白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

仮面等価性25・ルキウスの死と再生/「山神(やまのかみ)の小便」

2020年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム
驢馬のルキウスが「冥界降り」を果たしてすべてのイニシエーションを終えた時、ルキウスはもはや驢馬の形態を取っておらず人間の形態へたちまち変化した。イニシエーションの終わりは「冥界降り」で終結する。しかしイニシエーションとしての「冥界降り」を果たしたということは何を意味しているのだろう。冥界、地獄、あの世、へ行っただけでなく帰ってきたということは何を意味しているか。過剰なもの、逸脱したもの、を身に帯びている。「穢(けが)れ」を帯びている。ゆえにルキウスは速やかに浄化されなくてはならない。

「大司祭はあらかじめ申されていた時が来たので、私を信者仲間と一緒にすぐ近くの洗礼場に案内しました。あの方はまず私にいつもの水浴をさせた後、御自分で神々の加護を求めて祈りを捧げ、私のからだに水をそそぎ、浄められました。こうして再び神殿に連れ戻された頃には、もう一日の三分の二も過ぎていました。私は女神の御像の前に立たされ、大司祭から極秘の教示を給わりました、それは人間のことばで伝えるにはあまりにも神々しいものでした。それから今度は、並みいる群集を前に公然と、今後十日間私は食事から楽しみを得ることは許されず、肉食や飲酒を禁止するよう命じられました。私はこの敬虔な禁欲生活を厳格に守り通し、いよいよ女神の御前に出る運命の日がやってきました。その日、太陽が腰を屈(かが)めて黄昏(たそがれ)を誘い始めた頃、どうでしょう。突然さまざまなところからぞくぞくと大勢の人が集まってきたのです。そして誰もかれもその秘儀の古い習慣に従い、いろいろな物を私に贈り、私に名誉を与えてくれました。やがて俗衆たちがぜんぶ遠くへ立ち去ると、大司祭は今まで誰も着ていなかった真新しい亜麻の着物で私を包み、私の右手をとって内陣の最も奥まった部屋へ連れて行きました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の11・P.460~461」岩波文庫)

ルキウスが身に付けていたものはすべて真新しいものと置き換えられなくてはならず、実際、置き換えられる。アープレーイユスはルキウスを驢馬に変えただけでなく大変な遠回りを演じさせた。この遠回りはただ単に「驢馬」として「驢馬」のまま延々と移動するだけではまったくない。場所移動するたびに価値を増殖させている。場所移動は常に価値増殖を伴う。そしてこの過程を取りこぼしなく一つ一つ経てきたことで「驢馬」から「驢馬’」へ価値増殖する。ニーチェ風に言い換えれば「別様の感じ方」を手に入れる。そして遂に「人間」との交換を実現させる。ところで、見た目には人間以上あるいは人間以下に見えるけれども、現実離れした途方もない力、理解不可能な異様な力、を備えた異形の存在に関し、近代に至るまで人々はそれをどのように捉えていただろうか。地方によりけりだが近代以降もなおその呼び名を存続させているところさえある。南方熊楠は「山神(やまのかみ)の小便」について述べている。

熊楠が熊野で粘菌研究に打ち込んでいた頃、「山神(やまのかみ)の小便」と呼ばれている粘菌があった。

「これは近年白井〔光太郎〕博士の『植物妖異考』にも載せてないが、熊野で往々見る。樹枝が折れて垂れ下がったり藤葛(かずら)が立枯れになったのが、一面に白色で多少光沢あり、遠く望むと造り物の小さい飛泉(たき)のようなものだ。以前はこれは山神(やまのかみ)の小便と称え、その辺に山の神が住むと心得たが、今は土民もこれは一種イボタに類した虫白蠟(ちゅうはくろう)と知って、那智村大字市野野(いちのの)で、ある人が採って来て座敷の敷居に塗抹し、障子が快く動くと悦んでおるのを見た」(南方熊楠「山神の小便」『森の思想・P.333』河出文庫)

わざわざ家屋を改造したり敷居や障子を新調しなくても「山神(やまのかみ)の小便」=「虫白蠟(ちゅうはくろう)」を塗布するだけで生活必需品に必要な資金が浮く。ちなみに「虫白蠟(ちゅうはくろう)」というのは「ニス」のようなものだ。そのような貴重な植物に「山神(やまのかみ)」という修辞が付けられているのは冗談でも何でもなく本当に貴重なものだったからにほかならない。紀州・熊野では古来、「山神(やまのかみ)」は、特別な意味合いを持っていた。例えば、日本の古典の中で「御伽草子」に載っている「熊野本地」(くまののほんじ)のエピソードはよく知られたものだろう。古代インドの中部にあったとされるマカダ国が舞台となっているが、実在したマカダ国とは関係があってもなくてもどちらでもよい。御伽草子全体に共通して言えることかも知れないが、マカダ国であってもなくても日本では《伝説》として語られてきたような土地であれば申し分ない。

大王は絶大な権力を持っている。だが男子がいない。后(きさき)なら千人いる。だが王子がいない。直系の後継者がいない。大王は九百九十九人の后(きさき)と夜毎性交して廻る。それでも男子は生まれない。ふと、まだ一度も共に夜を過ごした経験のない后(きさき)がいたことを思い出す。通称「五衰殿」(ごすいでん)、「辮(べん)の宰相の御女(むすめ)」=「せんかう女御(にようご)」のこと。大王は一度会ってみると気にいったようで、しばらくすると二人のあいだに子供ができる。九百九十九人の后(きさき)はどよめく。名高い予言者を呼びつけて、せんかう女御が孕んだとされる子供の性別は男かそれとも女かを占わせる。

「王子(わうじ)にておはしますなり。御誕生ならせ給はば、日月そうに天(てん)の光(ひかり)にまさせ給ひ、御相好(そうがう)めでたき、御位(くらゐ)も久(ひさ)しくして、大福(ふく)の王子(わうじ)にてわたらせ給ふ。御額(ひたい)にはよねと申す文字(もじ)、三並(なら)び給ひて、めでたき御相好(そうがう)なり。五つにては東宮(とうぐう)にたたせおはしまして、花(はな)の宮(みや)とかしづかれ、七歳の御年(とし)は位(くらゐ)につかせ給ひて、めでたき大王(わう)にてわたらせ給ふべし」(日本古典文学体系「熊野の御本地のさうし」『御伽草子・P.416』岩波書店)

予言者の言葉は驚くべきものだった。男子であるばかりかまたとない優秀な王子であり、その後の国の発展にとって欠かせない大王となるだろうと言うのである。「よねと申す文字(もじ)」はおそらく「米」。「八十八」とも読める。日本では「米寿」(八十八歳)、「四国八十八箇所霊場」、さらに立春から数えて八十八日目のことを「八十八夜」(はちじゅうはちや)と呼び茶摘みに好適な季節をいう。「夏も近づく八十八夜ーーー」(茶摘み歌)。等々。

これまでまったく目立たなかったせんかう女御に男子出産の可能性。他の九百九十九人の后(きさき)たちは瞬く間に団結し、せんかう女御暗殺に動く。まず、夜中になると部下の女性らを内裏に送り込み、せんかう女御を流産させるためか狂人にして自殺へ追い込むためか、五千九百九十四人のデモ隊を組織して大騒ぎさせ、せんかう女御を不安の極地に陥れる。

「夜中(やちう)ばかりに、かの后(きさき)の大り(内裏)へ忍び入りて、天(てん)に仰(あふ)ぎ地(ち)をたたき、喚(おめ)き叫ぶ聲(こゑ)、恐(おそ)ろしなどもおろかなり。『この后(きさき)悪王(あくおう)を生(う)みましませば、山の神(かみ)、虎狼(とらおふかみ)放(はな)し給ふ程に、参(まい)りて候なり』とて、喚(おめ)き叫ぶ事なかなか申すもおろかなり」(日本古典文学体系「熊野の御本地のさうし」『御伽草子・P.416』岩波書店)

大王はこのまま内裏にいてせんかう女御にばかりかまっていてはこのデモは収まらないと考え、「御なごり惜(お)しく候へども」と慰めつつ「御涙(なみだ)と共(とも)に」いったんせんかう女御のいる五衰殿から引き上げる。とはいえ五衰殿は内裏の中の部屋に変わりはなく、考えもつかないほど離れた場所にあるわけではない。なお、九百九十九人の后(きさき)たちが集めた五千九百九十四人のデモ隊について「たかおんな」とある。諸本様々な説があり、身長二メートル超の身長の高さをいう説、「おにおんな」(鬼女)のこととする説、また「たけたかく」を年齢のことと解し「百歳の老婆」とする説など。しかし共通するのはそれら女性の顔面が「おそろしげ」なことと身体の色が「黒い」か「黒く塗られている」こと、さらに身につけている衣装がとにかく赤くて派手なもの、そしてどれも太鼓を持って打ち鳴らしている点。宮中でデモが繰り広げられる場合、御伽草子が書かれた頃すでに、デモの形までも様式化されていたことがわかる。またそのヴァリエーションもかなり出揃っていて、股間に「蝋燭(ろうそく)」を仕掛けておどろおどろしさを演出、呪詛と憤怒の象徴として「髪を逆巻き」にし、なぜか必ず「丑三つ時」(うしみつどき)に登場する。年中行事のような祝祭なら日中に正装して執り行う儀式を、あえて夜間に「逆巻き」にして執り行うことで事態の転倒を図ろうとする意図が見られる。フレイザーのいうアニミズム的思考そのままと言えるだろう。

さて、壮烈なデモの結果、大王がせんかう女御のいる五衰殿を離れた隙をついて、九百九十九人の后(きさき)たちは「つくり宣旨(せんじ)」を発する。その内容は、懐妊中の母・せんかう女御を山中(=「これより南(みなみ)七日行(ゆ)きて、けんこしやうの山のくれんしほの谷(たに)、ほくせきの窟(いわや)」)に捨ててせんかう女御の首を刎(は)ね、首だけを証拠物件として持ち帰ってこい、というもの。

「五衰殿(すいでん)のせんかうの女御(にょうご)と申し参らする后(きさき)、悪王(あくわう)を孕(はら)み給へり。その故(ゆへ)に、都(みやこ)の内(うち)に虎(とら)、狼(おふかみ)荒(あ)れて、世(よ)もおだしからず。これを鎮(しづ)めんがために、これより南(みなみ)七日行(ゆ)きて、けんこしやうの山のくれんしほの谷(たに)、ほくせきの窟(いわや)の内(うち)にして、女御(にょうご)の御首(くび)を斬(き)りて後(のち)は、都(みやこ)の内(うち)安穏(あんおん)あるべし」(日本古典文学体系「熊野の御本地のさうし」『御伽草子・P.420』岩波書店)

誰がやるのか。宮廷に使える「物のふ(武士)」である。「宣旨(せんじ)」である以上、否応なくそうしなければならない。ただ、「つくり宣旨(せんじ)」は、幕末でいえば「偽勅」に当たる。実際に天皇が書いたものではない。明治維新前後、討幕派の勢いに便乗して「偽勅」が乱発されてもいる。どう考えても中央政権に関係のない幕府側の地方の一官吏に向けて自害を命じるものや、形式も文字も誰が捏造したのかさっぱりわからないものが多数発見された。ともあれ、「つくり宣旨(せんじ)」が出されたため追放の身になったせんかう女御。峻険な山中の馴れない道を歩く。手足も着物もだんだん血に染まってくる。「けんこしやうの山」についても諸本によって異なる。「ちこくしやう」、「ちこんしやう」、「鬼谷山」、など。

「物のふ(武士)どもはこの女御(にょうご)を先(さき)に追(お)つ立(た)てて、『とくとく歩(あゆ)み給へ』と責(せ)め申すは、ただひとへに罪人(ざいにん)を阿防羅刹(あはうらせつ)にむかへるさまなり。御心(こころ)には急(いそ)がせ給へども、邪見(じゃけん)の石(いし)に御足(あし)の當(あた)りて、紅(くれなゐ)の血(ち)流れ出で、御衣(ころも)の裾(すそ)を染めさせ給ふ。通(とを」らせ給ふ跡(あと)は五色(しき)の色(いろ)にぞなりにける」(日本古典文学体系「熊野の御本地のさうし」『御伽草子・P.421』岩波書店)

ようやくのことでせんかう女御は目的地へ辿り着く。すぐさま斬首されねばならない。或る劔(つるぎ)が用いられる。「一寸抜けば千人が首を斬り、二寸抜けば二千人が首斬れし劔(つるぎ)」。だがどういうわけでか、せんかう女御の首は斬れもせず落ちもしない。せんかう女御は次のようにいう。とともに、親王が産まれる。

「『我(われ)自(みづか)らをこそ賎(いや)しく思(おも)ふとも、王子(わうじ)の腹(はら)に宿(やど)らせ給ひ候はん程(ほど)は、わが首(くび)はよも落(お)ちじ。暫(しばら)く御誕生(たんじやう)を待(ま)ち参(まい)らせなん』とて、八尺(しゃく)ゆたかの御髪(ぐし)を四に結(ゆ)ひ分(わ)けて、『一結(ゆい)をば梵天(ぼんてん)、帝釈(たいしゃく)に参(まい)らする。一結(ゆい)をば自(みづか)らが父母(ちちはは)に参(まい)らする。一結(ゆい)をばおの山の山神(さんじん)ごおうに奉(たてまつ)る。一結(ゆい)をばこの山の虎狼(とらおうかみ)奉(たてまつ)る。この王子(わうじ)誕生(たんじやう)ありて嬰児(みどりご)のうち、ほんみやうに守(まぼ)り給へ。自(みづか)ら七歳(さい)の年(とし)より后(きさき)の宣旨(せんじ)をかうふりいははれ参(まい)らせて、餘(よ)の男子(なんし)にも近(ちか)づかずして、后(きさき)の位(くらゐ)にいははれしなり。しかるに大王(わう)御子(こ)にてこそ、自(みづか)らが腹(はら)に宿(やど)らせ給ひ候。されば御姿(すがた)を一目(め)見参(まい)らせて、死出(しで)の山、三途(づ)の川(かわ)を越(こ)へばや』と仰(おほ)せあり、御乳房(ちぶさ)をかかへて、一心(しん)に念(ねん)じ申させ給へば、あらたに御産(さん)の御心(こころ)にならせ給ひて、幾程(いくほど)なくして王子(わうじ)誕生(たんじやう)なる」(日本古典文学体系「熊野の御本地のさうし」『御伽草子・P.423』岩波書店)

異常出産についてこれまで日本書紀から幾つか例を上げてきた。火中出産のカグツチ。瞬きする間もなく生まれたスサノオ。焔で充満する部屋で産まれながら「海神(わたつみ)の教(おしへ)に𨗉(したが)ひて」行動する神武天皇。そもそも神武の母は「玉依姫(たまよりびめ)」=「海童(わたつみ)の少女(おとむすめ)」である。そして神武の親族らもまた海と関係が深い。だがしかし神武が颯爽と登場するのは熊野の山中、「紀国(きのくに)の竈山(かまやま)」である。神功皇后の鎮懐石(しずめいし)伝説で有名な船中出産も異常出産であり、その子・応神は天皇として都に入る前に、神功皇后の行動に合わせて紀州・熊野の周辺をうろうろ移動しなくてはならない。この流れを引き継いで、「熊野本地」の王子誕生もまた異常出産という特異的な登場様式を踏襲している。この場合は「胎中天皇」と呼ばれたりする。せんかう女御は生まれたばかりの王子に向けてこう語りかける。語り終えた後、随行してきた物のふ(武士)に向けて、もう首を斬ってくれればよいという。

「泣く泣く流(なが)るる御涙を産湯(うぶゆ)として、王子(わうじ)に仰(おほ)せあるやう、『思(おも)ふともかなふまじ。降(ふ)りなん雨(あめ)を御産湯(うぶゆ)とし給へ。ひつめ、かせぎを御もり、めのととさせ給へ。虎狼(とらおうかみ)を父母(ちちはは)とおぼしめせ。左右(さう)なく乳房(ちぶさ)を離(はな)れ給(たま)はずして、三年(ねん)は過(す)ぎ給へ。梵天(ぼんでん)、帝釈(たいしゃく)に暇(いとま)を申して参(まい)らせんずるなり。暑(あつ)からん時(とき)は、涼(すず)しき風(かぜ)となり、御身を休(やす)め申すべし。冬(ふゆ)の寒(さむ)からん時(とき)は、御衣(ころも)となりて、風(かぜ)を防(ふせ)ぎ申すべし。御心(こころ)つき候はば、この山の麓(ふもと)にちけん聖(ひじり)と申して貴(たつと)き僧(そう)おはします。それへおはして物をも読(よ)み、手(て)をも習(なら)ひ給ふべし。又自(みづか)らが御世(ごせ)をも弔(とぶら)はせ給へ。七歳(さい)にならせ給(たま)はん時(とき)は、父(ちち)の大王(わう)の御もとへ参(まい)り給ひて、自(みずか)らが首(くび)を召(め)されし故(ゆへ)をもきこしめし候へ』」(日本古典文学体系「熊野の御本地のさうし」『御伽草子・P.424』岩波書店)

現場は血まみれであったろう。首を斬り落とされつつも、せんかう女御は血の海の中で、生まれたばかりの嬰児を手で探して掻き寄せ、嬰児のために自分の乳を口にふくませてやる。この場面ではさすがの物のふ(武士)たちも落涙せざるを得ない。

「物のふ(武士)劔(つるぎ)を抜(ぬ)き、御首(くび)をたまはりければ、右(みぎ)の御手(て)をさしのべさせ給ひて、王子(わうじ)を掻(か)き寄(よ)せ給ひて、御膝(ひざ)の上(うへ)に置(を)き参(まい)らせ、左(ひだり)の乳房(ちぶさ)をくくめ参(まい)らせ給ふ。御後岩(うしろいわ)に押(お)し當(あ)てて、御乳(ち)を参(まい)り果(は)てざりしかば、王子(わうじ)の御心を騒(さは)がせ参(まい)らせじと、静(しづ)かに臥(ふ)し給ふ御気色(けしき)、例(ためし)もなくあはれなる御事なり」(日本古典文学体系「熊野の御本地のさうし」『御伽草子・P.425』岩波書店)

王子は山中で育つ。名高い予言者が述べ、せんかう女御が死際に王子に伝えたのと同じように、すくすく育っていく。「夜干(やかん)」は狐、「しし」は猪、「かせぎ」は鹿のこと。奥深い山中の窟(いわや)で、動物たちによって、動物たちを友として育っていく幼児の頃の経緯に、人間離れした未来の到来が既に窺われる。「黄(き)なる涙(なみだ)」は動物たちの涙を指す。

「年(とし)月重(かさ)なりゆけば、后(きさき)の手足(てあし)の色(いろ)も變(かは)らせ給へども、御乳房(ちぶさ)は變(かは)らせ給(たま)はずして、いまだ御乳(ち)のあゆる事限(かぎ)りなし。王子(わうじ)やうやう御成人ある程に、御乳房(ちぶさ)も離(はな)れて、あなたこなた遊(あそ)ばせ給へば、虎(とら)、夜干(やかん)、心なきしし、かせぎも王子(わうじ)を見参(まい)らせて、黄(き)なる涙(なみだ)をぞ流(なが)しける」(日本古典文学体系「熊野の御本地のさうし」『御伽草子・P.426』岩波書店)

母・せんかう女御が教え伝えた通り、王子は麓から久しぶりに訪れた聖(ひじり)に出会い、これまでの事情を語る。聖は王子を自分の住居で育てようと決める。その前に王子はもはや白骨化してしまった母・せんかうの女御の死体を手厚く弔ってほしいと聖に頼む。「春(はる)の霞(かすみ)、秋(あき)の霧(きり)と立(た)ち上(のぼ)せ給(たま)へり」とあるのは、火葬に付したということ。

「王子(わうじ)聖(ひじり)に仰(おほ)せあるやう、『御寺(てら)へ参(まい)らん事(こと)こそうれしけれ。さりながら心にかかる事一(ひと)つあり。山を出(い)でて後(のち)又歸(かへ)らん事(こと)もありがたし。我(われ)この山にある時、母(はは)のかばねをも隠(かく)し参(まい)らせばや』との給へば、聖(ひじり)あはれさ限(かぎ)りなくおぼしめして、立(た)ち寄(よ)り給ひて、泣(な)く泣く御かばねを拾(ひろ)ひ集(あつ)めて、梢(こずへ)を折(お)り木(こ)の葉(は)を拾(ひろ)ひて、春(はる)の霞(かすみ)、秋(あき)の霧(きり)と立(た)ち上(のぼ)せ給(たま)へり」(日本古典文学体系「熊野の御本地のさうし」『御伽草子・P.428』岩波書店)

王子は聖のもとで手習いを始める。当時の学問は仏教が中心だが、少年にしては只者(ただ)でなく理解力・洞察力が速い。ようやく七歳になる。母・せんかうの女御の遺言に従って父・大王のいる宮中へ行きたいと申し出る。そして大王と対面する。この七年間の事情を大王に告げる。すると大王は沸き起こる怒りを抑え切れずさっそく九百九十九人の后(きさき)を処刑しようという。ところが王子はいう。そのような報復は無意味な気がするし、それよりむしろこの宮中のどこかに残っているはずの母・せんかうの女御の首が恋しい、讒言(ざんげん)によって無念の死を遂げた母の首をどうか目の前へ持ってくることはできないかと。

「多(おほ)くの后(きさき)の御首(くび)を斬(き)らせ給ひて候とも、母后(ははきさき)の生(い)きかへらせ給はん事も候はじ。ただ母(はは)の御首(くび)を召(め)し出(いだ)し候うて給はり候へ。それこそ戀(こい)しく思(おも)ひ参(まい)らせ候へ」(日本古典文学体系「熊野の御本地のさうし」『御伽草子・P.431』岩波書店)

大王は一人の后(きさき)につき六百人づつの「使(つかひ)」=「検非違使(けびいし)=警察」を付けて昼夜を問わず尋問させた。諸本に「よるひるいたくせめければ」とある。すると、せんかう女御の「苔(こけ)むしたる御首(くび)」が「厩(むまや)の敷板(しきいた)の下(した)」から掘り出されて出てきた。「厩(むまや)」はただ単なる馬の飼育場ではなく、ここでは「牢」(ろうや)を意味する。その地下から発見された。

「后(きさき)一人の御中(なか)へ使(つかひ)六百人づつ附(つ)け参(まい)らせてければ、苔(こけ)むしたる御首(くび)を厩(むまや)の敷板(しきいた)の下(した)より掘(ほ)り出(いだ)して参(まい)らせられけり」(日本古典文学体系「熊野の御本地のさうし」『御伽草子・P.431』岩波書店)

大王は王子にいう。もうそろそろ王子に譲位して自分は引退しようかと思っていると。しかし王子は固辞する。王になりたいわけではないので、もっともかも知れない。しかし大王とすれば、ただ単にそうしたければそうすればよいと放り出すわけにもいかない。そこで、どこか気に入るような場所を見つけてそこに自分の国を築くように説き、王子を送り出す。王子の目に止まったのが、日本の紀州・熊野の地である。

「飛(と)ぶ車に召(め)して、落(お)ちつかん所(ところ)をわが國(くに)とせんと宣旨(せんじ)あつて、摩訶陀國(まかだこく)の都(みやこ)を出(い)でさせ給ふ。かかりし程(ほど)に、わが朝(てふ)紀國牟婁郡音無川(きのくにむろのこほりをとなしがわ)、そなへの里(さと)のほとりに落(お)ちつき給ひて、御頭(かうべ)を本尊(ほんぞん)とし参(まい)らせ給(たま)ひて、行(おこな)はせ給ひて、権現(ごんげん)の垂迹(すいじゃく)とし参(まい)らせ給ふ。一切(さい)の衆生(しゆじやう)の善悪(ぜんあく)を導(みちび)き給ひて守(まぼり)とならせ給ふ、熊野権現(くまのごんげん)と申し参(まい)らするは、すなはちこの御事なり」(日本古典文学体系「熊野の御本地のさうし」『御伽草子・P.432』岩波書店)

そもそも「熊野本地」は熊野がなぜ信仰の対象となったのかを述べるのが主旨である。そして「御伽草子」は一体誰が語ったのかを考えなくてはならない。琵琶法師は多くの場合、「平家物語」、「弁慶」などを「語り」歩いた。それが職業だった。「熊野本地」は熊野比丘尼(くまのびくに)による「語り」だった。熊野比丘尼の生業は「語り」である。この血まみれの物語を中世日本の全国各地へ輸出したばかりか、江戸末期まで好評を得続けたのは男性でなく女性ばかりの信仰集団「熊野比丘尼(くまのびくに)」であり、それを庇護したのが「三(みつ)の御山」=「本宮、新宮、那智」だったのだろう。京都の八坂神社に「河原細工丸(かわらさいくまる)=(かわらもの)」が所属し、また賀茂祭で「清目」(きよめ)が重要な役割を与えられ、北野社では「清目」(きよめ)、「」(さんじょ)ら職能民あるいは非定住民が巨大な通過点の一つとして集合することがあったことと無縁ではないと考えられる。

さらに冒頭に出てくる「マカダ国」は途方もなく遠い国であり日本から見れば想像もつかないような天空の城のような場所であればよいのであって、それだけで物語は成立する。というのも「語り」によって語られないといけないのはまぎれもない「奇跡」であり、その「奇跡」が起きたのはほかのどこでもない熊野でなければならず、また熊野には抜くに抜けないその条件があった。

「さて三(みつ)の御山なれば、本宮(ほんぐう)は阿彌陀如来(あみだによらい)、新宮(しんぐう)は薬師如来(やくしによらい)、那智(なち)は飛瀧権現(ひれうごんげん)、瀧本(たきもと)は千手観音(せんじゆくわんおん)にておはします。又一萬(まん)の金剛童子(こんがうどうじ)と申すは、一萬(まん)の眷属(けんぞく)なり。一萬(まん)の大臣(じん)、公卿(くぎやう)十萬(まん)人にておはします。さてあとにおはします九百九十九人の后(きさき)はなるかみとならせ給ふ。三月より七月十五日までは赤蟲(あかむし)となりて権現(ごんげん)へ参(まい)れども寄(よ)せさせ給(たま)はず」(日本古典文学体系「熊野の御本地のさうし」『御伽草子・P.432~433』岩波書店)

九百九十九人の后(きさき)の消息にまで触れているのはいかにも民衆向けの語り独特の細かくユーモアのある気配りだと言える。九百九十九人の后(きさき)は「なるかみ」=「鳴神」になる。雷のことであり、いつも憤懣している。夏場に多い。さらに「三月より七月十五日までは赤蟲(あかむし)となりて権現(ごんげん)へ参(まい)れども寄(よ)せさせ給(たま)はず」。すなわち夏場になると山中のあちこちで出没する「蝮」(まむし)がそれだと。しかしここで、もうお約束のラストの文面へ続いているにもかかわらず、なぜか「金剛童子(こんがうどうじ)」という名が出てくる。「金剛童子(こんがうどうじ)」は熊野権現の護法神。「平家物語」にも出てくることで有名。

「其比(そのころ)熊野参詣(クマノサンケイ)の事有けり。本宮(ホングウ)証誠殿(セウジヤウデン)の御前にて、夜もすがら敬白(ケイヒヤク)せられけるは、『親父(シンブ)入道相国の体(テイ)を見るに、悪逆無道(アクギヤクムダウ)にして、ややもすれば君を悩まし奉る。重盛(シゲモリ)長子(チヤウシ)として、頻(シキリ)に諫(イサメ)をいたすといへ共(ども)、身(み)不肖(フセウ)の間、かれもッて服膺(フクヨウ)せず。そのふるまひを見るに、一期(いちご)の栄花(エイグハ)猶(なほ)あやうし。枝葉連続(シヨウレンゾク)して、親(シン)を顕(アラハ)し名(ナ)を揚(ア)げん事かたし。此時に当(アタツ)て、重盛(シゲモリ)いやしうも思へり。なまじひに列(レツ)して、世(ヨ)に浮沈(フチン)せん事、敢(アヘ)て良臣(リヤウシン)・孝子(カウシ)の法(ハウ)にあらず。しかじ名を逃(ノガ)れ身を退(シリゾイ)て、今生(コンジヤウ)の名望(メイバウ)を抛(ナゲス)て、来世の菩提(ボダイ)を求(モト)めんには。但(タダシ)凡夫薄地(ボンプハクヂ)、是非(ゼヒ)にまどへるが故に、猶(なほ)心ざしを恣(ホシイママ)にせず。南無(なむ)権現金剛童子(ゴンゲンゴンガウドウジ)、願(ネガハ)くは子孫繁栄(シソンハンエイ)たえずして、仕(ツカヘ)て朝廷(テウテイ)にまじはるべくは、入道の悪心を和(ヤハラ)げて、天下の安全(アンセン)を得(エ)しめ給へ。栄躍(エイヨウ)又一期(ゴ)をかぎッて、後混恥(コウコンハヂ)に及(ヲヨブ)べくは、重盛(シゲモリ)が運命(ウンメイ)をつづめて、来世の苦輪(クリン)を助(タス)け給へ。両カ(リヤウカ)の求願(ググハン)、ひとへに冥助(メイジヨ)を仰(アヲ)ぐ』と、肝胆(カンタン)を摧(クダイ)て祈念(キネン)せられけるに、灯籠(トウロ)の火のやうなる物の、大臣(おとど)の御身より出(いで)て、ばッと消(キユ)るがごとくして失(ウセ)にけり。人あまた見奉りけれ共(ども)、恐(ヲソ)れて是を申さず」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第三・医師問答・P.169~170」岩波書店)

それにしても当時の熊野信仰の絶大さはまだまだ計り知れないと言わねばならない。どれほどだったか。後白河院の歌に如実に現われている。

「熊野御幸三十二度の時、御前にて思召し続けさせ給うける 

忘るなよ雲はみやこを隔つともなれて久しき三熊野の月」(後白河院「玉葉和歌集・卷第二十・P.437」岩波文庫)

この歌を巫女に託して持たせてやり熊野から次の返歌を得ている。

「しばしばもいかが忘れん君を守る心くもらず三熊野の月」(「玉葉和歌集・卷第二十・P.437」岩波文庫)

しかしそれほどにも後白河院は一体何を気にしていたのだろうか。熊野は都(京)に居る皇族にとって「ミソギ」並びに「再生」の地を意味していたことが重要だろう。平家物語にはこうもある。「岩田川(イハダガハ)」に関する箇所。

「下向(ゲカウ)の時、岩田川(イハダガハ)を渡られけるに、嫡子(チヤクシ)権亮(ゴンノスケ)少将維盛(コレモリ)以下(いげ)の公達(キンダチ)、浄衣(ジヤウエ)のしたに薄色(ウスイロ)のきぬを着(キ)て、夏(ナツ)の事なれば、なにとなう河の水に戯(タハブレ)給ふ程に、浄衣(ジヤウエ)のぬれてきぬにうつッたるが、偏(ヒトヘ)に色のごとくに見えければ、筑後守貞能(チクゴノカミサダヨシ)、これを見とがめて、『何と候やらん、あの御浄衣(ヲンジヤウエ)のよにいまはしきやうに見えさせおはしまし候。召しかへらるべうや候らん』と申ければ、大臣(おとど)、『わが所願(シヨグハン)既(スデ)に成就(ジヤウジユ)しにけり。其浄衣(ジヤウエ)敢(アヘ)て改むべからず』とて、別(ベツ)して岩田川より熊野へ悦(ヨロコビ)の奉幣(ホウヘイ)をぞ立(たて)られける。人あやしと思ひけれ共(ども)、其心をえず。しかるに此公達(キンダチ)程なくまことの色を着給けるこそふしぎなれ」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第三・医師問答・P.170」岩波書店)

身に付けている浄衣の色が何やら変色してきたように見えて一行はなんとも言えない不安感を覚える。が、祈願はもう済ませて成就もしたことだし、今さら特に何か気にして衣服を着替る必要はないのではないか、と述べた一人の公達。ところが、「此公達(キンダチ)程なくまことの色を着給けるこそふしぎなれ」。ここで言われている「まことの色」とは黒一色であり、すなわち、この公達は死んでしまい本当に喪服に包まれることになった。

さらに。

「やうやうさし給ふ程に、日数(ひかず)ふれば岩田(イハダ)河にもかかりたまひけり。『此(この)河の流れを一度もわたる者は、悪業(アクゴウ)・煩悩(ボンナウ)・無始(ムシ)の罪障(ザイシヤウ)消(き)ゆなる物を』とたのもしうぞおぼしける」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・熊野参詣・P.235」岩波書店)

しかし熊野比丘尼にしても、室町時代を通して女性から《聖性》が剥がされていくにつれ、社会の暗部へ組み込まれていくことになる。だんだん賎視され生活のため辻に立ったりして暮らし向きも荒れたものになっていくわけだが、ところで近代以降、むしろ戦後日本になってなお、熊野比丘尼に代表される遊行者・移動民・非定住民らの生活水準は向上したといえるだろうか。向上したとすれば、どこがどのように、なのか。向上したとしても、ではなぜ今なお労働力商品として、ますます疲弊していく傾向から抜けられない人々がこんなにも多いのだろうか。

BGM