何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

死神の悪手

2021-11-30 23:42:42 | ニュース
これも時間マジックを使うので、ニュースの内容と固有名詞は曖昧に、でも事実はそのままに。
五冠がかかった対局が始まった。将棋のことは何も分からないのだが、一局目前半のある一手について解説をしている9段が、これは彼だから何も言われないけれど10年前に普通の人が指したら怒鳴られるような手だと話した。
時代が定石を変えていくのか、人がそれを変えていくのか
もし10年前普通の人が指したそれを認めていたら、その世界は進化したのか?
それとも、10年の年月は必要だったのか?
だが、人によってはアリとなるのなら、もしかすると埋もれてしまった才能は多くあるのかもしれない。
 
 
私は将棋をしないので、本当のところは何も分かっていないのだろうが、高校の卒業式で、人生を将棋の駒に例えての訓示を聞いて以来、棋譜の一つも分かりもしないくせに、将棋を扱う本は読むようにしてきた。
 
「神の悪手」(芹沢央)
本の帯より引用
『26歳までにプロになれなければ退会――苛烈な競争が繰り広げられる棋士の養成機関・奨励会。リーグ戦最終日前夜、岩城啓一の元に対局相手が訪ねてきて……。追い詰められた男が将棋人生を賭けたアリバイ作りに挑む表題作ほか、運命に翻弄されながらも前に進もうとする人々の葛藤を、驚きの着想でミステリに昇華させた傑作短篇集』
 
将棋の世界は途轍もなく厳しく、そのほとんどが苦悶と挫折の物語だ。

「兄は頭が悪かったので将棋を続けることはできず、東大に行くしかなかった」と言った(とか言わないとか)名人もおられるそうだし、谷川浩司棋士のご兄弟は「自分は弟のように強くないから奨励会には入れず(入らず)東大に行った」と言われているほどに、棋士への道は険しい。(灘中灘高から東大に進んだ兄と同様の成績だった谷川少年は、灘へ進むか奨励会へ入るか迷われたという)

というような東大など歯牙にもかけないような頭脳 同士が争うのだから、勝負そのものが高度なのはもちろんだが、それほどの頭脳集団が他のすべてを犠牲にして将棋にかけても、年齢制限という抗うことのできない壁も厳然とある。
 
そのうえ将棋は自ら「負けました」と投了しなければならない。
 
棋譜の一つも読めないけれど、物語であっても将棋の世界を垣間見たくなるのは、他の何を犠牲にしてもいいと努力したことがあるからかもしれない。
目標の諦め方が分からない苦しみを知っているからかもしれない。
だから、棋譜の一つも読めないけれど、倦むような苦しみだけはよく分かる。
 
どれほど努力しても4段にあがれそうにない。
そして年齢制限は確実に迫ってくる。
そんな切羽詰まった日々、思うこと、突きつけられること。
(『 』「神の悪手」より引用)
『ただ、時折聞こえる「戦争」という言葉に興奮した。日本も無関係ではいられなくなるのだという議論に身を乗り出した。
もし大変なことになったら、という夢想は、彼の心を惹きつけた。それは具体的ではないからこそ、甘く柔らかく、口の中で転がすことができた。』

『将棋は彼の弱い部分ばかりを浮き彫りにした。踏み込むべきところで躊躇ってしまう臆病さを、限界を超えて考え尽くせない胆力のなさを、既にあるものを小器用に組み合わせて取り繕うことしかできない凡庸さを。
負けましたと口にするたびに、少しずつ自分が殺されていくのを感じた。費やしてきた時間、正しいと選び取ったこと、自分を自分たらしめるものが、剥ぎ取られていった。』
 
少し前に読んだ将棋の本「死神の棋譜」(奥泉光)にも、負けを認める苦しさが書かれていた 『―負けました。これをいうのは人生で何度目だろう』
 
自ら負けを認めることほど苦しいことはないが、負けを認めるという高度な精神性とは別の次元の、負けを知ることの難しさ、というものがある。
 
これは以前も書いたことがあるかもしれないが、子供の頃にテレビで見た、棋士と芸人さんの対決だ。
名のある棋士だったと思うが、棋士は飛車角落ちどころではない手駒で芸人さんと戦ったいた。
勝負がはじまり程なく、棋士は困った顔をし始めた。
一方の芸人さんは したり顔で指し続けている。
さすがの棋士さんも手駒が少なすぎて戦うことができないのかと子供心に思っていたら、違ったのだ。
もうとっくに芸人さんは詰んでいるのに、それに気づかず得々と指すのを止めないので、困っていたのだ。
その時子供ながらに、負けていることに気づくにも知恵がいることを、知った。
 
棋士もまた将棋の世界の駒の一つだとしたら、勝つ駒負ける駒ともに知恵と度量があるからこそ、その世界は高潔さを保たれている。
 
だが、あれから随分 時が経ち、世間は負けが分からないまま調子こいてるものや、負けを認めるのが嫌で卑怯な手を使うものが跋扈する時代になった。
 
ズルと卑怯が頭になるくらいなら、頭はいらない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
数え始めたら、その暴挙と卑怯とズルと恥知らずにはキリがないのだが、最近のお笑いは、マスコミ報道を含め特にネット上の罵詈雑言には規制が必要とかいう戯言。
めったに言わない言葉を思わず呟いた、おまいう
男児が産めなかったと病む義姉と、女児だと軽んじられる姪と、妻と娘を守る兄を、後ろから前から撃っていたのは誰なのだ。
手駒を総動員して、ネット上で兄の立場を剥ぎ取る活動をさせていたのは誰なのか。
手駒を総動員して、ないことないことマスコミに書かせて兄一家を苦しめ続けた首謀者は誰なのか。
兄の一世一代の儀式にはケチをつけ、自分の家には50億近くも投じる勝手を押し通すのも呆れるが、まだまだ懲りずにまたまた裏から頭2を押し込み、rord to トー台と嘯いている。
そんな恥知らずの頭1と2の立場はゆるがせにしてはないないらしい。
もういいや
このご時世、制度として詰むのは目に見えていた。
それを回避するには、新たな駒に活躍してもらうしかなかったと思う。
だから神は、しなやかな転換のため女児の誕生を続けさせたのではないか
 
だが、
やりたい放題が大手を振る世が確約された今、
もはや心は離れた

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