妻は夫殺害のために医師から手に入れた毒薬を精神安定剤と偽って飲ませようとする。夫に安心して飲んでもらうため、同席した医師に先に試飲して見せて欲しいと頼む。医師は同意する。試飲して見せてからすぐさま家に帰り解毒剤を飲めばよいと考えたからだ。医師が薬剤を飲んだのを確かめて妻の夫もぐいと飲み込む。医師は早く家に帰ろうとして帰路を焦るが毒物成分はみるみるうちに全身を駆け巡り、家にたどり着いた時すでに自分の妻にこう述べてあっさり死んでしまう。
「すぐに妻を呼び、今までの出来事をみんな打ち明け、約束の毒殺料を少なくとも二人分とりたてるように依頼したと見る間に、この名だたる医者は断末魔の苦しみのなか息を吐き出しました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.419」岩波文庫)
最初に約束した定式はこうだった。「即効性のある毒薬」=「五十万セーステルティウス」。しかし死ぬことになる人間が二倍になるので医師は「約束の毒殺料を少なくとも二人分とりたてる」ことを自分の妻に命じて息絶える。だから「即効性のある毒薬」の価値は量的な変化を経ずに二倍になり、今度は「約束の毒殺料」=「百万セーステルティウス」という新しい等価性が打ち立てられた。死刑囚への過程を登っていく妻は夫殺害を果たした後、夫と自分との間にもうけた娘が夫の財産の相続人になることも我慢ならない。しかし同時に殺害するにはもはや毒薬が足りない。夫だけでなく事情を知る医師をも殺害してしまい、手元にはもう毒薬がない。だから妻としてはもう一度、何らかの方法で「即効性のある毒薬」を手に入れる必要がある。
ともかく、夫の葬儀を済ませ喪の期間を終えた。その頃、医師の未亡人が今は二倍になっている「二人分の毒殺料」を請求しにやってきた。そこで元妻は医師の未亡人にいう。「いま自分がとりかかっている仕事をなしとげるには是非ともあの薬が必要」なのだ。ついてはもう少し例の毒薬を持ってきてくれるのなら今すぐにでも「約束の礼金を払う」と堂々と宣言して見せた。妻の家はそこそこ金持ちであるようで、さらに夫殺害後も堂々たる態度と見事な演技とで医師の未亡人をいとも簡単に籠絡してしまった。医師の未亡人は金持ちの女からさらなる貨幣が転がり込むという夢のような創作を聞かされて舞い上がる。
「金持ちの女から好意を得たいばかりに大いそぎで家に帰ると、すぐに毒薬の箱を持ってきて渡しました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.419」岩波文庫)
夫殺害でもはや限度を忘れた元妻は、医師の未亡人と娘との二人に毒薬を飲ませる準備を慎重に整えて、頃合いを計り医師の未亡人を昼食に招待する。娘は子どもでありほとんどすぐさま死ぬ。ところが医師の未亡人は自分の体内にも毒薬が効いてきたとみるや夫殺害に手を染めた元妻の陰謀を見抜き、劇薬の効果が吹き荒れるのに最後の抵抗を示しながら監督官吏の家へ逃れることに成功した。そこですべての詳細を暴露したところでこの未亡人も息絶えた。総督は連続殺人を果たした元妻=女性の家宅捜索に乗り出す。女性の寝室係の女中たちを逮捕しすべての「真相を白状」させた。ところが白状させるために用いた手段は「拷問責め」である。ここで「女中たちによる真相白状」=「拷問責め」という等価性が成立している。ただ、この場合の「拷問」はアプリオリに正しいとはいえず、「女中たちによる真相白状」が達成された時点で始めて「拷問」の正当性を証拠立てる賭博にも似た権力構造が前提されている。拷問すればするほどますます真相へ近づくに違いないという脅迫的自白の構造へと転倒している。
さて、暴力的知-権力装置を用いなくても日々目にする事象を明確化する方法は別に幾らでもある。南方熊楠の方法はまさにその見本を提示してくれる。例えば粘菌に関する次の文章。
「山婆(やまんば)の髪の毛と那智辺で呼ぶ物、予たびたび見たり。水で濡(ぬ)れた時黒く、乾けば色やや淡くなって黄褐を帯び、光沢あり、やや堅くなる。長きは七、八寸また一尺にも及ぶ。杣人などに聞くと、ずっと長いのもあり、と。予が見たるは木の枝に生え垂れ懸かれる状、女の髪のごとし」(南方熊楠「山婆の髪の毛」『森の思想・P.327』河出文庫)
ところが、冒頭部分の「山婆(やまんば)」がいきなり難関なのである。日本に限らず世界中で、少なくとも東アジアからメラネシアに渡る諸地域で、歴史的に「山婆(やまんば)」とはどのような存在だったか。日本書記の中から「伊奘冉尊(いざなみのみこと)」に注目したい。イザナミはスサノオの母である。
「既(すで)にして伊奘諾尊(いざなきのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこと)、共(とも)に議(はか)りて曰(のたま)はく、『吾(われ)已(すで)に大八洲国(おほやしまのくに)及び山川草木(やまかはくさき)を生めり。何(いかに)ぞ天下(あめのした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ』とのたまふ。是(ここ)に、共に日の神(かみ)を生みまつります。大日孁貴(おほひるめのむち)と号(まう)す。大日孁貴、此(これ)をば於保比屢咩能武智(おほひるめのむち)と云(い)ふ。孁の音は力丁反(のかへし)。一書に云はく、天照大神(あまてらすおほみかみ)といふ。一書に云はく、天照大日孁尊(あまてらすおほひるめのみこと)といふ。此(こ)の子(みこ)、光華明彩(ひかりうるは)しくして、六合(くに)の内(うち)に照(て)り徹(とほ)る。故(かれ)、二(ふたはしら)の神喜(よろこ)びて曰(のたま)はく、『吾(わ)が息(こ)多(さは)ありと雖(いへど)も、未(いま)だ若此霊(かくくしび)に異(あや)しき児(こ)有(あ)らず。久(ひさ)しく此の国(くに)に留(と)めまつるべからず。自(おの)づから当(まさ)に早(すみやか)に天(あめ)に送(おくりまつ)りて、授(さづ)くるに天上(あめ)の事(こと)を以(も)てすべし』とのたまふ。是(こ)の時に、天地(あめつち)、相去(あひさ)ること未(いま)だ遠(とほ)からず。故、天柱(あめのみはしら)を以て、天上(あめ)に挙(おくりあ)ぐ。次に月(つき)の神を生みまつります。一書に云(い)はく、月弓尊(つくゆみのみこと)、月夜見尊(つくよみのみこと)、月読尊(つくよみのみこと)といふ。其の光彩(ひかりうるは)しきこと、日に亜(つ)げり。以て日に配(なら)べて治(しら)すべし。故、亦(また)天に送(おく)りまつる。次に蛭児を生む。已(すで)に三歳(みとせ)になるまで、脚(あし)猶(なお)し立たず。故、天磐櫲樟船(あまのいはくすぶね)に載(の)せて、風(かぜ)の順(まにま)に放(はな)ち棄(す)つ。次に素戔嗚尊(すさのをのみこと)を生みまつります。一書に云はく、神素戔嗚尊(かむすさのをのみこと)、速素戔嗚尊(はやすさのをのみこと)といふ」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.34」岩波文庫)
ところが「軻遇突智」(かぐつち)を生むやいなや死ぬ。出産と同時に炎となって焼死する。神話によくある異常出産のエピソードである。
「次に火神軻遇突智(ひのかみかぐつち)を生(う)む。時に伊奘冉尊(いざなみのみこと)、軻遇突智が為(ため)に、焦(や)かれて終(かむさ)りましぬ」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.38」岩波文庫)
「一書(あるふみ)に曰はく、伊奘冉尊(いざなみのみこと)、火神軻遇突智(ひのかみかぐつち)を生まむとする時に、悶熱(あつか)ひ懊悩(なや)む。因(よ)りて吐(たぐり)す。此(これ)神(かみ)と化為(な)る。名(な)を金山彦(かなやまひこ)と曰(まう)す」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.40」岩波文庫)
この箇所にある「金山彦(かなやまひこ)」は鍛冶(かぬち)=鍛冶職人である。製鉄職人なのでどの民族創造神話にも出てくる。鉄製武具の製造。戦争とともにでなければ歴史は始まらないからである。次の文章でも異常出産について述べられているが、地名が具体的なので親切な部分だと言える。
「一書に曰はく、伊奘冉尊、火神を生む時に、灼(や)かれて神(かむ)退去(さ)りましぬ。故(これ)、紀伊国(きのくに)の熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる。土俗(くにひと)、此(こ)の神の魂(みたま)を祭(まつ)るには、花(はな)の時には亦(また)花を以(も)て祭る。又鼓吹幡旗(つづみふえはた)を用(も)て、歌(うた)ひ舞(ま)ひて祭る」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.40」岩波文庫)
なお、この「熊野の有馬村」の祭りは三重県熊野市有馬町の海浜にある「花の窟」(はなのいわや)という巨岩を神体とする熊野の祭り。今も年に二度の例祭が行われる。古来から有名だったようだ。
「み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なる心は思へどただに逢はぬかも」(柿本人麿)
「み熊野の浜木綿(はまゆふ)生ふるうらさびて人なみなみに年(とし)ぞ重なる」(西行)
「三熊野の山ざくらともしら雲の波をかさぬる浦(うら)の浜木綿(はまゆふ)」(正徹)
問題は「山婆(やまんば)」とイザナミとの間に不即不離な関係があるように思われることである。熊楠は山婆について語るとともに「女の髪」についても語っているが、イザナミが山婆としての本領を発揮するのも「髪の毛」に関する道具類を介してである。
「伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、伊奘冉尊(いざなみのみこと)を追(お)ひて、黄泉(よもつくに)に入(い)りて、及(し)きて共(とも)に語(かた)る。時(とき)に伊奘冉尊の曰(のたま)はく、『吾夫君(あがなせ)の尊(みこと)、何(なに)ぞ晩(おそ)く来(いでま)しつる。吾已(われすで)に湌泉之竈(よもつへぐひ)せり。然(しか)れども、吾当(まさ)に寝息(ねやす)まむ。請(こ)ふ、な視(み)ましそ』とのたまふ。伊奘諾尊、聴(き)きたまはずして、陰(ひそか)に湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を取(と)りて、其(そ)の雄柱(ほとりは)を牽(ひ)き折(か)きて、秉炬(たひ)として、見(み)しかば、膿(うみ)沸(わ)き虫(うじ)流(たか)る。今(いま)、世人(よのひと)、夜一片之火(よるひとつびとぼすこと)忌む、又(また)夜擲櫛(なげぐし)を忌む、此(これ)其(そ)の縁(ことのもと)なり」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.43~44」岩波文庫)
スサノオが異常出産を経て生まれている点について。
「一書(あるふみ)に曰く、伊奘諾尊(いざなきのみこと)の曰(のたま)はく、『吾(われ)、御㝢(あめのしたしら)すべき珍(うづ)の子(みこ)を生(う)まむと欲(おも)ふ』とのたまひて、乃(すなは)ち左(ひだり)の手(みて)を以て白銅鏡(ますみのかがみ)を持(と)りたまふときに、則(すなは)ち化(な)り出(い)づる神有(ま)す。是を大日孁尊(おおひるめのみこと)と謂(まう)す。右(みぎ)の手(みて)に白銅鏡を持りたまふときに、則(すなは)ち化(な)り出(い)づる神有(ま)す。是を月弓尊(つくゆみのみこと)と謂(まう)す。又(また)首(みぐし)を廻(めぐら)して顧眄之間(みるまさかり)に、即ち化(な)る神有(ま)す。是を素戔嗚尊(すなのをのみこと)と謂す」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.36」岩波文庫)
同じく。
「然(しかう)して後(のち)に、左(ひだり)の眼(みめ)を洗ひたまふ。因りて生(う)める神を、号(なづ)けて天照大神(あまてらすおほみかみ)と曰(まう)す。復(また)右(みぎ)の眼(みめ)を洗(あら)ひたまふ。因りて生(う)める神を、号(なづ)けて月読尊(つくよみのみこと)と曰(まう)す。復鼻(みはな)を洗ひたまふ。因りて生(う)める神を、号(なづ)けて素戔嗚尊(すさのをのみこと)と曰(まう)す」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.48」岩波文庫)
異常出産は神の出現の予告である。次の箇所は「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)=神武天皇」の出産シーン。焔に満ちた部屋が舞台。
「即(すなわ)ち其(そ)の室(むろ)の中(なか)に入(い)りて、火(ひ)を以(つ)けて室(むろ)を焚(や)く。時(とき)に、燄(ほのほ)初(はじ)め起(おこ)る時に共(とも)に生(う)む児(みこ)を、火酢芹命(ほのすせりのみこと)と号(なづ)く。次(つぎ)に火の盛(さかり)なる時に生む児を、火明命(ほのあかりのみこと)と号(なづ)く。次に生む児を、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と号(まう)す。亦(また)の号(みな)は火折尊(ほのをりのみこと)」(「日本書紀1・巻第二・神代下・第九段・P.146」岩波文庫)
だが神武は東征にあたって紀国(きのくに)・熊野へ出向かねばならない。そしてこの文章の後半は神武自身の出自・親族について、海神(わたつみ)との関係がどれほど深いかという問いを思い起こさせる。
「進みて紀国(きのくに)の竈山(かまやま)に到(いた)りて、五瀬命(いつせのみこと)、軍(みいくさ)に薨(かむさ)りましぬ。因りて竈山(かまやま)に葬(はぶ)りまつる。六月(みなづき)の乙未(きのとのひつじ)の朔丁巳(ついたちひのとのみのひ)に、軍(みいくさ)、名草邑(なくさのむら)に至(いた)る。即(すなは)ち名草戸畔(なくさとべ)といふ者(もの)を誅(ころ)す。遂(つひ)に狹野(さの)を越(こ)えて、熊野(くまの)の神邑(みわのむら)に到(いた)り、且(すなわ)ち天磐盾(あまのいはたて)に登(のぼ)る。仍(よ)りて軍(いくさ)を引(ひ)きて漸(やうやく)進(すす)む。海(わた)の中(なか)にして卒(にはか)に暴風(あからしまかぜ)に遇(あ)ひぬ。皇舟漂蕩(みふねただよ)ふ。時に稲飯命(いなひのみこと)、乃(すなは)ち歎(なげ)きて曰(のたま)はく、『嗟乎(ああ)、吾(あ)が祖(みおや)は天神(あまつかみ)、母(いろは)は海神(わたつみ)なり。如何(いかに)ぞ我(われ)を陸(くが)に厄(たしな)め、復(また)我を海(わた)に厄(たしな)むや』とのたまふ。言(のたま)ひ訖(をは)りて、乃ち剣(つるぎ)を抜(ぬ)きて海(うみ)に入りて、鋤持神(さひもちのかみ)と化為(な)る。三毛入野命(みけいりののみこと)、亦(また)恨(うら)みて曰(のたま)はく、『我が母(いろ)及(およ)び姨(おば)は、並(ならび)に是(これ)海神(わたつみ)なり。何為(いかに)ぞ波瀾(なみ)を起(た)てて、灌溺(おぼほ)すや』とのたまひて、即ち浪(なみ)の秀(すゑ)を蹈(ふ)みて、常世郷(とこよのくに)に往(い)でましぬ」(「日本書紀1・巻第三・神武天皇 即位前紀戊午年五月~六月・P.208」岩波文庫)
さらに異常出産のエピソードは神功皇后でも有名。「鎮懐石」(しずめいし)について。
「時に、適(たまたま)皇后(きさき)の開胎(うむがつき)に当(あた)れり。皇后、則ち石(いし)を取(と)りて腰(みこし)に挿(さしはさ)みて、祈(いの)りたまひて曰(まう)したまはく、『事(こと)竟(を)へて還(かえ)らむ日に、茲土(ここ)に産(あ)れたまへ』ともうしたまふ。其の石は、今(いま)伊覩県(いとのあがた)の道(みち)の辺(ほとり)に在(あ)り。既(すで)にして則ち荒魂(あらみたま)を撝(を)ぎたまひて、軍(いくさ)の先鋒(さき)とし、和魂(にぎみたま)を請(ね)ぎて、王船(みふね)の鎮(しずめ)としたまふ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政前紀・P.146~148」岩波文庫)
そして生まれたのが「誉田天皇(ほむたのすめらみこと)=応神天皇」である。
「十二月(しはす)の戊戌(つちのえいぬ)の朔辛亥(ついたちかのとのゐのひ)に、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)を筑紫(つくし)に生(あ)れたまふ。故(かれ)、時人(ときのひと)、其(そ)の産処(みうみのところ)を号(なづ)けて宇瀰(うみ)と曰(い)ふ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政前紀・P.152」岩波文庫)
しかし異常出産を経てはいても、神となるに先立ち、「貴種流離」というイニシエーションが付き纏って離れない。海と森林とを経巡ってこない限り、都に入城することはできない。応神の場合、まず「紀伊水門(きのくにのみなと)」で留まる。水が大いに関係している。
「時(とき)に皇后(きさき)、忍熊王師(おしくまのみこいくさ)を起(おこ)して待(ま)てりと聞(きこ)しめして、武内宿禰(たけしうちのすくね)に命(みことおほ)せて、皇子(みこ)を懐(いだ)きて、横(よこしま)に南海(みなみのみち)より出(い)でて、紀伊水門(きのくにのみなと)に泊(とま)らしむ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.158~160」岩波文庫)
日高(ひたか)や小竹宮(しののみや)へ移動する。水だけでなく森林との深い関連性を持つ。
「皇后、南(みなみのかた)紀伊国(きのくに)に詣(いた)りまして、太子(ひつぎのみこ)に日高(ひたか)に会(あ)ひぬ。群臣(まへつきみ)と議及(はか)りて、遂(つひ)に忍熊王を攻(せ)めむとして、更(さら)に小竹宮(しののみや)に遷(うつ)ります」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.160」岩波文庫)
古代王権の系譜は常に水と森林との途方もなく長く深い関係を有している。農耕社会が主流になる遥か太古から。
BGM
「すぐに妻を呼び、今までの出来事をみんな打ち明け、約束の毒殺料を少なくとも二人分とりたてるように依頼したと見る間に、この名だたる医者は断末魔の苦しみのなか息を吐き出しました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.419」岩波文庫)
最初に約束した定式はこうだった。「即効性のある毒薬」=「五十万セーステルティウス」。しかし死ぬことになる人間が二倍になるので医師は「約束の毒殺料を少なくとも二人分とりたてる」ことを自分の妻に命じて息絶える。だから「即効性のある毒薬」の価値は量的な変化を経ずに二倍になり、今度は「約束の毒殺料」=「百万セーステルティウス」という新しい等価性が打ち立てられた。死刑囚への過程を登っていく妻は夫殺害を果たした後、夫と自分との間にもうけた娘が夫の財産の相続人になることも我慢ならない。しかし同時に殺害するにはもはや毒薬が足りない。夫だけでなく事情を知る医師をも殺害してしまい、手元にはもう毒薬がない。だから妻としてはもう一度、何らかの方法で「即効性のある毒薬」を手に入れる必要がある。
ともかく、夫の葬儀を済ませ喪の期間を終えた。その頃、医師の未亡人が今は二倍になっている「二人分の毒殺料」を請求しにやってきた。そこで元妻は医師の未亡人にいう。「いま自分がとりかかっている仕事をなしとげるには是非ともあの薬が必要」なのだ。ついてはもう少し例の毒薬を持ってきてくれるのなら今すぐにでも「約束の礼金を払う」と堂々と宣言して見せた。妻の家はそこそこ金持ちであるようで、さらに夫殺害後も堂々たる態度と見事な演技とで医師の未亡人をいとも簡単に籠絡してしまった。医師の未亡人は金持ちの女からさらなる貨幣が転がり込むという夢のような創作を聞かされて舞い上がる。
「金持ちの女から好意を得たいばかりに大いそぎで家に帰ると、すぐに毒薬の箱を持ってきて渡しました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.419」岩波文庫)
夫殺害でもはや限度を忘れた元妻は、医師の未亡人と娘との二人に毒薬を飲ませる準備を慎重に整えて、頃合いを計り医師の未亡人を昼食に招待する。娘は子どもでありほとんどすぐさま死ぬ。ところが医師の未亡人は自分の体内にも毒薬が効いてきたとみるや夫殺害に手を染めた元妻の陰謀を見抜き、劇薬の効果が吹き荒れるのに最後の抵抗を示しながら監督官吏の家へ逃れることに成功した。そこですべての詳細を暴露したところでこの未亡人も息絶えた。総督は連続殺人を果たした元妻=女性の家宅捜索に乗り出す。女性の寝室係の女中たちを逮捕しすべての「真相を白状」させた。ところが白状させるために用いた手段は「拷問責め」である。ここで「女中たちによる真相白状」=「拷問責め」という等価性が成立している。ただ、この場合の「拷問」はアプリオリに正しいとはいえず、「女中たちによる真相白状」が達成された時点で始めて「拷問」の正当性を証拠立てる賭博にも似た権力構造が前提されている。拷問すればするほどますます真相へ近づくに違いないという脅迫的自白の構造へと転倒している。
さて、暴力的知-権力装置を用いなくても日々目にする事象を明確化する方法は別に幾らでもある。南方熊楠の方法はまさにその見本を提示してくれる。例えば粘菌に関する次の文章。
「山婆(やまんば)の髪の毛と那智辺で呼ぶ物、予たびたび見たり。水で濡(ぬ)れた時黒く、乾けば色やや淡くなって黄褐を帯び、光沢あり、やや堅くなる。長きは七、八寸また一尺にも及ぶ。杣人などに聞くと、ずっと長いのもあり、と。予が見たるは木の枝に生え垂れ懸かれる状、女の髪のごとし」(南方熊楠「山婆の髪の毛」『森の思想・P.327』河出文庫)
ところが、冒頭部分の「山婆(やまんば)」がいきなり難関なのである。日本に限らず世界中で、少なくとも東アジアからメラネシアに渡る諸地域で、歴史的に「山婆(やまんば)」とはどのような存在だったか。日本書記の中から「伊奘冉尊(いざなみのみこと)」に注目したい。イザナミはスサノオの母である。
「既(すで)にして伊奘諾尊(いざなきのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこと)、共(とも)に議(はか)りて曰(のたま)はく、『吾(われ)已(すで)に大八洲国(おほやしまのくに)及び山川草木(やまかはくさき)を生めり。何(いかに)ぞ天下(あめのした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ』とのたまふ。是(ここ)に、共に日の神(かみ)を生みまつります。大日孁貴(おほひるめのむち)と号(まう)す。大日孁貴、此(これ)をば於保比屢咩能武智(おほひるめのむち)と云(い)ふ。孁の音は力丁反(のかへし)。一書に云はく、天照大神(あまてらすおほみかみ)といふ。一書に云はく、天照大日孁尊(あまてらすおほひるめのみこと)といふ。此(こ)の子(みこ)、光華明彩(ひかりうるは)しくして、六合(くに)の内(うち)に照(て)り徹(とほ)る。故(かれ)、二(ふたはしら)の神喜(よろこ)びて曰(のたま)はく、『吾(わ)が息(こ)多(さは)ありと雖(いへど)も、未(いま)だ若此霊(かくくしび)に異(あや)しき児(こ)有(あ)らず。久(ひさ)しく此の国(くに)に留(と)めまつるべからず。自(おの)づから当(まさ)に早(すみやか)に天(あめ)に送(おくりまつ)りて、授(さづ)くるに天上(あめ)の事(こと)を以(も)てすべし』とのたまふ。是(こ)の時に、天地(あめつち)、相去(あひさ)ること未(いま)だ遠(とほ)からず。故、天柱(あめのみはしら)を以て、天上(あめ)に挙(おくりあ)ぐ。次に月(つき)の神を生みまつります。一書に云(い)はく、月弓尊(つくゆみのみこと)、月夜見尊(つくよみのみこと)、月読尊(つくよみのみこと)といふ。其の光彩(ひかりうるは)しきこと、日に亜(つ)げり。以て日に配(なら)べて治(しら)すべし。故、亦(また)天に送(おく)りまつる。次に蛭児を生む。已(すで)に三歳(みとせ)になるまで、脚(あし)猶(なお)し立たず。故、天磐櫲樟船(あまのいはくすぶね)に載(の)せて、風(かぜ)の順(まにま)に放(はな)ち棄(す)つ。次に素戔嗚尊(すさのをのみこと)を生みまつります。一書に云はく、神素戔嗚尊(かむすさのをのみこと)、速素戔嗚尊(はやすさのをのみこと)といふ」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.34」岩波文庫)
ところが「軻遇突智」(かぐつち)を生むやいなや死ぬ。出産と同時に炎となって焼死する。神話によくある異常出産のエピソードである。
「次に火神軻遇突智(ひのかみかぐつち)を生(う)む。時に伊奘冉尊(いざなみのみこと)、軻遇突智が為(ため)に、焦(や)かれて終(かむさ)りましぬ」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.38」岩波文庫)
「一書(あるふみ)に曰はく、伊奘冉尊(いざなみのみこと)、火神軻遇突智(ひのかみかぐつち)を生まむとする時に、悶熱(あつか)ひ懊悩(なや)む。因(よ)りて吐(たぐり)す。此(これ)神(かみ)と化為(な)る。名(な)を金山彦(かなやまひこ)と曰(まう)す」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.40」岩波文庫)
この箇所にある「金山彦(かなやまひこ)」は鍛冶(かぬち)=鍛冶職人である。製鉄職人なのでどの民族創造神話にも出てくる。鉄製武具の製造。戦争とともにでなければ歴史は始まらないからである。次の文章でも異常出産について述べられているが、地名が具体的なので親切な部分だと言える。
「一書に曰はく、伊奘冉尊、火神を生む時に、灼(や)かれて神(かむ)退去(さ)りましぬ。故(これ)、紀伊国(きのくに)の熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる。土俗(くにひと)、此(こ)の神の魂(みたま)を祭(まつ)るには、花(はな)の時には亦(また)花を以(も)て祭る。又鼓吹幡旗(つづみふえはた)を用(も)て、歌(うた)ひ舞(ま)ひて祭る」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.40」岩波文庫)
なお、この「熊野の有馬村」の祭りは三重県熊野市有馬町の海浜にある「花の窟」(はなのいわや)という巨岩を神体とする熊野の祭り。今も年に二度の例祭が行われる。古来から有名だったようだ。
「み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なる心は思へどただに逢はぬかも」(柿本人麿)
「み熊野の浜木綿(はまゆふ)生ふるうらさびて人なみなみに年(とし)ぞ重なる」(西行)
「三熊野の山ざくらともしら雲の波をかさぬる浦(うら)の浜木綿(はまゆふ)」(正徹)
問題は「山婆(やまんば)」とイザナミとの間に不即不離な関係があるように思われることである。熊楠は山婆について語るとともに「女の髪」についても語っているが、イザナミが山婆としての本領を発揮するのも「髪の毛」に関する道具類を介してである。
「伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、伊奘冉尊(いざなみのみこと)を追(お)ひて、黄泉(よもつくに)に入(い)りて、及(し)きて共(とも)に語(かた)る。時(とき)に伊奘冉尊の曰(のたま)はく、『吾夫君(あがなせ)の尊(みこと)、何(なに)ぞ晩(おそ)く来(いでま)しつる。吾已(われすで)に湌泉之竈(よもつへぐひ)せり。然(しか)れども、吾当(まさ)に寝息(ねやす)まむ。請(こ)ふ、な視(み)ましそ』とのたまふ。伊奘諾尊、聴(き)きたまはずして、陰(ひそか)に湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を取(と)りて、其(そ)の雄柱(ほとりは)を牽(ひ)き折(か)きて、秉炬(たひ)として、見(み)しかば、膿(うみ)沸(わ)き虫(うじ)流(たか)る。今(いま)、世人(よのひと)、夜一片之火(よるひとつびとぼすこと)忌む、又(また)夜擲櫛(なげぐし)を忌む、此(これ)其(そ)の縁(ことのもと)なり」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.43~44」岩波文庫)
スサノオが異常出産を経て生まれている点について。
「一書(あるふみ)に曰く、伊奘諾尊(いざなきのみこと)の曰(のたま)はく、『吾(われ)、御㝢(あめのしたしら)すべき珍(うづ)の子(みこ)を生(う)まむと欲(おも)ふ』とのたまひて、乃(すなは)ち左(ひだり)の手(みて)を以て白銅鏡(ますみのかがみ)を持(と)りたまふときに、則(すなは)ち化(な)り出(い)づる神有(ま)す。是を大日孁尊(おおひるめのみこと)と謂(まう)す。右(みぎ)の手(みて)に白銅鏡を持りたまふときに、則(すなは)ち化(な)り出(い)づる神有(ま)す。是を月弓尊(つくゆみのみこと)と謂(まう)す。又(また)首(みぐし)を廻(めぐら)して顧眄之間(みるまさかり)に、即ち化(な)る神有(ま)す。是を素戔嗚尊(すなのをのみこと)と謂す」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.36」岩波文庫)
同じく。
「然(しかう)して後(のち)に、左(ひだり)の眼(みめ)を洗ひたまふ。因りて生(う)める神を、号(なづ)けて天照大神(あまてらすおほみかみ)と曰(まう)す。復(また)右(みぎ)の眼(みめ)を洗(あら)ひたまふ。因りて生(う)める神を、号(なづ)けて月読尊(つくよみのみこと)と曰(まう)す。復鼻(みはな)を洗ひたまふ。因りて生(う)める神を、号(なづ)けて素戔嗚尊(すさのをのみこと)と曰(まう)す」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.48」岩波文庫)
異常出産は神の出現の予告である。次の箇所は「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)=神武天皇」の出産シーン。焔に満ちた部屋が舞台。
「即(すなわ)ち其(そ)の室(むろ)の中(なか)に入(い)りて、火(ひ)を以(つ)けて室(むろ)を焚(や)く。時(とき)に、燄(ほのほ)初(はじ)め起(おこ)る時に共(とも)に生(う)む児(みこ)を、火酢芹命(ほのすせりのみこと)と号(なづ)く。次(つぎ)に火の盛(さかり)なる時に生む児を、火明命(ほのあかりのみこと)と号(なづ)く。次に生む児を、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と号(まう)す。亦(また)の号(みな)は火折尊(ほのをりのみこと)」(「日本書紀1・巻第二・神代下・第九段・P.146」岩波文庫)
だが神武は東征にあたって紀国(きのくに)・熊野へ出向かねばならない。そしてこの文章の後半は神武自身の出自・親族について、海神(わたつみ)との関係がどれほど深いかという問いを思い起こさせる。
「進みて紀国(きのくに)の竈山(かまやま)に到(いた)りて、五瀬命(いつせのみこと)、軍(みいくさ)に薨(かむさ)りましぬ。因りて竈山(かまやま)に葬(はぶ)りまつる。六月(みなづき)の乙未(きのとのひつじ)の朔丁巳(ついたちひのとのみのひ)に、軍(みいくさ)、名草邑(なくさのむら)に至(いた)る。即(すなは)ち名草戸畔(なくさとべ)といふ者(もの)を誅(ころ)す。遂(つひ)に狹野(さの)を越(こ)えて、熊野(くまの)の神邑(みわのむら)に到(いた)り、且(すなわ)ち天磐盾(あまのいはたて)に登(のぼ)る。仍(よ)りて軍(いくさ)を引(ひ)きて漸(やうやく)進(すす)む。海(わた)の中(なか)にして卒(にはか)に暴風(あからしまかぜ)に遇(あ)ひぬ。皇舟漂蕩(みふねただよ)ふ。時に稲飯命(いなひのみこと)、乃(すなは)ち歎(なげ)きて曰(のたま)はく、『嗟乎(ああ)、吾(あ)が祖(みおや)は天神(あまつかみ)、母(いろは)は海神(わたつみ)なり。如何(いかに)ぞ我(われ)を陸(くが)に厄(たしな)め、復(また)我を海(わた)に厄(たしな)むや』とのたまふ。言(のたま)ひ訖(をは)りて、乃ち剣(つるぎ)を抜(ぬ)きて海(うみ)に入りて、鋤持神(さひもちのかみ)と化為(な)る。三毛入野命(みけいりののみこと)、亦(また)恨(うら)みて曰(のたま)はく、『我が母(いろ)及(およ)び姨(おば)は、並(ならび)に是(これ)海神(わたつみ)なり。何為(いかに)ぞ波瀾(なみ)を起(た)てて、灌溺(おぼほ)すや』とのたまひて、即ち浪(なみ)の秀(すゑ)を蹈(ふ)みて、常世郷(とこよのくに)に往(い)でましぬ」(「日本書紀1・巻第三・神武天皇 即位前紀戊午年五月~六月・P.208」岩波文庫)
さらに異常出産のエピソードは神功皇后でも有名。「鎮懐石」(しずめいし)について。
「時に、適(たまたま)皇后(きさき)の開胎(うむがつき)に当(あた)れり。皇后、則ち石(いし)を取(と)りて腰(みこし)に挿(さしはさ)みて、祈(いの)りたまひて曰(まう)したまはく、『事(こと)竟(を)へて還(かえ)らむ日に、茲土(ここ)に産(あ)れたまへ』ともうしたまふ。其の石は、今(いま)伊覩県(いとのあがた)の道(みち)の辺(ほとり)に在(あ)り。既(すで)にして則ち荒魂(あらみたま)を撝(を)ぎたまひて、軍(いくさ)の先鋒(さき)とし、和魂(にぎみたま)を請(ね)ぎて、王船(みふね)の鎮(しずめ)としたまふ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政前紀・P.146~148」岩波文庫)
そして生まれたのが「誉田天皇(ほむたのすめらみこと)=応神天皇」である。
「十二月(しはす)の戊戌(つちのえいぬ)の朔辛亥(ついたちかのとのゐのひ)に、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)を筑紫(つくし)に生(あ)れたまふ。故(かれ)、時人(ときのひと)、其(そ)の産処(みうみのところ)を号(なづ)けて宇瀰(うみ)と曰(い)ふ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政前紀・P.152」岩波文庫)
しかし異常出産を経てはいても、神となるに先立ち、「貴種流離」というイニシエーションが付き纏って離れない。海と森林とを経巡ってこない限り、都に入城することはできない。応神の場合、まず「紀伊水門(きのくにのみなと)」で留まる。水が大いに関係している。
「時(とき)に皇后(きさき)、忍熊王師(おしくまのみこいくさ)を起(おこ)して待(ま)てりと聞(きこ)しめして、武内宿禰(たけしうちのすくね)に命(みことおほ)せて、皇子(みこ)を懐(いだ)きて、横(よこしま)に南海(みなみのみち)より出(い)でて、紀伊水門(きのくにのみなと)に泊(とま)らしむ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.158~160」岩波文庫)
日高(ひたか)や小竹宮(しののみや)へ移動する。水だけでなく森林との深い関連性を持つ。
「皇后、南(みなみのかた)紀伊国(きのくに)に詣(いた)りまして、太子(ひつぎのみこ)に日高(ひたか)に会(あ)ひぬ。群臣(まへつきみ)と議及(はか)りて、遂(つひ)に忍熊王を攻(せ)めむとして、更(さら)に小竹宮(しののみや)に遷(うつ)ります」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.160」岩波文庫)
古代王権の系譜は常に水と森林との途方もなく長く深い関係を有している。農耕社会が主流になる遥か太古から。
BGM
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