白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

仮面等価性26・死と再生の聖地/古代ギリシアと紀の国と

2020年09月14日 | 日記・エッセイ・コラム
ルキウスは与えられたイニシエーションのすべてを済ませた。しかし再生の徴(しるし)として真新しい生活様式へと入っていくあたっての儀式はなかなか終わらない。奇妙なほどの規則性を見せている。

「私は神に捧げられたしるしである十二枚の法衣を身にまとい、内陣から出てきました。この法衣はそれ自体十分に秘儀的性格を持っていましたけど、お話ししても別に差し支えありません。というのは、あのときそこに居合わせた多くの人たちもそれを見たのですから。ともかく私はその姿で神殿の真ん中に導かれ、女神の御像の前で木製の台の上に立たされました。私は亜麻の美しい花模様のある着物をきて、人目を奪うばかりでした。そして高価な肩掛けがゆったりと肩から背中を廻って踵まで落ちていました。その肩掛けの人目のつくところはどこにも、いろいろな動物の姿がさまざまな色彩を使って美しく描かれ、ここにはインドの竜、あそこには極北の世界に住んでいるヒュペルボレイオス人の翼を持った怪物グリュプスといった工合でした。ーーー私は右手に燃える松明を高く捧げ持ち、頭には美しい棕櫚の葉冠を戴き、その葉は太陽の光線の如く四方に輝きを放っていました。ーーー私は太陽の姿をまねて着飾り、女神の御姿そっくりになったかと思うと、とつぜん四方の幕が取り払われたのです。私を見ようと思って群集が流れ込んだためでした。それから私は素晴らしい御馳走(ごちそう)と賑やかな会食者によって、神への奉仕者の誕生は規定の規則どおり秘儀の儀式を完了しました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の11・P.462~463」岩波文庫)

引用してみるとわずらわしい作業に思えるけれども民俗学的見地からみればほとんど教科書通りの、大変オーソドックスなタイプのアニミズムに類する。ところがこの種のアニミズムは遥か太古のエピソードのみを物語っているわけではけっしてない。むしろ日本では古代ばかりでなく明治近代国家の実現とともに国内の地域紛争のような形で出現した。南方熊楠はその只中で様々な活動を繰り広げた知識人の一人だった。熊楠は告発する。

「当国の山は大塔峰(おおとうのみね)〔東西牟婁郡界に連亙す〕三千八百尺ばかりを最高とす。次は大雲取(三千二百尺)、大甲(たいこう、三千三百尺ばかり?)、また小生がつねに往く安堵峰(三千四百尺?)等なり。しかるに、これらはいずれも北国に比してつまらぬもので、頂上は茅原(かやはら)リンドウ、ウメバチソウ、コトジソウ、マルバイチヤクソウ等ありふれたものを散在するのみ。それより下にブナの林あり。ブナは伐ったらすぐ挽(ひ)かねば腐って粉砕す。故に濫伐の日には実に濫伐を急ぐなり。この半熱帯地にブナ林あるもちょっと珍しければ、少々はのこされたきことなり。しかるに目下そんな制度少しもなく、郡長などいうもの、何とかしてこれを富豪に払い下げ、コンミッションを得て安楽に退職せんと民を苦しめ、入りもせぬ道路開鑿(かいさく)をつとめること大はやりなり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.432~433』河出文庫)

まず始めに新しく出来た国家の役人らと闘争しなくてはならない。熊野の奥深い森の歴史的意義がどのようなものかてんでわかってもいない明治政府の役人らが相手である。「郡長などいうもの、何とかしてこれを富豪に払い下げ、コンミッションを得て安楽に退職せんと民を苦しめ、入りもせぬ道路開鑿(かいさく)をつとめること大はやり」という始末。しかもこの闘争は国策との闘いであり長期戦になるだろうと思われたし実際長期戦へともつれ込む。熊楠が言及している「大塔峰(おおとうのみね)」。ただ単に森林としてのみ貴重だと述べているわけでは全然ない。太平記に次の文章がある。

「般若寺(はんにゃじ)を御出であって、熊野(くまの)の方(かた)へぞ落ちさせ給ひける」(「太平記1・第五巻・8・P.250」岩波文庫)

大塔宮(おおとうのみや)の熊野落ちのシーン。

「宮を始め奉つて、御共の者ども、皆柿(かき)の衣(ころも)に笈(おい)を懸けて、頭巾(ときん)眉半(まゆなか)ばに責めて、その中の年(とし)長ぜるを先達(せんだち)に造り立てて、田舎山伏(いなかやまぶし)の熊野詣でする体(てい)にぞ見せたりける」(「太平記1・第五巻・8・P.251」岩波文庫)

護良(もりなが)親王の一行は「柿(かき)の衣(ころも)に笈(おい)を懸けて」、「田舎山伏(いなかやまぶし)の熊野詣でする体(てい)」で熊野へ落ち延びている。山岳信仰者だった山伏の衣装は柿色を主としており、柿色の衣で身を包んだ山伏は全国の関渡津泊を自由に往来することができた。過酷この上ない山岳地帯ばかりを修験道の道場とする山伏は民衆から見れば手の届かない「神」の姿であり、祝言職を執り行うこともできるので同時に「・乞食(こつじき)」として様々な寺社で庇護を受けるとともに《聖なる》存在と見なされた。柿色の衣はその象徴である。

「由良(ゆら)の湊(みなと)を見渡せば、門(と)渡る船の梶(かじ)を絶え、浦の夕塩(ゆうじお)幾重(いくえ)とも、知らぬ浪路(なみじ)に鳴く千鳥(ちどり)、紀(き)の路(じ)の遠山(とおやま)遥々(はるばる)と、藤代(ふじしろ)の松に懸かる浪、和歌(わか)、吹上(ふきあげ)を余所(よそ)に見て、月にみがける玉津島(たまつしま)、さらでだに長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の道は、心を砕(くだ)く習ひなるに、雨を含める孤村(こそん)の樹(き)、夕べを送る遠寺(えんじ)の鐘、あはれを催(もよお)す時しもあれ、切目(きりめ)の王子(おうじ)に着き給ふ」(「太平記1・第五巻・8・P.251~252」岩波文庫)

落ち延びていく過程でポイントをはずすわけにはいかない。「由良(ゆら)の門(と)」はヨーロッパ文学でいう「狭き門」である。この熊野落ちはけっして順調な行程を経るわけにはいかないだろうという暗示のようなものだ。さて実際の逃避行は、「藤代(ふじしろ)=藤白」、「和歌の浦」、「吹上浜」、「玉津島」、「切目(きりめ)の王子(おうじ)」、というように古代政権成立頃から連綿と受け継がれる和歌の道とたいへん長く深い関係箇所を通り過ぎる。

万葉集から見てみよう。

「若(わか)の浦(うら)に潮満(み)ち来(く)れば潟(かた)をなみ葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・九一九・山部赤人・P.134」小学館)

「若(わか)の浦(うら)に白波立ちて沖つ風寒き夕(ゆふへ)は大和(やまと)し思ほゆ」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第七・一二一九・P.137」小学館)

「若(わか)の浦(うら)に袖(そで)さへ濡(ぬ)れて忘れ貝(がひ)拾(ひり)へど妹は忘らえなくに」(日本古典文学全集「万葉集3・巻第一二・三一七五・P.358」小学館)

和歌の浦といっても万葉集の時代には「若=わか」が使われていた。皇族にとって「和歌の浦」は第一に「若(わか)の浦」であり王子信仰の地である。第二に、そことの往還と繰り返される反復とは、「若(わか)の浦」という「ミソギ」の地を介する新たな再生の成就を意味した。また、皇室内の政争に巻き込まれて悲劇的な死に方をした有間皇子を思わせる歌が幾つか、万葉集に収録されている。その地もまた紀の国である。「磐代(いはしろ)」は紀の国の枕詞。

「磐代(いはしろ)の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまたかへりみむ」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第二・一四一・有間皇子・P.140」小学館)

「磐代(いはしろ)の崖(きし)の松が枝(え)結びけむ人はかへりてまた見けむかも」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第二・一四三・長忌寸奥麻呂・P.141」小学館)

「磐代(いはしろ)の野中(のなか)に立てる結び松心も解(と)けず古(いにしへ)思ほふ」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第二・一四四・長忌寸奥麻呂・P.141」小学館)

「後(のち)見むと君が結べる磐代(いはしろ)の小松がうれをまた見けむかも」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第二・一四六・柿本人麻呂・P.142」小学館)

「藤白(ふじしろ)のみ坂を越ゆと白たへの我(わ)が衣手(ころもで)は濡(ぬ)れにけるかも」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第九・一六七五・P.388」小学館)

有間皇子を意識したのか源実朝は、有間皇子が処刑されたとされる熊野の牟婁郡を舞台に次の歌を残している。

「み熊野(くまの)の梛(なぎ)の葉しだり雪降(ふれ)ば神のかけたる四手(しで)にぞ有(ある)らし」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三七・P.207」岩波文庫)

「五月雨(さみだれ)を幣(ぬさ)に手向(たむけ)てみ熊野の山時鳥(やまほととぎす)鳴(な)きとよむなり」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三八・P.208」岩波文庫)

「み熊野(くまの)の那智(なち)のお山に引(ひく)標(しめ)のうちはへてのみ落(お)つる瀧かな」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三九・P.208」岩波文庫)

「冬ごもり那智(なち)の嵐の寒ければ苔(こけ)の衣(ころも)のうすくや有(ある)らん」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六四〇・P.208」岩波文庫)

和歌の腕前は並でなく、周囲の物騒で政治的な動きにも大変敏感だった実朝にとって、自分も暗殺されるほかないだろうとほとんど確信していたことは間違いない。他の和歌も拾ってみよう。「紀の国、和歌の浦、熊野」の地がどのように捉えられていたかもう少し明確にしたい。新古今和歌集から。

「和歌(わか)の浦(うら)にいゑの風こそなけれども浪(なみ)ふく色(いろ)は月に見(み)えけり」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第十六・一五〇六・民部卿範光・P.440」岩波書店)

「和歌(わか)の浦(うら)に月の出(い)で潮(しほ)のさすままに夜(よる)なく鶴(つる)の声ぞかなしき」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第十六・一五五六・慈円・P.454」岩波書店)

「和歌(わか)の浦(うら)や沖(おき)つ潮合(しほあひ)に浮(うか)び出(い)づるあはれわが身のよるべ知(し)らせよ」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第十八・一七六一・家隆朝臣・P.513」岩波書店)

「和歌(わか)の浦(うら)を松の葉ごしにながむれば梢(こずゑ)によする海人(あま)の釣舟(つりふね)」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第十七・一六〇三・寂蓮法師・P.468」岩波書店)

すでに「和歌の浦」の神格化は済まされている。とはいえ、「若(わか)」に込められた「ミゾギと再生」の意味が脱落したわけではない。後々「老(おい)」と対になって出てきたりする。中世に入ってからはどのようなものが見られるだろう。

「和歌のうらの契(ちぎり)もふかしもしほ草しづまむよよをすくへとぞおもふ」(新日本古典文学体系「南海漁夫北山樵客百番歌合・一九九」『中世和歌集・鎌倉編・P.116』岩波書店)

「和歌の浦やなぎたる朝(あさ)のみをつくし朽(く)ちぬかひなき名だに残らで」(新日本古典文学体系「定家卿百番自歌合・一八三」『中世和歌集・鎌倉編・P.151』岩波書店)

「和歌の浦や立つうはなみの跡をたちおきをふかめて見し人ぞなき」(新日本古典文学体系「家隆卿百番自歌合・一八八」『中世和歌集・鎌倉編・P.190』岩波書店)

「和歌の浦や沖(おき)つ潮相(しほあひ)にうかび出(いづ)るあはれ我身(わがみ)のよるべしらせよ」(新日本古典文学体系「家隆卿百番自歌合・一九五」『中世和歌集・鎌倉編・P.191』岩波書店)

「和歌の浦や昔ながらの浜千鳥ありしにもあらぬねこそなかるれ」(新日本古典文学体系「中院詠草・七四」『中世和歌集・鎌倉編・P.348』岩波書店)

「和歌の浦に老(おい)ずはいかにもしほぐさなみのしわざもかきあつめまし」(新日本古典文学体系「中院詠草・一四七」『中世和歌集・鎌倉編・P.364』岩波書店)

「和歌(わか)の浦(うら)の真砂(まさご)や千代のありかずによむともつきぬためしなるらん」(新日本古典文学体系「兼好法師集・二三七」『中世和歌集・室町編・P.51』岩波書店)

「代々(よよ)をへてをさむる家の風なればしばしぞさわぐ和歌(わか)の浦波(うらなみ)」(新日本古典文学体系「兼好法師集・二四一」『中世和歌集・室町編・P.51』岩波書店)

「和歌(わか)の浦(うら)に三代(みよ)の跡ある浜千鳥(はまちどり)猶(なほ)かずそへむねこそなかるれ」(新日本古典文学体系「兼好法師集・二八一」『中世和歌集・室町編・P.60』岩波書店)

「和歌の浦にあとをとめずは浜千鳥なににつけてか名をのこさまし」(新日本古典文学体系「頓阿法師詠・二〇八」『中世和歌集・室町編・P.150』岩波書店)

「時にあふ和歌の浦わの友千鳥(ともちどり)おもひなきにもねこそなかるれ」(新日本古典文学体系「頓阿法師詠・二一〇」『中世和歌集・室町編・P.150』岩波書店)

「いまぞしる和歌(わか)の浦浪(うらなみ)うき身にもかけける神のめぐみなりとは」(新日本古典文学体系「頓阿法師詠・三六六」『中世和歌集・室町編・P.180』岩波書店)

「和歌(わか)の浦(うら)の蘆(あし)辺のたづもいく千代(ちよ)かかよひてすまむ庭の池水」(新日本古典文学体系「頓阿法師詠・三六七」『中世和歌集・室町編・P.180』岩波書店)

「和歌の浦(うら)につもりて玉をえがたきや五十(いそぢ)あまりの藻くづなるらん」(新日本古典文学体系「永享五年正徹詠草・一六八」『中世和歌集・室町編・P.215』岩波書店)

「和歌の浦(うら)に六十(むそぢ)の老(おい)の浪かけてぞなれぬ道をしぞ思(おもふ)」(新日本古典文学体系「宝徳二年十一月仙洞歌合・一二一・沙弥祐雅」『中世和歌集・室町編・P.299』岩波書店)

和歌の浦は歌道の総本山の様相を呈してくる。天皇を始めとして歌人たちがミソギを行う土地といえば奈良の吉野が圧倒的に多いような気がするけれども、和歌の浦もまた紀の国の牟婁(むれ)=熊野と同様、ミソギのための目的地として選ばれることが多かったのである。伏見院撰「玉葉和歌集」にも幾つか出てくる。

「和歌の浦に年へて住みし蘆田鶴(あしたづ)の雲居にのぼる今日のうれしさ」(「玉葉和歌集・卷第七・太宰大貮重家・P.176」岩波文庫)

「和歌の浦に千々の玉藻をかきつめて萬代までも君がみんため」(「玉葉和歌集・卷第七・皇太后宮大夫俊成・P.176」岩波文庫)

「和歌の浦やかきおく中の藻屑にも隠れぬ玉の光をぞみる」(「玉葉和歌集・卷第一八・入道前太政大臣・P.384」岩波文庫)

「和歌の浦に道踏みまよふ夜の鶴この情にぞねはなかれける」(「玉葉和歌集・卷第一八・前右兵衛督爲教・P.384」岩波文庫)

「和歌の浦の友をはなれて小夜千鳥その数ならぬねこそなかるれ」(「玉葉和歌集・卷第一八・藤原爲子・P.384」岩波文庫)

「和歌の浦に跡つけながら濱千鳥名にあらはれぬ音をのみぞなく」(「玉葉和歌集・卷第一八・中臣祐臣・P.384」岩波文庫)

「もしほ火の煙の末をたよりにて暫し立ちよる和歌の浦浪」(「玉葉和歌集・卷第一八・前関白太政大臣・P.385」岩波文庫)

「人なみに君忘れずばわかの浦の入江の藻くづ数ならずとも」(「玉葉和歌集・卷第一八・皇太后宮大夫俊成女・P.385」岩波文庫)

「藻屑にも光やそはん和歌の浦やかひある今日の玉にまじりて」(「玉葉和歌集・卷第一八・前参議爲相・P.396」岩波文庫)

「和歌の浦に沈むみくづよ磨かれん玉の光を見るよしもがな」(「玉葉和歌集・卷第一八・従三位爲子・P.396」岩波文庫)

「玉津島あはれと見ずや我がかたに吹き絶えぬべき和歌の浦風」(「玉葉和歌集・卷第一八・前大納言爲家・P.397」岩波文庫)

そして熊野について後白河院はこう歌う。

「熊野御幸三十二度の時、御前にて思召し続けさせ給うける 

忘るなよ雲はみやこを隔つともなれて久しき三熊野の月」(「玉葉和歌集・卷第二十・後白河院・P.437」岩波文庫)

返歌が返ってくる。

「しばしばもいかが忘れん君を守る心くもらず三熊野の月」(「玉葉和歌集・卷第二十・P.437」岩波文庫)

このように万葉集の時代から既に皇族らは、何度も繰り返し紀の国の和歌の浦と熊野とを往還している。そしてそこには海と森と磐座とがあり、なおかつ「ミソギ」が行われる地である。古代とはいえ実在するのがはっきりしている何人かの天皇もなぜか、和歌の浦と熊野とを含む「紀の国」を常に意識している。「牟婁温湯(むろのゆ)」は今の和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉。また和歌山県田辺市本宮町の湯峰・湯川と比される場合もある。

「九月(ながつき)に、有間皇子(ありまのみこ)、性黠(ひととなりさと)くして陽狂(うほりくるひ)すと、云云(しかしかいふ)。牟婁温湯(むろのゆ)に往(ゆ)きて、病(やまひ)を療(をさ)むる偽(まね)して来(まうき)、国(くに)の体勢(なり)を讃(ほ)めて曰(い)はく、『纔(ひただ)彼(そ)の地(ところ)を観(み)るに、病自(おの)づから蠲消(のぞこ)りぬ』と、云云(しかしかいふ)。天皇(すめらみこと)、聞(きこ)しめし悦(よろこ)びたまひて、往(おは)しまして観(みそなは)さむと思欲(おもほ)す」(「日本書紀4・巻第二六・斉明天皇二年是歳~三年是歳・P336」岩波文庫)

「冬(ふゆ)十月(かむなづき)の庚戌(かのえいぬ)の朔甲子(ついたちきのえねのひ)に、紀温湯(きのゆ)に幸(いでま)す。天皇(すめらみこと)、皇孫建王(みまごたけるのみこ)を憶(おもほしい)でて、愴爾(いた)み悲泣(かなし)びたまふ」(「日本書紀4・巻第二六・斉明天皇四年七月~十一月・P342」岩波文庫)

次の箇所で「皇太子(ひつぎのみこ)」とあるのは後の天智天皇のこと。有間皇子との最後の会話。

「戊子(つちのえねのひ)に、有間皇子と。守君大石(もりのきみおほいわ)・坂合部連薬(さかひべのむらじくすり)・塩屋連鯯魚(しほやのむらじこのしろ)とを捉(とら)へて、紀温湯(きのゆ)に送(おく)りたてまつりき。舎人(とねり)新田部米麻呂(にひたべのこめまろ)、従(みとも)なり。是に、皇太子(ひつぎのみこ)、親(みづか)ら有間皇子に問(と)ひて曰(のたま)はく、『何(なに)の故(ゆゑ)か謀反(みかどかたぶ)けむとする』とのたまふ。答(こた)へて曰(まう)さく、『天(あめ)と赤兄と知らむ。吾(おのれ)全(もはら)解(し)らず』とまうす。庚寅(かのえとらのひ)に、丹比小沢連国襲(たぢひのをざはのむらじくにそ)を遣して、有間皇子を藤白坂(ふじしろのさか)に絞(くび)らしむ」(「日本書紀4・巻第二六・斉明天皇四年十一月・P344」岩波文庫)

天武天皇条々でも「牟婁湯泉(むろのゆ)」が出てくる。

「是(こ)の月(三月)に、灰(はい)、信濃国(しなののくに)に零(ふ)れり。草木(くさき)皆枯(みなか)れぬ。夏(なつ)四月(うづき)の丙子(ひのえね)の朔己卯(ついたちつちのとのうのひ)に、紀伊国司(きのくにのみこともち)言(まう)さく、『牟婁湯泉(むろのゆ)、没(うも)れて出(い)でず』とまうす」(「日本書紀5・巻第二九・天武天皇・下・十四年三月~六月・P208」岩波文庫)

次の歌はこの頃に詠まれたものか。

「紀(き)の温泉(いでゆ)に幸(いでま)す時に、額田王の作る歌

莫囂円隣之大相七兄爪謁気我(わ)が背子(せこ)がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本(もと)」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第一・九・額田王・P.70」小学館)

「中皇子(なかつすめらみこと)、紀の温泉に往(ゆ)く時の御歌(みうた)

君が代も我(わ)が代も知るや岩代(いはしろ)の岡(おか)の草根(くさね)をいざ結びてな」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第一・一〇・中皇子・P.70」小学館)

中には牟婁温湯(むろのゆ)だけでなく、夏の夕涼みが快いと詠んだ歌もある。場所は岩田川(富田川の中流域)。「平家物語」から少しばかり引用した。

「やうやうさし給ふ程に、日数(ひかず)ふれば岩田(イハダ)河にもかかりたまひけり。『此(この)河の流れを一度もわたる者は、悪業(アクゴウ)・煩悩(ボンナウ)・無始(ムシ)の罪障(ザイシヤウ)消(き)ゆなる物を』とたのもしうぞおぼしける」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・熊野参詣・P.235」岩波書店)

そこで夕涼みに身を任せているのは西行。

「夏、熊野へまゐりけるに、岩田と申す所に涼みて、下向(げかう)しける人につけて、京へ、西住上人の許(もと)へ遣はしける

松が根の岩田の岸の夕涼み君があれなとおもほゆるかな」(新潮日本古典集成「山家集・下・雑・一〇七七・P.301」新潮社)

紀の国巡りは持統天皇でもなお。

「九月(ながつき)の乙亥(きのとのゐ)の朔(ついたちのひ)に、諸国可等(もろもろのくにのみこもちたち)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、『凡(おほよ)そ戸籍(へのふみた)を造(つく)ることは、戸令(こりやう)に依(よ)れ』とのたまふ。乙酉(きのとのとりのひ)に、詔して曰(のたま)はく、『朕(われ)、紀伊(きのくに)を巡行(めぐりみそなは)さむとす。故(このゆゑ)に今年(ことし)の京師(みやこ)の田租(たちから)・口賦(ひとごとのみつき)収(をさ)むること勿(まな)』とのたまふ」(「日本書紀5・巻第三〇・持統天皇四年九月~十月・P266」岩波文庫)

文武天皇もまた。この年の八月、台風と高潮、さらに蝗(いなご)の大発生などで農業が大打撃を受けている。おそらくその「ミソギ」の意味が大きい。なので紀州を訪れただけでなく税収の調整並びに罪人の恩赦を命じている。

「冬十月八日 天皇は武漏の湯(白浜の温泉)に着かれた。十月九日 行幸に従った官人と、紀伊国の国司・郡司らに、位階を昇進させ、合わせて衣服と寝具を与えた。また国内の高齢者に、年齢に応じて稲を給付され、紀伊国の今年の租・調、さらに正税の利息を徴収することがないようにした。ただ武漏郡についてのみ、正税出挙(すいこ)の元利とも返済を免除し、罪人もこの郡に限って赦免した」「続日本紀・巻第二・文武天皇・大宝元年十月~二年正月・P.45~46」講談社学術文庫)

聖武天皇の代に至ってようやく「若の浦/和歌の浦」が正式に神格化されたように思える。儀式として規則的に「玉津島(たまつしま)の神と明光浦(あかのうら)の霊に供物を供え祭らせるように」命じているからである。紀の国は押しも押されもせぬ死と再生の聖地として位置付けられる。

「十月五日 天皇は紀伊(き)国に行幸された。十月八日 海部(あまべ)郡玉津島(たまつしま)の頓宮に至り、十日間あまり滞在した。十月十六日 次のように詔した。『山を登り海を眺めるのに、このあたりは最も良い。わざわざ遠出しなくても遊覧に充分である。それ故、弱(わか)の浜(はま)という名を改めて、明光浦(あかのうら)とし、守戸(もりべ)を設けて、荒れたり穢れたりすることのないようにせよ。また春と秋の二回、官人を派遣して、玉津島(たまつしま)の神と明光浦(あかのうら)の霊に供物を供え祭らせるようにせよ』と」(「続日本紀・上・聖武天皇・神亀元年十月~十一月・P.264~265」講談社学術文庫)

太平記に戻ろう。那智・本宮・新宮の「三所権現(さんしょごんげん)」。「満山(まんざん)の護法(ごほう)」は熊野全体に宿るとされるすべての聖なる神霊。そして熊野の護法神であり修験道の護法神でもある「金剛童子(こんごうどうじ)」。護良(もりなが)親王一行は「熊野本地」(くまののほんじ)で語られたように、熊野の地で悲劇の王子たちの魂を全身で感じる。

「その夜は、叢祠(そうし)の露に御袖を片敷き、終宵(よもすがら)祈り申させ給ひけるは、『南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)三所権現(さんしょごんげん)、満山(まんざん)の護法(ごほう)、十万の眷属(けんぞく)、八万の金剛童子(こんごうどうじ)、垂迹和光(すいじゃくわこう)の月明々(めいめい)として、分段同居(ぶんだんどうご)の闇を照らされば、逆臣(ぎゃくしん)忽(たちま)ちに滅(めっ)して、朝庭(ちょうてい)再び耀(かかや)く事を得せしめ給へ。両所はこれ伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の応作(おうさ)なり。わが君苗裔(びょうえい)として、朝日(ちょうじつ)忽(たちま)ちに浮雲(ふうん)のために隠さる。冥見(みょうけん)豈(あ)に傷(いた)まざらんや。玄鑑(げんかん)今空(むな)しきに似たり。神もし神たらば、君盍(なん)ぞ君たらざらん』」(「太平記1・第五巻・8・P.252」岩波文庫)

なお「朝日(ちょうじつ)忽(たちま)ちに浮雲(ふうん)のために隠さる」というのは、仁義を知らない悪徳による邪魔な影を「浮雲」に喩えた古代中国の故事から来たものとされる。例えば。

「子曰わく、疏食(そし)を飯(く)らい、水を飲み、肱(ひじ)を曲げてこれを枕(まくら)とす。楽しみ亦(また)その中(うち)にあり。不義にして富み且(か)つ貴きは、我に於(お)いて浮雲の如し。

(現代語訳)先生がいわれた。『高梁(こうりゃん)の飯を食べ、水を飲み、腕をまげて枕とする。そんな生活のなかにも楽しみはあるものだ。不正な手段で財産をつくり、地位を得ているのは、自分にとって大空に浮かぶ雲となんの変わりもない』」(「論語・第四巻・第七・述而篇・一五・P.192」中公文庫)

孔子が生きていた時代。仁義の何たるかをわきまえず、手段の是非も考えない、ただ単なる出世主義者が世の中にあふれ返っていた。彼らの言動は孔子にとって迷惑で邪魔な影を落とす浮雲でしかなかった。

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