何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

まっとうとは何か

2019-07-02 12:21:47 | 
「我が家のドクター・ワンコ」より

「ぼーっと生きてんじゃ」ないつもりだが、たいして事は進んでいないにも関わらず、絶えず何かに追われているような忙しさで、気の休まることがない日々を過ごしている。
ようやっと一仕事区切りがつき、今週は久々にフリーな時間ができたので、本を読み感想も記しておくぞ、と思ったのだが、疲れがどっとでて扁桃腺は腫れるわ、パソコンの調子も悪いわ、でブログに向かえないでいた。

新たな本の感想どころか、先月ワンコがお勧めしてくれた安楽死を扱った「ドクター・デスの遺産」(中山七里)の感想が中途半端なままになっているのは、忙しさのせいもあるが、自分にとっては当然アリな尊厳死と安楽死であっても、自分の判断で誰かに適用させることができるだろうか、という問いに自分自身答えがでないため、書きあぐねていたのだ。
もちろん、安楽死は名古屋高裁が示した6要件を満たさなければ犯罪なので、自分の判断で誰かに適用させること云々を考えることは、法的には意味がなく、ましてそれをネットで知った安楽死請負人に任せるなどというのは論外なのだが、それでも、耐え難い病苦から逃れたい患者とそれを見かねた家族が安楽死を選びたくなるのは十分すぎるほど理解できる。
だから、安楽死請負人を追う刑事の一人が、安楽死を安楽死の法整備の隙を突いての単純な?連続殺人者だと決めつけるのには違和感を感じるのだが、だからといって、母の介護に疲れ安楽死を依頼した人の「長年税金や保険を払ってきても、国や警察は何もしてくれなかった。安楽死請負人を追ってる警察よりも、安楽死によって介護問題を解決させている犯人の方が有能だ」という言い分にも安易に肯けないものがある。

考えがまとまらないまま、忙しさにかまけて考えることを止めていたのだが、楽しみにしているシリーズものの最新刊を読み、安楽死ではないが、人生の終い方について考えさせられている。

「検事の信義」(柚月裕子)

本書は検事・佐方貞人を主人公とするリーガルミステリーで、累計40万を突破する人気のシリーズものだ。
検事・佐方の信念は、時に検事バッジの秋霜烈日より厳しいが、「罪を裁いて人を裁かず」という有り得ない事を現実のものとする。
そんな佐方の信念が、『罪はまっとうに 裁かれなければならない』というものだ。
四話からなる本書でも、佐方の信念は何度も繰り返し書かれているが、四話の「信義を守る」での佐方の論告は、人生の終い方と罪について深く考えさせるものだった。

認知症の母の介護のため都会から田舎に戻った息子が、介護のために仕事に就けず生活に困窮し介護に疲れ、最後には母を殺し逃亡しようとした事件の公判を、佐方が担当した。
発売から間もないミステリーでもあるし、本書の内容の重みを考えると、こんなところでネタバレしたくないので、ミステリーとしての結論は書かないが、ある事件を思い出させた。
それは確か、長年献身的に妻の介護をしてきた夫が、自らも年を重ね介護が難しくなり、ついに妻を殺してしまったというものだった。
夫の献身的な介護を知っている者たちが募った減刑嘆願は相当な数に上り、殺人(刑199)としては異例の執行猶予がついた判決だった。
夫は、釈放されたその日から減刑嘆願に署名してくれた人々を一軒一軒訪ね、お礼を述べて回った。
そうして、すべての人へのお礼が済んだあと、夫は妻のもとへ行くべく自殺してしまったのだ。

本書の「信義を守る」を読み、この事案を思い出した。(『 』「検事の信義」より)

時に、何が罪なのかわからないことがある。
その罪を、咎めることができないと誰もが感じることもある。

それでも、『罪をまっとうに裁かせる。それが、私の信義です』と言い切る佐方は、何を根拠に「まっとう」を判断するのか。
『人には感情があります。怒り、悲しみ、恨み、慈しみ。それらが、事件を引き起こす。事件を起こした人間の根底にあるものがわからなければ、真の意味で事件を裁いたことにならない』という言葉に続け、佐方は言う。

『なぜ、事件が起きたのかを突き止め、罪をまっとうに裁かせる。
 それが、私の信義です。』

自己弁護をしないままに汚名にまみれて死んだ弁護士の父をもつ佐方は、事件と罪に全身全霊で対峙し、その根っこを見誤ることは決してない。
だが、凡人はそうはいかない。
だから、先のドクター・デスを逮捕した刑事は、『犯人は捕まえたが、罪を捕まえられなかった』(「ドクター・デスの遺産」より引用)と悩み続ける。
また、凡人が何を「まっとう」とするかの判断を少し違れば、それは独善と紙一重のものとなる。
そんな危険を、ドクター・デスを追う刑事の一人は『手前てめえの行いを正義だと信じ込んでヤツは 大抵阿呆あほうだ』と警告しているのだと私は思う。

というわけで、凡人の私は、下手な結論は出さずに、人生の宿題として考え続けるしかないと思っている。
願わくば、心から信頼できる医師に出会い自然の流れに導いてもらいたい、そう思うのは、宿題をし損なった無責任な最期なのだろうか。