何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

どんな道も楽しもうワンコ

2017-11-22 21:00:00 | 自然
「どこを歩こうか?ワンコ」 「どのように歩こうかワンコ」より

今日11月22日は、二十四節季の「小雪」

小雪というと、中原中也が思い浮ぶせいか「こゆき」と読んでしまいがちだが、考えてみれば、二十四節季の「大雪」を「たいせつ」と読むのだから、「小雪」を「しょうせつ」と読むのは当然のことだとは、思う。
と思うのだが、私にとっては「小雪」といえば、悲しみと交錯する「こゆき」だ。
 
「山羊の歌」より
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
懈怠のうちに死を夢む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……


とは云え、私にとってこの詩は、ちんまりと薄ら汚れていく自分を嫌悪したり嘆いたりするとき、浮かぶもので、小雪の舞う季節限定のものではない。
最近とんとスキーをしていない私にとっての雪というと、ワンコが一冬に何度か降る雪に はしゃぐ姿が思い出される。
  
寒がりで、冬はストーブと炬燵の一番良い場所を陣取っていたワンコだけれど、
雪の日だけは話は別で、
まだ誰も足跡をつけていない雪に、肉球足跡をつけながら歩くのが、ワンコは好きだったね
でもって、その時のテーマソングは、
たいして降り積もっていないのに、「降り積もる雪 雪 雪 また雪よ」だったね
「こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪  みず雪 かた雪 春待つ氷雪」
正しい順番で全部歌えるか、楽しんでいたね ワンコ

これは新沼健治氏が歌う「津軽恋女」(作詞・久仁京介 作曲・大倉百人)という歌なのだけど、
歌詞にある色々な「雪」に「小雪」は含まれていないんだね ワンコ
調べてみると、気象庁の予報用語「小雪」は、
※『数時間降り続いても、1時間あたりの降水量が1mmに満たない雪のこと』なので、
日本海側や北日本では、
小雪の表現が適切でないことが多く、その場合は「雪」と表現されるそうなんだよ ワンコ

何を見ても何を聞いてもワンコを思い出し、ワンコを想わない日は一日としてないのだけれど、
それが、ただ寂しいだけではなくて、笑顔で温かい気持ちで語り合えるまでになったのは、
やはり、ワンコが天上界の住犬になって二度目の秋だからかな?

この秋は、我家にとっても色々勝負というか変化の時でもあるけれど、
そんな時にワンコから届いたお手紙については、又つづくとするね ワンコ

注、※
日本の行事・暦より  http://koyomigyouji.com/24-shousetsu.html

大和路巡礼は お上品に

2017-11-07 12:00:00 | 自然
「敬愛の花もて進め」より

旅というと、色々な場所を数多く訪ねて知見を広げる人もいるが、私は同じ場所を何度も訪問することが好きで、毎年 夏には上高地を、秋には正倉院展を、冬には京都(知恩院)を訪ねるのを常としている。
そんな秋の正倉院展だが、昨年に引き続き今年も、大和路を南北に縦断し、まず一言の祈りを叶えて下さるという一言主神社をお参りしてから、正倉院展に向かった。
去年、鳥居をくぐった所に咲く桜を見つけたときには、ちょうど気持ち良い小春日和でもあったため、狂い咲きかとも思ったのだが、今年も同じように可憐な花を咲かせてくれているところを見ると、十月桜というものかもしれない。

  
鳥居から続く杉並木も良い雰囲気なのだが、この石段を上りはじめると、空気が明らかに清浄なものに変わり、上りきったところで出迎えてくれるのが、樹齢650年の無患子だ。
更に歩みを進めると、手水舎の前には、ボケ封じに御利益がある「至福の像」とともに「ボケ除け数えうた」の立て札があり、十の約束が記されている。自分自身は勿論のこと、あれやこれやの顔を思い浮かべながら、しっかりボケ封じを祈ってきたのだが、約束すべてを守るのは難いので、「五つ、つとめてカボチャを食べて」だけで何とかならないかと思う私には、ボケは兎も角もバチがあたる?

手水舎で清め、ボケ封じも願い、いよいよ神様に御参りするのだが、それは次回へと続くとする。
(祭神 葛城之一言主大神 - 主神  幼武尊 - 第21代雄略天皇)


さて、一言主神社を後にし、葛城古道を一キロほど歩くと、九品寺に辿り着く。
彼岸花で有名な この古道は整備されているようで されていない感じが鄙びており良いのだが、案内標識などがなく、九品寺への道が分かりづらい。あぜ道・けもの道ぞいで畑仕事をされる方に、「きゅうひんでら?はどちらでしょうか?」などと訊ねていた私達は、大ばか者。
畑仕事をされる地元の方は、私達の間違いに気付いておられただろうに、何人かが「知りません」と。
最後にお訊ねした方が、「それは、きゅうひんでら、ではなく、くほんじ」と笑いながら、正しい道を教えて下さった。
  
『九品寺はサンスクリット語で、その意味は布教でいう上品・中品・下品で、人間の品格をあらわしています。上品の中にも上中下があって中品や下品にもそれぞれ上中下があります。全部で九つの品があるので九品と名づけられています。』
『 』九品寺 http://www.city.gose.nara.jp/kankou/0000001416.html より引用

私達の間違いには、開祖 行基さんも真っ青になられたことだと、恥入るばかりの心地ぞする。
よって、中品の中あたりを自認していた私だが、当分は下品の中との自覚で精進せねばと反省しきりの大和路巡礼の旅であった。

連作 命と言の葉と,応援と

2017-10-27 21:00:00 | 自然
難解でもなければ長編でもないにもかかわらず、どうにも読み進めにくい本を読んだいた。

この作者には、記憶に残る素晴らしい作品がある一方で、時々なんとも共感のポイントが掴めない作品もあるので、これもそんな一冊かと思っていたのだが、投げ出さずに最後まで読んだ後には、少なくとも今の私には良い本だったと思っている。

そう思う理由は二つあるが、その一つが、先週から水槽で飼い始めたメダカにある。

先週 突然我が家で暮らすことになった大量のメダカ。 「ワンコへの愛の手紙&歌」
さほど大きくない水槽に押しこめられ我が家にやって来たので、このところの冷え込みを気にしつつも、とにかく元気そうで大きそうなものを何匹か庭の睡蓮鉢に放した。
だが、環境の変化に慣れる間もなく、台風による大雨にやられ、放したうちの何匹かが生き残ることができなかった。

一方、睡蓮鉢に移されず残ったメダカたちは、更に二つの水槽に分けられ、室内に置かれるようになったのだが、この子たちは狭い水槽の中ながら元気にスイスイ泳ぎ、たった一週間にも拘らず心なしか大きくなったような気さえする。

あの時、庭の睡蓮鉢に放したメダカと、室内水槽に放したメダカ。
どちらを優遇したつもりもなく、どちらも元気に生きて欲しいと思い、住む処を分けただけにも拘らず、一方は弱り もう一方は元気にやっている。
とりあえず その’’選別’’やら’’排除’’やらをした格好になっている私としては、そこに他意も悪意もなかったのに、小さな命に大きな差が生じてしまったことから、存外 人の運命も一生も このようなものでしかないのだろうという思いに至り、少しばかり かなり落ち込んでいた。

そんな時に読んでいた本が、なんとも読みづらいものだったので一層イライラとしていたのだが、その本の最後になり良い言葉に出会うことができたのは幸いだった。

『君が叫んだその場所こそが、ほんとの世界の真ん中なのだ』

この言葉が記されている本のタイトルを挙げないまま引用することが御法度であることは承知しているが、忙しい現在その本については連作として「続く」とすることでご容赦願いたいと思っている。
そうまでして今日これを記しているのは、今日から又チェロの音色が響き始めたからだ。
小さな音(言葉)は、大きな音にかき消されるかもしれないし、遠くまで聞こえないかもしれないし、そもそも聞く耳を持たない者には届かないかもしれないが、音を発することを諦めず、自分の音を奏で続けていれば、そこが世界の真ん中の一つになると、私は信じたい。「青に響くチェロの言の葉」

小さな命は自分で居る場所を選ぶことはできないが、いや自分の居たい場所に居ることができる命は少ないのかもしれないが、そこで頑張り続ければ、そこが命の世界の真ん中の一つになると、思いたい。

そして、そんな命と頑張りを応援し続けたいと思う、それについては又つづく

突然変異?のゼラニウム

どういうわけか私は、あまりゼラニウムが好きではない。
だが、ゼラニウムが好きな家人は、家にない種類を見つけて買ってきては、遠慮しいしい並べている。
そんなことを何年も続けてきたのだが、つい先日 家人いわく「こんな花ではなかったはずだ」という白い多弁のゼラニウムが突然咲いた。
この白いゼラニウムの花が、なぜか私の心の琴線に触れた。
そのあたりについても、又つづく











2017 四方山話 輝く命編

2017-09-16 20:00:00 | 自然
「2017四方山話 推理モノ編」より

「一ノ俣殺人渓谷」(梓林太郎)の後書きで、板垣亮平氏は『登山者という人種は妙にマメで、自分の山行記録をしっかりつけている人が多』く、作家が『いいかげんな描写をすると「この季節の〇〇尾根は、こんな感じじゃない。この作者はガイドブックだけ見て書いたんじゃないか」』などという指摘(苦情)があると、書いている。

私は、歩くだけで精一杯で詳細な山行記録をつける余裕がないだけでなく、動植物の知識もないため、その点については緩い視点で眺めている。
どれくらいの緩さ情けないかというと、穂高岳山荘のテラスで宴会する登山者の足元で落し物を啄んでいる この鳥を「雷鳥かも?」と言う人の声を聞きつけ、ホイホイとシャッターを切ってしまうような、私だ。
さすがに、これは自分でも「違う」と思い調べたのだが、この鳥はおそらく「岩ひばり」

こんな私故に せっかく綺麗に咲いている花の名前も、まったく分からないので、遠慮しいしい ここに載せておこうと思う。

2017お盆の頃の上高地から横尾までの花々
  


  
 

横尾から涸沢(2350㍍)の花々
  


  


涸沢のお猿

数年前までは、河童橋周辺から徳沢あたりまで多くの猿が見られたが、ここ数年その数はめっきり減っている。
いくら啓蒙しても餌をやる人が絶えないため、人馴れした猿による被害が出る前にと、ホテルの関係者などが猿追いをして下さっているそうだ。
そうして里を追われたせいか、元々そこが棲みかだったのか、近年では涸沢で猿の群れを見るようになっているが、高地で、猿が雷鳥を捕食するという事例が発覚するなど、問題も発生している。
忘れてはならないのは、人間の方が侵入者だということ。


涸沢のお花畑? ザイテングラードから奥穂のてっぺん?あたりの花々


   

歩くだけで精一杯ということもあるし、生来無粋だということもあるが、何一つ花の名前を知らない。
ただ、花に目をとめ写真を撮るようになったことで、山を歩く楽しみが広がったような気がしている。
いつか、好きな本を数冊ザックにしのばせ、涸沢のお花畑でゆっくり読む、という幸福な時間を持ちたいと思っている。


焼岳
ここに掲載した’’岩ひばり?’’や猿だけでなく、この山域にはカモシカやクマの目撃情報もあり、特にクマについては、出没した場所と日時を記した警告看板が、そこかしこにある。
お盆の時期ということもあり花の種類は少ないが、森林限界を超えた岩陰に健気に咲く花は、ホッと一息つかせてくれるだけでなく、命の強さも教えてくれる。
だが、生きているのは、動植物だけでは、ない。
山そのものが生きている。

<焼岳で小規模な「噴気」> 日テレNEWS24 2017年8月10日 13:51配信より一部引用
岐阜県と長野県の境に位置する活火山の焼岳で、9日夜から10日未明にかけて、小規模な「噴気」が確認された。気象庁は、今後の火山活動に注意するよう呼びかけている。
気象庁によると、岐阜県と長野県の境に位置する活火山の焼岳で、9日午後11時50分頃から10日未明の午前2時頃までの間に、「空振」を伴う地震が6回観測され、山頂の西側約400メートル付近の山腹で、白い噴気が確認された。
このうち、午前0時48分に確認された噴気は、約100メートルまで上がり、東に流れたということだが、その後、噴気は次第に弱まり、午前3時以降は観測されていないという。


出発直前にもたらされたニュースは、御嶽山の惨事を思い起させ不安を感じたが、絶えず最新のニュースを取り安全を第一に考えることを再度肝に銘じ、出発した。
もちろん自然の力を侮ってはならないが、白樺の立ち枯れが幻想的な あの大正池は、焼岳の大噴火で噴出した泥流で 梓川がせき止められたことにより現出した池であることを思うと、山も生きているからこそ美しいのかもしれない。

そんな山々と本来ともにあるのは、そこに生きる動植物であって、我々人間はその恩恵にほんの一時与るだけの闖入者・侵入者だと自覚をもちながら、これからも命あふれる山で、命の洗濯をさせてもらいたいと思っている。

2017 夏 山行 感謝

2017 四方山話 推理モノ編

2017-09-14 19:00:00 | 自然
「誰の山 どんな山」 「2017 四方山話 その壱」 「2017 四方山話 その弐」 「2017 四方山話 その参」 「2017 四方山話 その肆」 「2017 四方山話 食事編」 「2017四方山話 体重編」より

最近でこそ、好きな山や関心ある山をタイトルにした山岳ミステリーも読むようになったが、長い間そのジャンルを避けていた私が初めて山岳推理小説に出会ったのは、国語の模擬テストに出題されていた「ある遭難」(松本清張)だった。

「ある遭難」は、テスト中であることを忘れるほど面白く’’受験が終われば、この本を読もう’’と思わせるものだったが、その後、命と誇りをかけて山と岩に挑む実在の登山家の本を読むようになったせいか、山を舞台に色恋や銭金がらみの殺人(故意)が次々起こる山岳ミステリーから遠ざかっていた。

だが、松本氏が「ある遭難」を書いた切っ掛けが「当時頻発していた遭難のなかには、事故ではなく事件があるのではないか、と考えたことにある」と知り、再び「ある遭難」を手に取り、それ以来 山岳ミステリーも読むようになったものの、未だに多少の違和感と苦手意識を持っている。

その違和感と苦手意識の理由を、美しい山に物騒な事件を持ち込む事に対しての拒否感だと長年思っていたのだが、「一ノ俣殺人渓谷」(梓林太郎)の後書き(板垣亮平)を読み、そうとばかりは云えないことに気が付いた。と同時に、なぜ「ある遭難」が、山岳推理小説にもかかわらず違和感なく読めたのかも、理解できた。

板垣氏は山岳ライターにして推理マニアだというが、その板垣氏をして『巷間さも難しそうに言われている’’完全犯罪’’というやつも、山ではいとも簡単にできてしまうのである。それだけに、山を舞台にした推理小説というのは難しい』と書かせるのは、そもそも山は滑落・落石・雪崩など危険要素を含んでいるからだ。
それらを利用すれば、簡単に事故を装った殺人ができてしまうにも拘らず、それが自然現象なのか人為的なものかの区別は難しいし、山では密室状態も作出しやすい。
このような特徴をもつ山ゆえに、『設定にそぐわない凝った仕掛けは逆にリアリティの欠如とされてしまう』ため、仕掛けの塩梅が難しいのだ。

様々に工夫されエンターテイメント―性に富んだ山岳ミステリーが、面白くも何処か興ざめな感があるのは、板垣氏の云う「リアリティの欠如」のせいだと思われるのだが、「ある遭難」の手法(未必の故意)には、ゾワリとしたリアリティがある、これこそがテスト中であることを忘れさせたほどの面白さも理由だったのだと、あれからウン十年たって分かった気がしている。

ところで山岳ライターである板垣氏は、もう一つ山岳推理小説の難しさを書いている。
それは、『登山者という人種は妙にマメで、自分の山行記録をしっかるつけている人が多い』ことにある、そうだ。
作家がいいかげんな描写をすると「この季節の〇〇尾根は、こんな感じじゃない。この作者はガイドブックだけ見て書いたんじゃないか」などという指摘(苦情)があったりするそうだ。

私はと云えば、初めて涸沢まで登った時から、とりあえず(自分の)コースタイムを記しただけの山行記録はつけているものの、歩くだけで精一杯で、「この季節の○○尾根は」などと云々する余裕など全くない。
そんな私が撮ってきた、2017年お盆の頃の、上高地~奥穂の植物と生き物の写真は、次回へつづく