日本各地の生態系破壊は神社合祀という国策によって本格化した。それは先史時代から続く東アジア固有の文化という巨大な構造を自己破壊へ導くことになると熊楠は見ていた。
「カラタチバナと申すものはーーーこの田辺より三里ばかりの岡と申す大字の八上(やかみ)王子の森林中に宇井氏見出す。それより栗山昇平氏、一昨年栗栖川の神社合祀で見出す(むろん只今は湮滅)。寛政七、八年ごろカラタチバナ大いに賞翫され、一本の値千金に及べるあり。従来蘭や牡丹の名花は百金に及ぶものあれど百金を出でし例を聞かず、と『北窓瑣談』に見えたり。hortorumの名をつけしも、この栽培品によれるならん。何に致せ、当県では少なきものなり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.407』河出文庫)
八上(やかみ)王子については西行の歌が残されているため或る程度有名かもしれない。
「熊野へまゐりけるに八上(やがみ)の王子の花面白かりければ、社(やしろ)に書きつける
待ち来つる八上の桜咲きにけりあらくおろすなみすの山風」(新潮日本古典集成「山家集・下・春・九八・P.34~35」新潮社)
この「みす」は土地の名である「三栖」(みす)と宮廷の「御簾」(みす)とを掛けた。「あらく」は「風」の縁語で「荒く」でもあるが、しかしそれがなぜ「荒い」のか。王子信仰と関係があると見るのが妥当だろう。イザナギとイザナミとの間に生まれた第一子は「蛭子」(ひるこ)。かつての不具者(かたわもの)、今でいう身体障害児であり、海へ流された。第一王子が「若一王子」(わかいちおうじ)あるいは「若王子」(にゃくおうじ)なのはよく知られているところだが、そのような王子信仰の根源的特徴として、王子は時として荒れ狂う「荒神」(こうじん)と化する。古代王権はそれに関し、不具の嬰児を海に流したという消すに消せない過去の怨霊に違いない、と考えた。古代王権といっても日本の記紀にのみ「蛭子」(ひるこ)流しのエピソードが書かれているだけでなく、広く東南アジア一帯、沖縄や台湾に残る民族創生神話ではほとんどがこの種に属する。イザナギとイザナミとの近親関係がどうであったかはわからない。けれども沖縄や台湾など海流を通して関係があったと考えられる諸地域の民族創生神話には、台風の多い地域特有の共通性が見られる。例えば、大洪水の結果、小さな山が一つだけ残り、ただ兄と妹だけが残され兄妹間の近親性交が行われる。現代医学が証明しているように余りにも近い者同士の近親婚の繰り返しは、何らかの障害を持った子どもの誕生を引き起こす場合が少なくない。古代思想では障害児の出現は不吉な事態の前兆だと見なされた。だから箱に入れて海に流すというエピソードが残る。ちなみに世界の他の地域、例えば山岳地帯ばかりの諸民族創生神話では海がないので海と山とが置き換えられ、昼なお暗い深山幽谷へ捨てられるパターンを取る。いずれにしてもその時の記憶はいつまでも残され、自然災害発生時には王子とともに荒神も同時に鎮魂の対象とされる。このメカニズムについてフロイトは「抑圧」と「排除」との違いを上げて論じている。
「患者の内界に抑圧された感覚が《外界》に投影される、という言い方は正しくない。むしろわれわれは、内界で否定されたものが《外界から》再び戻ってくると考えるべきである」(フロイト「シュレーバー症例」『フロイト著作集9・P.338』人文書院)
一度ならず何度も繰り返し戻ってくる。反復強迫的に繰り返される。だが、抑圧するから強迫的反復が起こるわけではない。逆に、不気味なほど反復するためその度に慌てて抑圧しようとする。けれども抑圧すればするほどますます反復は繰り返される。というのも反復するから抑圧するという方向を描くほかなくなるからである。過去はすでに歴史化されているため、抑圧という一時的対処療法などものともしない。排除された過去は強迫的に何度も反復することでだんだん壮大になる幻覚・妄想の世界へ患者を叩き込まずにおかない。
「この辺に柳田國男氏が本邦風景の特風といえる田中神社あり、勝景絶佳なり。また岩田王子、すなわち重盛が父の不道をなかしみ死を祈りし名社あり。これらの大社七つばかりを、例の一村一社の制に基づき、松本神社とて大字岩田の御役場のじき向いなる小社、もとは炭焼き男の庭中の鎮守祠たりしものを炭焼き男の姓を採りて松本神社と名づけ、それへ合社し、跡のシイノキ林を濫伐して村長、村吏等が私利をとらんと計り、岡大字七十八戸ばかりのうち村長の縁者二戸のほかことごとく不同意なるにも関せず、基本金五百円より追い追い値上げして二千五百円まで積み上げたるを、わざと役場で障(ささ)え止めてその筋へ告げず、五千円まで上りし際村民に迫り絶対(ぜったい)絶命に合社せしめんとするに、その村に盲人あり、このことをかなしみ、小生方へ二、三度言い訴え来る」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.408』河出文庫)
日本中に田中という名の神社は無数にある。田んぼの中にあるからそうなのだろうが、しかしなぜ「田んぼ」なのか。そして同時に「森」も一緒なのか。
「多くの森は何程も平地より高からず候へども平衍(へいえん)なる水田の中に立てる所謂田中の森の如きは、土を置かざれば到底出来まじきことに候。平原地方に所々の小樹林あり。苟(いやし)くも森あれば必ず神あるは日本風景の一特色に之れ有り候。小さき森にありては森ありて社なしとか壇ありて祠を立てずといふこと地誌の記事によく見え申し候」(柳田國男「石神問答・二八・柳田より山中氏へ」『柳田國男全集15・P.149』ちくま文庫)
熊楠は山中に忽然と姿を現わす田中神社のことを述べており、柳田の場合は平地であっても森の中に飄然と出現する田中の森と田園風景について述べている。戦後日本では高度経済成長期を過ぎて一九八〇年代バブルの時期に入ってもなお地方の山地などではごく僅かに残っていた風景である。それほど奥深い山ではない。もはや随分と様変わりしたけれども「小京都」と言われるような地方の町へ行くと、町からやや離れた森の中に整然と区切られた小さな田んぼがただそれだけ深閑と佇んで静寂のうちに居住まいを正していた。どこか幽幻めいて見えもした。そのことを言っているのだろう。「岩田王子」については「平家物語」を引いてすでに述べた。
「其比(そのころ)熊野参詣(クマノサンケイ)の事有けり。本宮(ホングウ)証誠殿(セウジヤウデン)の御前にて、夜もすがら敬白(ケイヒヤク)せられけるは、『親父(シンブ)入道相国の体(テイ)を見るに、悪逆無道(アクギヤクムダウ)にして、ややもすれば君を悩まし奉る。重盛(シゲモリ)長子(チヤウシ)として、頻(シキリ)に諫(イサメ)をいたすといへ共(ども)、身(み)不肖(フセウ)の間、かれもッて服膺(フクヨウ)せず。そのふるまひを見るに、一期(いちご)の栄花(エイグハ)猶(なほ)あやうし。枝葉連続(シヨウレンゾク)して、親(シン)を顕(アラハ)し名(ナ)を揚(ア)げん事かたし。此時に当(アタツ)て、重盛(シゲモリ)いやしうも思へり。なまじひに列(レツ)して、世(ヨ)に浮沈(フチン)せん事、敢(アヘ)て良臣(リヤウシン)・孝子(カウシ)の法(ハウ)にあらず。しかじ名を逃(ノガ)れ身を退(シリゾイ)て、今生(コンジヤウ)の名望(メイバウ)を抛(ナゲス)て、来世の菩提(ボダイ)を求(モト)めんには。但(タダシ)凡夫薄地(ボンプハクヂ)、是非(ゼヒ)にまどへるが故に、猶(なほ)心ざしを恣(ホシイママ)にせず。南無(なむ)権現金剛童子(ゴンゲンゴンガウドウジ)、願(ネガハ)くは子孫繁栄(シソンハンエイ)たえずして、仕(ツカヘ)て朝廷(テウテイ)にまじはるべくは、入道の悪心を和(ヤハラ)げて、天下の安全(アンセン)を得(エ)しめ給へ。栄躍(エイヨウ)又一期(ゴ)をかぎッて、後混恥(コウコンハヂ)に及(ヲヨブ)べくは、重盛(シゲモリ)が運命(ウンメイ)をつづめて、来世の苦輪(クリン)を助(タス)け給へ。両カ(リヤウカ)の求願(ググハン)、ひとへに冥助(メイジヨ)を仰(アヲ)ぐ』と、肝胆(カンタン)を摧(クダイ)て祈念(キネン)せられけるに、灯籠(トウロ)の火のやうなる物の、大臣(おとど)の御身より出(いで)て、ばッと消(キユ)るがごとくして失(ウセ)にけり。人あまた見奉りけれ共(ども)、恐(ヲソ)れて是を申さず」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第三・医師問答・P.169~170」岩波書店)
ここで重要なのは「権現金剛童子(ゴンゲンゴンガウドウジ)」が含まれている点。熊野信仰と金剛童子とは切り離して考えることができない関係にある。金剛石はダイヤモンドのことだが、より一層肝心なのはそれが童子(どうじ)であり修験道においても熊野三山(那智・本宮・新宮)においても護法神として祀られていることに着目することが大事だろうと思われる。さらに「岩田王子」の境界領域性について、岩田川を渡ることは何を意味していたか。
「やうやうさし給ふ程に、日数(ひかず)ふれば岩田(イハダ)河にもかかりたまひけり。『此(この)河の流れを一度もわたる者は、悪業(アクゴウ)・煩悩(ボンナウ)・無始(ムシ)の罪障(ザイシヤウ)消(き)ゆなる物を』とたのもしうぞおぼしける」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・熊野参詣・P.235」岩波書店)
そして問題は「聖・被慈利」(ひじり)へ繋がる。明治政府の国策(神社合祀)によって「その村に盲人あり、このことをかなしみ、小生方へ二、三度言い訴え来る」という非常事態が勃発したからである。「聖・被慈利」(ひじり)について五来重はいう。
「聖はおそらく原始宗教者の『日知(ひし)り』から名づけられたのであろうといわれるが、わたくしは火を管理する(治〔し)る=治ろしめす)という意味で『火治(ひし)り』といってもよいとかんがえている」(五来重「高野聖・一・P.31」角川ソフィア文庫)
熊楠の念頭にあるのはおそらく「日知(ひし)り/火治(ひし)り」と、どちらでもよいが、聖(ひじり)が持つとされた「卜占」の力、言葉の力、である。古代ギリシアで盲目となることと引き換えに預言者の地位を与えられたテイレシアスと同様。古事記では「御火焼(みひたき)の老人(おきな)」が予言者として登場しており、五来重は「火治(ひし)り」が正しいのではと述べている。
「新治(にひばり)筑波(つくは)を過ぎて幾夜(いくよ)か寝(ね)つる しかして、その御火焼(みひたき)の老人(おきな)、御歌(みうた)に続(つ)ぎて、歌ひしく、 かがなべて、夜(よ)には九夜(ここのよ)日には十日(とをか)を」(新潮日本古典集成「古事記・中つ巻・景行天皇・P.165」新潮社)
甲斐から信濃へ出る行程についてヤマトタケルが尋ねた。それに「御火焼(みひたき)の老人(おきな)」が答えるという問答形式を取っているが、ここで「御火焼(みひたき)の老人(おきな)」は明らかに預言者として描かれている。というのは、「御火焼(みひたき)の老人(おきな)」は夜警の篝火(かがりび)を焚いて消えないように守る老人(おきな)のことで、当時はの職業だったため特殊な能力を持つ人々の系列に編入されていたからである。テイレシアスが盲目になったように。さらに預言者としての「火治(ひし)り」の聖性は「老人(おきな)」に与えられる一方、逆に「童子」(どうじ)にも与えられる権利が発生する。記紀が編纂された時期すでに随分と輸入されていた仏教の経典「法華経」にこうある。
「乃至童子戯 聚沙爲佛塔 如是諸人等 皆已成佛道
(書き下し)乃至、童子の戯れに 沙(すな)を聚めて仏塔を為(つく)れる かくの如き諸々(もろもろ)の人等(ら)は 皆、已(すで)に仏道を成(じょう)じたり。
(現代語訳)子どもたちが遊戯の際に、そこここに、小石づくりの塚を作り、仏たちのために供養塔とするとき、これらの人々は、すべて『さとり』に到達するであろう」(「法華経・上・巻第一・方便品・第二・P.114~115」岩波文庫)
そこで童子に見出されるのは「ヨリマシ」の姿である。
「エクスタシーに陥る前の至福感(ユーフォリー)が叙事詩のひとつの源泉となっていることも、充分あり得る。シャーマンはトランス状態に入ろうとする際に、太鼓をたたき、守護の精霊たちを呼び出し、『秘密の言葉』ないし『動物の言葉』をしゃべり、動物の鳴き声、とりわけ鳥たちの歌声をまねる。こうして彼は、言語的創造活動や叙事詩の韻律(リスム)が活性化してくる意識の『第二次状態』を獲得するのである。また、シャーマンや演技がもつドラマ的な性格も忘れてはならない。これは日常生活の世界には匹敵するもののない《スペクタクル》〔見物〕ともなっている。みごとな魔術(火の芸はじめさまざまな『奇蹟』)は、別の世界への幕を開く。そこは神々や魔術師たちの仮想の世界、それでは《すべてが可能》な世界である。そこでは死者たちが蘇り、生者たちが死んで再び蘇る。人が瞬時に消えたり、現われたりできる。『自然法則』は破棄され、超人間的な『自由』がすばらしい形を与えられて、目の前に《現実化》されている。こうした《スペクタクル》が『未開の』共同体にどんな効果を与えているかは、いまや充分にみてとることができよう。シャーマンの行う『奇蹟』は、伝統的宗教の構造を再確認し、強固にするばかりでなく、人々の想像力を刺激し、養って、夢と直接的現実とのあいだの隔壁を取り払い、神々や死者や精霊の住むいろいろな世界へと通ずる窓を開くものなのである」(エリアーデ「世界宗教史5・P.53~54」ちくま学芸文庫)
熊楠はいう。
「ヨリマシということも、わが邦に本来似たことはありしなるべし。しかし、中世以降のは、もっぱら仏法より起れることなり。『大毘盧遮那成仏神変加持経』中巻に、美童を択みてこれに神や魔を降すことあり。延年の舞ということあり。純(もっぱ)ら童子が舞いしと見ゆ。これも仏教より出でしことにて、『不空羂索神変真言教』十一巻に、竜が真言の法力で童子に化せられ、真言者に延年甘露を与うることあり。こんなことより出でしことと存じ候(不空羂索は観世音の一身で、奈良の南円堂に奉祀されあるなり)」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.456』河出文庫)
さて、では「ヨリマシ」と盲目の熊野比丘尼との関係に触れなくてはならない。柳田はいう。
「足利時代にできたという『職人尽歌合』には、熊野比丘尼は俗体で烏帽子(えぼし)・小素襖(こすおう)を着し琵琶(びわ)を抱き、杖の先に雉(きじ)の尾を附けたのを持ち、絵巻を前にひろげている。その歌は、
絵を語り琵琶弾きて経(ふ)る我世(わがよ)こそうき目見えたるめくらなりけれ
とある。熊野比丘尼が熊野の絵と称する地獄六道の画を雉の尾羽で絵解(えとき)をなし勧進してあるいたことは、『骨董集』(こっとうしゅう)その他のありふれた書に見えている」(柳田國男「巫女考・神子の夫、修験の妻」『柳田國男全集11・P.395~396』ちくま文庫)
さらに柳田から引くが、後世の熊野比丘尼は「美目(びもく)盼(へん)たる者であった」とある。今でいう「眉目秀麗」(びもくしゅうれい)とはやや意味が異なる。柳田がいうのは「眉目」(びもく)ではなく「美目」(びもく)。次のような意味で用いられる。
「子夏(しか)問いて曰(いわ)く、巧笑(こうしょう)倩(せん)たり、美目(びもく)盼(はん)たり、素(そ)以て絢(あや)となす、何の謂(いい)ぞや。子曰わく、絵(え)の事は素(しろ)きを後にす。曰わく、礼は後なるか。子曰わく、予(われ)を起こすものは商なり。始めて与(とも)に詩を言うべし。
(現代語訳)子夏がたずねた。『えくぼあらわに、えもいえぬ口もと、白目にくっきりの漆黒(しっこく)のひとみ、白さにひきたつ彩(いろど)りの文(あや)という詩は、いったい何を意味しているのでしょうか』先生がいわれた。『絵をかくとき、胡粉(ごふん)をあとで入れるということだ』子夏がすかさずいった。『礼が最後の段階だという意味ですか』先生がいわれた。『よくも私の意のあるところを発展させたね、子夏よ。これでおまえと詩を談ずることができるというものだ』」(「論語・第二巻・第三・八佾篇・八・P.64~65」中公文庫)
ちなみに孔子が子夏を「詩のわかる弟子」として褒めたことが或る問題を引き起こした。子夏には子夏派というべき弟子たちがいる。子夏派の弟子らにしてみれば自分たちの師があろうことか天下に名高き聖人・孔子から詩の理解者として褒められたため、子夏派に属する人々は孔子の他の弟子とは違ってみんな孔子から認められた詩の第一人者だと自負して他の弟子らを侮るという派閥闘争を引き起こすことになった。ニーチェのいう「原因と結果との取り違え」が起きたわけだ。
ところで、熊野比丘尼が生活資金確保のため歌を歌って金を稼ぐ歌比丘尼となり中には遊女を束ねる売春宿の経営者になる者も出てきた。しかし尼(あま)と違って、そもそも比丘尼(びくに)が夫を持つことは何ら違犯でも何でもない。
「後世の熊野比丘尼はいわゆる美目(びもく)盼(へん)たる者であった。しかしこの徒が口寄せの業務から次第に遠ざかったのは、眼の明盲とはまったく無関係であるらしく、やはり髪を剃り頭巾(ずきん)などを被(かぶ)ったことが、自然に託宣の値打ちを減じたためかと思う。京の縄手通三条下ル猿寺という寺で、尼が幣を持って託宣をした近世の例は、『兎園(とえん)小説拾遺』に見えているが、ほかにはあまり聞かない。比丘尼と称しつつ舞を舞ったことは、古くは『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)にも記事があれど、これも頭を丸めては似合わなかったとみえて、後はただ簓(ささら)を扣(たた)いて流行歌(はやりうた)などを歌った。ゆえにこの徒が札配りや勧進の外に逸出して変な一種の職業に従事したのも、間接には剃髪強制の結果ではないかと思う。『人倫訓蒙図彙』(じんりんきんもうずい)に曰く、歌比丘尼は元は清浄の立派にて、熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣を略し歯を磨き、頭を仔細に包みて小歌を便にして売るなり。巧齢過ぎたるを御寮と号し、夫に山伏を持ち女童(めのわらわ)の弟子あまたとりしたつるなり。この者都鄙(とひ)にあり都は建仁寺町薬師の図子(ずし)に侍(はべ)る云々とあり。名古屋九十軒町に住する熊野比丘尼は、元祖は慶長三年に伊勢の山田から来た。簓を摺(す)りうたう遊興を勧めたと『尾張志』に見えている。『和訓栞』には何に拠ったものか、歌比丘尼の郷里は紀州の那智で、山伏を夫としつつ一方には遊女に同じき生活をする。その歳悔(さいく)を受けて一山富めりとあり。『東海道名所記』の沼津の条には、歌比丘尼の由来を詳しく述べてその退化を説き、今の比丘尼は熊野・伊勢には詣れども行もせず、戒を破り絵解をも知らず、歌を肝要とするのは嘆かわしいと、すごぶる彼等が不道徳を責めている。しかし比丘尼が色を売るのはともかくも、男のあるということまでは決して違犯ではない。比丘尼は単に彼等の名称であって実質ではなかった。これを仏法の尼と同視してその生活の自由なるに驚くのは驚く人が無理だ。東京では商家の丁稚(でっち)の髪をいつまでも剃りこかしておいて、形が似ているからこれを小僧と呼んだ。今もし小僧はすなわち僧だからとの理由で魚を食わせなかったら彼等はどんなに嘆くか分らぬ。それとまったく同じき不道理である」(柳田國男「巫女考・神子の夫、修験の妻」『柳田國男全集11・P.396~397』ちくま文庫)
それでもなお巫童・巫女が時おりヨリマシとしての待遇を受ける風習は江戸時代二五〇年一杯を通して長く残された遺産である。
「寄(よ)り人(びと)は今ぞ寄(よ)り来(く)る長浜(ながはま)の、蘆毛(あしげ)の駒に、手綱(たづな)揺(ゆ)りかけ」(新日本古典文学体系「葵上」『謡曲百番・P.150』岩波書店)
なお、ヨリマシ、ヨリシロ、と呼び名の混同は見られるものの、美童・巫女が神の仲介者として扱われたことは、古代から考えれば大きな意味の変動が見られる。神を直接的に畏怖するのでなく、神と人間との仲介者として存在した点に美童・巫女の特権性があったことを忘れてはならない。なおかつ熊楠はそこに「盲人あり」と加えないわけにはいかなかったのである。
さらに柳田の文章では曖昧になっているものの、日本での職業遊女の発祥について西鶴は述べている。
「本朝、遊女のはじまりは、江州(がうしう)の朝妻(あさづま)、播州(ばんしう)の室津(むろつ)より、事起(ことをこ)りて、今國々になりぬ」(井原西鶴「好色一代男・卷五・欲(よく)の世中に是は又・P.136」岩波文庫)
根拠のないものではないと思われる。というのは、中世の「播州(ばんしう)の室津(むろつ)」(旧・兵庫県揖保郡御津〔みつ〕町、現・たつの市)は瀬戸内海海運の要港として栄えたから。また「江州(がうしう)の朝妻(あさづま)」(滋賀県米原市朝妻)も中世の琵琶湖水運の要港として栄えた。そしてまた、男性同性愛の幅広さ・奥深さを示す資料として、松尾芭蕉の連句会で次のやりとりが見られる。
「雨(あま)もやう陽炎(かげろふ)消(きゆ)るばかり也 其角
小姓泣(なき)ゆく葬礼の中 嵐雪」(「芭蕉連句集・貞享四年(一六八七年)・久かたや・P.31」岩波文庫)
ここで登場する「小姓」は影間野郎(カゲマヤロウ、蔭の間に控えている姣童)のこと。つかの間に出現して消える「陽炎(かげろふ)」のように短いあいだ(思春期)を最も美しい盛りとして生きる「姣童・愛童」と掛けた。
BGM
「カラタチバナと申すものはーーーこの田辺より三里ばかりの岡と申す大字の八上(やかみ)王子の森林中に宇井氏見出す。それより栗山昇平氏、一昨年栗栖川の神社合祀で見出す(むろん只今は湮滅)。寛政七、八年ごろカラタチバナ大いに賞翫され、一本の値千金に及べるあり。従来蘭や牡丹の名花は百金に及ぶものあれど百金を出でし例を聞かず、と『北窓瑣談』に見えたり。hortorumの名をつけしも、この栽培品によれるならん。何に致せ、当県では少なきものなり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.407』河出文庫)
八上(やかみ)王子については西行の歌が残されているため或る程度有名かもしれない。
「熊野へまゐりけるに八上(やがみ)の王子の花面白かりければ、社(やしろ)に書きつける
待ち来つる八上の桜咲きにけりあらくおろすなみすの山風」(新潮日本古典集成「山家集・下・春・九八・P.34~35」新潮社)
この「みす」は土地の名である「三栖」(みす)と宮廷の「御簾」(みす)とを掛けた。「あらく」は「風」の縁語で「荒く」でもあるが、しかしそれがなぜ「荒い」のか。王子信仰と関係があると見るのが妥当だろう。イザナギとイザナミとの間に生まれた第一子は「蛭子」(ひるこ)。かつての不具者(かたわもの)、今でいう身体障害児であり、海へ流された。第一王子が「若一王子」(わかいちおうじ)あるいは「若王子」(にゃくおうじ)なのはよく知られているところだが、そのような王子信仰の根源的特徴として、王子は時として荒れ狂う「荒神」(こうじん)と化する。古代王権はそれに関し、不具の嬰児を海に流したという消すに消せない過去の怨霊に違いない、と考えた。古代王権といっても日本の記紀にのみ「蛭子」(ひるこ)流しのエピソードが書かれているだけでなく、広く東南アジア一帯、沖縄や台湾に残る民族創生神話ではほとんどがこの種に属する。イザナギとイザナミとの近親関係がどうであったかはわからない。けれども沖縄や台湾など海流を通して関係があったと考えられる諸地域の民族創生神話には、台風の多い地域特有の共通性が見られる。例えば、大洪水の結果、小さな山が一つだけ残り、ただ兄と妹だけが残され兄妹間の近親性交が行われる。現代医学が証明しているように余りにも近い者同士の近親婚の繰り返しは、何らかの障害を持った子どもの誕生を引き起こす場合が少なくない。古代思想では障害児の出現は不吉な事態の前兆だと見なされた。だから箱に入れて海に流すというエピソードが残る。ちなみに世界の他の地域、例えば山岳地帯ばかりの諸民族創生神話では海がないので海と山とが置き換えられ、昼なお暗い深山幽谷へ捨てられるパターンを取る。いずれにしてもその時の記憶はいつまでも残され、自然災害発生時には王子とともに荒神も同時に鎮魂の対象とされる。このメカニズムについてフロイトは「抑圧」と「排除」との違いを上げて論じている。
「患者の内界に抑圧された感覚が《外界》に投影される、という言い方は正しくない。むしろわれわれは、内界で否定されたものが《外界から》再び戻ってくると考えるべきである」(フロイト「シュレーバー症例」『フロイト著作集9・P.338』人文書院)
一度ならず何度も繰り返し戻ってくる。反復強迫的に繰り返される。だが、抑圧するから強迫的反復が起こるわけではない。逆に、不気味なほど反復するためその度に慌てて抑圧しようとする。けれども抑圧すればするほどますます反復は繰り返される。というのも反復するから抑圧するという方向を描くほかなくなるからである。過去はすでに歴史化されているため、抑圧という一時的対処療法などものともしない。排除された過去は強迫的に何度も反復することでだんだん壮大になる幻覚・妄想の世界へ患者を叩き込まずにおかない。
「この辺に柳田國男氏が本邦風景の特風といえる田中神社あり、勝景絶佳なり。また岩田王子、すなわち重盛が父の不道をなかしみ死を祈りし名社あり。これらの大社七つばかりを、例の一村一社の制に基づき、松本神社とて大字岩田の御役場のじき向いなる小社、もとは炭焼き男の庭中の鎮守祠たりしものを炭焼き男の姓を採りて松本神社と名づけ、それへ合社し、跡のシイノキ林を濫伐して村長、村吏等が私利をとらんと計り、岡大字七十八戸ばかりのうち村長の縁者二戸のほかことごとく不同意なるにも関せず、基本金五百円より追い追い値上げして二千五百円まで積み上げたるを、わざと役場で障(ささ)え止めてその筋へ告げず、五千円まで上りし際村民に迫り絶対(ぜったい)絶命に合社せしめんとするに、その村に盲人あり、このことをかなしみ、小生方へ二、三度言い訴え来る」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.408』河出文庫)
日本中に田中という名の神社は無数にある。田んぼの中にあるからそうなのだろうが、しかしなぜ「田んぼ」なのか。そして同時に「森」も一緒なのか。
「多くの森は何程も平地より高からず候へども平衍(へいえん)なる水田の中に立てる所謂田中の森の如きは、土を置かざれば到底出来まじきことに候。平原地方に所々の小樹林あり。苟(いやし)くも森あれば必ず神あるは日本風景の一特色に之れ有り候。小さき森にありては森ありて社なしとか壇ありて祠を立てずといふこと地誌の記事によく見え申し候」(柳田國男「石神問答・二八・柳田より山中氏へ」『柳田國男全集15・P.149』ちくま文庫)
熊楠は山中に忽然と姿を現わす田中神社のことを述べており、柳田の場合は平地であっても森の中に飄然と出現する田中の森と田園風景について述べている。戦後日本では高度経済成長期を過ぎて一九八〇年代バブルの時期に入ってもなお地方の山地などではごく僅かに残っていた風景である。それほど奥深い山ではない。もはや随分と様変わりしたけれども「小京都」と言われるような地方の町へ行くと、町からやや離れた森の中に整然と区切られた小さな田んぼがただそれだけ深閑と佇んで静寂のうちに居住まいを正していた。どこか幽幻めいて見えもした。そのことを言っているのだろう。「岩田王子」については「平家物語」を引いてすでに述べた。
「其比(そのころ)熊野参詣(クマノサンケイ)の事有けり。本宮(ホングウ)証誠殿(セウジヤウデン)の御前にて、夜もすがら敬白(ケイヒヤク)せられけるは、『親父(シンブ)入道相国の体(テイ)を見るに、悪逆無道(アクギヤクムダウ)にして、ややもすれば君を悩まし奉る。重盛(シゲモリ)長子(チヤウシ)として、頻(シキリ)に諫(イサメ)をいたすといへ共(ども)、身(み)不肖(フセウ)の間、かれもッて服膺(フクヨウ)せず。そのふるまひを見るに、一期(いちご)の栄花(エイグハ)猶(なほ)あやうし。枝葉連続(シヨウレンゾク)して、親(シン)を顕(アラハ)し名(ナ)を揚(ア)げん事かたし。此時に当(アタツ)て、重盛(シゲモリ)いやしうも思へり。なまじひに列(レツ)して、世(ヨ)に浮沈(フチン)せん事、敢(アヘ)て良臣(リヤウシン)・孝子(カウシ)の法(ハウ)にあらず。しかじ名を逃(ノガ)れ身を退(シリゾイ)て、今生(コンジヤウ)の名望(メイバウ)を抛(ナゲス)て、来世の菩提(ボダイ)を求(モト)めんには。但(タダシ)凡夫薄地(ボンプハクヂ)、是非(ゼヒ)にまどへるが故に、猶(なほ)心ざしを恣(ホシイママ)にせず。南無(なむ)権現金剛童子(ゴンゲンゴンガウドウジ)、願(ネガハ)くは子孫繁栄(シソンハンエイ)たえずして、仕(ツカヘ)て朝廷(テウテイ)にまじはるべくは、入道の悪心を和(ヤハラ)げて、天下の安全(アンセン)を得(エ)しめ給へ。栄躍(エイヨウ)又一期(ゴ)をかぎッて、後混恥(コウコンハヂ)に及(ヲヨブ)べくは、重盛(シゲモリ)が運命(ウンメイ)をつづめて、来世の苦輪(クリン)を助(タス)け給へ。両カ(リヤウカ)の求願(ググハン)、ひとへに冥助(メイジヨ)を仰(アヲ)ぐ』と、肝胆(カンタン)を摧(クダイ)て祈念(キネン)せられけるに、灯籠(トウロ)の火のやうなる物の、大臣(おとど)の御身より出(いで)て、ばッと消(キユ)るがごとくして失(ウセ)にけり。人あまた見奉りけれ共(ども)、恐(ヲソ)れて是を申さず」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第三・医師問答・P.169~170」岩波書店)
ここで重要なのは「権現金剛童子(ゴンゲンゴンガウドウジ)」が含まれている点。熊野信仰と金剛童子とは切り離して考えることができない関係にある。金剛石はダイヤモンドのことだが、より一層肝心なのはそれが童子(どうじ)であり修験道においても熊野三山(那智・本宮・新宮)においても護法神として祀られていることに着目することが大事だろうと思われる。さらに「岩田王子」の境界領域性について、岩田川を渡ることは何を意味していたか。
「やうやうさし給ふ程に、日数(ひかず)ふれば岩田(イハダ)河にもかかりたまひけり。『此(この)河の流れを一度もわたる者は、悪業(アクゴウ)・煩悩(ボンナウ)・無始(ムシ)の罪障(ザイシヤウ)消(き)ゆなる物を』とたのもしうぞおぼしける」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・熊野参詣・P.235」岩波書店)
そして問題は「聖・被慈利」(ひじり)へ繋がる。明治政府の国策(神社合祀)によって「その村に盲人あり、このことをかなしみ、小生方へ二、三度言い訴え来る」という非常事態が勃発したからである。「聖・被慈利」(ひじり)について五来重はいう。
「聖はおそらく原始宗教者の『日知(ひし)り』から名づけられたのであろうといわれるが、わたくしは火を管理する(治〔し)る=治ろしめす)という意味で『火治(ひし)り』といってもよいとかんがえている」(五来重「高野聖・一・P.31」角川ソフィア文庫)
熊楠の念頭にあるのはおそらく「日知(ひし)り/火治(ひし)り」と、どちらでもよいが、聖(ひじり)が持つとされた「卜占」の力、言葉の力、である。古代ギリシアで盲目となることと引き換えに預言者の地位を与えられたテイレシアスと同様。古事記では「御火焼(みひたき)の老人(おきな)」が予言者として登場しており、五来重は「火治(ひし)り」が正しいのではと述べている。
「新治(にひばり)筑波(つくは)を過ぎて幾夜(いくよ)か寝(ね)つる しかして、その御火焼(みひたき)の老人(おきな)、御歌(みうた)に続(つ)ぎて、歌ひしく、 かがなべて、夜(よ)には九夜(ここのよ)日には十日(とをか)を」(新潮日本古典集成「古事記・中つ巻・景行天皇・P.165」新潮社)
甲斐から信濃へ出る行程についてヤマトタケルが尋ねた。それに「御火焼(みひたき)の老人(おきな)」が答えるという問答形式を取っているが、ここで「御火焼(みひたき)の老人(おきな)」は明らかに預言者として描かれている。というのは、「御火焼(みひたき)の老人(おきな)」は夜警の篝火(かがりび)を焚いて消えないように守る老人(おきな)のことで、当時はの職業だったため特殊な能力を持つ人々の系列に編入されていたからである。テイレシアスが盲目になったように。さらに預言者としての「火治(ひし)り」の聖性は「老人(おきな)」に与えられる一方、逆に「童子」(どうじ)にも与えられる権利が発生する。記紀が編纂された時期すでに随分と輸入されていた仏教の経典「法華経」にこうある。
「乃至童子戯 聚沙爲佛塔 如是諸人等 皆已成佛道
(書き下し)乃至、童子の戯れに 沙(すな)を聚めて仏塔を為(つく)れる かくの如き諸々(もろもろ)の人等(ら)は 皆、已(すで)に仏道を成(じょう)じたり。
(現代語訳)子どもたちが遊戯の際に、そこここに、小石づくりの塚を作り、仏たちのために供養塔とするとき、これらの人々は、すべて『さとり』に到達するであろう」(「法華経・上・巻第一・方便品・第二・P.114~115」岩波文庫)
そこで童子に見出されるのは「ヨリマシ」の姿である。
「エクスタシーに陥る前の至福感(ユーフォリー)が叙事詩のひとつの源泉となっていることも、充分あり得る。シャーマンはトランス状態に入ろうとする際に、太鼓をたたき、守護の精霊たちを呼び出し、『秘密の言葉』ないし『動物の言葉』をしゃべり、動物の鳴き声、とりわけ鳥たちの歌声をまねる。こうして彼は、言語的創造活動や叙事詩の韻律(リスム)が活性化してくる意識の『第二次状態』を獲得するのである。また、シャーマンや演技がもつドラマ的な性格も忘れてはならない。これは日常生活の世界には匹敵するもののない《スペクタクル》〔見物〕ともなっている。みごとな魔術(火の芸はじめさまざまな『奇蹟』)は、別の世界への幕を開く。そこは神々や魔術師たちの仮想の世界、それでは《すべてが可能》な世界である。そこでは死者たちが蘇り、生者たちが死んで再び蘇る。人が瞬時に消えたり、現われたりできる。『自然法則』は破棄され、超人間的な『自由』がすばらしい形を与えられて、目の前に《現実化》されている。こうした《スペクタクル》が『未開の』共同体にどんな効果を与えているかは、いまや充分にみてとることができよう。シャーマンの行う『奇蹟』は、伝統的宗教の構造を再確認し、強固にするばかりでなく、人々の想像力を刺激し、養って、夢と直接的現実とのあいだの隔壁を取り払い、神々や死者や精霊の住むいろいろな世界へと通ずる窓を開くものなのである」(エリアーデ「世界宗教史5・P.53~54」ちくま学芸文庫)
熊楠はいう。
「ヨリマシということも、わが邦に本来似たことはありしなるべし。しかし、中世以降のは、もっぱら仏法より起れることなり。『大毘盧遮那成仏神変加持経』中巻に、美童を択みてこれに神や魔を降すことあり。延年の舞ということあり。純(もっぱ)ら童子が舞いしと見ゆ。これも仏教より出でしことにて、『不空羂索神変真言教』十一巻に、竜が真言の法力で童子に化せられ、真言者に延年甘露を与うることあり。こんなことより出でしことと存じ候(不空羂索は観世音の一身で、奈良の南円堂に奉祀されあるなり)」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.456』河出文庫)
さて、では「ヨリマシ」と盲目の熊野比丘尼との関係に触れなくてはならない。柳田はいう。
「足利時代にできたという『職人尽歌合』には、熊野比丘尼は俗体で烏帽子(えぼし)・小素襖(こすおう)を着し琵琶(びわ)を抱き、杖の先に雉(きじ)の尾を附けたのを持ち、絵巻を前にひろげている。その歌は、
絵を語り琵琶弾きて経(ふ)る我世(わがよ)こそうき目見えたるめくらなりけれ
とある。熊野比丘尼が熊野の絵と称する地獄六道の画を雉の尾羽で絵解(えとき)をなし勧進してあるいたことは、『骨董集』(こっとうしゅう)その他のありふれた書に見えている」(柳田國男「巫女考・神子の夫、修験の妻」『柳田國男全集11・P.395~396』ちくま文庫)
さらに柳田から引くが、後世の熊野比丘尼は「美目(びもく)盼(へん)たる者であった」とある。今でいう「眉目秀麗」(びもくしゅうれい)とはやや意味が異なる。柳田がいうのは「眉目」(びもく)ではなく「美目」(びもく)。次のような意味で用いられる。
「子夏(しか)問いて曰(いわ)く、巧笑(こうしょう)倩(せん)たり、美目(びもく)盼(はん)たり、素(そ)以て絢(あや)となす、何の謂(いい)ぞや。子曰わく、絵(え)の事は素(しろ)きを後にす。曰わく、礼は後なるか。子曰わく、予(われ)を起こすものは商なり。始めて与(とも)に詩を言うべし。
(現代語訳)子夏がたずねた。『えくぼあらわに、えもいえぬ口もと、白目にくっきりの漆黒(しっこく)のひとみ、白さにひきたつ彩(いろど)りの文(あや)という詩は、いったい何を意味しているのでしょうか』先生がいわれた。『絵をかくとき、胡粉(ごふん)をあとで入れるということだ』子夏がすかさずいった。『礼が最後の段階だという意味ですか』先生がいわれた。『よくも私の意のあるところを発展させたね、子夏よ。これでおまえと詩を談ずることができるというものだ』」(「論語・第二巻・第三・八佾篇・八・P.64~65」中公文庫)
ちなみに孔子が子夏を「詩のわかる弟子」として褒めたことが或る問題を引き起こした。子夏には子夏派というべき弟子たちがいる。子夏派の弟子らにしてみれば自分たちの師があろうことか天下に名高き聖人・孔子から詩の理解者として褒められたため、子夏派に属する人々は孔子の他の弟子とは違ってみんな孔子から認められた詩の第一人者だと自負して他の弟子らを侮るという派閥闘争を引き起こすことになった。ニーチェのいう「原因と結果との取り違え」が起きたわけだ。
ところで、熊野比丘尼が生活資金確保のため歌を歌って金を稼ぐ歌比丘尼となり中には遊女を束ねる売春宿の経営者になる者も出てきた。しかし尼(あま)と違って、そもそも比丘尼(びくに)が夫を持つことは何ら違犯でも何でもない。
「後世の熊野比丘尼はいわゆる美目(びもく)盼(へん)たる者であった。しかしこの徒が口寄せの業務から次第に遠ざかったのは、眼の明盲とはまったく無関係であるらしく、やはり髪を剃り頭巾(ずきん)などを被(かぶ)ったことが、自然に託宣の値打ちを減じたためかと思う。京の縄手通三条下ル猿寺という寺で、尼が幣を持って託宣をした近世の例は、『兎園(とえん)小説拾遺』に見えているが、ほかにはあまり聞かない。比丘尼と称しつつ舞を舞ったことは、古くは『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)にも記事があれど、これも頭を丸めては似合わなかったとみえて、後はただ簓(ささら)を扣(たた)いて流行歌(はやりうた)などを歌った。ゆえにこの徒が札配りや勧進の外に逸出して変な一種の職業に従事したのも、間接には剃髪強制の結果ではないかと思う。『人倫訓蒙図彙』(じんりんきんもうずい)に曰く、歌比丘尼は元は清浄の立派にて、熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣を略し歯を磨き、頭を仔細に包みて小歌を便にして売るなり。巧齢過ぎたるを御寮と号し、夫に山伏を持ち女童(めのわらわ)の弟子あまたとりしたつるなり。この者都鄙(とひ)にあり都は建仁寺町薬師の図子(ずし)に侍(はべ)る云々とあり。名古屋九十軒町に住する熊野比丘尼は、元祖は慶長三年に伊勢の山田から来た。簓を摺(す)りうたう遊興を勧めたと『尾張志』に見えている。『和訓栞』には何に拠ったものか、歌比丘尼の郷里は紀州の那智で、山伏を夫としつつ一方には遊女に同じき生活をする。その歳悔(さいく)を受けて一山富めりとあり。『東海道名所記』の沼津の条には、歌比丘尼の由来を詳しく述べてその退化を説き、今の比丘尼は熊野・伊勢には詣れども行もせず、戒を破り絵解をも知らず、歌を肝要とするのは嘆かわしいと、すごぶる彼等が不道徳を責めている。しかし比丘尼が色を売るのはともかくも、男のあるということまでは決して違犯ではない。比丘尼は単に彼等の名称であって実質ではなかった。これを仏法の尼と同視してその生活の自由なるに驚くのは驚く人が無理だ。東京では商家の丁稚(でっち)の髪をいつまでも剃りこかしておいて、形が似ているからこれを小僧と呼んだ。今もし小僧はすなわち僧だからとの理由で魚を食わせなかったら彼等はどんなに嘆くか分らぬ。それとまったく同じき不道理である」(柳田國男「巫女考・神子の夫、修験の妻」『柳田國男全集11・P.396~397』ちくま文庫)
それでもなお巫童・巫女が時おりヨリマシとしての待遇を受ける風習は江戸時代二五〇年一杯を通して長く残された遺産である。
「寄(よ)り人(びと)は今ぞ寄(よ)り来(く)る長浜(ながはま)の、蘆毛(あしげ)の駒に、手綱(たづな)揺(ゆ)りかけ」(新日本古典文学体系「葵上」『謡曲百番・P.150』岩波書店)
なお、ヨリマシ、ヨリシロ、と呼び名の混同は見られるものの、美童・巫女が神の仲介者として扱われたことは、古代から考えれば大きな意味の変動が見られる。神を直接的に畏怖するのでなく、神と人間との仲介者として存在した点に美童・巫女の特権性があったことを忘れてはならない。なおかつ熊楠はそこに「盲人あり」と加えないわけにはいかなかったのである。
さらに柳田の文章では曖昧になっているものの、日本での職業遊女の発祥について西鶴は述べている。
「本朝、遊女のはじまりは、江州(がうしう)の朝妻(あさづま)、播州(ばんしう)の室津(むろつ)より、事起(ことをこ)りて、今國々になりぬ」(井原西鶴「好色一代男・卷五・欲(よく)の世中に是は又・P.136」岩波文庫)
根拠のないものではないと思われる。というのは、中世の「播州(ばんしう)の室津(むろつ)」(旧・兵庫県揖保郡御津〔みつ〕町、現・たつの市)は瀬戸内海海運の要港として栄えたから。また「江州(がうしう)の朝妻(あさづま)」(滋賀県米原市朝妻)も中世の琵琶湖水運の要港として栄えた。そしてまた、男性同性愛の幅広さ・奥深さを示す資料として、松尾芭蕉の連句会で次のやりとりが見られる。
「雨(あま)もやう陽炎(かげろふ)消(きゆ)るばかり也 其角
小姓泣(なき)ゆく葬礼の中 嵐雪」(「芭蕉連句集・貞享四年(一六八七年)・久かたや・P.31」岩波文庫)
ここで登場する「小姓」は影間野郎(カゲマヤロウ、蔭の間に控えている姣童)のこと。つかの間に出現して消える「陽炎(かげろふ)」のように短いあいだ(思春期)を最も美しい盛りとして生きる「姣童・愛童」と掛けた。
BGM