白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠直系男子の死/源氏の白い旗

2020年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠の論文というは論文なのかエッセイなのか、よくわからないものが大変多い。次のものも粘菌関連論文のはずが、いつものように本論からずれていくケース。なぜか「平家物語」が、しかも重要な意味を帯びて、出てくる。

「只今は菌類が年中もっとも盛んに出で候時節にて、相変わらず続々珍品の発見有之、数日前も拙妻、ミケナストルムと申し、従来はアメリカ辺の熱地にのみありとのみ思いおったるものを日本で始めて見出だし申し候。勧学院の雀は『蒙求』を囀る習い、拙妻年来発見せし菌類はおびただしきものにて、おそらくアジア中で女性の菌発見者としては第一位におることと存じ申し候。しかるにこの女は漢学者の娘にて(父は『平家物語』に名高き田辺権現の社の神官なりし)、とかく小生の自由思想、民本主義と気が合い申さず、これには閉口致しおり申し候。『すれすれの中に花さくとくさかな』とあるごとく、子供は父に従うてよいか母に従ってよいか、ほとんど迷惑することに御座候。ただし今日の過渡世態の日本にありては、かかることは拙家に限らず、都鄙いずれの地にもずいぶん多く例あることと察し申され候」(南方熊楠「フィサルム・ギロスムの色彩」『森の思想・P.228~229』河出文庫)

平家物語は、フーコーに言わせるとすれば、思想的価値観の断層を築いていると言える。呪術政治の時代と武家政権の時代との過渡期に当たっている。例えば、戦闘は、一方で極めて物質的な軍事衝突だが、他方、極めて呪術的なアニミズムが同居している。次のように。

「源氏いかンあらんずらんと、あぶなう思ひけるに、しばしは白雲(はくうん)かとおぼしくて、虚空(こくう)にただよひけるが、雲にてはなかりけり。主(ぬし)もなき白幡(しろはた)ひとながれ舞ひさがッて、源氏の舟のへに、さをづけのをのさはる程にぞ見えたりける。判官、『是(これ)は八幡大菩薩の現じ給へるにこそ』とよろこンで、手水(てうづ)うがひをして、これを拝したてまつる」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第一一・遠矢・P.291~292」岩波書店)

わかりづらいのは「主(ぬし)もなき白幡(しろはた)ひとながれ舞ひさがッて、源氏の舟のへに、さをづけのをのさはる程にぞ見えたりける」とあるような場合。菊池寛はこう訳した。

「これを眺めて判官(はんがん)義経(よしつね)は、塩水に口をすすぎ、目をふさぎ、手を合わせ、心をこめて戦勝を八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)に祈(いの)るのでした。と、御覧(ごらん)なさい。此(こ)の時、どこからともなく二羽の白鳩(しろばと)が飛(と)んで来て、義経(よしつね)の旗(はた)の上に下りるではありませんか」(菊池寛「源平盛衰記・二七・P.223」勉誠出版)

さらに熊楠の妻(松枝)の父・「田辺権現の社の神官」。熊楠のように自由人に近い行動を本意とする民間研究者にとって、相当やりづらい権威として迫って見えたに違いない。田辺権現は「闘鶏神社=今熊野鶏合大権現」のこと。「熊野別当湛増」は弁慶の父であるとされる。

「熊野(くまのの)別当湛増(タンゾウ)は、平家へや参るべき、源氏へや参るべきとて田辺(たなべ)の今熊野(いまくまの)にて御神楽(みかぐら)奏して、権現(ゴンゲン)に祈誓(キセイ)したてまつる。『白旗につけ』と御託宣(ごたくせん)有けるを、猶(なほ)うたがひをなして、白い鶏(にはとり)七つ、赤き鶏七つ、これをもッて権現の御まへにて勝負をせさす。赤きとり一(ひとつ)もかたず、みな負けてにげにけり。さてこそ源氏へ参らんと思ひさだめけれ」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第一一・鶏合壇浦合戦・P.285」岩波書店)

この場合「『白旗につけ』と御託宣(ごたくせん)有ける」は、源氏方を支援せよという意味であり、当たっている。ただ、弁慶については事実かどうか、不明としか言いようがない。むしろ、より一層大事なのはそれが「権現(ゴンゲン)」の系列であること。当時の文脈でいえば熊野三所権現を言う。すなわち「本宮の家都御子大神」、「新宮の熊野速玉大神」、「那智の夫須美大神」、の三つの聖地を指す。

弁慶についてだが、「義経記」では、「熊野の別当(べっとう=熊野三山の長)弁(べん)しょうの嫡男(ちゃくなん)」、とされる。

「その先祖は天児屋根命(あまのこやねのみこと)の子孫で中関白道隆(なかのかんぱくみちたか)の末裔(まつえい)として、熊野の別当(べっとう=熊野三山の長)弁(べん)しょうの嫡男(ちゃくなん)で、比叡山(ひえいざん)の西塔(さいとう)に住む武蔵房弁慶(むさしぼうべんけい)といった」(〔現代語〕「義経記・巻第三・P.79」勉誠出版)

いずれにせよ、熊楠の葛藤は、熊楠とその妻(松枝)との間に生まれた長男において、ダブルバインド状況を来たすことになった。

「4 『より抽象的なレベルで第一次の禁止命令と衝突する第二次の禁止命令』。これも第一次の禁止命令と同様、生存への脅威となる処罰またはその示唆(シグナル)を伴うものだ。この二次的な禁止を記述することは、一次的な禁止に比べて難しい。理由はふたつある。第一は、それがふつう非言語的手段によって伝えられることである。ポーズ、ジェスチャー、声の調子、有意なしぐさ、言葉に隠された含意といったものすべてが、この抽象的なメッセージの伝達に活用される。理由の第二は、このレベルから発せられる禁止のメッセージが、第一のレベルのメッセージの、どの要素とも矛盾するという点だ。そのため、第二次の禁止命令を言葉に翻訳しようとすると、実に多様な表現がとられることになる。例を示そう。ーーー『これは罰ではないのだよ』『わたしがおまえを罰するような意地悪な人間だと思っているんじゃないだろうね』『わたしが禁止したからといって、それに素直にしたがう人がありますか』『何をしてはいけないのか、などと考えるのはやめなさい』『おまえにこれを許さないのは、おまえを愛するからこそなの(たとえそうでないにしても、わたしの愛を疑うことは許しませんよ)』、等々。ダブルバインドが一人ではなく二人によって課せられるときには、さらにまた多くの例が出てくるだろう。一方の親が発した禁止命令を、もう片方の親がより抽象的なレベルで否定するケースはその一例である」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.294~295』新思索社)

熊楠はいう。

「二十六歳の秋渡英せり。その船中にあるうちに、父は和歌山で死し、ロンドンに着いて正金銀行支店を訪いしに父の死んだ報が着しありたり。『天下是(ぜ)ならざる底(の)父母なし、人間得難きものは兄弟』というに、いかなれば小生は兄弟に縁薄きにや、兄は父歿して五年目に父の予言ごとく破産没落し、次弟は父が別居せる跡を嗣ぎしが、これまた善人ならず、小生金銭のことに疎きにつけこみ、ことごとく小生のものをやらかし了れり(このことを聞き及んで、小生のただ一人の男児は精神病を起こし、もはや六年半近くなるに少しも好報に接せず、洛北に入院させてはや三年三ヶ月になる)」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.330~331』河出文庫)

熊楠と松枝とのあいだに生まれた長男(熊弥)は、没落していく家のことと自分自身が受験の真っ只中であったこととが重なり、精神障害を患う。「洛北に入院させてはや三年三ヶ月」とあるが、当時、京都・洛北の精神病院といえばまともな所は一箇所しかなく、しかし結果的に長期入院者となった。今でいう統合失調症だったと考えられる。一九六〇年(昭和三十五年)まで存命。

さらにまた、この年は戦後昭和の過渡期。日米安保改定。樺美智子死亡。カラーテレビ登場。日本社会党の浅沼稲次郎刺殺など、陰影深い一年に見える。ちなみに谷崎潤一郎はまだ存命。水原弘「黒い花びら」が大ヒットを記録。一般的に言われる「昭和歌謡」の起源はこの辺りに位置するのかもしれないが、とはいえ「昭和歌謡」というものがその呼び名(「昭和歌謡」)とともに実質的な厚みを帯びて評価され始めたのは何を隠そう「昭和」が終わり「平成」に入ってからのことだ。

BGM