日曜の夜8時が待ち遠しい、この一年だった。
最終回の今日、自分はやはり信長が好きなのだということに改めて気づき、この一年は何だったのだろうかと、気を悪くしている自分に驚いている。
名古屋城の掛け軸
三年前 熱田神宮をお参りした頃、「信長と秀吉と家康の誰が好き?」と問われ、殺されてしまいそうな自分を恥じ、小さな声で「家康かな」と答えたが、この最終回を見て、やはり「信長かな」という思いがふつふつと湧いている。
信長に、「是非に及ばず」と言わしめた光秀なのだから、抜きんでるものはあったのだろう。
だが、光秀を主人公に据えたがために、少し客観的史実を歪めてはいないだろうか。
信長が非道だと言われれば、そうかもしれないが、その非道の多くに光秀は率先して加担し、手柄をたて、城持ちにまで取り立ててもらっている。それを、いつのまにか信長一人の狂気にし、実戦部隊の光秀は実は平和を願う温厚な人だったと描くのは、違うだろう~~~。
もし、本当にそのような側面があるのなら、本能寺の変のあと、京の町衆は光秀についたのではないか。
しかし、実際にはそうはならず、山崎の戦いの後 落武者狩りに遭い死んだことになっている。
仮にそうではなく、日光あたりで裏から手を引いていたとしても、その生存を隠し裏から指南するという体をとるしかなかったのであれば、やはり本作のような、上から下まで全ての人に「麒麟を連れてこれる人」と信頼されるような人物ではなかったのではないだろうか。
信長が非道で狂気に取りつかれていて、それ故誰かが始末しなければならなかったのだとしたら、「よろず、作った者がその始末をなす他あるまい」は正論で、光秀は適任者かもしれないが、その後押しをするのが、濃姫というのは、違うだろう~~~。
百歩譲って、濃姫のこのセリフをさらに生かすなら、多く書物で採用されている通り、濃姫は本能寺で信長と最期を共にするべきだったと思うのだが。
それでこそ、自身の「よろず、作った者が始末をなす他あるまい」の言葉に重みが増すというもの。
大っぴらな冷酷非情より、小細工を施す裏切り者のほうが許せないのか?という問いは、難しいものがあるが、最終回が終わったばかりの今、やはり自分は信長が好きなのだと改めて気づいた。
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり(敦盛)
タイトルの「ちがうだろう」は一頃世間を賑わした暴言の一つなのだが、最近あれやこれやを目の当たりにするたび、心の中で「ちがうだろう~~~」と叫ぶ自分がいる。
まさか楽しみにしていた「麒麟がくる」の最後にまで、この言葉を投げかけなければならないとは思いもしなかったが、それでこそ桔梗の紋を主人公にした面目躍如???というものかもしれない。