何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

良くしようと思わぬこと

2017-09-18 23:58:55 | 
今日が「敬老の日」だと分かりながら、このタイトルの本について書くのは、少々不敬なのだろうか。
「老乱」(久坂部羊)

医師でもある久坂部氏の作品と云えば、「不要な部分は切断してしまえ」という「廃用身」や、高齢者医療費に耐えかねた国と医療現場が偽ぴんぴんコロリ(薬)で医療費削減を謀ろうとする「破裂」に見られるように、銭金と効率を第一にした医療を描くことが多かったように思われる。
久坂部氏としては、そこにアンチテーゼの意味合いをもたせておられたのかもしれないが、設定が奇抜すぎる為、考えがそこに至らぬまま読み終えてしまうことが、私にはあった。
そんな久坂部氏も、最近では穏やかな作品も多くなっていたので、本書のタイトルを見た時には、先祖返りされたのかと思ったのだが・・・・・。

本の帯はまず、「他人事ではありません」と読者を脅す。
『他人事ではありません
 老い衰える不安をかかえる老人、介護の負担で つぶれそうな家族。
 地獄のような日々から、やっと一筋見えてきた親と子の幸せとは・・・・・。』

本書は、(最終的には)レビー小体型認知症になる父・幸造と その息子夫婦が、途惑い苦しみながら老いと介護に向き合っていく物語だが、読む側の状況により、気になる箇所や感想がまったく異なることに気付いたのは、「敬老の日」を前に本書を読みなおしたから、というよりは、気がかりなことが生じてきたからだと、思う。

発売から間もない時期(’16年末)に読んだ時には、本書でも取り上げられている ・高齢者ドライバーによる事故や ・「認知症JR列車事故」のニュースの社会的側面が気になったものだった。

・高齢者ドライバーの過失で落ち度のない人命が失われる事故が頻発しているからだろうか、数年内には自動運転車が一般道を走るようになりそうだが、仮に自動運転で走行中に事故が起こると、それは自動車会社の責任なのか、あくまで運転席に乗っていた人の責任なのか、という問題が生じるという点が気になった。

・本書で取り上げられていた もう一つの事例「認知症JR列車事故」は、最高裁まで争われたこともあり社会問題化したが、未だに私のなかで答えは出ていない。
確かに、認知症の夫(91)の夫の介護に疲れ果てている妻(93)と その長男(65)に、徘徊の末に線路に立ち入り電車の運行に支障をきたさせた夫(父)の監督義務責任を問うのは、心情的に酷だ。まして本事例では、夫(父)は事故により亡くなっているので尚更だ。だが、事故により生じた延着や振り替え輸送の費用を、同様の事故の度に鉄道側が負うとなれば、鉄道料金に付加されることになるだろうモノの全てを互助の精神で割り切れるのか、という点も気になった。

とにかく初めて本書を読んだ時には、私にとって、老いも介護も社会問題の一つだった。
だから、本書の父がボケたくない一心で、毎日つける日記で漢字書き取りをしている場面も、感心はすれども切実感は薄かった。

だが、御大の目の手術がそうそう思わしくない状況にある現在読み返すと、若い者に迷惑をかけたくないと必死に健康管理に気をつかう父・幸造の切実な思いと、認知症による問題を起こす前に手を打たねばならないと焦る息子夫婦の両方の気持ちが、よく分かる。

長年一家の大黒柱であった威厳やプライドを守りたい父と、父のボケを受け入れたくない息子と 問題を起してからでは遅いと焦る嫁(息子の妻)と。

父が自らの老いを認めようとしない間にも、息子夫婦が父の認知症を疑いながらも手を拱いている間にも、その症状は進んでいく、失火・徘徊(迷子)・交通事故に、暴言暴力・妄想や奇行が現れるに到り、ついに息子夫婦は、父の家を売った資金で介護施設の入居を決めるが、そこでも父は様々なトラブルを起こし居づらい状況に追い込まれる。

徐々に記憶のない時間が増えていっている事、記憶のない間に数々の恥ずかしい行為をしている事を、ふと我に返った時に気付いてしまい、父・幸造は、死にたいと願うほど追いつめられていく。
一方、息子夫婦も、父の妄想や奇行だけでなく、子供の受験に介護費用の資金繰りに疲れ果ててしまうのだが、それでも何か努力すれば認知症が改善するのではないかとも思ってしまい、更に追い詰められていく。

そんな時に息子夫婦が出会った認知症の専門医のアドバイスは、心に留めておくべきだと思う。

その1、認知症患者から、かつて受けた恩を思い出し、感謝の気持ちで接すれば、良好な関係が築ける・・・
ーらしいーというのは、自分自身は介護経験がないので分からないが、長く本当に長く介護している人の体験談を伺うに、そのような事で耐え忍べるほど生易しいものではないように、私には思われる。

その2、道徳の教科書のようなアドバイス1だけ聞かされれば、思わず反発も生じるが、認知症の認知症たる所以が分かれば、その理屈も受け入れやすい。
つまり、認知症の人は、言われた事や注意された内容は忘れてしまうが、その時の 悔しいとか怒られて怖かったという感情は覚えている。そういう記憶が溜まってくると、理由も分からず不愉快になり問題行動を起こしやすい。だがその逆に、褒められたり感謝されたりすると、中身は忘れてもいい気分は残るので、自分を受け入れてくれている人とのいい関係を維持しようという本能が働くため、問題行動にブレーキがかかる・・・
ーらしいー理屈は分かるが本当だろうか?

その3にして一番重要 (『 』「老乱」より引用)
『良くしようと思うなら、そう思わないほうがいいということも、世の中にはたくさんある』
つまり、『認知症を治そうとは思わず、受け入れること』。
ここで云う<受け入れる>とは、病としての認知症を受け入れるだけでなく、認知症の人を、尊厳ある一個人として(家族として)受け入れるということ。


これらのアドバイスを受け入れ実践することが どれほど難しいかは容易に想像がつくが、しっかと心に留めておきたいと思う、敬老の日であった。
ところで、この本への印象を変えた御大の目の具合だが、一進一退といった調子で手術の効果が思ったようには上がっていない。
仕事にしろ趣味にしろ、そのほとんどを目に頼ってきた御大が、目に大いなる不安を持つことが、どれほど精神面に影響を与えているか、また脳への刺激をどれほど減退させているかは、家族皆が心配しているところだが、御大自身はラジオから情報をとることで時勢に遅れまいとし、音楽は これまでの邦楽一辺倒からクラッシックにまで範囲を広げ、それなりに楽しみを見つけようと努力している。

老いを加速しかねない体調の変化に、多少は抗う努力はしながらも、受け入れる準備が必要だと思う、秋の一日であった。


追記
本書の父・幸造がボケ封じにと認める漢字書き取りが、スゴイ!
部首を決めて10個漢字を書くという この書き取り、自分でも試してみたが、草冠や糸へん10個は難しくはない、しんにょう・まだれ も大丈夫だが、土へん になるとスラスラとは浮かんでこない。

これを日々日課に頑張ってきた幸造の日記が、最後の頃には促音など正確に書けず、たどたどしく書きなぐるものとなる。
『人にめいわくをかけないよう、できるだけがんばて、とおもてきたが、まちがていたらしい。
 トシヨリは動かないほうが、いいらしい。
 寝たきりになたほうが、みんなヨロコブ。・・・』
『まいにち イヤなことばかり つらい
 いきるイミない アカサタナ ハマヤラワ ヘノヘノモヘジ
 消えてしまいたい しにたい・・・』

「アルジャーノンに花束を」(ダニエル・キイス)の手法を思い出させる幸造の日記だが、外からは窺い知れない認知症の人の心のうちの一端を垣間見ることができ、切ない。

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