当時の和歌山県で熊楠の抵抗はほとんど孤軍奮闘の形を取っていた。国策批判を展開し実践し事実上の阻止に持ち込もうとする場合、一体どのように抵抗すればよいのか。抵抗できるのか。できるとすればどのようにしてか。民衆がその方法を知らないうちに国家は国策を押し進める。今なお同様の事態は全国各地で起きているが明治時代の民衆は政府に抵抗するにしてもどのように振る舞えばいいのか知識も経験もまるでないに等しかった。
「日置川筋の神社合祀は実にはなはだしく(去年三月二十三日ごろ、すなわち衆議院閉会前日の官報で御覧下さるべき通り、代議士中村敬次郎氏の神社合祀に関する長演説あり。これは小生が起草して中村氏が整頓したるを演説せしものに候。その中にも見ゆ)、三十社四十社を一社にあつめ、ことごとくその森林を伐りたる所多く、また、今も盛んに伐り尽しおり、人民小児の名づけ等に神社へ詣るに、往復五里、はなはだしきは十里を歩まねばならず、染物屋(祭りの幟)、果実屋、菓子(かし)小売等、細民神社において生を営みしもの、みな業い失い、加うるにもと官公吏たりし人、他県より大商巨富を誘い来たり、訴訟して打ち勝ち、到る処山林を濫伐し、規則を顧みず、径三、四寸の木をすら伐り残さず。多数無頼の人足、村落に充満し、喧嘩、争闘、野中村でのみ去年中に人の妻娘失踪せしもの八人あり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.397~398』河出文庫)
神社合祀によって発生する失業者は膨大な数にのぼる。熊楠が上げている中に「染物屋」がある。明治近代に入ってなお職業差別は歴然と残っていた。というよりますます激化したと言える。資本主義は賎者に与えられていた特権的職業を保護から取り上げ、民衆全体の中へ放り出して、両者を混ぜ合わせ一挙に競争社会の中へ叩き込むからである。競争の激化はそれまで賎視されていた職業に携わる人々すべてに、かつてなかったほど過酷な差別構造を与え直した。柳田國男が熊楠の説を取り上げている箇所がある。
「南方氏の話には紀州田辺辺のハチンボに今も染物屋と籠細工を業としている者が多い。古くは阿波で三好氏の時代にも、天文十年に上方より下った青屋四郎兵衛という者はだと言われた。始めて阿波染ということを仕出して事のほか富有となった。三好長治青屋が子を寵用(ちょうよう)して土民憤怨すと『三好記』に見えている。京から来る染物取次人内々の話に、人骨を灰にして用いれば紺(こん)ははなはだよく染まると。しからばなど便宜をもって染屋を兼ねるがゆえに、染屋を賎しむ風が起ったのではなかろうか云々(以上南方氏説)」(柳田國男「夙の者と守宮神との関係」『柳田國男全集11・P.496』ちくま文庫)
国策としての神社合祀によって、それまであった種々様々な地域密着型信仰は、あったにもかかわらずまるでなかったかのような風景を出現させた。種々様々な諸地域の産土神(うぶすながみ)は次のように「おおい隠された」。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
さらにその「痕跡」さえ「残させない」。
「一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える。媒介する運動は、運動そのものでは消えてしまって、なんの痕跡も残してはいない」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.169」国民文庫)
このようにして近代日本の「風景」は出現した。大規模な森林伐採はそれまで微妙な均衡を保ちながら成り立ってきた生態系を破壊し、「土石崩壊、年々風災洪水の害聞(がいぶん)到らざるなく」、また「いたずらに植物の絶滅、岩土の崩壊を見るのみ」となる。
「土石崩壊、年々風災洪水の害聞(がいぶん)到らざるなく、実に多事多患の地と相成りおり申し候。この他、地方官公吏自分の位置を継続せんとて、入りもせぬ工事を起こし、村民を苦しめ、入らぬ所にトンネルを通じ、車道を作ること止まず。さてその工事成るころは、すでに他にそれよりよき工事でき上がるため、せっかくの骨折りも徒労となり、いたずらに植物の絶滅、岩土の崩壊を見るのみ」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.398』河出文庫)
日本だけで起った問題ではない。ベイトソンは言っている。
「すべての種がいわば《爆発》の火種を抱えているわけで、そのことを嘆いてもしかたありません。これがなければ種として生き残っていけない。ただ、潜在的な《爆発》の能力をもったもの同士が、互いに互いを抑え込んで安定を保っているシステムというのは、きわめて微妙なバランスの上に成り立っているわけで、これを下手にいじることがバランスの喪失をもたらすということは単純な道理であります。バランスが崩れれば、例の指数関数曲線が姿を現わすでしょう。雑草化する植物、絶滅する動物が出てきて、均衡のバランスとして存在していたシステムそのものに崩壊の危機が訪れることになります。ひとつの森の生態系を構成する種についていえることは、ひとつの社会を構成する人間集団についてもいえるでしょう。人間社会でもさまざまな《種》が依存と競争のあやういバランスのなかに置かれているわけです。そしてまた、われわれの体内でも、器官、組織、細胞等々が、あやうい生理学的競争と相互依存の関係にある。この競争と依存がなければ、われわれは存在していられない。人間というシステムの生存のためには、どの部分も欠かすわけにはいきません。もしもこれらのうち膨張する性格をもたないものがあったら、それは姿を消し、それといっしょにあなたも消える。あなたはすでに自分の身体のなかに、負債を負っているわけです。システムが不適当に攪乱にさらされれば指数関数が現われてくるでしょう。ひとつの社会にしても同じです。生理的な変化も、社会的な変化も、生きたシステムにおける重要な変化はみな、ある指数関数曲線にそった、システムの滑行であると考えざるをえないと思います。この滑降は、わずかなところで止まるかもしれないし、破局的なところまでいってしまうかもしれない。とにかく、ひとつの森のなかでツグミが全滅するほどのことが起こるとき、はじめの均衡をつくっていた構成員のいくつかは、指数関数の曲線の上をあらたに停止できる位置までスライドしていくことになります」(ベイトソン「目的意識対自然」『精神の生態学・P.576』新思索社)
さて、熊楠が上げている紀州の日置川は河童伝説の名所でもある。折口信夫はまず「お約束」的な伝承として次のように拾っている。
「人に捉へられた河童は、其村の人をとらぬと言ふ誓文を立てる。或は其誓文は、ひき抜かれた腕を返して貰ふ爲にする様になつてゐる。腕の脱け易い事も、河童からひき放されぬ、重要な条件といつてゐた時代があつたに違ひない。其が後には、妖怪の腕を切り落す形になつて行く。柳田先生は、此を河童考の力点として居られる。羅生門で切つた鬼の腕も、其変形で、河童から鬼に移つたのだと説かれた。此鬼と同様、高い處から、地上の人をとり去らうとする火車(クワシヤ)なる飛行する妖怪と、古猫の化けたものとの関係をも説かれた。其後、南方熊楠翁は紀州日高で河童を《かしやんぼ》と言ふ理由を、火車の連想だ、と決定せられた。思ふに、生人・死人をとり喰はうとする者を、すべて《くわしや》と称へた事があつたらしい。火車の姿を、猫の様に描いた本もある訣である。人を殺し、墓を掘り起す狼の如きも、火車一類として、猫化け同様の話を伝へてゐる。老女に化けて、留守を家に籠る子どもをおびき出して喰ふ話は、日本にもある。又、今昔物語以来、幾変形を経た彌三郎といふ猟師の母が、狼の心になつて、息子を出先の山で待ち伏せて喰はうとして、却て切られた越後の話などが其である。さう言ふ人喰ひの妖怪の災ひを除く必要は、特に、葬式・墓掘りの際にあつた」(折口信夫全集3「河童の話・P.296~298」中公文庫)
また北海道に伝わるアイヌの風習を織り交ぜて、列島各地で行われている「夏越しの祓」の行事との共通性を述べる。
「金田一京助先生は、手の抜け易い事を、草人形(クサヒトガタ)の変化であるからだ、と説明して居られた。藁人形などの手は、皆心(シン)は、竹や木である。草を絡んだ一本の棒を両手としてゐる。其で引けば、両方一時に抜けて来るとも言はれた。ーーー夏祓へに、人間の邪悪を負はせて流した人形(ヒトガタ)が、水界に生(シヤウ)を受けて居るとの考へである。中にも、田の祓へには、草人形を送つて、海・川へ流す。夏の祓へ祭りと、河童と草人形との間に、通じるもののあるのは、尤もである。而も、河童に関係浅からぬ相撲に、骨を脱(ハヅ)して負ける者の多い處から、愈河童と草人形との連想が深まつて来た、と思はれる」(折口信夫全集3「河童の話・P.298~299」中公文庫)
河童のトレードマークとも言える頭の頂の「皿」(さら)。なぜ皿なのか。民衆は河童の頭の頂の皿に何を見ていたのか。
「河童の皿は、富みの貯蔵所であると言ふ考への上に、生命力の匿し場の信仰を加へてゐる様である。水を盛る爲の皿ではなく、皿の信仰のあつた處へ、水を司る力の源としての水を盛る様になつて来たのである。だから、生命力の匿し場の信仰は、二重になる。だから私は、皿の水は後に加つたもので、皿の方を古いものと見てゐる」(折口信夫全集3「河童の話・P.310」中公文庫)
いきなり「皿の信仰」と言われてもすぐさま気づく人々はそれほど多くない。だが東アジアだけでなく遠く古代ギリシア・エジプト、小アジアなどの壁画や絵画、造形芸術に通じていた知識人にすれば、古くから皿、甕、壺などがどのような役割を担っていたか、極めて重要な要素として考えないわけにはいかない。日本でも、例えば「鉢かづき」のエピソードがある。折口はそこに「禊」(みそぎ)を行う「古代の水の神女のおもかげ」を見ている。
「御兄(あに)たちも殿上(とのうへ)も、御湯殿(ゆどの)へ入(い)らせ給ふ。かの鉢(はち)かづき『御湯(ゆ)、うつしさふらふ』と申す聲(こゑ)、やさしく聞(きこ)えける。『御行水(ぎやうずい)』とてさしいだす、手足(てあし)の美(うつく)しさ尋常(じんじやう)げに見(み)えければ、世に不思議におぼしめし、『やあ鉢(はち)かづき、人もなきに、何(なに)かは苦(くる)しかるべき、御湯殿(ゆどの)してまゐらせよ』との給(たま)へば、今さら昔を思ひ出して、人にこそ湯殿(ゆどの)させつれ、人の湯殿(ゆどの)をばいかがするやらんと思(おも)へども、主命(しうめい)なれば力(ちから)なし。御湯殿(ゆどの)へこそ参(まい)りける」(日本古典文学体系「鉢かづき」『御伽草子・P.67』岩波書店)
水の女。しかしそれが聖性を帯びたものだと言うためには室町時代であるにもかかわらず、なぜか実際に目に見えて手で触れて確かめられる「金銀財宝」を出現させて実証されなければならなかったようだ。
「かくてとどまるべきにもあらざれば、夜(よ)もやうやう明方(あかがた)になりぬれば、急(いそ)ぎ出(い)でんとて涙(なみだ)と共(とも)に二人ながら出(い)でんとし給(たま)ふ時(とき)に、いただき給ふ鉢(はち)かつぱと前(まへ)に落(お)ちにけり。宰相殿(さいしやうどの)驚(おどろ)き給ひて、姫君(ひめぎみ)の御顔(かほ)をつくづくと見(み)給(たま)へば、十五夜(や)の月の雲間(くもま)を出(づ)るにことならず。髪(かみ)のかかり、姿(すがた)かたち何にたとへんかたもなし。若(わか)君うれしく思召(めし)、落(お)ちたる鉢(はち)をあげて見(み)給へば、二懸子(ふたつかけご)の其下(そのした)に、金(こがね)の丸(まる)かせ、金(こがね)の盃(さかづき)、銀(しろかね)のこひさげ、砂金(しやきん)にて作(つくり)たる、三(み)つなりの橘(たちばな)、銀(しろかね)にて作(つく)りたる、けんぽの梨(なし)、十二ひとへの御小袖(こそで)、紅(くれなゐ)のちしほの袴(はかま)、数(かず)の寶物(たからもの)を入(い)れられたり」(日本古典文学体系「鉢かづき」『御伽草子・P.76~77』岩波書店)
いろいろ出てきた。「金(こがね)の丸(まる)かせ」とある。「丸(まる)かせ」の読み方は同時代の幸若舞にも出てくる。
「かの滝(たき)の双岸(さうがん)に、三尺の鉄(くろがね)の丸(まる)かせありて、日夜に人を悩(なや)ます」(新日本古典文学体系「剣讃嘆」『舞の本・P.512』岩波書店)
ちなみにこの場合の「丸(まる)」は塊(かたまり)を言う。だから「鉢かづき」のケースで言えば「金(こがね)の丸(まる)かせ」は「金塊」のこと。また「けんぽの梨(なし)」は古代中国文献から輸入された語彙。
「玄圃(けんぽ)の梨(なし)」(新日本古典文学体系「浜出」『舞の本・P.152』岩波書店)
通常は「玄圃」(けんぽ)の字を当てるが、楚辞で「県圃」(けんぽ)と言う場合、山上の神の住居・神仙の住む山を指す。なおケンポナシは日本を含む東アジア温暖地帯一帯に自生する。
さらに「ちしほの袴(はかま)」の「ちしほ」は「千入」。何度も入念に染め重ねられたという意味。折口はまた、皿はしかし、なぜ「数えられる」ものになったのかと問う。「今昔物語」から。
「然(さ)テ月来(つきごろ)ヲ経(ふ)ル程ニ、其ノ弓前(まへ)ニ立(たて)タルガ、俄(にはか)ニ白キ鳥ト成(ナリ)テ飛ビ出(いで)テ、遥(はるか)ニ南ヲ指(さし)テ行ク。奇異(あさまし)ト思テ出テ見ルニ、雲ニ付(つき)テ行クヲ、男、尋ネ行テ見レバ、紀伊(きい)ノ国ニ至(いたり)ヌ。其ノ鳥、亦(また)人ト成ニケリ。男、『然(さ)レバコソ。此(こ)ハ只物(ただもの)ニハ非(あら)ザリケリ』ト思テ、其(そこ)ヨリゾ返(かへり)ニケル。然(さ)テ、男和歌ヲ読テ云ク、
アサモヨヒキノカハユスリユクミヅノイヅサヤムサヤイルサヤムサヤ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十・第十五・P.433」岩波書店)
問題はラストの短歌。このままでは余りにも読みづらいので少し手を入れてみる。
「あさもよひ紀の川ゆすり行く水のいつさやむさやいるさやむさや」
しかしなお後半の「いつさやむさやいるさやむさや」はまるで呪文にも似ている。判読困難。折口は「数え唄」の方向を推し進めてみる。
「皿数への文句としては、『嬉遊笑覧』に引いた、土佐の『ぜぜがこう』の文句が、暗示に富んでゐる。
向河原(ムカヒカハラ)で、土器焼(カハラケヤケ)ば(ヤキハ?)、いつさら、むさら、ななさら、やさら。やさら目に遅れて、づでんどつさり。其こそ鬼よ、蓑著て、笠著て来るものが鬼よ。
此唄を謡ひながら、順番に手の甲を打つ。唄の最後に、手の甲を打たれた者が、鬼になる。かういふ風に書いて、此が世間の皿数への化け物の諺の出處だらう、とおもしろい著眼を示してゐる」(折口信夫全集3「河童の話・P.312~313」中公文庫)
となると後は話が早い。
「《さや》が《さら》となり、《いつ》が五(イツ)、《む》が六(ム)の義だ、と解せられると、『ななさら、やさら』と、形の展開して行くのは、直(すぐ)であらう。皿数への形が整ふと、物数への妖怪の連想が起る。壹岐本居(モトヰ)の河童の話に、門に出して干してあつた網の目を、勘定してゐるものがあるので、網に伏せて見ると、《があたろ》であつたと言ふ」(折口信夫全集3「河童の話・P.314」中公文庫)
話は早いが元々の河童がどこかへ行ってしまい、昔の怪談に出てくる「皿数え」伝説になり、さらには「早處女(サヲトメ)」伝説へと横滑りしていく。
「物数への怪が、ここ迄進んで来ると、皿数への唄と、相互作用で変化して行く。皿数へに最適したものは、河童である。此に結びつけて、井戸の中から、皿を数へる聲が聞えるなどと言ひ出したのであると思ふ。いづれ、田舎に起つた怪談であらうが、段々河童離れして、若い女の切りこまれた古井の話が、到る處に擴つた。河童が、若い女に替る理由はある。水の神の贄として、早處女(サヲトメ)が田の中へ生き埋めになつた物語、及び其が形式化して『一(イチ)の早處女』を、泥田の中に深く轉ばす行事がある。又、水に関連した土木事業には、女の生贄を獻つた、といふ伝へが多い。此は実は、生贄ではなかつた。水の神の嫁と言うた形で、擇ばれた處女が仕へに行つた民俗を、拗れさせたのである。田や海河の生贄となつた、處女の伝説が這入りこんで来ると、切りこまれたのは、若い女。皿を数へる原因は、一枚を破るか、紛失したからだと説く。皿を破つたからして、必しも、くり返しくり返し皿数へするわけもない。数とりをせねばならぬ理由は、元の河童にあつたのを、唯引きついだに留つてゐる」(折口信夫全集3「河童の話・P.314~315」中公文庫)
なお折口の上げている数え唄に「蓑著て、笠著て来るものが鬼」とある。しかし神は時々「笠蓑」(かさみの)姿で出現する。
「素戔鳴尊、青草(あおくさ)を結束(ゆ)ひて、笠蓑(かさみの)として、宿(やど)を衆神(もろかみたち)に乞(こ)ふ、衆神の曰(い)く、『汝(いまし)は是躬(これみ)の行(しわざ)濁悪(けがらは)しくして、遂(やら)ひ謫(せ)めらるる者(かみ)なり。如何(いかに)ぞ宿(やどり)を我(われ)に乞(こ)ふ』といひて、遂(つひ)に同(とも)に距(ふせ)く。是(ここ)を以て、風雨(かぜあめ)甚(はなは)だふきふると雖も、留(とま)り休(やす)むこと得(え)ずして、辛苦(たしな)みつつ降(くだ)りき。爾(それ)より以来(このかた)、世(よ)、笠蓑を著(き)て、他人(ひと)の屋(や)の内(うち)に入(い)ること諱(い)む。又(また)束草(つかくさ)を負(お)ひて、他人(ひと)の家(いへ)の内に入ること諱む。此(これ)を犯(をか)すこと有(あ)る者(もの)をは、必(なから)ず解除(はらへ)を債(おほ)す。此(こ)れ、太古(いにしへ)の遺法(のこれるのり)なり」(「日本書紀・巻第一・神代上・第七段・P.86」岩波文庫)
スサノオが受けた罰は追放刑と罰金刑だとされている。だから極めて簡素な衣装(笠蓑)で民衆の家を訪れる。神々の世界ではなるほど追放され質素な衣装をまとってはいても、民衆のあいだではなお神々の類縁者であるため、そう安易かつ粗雑に扱うわけにもいかない。なので年中行事ということもあり一時的滞在であるため、丁寧に出迎えはするものの余りに長く居座られても困るので、しばらく神妙に遇しておき、滞在期間が過ぎればまた丁寧に送り出すことにした。
ところで河童はどこへ行ったのか。水の神(あるいは水の女)はまた山の神でもある。古代ギリシアでディオニュソスが童子姿で現れる場面は少なくない。
「何をしているの?何の騒ぎなの?ねえ、船乗りのおじさんたち、どうしてこんなところへ来ているの?どこへ連れて行こうっていうの?ーーーナクソスへ!進路をナクソスへ向けてよ!そこに、家があるの。その島では、みんなも手厚いもてなしにあずかれようよ」(オウィディウス「変身物語・上・巻三・P.128」岩波文庫)
というように、日本の河童は本来を言えば「龍神」である。
「我々日本人はまだ外国の伝染病も知らぬ頃から、すでにこの神の怒りの半面を経験し、畏(おそ)れ慎んでこれに触れまいとしていたのである。古風な多くの信仰は学問によって裏切られたけれども、水の災は現実になお絶えず、他には優れた説明もない場合が田舎にはあったので、妙にこの部分だけが孤立して永く伝わった。それをかわるがわる嘲(あざけ)り笑っているうちに、ついに今のような滑稽な化け物にしてしまった」(柳田國男「河童祭懐古」『柳田國男全集6・P.84』ちくま文庫)
足尾銅山鉱毒事件の要因でもまた「土地買収」が問題とされるべくして問題とされたのに似ている。
BGM
「日置川筋の神社合祀は実にはなはだしく(去年三月二十三日ごろ、すなわち衆議院閉会前日の官報で御覧下さるべき通り、代議士中村敬次郎氏の神社合祀に関する長演説あり。これは小生が起草して中村氏が整頓したるを演説せしものに候。その中にも見ゆ)、三十社四十社を一社にあつめ、ことごとくその森林を伐りたる所多く、また、今も盛んに伐り尽しおり、人民小児の名づけ等に神社へ詣るに、往復五里、はなはだしきは十里を歩まねばならず、染物屋(祭りの幟)、果実屋、菓子(かし)小売等、細民神社において生を営みしもの、みな業い失い、加うるにもと官公吏たりし人、他県より大商巨富を誘い来たり、訴訟して打ち勝ち、到る処山林を濫伐し、規則を顧みず、径三、四寸の木をすら伐り残さず。多数無頼の人足、村落に充満し、喧嘩、争闘、野中村でのみ去年中に人の妻娘失踪せしもの八人あり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.397~398』河出文庫)
神社合祀によって発生する失業者は膨大な数にのぼる。熊楠が上げている中に「染物屋」がある。明治近代に入ってなお職業差別は歴然と残っていた。というよりますます激化したと言える。資本主義は賎者に与えられていた特権的職業を保護から取り上げ、民衆全体の中へ放り出して、両者を混ぜ合わせ一挙に競争社会の中へ叩き込むからである。競争の激化はそれまで賎視されていた職業に携わる人々すべてに、かつてなかったほど過酷な差別構造を与え直した。柳田國男が熊楠の説を取り上げている箇所がある。
「南方氏の話には紀州田辺辺のハチンボに今も染物屋と籠細工を業としている者が多い。古くは阿波で三好氏の時代にも、天文十年に上方より下った青屋四郎兵衛という者はだと言われた。始めて阿波染ということを仕出して事のほか富有となった。三好長治青屋が子を寵用(ちょうよう)して土民憤怨すと『三好記』に見えている。京から来る染物取次人内々の話に、人骨を灰にして用いれば紺(こん)ははなはだよく染まると。しからばなど便宜をもって染屋を兼ねるがゆえに、染屋を賎しむ風が起ったのではなかろうか云々(以上南方氏説)」(柳田國男「夙の者と守宮神との関係」『柳田國男全集11・P.496』ちくま文庫)
国策としての神社合祀によって、それまであった種々様々な地域密着型信仰は、あったにもかかわらずまるでなかったかのような風景を出現させた。種々様々な諸地域の産土神(うぶすながみ)は次のように「おおい隠された」。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
さらにその「痕跡」さえ「残させない」。
「一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える。媒介する運動は、運動そのものでは消えてしまって、なんの痕跡も残してはいない」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.169」国民文庫)
このようにして近代日本の「風景」は出現した。大規模な森林伐採はそれまで微妙な均衡を保ちながら成り立ってきた生態系を破壊し、「土石崩壊、年々風災洪水の害聞(がいぶん)到らざるなく」、また「いたずらに植物の絶滅、岩土の崩壊を見るのみ」となる。
「土石崩壊、年々風災洪水の害聞(がいぶん)到らざるなく、実に多事多患の地と相成りおり申し候。この他、地方官公吏自分の位置を継続せんとて、入りもせぬ工事を起こし、村民を苦しめ、入らぬ所にトンネルを通じ、車道を作ること止まず。さてその工事成るころは、すでに他にそれよりよき工事でき上がるため、せっかくの骨折りも徒労となり、いたずらに植物の絶滅、岩土の崩壊を見るのみ」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.398』河出文庫)
日本だけで起った問題ではない。ベイトソンは言っている。
「すべての種がいわば《爆発》の火種を抱えているわけで、そのことを嘆いてもしかたありません。これがなければ種として生き残っていけない。ただ、潜在的な《爆発》の能力をもったもの同士が、互いに互いを抑え込んで安定を保っているシステムというのは、きわめて微妙なバランスの上に成り立っているわけで、これを下手にいじることがバランスの喪失をもたらすということは単純な道理であります。バランスが崩れれば、例の指数関数曲線が姿を現わすでしょう。雑草化する植物、絶滅する動物が出てきて、均衡のバランスとして存在していたシステムそのものに崩壊の危機が訪れることになります。ひとつの森の生態系を構成する種についていえることは、ひとつの社会を構成する人間集団についてもいえるでしょう。人間社会でもさまざまな《種》が依存と競争のあやういバランスのなかに置かれているわけです。そしてまた、われわれの体内でも、器官、組織、細胞等々が、あやうい生理学的競争と相互依存の関係にある。この競争と依存がなければ、われわれは存在していられない。人間というシステムの生存のためには、どの部分も欠かすわけにはいきません。もしもこれらのうち膨張する性格をもたないものがあったら、それは姿を消し、それといっしょにあなたも消える。あなたはすでに自分の身体のなかに、負債を負っているわけです。システムが不適当に攪乱にさらされれば指数関数が現われてくるでしょう。ひとつの社会にしても同じです。生理的な変化も、社会的な変化も、生きたシステムにおける重要な変化はみな、ある指数関数曲線にそった、システムの滑行であると考えざるをえないと思います。この滑降は、わずかなところで止まるかもしれないし、破局的なところまでいってしまうかもしれない。とにかく、ひとつの森のなかでツグミが全滅するほどのことが起こるとき、はじめの均衡をつくっていた構成員のいくつかは、指数関数の曲線の上をあらたに停止できる位置までスライドしていくことになります」(ベイトソン「目的意識対自然」『精神の生態学・P.576』新思索社)
さて、熊楠が上げている紀州の日置川は河童伝説の名所でもある。折口信夫はまず「お約束」的な伝承として次のように拾っている。
「人に捉へられた河童は、其村の人をとらぬと言ふ誓文を立てる。或は其誓文は、ひき抜かれた腕を返して貰ふ爲にする様になつてゐる。腕の脱け易い事も、河童からひき放されぬ、重要な条件といつてゐた時代があつたに違ひない。其が後には、妖怪の腕を切り落す形になつて行く。柳田先生は、此を河童考の力点として居られる。羅生門で切つた鬼の腕も、其変形で、河童から鬼に移つたのだと説かれた。此鬼と同様、高い處から、地上の人をとり去らうとする火車(クワシヤ)なる飛行する妖怪と、古猫の化けたものとの関係をも説かれた。其後、南方熊楠翁は紀州日高で河童を《かしやんぼ》と言ふ理由を、火車の連想だ、と決定せられた。思ふに、生人・死人をとり喰はうとする者を、すべて《くわしや》と称へた事があつたらしい。火車の姿を、猫の様に描いた本もある訣である。人を殺し、墓を掘り起す狼の如きも、火車一類として、猫化け同様の話を伝へてゐる。老女に化けて、留守を家に籠る子どもをおびき出して喰ふ話は、日本にもある。又、今昔物語以来、幾変形を経た彌三郎といふ猟師の母が、狼の心になつて、息子を出先の山で待ち伏せて喰はうとして、却て切られた越後の話などが其である。さう言ふ人喰ひの妖怪の災ひを除く必要は、特に、葬式・墓掘りの際にあつた」(折口信夫全集3「河童の話・P.296~298」中公文庫)
また北海道に伝わるアイヌの風習を織り交ぜて、列島各地で行われている「夏越しの祓」の行事との共通性を述べる。
「金田一京助先生は、手の抜け易い事を、草人形(クサヒトガタ)の変化であるからだ、と説明して居られた。藁人形などの手は、皆心(シン)は、竹や木である。草を絡んだ一本の棒を両手としてゐる。其で引けば、両方一時に抜けて来るとも言はれた。ーーー夏祓へに、人間の邪悪を負はせて流した人形(ヒトガタ)が、水界に生(シヤウ)を受けて居るとの考へである。中にも、田の祓へには、草人形を送つて、海・川へ流す。夏の祓へ祭りと、河童と草人形との間に、通じるもののあるのは、尤もである。而も、河童に関係浅からぬ相撲に、骨を脱(ハヅ)して負ける者の多い處から、愈河童と草人形との連想が深まつて来た、と思はれる」(折口信夫全集3「河童の話・P.298~299」中公文庫)
河童のトレードマークとも言える頭の頂の「皿」(さら)。なぜ皿なのか。民衆は河童の頭の頂の皿に何を見ていたのか。
「河童の皿は、富みの貯蔵所であると言ふ考への上に、生命力の匿し場の信仰を加へてゐる様である。水を盛る爲の皿ではなく、皿の信仰のあつた處へ、水を司る力の源としての水を盛る様になつて来たのである。だから、生命力の匿し場の信仰は、二重になる。だから私は、皿の水は後に加つたもので、皿の方を古いものと見てゐる」(折口信夫全集3「河童の話・P.310」中公文庫)
いきなり「皿の信仰」と言われてもすぐさま気づく人々はそれほど多くない。だが東アジアだけでなく遠く古代ギリシア・エジプト、小アジアなどの壁画や絵画、造形芸術に通じていた知識人にすれば、古くから皿、甕、壺などがどのような役割を担っていたか、極めて重要な要素として考えないわけにはいかない。日本でも、例えば「鉢かづき」のエピソードがある。折口はそこに「禊」(みそぎ)を行う「古代の水の神女のおもかげ」を見ている。
「御兄(あに)たちも殿上(とのうへ)も、御湯殿(ゆどの)へ入(い)らせ給ふ。かの鉢(はち)かづき『御湯(ゆ)、うつしさふらふ』と申す聲(こゑ)、やさしく聞(きこ)えける。『御行水(ぎやうずい)』とてさしいだす、手足(てあし)の美(うつく)しさ尋常(じんじやう)げに見(み)えければ、世に不思議におぼしめし、『やあ鉢(はち)かづき、人もなきに、何(なに)かは苦(くる)しかるべき、御湯殿(ゆどの)してまゐらせよ』との給(たま)へば、今さら昔を思ひ出して、人にこそ湯殿(ゆどの)させつれ、人の湯殿(ゆどの)をばいかがするやらんと思(おも)へども、主命(しうめい)なれば力(ちから)なし。御湯殿(ゆどの)へこそ参(まい)りける」(日本古典文学体系「鉢かづき」『御伽草子・P.67』岩波書店)
水の女。しかしそれが聖性を帯びたものだと言うためには室町時代であるにもかかわらず、なぜか実際に目に見えて手で触れて確かめられる「金銀財宝」を出現させて実証されなければならなかったようだ。
「かくてとどまるべきにもあらざれば、夜(よ)もやうやう明方(あかがた)になりぬれば、急(いそ)ぎ出(い)でんとて涙(なみだ)と共(とも)に二人ながら出(い)でんとし給(たま)ふ時(とき)に、いただき給ふ鉢(はち)かつぱと前(まへ)に落(お)ちにけり。宰相殿(さいしやうどの)驚(おどろ)き給ひて、姫君(ひめぎみ)の御顔(かほ)をつくづくと見(み)給(たま)へば、十五夜(や)の月の雲間(くもま)を出(づ)るにことならず。髪(かみ)のかかり、姿(すがた)かたち何にたとへんかたもなし。若(わか)君うれしく思召(めし)、落(お)ちたる鉢(はち)をあげて見(み)給へば、二懸子(ふたつかけご)の其下(そのした)に、金(こがね)の丸(まる)かせ、金(こがね)の盃(さかづき)、銀(しろかね)のこひさげ、砂金(しやきん)にて作(つくり)たる、三(み)つなりの橘(たちばな)、銀(しろかね)にて作(つく)りたる、けんぽの梨(なし)、十二ひとへの御小袖(こそで)、紅(くれなゐ)のちしほの袴(はかま)、数(かず)の寶物(たからもの)を入(い)れられたり」(日本古典文学体系「鉢かづき」『御伽草子・P.76~77』岩波書店)
いろいろ出てきた。「金(こがね)の丸(まる)かせ」とある。「丸(まる)かせ」の読み方は同時代の幸若舞にも出てくる。
「かの滝(たき)の双岸(さうがん)に、三尺の鉄(くろがね)の丸(まる)かせありて、日夜に人を悩(なや)ます」(新日本古典文学体系「剣讃嘆」『舞の本・P.512』岩波書店)
ちなみにこの場合の「丸(まる)」は塊(かたまり)を言う。だから「鉢かづき」のケースで言えば「金(こがね)の丸(まる)かせ」は「金塊」のこと。また「けんぽの梨(なし)」は古代中国文献から輸入された語彙。
「玄圃(けんぽ)の梨(なし)」(新日本古典文学体系「浜出」『舞の本・P.152』岩波書店)
通常は「玄圃」(けんぽ)の字を当てるが、楚辞で「県圃」(けんぽ)と言う場合、山上の神の住居・神仙の住む山を指す。なおケンポナシは日本を含む東アジア温暖地帯一帯に自生する。
さらに「ちしほの袴(はかま)」の「ちしほ」は「千入」。何度も入念に染め重ねられたという意味。折口はまた、皿はしかし、なぜ「数えられる」ものになったのかと問う。「今昔物語」から。
「然(さ)テ月来(つきごろ)ヲ経(ふ)ル程ニ、其ノ弓前(まへ)ニ立(たて)タルガ、俄(にはか)ニ白キ鳥ト成(ナリ)テ飛ビ出(いで)テ、遥(はるか)ニ南ヲ指(さし)テ行ク。奇異(あさまし)ト思テ出テ見ルニ、雲ニ付(つき)テ行クヲ、男、尋ネ行テ見レバ、紀伊(きい)ノ国ニ至(いたり)ヌ。其ノ鳥、亦(また)人ト成ニケリ。男、『然(さ)レバコソ。此(こ)ハ只物(ただもの)ニハ非(あら)ザリケリ』ト思テ、其(そこ)ヨリゾ返(かへり)ニケル。然(さ)テ、男和歌ヲ読テ云ク、
アサモヨヒキノカハユスリユクミヅノイヅサヤムサヤイルサヤムサヤ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十・第十五・P.433」岩波書店)
問題はラストの短歌。このままでは余りにも読みづらいので少し手を入れてみる。
「あさもよひ紀の川ゆすり行く水のいつさやむさやいるさやむさや」
しかしなお後半の「いつさやむさやいるさやむさや」はまるで呪文にも似ている。判読困難。折口は「数え唄」の方向を推し進めてみる。
「皿数への文句としては、『嬉遊笑覧』に引いた、土佐の『ぜぜがこう』の文句が、暗示に富んでゐる。
向河原(ムカヒカハラ)で、土器焼(カハラケヤケ)ば(ヤキハ?)、いつさら、むさら、ななさら、やさら。やさら目に遅れて、づでんどつさり。其こそ鬼よ、蓑著て、笠著て来るものが鬼よ。
此唄を謡ひながら、順番に手の甲を打つ。唄の最後に、手の甲を打たれた者が、鬼になる。かういふ風に書いて、此が世間の皿数への化け物の諺の出處だらう、とおもしろい著眼を示してゐる」(折口信夫全集3「河童の話・P.312~313」中公文庫)
となると後は話が早い。
「《さや》が《さら》となり、《いつ》が五(イツ)、《む》が六(ム)の義だ、と解せられると、『ななさら、やさら』と、形の展開して行くのは、直(すぐ)であらう。皿数への形が整ふと、物数への妖怪の連想が起る。壹岐本居(モトヰ)の河童の話に、門に出して干してあつた網の目を、勘定してゐるものがあるので、網に伏せて見ると、《があたろ》であつたと言ふ」(折口信夫全集3「河童の話・P.314」中公文庫)
話は早いが元々の河童がどこかへ行ってしまい、昔の怪談に出てくる「皿数え」伝説になり、さらには「早處女(サヲトメ)」伝説へと横滑りしていく。
「物数への怪が、ここ迄進んで来ると、皿数への唄と、相互作用で変化して行く。皿数へに最適したものは、河童である。此に結びつけて、井戸の中から、皿を数へる聲が聞えるなどと言ひ出したのであると思ふ。いづれ、田舎に起つた怪談であらうが、段々河童離れして、若い女の切りこまれた古井の話が、到る處に擴つた。河童が、若い女に替る理由はある。水の神の贄として、早處女(サヲトメ)が田の中へ生き埋めになつた物語、及び其が形式化して『一(イチ)の早處女』を、泥田の中に深く轉ばす行事がある。又、水に関連した土木事業には、女の生贄を獻つた、といふ伝へが多い。此は実は、生贄ではなかつた。水の神の嫁と言うた形で、擇ばれた處女が仕へに行つた民俗を、拗れさせたのである。田や海河の生贄となつた、處女の伝説が這入りこんで来ると、切りこまれたのは、若い女。皿を数へる原因は、一枚を破るか、紛失したからだと説く。皿を破つたからして、必しも、くり返しくり返し皿数へするわけもない。数とりをせねばならぬ理由は、元の河童にあつたのを、唯引きついだに留つてゐる」(折口信夫全集3「河童の話・P.314~315」中公文庫)
なお折口の上げている数え唄に「蓑著て、笠著て来るものが鬼」とある。しかし神は時々「笠蓑」(かさみの)姿で出現する。
「素戔鳴尊、青草(あおくさ)を結束(ゆ)ひて、笠蓑(かさみの)として、宿(やど)を衆神(もろかみたち)に乞(こ)ふ、衆神の曰(い)く、『汝(いまし)は是躬(これみ)の行(しわざ)濁悪(けがらは)しくして、遂(やら)ひ謫(せ)めらるる者(かみ)なり。如何(いかに)ぞ宿(やどり)を我(われ)に乞(こ)ふ』といひて、遂(つひ)に同(とも)に距(ふせ)く。是(ここ)を以て、風雨(かぜあめ)甚(はなは)だふきふると雖も、留(とま)り休(やす)むこと得(え)ずして、辛苦(たしな)みつつ降(くだ)りき。爾(それ)より以来(このかた)、世(よ)、笠蓑を著(き)て、他人(ひと)の屋(や)の内(うち)に入(い)ること諱(い)む。又(また)束草(つかくさ)を負(お)ひて、他人(ひと)の家(いへ)の内に入ること諱む。此(これ)を犯(をか)すこと有(あ)る者(もの)をは、必(なから)ず解除(はらへ)を債(おほ)す。此(こ)れ、太古(いにしへ)の遺法(のこれるのり)なり」(「日本書紀・巻第一・神代上・第七段・P.86」岩波文庫)
スサノオが受けた罰は追放刑と罰金刑だとされている。だから極めて簡素な衣装(笠蓑)で民衆の家を訪れる。神々の世界ではなるほど追放され質素な衣装をまとってはいても、民衆のあいだではなお神々の類縁者であるため、そう安易かつ粗雑に扱うわけにもいかない。なので年中行事ということもあり一時的滞在であるため、丁寧に出迎えはするものの余りに長く居座られても困るので、しばらく神妙に遇しておき、滞在期間が過ぎればまた丁寧に送り出すことにした。
ところで河童はどこへ行ったのか。水の神(あるいは水の女)はまた山の神でもある。古代ギリシアでディオニュソスが童子姿で現れる場面は少なくない。
「何をしているの?何の騒ぎなの?ねえ、船乗りのおじさんたち、どうしてこんなところへ来ているの?どこへ連れて行こうっていうの?ーーーナクソスへ!進路をナクソスへ向けてよ!そこに、家があるの。その島では、みんなも手厚いもてなしにあずかれようよ」(オウィディウス「変身物語・上・巻三・P.128」岩波文庫)
というように、日本の河童は本来を言えば「龍神」である。
「我々日本人はまだ外国の伝染病も知らぬ頃から、すでにこの神の怒りの半面を経験し、畏(おそ)れ慎んでこれに触れまいとしていたのである。古風な多くの信仰は学問によって裏切られたけれども、水の災は現実になお絶えず、他には優れた説明もない場合が田舎にはあったので、妙にこの部分だけが孤立して永く伝わった。それをかわるがわる嘲(あざけ)り笑っているうちに、ついに今のような滑稽な化け物にしてしまった」(柳田國男「河童祭懐古」『柳田國男全集6・P.84』ちくま文庫)
足尾銅山鉱毒事件の要因でもまた「土地買収」が問題とされるべくして問題とされたのに似ている。
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