高学年の子どもたちに算数の授業をしていますが、私の弱点は
「担任じゃない」
ことです。
担任じゃない先生が授業をすることは決してネガティブな部分ばかりではないとは思いますが、今回はあえて「弱点」と表現したのには理由があります。
それは、担任じゃない私には、授業をしている子どもたちとの確固たる信頼関係が築けていないということです。
もちろん、もう授業をして半年以上経つなかで、私なりに子どもたちとの関係づくりには努めてきているつもりですが、私がどんなに努力をしたとしても、やはり担任のそれにはかなわないだろうと思います。
子どもたちは、私の説明にうなづいてくれるし、私のくだらない話に笑ってくれます。
中には
「先生の授業分かりやすいです。」
なんてうれしい一言を言ってくる子もいます。
しかし、それらはやはり算数の授業における一側面に過ぎず、表面的なものであり、私と子どもたちの関係の深い部分をつなぐには物足りないものがあるだろうと思っています。
それができるのは、担任です。
一日を同じ空間で過ごし、同じ目標をもって歩み、楽しい時間だけでなく辛い時間も共有している、担任のみです。
私はそこには一種の悔しさも感じますが、担任の先生たちがしている日頃の努力や苦労を私も痛いほどしっているので、納得できます。
私は担任じゃない弱点をいつも背負って授業をするわけですが、そこには注意すべきことがあると思っています。
担任ほどの信頼関係がない私が、担任と同じように子どもに接してはいけない面があるはずです。
担任だから認められる言動があります。
担任だから認められる態度があります。
担任と子ども、親しい者どうしの世界観というのがあることを、私も経験上知っています。
私も、授業の中で色々な形で子どもとコミュニケーションをとるわけですが、そんなときの発言や態度には気をつけないといけないと思っています。
担任として子どもたちに接していた半年前と、今とではすっかり立場が変わっていることを、常に認識しておくべきだと思います。
「担任じゃない」
ことです。
担任じゃない先生が授業をすることは決してネガティブな部分ばかりではないとは思いますが、今回はあえて「弱点」と表現したのには理由があります。
それは、担任じゃない私には、授業をしている子どもたちとの確固たる信頼関係が築けていないということです。
もちろん、もう授業をして半年以上経つなかで、私なりに子どもたちとの関係づくりには努めてきているつもりですが、私がどんなに努力をしたとしても、やはり担任のそれにはかなわないだろうと思います。
子どもたちは、私の説明にうなづいてくれるし、私のくだらない話に笑ってくれます。
中には
「先生の授業分かりやすいです。」
なんてうれしい一言を言ってくる子もいます。
しかし、それらはやはり算数の授業における一側面に過ぎず、表面的なものであり、私と子どもたちの関係の深い部分をつなぐには物足りないものがあるだろうと思っています。
それができるのは、担任です。
一日を同じ空間で過ごし、同じ目標をもって歩み、楽しい時間だけでなく辛い時間も共有している、担任のみです。
私はそこには一種の悔しさも感じますが、担任の先生たちがしている日頃の努力や苦労を私も痛いほどしっているので、納得できます。
私は担任じゃない弱点をいつも背負って授業をするわけですが、そこには注意すべきことがあると思っています。
担任ほどの信頼関係がない私が、担任と同じように子どもに接してはいけない面があるはずです。
担任だから認められる言動があります。
担任だから認められる態度があります。
担任と子ども、親しい者どうしの世界観というのがあることを、私も経験上知っています。
私も、授業の中で色々な形で子どもとコミュニケーションをとるわけですが、そんなときの発言や態度には気をつけないといけないと思っています。
担任として子どもたちに接していた半年前と、今とではすっかり立場が変わっていることを、常に認識しておくべきだと思います。