兄の妻の罠にはまった義妹はまんまと殺害される。大声で訴えかけるがもう遅い。兄の妻は生死を賭けた闘いを闘っているのであり、それが理解できない状態に置かれた義妹は自分の意志とはまったく無関係に殺害されてしまう。義妹には何の落ち度もない。ただ、それまでは一人だった「妻」が、夫はそれぞれの妻にとって別人であっても、むしろ別人ゆえに二人の「妻」が出現したため、いったい「妻」とは誰のことをいうのかという問いをもたらした点。そのことでありもしない三角関係を出現させて生死を賭けた闘争を演じさせ、普遍的な「妻」は誰なのかを一方の死に至るまで競わせる点。一方的な妄想として考えられる場合はなるほど多い。けれども必ずしも一方的な妄想として片付けることのできないような事例もまた多いのである。差し当たり言語の両義性から目を逸らすことはできない。言語は今なおパルマコン(医薬/毒薬)という両義的なものだということを忘れないことが大事だろう。また「貨幣、言語、性」の織りなす諸問題の系列だが、この問いは古代ギリシア時代から延々と何度も繰り返し問われてきたし今なお問われている。決定打となったのは貨幣においてマルクス、言語においてニーチェ、性においてフロイトである。以後、高度テクノロジーの加速化に伴い様々な見地からの臨床研究も加速している。にもかかわらず、そして多くの人々が最先端の端末機器を持つようになってからますます、よりいっそう安易な方法で、見た目に残忍な連続殺人や執念深いいじめ、偏狭な差別殺人、大小様々でとことん執拗な殺意が同時多発的に発生するようになったのはなぜか。フロイトのいうエス、ニーチェのいう「本然のおのれ」(=エス)について、それはいったい何を指し示しているのか。どこかないがしろにされているように思えてならない。とりわけ、ニーチェのいう「本然のおのれ」(=エス)とは何か。
「肉体はひとつの大きい理性である。《一つ》の意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である。
君はおのれを『我』と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる理性なのだ。それは『我』を唱えはしない。『我』を行なうのである。
感覚と精神は、道具であり、玩具なのだ。それらの背後になお『本来のおのれ』がある。この『本然のおのれ』は、感覚の目をもってたずねる、精神の耳をもって聞くのである。こうして、この『本来のおのれ』は常に聞き、かつ、たずねている。それは比較し、制圧し、占領し、破壊する。それは支配する、そして『我』の支配者でもある。
わたしの兄弟よ、君の思想と感受の背後に、一個の強力な支配者、知られない賢者がいるのだ、ーーーその名が『本来のおのれ』である。君の肉体のなかに、かれが住んでいる。君の肉体がかれである。
君の肉体のなかには、君の最善の知恵のなかにあるよりも、より多くの理性がある。ーーー肉体の軽侮者たちに、わたしはひとこと述べよう。かれらが軽侮しているということは、かれらの敬意がさせているのである。では、敬意と軽侮、価値と意志を創造したものは、何か。創造する『本然のおのれ』が、みずからのために敬意と軽侮を創造したのだ。みずからのために快楽と苦痛を創造したのだ。創造する肉体が、おのれの意志の道具として、精神をみずからのために創造したのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・肉体の軽侮者・P.50~51」中公文庫)
ちなみにフレイザーは「金枝篇」の中でアニミズムについて多く語っている。他方、世間では一般的にアニミズム的思考は近代以降、克服されたと考えられてきた。しかしフレイザーが言っていることは逆であって、人間社会が近代化すればするほどアニミズムは姿形を置き換えて、どこまでも現代社会との融合を果たしていくということ。むしろ高度テクノロジーを用いて先史時代のアニミズムを現代社会に拡散させるに違いないということだ。そこでは必然的に洗練された残忍性がもはや限度を知らずどこまでも残忍に振る舞うということが当たり前に起こってくる。実際に起こってきた。ニーチェのいう「本然のおのれ」(=エス)は古代アニミズムの領域だけでなく現代社会の高度テクノロジーを用いて、あえてアニミズムを再現させずにはおかない人間の残忍性について、まだもっと無限の予言に満ちているように思えるのである。例えば、なぜ銃器ではなく包丁なのか。なぜピストルではなく鋸(のこぎり)やリンチなのか。なぜ眼球をえぐり出してみたり性器を破壊したりなのか。社会の高度化とともになぜアニミズムも徹底性を深めるのか。その一例がすでに見られる。妻が用いた義妹の殺害方法。「燃える松明(たいまつ)を股の間に突っ込」んで殺害する。
「妹は事の真相を叫びつづけ、情婦とみなして怒り狂うのはまったく根拠のないことだと訴え、しきりに証人としての兄の名前を叫びあげました。それも甲斐(かい)なく、女は妹のことばをみんな嘘で人をだます作りごとときめつけ、燃える松明(たいまつ)を股の間に突っ込み、残酷に殺してしましました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.416」岩波文庫)
アープレーイユスが生きていた時代。ほぼ二〇〇〇年前の殺害方法として描かれている「燃える松明(たいまつ)を股の間に突っ込み、残酷に殺」すという方法。ひるがえってスマートホン全盛期の現在、なぜ殺害方法のメインは今なおこの種の方法に集中するのだろうか。
死刑囚になる前の妻は第一の殺害に成功した。事情をよく飲み込めない妻の夫。見た目の惨劇の余りの酷さに精神不安定状態に陥る。妻は夫の気分を落ち着かせるためと偽ってさっそく或る医師の家へ向かう。
「彼女はこの男に即効性のある毒薬を売ってくれれば、たちどころに五十万セーステルティウスを出すと約束しました。この金額で彼女は夫の死を買おうとしたのです」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.416」岩波文庫)
ここで「即効性のある毒薬」=「五十万セーステルティウス」という等価性が約束されている。この種の約束は貨幣を媒介させ具体的な価格を提示することで始めて成立する。しかし逆に貨幣を介さないで成立する鉄の団結というものもある。南方熊楠のいう「男道」、男性同性愛者同志のあいだで成立する「友愛あるいは友道」というものだ。ごく僅かながら「史記列伝」から伍子胥について触れている。金銭の問題ではないからだ。伍員(ごうん)は伍子胥(ごししょ)のこと。伍子胥(ごししょ)と申包胥(しんほうしょ)の二人はたいへん親しい間柄であり、男色関係を持っていたかどうかはよくわからないが、男道的友愛の体現者である。だが一方の伍子胥(ごししょ)の側は父と兄を殺した楚の平王を許すことはできないため、各地を亡命して、時には物乞いともなりさまよい歩くことになる。亡命するに当たって伍子胥(ごししょ)と申包胥(しんほうしょ)は別れの言葉を述べ合う。
「以前に伍員(ごうん)と申包胥(しんほうしょ)はしたしい友であった。伍員が亡命するとき、申包胥に『おれはきっと楚をひっくりかえしてやる』と語ったが、包胥は『おれはきっと国をつづかせてみせる』と言ったことがあった。いよいよ呉の軍隊が郢(えい)に入城したとき、伍子胥は昭王のありかをさがしたが、見つからなかった。そこで楚の平王の墓をあばき、死骸を掘り出し、三百ぺん鞭で打つまでやめなかった」(「伍子胥列伝 第六」『史記列伝1・P.64~65』岩波文庫)
伍子胥(ごししょ)は誠実かつ慎重な思考回路を持ち相手方の謀略を見抜く熟慮の人である。だからしばしば国王を直接諫めたりする。誠実な臣下であっても王に向かって直接諫めごとを述べる態度は、王にしてみれば気分のよいものではない。それをいいことに媚びを売るのが巧みな「へつらい者」が多数、王の周囲を固め始める。伍子胥はそのような亡国への過程を見るに耐えられない。自害を選ぶ。
「伍子胥は天をあおいで大息をつき、『さてもさても。讒臣(ざんしん)嚭(ひ)が乱をなしおったのを、王さまは、あべこべにわしを殺されるとは、わしはきさまの父に覇業を成させた。きさまが王にならぬまえ、公子たちが位を争った。わしは命にかえて先王さまをいさめたが、とても立てられぬところであった。きさまが位についたあと、呉の国を分けてやろうと言ったが、わしはそれを望もうともしなかった。それが今はへつらい者の言葉を信じ、善意の者を殺すのか』と言い、それからけらいに言いつけた、『わしの墓には、梓(あずさ)の木を必ずうえろ。〔木が大きくなったら、呉王の〕棺桶にできるだろう。そしてわしの目だまをえぐり出して、呉の都の東門の上におけ。越(えつ)の敵がはいって呉を滅ぼすのをながめるのだ』。こうして自ら首をはねて死んだ」(「伍子胥列伝 第六」『史記列伝1・P.69』岩波文庫)
熊楠は女性と結婚し子どもをもうけていて、特に同性愛を重んじるというわけでもなく、重んじないというわけでもない。関心を覚えたことはたいそう突き詰めて研究するタイプなのでいつの間にかその道の権威の一人になっていたということが一つ。もう一つはよりいっそう重要な点であり、どういうことかというと、男性同性愛といっても女性器の代わりに稚児を連れてきて代用するのは論外であり、男と男、女と女、あるいは両性具有という性の多様なあり方、肉体関係のあるなしに関わらない同性愛や両性愛あるいは無性愛における友愛・友道というものに大変関心が深かった。だが数千年にわたって続いた男尊女卑の思想は世界中で猛威を振るい続けたため、手に入る歴史的資料は女性に関するものより男性関係のものが圧倒的に多い。
「陶全姜、三好実休、これらは君を弑し、君夫人を辱しめた悖乱(はいらん)の徒なり。それすら二人討死の時、近臣小姓われもわれもと折り重なって戦死したること、テベスの常勝軍のごとし。弑逆の大罪なるは論ずるを俟たねど今の所論にあらず、かくまで臣僚の心を収攬した二人の、彼らに厚かったところは買ってやらねばならぬと思う」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.347~348』河出文庫)
陶全姜(すえぜんぎょう)は一五五一年(天文二十年)長門の「大寧寺の変」で有名。陶晴賢(すえはるたか)と名乗っていたが、当主大内義隆を自害に追い込み義隆の子・義尊ならびに観寿丸を殺害して実質的に大内氏を壊滅させたあと、陶全姜(すえぜんぎょう)と改名。だが傀儡政権を立てたため諸方の大名から弱体化を見抜かれあちこちから攻め込まれ長くは続かなかった。しかし全姜最後の戦闘のとき大量の臣下や小姓ら男性ばかりが壮烈な戦死を遂げているため、同性同士の友愛に人一倍厚かったという伝説を残すに至った。大内義隆に寵愛された陶晴賢がなぜ謀反を起こしたか。諸説あるものの、伍子胥の場合と同じで、あまり有能とはいえない、むしろ無能というに等しい主君がだんだん堕落していく姿を見るに忍びなかったのかも知れない。義隆に寵愛されてきただけになおさらその倫落していく様子が許せず無念のあまり自害に追い込むほかなかったのだろう。ちなみに大内義尊・観寿丸の殺害は大寧寺境内ではなく同じ長門ではあるものの摩羅観音(まらかんのん)の奥で行われた。男性器そっくりの顔でお馴染みのあの観音が本尊。建物の周囲には幾つもの男性器像が林立していることでも有名。今では男性同性愛者だけでなく異性愛者で性生活の充実を願う人々が夫婦円満の祈願に訪れる。さらに精力絶倫滋養強壮を祈願する人々にも広く知られるようになった。
三好実休(みよしじっきゅう)。一五五三年(天文二十二年)阿波細川家の当主細川持隆を阿波の見性寺で自害させた。この場合も謀反なので内乱状態に陥っている隙に諸国連合によって倒れる。陶全姜(すえぜんぎょう)のケースと同じくその死に伴って多くの近臣や小姓ら男性同志が続々討死した。なお実休が持隆の夫人を強姦したという件について、今では当時の記録の誤りであることが判明している。むしろ熊楠が言いたいことは自分の「臣僚の心を収攬した」という点。相手が部下であるがゆえにこそ、とても面倒見がよく友道・友愛をもって厳しく厚く接した。茶人でもある。
「豊州(豊前守)三好実休は、名物の子茄子・三ケ月を初めて、其の外、五十種程名物所持す。実休、阿波・河内両国の主也。右之外、名物所持の人も数寄者も、京・堺に数多おれ在り。実休は、武士にて数寄者也」(「山上宗二記」『日本の茶書1・P.249』東洋文庫)
「山上宗二記」に尊敬すべき茶人として何人か列挙されている項目がある。そして武士であるとともに数寄者でもあるとして上げられているのは三好実休ただ一人。三好長慶の弟で剃髪してから物外軒実休と号した。茶の湯の師匠は武野紹鴎。だから最も初期の茶人ということになる。三日月という茶壺を所持していたことがあった。その後、三日月は織田信長の手に渡って本能寺の変で焼失する。しかし異説もあり、安土城から本能寺へ搬入された茶道具の中に三日月は入っていなかったという記録である。信長の右筆(ゆうひつ)楠長諳(くすのきちょうあん)が九州の茶人・島井宗室(しまいそうしつ)に与えた「御茶湯道具目録」の追記にそう記されているらしい。また山上宗二自身には熊楠と似たような奇人変人的気質が見られる。千宗易(利休)の弟子。なのだが、豊臣秀吉のことをあしざまに罵り、解任追放される。その後いったん助命されたものの、早雲寺の茶会で再び秀吉批判したところ、秀吉の命令により耳と鼻を削ぎ落とされ処刑された。千宗易(利休)自害より一年ほど早い。
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「肉体はひとつの大きい理性である。《一つ》の意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である。
君はおのれを『我』と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる理性なのだ。それは『我』を唱えはしない。『我』を行なうのである。
感覚と精神は、道具であり、玩具なのだ。それらの背後になお『本来のおのれ』がある。この『本然のおのれ』は、感覚の目をもってたずねる、精神の耳をもって聞くのである。こうして、この『本来のおのれ』は常に聞き、かつ、たずねている。それは比較し、制圧し、占領し、破壊する。それは支配する、そして『我』の支配者でもある。
わたしの兄弟よ、君の思想と感受の背後に、一個の強力な支配者、知られない賢者がいるのだ、ーーーその名が『本来のおのれ』である。君の肉体のなかに、かれが住んでいる。君の肉体がかれである。
君の肉体のなかには、君の最善の知恵のなかにあるよりも、より多くの理性がある。ーーー肉体の軽侮者たちに、わたしはひとこと述べよう。かれらが軽侮しているということは、かれらの敬意がさせているのである。では、敬意と軽侮、価値と意志を創造したものは、何か。創造する『本然のおのれ』が、みずからのために敬意と軽侮を創造したのだ。みずからのために快楽と苦痛を創造したのだ。創造する肉体が、おのれの意志の道具として、精神をみずからのために創造したのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・肉体の軽侮者・P.50~51」中公文庫)
ちなみにフレイザーは「金枝篇」の中でアニミズムについて多く語っている。他方、世間では一般的にアニミズム的思考は近代以降、克服されたと考えられてきた。しかしフレイザーが言っていることは逆であって、人間社会が近代化すればするほどアニミズムは姿形を置き換えて、どこまでも現代社会との融合を果たしていくということ。むしろ高度テクノロジーを用いて先史時代のアニミズムを現代社会に拡散させるに違いないということだ。そこでは必然的に洗練された残忍性がもはや限度を知らずどこまでも残忍に振る舞うということが当たり前に起こってくる。実際に起こってきた。ニーチェのいう「本然のおのれ」(=エス)は古代アニミズムの領域だけでなく現代社会の高度テクノロジーを用いて、あえてアニミズムを再現させずにはおかない人間の残忍性について、まだもっと無限の予言に満ちているように思えるのである。例えば、なぜ銃器ではなく包丁なのか。なぜピストルではなく鋸(のこぎり)やリンチなのか。なぜ眼球をえぐり出してみたり性器を破壊したりなのか。社会の高度化とともになぜアニミズムも徹底性を深めるのか。その一例がすでに見られる。妻が用いた義妹の殺害方法。「燃える松明(たいまつ)を股の間に突っ込」んで殺害する。
「妹は事の真相を叫びつづけ、情婦とみなして怒り狂うのはまったく根拠のないことだと訴え、しきりに証人としての兄の名前を叫びあげました。それも甲斐(かい)なく、女は妹のことばをみんな嘘で人をだます作りごとときめつけ、燃える松明(たいまつ)を股の間に突っ込み、残酷に殺してしましました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.416」岩波文庫)
アープレーイユスが生きていた時代。ほぼ二〇〇〇年前の殺害方法として描かれている「燃える松明(たいまつ)を股の間に突っ込み、残酷に殺」すという方法。ひるがえってスマートホン全盛期の現在、なぜ殺害方法のメインは今なおこの種の方法に集中するのだろうか。
死刑囚になる前の妻は第一の殺害に成功した。事情をよく飲み込めない妻の夫。見た目の惨劇の余りの酷さに精神不安定状態に陥る。妻は夫の気分を落ち着かせるためと偽ってさっそく或る医師の家へ向かう。
「彼女はこの男に即効性のある毒薬を売ってくれれば、たちどころに五十万セーステルティウスを出すと約束しました。この金額で彼女は夫の死を買おうとしたのです」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.416」岩波文庫)
ここで「即効性のある毒薬」=「五十万セーステルティウス」という等価性が約束されている。この種の約束は貨幣を媒介させ具体的な価格を提示することで始めて成立する。しかし逆に貨幣を介さないで成立する鉄の団結というものもある。南方熊楠のいう「男道」、男性同性愛者同志のあいだで成立する「友愛あるいは友道」というものだ。ごく僅かながら「史記列伝」から伍子胥について触れている。金銭の問題ではないからだ。伍員(ごうん)は伍子胥(ごししょ)のこと。伍子胥(ごししょ)と申包胥(しんほうしょ)の二人はたいへん親しい間柄であり、男色関係を持っていたかどうかはよくわからないが、男道的友愛の体現者である。だが一方の伍子胥(ごししょ)の側は父と兄を殺した楚の平王を許すことはできないため、各地を亡命して、時には物乞いともなりさまよい歩くことになる。亡命するに当たって伍子胥(ごししょ)と申包胥(しんほうしょ)は別れの言葉を述べ合う。
「以前に伍員(ごうん)と申包胥(しんほうしょ)はしたしい友であった。伍員が亡命するとき、申包胥に『おれはきっと楚をひっくりかえしてやる』と語ったが、包胥は『おれはきっと国をつづかせてみせる』と言ったことがあった。いよいよ呉の軍隊が郢(えい)に入城したとき、伍子胥は昭王のありかをさがしたが、見つからなかった。そこで楚の平王の墓をあばき、死骸を掘り出し、三百ぺん鞭で打つまでやめなかった」(「伍子胥列伝 第六」『史記列伝1・P.64~65』岩波文庫)
伍子胥(ごししょ)は誠実かつ慎重な思考回路を持ち相手方の謀略を見抜く熟慮の人である。だからしばしば国王を直接諫めたりする。誠実な臣下であっても王に向かって直接諫めごとを述べる態度は、王にしてみれば気分のよいものではない。それをいいことに媚びを売るのが巧みな「へつらい者」が多数、王の周囲を固め始める。伍子胥はそのような亡国への過程を見るに耐えられない。自害を選ぶ。
「伍子胥は天をあおいで大息をつき、『さてもさても。讒臣(ざんしん)嚭(ひ)が乱をなしおったのを、王さまは、あべこべにわしを殺されるとは、わしはきさまの父に覇業を成させた。きさまが王にならぬまえ、公子たちが位を争った。わしは命にかえて先王さまをいさめたが、とても立てられぬところであった。きさまが位についたあと、呉の国を分けてやろうと言ったが、わしはそれを望もうともしなかった。それが今はへつらい者の言葉を信じ、善意の者を殺すのか』と言い、それからけらいに言いつけた、『わしの墓には、梓(あずさ)の木を必ずうえろ。〔木が大きくなったら、呉王の〕棺桶にできるだろう。そしてわしの目だまをえぐり出して、呉の都の東門の上におけ。越(えつ)の敵がはいって呉を滅ぼすのをながめるのだ』。こうして自ら首をはねて死んだ」(「伍子胥列伝 第六」『史記列伝1・P.69』岩波文庫)
熊楠は女性と結婚し子どもをもうけていて、特に同性愛を重んじるというわけでもなく、重んじないというわけでもない。関心を覚えたことはたいそう突き詰めて研究するタイプなのでいつの間にかその道の権威の一人になっていたということが一つ。もう一つはよりいっそう重要な点であり、どういうことかというと、男性同性愛といっても女性器の代わりに稚児を連れてきて代用するのは論外であり、男と男、女と女、あるいは両性具有という性の多様なあり方、肉体関係のあるなしに関わらない同性愛や両性愛あるいは無性愛における友愛・友道というものに大変関心が深かった。だが数千年にわたって続いた男尊女卑の思想は世界中で猛威を振るい続けたため、手に入る歴史的資料は女性に関するものより男性関係のものが圧倒的に多い。
「陶全姜、三好実休、これらは君を弑し、君夫人を辱しめた悖乱(はいらん)の徒なり。それすら二人討死の時、近臣小姓われもわれもと折り重なって戦死したること、テベスの常勝軍のごとし。弑逆の大罪なるは論ずるを俟たねど今の所論にあらず、かくまで臣僚の心を収攬した二人の、彼らに厚かったところは買ってやらねばならぬと思う」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.347~348』河出文庫)
陶全姜(すえぜんぎょう)は一五五一年(天文二十年)長門の「大寧寺の変」で有名。陶晴賢(すえはるたか)と名乗っていたが、当主大内義隆を自害に追い込み義隆の子・義尊ならびに観寿丸を殺害して実質的に大内氏を壊滅させたあと、陶全姜(すえぜんぎょう)と改名。だが傀儡政権を立てたため諸方の大名から弱体化を見抜かれあちこちから攻め込まれ長くは続かなかった。しかし全姜最後の戦闘のとき大量の臣下や小姓ら男性ばかりが壮烈な戦死を遂げているため、同性同士の友愛に人一倍厚かったという伝説を残すに至った。大内義隆に寵愛された陶晴賢がなぜ謀反を起こしたか。諸説あるものの、伍子胥の場合と同じで、あまり有能とはいえない、むしろ無能というに等しい主君がだんだん堕落していく姿を見るに忍びなかったのかも知れない。義隆に寵愛されてきただけになおさらその倫落していく様子が許せず無念のあまり自害に追い込むほかなかったのだろう。ちなみに大内義尊・観寿丸の殺害は大寧寺境内ではなく同じ長門ではあるものの摩羅観音(まらかんのん)の奥で行われた。男性器そっくりの顔でお馴染みのあの観音が本尊。建物の周囲には幾つもの男性器像が林立していることでも有名。今では男性同性愛者だけでなく異性愛者で性生活の充実を願う人々が夫婦円満の祈願に訪れる。さらに精力絶倫滋養強壮を祈願する人々にも広く知られるようになった。
三好実休(みよしじっきゅう)。一五五三年(天文二十二年)阿波細川家の当主細川持隆を阿波の見性寺で自害させた。この場合も謀反なので内乱状態に陥っている隙に諸国連合によって倒れる。陶全姜(すえぜんぎょう)のケースと同じくその死に伴って多くの近臣や小姓ら男性同志が続々討死した。なお実休が持隆の夫人を強姦したという件について、今では当時の記録の誤りであることが判明している。むしろ熊楠が言いたいことは自分の「臣僚の心を収攬した」という点。相手が部下であるがゆえにこそ、とても面倒見がよく友道・友愛をもって厳しく厚く接した。茶人でもある。
「豊州(豊前守)三好実休は、名物の子茄子・三ケ月を初めて、其の外、五十種程名物所持す。実休、阿波・河内両国の主也。右之外、名物所持の人も数寄者も、京・堺に数多おれ在り。実休は、武士にて数寄者也」(「山上宗二記」『日本の茶書1・P.249』東洋文庫)
「山上宗二記」に尊敬すべき茶人として何人か列挙されている項目がある。そして武士であるとともに数寄者でもあるとして上げられているのは三好実休ただ一人。三好長慶の弟で剃髪してから物外軒実休と号した。茶の湯の師匠は武野紹鴎。だから最も初期の茶人ということになる。三日月という茶壺を所持していたことがあった。その後、三日月は織田信長の手に渡って本能寺の変で焼失する。しかし異説もあり、安土城から本能寺へ搬入された茶道具の中に三日月は入っていなかったという記録である。信長の右筆(ゆうひつ)楠長諳(くすのきちょうあん)が九州の茶人・島井宗室(しまいそうしつ)に与えた「御茶湯道具目録」の追記にそう記されているらしい。また山上宗二自身には熊楠と似たような奇人変人的気質が見られる。千宗易(利休)の弟子。なのだが、豊臣秀吉のことをあしざまに罵り、解任追放される。その後いったん助命されたものの、早雲寺の茶会で再び秀吉批判したところ、秀吉の命令により耳と鼻を削ぎ落とされ処刑された。千宗易(利休)自害より一年ほど早い。
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