男性だと思っていたら突然女性になったとか、逆に、女性だと思っていたらいきなり男性になったというエピソード。資料は古くから数多く残っている。しかし実際に名乗りでる人々は少なかった。生涯ずっと男性か女性かどちらかでしかない人々の側が圧倒的に多いという条件が前提にあるため、わざわざ名乗り出て社会的リンチを受けることもないだろうと思われていたという事情を鑑みないといけない。しかしまったく何も名乗り出ないのではいつまで経ってもそのような性的志向を持つ人々の人権は侵害されたままになってしまう。ニーチェが危惧していたように「別様の感じ方」をする人々は露骨な差別対象になり虐殺されてしまう。
「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八九・P.63」ちくま学芸文庫)
社会的な広がりを得てLGBTが承認されてきたのもまだつい最近のことだ。ここ十五年くらい。数千年以上もある人間の歴史的時間の中で換算すればようやく昨日始めて認識されたというほどの割合でしかない。しかしさらにヘルマフロディーテ(両性具有者)をめぐる社会的承認過程は高度テクノロジーの発展にもかかわらず、むしろその逆を行くかのように遅々として進んでいない。ヘルマフロディーテ(両性具有)は日本に限ってみても古くからいたし、近代明治国家成立以前はそれなりに認められてもいたという点に注目しよう。
次のエピソードは或る男性の僧侶がわずかのうちに女性の比丘尼になり、結果的に二人は夫婦となったものだが、問題は、当初は男性だと思われたはずの僧侶が一日半ほどで女性になったのはなぜかという点である。南方熊楠は伝えている。
「『奇異雑談』上に、むかし江州枝村へ二十歳ばかりの客僧来たって一宿す、美(うるわ)しくて比丘尼に似たり。その夜大雨で翌日も晴れず、故に滞留す。この人夜明けよりその姿軟弱、形音女と変わる、亭主怪しみ尋ぬるに、越後産れで丹波に二、三年ありて今故郷へ下ると答う。その姿怪しきゆえ僧か尼かと問うに尼と答う。亭主面白く思い、その夜、これを挑む。辞退されしも終(つい)に従うて婚宿す。亭主急に妻を亡い、幸いのことと夫婦となり髪を長くす」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.299』河出文庫)
ヘルマフロディーテの場合、一つは、女性器の発達度に比べて男性器のそれがほとんど見られないケースが多い。もう一つはその逆で、男性器の発達度に比べて女性器のそれがほとんど見られないというケースである。いずれにしても生まれた時は男性器も女性器も両方とも備えている。そのような場合、例えば日本の江戸時代では僧侶になったり遊芸者の集団に加わったり軽業師として活躍したりした。浮世絵に描かれたりもしている。次のエピソードは行水中に男性器が落ちて女性器のみが残されたケース。
「江戸の学僧実相坊はなはだ高慢なり。江州坂本真清派に入って法談し僧俗に太(いた)く貴ばる。信州に行きて一宿し亭主馳走して宿(とど)むるうち傷寒を煩い、七旬ほどして本復し行水中男根落ちて女根となる」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.302』河出文庫)
また熊楠は古代ギリシアのヘロドトスから引用している。
「古エジプト人がシリアのヴェヌス女神の廟を荒らした罰で女人病を受けて半男女になった由で(ヘロドトス『史書』一巻一〇五章)、近時にもその故地に男病みまた老ゆれば老女の相好になる民族あるという(一七九六年ゴタおよびサンクト・ペテルスビュルグ板、ライネングス『高迦索歴史地理全記』上巻二七〇頁、一八〇二年サン・ペテルズブール板、ポトキ『露国諸民の原』一七五頁)」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.304~305』河出文庫)
事の次第はこう。
「スキュタイ人はそれからエジプトを目指して進んだ。彼らがパレスティナ・シリアまできたとき、エジプト王プサンメティコスが出向いていって、贈物と泣き落し戦術で、それより先へ進むことを思いとどまらせたのである。スキュタイ人は後戻りしてシリアの町アスカロンへきたとき、大方のスキュタイ人はおとなしく通過していったのに、少数のものが後へ残って『アプロディーテ・ウラニア』の神殿を荒したのである。この社は私の調べたところでは、この女神の社としては最古のものである。キュプロスにある社もその起源はここに発していることは、キュプロス人が自らいっており、またキュテラの社は、シリアのこの地方からいったフェキニア人が創建したものである。さてアスカロンの社を荒したスキュタイ人とその子孫は後々まで、神罰を蒙り『おんな病』に罹った。スキュタイ人も、この連中の患いは右の原因によるものだとしており、スキュタイ人がエナレスと呼んでいるこれらの者たちの実状は、スキュタイへ来て見れば、自分の目で確かめられるといっている」(ヘロドトス「歴史・上・巻一・一〇五・P.97~98」岩波文庫)
アプロディーテーは小アジアから地中海沿岸にかけて君臨する「大女神」。愛を司る。軍神でもある。
「アポロンはヘルメスにこう訊ねた。『きみは黄金のアプロディテといっしょにこんなふうに縛られて寝てみたいか』。すると、彼はこう答えた。『ああ、もしそんなことが起こるとすれば、自分にはこの三倍ものいましめが必要であろう。男神だけでなく、女神もみな見ていてもよい。それでも黄金のアプロディテとなら寝てみたいものだ』」(ケレーニイ「ギリシアの神話 神々の時代・第四章・愛の大女神・P.82」中公文庫)
アプロディーテーに関する神話が圧倒的に先行していたようだ。だからもし変身するとすればそこを通り過ぎる瞬間をおいてほかにない。またヘルマフロディーテーの場合、「男でもなく女でもない」という捉え方をするかそれとも「男でもあり女でもある」という捉え方をするのかという問いがある。当事者自身が決めることだ。けれどもこの際、「男でもあり女でもある」という捉え方の側がよりいっそう肯定的であると思われる。資本主義でいえば、商品Aであり商品Bであるだけでなく同時に両者であるという特権的な位置=貨幣の位置を占めることができるからだ。ヘロドトスが「おんな病」と書いているのは、男でもあり女でもあるヘルマフロディーテ(両性具有)の中で普段は周囲から男性だと思われていた人々が、何かのきっかけで自分の性をたちまち女性として感じまた確信しもしたことから起こる生活態度の変化をいうのだろう。
ところでこのエピソードには別の箇所で続きがある。
「スキュティアには多数の占師がいるが、彼らは多数の柳の枝を用い次のようにして占う。占師は棒をまとめた大きい束をもってくると、地上に置いて束を解き、一本一並べながら呪文を唱える。そして呪文を唱えつづけながら、再び棒を束ね、それからまた一本ずつ並べてゆく。この卜占術はスキュティア古来の伝統的なものであるが、例の『おとこおんな』のエナレエスたちは、アプロディテから授かったと自称する方法で占う。いずれにせよそれは菩提樹の樹皮を用いて占うもので、菩提樹の樹皮を三つに切り、これを指に巻きつけたりほどいたりしながら預言する」(ヘロドトス「歴史・中・巻四・六七・P.47」岩波文庫)
先に「エナレス」とあったのが「エナレエス」に変わっているが特に関係はない。それより重要なのは、「例の『おとこおんな』のエナレエスたち」というふうに複数形が当たり前に使われていることに注目したい。そしてさらに重要な点なのだが、古代ギリシアでは、ヘルマフロディーテは「預言者」という職業集団として承認されたということだ。何かが過剰である。あるいは逸脱している。古代社会では「過剰-逸脱」はいつでも特権性の徴だった。ゆえに預言者という極めて責任重大な職業を与えられることがあったのだろう。古代の王らはいつも預言者の言葉に気を遣う。時には言葉一つで国家の命運が大きく左右される。そのような社会的地位を与えられるためにはただ単なる民衆ではなく「過剰-逸脱」を体現する徴(しるし)を身に帯びていなくてはならなかった。なかでも有名なのはオイディプスの悲劇の預言者テイレシアス。テイレシアスについてオウィディウス「変身物語」では次のようにある。
「地上では、運命のさだめどおり、これらの出来事が生じていた。二度の誕生を経験したバッコスの幼年期も、平穏無事だった。ちょうどそのころのはなしだが、たまたま、ユピテルは、神酒(ネクタル)に陶然として、わずらわしい悩みを忘れ、これも無聊(ぶりょう)をかこっていたユノーを相手に、くつろいだ冗談をとばしていたというのだ。ユピテルは『これは確かなことだが、女の喜びのほうが、男のそれよりも大きいのだ』といった。ユノーは、とんでもないとそれを否定する。そこで、もの知りのテイレシアスの意見を聞こうということになった。この男は、男女両性の喜びを知っているからだが、それにはわけがある。あるとき、彼は、緑濃い森のなかで交尾している二匹の大きな蛇を、杖ではげしくなぐりつけたことがあった。すると、不思議なことに、男であったテイレシアスが女に変わり、そのまま七年間を過した。八年目に、ふたたび同じ蛇たちに出くわして、こういった。『おまえたちを打つことが、その人間の性を変えるほどの力を持っているなら、もう一度おまえたちを打つことにしよう』この同じ蛇をなぐりつけると、もとの姿が戻って来て、生まれた時の状態に返った。いま、冗談めいた争いの裁定者に選ばれると、彼は、ユピテルの意見のほうを正しいとした。ユノーは、もともと大した問題でもないのに、必要以上に気を悪くして、その裁定者を罰し、彼の目を永遠の闇でおおった。しかし、全能の父なる神はーーーある神がおこなったことを無効にすることは、どんな神にも許されないのでーーーテイレシアスが視力を奪われたかわりに、未来を予知する能力を彼に与え、この恩典によって罰を軽くした」(オウィディウス「変身物語・中・巻三・P.112~113」岩波文庫)
蛇を「なぐりつける」のは古代からずっと語られてきた去勢の隠喩である。テイレシアスは蛇を二度なぐる。一度目の去勢によってテイレシアスは男性から女性へ変化する。それから七年が過ぎる。八年目に再会したとき、もう一度なぐりつける。するとテイレシアスは今度は女性から男性へ変化した。しかしこの流れでいえば、男性へ戻ったとみるべきではない。むしろ逆に、決定的に、二度と男性へ戻ることが許されなくなったとみるべきである。というのもこのとき、全能の神はテイレシアスに予言者としての資格を与えるのと引き換えに二度と目の見えない盲目を与えたからである。このときの神との取引はかなり大きなものだったろう。そうでなければソポクレス作の悲劇「オイディプス」であれほど重大な役割を与えられるはずはなかっただろうからである。しかし思うのは、或る時は男性でありまた或る時は女性でありさらになおかつ同時に両者でもあるという特権性はそれほど異端視されなくてはならない実存性だろうかという点である。数あるギリシア悲劇の登場人物の中でも最も強靭な女性とされるエレクトラはいう。
「エレクトラ 気分をかえてみるのは、なにごとにもよいききめがあるものですよ」(エウリピデス「オレステス」『ギリシア悲劇4・P.360』」ちくま文庫)
何ものにも負けないエレクトラの強靭さは実をいうとこのような柔軟性にあるのでは、と思わないでもない。
ところで日本には古来、童子(どうじ)を聖なる存在と見る習慣があった。といってもただ単なる子供なら誰でもよいというわけではない。禿(かむろ)・禿髪(かぶろ)と言うように、十三、十四、十五、十六歳くらいの美童の髪の毛を切り揃える。結んだりしないので他の少年少女らの髪型と比較すると明らかに奇妙に見える。さらに衣服は子供の身に付けるものではなく、一般民衆の中ではごくふつうの大人が着る「直垂」(ひたたれ)をさらに赤く染め上げたものを着せる。それが禿(かむろ)であり聖なる童子の姿とされた。平清盛はそんな童形の禿(かむろ)を三〇〇人集結させて私設警察のように扱う。京の都をぶらぶらうろつかせ、平家の悪口を言う者を見つけた場合、その家に乱入して一切合切の資財を没収し清盛のいる六波羅殿へ連行させる。
「入道相國(シヤウコク)のはかりことに、一四五六の童部(わらんべ)を、三百人そろへて、髪(カミ)をかぶろにきりまはし、あかき直垂(ヒタタレ)を着せて召しつかはれけるが、京中に満ち満ちて往反(ワウヘン)しけり。をのづから平家の事をあしざまに申(まうす)者あれば、一人(いちにん)聞き出(いだ)さぬほどこそありけれ、余党(ヨタウ)に触廻(フレメグラ)して、其家(ソノイエ)に乱入(ランニウ)し、資財雑具(シザイザウグ)を追捕(ツイフク)し、其奴(ヤツ)を搦(カラメ)とッて、六波羅へゐて参(まい)る。されば目に見、心に知るといへど、詞(コトバ)にあらはれて申(まうす)なし。六波羅の禿(カブロ)と言ひてンしかば、道井を過ぐる馬車(ムマクルマ)もよぎてぞ通(とを)りける。禁門(キンモン)を出入(シユツニウ)すといへども、姓名(シヤウミヤウ)を尋(タヅネ)らるるに及ばす。京師(ケイシ)の(チヤウリ)、これが為(ため)に目を側(ソバム)と見えたり」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第一・禿髪(かぶろ)・P.13~14」岩波書店)
さらに禿(かむろ)たちは天皇のいる禁門を平然と出入りする。職務質問もされない。むしろ「京師(ケイシ)の(チヤウリ)」=「高級官僚」はあらぬかたに目をやり見ぬふりをしてやり過ごしている。なおこの箇所は、陳鴻(ちんこう)「長恨歌伝」からの引用。「出入禁門不問、京師為之側目」。現代語訳は次の通り。
「皇宮の宮門の出入りは勝手で、とがめられなかったから、京師のお歴々は、目を側(そば)だてていた」(陳鴻「長恨歌伝」『唐宗伝奇集・上・P.160』岩波文庫)
とはいえ平清盛にそれが可能だったのはなぜか。子どもだったから見逃されたわけではまったくない。事情は逆であって、彼ら思春期の美童らが、禿(かむろ)として「童子(どうじ)」=「聖なる童形(どうぎょう)」の姿形を取っていたからである。幼児でもなく大人でもない。男子であり女子でもある。同時に両者である。貨幣にも似たそのヘルマフロディーテ的特権性を、当時の人々は神に準ずるものと見て畏(おそ)れたのである。
BGM
「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八九・P.63」ちくま学芸文庫)
社会的な広がりを得てLGBTが承認されてきたのもまだつい最近のことだ。ここ十五年くらい。数千年以上もある人間の歴史的時間の中で換算すればようやく昨日始めて認識されたというほどの割合でしかない。しかしさらにヘルマフロディーテ(両性具有者)をめぐる社会的承認過程は高度テクノロジーの発展にもかかわらず、むしろその逆を行くかのように遅々として進んでいない。ヘルマフロディーテ(両性具有)は日本に限ってみても古くからいたし、近代明治国家成立以前はそれなりに認められてもいたという点に注目しよう。
次のエピソードは或る男性の僧侶がわずかのうちに女性の比丘尼になり、結果的に二人は夫婦となったものだが、問題は、当初は男性だと思われたはずの僧侶が一日半ほどで女性になったのはなぜかという点である。南方熊楠は伝えている。
「『奇異雑談』上に、むかし江州枝村へ二十歳ばかりの客僧来たって一宿す、美(うるわ)しくて比丘尼に似たり。その夜大雨で翌日も晴れず、故に滞留す。この人夜明けよりその姿軟弱、形音女と変わる、亭主怪しみ尋ぬるに、越後産れで丹波に二、三年ありて今故郷へ下ると答う。その姿怪しきゆえ僧か尼かと問うに尼と答う。亭主面白く思い、その夜、これを挑む。辞退されしも終(つい)に従うて婚宿す。亭主急に妻を亡い、幸いのことと夫婦となり髪を長くす」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.299』河出文庫)
ヘルマフロディーテの場合、一つは、女性器の発達度に比べて男性器のそれがほとんど見られないケースが多い。もう一つはその逆で、男性器の発達度に比べて女性器のそれがほとんど見られないというケースである。いずれにしても生まれた時は男性器も女性器も両方とも備えている。そのような場合、例えば日本の江戸時代では僧侶になったり遊芸者の集団に加わったり軽業師として活躍したりした。浮世絵に描かれたりもしている。次のエピソードは行水中に男性器が落ちて女性器のみが残されたケース。
「江戸の学僧実相坊はなはだ高慢なり。江州坂本真清派に入って法談し僧俗に太(いた)く貴ばる。信州に行きて一宿し亭主馳走して宿(とど)むるうち傷寒を煩い、七旬ほどして本復し行水中男根落ちて女根となる」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.302』河出文庫)
また熊楠は古代ギリシアのヘロドトスから引用している。
「古エジプト人がシリアのヴェヌス女神の廟を荒らした罰で女人病を受けて半男女になった由で(ヘロドトス『史書』一巻一〇五章)、近時にもその故地に男病みまた老ゆれば老女の相好になる民族あるという(一七九六年ゴタおよびサンクト・ペテルスビュルグ板、ライネングス『高迦索歴史地理全記』上巻二七〇頁、一八〇二年サン・ペテルズブール板、ポトキ『露国諸民の原』一七五頁)」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.304~305』河出文庫)
事の次第はこう。
「スキュタイ人はそれからエジプトを目指して進んだ。彼らがパレスティナ・シリアまできたとき、エジプト王プサンメティコスが出向いていって、贈物と泣き落し戦術で、それより先へ進むことを思いとどまらせたのである。スキュタイ人は後戻りしてシリアの町アスカロンへきたとき、大方のスキュタイ人はおとなしく通過していったのに、少数のものが後へ残って『アプロディーテ・ウラニア』の神殿を荒したのである。この社は私の調べたところでは、この女神の社としては最古のものである。キュプロスにある社もその起源はここに発していることは、キュプロス人が自らいっており、またキュテラの社は、シリアのこの地方からいったフェキニア人が創建したものである。さてアスカロンの社を荒したスキュタイ人とその子孫は後々まで、神罰を蒙り『おんな病』に罹った。スキュタイ人も、この連中の患いは右の原因によるものだとしており、スキュタイ人がエナレスと呼んでいるこれらの者たちの実状は、スキュタイへ来て見れば、自分の目で確かめられるといっている」(ヘロドトス「歴史・上・巻一・一〇五・P.97~98」岩波文庫)
アプロディーテーは小アジアから地中海沿岸にかけて君臨する「大女神」。愛を司る。軍神でもある。
「アポロンはヘルメスにこう訊ねた。『きみは黄金のアプロディテといっしょにこんなふうに縛られて寝てみたいか』。すると、彼はこう答えた。『ああ、もしそんなことが起こるとすれば、自分にはこの三倍ものいましめが必要であろう。男神だけでなく、女神もみな見ていてもよい。それでも黄金のアプロディテとなら寝てみたいものだ』」(ケレーニイ「ギリシアの神話 神々の時代・第四章・愛の大女神・P.82」中公文庫)
アプロディーテーに関する神話が圧倒的に先行していたようだ。だからもし変身するとすればそこを通り過ぎる瞬間をおいてほかにない。またヘルマフロディーテーの場合、「男でもなく女でもない」という捉え方をするかそれとも「男でもあり女でもある」という捉え方をするのかという問いがある。当事者自身が決めることだ。けれどもこの際、「男でもあり女でもある」という捉え方の側がよりいっそう肯定的であると思われる。資本主義でいえば、商品Aであり商品Bであるだけでなく同時に両者であるという特権的な位置=貨幣の位置を占めることができるからだ。ヘロドトスが「おんな病」と書いているのは、男でもあり女でもあるヘルマフロディーテ(両性具有)の中で普段は周囲から男性だと思われていた人々が、何かのきっかけで自分の性をたちまち女性として感じまた確信しもしたことから起こる生活態度の変化をいうのだろう。
ところでこのエピソードには別の箇所で続きがある。
「スキュティアには多数の占師がいるが、彼らは多数の柳の枝を用い次のようにして占う。占師は棒をまとめた大きい束をもってくると、地上に置いて束を解き、一本一並べながら呪文を唱える。そして呪文を唱えつづけながら、再び棒を束ね、それからまた一本ずつ並べてゆく。この卜占術はスキュティア古来の伝統的なものであるが、例の『おとこおんな』のエナレエスたちは、アプロディテから授かったと自称する方法で占う。いずれにせよそれは菩提樹の樹皮を用いて占うもので、菩提樹の樹皮を三つに切り、これを指に巻きつけたりほどいたりしながら預言する」(ヘロドトス「歴史・中・巻四・六七・P.47」岩波文庫)
先に「エナレス」とあったのが「エナレエス」に変わっているが特に関係はない。それより重要なのは、「例の『おとこおんな』のエナレエスたち」というふうに複数形が当たり前に使われていることに注目したい。そしてさらに重要な点なのだが、古代ギリシアでは、ヘルマフロディーテは「預言者」という職業集団として承認されたということだ。何かが過剰である。あるいは逸脱している。古代社会では「過剰-逸脱」はいつでも特権性の徴だった。ゆえに預言者という極めて責任重大な職業を与えられることがあったのだろう。古代の王らはいつも預言者の言葉に気を遣う。時には言葉一つで国家の命運が大きく左右される。そのような社会的地位を与えられるためにはただ単なる民衆ではなく「過剰-逸脱」を体現する徴(しるし)を身に帯びていなくてはならなかった。なかでも有名なのはオイディプスの悲劇の預言者テイレシアス。テイレシアスについてオウィディウス「変身物語」では次のようにある。
「地上では、運命のさだめどおり、これらの出来事が生じていた。二度の誕生を経験したバッコスの幼年期も、平穏無事だった。ちょうどそのころのはなしだが、たまたま、ユピテルは、神酒(ネクタル)に陶然として、わずらわしい悩みを忘れ、これも無聊(ぶりょう)をかこっていたユノーを相手に、くつろいだ冗談をとばしていたというのだ。ユピテルは『これは確かなことだが、女の喜びのほうが、男のそれよりも大きいのだ』といった。ユノーは、とんでもないとそれを否定する。そこで、もの知りのテイレシアスの意見を聞こうということになった。この男は、男女両性の喜びを知っているからだが、それにはわけがある。あるとき、彼は、緑濃い森のなかで交尾している二匹の大きな蛇を、杖ではげしくなぐりつけたことがあった。すると、不思議なことに、男であったテイレシアスが女に変わり、そのまま七年間を過した。八年目に、ふたたび同じ蛇たちに出くわして、こういった。『おまえたちを打つことが、その人間の性を変えるほどの力を持っているなら、もう一度おまえたちを打つことにしよう』この同じ蛇をなぐりつけると、もとの姿が戻って来て、生まれた時の状態に返った。いま、冗談めいた争いの裁定者に選ばれると、彼は、ユピテルの意見のほうを正しいとした。ユノーは、もともと大した問題でもないのに、必要以上に気を悪くして、その裁定者を罰し、彼の目を永遠の闇でおおった。しかし、全能の父なる神はーーーある神がおこなったことを無効にすることは、どんな神にも許されないのでーーーテイレシアスが視力を奪われたかわりに、未来を予知する能力を彼に与え、この恩典によって罰を軽くした」(オウィディウス「変身物語・中・巻三・P.112~113」岩波文庫)
蛇を「なぐりつける」のは古代からずっと語られてきた去勢の隠喩である。テイレシアスは蛇を二度なぐる。一度目の去勢によってテイレシアスは男性から女性へ変化する。それから七年が過ぎる。八年目に再会したとき、もう一度なぐりつける。するとテイレシアスは今度は女性から男性へ変化した。しかしこの流れでいえば、男性へ戻ったとみるべきではない。むしろ逆に、決定的に、二度と男性へ戻ることが許されなくなったとみるべきである。というのもこのとき、全能の神はテイレシアスに予言者としての資格を与えるのと引き換えに二度と目の見えない盲目を与えたからである。このときの神との取引はかなり大きなものだったろう。そうでなければソポクレス作の悲劇「オイディプス」であれほど重大な役割を与えられるはずはなかっただろうからである。しかし思うのは、或る時は男性でありまた或る時は女性でありさらになおかつ同時に両者でもあるという特権性はそれほど異端視されなくてはならない実存性だろうかという点である。数あるギリシア悲劇の登場人物の中でも最も強靭な女性とされるエレクトラはいう。
「エレクトラ 気分をかえてみるのは、なにごとにもよいききめがあるものですよ」(エウリピデス「オレステス」『ギリシア悲劇4・P.360』」ちくま文庫)
何ものにも負けないエレクトラの強靭さは実をいうとこのような柔軟性にあるのでは、と思わないでもない。
ところで日本には古来、童子(どうじ)を聖なる存在と見る習慣があった。といってもただ単なる子供なら誰でもよいというわけではない。禿(かむろ)・禿髪(かぶろ)と言うように、十三、十四、十五、十六歳くらいの美童の髪の毛を切り揃える。結んだりしないので他の少年少女らの髪型と比較すると明らかに奇妙に見える。さらに衣服は子供の身に付けるものではなく、一般民衆の中ではごくふつうの大人が着る「直垂」(ひたたれ)をさらに赤く染め上げたものを着せる。それが禿(かむろ)であり聖なる童子の姿とされた。平清盛はそんな童形の禿(かむろ)を三〇〇人集結させて私設警察のように扱う。京の都をぶらぶらうろつかせ、平家の悪口を言う者を見つけた場合、その家に乱入して一切合切の資財を没収し清盛のいる六波羅殿へ連行させる。
「入道相國(シヤウコク)のはかりことに、一四五六の童部(わらんべ)を、三百人そろへて、髪(カミ)をかぶろにきりまはし、あかき直垂(ヒタタレ)を着せて召しつかはれけるが、京中に満ち満ちて往反(ワウヘン)しけり。をのづから平家の事をあしざまに申(まうす)者あれば、一人(いちにん)聞き出(いだ)さぬほどこそありけれ、余党(ヨタウ)に触廻(フレメグラ)して、其家(ソノイエ)に乱入(ランニウ)し、資財雑具(シザイザウグ)を追捕(ツイフク)し、其奴(ヤツ)を搦(カラメ)とッて、六波羅へゐて参(まい)る。されば目に見、心に知るといへど、詞(コトバ)にあらはれて申(まうす)なし。六波羅の禿(カブロ)と言ひてンしかば、道井を過ぐる馬車(ムマクルマ)もよぎてぞ通(とを)りける。禁門(キンモン)を出入(シユツニウ)すといへども、姓名(シヤウミヤウ)を尋(タヅネ)らるるに及ばす。京師(ケイシ)の(チヤウリ)、これが為(ため)に目を側(ソバム)と見えたり」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第一・禿髪(かぶろ)・P.13~14」岩波書店)
さらに禿(かむろ)たちは天皇のいる禁門を平然と出入りする。職務質問もされない。むしろ「京師(ケイシ)の(チヤウリ)」=「高級官僚」はあらぬかたに目をやり見ぬふりをしてやり過ごしている。なおこの箇所は、陳鴻(ちんこう)「長恨歌伝」からの引用。「出入禁門不問、京師為之側目」。現代語訳は次の通り。
「皇宮の宮門の出入りは勝手で、とがめられなかったから、京師のお歴々は、目を側(そば)だてていた」(陳鴻「長恨歌伝」『唐宗伝奇集・上・P.160』岩波文庫)
とはいえ平清盛にそれが可能だったのはなぜか。子どもだったから見逃されたわけではまったくない。事情は逆であって、彼ら思春期の美童らが、禿(かむろ)として「童子(どうじ)」=「聖なる童形(どうぎょう)」の姿形を取っていたからである。幼児でもなく大人でもない。男子であり女子でもある。同時に両者である。貨幣にも似たそのヘルマフロディーテ的特権性を、当時の人々は神に準ずるものと見て畏(おそ)れたのである。
BGM
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