白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

高度アニミズムと嘔吐するニーチェ

2020年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
明治政府の国策の一つとして突如全国を襲った神社合祀。そもそも紀州の地にあった貴重な遺産があれよという間もなく失われていく。憤激を抑えきれない熊楠。熊楠が守ろうとしたのは紀州だけではもちろんない。岡山県の飯盛神社について触れている。この地の飯盛神社は「ピラミッドごとき塚」である。だがただ単に巨大だというだけのことなら他にも類例があるかもしれない。さらに世俗の伝説にあるように「平経盛」の墓というどこにでもありそうな風説が本当ならそれほど騒ぎ立てる必要性はますますない。ところが問題はその遺構の構造にある。「全く古え酋長を中とし、殉死または戦死の臣下の死尸(しし)を周囲に埋むる風ありしを実証するもので、書史の不足を補」うに十分な希少性があると熊楠はいう。

「備前国邑久(おく)郡朝日村にオコウベ(御首)様(さま)という社あり(飯盛神社)。ピラミッドごとき塚にて、その内部構造、中央に巨魁(きょかい)、ぐるりに子分の遺骸を収めたるなり。決して新しきものにあらず。神軍の伝説あり、また石鏃(せきぞく)をこの辺より出すを見れば、古きものたることを知るべし。ーーー件(くだん)に飯盛塚が実に経盛の葬処たりしところが、この経盛という人敦盛の父というばかりで何の益もなく、ただ歌集あってもなくてもよきような歌が三、四伝われるのみなれば、遺跡を滅却して畑となし、平経盛之墓と一本塔婆を立てばすむことなり。しかるに上述のごとき塚の結構とありては、とても経盛ごろのものでなく、全く古え酋長を中とし、殉死または戦死の臣下の死尸(しし)を周囲に埋むる風ありしを実証するもので、書史の不足を補い、わが朝にはわが朝固有の風俗ありしを証する大益あるものなれば、たといその塚が何の誰と人の名を指して知れずとも少しもかまわず、わが国文化開進の履歴を証するものとして、もっとも保護を加えたきことに候わずや」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.438~440』河出文庫)

この「全く古え酋長を中とし」た構造物は、ほかでもない東アジア最果ての地に、先史時代の文化が実在した紛れもない証拠だというのである。それを裏付けるかのように柳田國男は「飯盛(いいもり)山・飯盛塚」の特殊性についてこう述べている。

「飯盛(いいもり)山は、通例山の形が飯を盛り上げた形に似ているからこの名があるというが、それだけでは命名の理由の不明な飯盛山が、自分の集めているだけでも、全国にわたって百以上もある。いずれも形の整った孤峰であるが、一方には、飯盛塚というものが無数にある。単に形似の偶然によって、気軽に命名したとはとうてい考えられないほど無数にある。自分等の推測では、平野の中に起った村で神を祀る場合、山村で紙を祀ると同じように、特に高く土を盛ったものと見る。山の名と塚の名と共通しているのは、飯盛山ばかりではない。茶臼(ちゃうす)山、茶臼岳が多いと同時に、茶臼塚が無数にある。かめ塚とかめ山ともまた非常に数が多い。一方にはまた塚の名と神様の名とに、幾つも共通なのがある。野神と野塚、松神と松塚、牛神と牛塚、狐神と狐塚という風に、神様がある所には、同名の塚のある例がたくさんある。そこで、天然に存在する嶺も、人工によって成ったところの一丈二丈の塚も、信仰上共通の要素を有しておったと想像することができる」(柳田國男「飯盛山と飯盛塚」『柳田國男全集15・P.555』ちくま文庫)

飯盛山・飯盛塚は全国各地にある。その形態だけでなく「山の名と塚の名と共通している」ような場合、それは計り知れないほど遥か往古から「信仰上共通の要素を有して」いると考えられる。形態だけでなく「信仰上共通の要素を有して」いると考えられる理由が重要なのはなぜか。飯盛山・飯盛塚のような形態が記紀の時代以後ではなく、記紀の時代すでに完成された様式として、全国各地であらかじめ無数に実在していたことが上げられる。例えば斎串(いぐし)や一膳飯(いちぜんめし)といった今なお残る風習は何を物語っているか。

斎串(いぐし)。「斎」(い)は「神聖な」。串(くし)は木の枝、竹、鉄などの細長い棒。例えば。

「山雷者(やまつち)をして、五百箇(いほつ)の真坂樹(まさかき)の八十玉籤(やそたまくし)を採らしむ」(「日本書紀・巻第一・神代上・第七段・P.82」岩波文庫)

日本書紀のほぼ冒頭で斎串(いぐし)の「くし」に当たる「八十玉籤(やそたまくし)」という呼び名が出てくるのだが、「八十玉籤(やそたまくし)」はそこらへんのどこにでもあるものではない。「山雷者(やまつち)」を介して登場する。「山雷者(やまつち)」は「山祗」(やまつみ)。山神(やまのかみ)のこと。古来の土着の信仰。その中心が森であり、神域としての森林、そして磐座だった。

「たたなはる青垣山(あをかきやま)やまつみの」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第一・三八・P.84」小学館)

というのは歴史家のあいだでは随分前からもはや通説になっているように、天武朝の頃までは天皇よりも自然神の側が優位に立っており、天武朝になってようやく力関係が転倒し始めるとともに天皇の側が自然神よりも優位に立つことができるようになってきた。そして万葉集編纂の開始早々、神として優位にあるのは自然神ではなく天皇の側であり列島各地の自然神は天皇に奉仕することになったと印象づける必要性が出てきた。そういう経過を経ているからこそ唐突のようにであっても、わざわざこのような記述を挿入する必要性が出現したのである。

さらに。

「斎串(いぐし)立て神酒(みわ)すゑ奉(まつ)る祝部(はふりへ)がうずの玉陰(たまかげ)見ればともしも」(日本古典文学全集「万葉集3・巻第一三・三二二八・P.377」小学館)

この「うず」は第一に「尊く珍しいもの」と解して「尊厳・高貴」を意味する。イザナギとイザナミとが性交して始めて子作りする次のような場合。

「伊奘諾尊(いざなきのみこと)の曰(のたま)はく、『吾(われ)、御㝢(あめのしたしら)すべき珍(うづ)の子(みこ)を生(う)まむと欲(おも)ふ』」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.36」岩波文庫)

第二に「うず」は草木の枝葉や花を冠に挿して髪飾りとしたもの。次のように。

「熊白檮(くまかし)が葉を髻華(うず)に插(さ)せ」(新潮日本古典集成「古事記・中つ巻・景行天皇・P.169」新潮社)

「髻華」(うず)は「插頭」(かざし)のこと。簪(かんざし)。

「玉」(たま)は美称。「陰」(かげ)は儀式を行なう「祝部(はふりへ)」(=複数形の「巫女」)の身振りに連れて揺れる陰影を指して述べたもの。

また飯盛に関し、一膳飯(いちぜんめし)とか一杯飯(いっぱいめし)とか呼ばれる風習は今なお現役である。故人の枕元に茶わん一杯の飯を山の形に似せて盛る。柳田のいう「形の整った孤峰」とはそういう意味でもまた共通して述べられた言葉だ。その飯の中央に一本の箸を立てる。それが死者の「霊」(みたま)をいざなう交通標識の意味を持った。無数に存在する「飯盛山・飯盛塚」とその系列は、太古の神々のための交通機関として機能したのであり、他でもない古代自然信仰におけるアニミズムの遺産なのである。

また今日でも家を建てる場合、あるいは大型土木工事に着手する場合、必ず地鎮祭が執り行われる。なるほど急ごしらえではあるものの、注連縄(しめなわ)を張って即席の祭場を作り儀式が執行される。地鎮祭の中心は誰がどう見ても「飯盛山・飯盛塚」としか考えようがない。そして祭祀が捧げられるのは、往古からそこに住んでいたし今なお住んでいるとされる土着の神々に、である。熊楠の憂慮は科学者の態度であり、往古からそこに住んでいたし今なお住んでいるとされる土着の神々と共に生きてきた貴重な自然環境すべてに対する畏怖と脅威とを心底から感じ取っていたところから来ている。それが破壊されたとき、どういう事態が勃発するか。これまでもベイトソンから引用してきた。

「自分の関心は自分であり、自分の会社であり、自分の種だという偏狭な認識論的前提に立つとき、システムを支えている、他のループはみな考慮の《外側》に切り落とされることになります。人間生活が生み出す副産物は、どこか《外》に捨てればいいとする心がそこから生まれ、エリー湖がその格好の場所に見えてくるわけです。このとき忘れられているのは、エリー湖という『精神生態的』“eco-mental”なシステムが、われわれを含むより大きな精神生態系の一部だということ、そして、エリー湖の精神衛生が失われるとき、その狂気が、より大きなわれわれの思考と経験をも病的なものに変えていくということです」(ベイトソン「エピステモロジーの正気と狂気」『精神の生態学・P.640』新思索社)

三つのエコロジー。第一に生態系のエコロジー。第二に人間精神の生態系のエコロジー。第三に社会的エコロジー。これらがいったん破壊されると元に戻すことは不可能か、少なくとも極めて困難である。ところが日本では既得権益欲しさのあまり舌舐めずりしながら地方から京や江戸へずかずかと乗り込んできた、涎を垂らした維新などという大袈裟極まりない権力亡者を跋扈させた結果、ころっと転がり出てきた明治政府。明治政府は国策の名のもとに全国各地の神社合祀を強行して一つに統合、始めて「日本国民」というものを創り上げた。同時に資本主義が全力でその果実を吸い上げつつ帝国主義戦争へ猛進していく。その挙句が原爆投下、ヒロシマの惨劇となって転がり出た。ニーチェは呆れ果てていうだろう。

「わたしはかつて、最大の人間と最小の人間の裸身を見た。その二つはあまりにも似かよっていたーーー最大の人間さえ、あまりにも人間的だった。最大の人間も、あまりに小さい。ーーーこれが人間に対するわたしの倦怠だった。そして最小のものも永遠に回帰することーーーこれが生存に対するわたしの倦怠だった。ああ、嘔気(はきけ)、嘔気、嘔気!ーーーそうツァラトゥストラは言って、嘆息し、戦慄(せんりつ)した」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・快癒しつつある者・P.354」中公文庫)

その通りになった。今の日本では高度テクノロジーの加速的発達がアニミズム的国家装置を内部に組み込んでしまった。かつてと同様の事態が姿形を置き換えて横行している。

「早くから日本のミカドたちは、至上の権力という栄誉と重荷を自分の幼い子どもに譲り渡すという、便宜的な手段に訴えていたらしい。この国で長く俗世の権力を握ることになる大君〔将軍〕が登場したのも、あるミカドが三歳の息子のために自ら退位したことが原因である。ひとりの簒奪者が、ミカドとなった幼い皇子からその主権をもぎ取った。そこでミカドの大義を擁護したのは、気骨と実行力に富む男、〔源〕頼朝であった。頼朝はその簒奪者を倒し、ミカドにその『影』を回復してやった。つまりは権力という『実体』を、頼朝自身が確保したのである。頼朝は自らが勝ち取った権威を子孫に譲り、こうして代々に亘る大君の創始者となった。十六世紀後半にもなると、大君は実行力のある有能な統治者となった。だが大君たちも、ミカドのそれと同じ運命に見舞われる。大君が、同様に慣習と法の入り組んだ網の目に捕らえられ、単なる傀儡に堕し、城から動くこともなくなり、永遠に続くかのごとき空虚な宴に明け暮れる一方で、実質的な行政は、国策会議によって執り行われたのである」(フレイザー「金枝篇・上・第二章・第一節・P.173~174」ちくま学芸文庫)

同様の事例は少なくない。

「息子が誕生すれば退位するという、タヒチの王たちが一様に守っていた風習も、ときおりミカドが行っていた慣例と同様、おそらくは王位という退屈な重荷を他の者に負わせようという意図から発したものであろう。息子は生まれると即座に国王であると宣言され、それまで父親が受けていた敬意を払われることになる。他の地域と同様タヒチにおいても、君主はあわただしく拘束してくる制度の奴隷だったからである」(フレイザー「金枝篇・上・第二章・第一節・P.174~175」ちくま学芸文庫)

もはやかつての君主さえ次々と拘束されざるを得ない制度の中の籠の鳥のようなものだ。その一方、資本主義はネオリベラリズムのもとで、逆にかつての生成期の暴力性をあからさまに剥き出しにし始めている。

「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫)

というふうに。

BGM