若干だが五体王子(藤白王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子)について述べなければならない。熊楠が強調している「熊野九十九王子社」と大いに関係がある。
「和歌山県庁も、最初神社をなるべく多く潰して高名せんと心がけ、自治政成績展覧会を一昨年ごろ高野で催せしとき、神社を滅却せる数多きを自治成績の一に数え立て、特に他県を擢(ぬき)んでて、最初は五百円なりしを五千円まで基本金を上げ、五千円の基本金なき社をことごとく合祀し(実際五千円を積み得る社は一つもなし)、また一村一社の制を設け、直径五里六里往復の大村にすら一社しか残立を許さず。これがため、御承知の熊野九十九王子社、すなわち諸帝王が一歩三礼したまえる熊野沿道の諸古社は、三、四を除きことごとく滅却、神林は公売にさる」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.461』河出文庫)
熊楠は往古の昔から伝わる熊野の森の社とそこに住む貴重な生き物をいとも容易に売却・全滅させた明治政府の方針が気に入らない。前に見たように太平記の中の護良(もりなが)親王の熊野落ちの箇所にこうあった。
「由良(ゆら)の湊(みなと)を見渡せば、門(と)渡る船の梶(かじ)を絶え、浦の夕塩(ゆうじお)幾重(いくえ)とも、知らぬ浪路(なみじ)に鳴く千鳥(ちどり)、紀(き)の路(じ)の遠山(とおやま)遥々(はるばる)と、藤代(ふじしろ)の松に懸かる浪、和歌(わか)、吹上(ふきあげ)を余所(よそ)に見て、月にみがける玉津島(たまつしま)、さらでだに長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の道は、心を砕(くだ)く習ひなるに、雨を含める孤村(こそん)の樹(き)、夕べを送る遠寺(えんじ)の鐘、あはれを催(もよお)す時しもあれ、切目(きりめ)の王子(おうじ)に着き給ふ」(「太平記1・第五巻・8・P.251~252」岩波文庫)
順に見ていこう。
次の歌の「藤代」(ふじしろ)は、「岩代(いはしろ)」、「磐代(いはしろ)」、と同じく磐座(いはくら)に通じる熊野の枕詞だが、ここで詠まれているのは政治的謀略に陥れられ熊野の牟婁で処刑された有間皇子のこと。
「藤白(ふじしろ)のみ坂を越ゆと白たへの我(わ)が衣手(ころもで)は濡(ぬ)れにけるかも」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第九・一六七五・P.388」小学館)
次の歌も悲劇的死に方をした有間皇子を詠んだもの。
「熊野(くまの)へ詣(まう)で侍(はべり)しに、岩代(いはしろ)王子に人々の名など書きつけさせて、しばし侍しに、拝殿の長押(なげし)に書(か)きつけて侍し歌
いはしろの神はしるらんしるべせよたのむ憂(う)き世(よ)の夢の行(ゆ)くすゑ」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第十九・一九一〇・よみ人しらず・P.556」岩波書店)
平家物語にこうある。
「藤代(ふぢしろ)の王子(わうじ)を初(はじめ)として、王子王子ふしをがみ参(まい)り給ふ程に、千里の浜の北、岩代(いはしろ)の王子の御前にて、狩(かり)装束したる者七八騎が程行あひ奉る」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・維盛出家・P.234」岩波書店)
次は「切目王子」。平治物語によれば、熊野参詣中の平清盛のところへ源義朝挙兵の報が飛び込んでくる。
「都(みやこ)より、左馬頭義朝(さまのかみよしとも)が嫡子(ちやくし)悪源太義平(あくげんだよしひら)を大将として、熊野(くまの)の道(みち)へ討手(うつて)に向(むかふ)が、摂津国天王寺(せつのくにてんわうじ)、阿倍野(あべの)の松原(まつばら)に陣(ぢん)を取ッて、清盛(きよもり)の下向(げかう)を待(まつ)」(新日本古典文学体系「平治物語・上・六波羅より紀州へ早馬を立てらるる事」『保元物語/平治物語/承久記・P.167』岩波書店)
慌てた清盛が京の六波羅殿へ取って返した地点が「切目(きりめ)の宿(やど)」。
「清盛(きよもり)は熊野参詣(くまのさんけい)とげずして、切目(きりめ)の宿(やど)よりはせ上(のぼる)」(新日本古典文学体系「平治物語・上・光頼卿参内の事付清盛六波羅上着の事」『保元物語/平治物語/承久記・P.173』岩波書店)
戻る途中で京の伏見稲荷へ寄って「杉の枝」をそれぞれ折り取って持ち帰っている。二月初午の日に参詣し、験(しるし)の杉と称して杉をかざして帰る風習にあやかったのだろう。また「切目宿」は、和歌山県日高郡印南町にあった宿場。和歌の浦を望む見晴らし良好な位置。次のような歌がある。
「熊野に詣(まう)で侍(はべり)しついでに、切目宿にて、海辺ノ眺望といへる心(こころ)を、をのこどもつかうまつりしに
ながめよと思(おも)はでしもや帰(かへ)るらん月まつ浪(なみ)の海人(あま)の釣舟(つりふね)」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第十六・一五五九・具親・P.455」岩波書店)
稲葉根(いわはね)王子。伝承は様々ある。稲荷信仰との繋がりが指摘されており、稲荷神の姿形へ変身した金剛童子では、と言われている。稲荷はそもそも狐であり、中国では古来から「祟(たた)り神」としても考えられてきた。王子信仰の意味から考えるとそれが正しいかもしれない。
滝尻(たきじり)王子。周囲は巨石が多く川の流れが入り組んでいる。どのようなところか。日本書記にこうある。
「一書に曰はく、伊奘冉尊、火神を生む時に、灼(や)かれて神(かむ)退去(さ)りましぬ。故(これ)、紀伊国(きのくに)の熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる。土俗(くにひと)、此(こ)の神の魂(みたま)を祭(まつ)るには、花(はな)の時には亦(また)花を以(も)て祭る。又鼓吹幡旗(つづみふえはた)を用(も)て、歌(うた)ひ舞(ま)ひて祭る」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.40」岩波文庫)
紀州「熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる」とある。有馬村は「花(はな)の窟(いわや)」と呼ばれる洞窟で有名。洞窟信仰は他にもある。「出雲国風土記」から。
「宇賀(うか)の郷(さと)。ーーー即ち北の海の浜に磯(いそ)有(あ)り。名は脳(なづき)の磯(いそ)。高さ一丈(つゑ)許(ばかり)。上(うへ)に生(お)ふる松、芸(しげ)りて磯に至る。邑人(さとひと)の朝夕(あさよひ)に往来(かよ)へるが如(ごと)く、又、木の枝は人の攀(よ)ぢ引(ひ)けるが如し。磯(いそ)より西の方(かた)の窟戸(いはやと)、高さ広さ、各(おのおの)六尺(さか)許(ばかり)。窟(いはや)の内(うち)に穴(あな)在(あ)り。人、入(い)ることを得ず。深き浅きを知らず。夢(いめ)に此(こ)の磯(いそ)の窟(いはや)の辺(ほとり)に至らば必ず死ぬ。故(かれ)、俗人(くにひと)、古(いにしへ)より今に至るまで、黄泉(よみ)の坂(さか)・黄泉(よみ)の穴(あな)と号(なづ)く」(「出雲国風土記・出雲郡・P.189」講談社学術文庫)
さらに沖縄。
「琉球では、太陽神の他に、自然崇拝そのままの形を残して居る。それ故恐しい場所、ふるめかしい場所、由緒ある場所は、必、御嶽(オダケ)になって居る。自分の祖先でも、七代目には必神になる。中山世鑑は、七世生神と書いている。此は、死後七代目にして神となると言うことである。以前には、人が死ぬと、屍体を、大きな洞窟の中へ投げこんで、其洞窟の口を石で固め、石の間を塗りこんだものであるが、此習わしが次第に変化して、墓を堅固に立派にするようになった為に、墓を造って財産を失う人が多くなった。七代経つと、其洞の中へは屍を入れないで、神墓(くりばか)と称し、他の場所へ、新墓所を設ける。神墓(クリバカ)は拝所となる。此拝所を《おがん》と言う。時代を経るに従って、他の人々も拝する様になる。此拝所(オガン)が、恐しい場所になって来る。拝所(オガン)を時々発掘すると、白骨が出て来る。此を、骨霊(コチマブイ)と言う。ーーー大体に於て、石を以て神々の象徴と見る風があって、道の島では、霊石に、《いびがなし》(神様)という風な敬称を与えている所もある」(折口信夫「琉球の宗教」『折口信夫全集2・P55~56』中公文庫)
洞窟信仰は盆や彼岸の「霊祭」(たままつり)と深い関係にある。そこでの主役は死者なのだ。「あの世」と「この世」とを区切る境界領域として捉えられていたと考えられる。そしてこのような周囲一帯は露出した巨岩の密集地であることが多い。柳田國男はいう。
「箱根山中で強羅(ごうら)という地名を久しく注意していたところ、ようやくそれが岩石の露出している小区域の面積を意味するものであって、耕作その他の土地利用から除外せねばならぬために、消極的に人生との交渉を生じ、ついに地名を生ずるまでにmerkwurdig(奇異)になったものであることを知った」(柳田國男「地名の研究・一八・強羅」『柳田國男全集20・P.164』ちくま文庫)
なお、安珍清姫伝説で有名な「道成寺」は和歌山県日高郡日高川町(旧川辺町)にある。「滝尻王子」にほど近い。と述べるとわかりやすいかもしれない。熊野の「王子」が象徴しているものは他でもない「怨霊性」である。
発心門(ほっしんもん)王子。「発心門」は修験道四門の一つとされる。修験道がメインになる。
「熊野にまうでて侍りける時、発心門の王子にてよみ侍りける
うれしくも神の誓ひをしるべにて心をおこす門(かど)に入りぬる」(「千載和歌集・巻第二十・一二六八・権中納言経房・P.296」岩波文庫)
熊野での修行という意味ではこんな歌もある。
「修行に出でて熊野にまうで侍りける時、人につかはしける
もろともにゆく人もなき別れ路に涙ばかりぞとまらざりける」(「千載和歌集・巻第七・四八七・道命法師・P.114」岩波文庫)
次の歌はさらに修験道色が濃い。
「熊野(くまの)へまゐりて大峰(おほみね)へ入(い)らんとて、年(とし)ごろ養(やしな)ひたてて侍りける乳母(めのと)のもとにつかはしける
あはれとてはぐくみ立(た)てしいにしへは世(よ)をそむけとも思(おも)はざりけん」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第十八・一八一三・大僧正行尊・P.527~528」岩波書店)
また五体王子には入っていないが、塩屋(しほや)王子について。
「白河院熊野(くまの)に詣(まう)で給(たま)へりける御共(とも)の人々、塩屋(しほや)の王子にて歌よみ侍(はべり)けるに
たちのぼる塩屋(しほや)のけぶり浦(うら)風になびくを神の心とも哉(がな)」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第十九・一九〇九・徳大寺左大臣・P.556」岩波書店)
ちなみに第一王子は、「若一(わかいち)王子」、「若王子」(にゃくおうじ)、などという。「熊野の御本地のさうし」に従えば、始めのうちは大王に忘れられているせんかう女御が、その間、いずれ産まれるかもしれない子どものための出産祈願に作った「十一面観音像」を本尊とする。
「若王子(にやくわうじ)と申すは、本地(ほんぢ)十一面観音(めんくわんおん)の化身(けしん)にて、すなはち王子(わうじ)の御事なり」(日本古典文学体系「熊野の御本地のさうし」『御伽草子・P.432』岩波書店)
熊楠の文章に戻ろう。古来、熊野の森は「梛」(なぎ)の産地として有名だったのだが。
「濫伐や移栽のために三山に今は全滅し、ようやく那智社境内に小さきもの一本あり。いろいろ穿鑿せしに、西牟婁郡の鳥巣(とりのす)という浦の社地小丘林中におびただしく自生せり。これも合祀されたから、早暁全滅ならん。すなわち熊野の名物が絶えおわるなり。オガタマノキは、神道に古く因縁深き木なるが、九州に自生ありというが、その他の大木あるは紀州の社地のみなり。合祀のため著しく減ぜり。ツグノキ、バクチノキなどは半熱帯地の木で、田辺付近の神林にのみ多かりしが、合祀のため今わずかに一、二株を存す。熊野の名産ナンカクラン、ガンゼキランその他奇珍の托生蘭類も多く合祀で絶える。ワンジュ、キシュウスゲなど世界有数の珍なるものも、合祀で全滅せんとするをわずかに有志の注意で止めおる。タニワタリ、カラタチバナ、マツバランなど多様の園芸植物の原産も合祀で多く絶えんとす」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.526』河出文庫)
熊楠は藤原定家の次の歌を上げている。
「千早振(ちはやぶる)熊野の宮のなぎの葉をかはらぬ千代のためしにぞ折る」(「藤原定家歌集・拾遺愚草・下・P.224」岩波文庫)
他にも天皇を称えて、「熊野のなぎの青葉のときは」、とまで詠まれている。「ときは」は「永遠に」の意味。
「君が代を神もさこそはみ熊野のなぎの青葉のときはかきはに」(「玉葉和歌集・卷第二十・権大僧都清壽・P.439」岩波文庫)
それがばっさりというのだからつくづく国策とは怖いものだ。政治的謀略で暗殺された源実朝もまたこう詠んだ。
「み熊野(くまの)の梛(なぎ)の葉しだり雪降(ふれ)ば神のかけたる四手(しで)にぞ有(ある)らし」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三七・P.207」岩波文庫)
紀州では極めて貴重な「冬中夏草」(とうちゅうかそう)の絶滅危惧を憂いて熊楠はいう。
「遊園場を立つるとて樹を枯らし、腐葉土 humus の造成を防ぎしゆえ、年々枯れ行くを伐りちらし、この山、古来有名な冬中夏草(西インドのguepe vegetale と等しく、上図のごとき大冬虫夏草を生ず。この他ミミズ、ムカデ等にも、それぞれ別種の冬虫夏草を生ず)は、今日はなはだしく少なくなれり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.391』河出文庫)
薬局の漢方コーナーに飾ってあったりする、強壮剤「冬中夏草」(とうちゅうかそう)のこと。
BGM
「和歌山県庁も、最初神社をなるべく多く潰して高名せんと心がけ、自治政成績展覧会を一昨年ごろ高野で催せしとき、神社を滅却せる数多きを自治成績の一に数え立て、特に他県を擢(ぬき)んでて、最初は五百円なりしを五千円まで基本金を上げ、五千円の基本金なき社をことごとく合祀し(実際五千円を積み得る社は一つもなし)、また一村一社の制を設け、直径五里六里往復の大村にすら一社しか残立を許さず。これがため、御承知の熊野九十九王子社、すなわち諸帝王が一歩三礼したまえる熊野沿道の諸古社は、三、四を除きことごとく滅却、神林は公売にさる」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.461』河出文庫)
熊楠は往古の昔から伝わる熊野の森の社とそこに住む貴重な生き物をいとも容易に売却・全滅させた明治政府の方針が気に入らない。前に見たように太平記の中の護良(もりなが)親王の熊野落ちの箇所にこうあった。
「由良(ゆら)の湊(みなと)を見渡せば、門(と)渡る船の梶(かじ)を絶え、浦の夕塩(ゆうじお)幾重(いくえ)とも、知らぬ浪路(なみじ)に鳴く千鳥(ちどり)、紀(き)の路(じ)の遠山(とおやま)遥々(はるばる)と、藤代(ふじしろ)の松に懸かる浪、和歌(わか)、吹上(ふきあげ)を余所(よそ)に見て、月にみがける玉津島(たまつしま)、さらでだに長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の道は、心を砕(くだ)く習ひなるに、雨を含める孤村(こそん)の樹(き)、夕べを送る遠寺(えんじ)の鐘、あはれを催(もよお)す時しもあれ、切目(きりめ)の王子(おうじ)に着き給ふ」(「太平記1・第五巻・8・P.251~252」岩波文庫)
順に見ていこう。
次の歌の「藤代」(ふじしろ)は、「岩代(いはしろ)」、「磐代(いはしろ)」、と同じく磐座(いはくら)に通じる熊野の枕詞だが、ここで詠まれているのは政治的謀略に陥れられ熊野の牟婁で処刑された有間皇子のこと。
「藤白(ふじしろ)のみ坂を越ゆと白たへの我(わ)が衣手(ころもで)は濡(ぬ)れにけるかも」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第九・一六七五・P.388」小学館)
次の歌も悲劇的死に方をした有間皇子を詠んだもの。
「熊野(くまの)へ詣(まう)で侍(はべり)しに、岩代(いはしろ)王子に人々の名など書きつけさせて、しばし侍しに、拝殿の長押(なげし)に書(か)きつけて侍し歌
いはしろの神はしるらんしるべせよたのむ憂(う)き世(よ)の夢の行(ゆ)くすゑ」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第十九・一九一〇・よみ人しらず・P.556」岩波書店)
平家物語にこうある。
「藤代(ふぢしろ)の王子(わうじ)を初(はじめ)として、王子王子ふしをがみ参(まい)り給ふ程に、千里の浜の北、岩代(いはしろ)の王子の御前にて、狩(かり)装束したる者七八騎が程行あひ奉る」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・維盛出家・P.234」岩波書店)
次は「切目王子」。平治物語によれば、熊野参詣中の平清盛のところへ源義朝挙兵の報が飛び込んでくる。
「都(みやこ)より、左馬頭義朝(さまのかみよしとも)が嫡子(ちやくし)悪源太義平(あくげんだよしひら)を大将として、熊野(くまの)の道(みち)へ討手(うつて)に向(むかふ)が、摂津国天王寺(せつのくにてんわうじ)、阿倍野(あべの)の松原(まつばら)に陣(ぢん)を取ッて、清盛(きよもり)の下向(げかう)を待(まつ)」(新日本古典文学体系「平治物語・上・六波羅より紀州へ早馬を立てらるる事」『保元物語/平治物語/承久記・P.167』岩波書店)
慌てた清盛が京の六波羅殿へ取って返した地点が「切目(きりめ)の宿(やど)」。
「清盛(きよもり)は熊野参詣(くまのさんけい)とげずして、切目(きりめ)の宿(やど)よりはせ上(のぼる)」(新日本古典文学体系「平治物語・上・光頼卿参内の事付清盛六波羅上着の事」『保元物語/平治物語/承久記・P.173』岩波書店)
戻る途中で京の伏見稲荷へ寄って「杉の枝」をそれぞれ折り取って持ち帰っている。二月初午の日に参詣し、験(しるし)の杉と称して杉をかざして帰る風習にあやかったのだろう。また「切目宿」は、和歌山県日高郡印南町にあった宿場。和歌の浦を望む見晴らし良好な位置。次のような歌がある。
「熊野に詣(まう)で侍(はべり)しついでに、切目宿にて、海辺ノ眺望といへる心(こころ)を、をのこどもつかうまつりしに
ながめよと思(おも)はでしもや帰(かへ)るらん月まつ浪(なみ)の海人(あま)の釣舟(つりふね)」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第十六・一五五九・具親・P.455」岩波書店)
稲葉根(いわはね)王子。伝承は様々ある。稲荷信仰との繋がりが指摘されており、稲荷神の姿形へ変身した金剛童子では、と言われている。稲荷はそもそも狐であり、中国では古来から「祟(たた)り神」としても考えられてきた。王子信仰の意味から考えるとそれが正しいかもしれない。
滝尻(たきじり)王子。周囲は巨石が多く川の流れが入り組んでいる。どのようなところか。日本書記にこうある。
「一書に曰はく、伊奘冉尊、火神を生む時に、灼(や)かれて神(かむ)退去(さ)りましぬ。故(これ)、紀伊国(きのくに)の熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる。土俗(くにひと)、此(こ)の神の魂(みたま)を祭(まつ)るには、花(はな)の時には亦(また)花を以(も)て祭る。又鼓吹幡旗(つづみふえはた)を用(も)て、歌(うた)ひ舞(ま)ひて祭る」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.40」岩波文庫)
紀州「熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる」とある。有馬村は「花(はな)の窟(いわや)」と呼ばれる洞窟で有名。洞窟信仰は他にもある。「出雲国風土記」から。
「宇賀(うか)の郷(さと)。ーーー即ち北の海の浜に磯(いそ)有(あ)り。名は脳(なづき)の磯(いそ)。高さ一丈(つゑ)許(ばかり)。上(うへ)に生(お)ふる松、芸(しげ)りて磯に至る。邑人(さとひと)の朝夕(あさよひ)に往来(かよ)へるが如(ごと)く、又、木の枝は人の攀(よ)ぢ引(ひ)けるが如し。磯(いそ)より西の方(かた)の窟戸(いはやと)、高さ広さ、各(おのおの)六尺(さか)許(ばかり)。窟(いはや)の内(うち)に穴(あな)在(あ)り。人、入(い)ることを得ず。深き浅きを知らず。夢(いめ)に此(こ)の磯(いそ)の窟(いはや)の辺(ほとり)に至らば必ず死ぬ。故(かれ)、俗人(くにひと)、古(いにしへ)より今に至るまで、黄泉(よみ)の坂(さか)・黄泉(よみ)の穴(あな)と号(なづ)く」(「出雲国風土記・出雲郡・P.189」講談社学術文庫)
さらに沖縄。
「琉球では、太陽神の他に、自然崇拝そのままの形を残して居る。それ故恐しい場所、ふるめかしい場所、由緒ある場所は、必、御嶽(オダケ)になって居る。自分の祖先でも、七代目には必神になる。中山世鑑は、七世生神と書いている。此は、死後七代目にして神となると言うことである。以前には、人が死ぬと、屍体を、大きな洞窟の中へ投げこんで、其洞窟の口を石で固め、石の間を塗りこんだものであるが、此習わしが次第に変化して、墓を堅固に立派にするようになった為に、墓を造って財産を失う人が多くなった。七代経つと、其洞の中へは屍を入れないで、神墓(くりばか)と称し、他の場所へ、新墓所を設ける。神墓(クリバカ)は拝所となる。此拝所を《おがん》と言う。時代を経るに従って、他の人々も拝する様になる。此拝所(オガン)が、恐しい場所になって来る。拝所(オガン)を時々発掘すると、白骨が出て来る。此を、骨霊(コチマブイ)と言う。ーーー大体に於て、石を以て神々の象徴と見る風があって、道の島では、霊石に、《いびがなし》(神様)という風な敬称を与えている所もある」(折口信夫「琉球の宗教」『折口信夫全集2・P55~56』中公文庫)
洞窟信仰は盆や彼岸の「霊祭」(たままつり)と深い関係にある。そこでの主役は死者なのだ。「あの世」と「この世」とを区切る境界領域として捉えられていたと考えられる。そしてこのような周囲一帯は露出した巨岩の密集地であることが多い。柳田國男はいう。
「箱根山中で強羅(ごうら)という地名を久しく注意していたところ、ようやくそれが岩石の露出している小区域の面積を意味するものであって、耕作その他の土地利用から除外せねばならぬために、消極的に人生との交渉を生じ、ついに地名を生ずるまでにmerkwurdig(奇異)になったものであることを知った」(柳田國男「地名の研究・一八・強羅」『柳田國男全集20・P.164』ちくま文庫)
なお、安珍清姫伝説で有名な「道成寺」は和歌山県日高郡日高川町(旧川辺町)にある。「滝尻王子」にほど近い。と述べるとわかりやすいかもしれない。熊野の「王子」が象徴しているものは他でもない「怨霊性」である。
発心門(ほっしんもん)王子。「発心門」は修験道四門の一つとされる。修験道がメインになる。
「熊野にまうでて侍りける時、発心門の王子にてよみ侍りける
うれしくも神の誓ひをしるべにて心をおこす門(かど)に入りぬる」(「千載和歌集・巻第二十・一二六八・権中納言経房・P.296」岩波文庫)
熊野での修行という意味ではこんな歌もある。
「修行に出でて熊野にまうで侍りける時、人につかはしける
もろともにゆく人もなき別れ路に涙ばかりぞとまらざりける」(「千載和歌集・巻第七・四八七・道命法師・P.114」岩波文庫)
次の歌はさらに修験道色が濃い。
「熊野(くまの)へまゐりて大峰(おほみね)へ入(い)らんとて、年(とし)ごろ養(やしな)ひたてて侍りける乳母(めのと)のもとにつかはしける
あはれとてはぐくみ立(た)てしいにしへは世(よ)をそむけとも思(おも)はざりけん」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第十八・一八一三・大僧正行尊・P.527~528」岩波書店)
また五体王子には入っていないが、塩屋(しほや)王子について。
「白河院熊野(くまの)に詣(まう)で給(たま)へりける御共(とも)の人々、塩屋(しほや)の王子にて歌よみ侍(はべり)けるに
たちのぼる塩屋(しほや)のけぶり浦(うら)風になびくを神の心とも哉(がな)」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第十九・一九〇九・徳大寺左大臣・P.556」岩波書店)
ちなみに第一王子は、「若一(わかいち)王子」、「若王子」(にゃくおうじ)、などという。「熊野の御本地のさうし」に従えば、始めのうちは大王に忘れられているせんかう女御が、その間、いずれ産まれるかもしれない子どものための出産祈願に作った「十一面観音像」を本尊とする。
「若王子(にやくわうじ)と申すは、本地(ほんぢ)十一面観音(めんくわんおん)の化身(けしん)にて、すなはち王子(わうじ)の御事なり」(日本古典文学体系「熊野の御本地のさうし」『御伽草子・P.432』岩波書店)
熊楠の文章に戻ろう。古来、熊野の森は「梛」(なぎ)の産地として有名だったのだが。
「濫伐や移栽のために三山に今は全滅し、ようやく那智社境内に小さきもの一本あり。いろいろ穿鑿せしに、西牟婁郡の鳥巣(とりのす)という浦の社地小丘林中におびただしく自生せり。これも合祀されたから、早暁全滅ならん。すなわち熊野の名物が絶えおわるなり。オガタマノキは、神道に古く因縁深き木なるが、九州に自生ありというが、その他の大木あるは紀州の社地のみなり。合祀のため著しく減ぜり。ツグノキ、バクチノキなどは半熱帯地の木で、田辺付近の神林にのみ多かりしが、合祀のため今わずかに一、二株を存す。熊野の名産ナンカクラン、ガンゼキランその他奇珍の托生蘭類も多く合祀で絶える。ワンジュ、キシュウスゲなど世界有数の珍なるものも、合祀で全滅せんとするをわずかに有志の注意で止めおる。タニワタリ、カラタチバナ、マツバランなど多様の園芸植物の原産も合祀で多く絶えんとす」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.526』河出文庫)
熊楠は藤原定家の次の歌を上げている。
「千早振(ちはやぶる)熊野の宮のなぎの葉をかはらぬ千代のためしにぞ折る」(「藤原定家歌集・拾遺愚草・下・P.224」岩波文庫)
他にも天皇を称えて、「熊野のなぎの青葉のときは」、とまで詠まれている。「ときは」は「永遠に」の意味。
「君が代を神もさこそはみ熊野のなぎの青葉のときはかきはに」(「玉葉和歌集・卷第二十・権大僧都清壽・P.439」岩波文庫)
それがばっさりというのだからつくづく国策とは怖いものだ。政治的謀略で暗殺された源実朝もまたこう詠んだ。
「み熊野(くまの)の梛(なぎ)の葉しだり雪降(ふれ)ば神のかけたる四手(しで)にぞ有(ある)らし」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三七・P.207」岩波文庫)
紀州では極めて貴重な「冬中夏草」(とうちゅうかそう)の絶滅危惧を憂いて熊楠はいう。
「遊園場を立つるとて樹を枯らし、腐葉土 humus の造成を防ぎしゆえ、年々枯れ行くを伐りちらし、この山、古来有名な冬中夏草(西インドのguepe vegetale と等しく、上図のごとき大冬虫夏草を生ず。この他ミミズ、ムカデ等にも、それぞれ別種の冬虫夏草を生ず)は、今日はなはだしく少なくなれり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.391』河出文庫)
薬局の漢方コーナーに飾ってあったりする、強壮剤「冬中夏草」(とうちゅうかそう)のこと。
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