何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

それぞれの、君 ②

2019-06-16 17:00:00 | 
「それぞれの、君 ①」より
竹ではないが、たとえば夏野菜を育てない庭は夏にはあらじ 今年の初収穫


「この君なくば」(葉室麟)

本の帯より
勤皇佐幕で揺れ動く九州・日向の伍代藩―。軽格の家に生まれた楠瀬譲は、恩師・桧垣鉄斎の娘・栞と互いに惹かれあう仲であった。蘭学に秀でた譲は、藩主・忠継の密命で京の政情を探ることとなる。やがて栞の前には譲に想いを寄せる気丈な娘・五十鈴が現れるが―。激動の幕末維新を背景に、懸命に生きる男女の清冽な想いを描く傑作長篇時代小説。

本書は、登場する歴史上の人物や実在の藩の記述が史実に合致するのかについて曖昧さがあるし、その曖昧さを利用してえげつない剣権謀術数を書くのかといえば そうでもないので、生意気を云うのを許して頂けるなら、幕末時代物としては少々物足りない。また本書は、一見時代に翻弄される恋愛モノのようだが、めくるめくスペクタクルがあるわけでもなく、予定調和のなかで物語が進むので、恋愛モノとしても少々物足りない。
だが、そこは流石に「我々には葉室麟がいる」というキャッチフレーズが生まれるだけのことはあり、どれほどの激動の時代であっても人々の営みや大切なものは普遍であると教える葉室麟氏の物語は、一服のお茶のように人心地つかせてくれる。

幕末時代物というと、有名どころの多くが佐幕派ゆえの苦しみや倒幕派らしい猛りをキッパリと描いているように感じるが、本書のように 実はどちらに付くのが有利かと様子見をしていた勤王佐幕派も多い。
本書は、そんな藩主に取り立てられた、軽格ではあるが国学・蘭学・和歌を学んだ楠瀬譲が主人公で、彼を通して読者は、治世と尊王について考えることになる。
藩お抱えの儒学者は、「天下は天朝の天下にして、ひとりの天下なり」としたのに対し、国学者(譲の恩師)は「天下はひとりの天下に非ず、天下の天下なり」とする。
だが、こう書いたからといえ、本書「この君なくば」の「君」は天皇でも徳川でもない。

「この君なくば」は「晋書」王羲之伝にある「何ぞ一日も此の君無かるべけんや」 からとったもので、「此君」とは竹の異称である。

主人公・譲が国学を学んだ此君堂の茶室の床の間には、竹をこよなく愛した恩師の手による掛け軸「竹葉々(ようよう)清風を起こす  清風脩竹(しゅうちく)を動かす」 が掛けられていた。
そんな恩師の口癖「この君なくば、一日もあらじ」が本書のタイトルとなっている。
あくまで、「この君なくば、一日もあらじ」の君は「竹」であり、主人公にとっては愛する人(恩師の娘、後に妻とする)なのだ。

もちろん、譲が倒幕佐幕の情報収集に関わる過程で、「この君なくば」の言葉が効果的に用いられるので、「君」に色々ものを見ながら読むこともできるが、そんな一辺倒な見方にもっていかない処に、「我々には葉室麟がいる」と言わしめるものがあるのだと思う。

こうしてみると、「君が代」も(歴史的経緯は様々あれど)、それを人々が口ずさむとき思い浮べるのは、愛するものなのではないだろうか。

自分のこの26年を思い出すと、そこにはいつも心をこめて応援してきた方がいる。
そんな思いも、本書のタイトルはやはり再確認させてくれたが、それと同時にワンコの日に本書をお告げしてくれたワンコの大きな存在もある。

ねぇワンコ
ワンコが天上界の住犬になって三年と五ヶ月が過ぎようとしているけれど、今も私にとっては、
ワンコ 君なくば一日もあらじ だよ ワンコ
季節は移ってしまったけれど、
ワンコが楽しんだ庭のシャクヤクが今年は綺麗に咲いたんだよ

それぞれの、君 ①

2019-06-16 11:17:35 | 
注、6月9日に書き始めたが今週もバタバタしており、今日に至る。

ワンコが、令和を迎えて初めてのワンコの日のためにお告げしてくれた本。
タイトルからして、まさにワンコのことだと思い一気読みしたのだが、この一月を振り返り6月9日やっとその本について書くことができることを思うと、ワンコがそこに色々な想いをこめてくれたのだと信じることができる。

「この君なくば」(葉室麟)
梅花空木 花言葉 気品

大きな盛り上がりをみせている令和へのお代替わりから一月たった今日6月9日は、
天皇皇后両陛下の26回目の御成婚記念日だ。

男児を産む機械のみ評価される世界で「弟が天皇になる日」だの「皇太子様 御退位なさいませ」だの「笑わない愛子様」だのとバッシングされ続けた両陛下と敬宮様を応援し続けた26年を思う時、お代替わりから一月 多くの国民の大歓迎の声は、自分のことのように嬉しい。
初めて皇太子妃候補として雅子様のお名前を知ったのは、まだ小学生か中学生の頃だったと思うが、あの時はその能力に尊敬の念を抱き、このような方にこそ皇太子妃になって頂きたい、と子供心に思ったものだった。
御成婚は、大学生の時だったが、新しい時代の新しい夫婦像と雅子妃殿下の美しさに憧れを抱いたものだった。
だが、その能力は全く活かされることなく、新しい家庭像は陋習に絡め取られ、ひたすら男児を産むことだけを期待され苦しまれる日々が始まった。
苦しい日々も、知性に裏打ちされた愛情で支え合ってこられたご夫妻に待望のお子様が誕生されても、それが男児でないと云う理由だけで蔑にされ、ついに心を病んでしまわれた。
病んで尚降りかかる、見ているだけの者すら心折れさせるようなバッシングの数々を思い出すとき、御即位の盛り上がりとともに御成婚記念日を迎えられたことは奇跡のようで、嬉しい。

我が家はもともと皇室を大切に想う家風ではあったが、そこは現代っ子でもあり、子供時代にさほど関心を持っていたわけではなかったが、それでも徳仁親王殿下に常ならぬ特別なものを感じていたところに、美しさと能力という分かりやすい点において比ぶべき者なき女性を迎えられたことで、皇室への憧憬の念は高まった。
だが、それが人としての品格やお人柄への敬愛の念に変わったのは、ご自身がどれほど苦しい時であっても決して他者を責めず一切を引き受け、静かに研鑽を積んでおられることが、知的で穏やかな佇まいから伝わってきたからだ。

そしてお代替わりを迎え、ようやっと多くの人がそれに気づき(いや、もしかするとほとんどの人々はそれと分かりながら、声を上げるのが憚られてきたのかもしれない、そうさせる恐ろしい空気が平成の世には渦巻いていた)大歓迎の声を上げ始めた。

両陛下と敬宮様を応援し続けてきた26年以上の日々を思い出すとき、ワンコがお告げしてくれた本のタイトルは、私に格別な意味を持ってくる。

「この君なくば」(葉室麟)

こう書くと、おそらく「君が代」を好ましからざるものとする人々から反発を喰らうであろうが、幕末時代ものの本書においてであっても、「君」は天皇でも徳川でもない。
それについては又つづく

・・・こう書きつつ、令和の八つ橋。
京都に行くと必ず買う聖護院の八つ橋。先月末土産売り場に鎮座していたのは令和パッケージだった。
 
修学旅行と思われる中学生たちが「英語がペラペラのハーバード大卒の皇后ってカッコイイ!自分も、地味に英語頑張ろうって思ったわ」と言いながら、お土産に令和八つ橋を買っていたのが微笑ましく、私も。
次代を担う子供たちが両陛下に憧れる理由が知性であることが、嬉しい。

つづく