私は立場上、いろんなクラスの補教に入ります。
出張やお休みなどで担任の先生がクラスを空けたときに、代わりに入る役目です。
私は教務主任なので、補教の調整をする役目でもあります。
「3年2組の2時間目の国語にはA先生に入ってもらおう」
「6年1組の3時間目の算数にはB先生に入ってもらおう」
とかいう調整です。
ここだけの話ですが、このとき、私はこの役得として、まだ「給食」に入ったことがないクラスがあったときは、できるだけ自分が入るようにしています。
それはなぜかというと、給食には、もろにそのクラスの様子が表れると思っているからです。
子どもたちの実態も分かるし、担任の先生の日頃の指導も見えます。
そんなものを補教で見ようとしているとなると、クラスを空けた担任の先生たちはやりにくいでしょうが、そこは勘弁してもらって。
普段担任の楽しさを味わえないわけですから、クラスのエキスをそれくらい味わうのは許してもらいましょう。
私は給食に入ったクラスでは、あーだこーだ口出しをすることは極力せず、できるだけ黙って子どもたちの動きに任せて、その様子を少し遠めに見ています。
すると、いろいろ見えるものです。
・おかわりや増量のルールが明確なクラスと、一部の子が好き放題にやるクラス
・給食当番の仕事の仕方に丁寧さを感じるクラスと、どう見てもてきとうにやってるクラス
・先生の分の給食を黙っていても準備してくれるクラスと、言わなきゃ準備しないクラス
・「いただきます」までの待つ時間の過ごし方が統一されているクラスと、そこが自由なクラス
・偏食・遅食が少ないクラスと、多いクラス
・「ごちそうさま」の時間が周知されているクラスと、「別に決まってない」というクラス
・片づけ終わったあとの、おぼんや歯ブラシの棚がきれいなクラスと、めちゃくちゃになるクラス
・グループを作ったときの男子と女子の机の間に隙間のあるクラスと、そんなものないクラス
・食事をしながらの会話がそこにいるみんなを巻き込むクラスと、会話が限定的なクラス
そして
私自身が、そこで食事をしていて、居心地がいい感じられるクラスと、そうでないクラス。
自分が担任をしていたとき
「こんなことに気を付けて指導しよう」
と思っていたことはたくさんありましたが、それを今では他者のクラスで客観的に見るようになりました。
もちろん、私だって力不足で、自分のクラスでよくない給食をさせていたころもありました。
しかし怖いのは、「よくない給食」をしていたとしても、毎日それを繰り返していると、いつしかそれがクラスの自然な姿となり、子どもも先生もそこに違和感を感じなくなるということでした。
いわゆる「悪しき習慣」としてクラスに根付いてしまうのです。
食事は人間の根本であるように、給食はクラスの根幹をなします。
給食の悪しき習慣が根付いてしまったクラスは、それがクラスの根幹になる、そういっても言い過ぎではないと思っています。
だから給食です。
だから私はいろんなクラスの給食が見たいのです。
上に挙げたような例を見ながら、担任の先生の素晴らしい指導を肌に感じるときもあります。
教務主任として、学級の、学校の充実を感じられるようで、とてもうれしくなります。
逆もあります。
普段、自分のクラスの子どもたちへの愚痴をぶちまけている先生のクラスでは、やっぱり給食もダメです。
「ねぇ、どうしてグループを作っている子と、そうでない子がいるの?」
「自由だから」
なんてクラスもありました。
がっかりです。
そんなクラスに対して
「それはよくない」
と熱く言いたくなるのは山々ですが、それはしません。
たった一回給食を共にしただけの者がたった一回の指導をしたところで、さすがに効き目がないことは見えています。
それに、悪しき習慣でも、やっぱりそれは担任の先生が作っているものですから、無断でメスを入れるのは筋違いです。
どうしても我慢できず言いたいなら、次の日まずは担任の先生に言うべきでしょう。
私は常に、魅力的な先生を見つけることに強い関心があります。
私にはないものをもっている先生を見つけて、真似したいと思えるものを探します。
今後もいろんなクラスの給食を見ようと思っています。
出張やお休みなどで担任の先生がクラスを空けたときに、代わりに入る役目です。
私は教務主任なので、補教の調整をする役目でもあります。
「3年2組の2時間目の国語にはA先生に入ってもらおう」
「6年1組の3時間目の算数にはB先生に入ってもらおう」
とかいう調整です。
ここだけの話ですが、このとき、私はこの役得として、まだ「給食」に入ったことがないクラスがあったときは、できるだけ自分が入るようにしています。
それはなぜかというと、給食には、もろにそのクラスの様子が表れると思っているからです。
子どもたちの実態も分かるし、担任の先生の日頃の指導も見えます。
そんなものを補教で見ようとしているとなると、クラスを空けた担任の先生たちはやりにくいでしょうが、そこは勘弁してもらって。
普段担任の楽しさを味わえないわけですから、クラスのエキスをそれくらい味わうのは許してもらいましょう。
私は給食に入ったクラスでは、あーだこーだ口出しをすることは極力せず、できるだけ黙って子どもたちの動きに任せて、その様子を少し遠めに見ています。
すると、いろいろ見えるものです。
・おかわりや増量のルールが明確なクラスと、一部の子が好き放題にやるクラス
・給食当番の仕事の仕方に丁寧さを感じるクラスと、どう見てもてきとうにやってるクラス
・先生の分の給食を黙っていても準備してくれるクラスと、言わなきゃ準備しないクラス
・「いただきます」までの待つ時間の過ごし方が統一されているクラスと、そこが自由なクラス
・偏食・遅食が少ないクラスと、多いクラス
・「ごちそうさま」の時間が周知されているクラスと、「別に決まってない」というクラス
・片づけ終わったあとの、おぼんや歯ブラシの棚がきれいなクラスと、めちゃくちゃになるクラス
・グループを作ったときの男子と女子の机の間に隙間のあるクラスと、そんなものないクラス
・食事をしながらの会話がそこにいるみんなを巻き込むクラスと、会話が限定的なクラス
そして
私自身が、そこで食事をしていて、居心地がいい感じられるクラスと、そうでないクラス。
自分が担任をしていたとき
「こんなことに気を付けて指導しよう」
と思っていたことはたくさんありましたが、それを今では他者のクラスで客観的に見るようになりました。
もちろん、私だって力不足で、自分のクラスでよくない給食をさせていたころもありました。
しかし怖いのは、「よくない給食」をしていたとしても、毎日それを繰り返していると、いつしかそれがクラスの自然な姿となり、子どもも先生もそこに違和感を感じなくなるということでした。
いわゆる「悪しき習慣」としてクラスに根付いてしまうのです。
食事は人間の根本であるように、給食はクラスの根幹をなします。
給食の悪しき習慣が根付いてしまったクラスは、それがクラスの根幹になる、そういっても言い過ぎではないと思っています。
だから給食です。
だから私はいろんなクラスの給食が見たいのです。
上に挙げたような例を見ながら、担任の先生の素晴らしい指導を肌に感じるときもあります。
教務主任として、学級の、学校の充実を感じられるようで、とてもうれしくなります。
逆もあります。
普段、自分のクラスの子どもたちへの愚痴をぶちまけている先生のクラスでは、やっぱり給食もダメです。
「ねぇ、どうしてグループを作っている子と、そうでない子がいるの?」
「自由だから」
なんてクラスもありました。
がっかりです。
そんなクラスに対して
「それはよくない」
と熱く言いたくなるのは山々ですが、それはしません。
たった一回給食を共にしただけの者がたった一回の指導をしたところで、さすがに効き目がないことは見えています。
それに、悪しき習慣でも、やっぱりそれは担任の先生が作っているものですから、無断でメスを入れるのは筋違いです。
どうしても我慢できず言いたいなら、次の日まずは担任の先生に言うべきでしょう。
私は常に、魅力的な先生を見つけることに強い関心があります。
私にはないものをもっている先生を見つけて、真似したいと思えるものを探します。
今後もいろんなクラスの給食を見ようと思っています。