踊りと唄がありました。独りで、三通りの衣装を変えて、面白く上手に踊り、皆の笑いを誘っていました。
 楽しい「夏祭り」でした。
http://www.youtube.com/watch?v=0kht87_diIM(炭坑節)
http://www.youtube.com/watch?v=f-vfTZ8RNAg(龍ヶ岳音頭)
http://www.youtube.com/watch?v=Fxr9fIlID1U(和太鼓)
http://www.youtube.com/watch?v=tcqfRXmOgHQ(舞踊)
http://www.youtube.com/watch?v=Lu1bJf3GoUo(舞踊)
http://www.youtube.com/watch?v=Wk7fVh3-0qw(唄)
 
 この日、アパートでずっと持っている自分の3つの太鼓の内の一つを「きららの里」に置かせてもらって、自由に打ってもらうことにしました。
 又、この日には、甲子園で行われた高校野球で、熊本工業高校は勝ちましたが、大分商業高校は、負けてしまいました。  

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くだらない話でもなさそうな話(その10、笑顔)

2013-08-09 09:33:40 | Weblog
 昔の様に、もう、カッとなることが少なくなりました。カッっとなっても、とくになることは殆どない感じで、(血圧高目の)自分の体にも悪いし、それに、そんな態度を取ってしまった自分を後で振り返ると、何となくみじめに思えてしまうから・・・(←後で、自分で自分のことを誇れる様にしたいので・・・)。
 外来でも、診察の時に子どもが口にお菓子を入れていても(←時々ありますが・・・)、ちゃんと薬を飲んでない為に悪くなって来ても(←喘息発作で時間外に時々来院しますが・・・)、今週のある日にも、初診の親御さんから、「夜熱が上がると心配なので、熱さまし下さい、○日分下さい、掛かり付けの○○科でいつももらっている抗生剤を下さい・・・」と強い態度で言われ、心の中で、「おまえは、もう、昔の自分じゃないんだから、生まれ変わったんだから・・・」って感じに考えて、説明はちゃんとしますが、叱責することなく、親御さんに優しく対応していますが・・・(←昔の自分だと、とても考えられない姿ですが?!)。
 「誠実」「感謝」「寛容」が私のモットーで、座右の銘は、「万事塞翁が馬」です。「時は今!」って感じで、時間に超ケチって感じで生きています(車ないし、金やモノには、さほど執着心はないつもりですが・・・←子孫に私の生き方を残すつもりですが?!。最後まで趣味に生き、ボランティア演奏も、もっとアチコチで出来ればと思っていますし、小児科医としての仕事も、体が許す限り、先細りでも、まだ、役に立つ限り続けたいと思っています。
 8月8日の民放テレビで、102歳の(日本の陸上界のボルトって感じの)シニア・アスリート「宮崎秀吉ひできち」さんが紹介されていました。6年前に骨折をしているのに、それからリハビリをきっかけに(囲碁仲間の友達も、他界していなくなり、独りでも出来るものをと考えて)運動を始め、次々と世界一の金メダルを獲得していて、次の5つのことが大切だと言われていましたが・・・→
1、いい部下を持つ(ナースの娘さんが健康管理をしっかりとしていますね・・・)
2、自分のことは自分でする。(←自立の精神が大切ですね!)
3、腹八分目にする。(←基礎代謝率が次第に低下してい行くので、それに合わせて、次第に、食べる量を少なくることが大切ですね!)
4、借金をしない。(←お金はなくても、最低限の生活が出来て、心がリッチだと、いいですね!)
5、耳が遠くなる。(←歳を取れば、難聴気味になりますが・・・マイペースで生きることが大切と言うことでしょうか・・・?!)
 皆、人は、それまでの環境や経験が違いますから、それなりの価値観を持って生きています。「平凡」が一番いいと言う人もいますし、「もっともっと病」になっている人もいます。それぞれの人生、それはそれでいいと私は思っています。私の場合は、結構、時間に追われながら、毎日、せっかちに生きている感じもしますが(昔ほどでないですが)、それでずっと今までも来ている感じなので・・・ゆっくりしていると、何か少しもったいない感じもして・・・?!
 敵を作る感じで他人に人差し指で刺して攻撃すれば、小指と薬指と中指の3本の指の先は、しっかりと自分の方を向いて来て、いつかは、何倍にもなって自分に戻って苦しむことになりますね。人間も、自然の中の一員です。自然の生き方である、「共生(調和)」と「最小必要限度(知足)」がとても大切なことだと思っています。そんな中で、自分の為にも他人の為にも、ブツブツ人生でなく、ニコニコ人生で、いつも「笑顔」を忘れない様にしようと思っています。「笑う門には福来る!」ですね。
 何もしないとこの先も何もない訳で(ゼロをいくら掛けてもゼロ)、ちょっとでもして行けば、いつかは、(足し算で)少しモノになりそうな気がして(←まあ、死ぬまでに間に合わなくても、あの世に持ち込んでしてもいいかなって感じで?!)、今、再び、多国語に凝り出していますが(英語以外の10カ国語・・・独語・仏語・西語・伊語・露語・中国語・ハングル・アラビア語・インドネシア語・タイ語で、伊語とインドネシア語とタイ語は、ビデオでしていませんが、残りは、テレビのNHKの語学番組を録画して見ていますが・・・そこでは、語学の勉強以外に、その国のいろんな所のいろんな知識が入って来て、楽しいですね・・・)。
 それに、最新の医学の基礎力が大切と考え、1日2ページと決めて、ギャノングの最新の生理学の本(23版)を読んでいます(←800ページもあり、タイムカプセルに乗った感じで、何度読んでも理解できない感じの内容がメジロ押しですが、何とか、後140ページほどで一応終わります・・・終われば、又、初めから読み直すつもりでいますが・・・この調子じゃ、不完全燃焼のまま、あの世でも読み続けそうですが・・・?!)。
http://www.youtube.com/watch?v=Z1wZgn5aHy0HK)

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原爆の悲劇を繰り返すこと勿れ(その5)

2013-08-09 09:16:18 | Weblog
 7日間程残務整理をした後に、故郷である島根県江津市の父母の元に復員した。
 気になるのは、被爆を一緒にして行動を共にしてきた町田伍長である。無事に復員しているだろうか?手紙を出した。父親より返事が来た。
 「あなたは、無事に帰られて良かったですね、私の息子は帰って来ません。遺骨も帰りません。」
 「ガーン、・・・。」と頭に大きな石が落ちて来たショックである。あの時、私も死んでいれば、この様なご返事を頂くことはないだろう。余りにも、残念である。涙が出た。あの憎い一発の(原子)爆弾の野郎め。
 就職せねばと整理していると、私の手を握って死んで行った前田美代子さんの遺髪と、名札の張ってある封筒が出て来た。しまった、海田市から美代子さんのご両親の住所である三篠本町は、わずか三里ほどの距離である。何故、故郷に復員する時、途中で届けなかったのであろうか?我ながらぼけていて残念である。おそらく、ご両親の元には、美代子さんは、遺体で帰っていない。永久に帰らないであろう。せめてこの遺髪と本人の名札を届け、死の前のあの言葉、埋葬してある場所を教えねばと、早々速達にて郵便を出す。そして、4日後に、再び、広島に赴く。
 近所の浜田市発の国鉄急行バスにて、中国山脈を横横断して横川駅に着く。
 目指す美代子さんのご両親の住所である三篠本町1丁目は、1キロもないはず。少しは民家が残っているだろうと想像していたが、やはり一面の焼け野原であった。こんな所までこの様な惨状であるのか。一発の得体の知れない(原子)爆弾の野郎め、この辺までもなめ尽くしたのか・・・・と、ふと焼け跡整理中の方に尋ねた。
 「この辺と思いますが、前田義夫さんのご家族の方はいらっしゃいませんか?」
 「今、そこで焼き跡を片付けをしんさっている人が、前田さん夫婦と家族の方ですよ。」
 やっと尋ねて来た前田さんの家族の方は、眼前30メートル先にいらっしゃる。ああ、美代子さんの遺髪を届けに来て良かった。
 「前田さんですか?」
 「ハイ、そうですが・・・・」
 「前田さんのお父さんですか?」と言うと、途端に眼をまん丸と開いて、私の足下から頭の上まで、驚いて家族の方総立ちで唖然として見つめるばかり。
 「速達を下さった近本様ですか?」
 「ハイ、近本であります。」 
 軍隊用語が突然私の口から出た。私が上官をしていたので、だいぶ年上と思われていたのであろうか。私は、21歳である。まだ、未成年であろうと、頭をかしげて疑っている様子である。
 「近本様であんさるでしたら、私が住んでいる家まで来んさい。」と言われた。広島弁である。
 可部線の踏切りを渡って15メートルもあろうか、大木で囲まれた大きな古い家に連れていかれる。その家の中には、焼け出された数世帯の家族で一杯であった。10畳ぐらいの広い座敷に迎えられた。
  お互いに正座をし、おもむろに「美代子さんは、私の部屋で亡くなられ、遺骨として帰って来られませんので、せめてもの形見として、遺髪と胸に付けられておられた名札を持参致しました。」と言って、封筒の中よりそれを取り出して、お父さんに渡した。
 「美代子、帰って来たか!」 ワッと涙々である。
 美代子さんの生前の様子、亡くなる前の最後の言葉、遺体は似の島に送ったこと、私も負傷していたので、充分な手当が出来なかったことなどをお詫びした。
 「この名札は、美代子が胸に付けていたのに間違いはありません。美代子、よく近本様の胸に抱かれて帰って来てくれた。」「近本様、よくぞ美代子を連れて来られました。」
 「いいえ、私の当然のことをしただけです。」
 前田さんのご家族にお別れする時が来た。横川駅より長崎行きの汽車に乗った。
 広島よ、色々な出来事があった。生死のことがあった。私の一生涯、決して忘れることは出来ない。
 被爆でお亡くなりになられた方々、静かにお眠り下さい。

(ご愛読、ありがとうございました)

(この内容は、被爆者の方の御好意により頂きました。本人から浪人の時に大変お世話になり、又、何度も、当時のこと聞かされました。今は、残念なことに、故人となられていますが、故人の奥様とは、今も安否の連絡を取り合っています。被爆関係者の生の記録です。)

http://www.youtube.com/watch?v=K7rob0JVlfE
http://www.youtube.com/watch?v=C5QwVNXkAgk

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