「それぞれの、君 ①」より
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「この君なくば」(葉室麟)
本の帯より
勤皇佐幕で揺れ動く九州・日向の伍代藩―。軽格の家に生まれた楠瀬譲は、恩師・桧垣鉄斎の娘・栞と互いに惹かれあう仲であった。蘭学に秀でた譲は、藩主・忠継の密命で京の政情を探ることとなる。やがて栞の前には譲に想いを寄せる気丈な娘・五十鈴が現れるが―。激動の幕末維新を背景に、懸命に生きる男女の清冽な想いを描く傑作長篇時代小説。
本書は、登場する歴史上の人物や実在の藩の記述が史実に合致するのかについて曖昧さがあるし、その曖昧さを利用してえげつない剣権謀術数を書くのかといえば そうでもないので、生意気を云うのを許して頂けるなら、幕末時代物としては少々物足りない。また本書は、一見時代に翻弄される恋愛モノのようだが、めくるめくスペクタクルがあるわけでもなく、予定調和のなかで物語が進むので、恋愛モノとしても少々物足りない。
だが、そこは流石に「我々には葉室麟がいる」というキャッチフレーズが生まれるだけのことはあり、どれほどの激動の時代であっても人々の営みや大切なものは普遍であると教える葉室麟氏の物語は、一服のお茶のように人心地つかせてくれる。
幕末時代物というと、有名どころの多くが佐幕派ゆえの苦しみや倒幕派らしい猛りをキッパリと描いているように感じるが、本書のように 実はどちらに付くのが有利かと様子見をしていた勤王佐幕派も多い。
本書は、そんな藩主に取り立てられた、軽格ではあるが国学・蘭学・和歌を学んだ楠瀬譲が主人公で、彼を通して読者は、治世と尊王について考えることになる。
藩お抱えの儒学者は、「天下は天朝の天下にして、ひとりの天下なり」としたのに対し、国学者(譲の恩師)は「天下はひとりの天下に非ず、天下の天下なり」とする。
だが、こう書いたからといえ、本書「この君なくば」の「君」は天皇でも徳川でもない。
「この君なくば」は「晋書」王羲之伝にある「何ぞ一日も此の君無かるべけんや」 からとったもので、「此君」とは竹の異称である。
主人公・譲が国学を学んだ此君堂の茶室の床の間には、竹をこよなく愛した恩師の手による掛け軸「竹葉々(ようよう)清風を起こす 清風脩竹(しゅうちく)を動かす」 が掛けられていた。
そんな恩師の口癖「この君なくば、一日もあらじ」が本書のタイトルとなっている。
あくまで、「この君なくば、一日もあらじ」の君は「竹」であり、主人公にとっては愛する人(恩師の娘、後に妻とする)なのだ。
もちろん、譲が倒幕佐幕の情報収集に関わる過程で、「この君なくば」の言葉が効果的に用いられるので、「君」に色々ものを見ながら読むこともできるが、そんな一辺倒な見方にもっていかない処に、「我々には葉室麟がいる」と言わしめるものがあるのだと思う。
こうしてみると、「君が代」も(歴史的経緯は様々あれど)、それを人々が口ずさむとき思い浮べるのは、愛するものなのではないだろうか。
自分のこの26年を思い出すと、そこにはいつも心をこめて応援してきた方がいる。
そんな思いも、本書のタイトルはやはり再確認させてくれたが、それと同時にワンコの日に本書をお告げしてくれたワンコの大きな存在もある。
ねぇワンコ
ワンコが天上界の住犬になって三年と五ヶ月が過ぎようとしているけれど、今も私にとっては、
ワンコ 君なくば一日もあらじ だよ ワンコ
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竹ではないが、たとえば夏野菜を育てない庭は夏にはあらじ 今年の初収穫
「この君なくば」(葉室麟)
本の帯より
勤皇佐幕で揺れ動く九州・日向の伍代藩―。軽格の家に生まれた楠瀬譲は、恩師・桧垣鉄斎の娘・栞と互いに惹かれあう仲であった。蘭学に秀でた譲は、藩主・忠継の密命で京の政情を探ることとなる。やがて栞の前には譲に想いを寄せる気丈な娘・五十鈴が現れるが―。激動の幕末維新を背景に、懸命に生きる男女の清冽な想いを描く傑作長篇時代小説。
本書は、登場する歴史上の人物や実在の藩の記述が史実に合致するのかについて曖昧さがあるし、その曖昧さを利用してえげつない剣権謀術数を書くのかといえば そうでもないので、生意気を云うのを許して頂けるなら、幕末時代物としては少々物足りない。また本書は、一見時代に翻弄される恋愛モノのようだが、めくるめくスペクタクルがあるわけでもなく、予定調和のなかで物語が進むので、恋愛モノとしても少々物足りない。
だが、そこは流石に「我々には葉室麟がいる」というキャッチフレーズが生まれるだけのことはあり、どれほどの激動の時代であっても人々の営みや大切なものは普遍であると教える葉室麟氏の物語は、一服のお茶のように人心地つかせてくれる。
幕末時代物というと、有名どころの多くが佐幕派ゆえの苦しみや倒幕派らしい猛りをキッパリと描いているように感じるが、本書のように 実はどちらに付くのが有利かと様子見をしていた勤王佐幕派も多い。
本書は、そんな藩主に取り立てられた、軽格ではあるが国学・蘭学・和歌を学んだ楠瀬譲が主人公で、彼を通して読者は、治世と尊王について考えることになる。
藩お抱えの儒学者は、「天下は天朝の天下にして、ひとりの天下なり」としたのに対し、国学者(譲の恩師)は「天下はひとりの天下に非ず、天下の天下なり」とする。
だが、こう書いたからといえ、本書「この君なくば」の「君」は天皇でも徳川でもない。
「この君なくば」は「晋書」王羲之伝にある「何ぞ一日も此の君無かるべけんや」 からとったもので、「此君」とは竹の異称である。
主人公・譲が国学を学んだ此君堂の茶室の床の間には、竹をこよなく愛した恩師の手による掛け軸「竹葉々(ようよう)清風を起こす 清風脩竹(しゅうちく)を動かす」 が掛けられていた。
そんな恩師の口癖「この君なくば、一日もあらじ」が本書のタイトルとなっている。
あくまで、「この君なくば、一日もあらじ」の君は「竹」であり、主人公にとっては愛する人(恩師の娘、後に妻とする)なのだ。
もちろん、譲が倒幕佐幕の情報収集に関わる過程で、「この君なくば」の言葉が効果的に用いられるので、「君」に色々ものを見ながら読むこともできるが、そんな一辺倒な見方にもっていかない処に、「我々には葉室麟がいる」と言わしめるものがあるのだと思う。
こうしてみると、「君が代」も(歴史的経緯は様々あれど)、それを人々が口ずさむとき思い浮べるのは、愛するものなのではないだろうか。
自分のこの26年を思い出すと、そこにはいつも心をこめて応援してきた方がいる。
そんな思いも、本書のタイトルはやはり再確認させてくれたが、それと同時にワンコの日に本書をお告げしてくれたワンコの大きな存在もある。
ねぇワンコ
ワンコが天上界の住犬になって三年と五ヶ月が過ぎようとしているけれど、今も私にとっては、
ワンコ 君なくば一日もあらじ だよ ワンコ
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季節は移ってしまったけれど、
ワンコが楽しんだ庭のシャクヤクが今年は綺麗に咲いたんだよ
ワンコが楽しんだ庭のシャクヤクが今年は綺麗に咲いたんだよ