熊楠は続ける。次の文章の後半は余り熊野に関係がない。関心を覚えるのは前半。
「西の王子は出立の浜と称し、脇屋儀助、熊野湛増、また征韓の役に杉岩越後守等、みなこの出立の浜かを出船せるなり。御存知通り熊野兵は昔よりどちらともつかず、ただ報酬多き方へ傭われたること、『平家物語』、『太平記』にて知られる。南北朝ころは、薩摩、大隈まで加勢に行き、また戦国には北条氏、里見氏までも援兵にやとわれ候。悪いことのようなれど、ハラムの『欧州開化史』にも、傭兵(マーセナレー)起こりてより戦士本気になって働かず、ある戦いに三日とか数万の傭兵仏国で大戦争し、戦士無慮三名、それも大酩酊の上馬に乗り行きしゆえ馬より落ち不慮に死したるなりと知れ、敵も味方も阿房(あほ)らしくなり、ついに戦争少なくなれり、とありしよう覚え候。しからば、ちと牽強ながら、慶元の際邦人兵戈(へいか)に飽き足りしとき熊野兵のようなものありしゆえ、いよいよ戦争がつまらなくなり、終(つい)に徳川三百歳の太平を享けるに及べりと故事(こじ)つけ得べく、恐縮ながら赤十字社などや平和会議の先鞭を着けしものの史蹟として保存すべきものなり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.410~411』河出文庫)
熊野の「湛増」については前にも触れた。弁慶の父とされる人物。
「熊野(くまのの)別当湛増(タンゾウ)は、平家へや参るべき、源氏へや参るべきとて田辺(たなべ)の今熊野(いまくまの)にて御神楽(みかぐら)奏して、権現(ゴンゲン)に祈誓(キセイ)したてまつる。『白旗につけ』と御託宣(ごたくせん)有けるを、猶(なほ)うたがひをなして、白い鶏(にはとり)七つ、赤き鶏七つ、これをもッて権現の御まへにて勝負をせさす。赤きとり一(ひとつ)もかたず、みな負けてにげにけり。さてこそ源氏へ参らんと思ひさだめけれ」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第一一・鶏合壇浦合戦・P.285」岩波書店)
湛増はなぜすぐに源氏を支援せず、卜占(うらない)を重ねたのか。年来、平家の安泰を祈願してきた立場だったから。ところが周囲はどんどん源氏に付いていくようになる。それまで気心の知れた知人友人らがこぞって動き始めると自分の心情も揺れ動くものだ。そこで田辺権現(闘鶏神社)でわざわざ「御託宣(ごたくせん)」を得ることにした。出た言葉が「『白旗につけ』」=「源氏方を支援せよ」とのこと。この「託宣」を出したのは誰だろう。形式的には神が出したことになっているわけだが、当時の神道では仲介者がおり、例えば「源平盛衰記」によれば、この時の仲介者は「巫女」だったらしい。だが巫女といっても女性とばかりは限らない。男巫(おとこみこ)も多くいたと柳田國男はいう。
「『巫女考』に『吾妻(あづま)には女は無きか男みこ云々』の古謡を引いて、神寄せの業は女子をもって原則とするかのごとく説いたのは(郷土研究一巻二〇六頁以下)、巫女考としてはやむを得ぬかも知らぬが、男巫女(おとこみこ)は実は決して例外ではなかった。中山流の法華宗において今も盛んに行わるる因祈禱(よりきとう)を始めとし、法師巫(ほうしみこ)すなわち仏者のこの部面に携わる者は、優に一階級を形づくるに足るほど多かった。ただ地方によりその呼称を区々(まちまち)にするのと、後世その活動がすこしく散漫になっていたために、第二の商売を有する女巫に負けたのである」(柳田國男「毛坊主考・護法童子」『柳田國男全集11・P.521』ちくま文庫)
女巫の「第二の商売」は舞を舞ったり歌を歌ったりして生活資金を稼ぐこと。本来の祈祷者、依代(よりしろ)という立場とは異なる。こうした兼業は早くから始まっていたようだ。
また、熊楠は「熊野兵」と言っているが、なかでも関心を引くのは熊野水軍についてである。熊野といえば山岳地帯ばかりとも限らない。ここでも「金剛童子」が登場する。
「一門の物どもあひもよほし、都合其勢二千余人、二百余艘の舟に乗りつれて、若王子(にやくわうじ)の御正体(をしやうだい)を舟に乗せまゐらせ、旗のよこがみには金剛童子をかきたてまッて、壇の浦へよするを見て、源氏も平氏もともにをがむ。されども源氏の方へつきければ、平家興(けう)さめてぞ思はれける。又伊予(いよの)国の住人、河野四郎道信(みちのぶ)、百五十艘の兵船(ひやうせん)に乗りつれてこぎ来り、源氏とひとつになりにけり」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第一一・鶏合壇浦合戦・P.285」岩波書店)
金剛童子は修験道にせよ熊野三山にせよ、いずれからも護法神として祭祀されてきた「童形の守護神」である。性別不明。ともかく大事なのは童子であること。童子ゆえに中性性が保たれるのである。若王子(にやくわうじ)は若一王子を指す。王子信仰の起源にあるのはどのような信仰か。「熊野本地の草子」を通して既に見た。ところどころでグロテスクな描写が突発する怨嗟、怨霊、讒言、白骨化した女御の首など、無残無類の悲劇。そしてそれを絵解した(語り伝えた)のが熊野比丘尼(くまののびくに)である。「熊野本地の草子」の舞台は「摩訶陀(マカダ)国」とされているけれども、実をいうと、熊野の地こそが本当の舞台だ。大和政権誕生以前、熊野には夥しい数の王子信仰があらかじめ打ち立てられていた。万葉集編纂の時代すでに頻出している。さらに熊野水軍が興味を引く理由は、熊野水軍の行くところ、必ず不可解な現象が起こることになっていて、平家物語の次の箇所でもまたその種の現象が起こったとされている点にある。
「源氏のかたよりいるかといふ魚(うを)一二千はうで、平家の方へむかひける。大臣殿(おほいとの)これを御らんじて、小博士(こはかせ)晴信(はれのぶ)を召して、『いるかは常におほけれども、いまだかやうの事なし。いかがあるべきとかんがへ申せ』と仰(おほせ)られければ、『このいるか、はみかえり候はば、源氏ほろび候べし。はうでとほり候はば、みかたの御いくさあやふふ候』と申(まうし)もはてねば、平家の舟のしたをすぐにはうでとほりけり。『世の中はいまはかう』とぞ申(まうし)たる」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第一一・遠矢・P.292」岩波書店)
いるかの群が出現し、平家方を放棄して泳ぎ去ったという箇所。「小博士(こはかせ)晴信(はれのぶ)」とあるのは、このとき預言者として呼び出された人物が「晴信(はれのぶ)」という名だったということ。「小博士(こはかせ)」があれば「大博士」もあったろうと考えられる。しかし通説とされるほど根拠のある資料は今なおない。ただ、「博士」(ハカセ)が何だったかは判明している。陰陽師であり卜占に従事した者のこと。だが卜占従事者もまた他の職業との兼業を余儀なくされていく。
「法師にしてハカセすなわち陰陽師を兼業した者は近世まであった」(柳田國男「巫女考・夷下し、稲荷下し」『柳田國男全集11・P.337』ちくま文庫)
そして「小博士(こはかせ)晴信(はれのぶ)」が予言を述べ終わる間もなく、いるかの群れが過ぎ去ったため、平家方は「『世の中はいまはかう』」との言葉を吐いてしまう。「いまはかう」は「もはやこれまで」という意味。
法師あるいはハカセすなわち陰陽師。森の信仰の絶滅によって思いも寄らない「兼業」が発生した。年少者の場合、男子なら男色がそうであり、とりわけ思春期の美童であればあるほど、同性愛といっても必ずしも友道・友愛にかなう純然たるものではなく、ただ単に女性の代わりとして酷使されもし、傷つき放浪するほかなくなり山中や路上での餓死者となって果てる者が後を絶たなかった。陰陽道の是非はともかく、兼業するしか生きていくことができなくなるような政治とはどのような政治だったか。それを政治と呼ぶに値する価値が本当にあるのか。あるとすれば一体どれほどなのか。しかし民衆の声は余りにも小さく、瞬く間もなく掻き消されてしまうのが常だった。
ところが「椿説弓張月」(ちんせつゆみはりづき)にあるように琉球王朝ではまったく事情が異なっていた。女性の神子(みこ)=巫女(みこ)としての託宣は絶対的であり、次のように宮廷内の権力闘争に関わり、多大な権威として振る舞いもし利用されもした。
「北谷(きただに)なる託女(みこ)の長(おさ)、阿公(くまぎみ)に問(とは)し給へ。彼(かの)阿公(くまぎみ)は、前中山省(さきのちうさんせう)勝連(かつれん)の親方(おやかた)、法司(ほうす)阿高(あこう)が女兒(むすめ)にて、幼稚(いとけなき)とき父母(ちちはは)を喪(うしな)ひ、兄弟(きやうだい)もなかりしかば、先王(せんわう)憐(あはれん)で、父(ちち)の舊領(きうれう)、三(みつ)が一ツを給はり、これを託女(みこ)の長(おさ)として、女君(によくん)に准(じゆん)せられしかば、世の人彼(かれ)を喚(よん)で、北谷(きたたに)の女王(によわう)と稱(となへ)、福(ふく)の禱(いのり)、禍(わざはひ)を禳(はら)はするに、響(ひびき)の物(もの)を應(おう)ずるがごとし。彼(かれ)原來(もとより)人(ひと)に嫁(よめ)らず。ーーー阿公(くまぎみ)は豫(かね)て利勇(りゆう)が伎倆(たくみ)に與(くみ)し、君眞物(きんまんもん)の祟(たたり)なり、と偽(いつは)りて、海山(うみやま)をあらするは、彼(かれ)が所爲(わざ)なれば、はやくそのこころを得(え)、夥(あまた)の弟子託女(でしみこ)を將(い)て、草圜(さうくわん)を戴(いただ)き、浄衣(じやうえ)をうち被(き)て、出迎(いでむか)へつつ、仰(おふせ)をうけ給はり、しばしうち按(あん)ずるおももちにて、いらへまうすやう、かしこけれど、大王(だいわう)既(すで)に神(かみ)と人(ひと)とのこころにたがはし給ふから、天(てん)この災(わざはひ)を降(くだ)し給へり、今これを禳除(はらひのぞか)んには、辰(たつ)の年月日時(ねんげつじつじ)に生(うま)れたる、女子(をなご)を犠(にえ)として、この海(うみ)に投(しづ)め、大王(だいわう)みづから懺悔(ざんげ)して、水伯(おうちきう)を祭慰(まつりなぐさ)め給はば、神の鎮(しづま)り給ふ事もありなん、もししかし給はずは、國中(こくちう)荒廢(あれすた)れて、忌々(ゆゆ)しき大事(だいじ)に及(およ)ぶべしといらへけり」(曲亭馬琴「椿説弓張月・中巻・第三十三回・P.90~91」岩波文庫)
なるほど「阿公(くまぎみ)」は長年ヒール役として見なされてきた。しかし一方、ヒール役がここまで重要な役割を受け持つ伝統はたいへん貴重である。琉球神道においては今なお女性固有の聖性の重さが段違いに認められている。この種の南方系の神話・信仰は、遠くメラネシアから東南アジア、台湾、八重山群島を経て、広い文化圏を形づくっている。その終着点としてもまた、熊野の地を見ないわけにはいかない。日本史のところどころに出現する熊野水軍の異質性を検出してみるためには、このように太平洋全体の物産と海運とその流れを前提条件として考えるほか、切り離せない生態系の循環が存在するのである。
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「西の王子は出立の浜と称し、脇屋儀助、熊野湛増、また征韓の役に杉岩越後守等、みなこの出立の浜かを出船せるなり。御存知通り熊野兵は昔よりどちらともつかず、ただ報酬多き方へ傭われたること、『平家物語』、『太平記』にて知られる。南北朝ころは、薩摩、大隈まで加勢に行き、また戦国には北条氏、里見氏までも援兵にやとわれ候。悪いことのようなれど、ハラムの『欧州開化史』にも、傭兵(マーセナレー)起こりてより戦士本気になって働かず、ある戦いに三日とか数万の傭兵仏国で大戦争し、戦士無慮三名、それも大酩酊の上馬に乗り行きしゆえ馬より落ち不慮に死したるなりと知れ、敵も味方も阿房(あほ)らしくなり、ついに戦争少なくなれり、とありしよう覚え候。しからば、ちと牽強ながら、慶元の際邦人兵戈(へいか)に飽き足りしとき熊野兵のようなものありしゆえ、いよいよ戦争がつまらなくなり、終(つい)に徳川三百歳の太平を享けるに及べりと故事(こじ)つけ得べく、恐縮ながら赤十字社などや平和会議の先鞭を着けしものの史蹟として保存すべきものなり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.410~411』河出文庫)
熊野の「湛増」については前にも触れた。弁慶の父とされる人物。
「熊野(くまのの)別当湛増(タンゾウ)は、平家へや参るべき、源氏へや参るべきとて田辺(たなべ)の今熊野(いまくまの)にて御神楽(みかぐら)奏して、権現(ゴンゲン)に祈誓(キセイ)したてまつる。『白旗につけ』と御託宣(ごたくせん)有けるを、猶(なほ)うたがひをなして、白い鶏(にはとり)七つ、赤き鶏七つ、これをもッて権現の御まへにて勝負をせさす。赤きとり一(ひとつ)もかたず、みな負けてにげにけり。さてこそ源氏へ参らんと思ひさだめけれ」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第一一・鶏合壇浦合戦・P.285」岩波書店)
湛増はなぜすぐに源氏を支援せず、卜占(うらない)を重ねたのか。年来、平家の安泰を祈願してきた立場だったから。ところが周囲はどんどん源氏に付いていくようになる。それまで気心の知れた知人友人らがこぞって動き始めると自分の心情も揺れ動くものだ。そこで田辺権現(闘鶏神社)でわざわざ「御託宣(ごたくせん)」を得ることにした。出た言葉が「『白旗につけ』」=「源氏方を支援せよ」とのこと。この「託宣」を出したのは誰だろう。形式的には神が出したことになっているわけだが、当時の神道では仲介者がおり、例えば「源平盛衰記」によれば、この時の仲介者は「巫女」だったらしい。だが巫女といっても女性とばかりは限らない。男巫(おとこみこ)も多くいたと柳田國男はいう。
「『巫女考』に『吾妻(あづま)には女は無きか男みこ云々』の古謡を引いて、神寄せの業は女子をもって原則とするかのごとく説いたのは(郷土研究一巻二〇六頁以下)、巫女考としてはやむを得ぬかも知らぬが、男巫女(おとこみこ)は実は決して例外ではなかった。中山流の法華宗において今も盛んに行わるる因祈禱(よりきとう)を始めとし、法師巫(ほうしみこ)すなわち仏者のこの部面に携わる者は、優に一階級を形づくるに足るほど多かった。ただ地方によりその呼称を区々(まちまち)にするのと、後世その活動がすこしく散漫になっていたために、第二の商売を有する女巫に負けたのである」(柳田國男「毛坊主考・護法童子」『柳田國男全集11・P.521』ちくま文庫)
女巫の「第二の商売」は舞を舞ったり歌を歌ったりして生活資金を稼ぐこと。本来の祈祷者、依代(よりしろ)という立場とは異なる。こうした兼業は早くから始まっていたようだ。
また、熊楠は「熊野兵」と言っているが、なかでも関心を引くのは熊野水軍についてである。熊野といえば山岳地帯ばかりとも限らない。ここでも「金剛童子」が登場する。
「一門の物どもあひもよほし、都合其勢二千余人、二百余艘の舟に乗りつれて、若王子(にやくわうじ)の御正体(をしやうだい)を舟に乗せまゐらせ、旗のよこがみには金剛童子をかきたてまッて、壇の浦へよするを見て、源氏も平氏もともにをがむ。されども源氏の方へつきければ、平家興(けう)さめてぞ思はれける。又伊予(いよの)国の住人、河野四郎道信(みちのぶ)、百五十艘の兵船(ひやうせん)に乗りつれてこぎ来り、源氏とひとつになりにけり」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第一一・鶏合壇浦合戦・P.285」岩波書店)
金剛童子は修験道にせよ熊野三山にせよ、いずれからも護法神として祭祀されてきた「童形の守護神」である。性別不明。ともかく大事なのは童子であること。童子ゆえに中性性が保たれるのである。若王子(にやくわうじ)は若一王子を指す。王子信仰の起源にあるのはどのような信仰か。「熊野本地の草子」を通して既に見た。ところどころでグロテスクな描写が突発する怨嗟、怨霊、讒言、白骨化した女御の首など、無残無類の悲劇。そしてそれを絵解した(語り伝えた)のが熊野比丘尼(くまののびくに)である。「熊野本地の草子」の舞台は「摩訶陀(マカダ)国」とされているけれども、実をいうと、熊野の地こそが本当の舞台だ。大和政権誕生以前、熊野には夥しい数の王子信仰があらかじめ打ち立てられていた。万葉集編纂の時代すでに頻出している。さらに熊野水軍が興味を引く理由は、熊野水軍の行くところ、必ず不可解な現象が起こることになっていて、平家物語の次の箇所でもまたその種の現象が起こったとされている点にある。
「源氏のかたよりいるかといふ魚(うを)一二千はうで、平家の方へむかひける。大臣殿(おほいとの)これを御らんじて、小博士(こはかせ)晴信(はれのぶ)を召して、『いるかは常におほけれども、いまだかやうの事なし。いかがあるべきとかんがへ申せ』と仰(おほせ)られければ、『このいるか、はみかえり候はば、源氏ほろび候べし。はうでとほり候はば、みかたの御いくさあやふふ候』と申(まうし)もはてねば、平家の舟のしたをすぐにはうでとほりけり。『世の中はいまはかう』とぞ申(まうし)たる」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第一一・遠矢・P.292」岩波書店)
いるかの群が出現し、平家方を放棄して泳ぎ去ったという箇所。「小博士(こはかせ)晴信(はれのぶ)」とあるのは、このとき預言者として呼び出された人物が「晴信(はれのぶ)」という名だったということ。「小博士(こはかせ)」があれば「大博士」もあったろうと考えられる。しかし通説とされるほど根拠のある資料は今なおない。ただ、「博士」(ハカセ)が何だったかは判明している。陰陽師であり卜占に従事した者のこと。だが卜占従事者もまた他の職業との兼業を余儀なくされていく。
「法師にしてハカセすなわち陰陽師を兼業した者は近世まであった」(柳田國男「巫女考・夷下し、稲荷下し」『柳田國男全集11・P.337』ちくま文庫)
そして「小博士(こはかせ)晴信(はれのぶ)」が予言を述べ終わる間もなく、いるかの群れが過ぎ去ったため、平家方は「『世の中はいまはかう』」との言葉を吐いてしまう。「いまはかう」は「もはやこれまで」という意味。
法師あるいはハカセすなわち陰陽師。森の信仰の絶滅によって思いも寄らない「兼業」が発生した。年少者の場合、男子なら男色がそうであり、とりわけ思春期の美童であればあるほど、同性愛といっても必ずしも友道・友愛にかなう純然たるものではなく、ただ単に女性の代わりとして酷使されもし、傷つき放浪するほかなくなり山中や路上での餓死者となって果てる者が後を絶たなかった。陰陽道の是非はともかく、兼業するしか生きていくことができなくなるような政治とはどのような政治だったか。それを政治と呼ぶに値する価値が本当にあるのか。あるとすれば一体どれほどなのか。しかし民衆の声は余りにも小さく、瞬く間もなく掻き消されてしまうのが常だった。
ところが「椿説弓張月」(ちんせつゆみはりづき)にあるように琉球王朝ではまったく事情が異なっていた。女性の神子(みこ)=巫女(みこ)としての託宣は絶対的であり、次のように宮廷内の権力闘争に関わり、多大な権威として振る舞いもし利用されもした。
「北谷(きただに)なる託女(みこ)の長(おさ)、阿公(くまぎみ)に問(とは)し給へ。彼(かの)阿公(くまぎみ)は、前中山省(さきのちうさんせう)勝連(かつれん)の親方(おやかた)、法司(ほうす)阿高(あこう)が女兒(むすめ)にて、幼稚(いとけなき)とき父母(ちちはは)を喪(うしな)ひ、兄弟(きやうだい)もなかりしかば、先王(せんわう)憐(あはれん)で、父(ちち)の舊領(きうれう)、三(みつ)が一ツを給はり、これを託女(みこ)の長(おさ)として、女君(によくん)に准(じゆん)せられしかば、世の人彼(かれ)を喚(よん)で、北谷(きたたに)の女王(によわう)と稱(となへ)、福(ふく)の禱(いのり)、禍(わざはひ)を禳(はら)はするに、響(ひびき)の物(もの)を應(おう)ずるがごとし。彼(かれ)原來(もとより)人(ひと)に嫁(よめ)らず。ーーー阿公(くまぎみ)は豫(かね)て利勇(りゆう)が伎倆(たくみ)に與(くみ)し、君眞物(きんまんもん)の祟(たたり)なり、と偽(いつは)りて、海山(うみやま)をあらするは、彼(かれ)が所爲(わざ)なれば、はやくそのこころを得(え)、夥(あまた)の弟子託女(でしみこ)を將(い)て、草圜(さうくわん)を戴(いただ)き、浄衣(じやうえ)をうち被(き)て、出迎(いでむか)へつつ、仰(おふせ)をうけ給はり、しばしうち按(あん)ずるおももちにて、いらへまうすやう、かしこけれど、大王(だいわう)既(すで)に神(かみ)と人(ひと)とのこころにたがはし給ふから、天(てん)この災(わざはひ)を降(くだ)し給へり、今これを禳除(はらひのぞか)んには、辰(たつ)の年月日時(ねんげつじつじ)に生(うま)れたる、女子(をなご)を犠(にえ)として、この海(うみ)に投(しづ)め、大王(だいわう)みづから懺悔(ざんげ)して、水伯(おうちきう)を祭慰(まつりなぐさ)め給はば、神の鎮(しづま)り給ふ事もありなん、もししかし給はずは、國中(こくちう)荒廢(あれすた)れて、忌々(ゆゆ)しき大事(だいじ)に及(およ)ぶべしといらへけり」(曲亭馬琴「椿説弓張月・中巻・第三十三回・P.90~91」岩波文庫)
なるほど「阿公(くまぎみ)」は長年ヒール役として見なされてきた。しかし一方、ヒール役がここまで重要な役割を受け持つ伝統はたいへん貴重である。琉球神道においては今なお女性固有の聖性の重さが段違いに認められている。この種の南方系の神話・信仰は、遠くメラネシアから東南アジア、台湾、八重山群島を経て、広い文化圏を形づくっている。その終着点としてもまた、熊野の地を見ないわけにはいかない。日本史のところどころに出現する熊野水軍の異質性を検出してみるためには、このように太平洋全体の物産と海運とその流れを前提条件として考えるほか、切り離せない生態系の循環が存在するのである。
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