白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

仮面等価性23・イシス/アピス/山婆(やまんば)の陰垢(つびくそ)

2020年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム
これまで驢馬のルキウスの前を様々な神の名が登場しては通り過ぎていった。もうほとんど残っていない。さらに次に登場する神の別名は数えきれない。「プリュギア人は私を神々の母ペシヌンティア」、「アッティカ人は私をケークロピアのミネルウァ」、「キュプロス島の人々は私をパポスのウェヌカ」、「クレータ島の人はディクチュンナのディアーナ」、「シケリア人はステュクスのプロセルピナ」、「エレウシースの住民たちはアッティカのケレース」「ある地方ではユーノー」、「他の地方ではベッローナ」、「あるところではヘカテー」、「またラムヌーシア」等々と呼ばれている。それは誰か。

「太陽神が朝生まれたての光線と夕方に沈む光線を輝かせる二つのエティオピアの人々と、学問の古い伝統にかけては世界に冠たるエジプトの人々とは、いずれも私にふわさしい儀式を捧げ、私の本来の名前でイーシスの女王と呼びならわし、尊んでいます」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の11・P.438」岩波文庫)

イシスはどのようにして生まれたか。

「第一日目にはオシリスが生まれ、その誕生と同時に声が響き、『万物の主なる神、光の中に進みたもう』、と言ったと申します。テバイで水汲みをしていたパミュレという女が、ゼウスの神殿からこの声が響いてくるのを聞いた、と言う人もあります。この言い伝えですと、その声は、『大いなる王にして恵みの施し手オシリス、今生まれたまいぬ』、と呼ばわったということです。そこでパミュレは、クロノスが委ねてくれたことでもあるし、オシリスを育てました。人々はパミュレのために祭を祝いますが、それはディオニュソスの行列に似ています。ーーー四日目には水辺でイシスが生まれーーー」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・一二・P.31」岩波文庫)

だからイシスはオシリスと兄妹の関係に当たる。オシリスを育てたパミュレ。そして「パミュレのために祭を祝いますが、それはディオニュソスの行列に似ています」。どのような行列だったのか。

「エジプトでは一般に豚を神に生贄として捧げることは禁じているが、ただセレネ(月の神)とディオニュソスだけには同じ時、すなわち同じ満月の日に豚を犠牲にしてその肉を食べる。エジプト人は他の祭礼では豚を忌むのに、なぜこの祭だけは豚を犠牲に供えるのかということについては、エジプト人の間に伝承がある。ーーーセレネに豚を犠牲にする儀式は次のように行なわれる。豚を屠ると、その尾の端と脾臓と大網膜(内臓を含む膜)とを集め、その豚の腹の周りの脂肪を全部使ってそれらを包み、火で焼くのである。残りの肉は犠牲の行なわれる満月の日に食べるが、日が変るともはや口にしない。貧民は乏しい家計がそれを許さないので、粉を捏(こ)ねて豚の形に作り、これを炙(あぶ)って神に供えるのである。ディオニュソスには、その祭の前夜、エジプト人はそれぞれ家の前で仔豚を屠ってささげ、その仔豚はそれを売った豚飼に持ち帰らせる。それ以外の点では、エジプトのディオニュソス祭はギリシアとほとんど全く同様に行なわれるが、ただギリシアのような歌舞の催し物はない。エジプト人は男根像(バロス)の代りに別のものを考案しているが、これは長さ一キュペスほどの糸で繰る像で、これを女たちがかついでを廻るのであるが、動体と余り変らぬほどの長さの男根が動く仕掛になっている。そして笛を先頭に、女たちはディオニュソスの讃歌を歌いつつその後に従うのである。像がそのように異常な大きさの男根を具え、また体のその部分だけが動く由来については、聖説話が伝えられている」(ヘロドトス「歴史・上・巻二・四七~四八・P.222~223」岩波文庫)

兄(オシリス)と妹(イシス)は性行為に及ぶ。まだ生まれ出てはおらず母神の胎内にいるうちに。例えば日本書紀で、瞬きする間にスサノオが生まれ、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=神武天皇)が焔に満ちた部屋で生まれ、また誉田天皇(ほむたのすめらみこと=応神天皇)が神功皇后の鎮懐石(しずめいし)伝説とともに生まれた時のように、異常出産のエピソードに分類されるだろう。

「イシスとオシリスはたがいに愛しあいました。それも生まれる前、母神の胎内の闇の中で結ばれたと申します」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・一二・P.32」岩波文庫)

イシスとオシリスの敵として登場してくるテュポンも彼らの兄弟として生まれている。だがテュポンもまた派手な異常出産を経て生まれる。

「第三日にはテュポンが生まれたが、胎内に宿った日数も並ではありませんでしたし、通常の産道から生まれたのでもなく、轟音とともに母神の脇腹を突き破って跳び出しました」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・一二・P.32」岩波文庫)

テュポンは長兄オシリスを切断しばらばらにばらまいた世界史上最初のばらばら殺人者としても有名。とはいえ、あちこちの地でばらばらに播かれなければ種としてのオシリスは繁栄しないことに注目しなければならない。一方イシスはオシリスの男性器を探して各地をさまようことを余儀なくされる。

「イシスは旅をつづけてブトに着くと、そこで育った息子のホロのもとに棺を置きました。だが、月の光の下で夜狩りをしていたテュポンがちょうどそこへ来ました。彼はオシリスの遺骸に気がつくと、それを十四に切断してばらまきました。それを知るとイシスは、パピルスの舟に乗って沼地を渡って探し回りました。だがらパピルスの舟で渡る人は、鰐(わに)も襲わないのだと言われています。鰐も女神様ゆえに、そんなことをするのは恐ろしい、あるいは女神様を崇めているのでしょう。しかしこのために、エジプト中にオシリスの墓というのがたくさんあることになりました。イシスは、切断された部分を見つけてはそこに葬ったので、ということです。しかし、それは違うという人もあります。その人たちの意見によりますと、イシスは、なるべく多くの町でオシリスが拝まれるようにと、彼の象を造って、さながら遺骸そのものを与えるかのように、各都市に配ったというのです。こうすれば、もしテュポンがホロスとの戦いに勝って、そこでオシリスの本当の墓を捜し出そうとしても、あまりたくさんのオシリスの墓のことを聞かされ、時には見せられなどして、もうやめておこうという気になるだろうから、なのだそうです。オシリスの体の部分で最後まで見つけることができなかったのは、ただ一つ、彼の陰部でした。海中にほうり込まれたとたんに、レピドトスたのパグロスだのオクシュリュンコスだのいう魚どもがたかって、食べてしまったからです。ですからこれらの魚はエジプトではいちばん嫌われているのです。イシスはその隠部を似像を造って崇めました。エジプト人は今でもこれを祀るお祭をしております」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・一八・P.40~41」岩波文庫)

エジプトとギリシアとで言語が異なるため、ヘロドトスは次のように整理整頓している。

「神々の中で最後にエジプトの王となったのはオシリスの子オロス(またはホロス)で、これはギリシアではアポロンと呼ぶ神である。この神がテュポンを倒し、エジプトに君臨した最後の神なのである。なおオシリスはギリシア名でいえばディオニュソスである」(ヘロドトス「歴史・上・巻二・一四四・P.293」岩波文庫)

この事情についてプルタルコスも「オシリス」=「ディオニュソス」の等価性を採用している。

「しかし肝心なのは、サラピスとはプルトンのエジプト名だということです。事実、有名な自然学者のヘラクレイトス(前六~五世紀)が『ハデスとディオニュソスは同一の神だ。いずれの神を称えるにも、信者は狂い立つ』、と言っている(断片B一五)のを聞きますと、こういう見解に到達するでしょう。肉体のことをハデスと呼ぶ、なぜなら魂は肉体の中で言わば酔いつぶれて、魂であることをやめてしまうから、と言う人がいますが、あれは無理をしてこじつけのアレゴリーを述べていると言ってよいでしょう。それよりは、オシリスをディオニュソスと、そしてサラピスをオシリスと同一視するという方がよい(オシリスは死んでその本性を変えた時にこの呼び名を得たのです)」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・二八・P.56~57」岩波文庫)

古代ギリシア・ローマはヘルマフロディーテ(両性具有)が神格として信仰されていた時代である。それは次の文章から明らかというほかない。

「アピスというのはオシリスの霊魂の似姿ですが、このアピスはメンピスで育てられたのであり、そしてメンピスにはオシリスの遺骸も安置されている、とも言われています」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・二十・P.45」岩波文庫)

さらに。

「アピスというのはオシリスの像に生命が吹き込まれたものだとされています。生成力の光が月から発して、発情期の牛に触れるとアピスが生まれるのだというのです。ですからアピスは、その明るい面が次第にかげって陰になるというように、いろいろの面で月の満ちかけに似ているわけです。さらに、パメノトの月の朔日(ついたち)には『オシリスの月詣で』という祭が催されますが、これは春の到来を告げるものです。このようにオシリスの力は月に帰せられているのですが、人々はこれをイシス(彼女は生殖の力です)とオシリスが交わっていると申します。ですから月は世界を生んだ母と言われ、かつ男女両性の具有者だと信じられています」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・四三・P.82~83」岩波文庫)

またエジプトでは「聖牛アピス」の登場に合わせてすべての秩序がいったん解体される。またすべてのエジプト人は日頃の生活秩序をいったん解体しなくてはならない。

「カンビュセスがメンピスに着いた頃、エジプトに聖牛アピスが出現した。ギリシア人がエパポスと呼んでいるものである。アピスが出現すると、エジプト人は早速一張羅の衣裳をつけて祝宴を催した。エジプト人のこの行動を見たカンビュセスは、てっきり自分の失敗を喜び祝っているものと邪推し、メンピスの役人たちを呼びよせた。役人たちが出頭すると王は、先に自分がメンピスにいた時には何もしなかったエジプト人が、部下の将兵多数を失って再びメンピスにもどってきた今、かようなことをするのはなぜかと訊ねた。役人は答えて、きわめて永い間隔をおいてしか出現しない神が現われたこと、この神が現われる時は、エジプトの全国民が歓喜して祝うのであることを説明した」(ヘロドトス「歴史・上・巻三・二八・P.344~345」岩波文庫)

秩序を維持するためには規則的に秩序の解体が必要不可欠となることはもはや紀元前何世紀も前から常識であった。今なお世界中で、年中行事の中へ上手く封じ込めたとしても祝祭における一時的秩序解体が公認され執行されねばその地域の治安がたちまち不安定に陥るのはそのためである。人間は祝祭抜きに生きていくことはできない。「ケ」の日ばかりでなく「ハレ」の日なくして人間は再び秩序を開始することはできない。エリアーデのいう次の箇所も「ハレ」とは何かの一端を窺わせている。アッティスはキュベレーの息子であると同時に夫にもなる。ここでもヘルマフロディーテ(両性具有)のテーマが出現している。

「アッティスを愛しているアグディスティスが、祝宴の開かれている穴に入ってくる。そこの居合わせた者は皆、狂気に襲われ、王は自分の生殖器を切りとり、アッティスは逃げて、松の木の下でみずからを傷つけて死んでしまう。アグディスティスは絶望して、アッティスを蘇生させようとしたが、ゼウスはそれを許さなかった。ゼウスが容認したのは、ただアッティスの身体が腐らないようにし、髪の毛が伸びたり小指が動いたりすることで生きていることの証しとすることだけであった。アグディスティスは両性具有のおおいなる母のひとつの顕現にすぎないのであり、アッティスはキュベレーの息子であり、恋人であり、その犠牲者でもあった」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.115~116」ちくま学芸文庫)

ヘルマフロディーテ(両性具有)は、商品交換でいえば或る時は商品Aであり別の時は商品Bであるというだけでなく一身において同時に両者でなくてはならない。そのような貨幣の位置にある限りで神の資格を有する。

またキュベレ女神はプリュギアやリュディアで広く崇拝された。さらにイーシス紹介の箇所で「プリュギア人は私を神々の母ペシヌンティア」とアープレーイユスは書いているが、プリュギア人について「最も古い人類の種族」と冠している。ヘロドトスを参照したと考えられる。

「エジプト人はプサンメティコスが王になるまでは、自分たちが全人類の中で最古の民族であると考えていた。ところがプサンメティコスが王位に即いて、人類中最初に生れたのはどの民族であるかを知ろうという気を起して以来は、エジプト人はプリュギア人が自分たちよりも古い民族であり、自分たちはそれに次いで爾他の民族より古いものと考えている。プランメティコスはいろいろ詮索してみたが、人類最古の民族を知る手段を発見できず、とうとう次のような方法を案出した。生れ立ての赤子を全く手当り次第に二人選び出し、これを一人の羊飼にわたして羊の群と一緒に育てるように言いつけ、その際子供の前では一言も言葉を話してはならぬ、子供はほかに人のいない小屋に二人だけでねかしておき、然るべき時々に山羊を連れていって十分に乳を飲ませ、そのほかの世話もするようにと厳命しておいたのである。プサンメティコスがこんな手筈を整え、こんな命令を出したのも、赤子が意味のない喃語を語る時期を脱したとき、最初にどんな言葉を発するかを知りたいと思ったからにほかならなかった。この計画は王の思いどおりにいって、羊飼は言いつけられたとおりを行なって二年たったある日のこと、小屋の戸を開けて中へ入ると、二人の子供は手を述べて彼のところへ駈けより『ベコス』といった。はじめ羊飼はそれをきいても、そのことを誰にも語らなかった。しかし赤子の小屋へゆき世話をするごとにこの言葉を聞くのが度重なって、羊飼はとうとうこれを王に報告し、王の命令によって赤子を王の前に連れていった。王も自分の耳でその言葉を聞くと、『ベコス』という言葉を使うのは何国人であるかを調べさせた。そして詮索の結果、プリュギア人がパンのことをベコスということが判ったのである。エジプト人もこの実験の結果から判断して、とうとう今までの主張を譲歩して、自分たちよりもプリュギア人の方が古い民族であることを認めるようになったのである」(ヘロドトス「歴史・上・巻二・二・P.185~186」岩波文庫)

プリュギアはアナトリア(小アジア)の中西部に位置したと言われている。紀元前十二世紀頃に出現したようだが紀元前七世紀頃には全盛期が終わる。しかしその後も地理的条件に恵まれていたため、西方のギリシアや東方文化圏との間で貿易が行われる際の通商路として栄えた。ところで「ベコス」の件については余りといえば余りにもまさかのエピソードなので「ベコス」は言語というより動物が発する音声の擬態語にほぼ間違いないと考えられてきた。ところが紀元前六世紀半ばに活躍したイオニアの諷刺詩人ヒッポナクスによればイオニアの俗語にパンを意味する「ベコス」という語があったとしている。さらにラムゼイ報告としてプリュギア語碑文の中に「ベコス」という語が発見されている。しかし羊に育てられたとしてもなお、羊が人間の言語であるベコスという言語を用いるかどうか。羊は羊だけで生きているわけではない。羊飼が世話をしている。羊飼はベコスという言葉をパンの意味で用いるかどうか。判然としない。さらに羊の世話をしたのはプサンメティコス王の命令で舌を切られた人間の女性たちであるという説もある。もし後者なら、あるいは「ベコス」という不十分な発語がプリュギアで「パン」を意味する「ベコス」と同一視された可能性がなくもないと思われる。ともかく、不可解な部分を残しながらもヘロドトスの説を取るとすれば「ベコス」=「パン」と等置するやいなや「ベコス」=「パン」という等価性が成り立ち、成り立ったがゆえに、プリュギア人について「最も古い人類の種族」というフレーズがアープレーイユス作品の中に相続されることになったと考えられる。

さて、先日来述べている南方熊楠「山婆の髪の毛」という論考は文庫文でたった二頁という大変短いものだ。ところが学術論文として長い短いは問題外である。次に熊野で「山婆(やまんば)の陰垢(つびくそ)」と俗称されている菌(きのこ)類について書かれている。

「安堵峰辺で、樅(もみ)に着く山婆(やまんば)の陰垢(つびくそ)と呼ぶ物を二つ採ったが、これは鼠色で膠の半凝様の菌(きのこ)で、裏に細かい針がある。ーーー予は右の山婆の陰垢(つびくそ)と、今一種全体純白で杉の幹につくものを那智山で見出だした。いずれも砂糖をかけると、寒天を食うように賞翫しえて、全く害を受けず」(南方熊楠「山婆の髪の毛」『森の思想・P.328~329』河出文庫)

山婆(やまんば)の原型としてイザナミを上げた。イザナミはスサノオの母である。

「伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、伊奘冉尊(いざなみのみこと)を追(お)ひて、黄泉(よもつくに)に入(い)りて、及(し)きて共(とも)に語(かた)る。時(とき)に伊奘冉尊の曰(のたま)はく、『吾夫君(あがなせ)の尊(みこと)、何(なに)ぞ晩(おそ)く来(いでま)しつる。吾已(われすで)に湌泉之竈(よもつへぐひ)せり。然(しか)れども、吾当(まさ)に寝息(ねやす)まむ。請(こ)ふ、な視(み)ましそ』とのたまふ。伊奘諾尊、聴(き)きたまはずして、陰(ひそか)に湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を取(と)りて、其(そ)の雄柱(ほとりは)を牽(ひ)き折(か)きて、秉炬(たひ)として、見(み)しかば、膿(うみ)沸(わ)き虫(うじ)流(たか)る。今(いま)、世人(よのひと)、夜一片之火(よるひとつびとぼすこと)忌む、又(また)夜擲櫛(なげぐし)を忌む、此(これ)其(そ)の縁(ことのもと)なり」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.43~44」岩波文庫)

追放されたスサノオは息子・五十猛命(いたけるのみこと)とともに朝鮮半島の「新羅国」(しらきのくに)に渡り、杉(すぎのき)を用いた造船技術を学んで持ち帰る。そして五十猛命(いたけるのみこと)は水と森と磐座の国=紀州・熊野の神として祀られることとなる。しかしそれと山婆(やまんば)の陰垢(つびくそ)とどう関係があるのか。

女性器のことを「開」(かい)と書くようになったのはただ単に形が似ているので、一見、「貝」(かい)から来たかのように思える。だが平安前期に当たる九〇〇年頃に編纂された「新撰字鏡」を見ると公式には「開」(かい)の側が採用されている。そしてこの「開」(かい)の字を音読する場合、特に「開」という漢字に関係なく地方によりけりだったし今なお地方によりけりで様々あるが、なかでも江戸時代末期まで都は間違っても大坂ではなく京だったことが大きく影響していたため、都(京)と王権(天皇家)と熊野との関係において、紀州・熊野で主流だった「つび」という呼び名が京の都にまで定着した要因らしい。その意味で「山婆(やまんば)の陰垢(つびくそ)」は、紀州・熊野の地で俗称化したかのように思われていながらも実はたいそう高貴な、神の遺品(かたみ)の意味を持つのである。

「馬尾蜂が尾を樹幹に鎖込(もみこ)んで、多く群団(かたまり)あるのも、蜂が死んで屍を亡うた上は、髪の毛のように見える。西牟婁郡富里村の山中に、大神の髪の毛と呼ぶ葉のある植物生じ、樹に懸かると聞く。何かの蔓性顕花植物らしい」(南方熊楠「山婆の髪の毛」『森の思想・P.328』河出文庫)

粘菌は形も色も様々であり中には「髪の毛」と呼ばれるものがあるのはすでに述べた。さらに「異様に光る」ものもある。そもそも粘菌は色鮮やかなものが多い。

「わが邦の山人もかかる物を多少の身装(かざり)としたかもしれぬ。例の七難の揃毛(そそげ)も異様に光るというが、こんな物で編み成したのではないか」(南方熊楠「山婆の髪の毛」『森の思想・P.328』河出文庫)

熊楠が例に上げている「七難(しちなん)の揃毛(そそげ)」は、山婆(やまんば)、山の神、などの陰毛であり、ありがたいものとして古くから祀られ、今なお民間信仰のあいだで根付いている。もう一つ注目したいのは、山人が衣装として活用したのではという論考である。この場合の「山人」とは何を指していうのか。林業を生業としていた杣人(そまびと)といっても熊野の杣人は全国へ出稼ぎに出たりしていた。とはいえ、熊野という家郷がある。例えば近江を本拠とした木地師や轆轤師もたいがいは自分たちのテリトリーを持っていて明治時代になると全国に散らばっていったが、その先で基本的に定住している。マタギの場合、定畑・焼畑を行いながら畑を荒らす害獣駆除と食料確保のために狩猟生活も行なっていた。山中で暮らしているとはいえ、これらの人々はその職業柄、或る特定の地を本拠として持っている。だが熊楠のいう山人はおそらくそうではない。「異様に光る」物を用いて「多少の身装(かざり)」を「編み成した」。山で暮らす他の職能民とは明らかに違った生活様式を持っていたことがその衣装から特徴づけられるだろう。非定住民=移動民としての山人。だがそれについてはまた機会を改めなくてはならない。

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