何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

さくらが分かる男と、ワンコ

2018-03-29 12:50:55 | 自然
さくら を謳う’’歌’’として何が思い浮かぶかで、世代がバレてしまうことがある。

週末の晴天で一気に満開を迎えた桜。
ワンコ散歩コースだった道には、それは見事な桜並木がある。
桜にはとんと関心がなかったワンコだが、秋 散った桜の葉をバリバリと踏みながら歩くのを、ワンコは楽しんでいた。

そんな桜並木を昨夜、君と散歩した。
「あまりに美しいので、明日朝一番にタブレットで撮ってみる」と言いながら君が口ずさむ「さくら」に、「さくら」?と思った。

私の場合、まさか「同期の桜」(作曲 大村能章 原詞 西條八十)でもないが、「桜坂」(作詞・作曲 福山雅治)あたりか・・・
こんなところに世代が現れる、と思いながら、君が口ずさんだ「さくら」(作詞・作曲 森山直太朗 御徒町凧)「桜坂」を検索してみると、世に出たのは3年しか違わない。
だが、それを初めて聞いた時の年齢や状況と、それ以後の月日で経験したことを考えたとき、その差はやはり大きい。

ほろ苦さと喜びを感じつつ、この春は、目に留まるかぎりの桜を撮ってみるつもりだ。

ところで、君よ
この「さくら」には、♪どんなに苦しい時も、君は笑っているから、挫けそうになりかけても頑張れる気がしたよ♪という歌詞があるね
「どんなに苦しいであろう時も、笑っている君は強いね」と誤解される私としては、
君には、
どんなに苦しくても歯を食いしばり笑っている人の、強がりと悲しみが分かる男になって欲しいよ

そしてワンコ
この「さくら」には、♪さらば友よ、またこの場所で会おう さくら舞い散る道の上で♪という歌詞があるよ
ワンコ
毎年「花より団子」と言いながら歩いた、あの桜並木の道に戻っておいで ワンコ
また、あの場所で会おうよ ワンコ

春なのに、春だから

2018-03-27 19:35:37 | 自然
「水脈の果て、富士の高嶺に祈る平和」で記していたが、富士山を拝する旅から帰宅した。

先週はずっと寒の戻りか花冷えかという寒さと雨が続いたので気を揉んでいたが、旅は晴天に恵まれ、帰宅すると庭にも一気に春が訪れていた。

    
出発前には堅い蕾のチューリップが、たった数日で大きく花開いている


数年前、球根を数個植えただけのムスカリが、暖かくなると、其処彼処から芽を出す様は、その花言葉「明るい未来」を信じさせてくれる。

・・・・・富士山の写真は???

心静かに平和を祈りながら富士山を拝するために、いい写真を撮るために、晴れて欲しかった。
日々、山や、わんこ&ニャンこちゃんや、きれいな花や神社仏閣などの写真が掲載されているブログを楽しませて頂いているので、私も美しい富士山の写真を掲載したいと思い、晴れることを心から願っていた。
願い通じて、晴天にはなったのだが・・・・・

春、陽光きらめく駿河湾の向こうに浮かぶ富士山は・・・・・

デジカメのおかげで、ヘタな鉄砲も数撃ちゃ当たる式に撮りまくったのだが、掲載できるほどのものがないのは、腕がないせいばかりではない、はずだ。
旅の記録はおいおいと・・・

田子の浦に うち出でてみれば 白妙の
富士の高嶺に雪は降りつつ

百人一首で最初に覚えた山部赤人の「田子の浦」は、今回の旅の辺りを指すという。自分の写真はアレなので、wikipediaより1886年にアドルフォ・ファルサーリにより撮影された写真田子の浦橋」をお借りしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%B5%A6#/media/File:Japon-1886-30.jpg





はるかぜ こおりをとく

2018-02-08 23:58:33 | 自然
春は名のみの♪という歌もあるが、立春を過ぎたというのに、「厳寒の候」とでも書きたくなるような天気が続いている。
当地は、降り積もるような雪は今季はまだないものの、庭の睡蓮鉢の水はもう何日も凍ったまま、一向に融ける気配はない。

だが、季節が確実に移っていることは、光と植物が教えてくれる。

新年に合わせて御大が仕立てる松・梅・万両の盆栽の梅は、毎年少なくとも松のうちには咲き始めるのだが、今年は一月末になっても蕾が固いままだった。
   
   
それが、光だけは春めいてきた立春の候、一気に花開いた。
そんな今を旧暦では、如月 立春の第一候 東風凍解(はるかぜ こおりをとく)と云うそうだ。

母の実家の家紋が梅鉢だったこともあり、梅には格別な思いを持っていたが、12年前その梅に、孤独と不穏と混乱の予兆を感じて以来、私にとって梅は、どこか悔しく寂しい気持ちを象徴するものとなっていた。

梅咲けど、鶯鳴けど、一人かな

当時ライオン丸総理が進退をかけて取り組もうとしていた課題が頓挫したときに、総理が思わす呟いた小林一茶の歌である。

今現在の混乱の全ては、あの時のあのことに端を発している。
あの時 適切に対応しておれば、今頃は奇麗に穏やかに いと高き処を拝することができたものを、その場しのぎの対処療法で徒に解決を先延ばししたために、一層混乱を深め、672年以来ともいえる陰謀が大っぴらに語られるまでに落ちぶれてしまった。

東風を、’’はるかぜ’’と詠むことは知らなかったが、これは、「こち・はるかぜ」だけでなく、「とうふう」とも読むそうだ。
ならば、氷を解かす東風(はるかぜ・とうふう)のごとく、東宮・春宮に、凍りついた世を解かして頂きたい。

混乱と不穏で氷固まった世界から吹きつける風は冷たい。
まず、大元の氷を溶かす大いなる光の源が示されないかぎり、光の粒は、どちらへ向けば良いのか分からない。
光を、もっと光を!

追記
氷を「とかす」の漢字に迷った。
東風凍解(はるかぜ こおりをとく)は、「解く」を用いているが、「氷が溶ける」も、よく見受けられるので、ちょいと調べてみた。
どうも、自然に「とける」場合が「解く」で、人工的に「とかす」場合が「溶かす」となるようだ。
これを知ると尚、大元の氷が大いなる光で「解ける」のを待つべきか、適切な対処で迅速に「溶かす」べきなのか迷うところである。

幸いをもたらす12月1日

2017-12-01 12:00:01 | 自然
一瞬で空気が変わり清々しいものとなる時があるが、今日 12月1日というのも、そのような力があると私には思える。

この時期特有の鉛色の空のもと、足元の落ち葉を見ては’’世も末’’だとか’’終焉’’だとか嘆いていた昨日が嘘のように、目に映る光景に、鮮やかで温かな色があると気付かせてくれるのが、師走も一日の この日である。

    
  
うっかり混んだ枝に手をいれると 尖ったトゲにやられる事や、少しケバケバしい色が苦手なため我が家にはないピラカンサだが、数年前から帰宅を急ぐ目を和ませてくれるのが、ご近所さん庭のピラカンサである。
そのような思いを以て、ピラカンサを眺めるようになったのは、おそらく あの漫画の影響である。

「家栽の人」(作・毛利甚八 画・魚戸おさむ)
忙しい現在、「家栽の人」のどこにピラカンサの話があったかを探すことは出来ないので、正確なところは記せないが、たしか・・・・・
両親が亡くなり残された子供たちが、遺産相続の相談のため、主人公・桑田が勤務する家裁に来るという話。
残された子供たちは、実家の家を売却した金額を公平に分けるということで納得しているのだが、桑田判事は「あなた方が売ろうとしている家には、見事なピラカンサがありますね。気持ちよく帰れる家は冬の日のピラカンサみたいなものですよ。家を残すという考えは、ないですか」と訊ね、実家を売ったお金の使い道まで皮算用している子供たちを呆れさせるのだ。
だが、実際に家を売り、更地になった実家を見にいった子供たちは、「家を失くしてしまうのは簡単なんだな、あの判事の言った通りだったな」と、苦い思いを呑み込む。
この「冬の日のピラカンサ」という件も印象的だが、私には印象的な言葉が もう一つある。
それは、子供たちが納得している内容に異議を差し挟んでまで 家を残すという提案をした理由を、担当調査官に質問された時の、桑田判事の言葉だ。
「生まれた家が大切だなんて、平凡なことを言ってしまいました。
 でも、平凡なことを忘れた時に、人は争うんですね」

ピラカンサには、かなりキツイ棘があるが、枝の中に無闇に手を入れなければ刺さることはない。
ピラカンサの棘は、争うためのものではなく、守るためのもの。

ピラカンサの花言葉 防衛


寿ぎの一日はつづく

夢虚しく 望み破れて 秋 

2017-11-30 00:02:42 | 自然
錦秋の候ともいうが、秋たけなわの時はアッという間に終わり、本格的な冬を前に篠突く雨に濡れそぼり踏みにじられた枯葉を見ると、終焉を強く感る。


そんな頃に毎年 思い出す歌が2曲ある。
「拓銀と北大に苦い思いをもつ父と息子が訥々と歌う歌なのだ」と息子である友人は言っていたが、「夢は虚しく消え、闇をさすろう」と歌いながら、どこか悲壮感のないこの一曲を思い出すのは、晩秋のまだ入り口。

「北帰行」(作詞作曲 宇田博)
窓は夜露に濡れて 都すでに遠のく
北へ帰る旅人ひとり
涙 流れてやまず 
♪夢は虚しく消えて 今日も闇をさすろう
遠き想いはかなき希望♪


だが、今日のように どんよりとした黒い雲に覆われた日は、友人の父の十八番だという歌が、殊更に思い出される。
『川は流れる』(作曲:桜田誠一、歌:仲宗根美樹)
病葉を今日も浮かべて
街の谷、川は流れる
ささやかな望み破れて

晩秋になり濡れ落ち葉を見る度この歌と友人を思い出していたが、今調べてみると、病葉というのは、病気や害虫に蝕まれて変色した葉をいい、特に夏の青葉に交じって赤や黄色に変色しているものを指すというのだから、落ちるべくして落ち 踏みしめられる秋の落ち葉よりも一層侘しいもののようだ。

そんなことを物思う・・・・・
実りの秋を過ぎ、凛とした清々しい冬を迎える前の、虚しさ寂寥感ただよう11月晦日である。