冬虫夏草(とうちゅうかそう)については前に触れた。だが熊楠はその希少性を訴えるだけでなく、冬虫夏草そのものの持つ変異性から粘菌の常識的理解をくつがえす資料を手に入れていたことがわかる。
「イサリアまた複菌にして、冬虫夏草(日光でしばしばとりしCordyceps属のピレノミケテス)の複菌はみなイサリアなり。しかるに冬虫夏草は主として虫に寄生すれども、イサリアは必ずしも虫に寄生せず、木にも菌にも糞にも生じ候。故にCordyceps外のピレノミケテス類にして木や菌や糞に生ずるものの複菌がまたイサリアなるかも知れず、またCordycepsのみの複菌がイサリアなれども、Cordycepsの胞子世代は必ず虫に付き、それより出す芽子は虫を好まず、木や菌や糞に付き生ずることあるかも知れず、これは一々いろいろとその胞子を種(う)えて試験するの外なし。とにかく今度のイサリア・ウエマツイは歴然虫に生じありたれば、この虫の死体をそのままおけば、今年冬あたりイサリアは去って、あとへ冬虫夏草なるピレノミケテスを生ずるかも知れず。もし余分あらば今年冬か来年正月ごろ一度行って見られたく候。しかるときは、この菌の胞子世態も複菌世態(胞子世態)をも知り得て大いに学問上の方付きがなり申し候」(南方熊楠「粘菌の複合・複菌について」『森の思想・P.207~208』河出文庫)
日本では一八〇一年(享和一年)、近江迫村(現・滋賀県近江八幡市)出身の柚木常盤(ゆぎときわ)が「江州冬虫夏草写」を出版している。柚木の職業は眼科医だが、医師ゆえ植物学にも関心を持っていた。しかし近江のどこでそのような希少種を発見したか。答えを言ってしまえば今の滋賀県大津市三井寺の山中で、である。このとき柚木が発見した冬虫夏草は大変貴重なもの。通常なら虫の頭部から茎状に出てくるわけだが、そうではなく、虫の口の中から伸び出ているものだった。どちらの場合も虫の体内中で冬虫夏草の菌が一杯に繁殖していることに変わりはないのだが。フーコーは言っている。
「獣は、死に従属するものとしてと同時に、死の担い手として姿をあらわす。動物のなかには、生命の生命自身によるたえざる食いつぶしがひそんでいるからだ。つまり動物は、みずからの内部に反=自然の核を秘めることによって始めて自然に所属するのにほかならない。もっとも秘められたその本質を植物から動物に移行させることによって、生命は秩序の空間を離れ、ふたたび野生のものとなる。生命は、おのれの死に捧げるのとおなじその運動のなかで、いまや殺戮者としてあらわれる。生命は、生きているから殺すのである。自然はもはや善良ではありえない。生命は殺戮から、自然は悪から、欲望は反=自然からもはや引きはなしえないということそれこそ、サドが十八世紀、さらに近代にむかって告知したところであり、しかもサドはそれを十八世紀の言語を涸渇させることによって遂行し、近代はそのためながいこと彼を黙殺の刑に処していたのである。牽強府会のそしりを免れぬかも知れないが(もっともだれがそれを言うのか?)、『ソドムの百二十日』は、『比較解剖学講義』のすばらしい、ビロード張りの裏面にほかならぬ」(フーコー「言葉と物・第八章・P.298」新潮社)
粘菌のサディズム性。サドとしての粘菌。虫が植物を食うのではなく植物が虫を食って育ち、その内部から這い出して姿を見せる。以前、冬虫夏草を見て人々は長い間、その逆のことを常識と考えて疑っていなかった。しかし粘菌の生態はそうではなかった。冬虫夏草の場合、虫が寄生するのではなく虫に寄生して虫を殺してしまう。しかしどこまで繁殖するのか。環境の許す限りである。その意味ではほんのちょっとした風が吹けばすぐに飛んでいってしまいもはや見当たらず、飛ばされていった先で生育条件が合わなければあっけなく失せてしまうほど繊細敏感な植物でもある。にもかかわらず、フーコーの言葉を借りれば、物言わぬ「獣」なのだ。
ところで熊楠は「千人切り」というステレオタイプ(常套句)について述べている。西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕」から。
「血書(ちかき)は、千枚(まい)かさね、土中(どちう)に突込(つきこ)み、誓紙塚(せいしつか)と名付(なつ)け、田代(たしろ)孫右衛門と、同じ供養(くやう)をする」(井原西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕・卷八・五・大往生(だいあうしやう)は女色(ちよしき)の臺(うてな)・P.305」岩波文庫)
ほぼ同様の文章が別の箇所で見られる。
「田代如風(たしろじよふう)は千人切りして津(つ)の国(くに)の大寺に石塔を立て供養をした。自分も又、衆道にもとづいて二十七年、そのいろを替え、品に好き、心覚えに書き留めていたのに、すでに千人に及んだ。これを思うに、義理を立て意地づくで契ったのは僅かである。皆、勤子(つとめこ)のため厭々(いやいや)ながら身をまかせたので、一人一人の思ったことを考えるとむごい気がする。せめては若道供養のためと思い立って、延紙(のべがみ)〔鼻紙〕で若衆千体を張り貫(ぬ)きにこしらえて、嵯峨(さが)の遊び寺へおさめて置いた。これ男好(なんこう)開山の御作である。末の世にはこの道がひろまって、開帳があるべきものではある」(井原西鶴「執念は箱入の男」『男色大鑑・P.172』角川ソフィア文庫)
熊楠が言うには、これら「千人切り」は相手の性別に関係のない一種の「自慢」として堂々と通用していた。西鶴の小説が人気を博していた頃、この「千人」という数字はそれなりの意味を持っていたわけだ。ところが幕末になると自慢でも何でもなく、ただひたすら、憑かれたように「人斬り」の大流行期が出現する。
「この前後のこと、甲府の町うちに折々辻斬りがあります。三日か四日の間を置いて、町の端(はず)れに無惨(むざん)にも人が斬られていました。その斬り方は鮮やかというよりも酷烈(こくれつ)なるものであります。一刀の下に胴斬りにされていたのもありました。袈裟(けさ)に両断されていたのもありました。首だけをはね飛ばしたのもありました。丁度(ちょうど)神尾主膳の家で刀のためしのあったその夜もまた、稲荷曲輪(いなりくるわ)の御煙硝蔵の裏に当たるところで、一つの辻斬りがあったことがその翌朝になってわかりました」(中里介山「大菩薩峠3・伯耆の安綱の巻・P.361~362」時代小説文庫)
斬られたのは十八歳の娘。斬ったのは机龍之助。なぜ斬ったのか。しかも斬り方は見るも無惨である。斬られた娘は龍之助に向かって何ら失礼な言動を取ってはいない。
「盲目であった龍之助には、その刀の肌を見ることは出来ません。錵(にえ)も匂(にお)いもそれを見て取ることの出来るはずがありません。けれども、『これは斬れそうだ』と言いました。刃を上にして膝へ載せてから研石(みがきいし)を取って龍之助は、静かにその刃の上を斜めに摩(こす)りはじめました。龍之助は、いまこの刀の寝刃(ねたば)を合せはじめたものであります。刀の寝刃を合せるには、きっと近いうちにその刀の実用が予期される、明日は人を斬るべき今宵(こよい)というときに、刀の寝刃が合せられるはずのものであります。それですから刀の寝刃(ねたば)を合せるときには大概の勇士でも手が震うものであります。心が戦(おのの)くものでありました。それは怯(おく)れたわけではないけれども、明日の決心を思うときには、血肉が静止(じっ)としてはおられないのであります。それはそうあるべきはずです。しかるにこの人は平気で寝刃を合せています」(中里介山「大菩薩峠3・伯耆の安綱の巻・P.368」時代小説文庫)
辻斬りを演じたのは龍之助に違いない。始めにそう見抜いたのは龍之助と一緒に暮らすことになったお銀だ。お銀は問い詰める。
「『何という怖ろしいこと、人を殺したいが病とは』『病ではない、それが拙者の仕事じゃ、今までの仕事もそれ、これからの仕事もそれ、人を斬ってみるより外におれの仕事はない、人を殺すより外に楽しみもない、生きがいもないのだ』『わたしは何と言ってよいかわかりませぬ、貴方は人間ではありませぬ』『もとより人間の心ではない、人間という奴がこうしてウヨウヨ生きてはいるけれど、何一つしでかす奴らではない』『貴方はそれほど人間が憎いのですか』『馬鹿なこと、憎いというのは、幾らか見処(みどころ)があるからじゃ、憎むにも足らぬ奴、何人斬ったからとて、殺したからとて、咎(とが)にも罪にもなる代物(しろもの)ではないのだ』『本気でそういうことをおっしゃるのでございますか』『勿論(もちろん)本気、世間には位を欲しがって生きている奴がある、金を貯(た)めたいから生きている奴がある、おれは人が斬りたいから生きている』」(中里介山「大菩薩峠4・慢心和尚の巻・P.362~363」時代小説文庫)
何人斬るべきか。数値目標はない。ただ、斬りたいから斬る。お銀は意識していないが、お銀自身、しばしばわが身を傷つけることで欝々たる気持ちを晴らしている。
「お銀様はその時、たった一人で土蔵の中でお経を写しておりました。針で自分の肉体を刺して、その血で丹念に一字一字」(中里介山「大菩薩峠6・禹門三級の巻・P.389」時代小説文庫)
写経は単なる口実に過ぎない。目的意識は無意識的である。龍之助が他人を斬りたくて斬りたくてたまらなくなるのと同様に、お銀は「針で自分の肉体を刺して」、血を流すことで精神の平衡を保っている。むしろ今の目で見れば、自分を傷つけることで平衡を保つような精神状態こそ逆に異常な精神状態なのでは、と考えるだろう。しかし近代日本の黎明期、明治維新の勢いは、数値目標のない大陸制覇へ、帝国日本による大流血へと収斂されていく。その意味で机龍之助にせよお銀にせよ、やっていることは江戸時代の「千人切り」とは似て非なる行為であり、どこまでも延々と延長可能で終わらない殺戮の前夜祭とも言えるものだ。そして日本が仕掛けた太平洋戦争もまた、ただひたすら血を流すための、絶好の合法的口実に過ぎない。
しかしこの時点では一度「千人切り」に立ち返ってみなくてはならない。なぜ「千人」でなければならないのか。数値目標が立てられなければならないのか。九百九十九人ではいけないのか。例えば数値目標が「百人」であり、しかし達成されたのは「九十九人」というような場合。残りの一人分は近親の「老女の死」で埋め合わせることが可能である。自分の母をすでに亡くしているような場合がそれに当たる。置き換え可能なのだ。ところがそれともまた少し異なるケースが日本霊異記に見られる。妻を手元に引き寄せよるため厄介になってきた老母を殺そうとした息子のエピソードとして有名だが、しかし結果的に老母と息子の髪とが残され息子は死ぬ。この物語が収録されているのは何がためなのか。
「逆(さかしま)なる子、歩(あゆ)み前(すす)みて、母の項(うなじ)を殺(き)らむとするに、地裂けて陥(おちい)る。母即(すなは)ち起(た)ちて前(すす)み、陥る子の髪を抱(うだ)き、天を仰(あお)ぎて哭(な)きて、願はくは、『吾が子は物に託(くる)ひて事を為(な)せり。実(まこと)の現(うつ)し心には非(あら)ず。願はくは罪を免(ゆる)し賜(たま)へ』といふ。猶(なお)し髪を取りて子を留(とど)むれども、子終(つひ)に陥(おちい)る。慈母、髪を持ちて家に帰り、子の為に法事を備(まう)け、其の髪を筥(はこ)に入れ、仏像のみ前(まへ)に置きて、謹みて諷誦(ふじゆ)を請(こ)ふ」(「日本霊異記・中・悪逆の子の、妻(め)を愛(めぐ)みて母を殺さむと謀(はか)り、現報に悪死を被(かぶ)りし縁 第三・P.50」講談社学術文庫)
もっとも、日本霊異記はもともと仏教説話集としてまとめられたもので、どの話も最後はいつも仏教の布教のための縁起形式が取られている。さらに各説話は当時の東アジアに散在していた説話から引いてきたエピソードであちこち継ぎ接ぎばかりである。それにしても、そのような陰惨なエピソードがなぜ多く盛り込まれているのか、なぜ無惨にも程があると考えざるを得ないほど陰々滅々たるエピソードがどんどん採用されているのかは、仏教とはまた別に論じられねば見えてこないに違いない。
なお、熊楠が「『摩羅考』について」で男性器を表す文字を摩羅と書くことに関し、日本霊異記では熊楠の指摘通り「門(もんがまえ)に牛(うし)」と書いて「まら」と読ませている。
「是(こ)の女、先世に一(ひとり)の男子を産む。深く愛心を結び、口に其の子の摩羅(まら)を唼(す)ふ。母三年を経て、儵倐(たちまち)に病を得、命終(みやうじゆ)の時に臨み、子を撫で摩羅(まら)を唼(す)ひて、斯(か)く言ひき。『我、生々(しやうじやう)の世、常に生(うま)れて相(あ)はむ』といひて、隣家の女(むすめ)に生れ、終(つひ)に子の妻と成り、自(おの)が夫の骨を祀(まつ)りて、今慕(しの)ひ哭(な)く」(「日本霊異記・中・女人(にょにん)の大きなる蛇(へみ)に婚(くながひ)せられ、薬の力に頼りて、命を全くすること得し縁 第四一・P.268」講談社学術文庫)
さらに女性器の場合、一つには、「開」と書いて「つび」と読ませている。
「稷(きび)の藁三束を焼き、湯に合(あは)せ、汁を取ること三斗、煮煎(にい)りて二斗と成し、猪(ゐ)の毛十把を剋(きざ)み末(くだ)きて汁に合せ、然して嬢(おみな)の頭足に当てて、橛(ほこたち)を打ちて懸け釣り、開(つび)の口に汁を入る」(「日本霊異記・中・女人(にょにん)の大きなる蛇(へみ)に婚(くながひ)せられ、薬の力に頼りて、命を全くすること得し縁 第四一・P.267」講談社学術文庫)
またさらに女性器の場合、漢和辞典を引くと、「門(もんがまえ)に也(なり)」と書いて「したなりくぼ」と読ませているものもある。「くぼ」は「久保」と書いて音読みするか、あるいは「窪」(くぼ)であり、後者の場合「木の窪」や「盆の窪」との類似から来たものと思われる。
しかしなお、長年の風雨に晒されてきたため剥き出しになった古墳の側面が開いて「窪」(くぼ)になっているものや、あるいは「塚穴」(つかあな)が定期的に住居とされていた場合などは、丸ごと一括りにして語ることはできない。側面が開いた古墳とか塚穴とかのケースについてはまたの機会に述べよう。なぜなら、側面が開いた古墳とか塚穴とかの場合、「開」(つび)、「久保」(くぼ)、等の言語が外国(多くは古代中国)から輸入される以前か少なくとも同時期、列島各地ですでにあった生活様式と重複するケースがあるからである。
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「イサリアまた複菌にして、冬虫夏草(日光でしばしばとりしCordyceps属のピレノミケテス)の複菌はみなイサリアなり。しかるに冬虫夏草は主として虫に寄生すれども、イサリアは必ずしも虫に寄生せず、木にも菌にも糞にも生じ候。故にCordyceps外のピレノミケテス類にして木や菌や糞に生ずるものの複菌がまたイサリアなるかも知れず、またCordycepsのみの複菌がイサリアなれども、Cordycepsの胞子世代は必ず虫に付き、それより出す芽子は虫を好まず、木や菌や糞に付き生ずることあるかも知れず、これは一々いろいろとその胞子を種(う)えて試験するの外なし。とにかく今度のイサリア・ウエマツイは歴然虫に生じありたれば、この虫の死体をそのままおけば、今年冬あたりイサリアは去って、あとへ冬虫夏草なるピレノミケテスを生ずるかも知れず。もし余分あらば今年冬か来年正月ごろ一度行って見られたく候。しかるときは、この菌の胞子世態も複菌世態(胞子世態)をも知り得て大いに学問上の方付きがなり申し候」(南方熊楠「粘菌の複合・複菌について」『森の思想・P.207~208』河出文庫)
日本では一八〇一年(享和一年)、近江迫村(現・滋賀県近江八幡市)出身の柚木常盤(ゆぎときわ)が「江州冬虫夏草写」を出版している。柚木の職業は眼科医だが、医師ゆえ植物学にも関心を持っていた。しかし近江のどこでそのような希少種を発見したか。答えを言ってしまえば今の滋賀県大津市三井寺の山中で、である。このとき柚木が発見した冬虫夏草は大変貴重なもの。通常なら虫の頭部から茎状に出てくるわけだが、そうではなく、虫の口の中から伸び出ているものだった。どちらの場合も虫の体内中で冬虫夏草の菌が一杯に繁殖していることに変わりはないのだが。フーコーは言っている。
「獣は、死に従属するものとしてと同時に、死の担い手として姿をあらわす。動物のなかには、生命の生命自身によるたえざる食いつぶしがひそんでいるからだ。つまり動物は、みずからの内部に反=自然の核を秘めることによって始めて自然に所属するのにほかならない。もっとも秘められたその本質を植物から動物に移行させることによって、生命は秩序の空間を離れ、ふたたび野生のものとなる。生命は、おのれの死に捧げるのとおなじその運動のなかで、いまや殺戮者としてあらわれる。生命は、生きているから殺すのである。自然はもはや善良ではありえない。生命は殺戮から、自然は悪から、欲望は反=自然からもはや引きはなしえないということそれこそ、サドが十八世紀、さらに近代にむかって告知したところであり、しかもサドはそれを十八世紀の言語を涸渇させることによって遂行し、近代はそのためながいこと彼を黙殺の刑に処していたのである。牽強府会のそしりを免れぬかも知れないが(もっともだれがそれを言うのか?)、『ソドムの百二十日』は、『比較解剖学講義』のすばらしい、ビロード張りの裏面にほかならぬ」(フーコー「言葉と物・第八章・P.298」新潮社)
粘菌のサディズム性。サドとしての粘菌。虫が植物を食うのではなく植物が虫を食って育ち、その内部から這い出して姿を見せる。以前、冬虫夏草を見て人々は長い間、その逆のことを常識と考えて疑っていなかった。しかし粘菌の生態はそうではなかった。冬虫夏草の場合、虫が寄生するのではなく虫に寄生して虫を殺してしまう。しかしどこまで繁殖するのか。環境の許す限りである。その意味ではほんのちょっとした風が吹けばすぐに飛んでいってしまいもはや見当たらず、飛ばされていった先で生育条件が合わなければあっけなく失せてしまうほど繊細敏感な植物でもある。にもかかわらず、フーコーの言葉を借りれば、物言わぬ「獣」なのだ。
ところで熊楠は「千人切り」というステレオタイプ(常套句)について述べている。西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕」から。
「血書(ちかき)は、千枚(まい)かさね、土中(どちう)に突込(つきこ)み、誓紙塚(せいしつか)と名付(なつ)け、田代(たしろ)孫右衛門と、同じ供養(くやう)をする」(井原西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕・卷八・五・大往生(だいあうしやう)は女色(ちよしき)の臺(うてな)・P.305」岩波文庫)
ほぼ同様の文章が別の箇所で見られる。
「田代如風(たしろじよふう)は千人切りして津(つ)の国(くに)の大寺に石塔を立て供養をした。自分も又、衆道にもとづいて二十七年、そのいろを替え、品に好き、心覚えに書き留めていたのに、すでに千人に及んだ。これを思うに、義理を立て意地づくで契ったのは僅かである。皆、勤子(つとめこ)のため厭々(いやいや)ながら身をまかせたので、一人一人の思ったことを考えるとむごい気がする。せめては若道供養のためと思い立って、延紙(のべがみ)〔鼻紙〕で若衆千体を張り貫(ぬ)きにこしらえて、嵯峨(さが)の遊び寺へおさめて置いた。これ男好(なんこう)開山の御作である。末の世にはこの道がひろまって、開帳があるべきものではある」(井原西鶴「執念は箱入の男」『男色大鑑・P.172』角川ソフィア文庫)
熊楠が言うには、これら「千人切り」は相手の性別に関係のない一種の「自慢」として堂々と通用していた。西鶴の小説が人気を博していた頃、この「千人」という数字はそれなりの意味を持っていたわけだ。ところが幕末になると自慢でも何でもなく、ただひたすら、憑かれたように「人斬り」の大流行期が出現する。
「この前後のこと、甲府の町うちに折々辻斬りがあります。三日か四日の間を置いて、町の端(はず)れに無惨(むざん)にも人が斬られていました。その斬り方は鮮やかというよりも酷烈(こくれつ)なるものであります。一刀の下に胴斬りにされていたのもありました。袈裟(けさ)に両断されていたのもありました。首だけをはね飛ばしたのもありました。丁度(ちょうど)神尾主膳の家で刀のためしのあったその夜もまた、稲荷曲輪(いなりくるわ)の御煙硝蔵の裏に当たるところで、一つの辻斬りがあったことがその翌朝になってわかりました」(中里介山「大菩薩峠3・伯耆の安綱の巻・P.361~362」時代小説文庫)
斬られたのは十八歳の娘。斬ったのは机龍之助。なぜ斬ったのか。しかも斬り方は見るも無惨である。斬られた娘は龍之助に向かって何ら失礼な言動を取ってはいない。
「盲目であった龍之助には、その刀の肌を見ることは出来ません。錵(にえ)も匂(にお)いもそれを見て取ることの出来るはずがありません。けれども、『これは斬れそうだ』と言いました。刃を上にして膝へ載せてから研石(みがきいし)を取って龍之助は、静かにその刃の上を斜めに摩(こす)りはじめました。龍之助は、いまこの刀の寝刃(ねたば)を合せはじめたものであります。刀の寝刃を合せるには、きっと近いうちにその刀の実用が予期される、明日は人を斬るべき今宵(こよい)というときに、刀の寝刃が合せられるはずのものであります。それですから刀の寝刃(ねたば)を合せるときには大概の勇士でも手が震うものであります。心が戦(おのの)くものでありました。それは怯(おく)れたわけではないけれども、明日の決心を思うときには、血肉が静止(じっ)としてはおられないのであります。それはそうあるべきはずです。しかるにこの人は平気で寝刃を合せています」(中里介山「大菩薩峠3・伯耆の安綱の巻・P.368」時代小説文庫)
辻斬りを演じたのは龍之助に違いない。始めにそう見抜いたのは龍之助と一緒に暮らすことになったお銀だ。お銀は問い詰める。
「『何という怖ろしいこと、人を殺したいが病とは』『病ではない、それが拙者の仕事じゃ、今までの仕事もそれ、これからの仕事もそれ、人を斬ってみるより外におれの仕事はない、人を殺すより外に楽しみもない、生きがいもないのだ』『わたしは何と言ってよいかわかりませぬ、貴方は人間ではありませぬ』『もとより人間の心ではない、人間という奴がこうしてウヨウヨ生きてはいるけれど、何一つしでかす奴らではない』『貴方はそれほど人間が憎いのですか』『馬鹿なこと、憎いというのは、幾らか見処(みどころ)があるからじゃ、憎むにも足らぬ奴、何人斬ったからとて、殺したからとて、咎(とが)にも罪にもなる代物(しろもの)ではないのだ』『本気でそういうことをおっしゃるのでございますか』『勿論(もちろん)本気、世間には位を欲しがって生きている奴がある、金を貯(た)めたいから生きている奴がある、おれは人が斬りたいから生きている』」(中里介山「大菩薩峠4・慢心和尚の巻・P.362~363」時代小説文庫)
何人斬るべきか。数値目標はない。ただ、斬りたいから斬る。お銀は意識していないが、お銀自身、しばしばわが身を傷つけることで欝々たる気持ちを晴らしている。
「お銀様はその時、たった一人で土蔵の中でお経を写しておりました。針で自分の肉体を刺して、その血で丹念に一字一字」(中里介山「大菩薩峠6・禹門三級の巻・P.389」時代小説文庫)
写経は単なる口実に過ぎない。目的意識は無意識的である。龍之助が他人を斬りたくて斬りたくてたまらなくなるのと同様に、お銀は「針で自分の肉体を刺して」、血を流すことで精神の平衡を保っている。むしろ今の目で見れば、自分を傷つけることで平衡を保つような精神状態こそ逆に異常な精神状態なのでは、と考えるだろう。しかし近代日本の黎明期、明治維新の勢いは、数値目標のない大陸制覇へ、帝国日本による大流血へと収斂されていく。その意味で机龍之助にせよお銀にせよ、やっていることは江戸時代の「千人切り」とは似て非なる行為であり、どこまでも延々と延長可能で終わらない殺戮の前夜祭とも言えるものだ。そして日本が仕掛けた太平洋戦争もまた、ただひたすら血を流すための、絶好の合法的口実に過ぎない。
しかしこの時点では一度「千人切り」に立ち返ってみなくてはならない。なぜ「千人」でなければならないのか。数値目標が立てられなければならないのか。九百九十九人ではいけないのか。例えば数値目標が「百人」であり、しかし達成されたのは「九十九人」というような場合。残りの一人分は近親の「老女の死」で埋め合わせることが可能である。自分の母をすでに亡くしているような場合がそれに当たる。置き換え可能なのだ。ところがそれともまた少し異なるケースが日本霊異記に見られる。妻を手元に引き寄せよるため厄介になってきた老母を殺そうとした息子のエピソードとして有名だが、しかし結果的に老母と息子の髪とが残され息子は死ぬ。この物語が収録されているのは何がためなのか。
「逆(さかしま)なる子、歩(あゆ)み前(すす)みて、母の項(うなじ)を殺(き)らむとするに、地裂けて陥(おちい)る。母即(すなは)ち起(た)ちて前(すす)み、陥る子の髪を抱(うだ)き、天を仰(あお)ぎて哭(な)きて、願はくは、『吾が子は物に託(くる)ひて事を為(な)せり。実(まこと)の現(うつ)し心には非(あら)ず。願はくは罪を免(ゆる)し賜(たま)へ』といふ。猶(なお)し髪を取りて子を留(とど)むれども、子終(つひ)に陥(おちい)る。慈母、髪を持ちて家に帰り、子の為に法事を備(まう)け、其の髪を筥(はこ)に入れ、仏像のみ前(まへ)に置きて、謹みて諷誦(ふじゆ)を請(こ)ふ」(「日本霊異記・中・悪逆の子の、妻(め)を愛(めぐ)みて母を殺さむと謀(はか)り、現報に悪死を被(かぶ)りし縁 第三・P.50」講談社学術文庫)
もっとも、日本霊異記はもともと仏教説話集としてまとめられたもので、どの話も最後はいつも仏教の布教のための縁起形式が取られている。さらに各説話は当時の東アジアに散在していた説話から引いてきたエピソードであちこち継ぎ接ぎばかりである。それにしても、そのような陰惨なエピソードがなぜ多く盛り込まれているのか、なぜ無惨にも程があると考えざるを得ないほど陰々滅々たるエピソードがどんどん採用されているのかは、仏教とはまた別に論じられねば見えてこないに違いない。
なお、熊楠が「『摩羅考』について」で男性器を表す文字を摩羅と書くことに関し、日本霊異記では熊楠の指摘通り「門(もんがまえ)に牛(うし)」と書いて「まら」と読ませている。
「是(こ)の女、先世に一(ひとり)の男子を産む。深く愛心を結び、口に其の子の摩羅(まら)を唼(す)ふ。母三年を経て、儵倐(たちまち)に病を得、命終(みやうじゆ)の時に臨み、子を撫で摩羅(まら)を唼(す)ひて、斯(か)く言ひき。『我、生々(しやうじやう)の世、常に生(うま)れて相(あ)はむ』といひて、隣家の女(むすめ)に生れ、終(つひ)に子の妻と成り、自(おの)が夫の骨を祀(まつ)りて、今慕(しの)ひ哭(な)く」(「日本霊異記・中・女人(にょにん)の大きなる蛇(へみ)に婚(くながひ)せられ、薬の力に頼りて、命を全くすること得し縁 第四一・P.268」講談社学術文庫)
さらに女性器の場合、一つには、「開」と書いて「つび」と読ませている。
「稷(きび)の藁三束を焼き、湯に合(あは)せ、汁を取ること三斗、煮煎(にい)りて二斗と成し、猪(ゐ)の毛十把を剋(きざ)み末(くだ)きて汁に合せ、然して嬢(おみな)の頭足に当てて、橛(ほこたち)を打ちて懸け釣り、開(つび)の口に汁を入る」(「日本霊異記・中・女人(にょにん)の大きなる蛇(へみ)に婚(くながひ)せられ、薬の力に頼りて、命を全くすること得し縁 第四一・P.267」講談社学術文庫)
またさらに女性器の場合、漢和辞典を引くと、「門(もんがまえ)に也(なり)」と書いて「したなりくぼ」と読ませているものもある。「くぼ」は「久保」と書いて音読みするか、あるいは「窪」(くぼ)であり、後者の場合「木の窪」や「盆の窪」との類似から来たものと思われる。
しかしなお、長年の風雨に晒されてきたため剥き出しになった古墳の側面が開いて「窪」(くぼ)になっているものや、あるいは「塚穴」(つかあな)が定期的に住居とされていた場合などは、丸ごと一括りにして語ることはできない。側面が開いた古墳とか塚穴とかのケースについてはまたの機会に述べよう。なぜなら、側面が開いた古墳とか塚穴とかの場合、「開」(つび)、「久保」(くぼ)、等の言語が外国(多くは古代中国)から輸入される以前か少なくとも同時期、列島各地ですでにあった生活様式と重複するケースがあるからである。
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