白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

仮面等価性20・アニミズム的現代殺人事情/友道友愛の政治学

2020年09月02日 | 日記・エッセイ・コラム
兄の妻の罠にはまった義妹はまんまと殺害される。大声で訴えかけるがもう遅い。兄の妻は生死を賭けた闘いを闘っているのであり、それが理解できない状態に置かれた義妹は自分の意志とはまったく無関係に殺害されてしまう。義妹には何の落ち度もない。ただ、それまでは一人だった「妻」が、夫はそれぞれの妻にとって別人であっても、むしろ別人ゆえに二人の「妻」が出現したため、いったい「妻」とは誰のことをいうのかという問いをもたらした点。そのことでありもしない三角関係を出現させて生死を賭けた闘争を演じさせ、普遍的な「妻」は誰なのかを一方の死に至るまで競わせる点。一方的な妄想として考えられる場合はなるほど多い。けれども必ずしも一方的な妄想として片付けることのできないような事例もまた多いのである。差し当たり言語の両義性から目を逸らすことはできない。言語は今なおパルマコン(医薬/毒薬)という両義的なものだということを忘れないことが大事だろう。また「貨幣、言語、性」の織りなす諸問題の系列だが、この問いは古代ギリシア時代から延々と何度も繰り返し問われてきたし今なお問われている。決定打となったのは貨幣においてマルクス、言語においてニーチェ、性においてフロイトである。以後、高度テクノロジーの加速化に伴い様々な見地からの臨床研究も加速している。にもかかわらず、そして多くの人々が最先端の端末機器を持つようになってからますます、よりいっそう安易な方法で、見た目に残忍な連続殺人や執念深いいじめ、偏狭な差別殺人、大小様々でとことん執拗な殺意が同時多発的に発生するようになったのはなぜか。フロイトのいうエス、ニーチェのいう「本然のおのれ」(=エス)について、それはいったい何を指し示しているのか。どこかないがしろにされているように思えてならない。とりわけ、ニーチェのいう「本然のおのれ」(=エス)とは何か。

「肉体はひとつの大きい理性である。《一つ》の意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である。

君はおのれを『我』と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる理性なのだ。それは『我』を唱えはしない。『我』を行なうのである。

感覚と精神は、道具であり、玩具なのだ。それらの背後になお『本来のおのれ』がある。この『本然のおのれ』は、感覚の目をもってたずねる、精神の耳をもって聞くのである。こうして、この『本来のおのれ』は常に聞き、かつ、たずねている。それは比較し、制圧し、占領し、破壊する。それは支配する、そして『我』の支配者でもある。

わたしの兄弟よ、君の思想と感受の背後に、一個の強力な支配者、知られない賢者がいるのだ、ーーーその名が『本来のおのれ』である。君の肉体のなかに、かれが住んでいる。君の肉体がかれである。

君の肉体のなかには、君の最善の知恵のなかにあるよりも、より多くの理性がある。ーーー肉体の軽侮者たちに、わたしはひとこと述べよう。かれらが軽侮しているということは、かれらの敬意がさせているのである。では、敬意と軽侮、価値と意志を創造したものは、何か。創造する『本然のおのれ』が、みずからのために敬意と軽侮を創造したのだ。みずからのために快楽と苦痛を創造したのだ。創造する肉体が、おのれの意志の道具として、精神をみずからのために創造したのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・肉体の軽侮者・P.50~51」中公文庫)

ちなみにフレイザーは「金枝篇」の中でアニミズムについて多く語っている。他方、世間では一般的にアニミズム的思考は近代以降、克服されたと考えられてきた。しかしフレイザーが言っていることは逆であって、人間社会が近代化すればするほどアニミズムは姿形を置き換えて、どこまでも現代社会との融合を果たしていくということ。むしろ高度テクノロジーを用いて先史時代のアニミズムを現代社会に拡散させるに違いないということだ。そこでは必然的に洗練された残忍性がもはや限度を知らずどこまでも残忍に振る舞うということが当たり前に起こってくる。実際に起こってきた。ニーチェのいう「本然のおのれ」(=エス)は古代アニミズムの領域だけでなく現代社会の高度テクノロジーを用いて、あえてアニミズムを再現させずにはおかない人間の残忍性について、まだもっと無限の予言に満ちているように思えるのである。例えば、なぜ銃器ではなく包丁なのか。なぜピストルではなく鋸(のこぎり)やリンチなのか。なぜ眼球をえぐり出してみたり性器を破壊したりなのか。社会の高度化とともになぜアニミズムも徹底性を深めるのか。その一例がすでに見られる。妻が用いた義妹の殺害方法。「燃える松明(たいまつ)を股の間に突っ込」んで殺害する。

「妹は事の真相を叫びつづけ、情婦とみなして怒り狂うのはまったく根拠のないことだと訴え、しきりに証人としての兄の名前を叫びあげました。それも甲斐(かい)なく、女は妹のことばをみんな嘘で人をだます作りごとときめつけ、燃える松明(たいまつ)を股の間に突っ込み、残酷に殺してしましました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.416」岩波文庫)

アープレーイユスが生きていた時代。ほぼ二〇〇〇年前の殺害方法として描かれている「燃える松明(たいまつ)を股の間に突っ込み、残酷に殺」すという方法。ひるがえってスマートホン全盛期の現在、なぜ殺害方法のメインは今なおこの種の方法に集中するのだろうか。

死刑囚になる前の妻は第一の殺害に成功した。事情をよく飲み込めない妻の夫。見た目の惨劇の余りの酷さに精神不安定状態に陥る。妻は夫の気分を落ち着かせるためと偽ってさっそく或る医師の家へ向かう。

「彼女はこの男に即効性のある毒薬を売ってくれれば、たちどころに五十万セーステルティウスを出すと約束しました。この金額で彼女は夫の死を買おうとしたのです」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.416」岩波文庫)

ここで「即効性のある毒薬」=「五十万セーステルティウス」という等価性が約束されている。この種の約束は貨幣を媒介させ具体的な価格を提示することで始めて成立する。しかし逆に貨幣を介さないで成立する鉄の団結というものもある。南方熊楠のいう「男道」、男性同性愛者同志のあいだで成立する「友愛あるいは友道」というものだ。ごく僅かながら「史記列伝」から伍子胥について触れている。金銭の問題ではないからだ。伍員(ごうん)は伍子胥(ごししょ)のこと。伍子胥(ごししょ)と申包胥(しんほうしょ)の二人はたいへん親しい間柄であり、男色関係を持っていたかどうかはよくわからないが、男道的友愛の体現者である。だが一方の伍子胥(ごししょ)の側は父と兄を殺した楚の平王を許すことはできないため、各地を亡命して、時には物乞いともなりさまよい歩くことになる。亡命するに当たって伍子胥(ごししょ)と申包胥(しんほうしょ)は別れの言葉を述べ合う。

「以前に伍員(ごうん)と申包胥(しんほうしょ)はしたしい友であった。伍員が亡命するとき、申包胥に『おれはきっと楚をひっくりかえしてやる』と語ったが、包胥は『おれはきっと国をつづかせてみせる』と言ったことがあった。いよいよ呉の軍隊が郢(えい)に入城したとき、伍子胥は昭王のありかをさがしたが、見つからなかった。そこで楚の平王の墓をあばき、死骸を掘り出し、三百ぺん鞭で打つまでやめなかった」(「伍子胥列伝 第六」『史記列伝1・P.64~65』岩波文庫)

伍子胥(ごししょ)は誠実かつ慎重な思考回路を持ち相手方の謀略を見抜く熟慮の人である。だからしばしば国王を直接諫めたりする。誠実な臣下であっても王に向かって直接諫めごとを述べる態度は、王にしてみれば気分のよいものではない。それをいいことに媚びを売るのが巧みな「へつらい者」が多数、王の周囲を固め始める。伍子胥はそのような亡国への過程を見るに耐えられない。自害を選ぶ。

「伍子胥は天をあおいで大息をつき、『さてもさても。讒臣(ざんしん)嚭(ひ)が乱をなしおったのを、王さまは、あべこべにわしを殺されるとは、わしはきさまの父に覇業を成させた。きさまが王にならぬまえ、公子たちが位を争った。わしは命にかえて先王さまをいさめたが、とても立てられぬところであった。きさまが位についたあと、呉の国を分けてやろうと言ったが、わしはそれを望もうともしなかった。それが今はへつらい者の言葉を信じ、善意の者を殺すのか』と言い、それからけらいに言いつけた、『わしの墓には、梓(あずさ)の木を必ずうえろ。〔木が大きくなったら、呉王の〕棺桶にできるだろう。そしてわしの目だまをえぐり出して、呉の都の東門の上におけ。越(えつ)の敵がはいって呉を滅ぼすのをながめるのだ』。こうして自ら首をはねて死んだ」(「伍子胥列伝 第六」『史記列伝1・P.69』岩波文庫)

熊楠は女性と結婚し子どもをもうけていて、特に同性愛を重んじるというわけでもなく、重んじないというわけでもない。関心を覚えたことはたいそう突き詰めて研究するタイプなのでいつの間にかその道の権威の一人になっていたということが一つ。もう一つはよりいっそう重要な点であり、どういうことかというと、男性同性愛といっても女性器の代わりに稚児を連れてきて代用するのは論外であり、男と男、女と女、あるいは両性具有という性の多様なあり方、肉体関係のあるなしに関わらない同性愛や両性愛あるいは無性愛における友愛・友道というものに大変関心が深かった。だが数千年にわたって続いた男尊女卑の思想は世界中で猛威を振るい続けたため、手に入る歴史的資料は女性に関するものより男性関係のものが圧倒的に多い。

「陶全姜、三好実休、これらは君を弑し、君夫人を辱しめた悖乱(はいらん)の徒なり。それすら二人討死の時、近臣小姓われもわれもと折り重なって戦死したること、テベスの常勝軍のごとし。弑逆の大罪なるは論ずるを俟たねど今の所論にあらず、かくまで臣僚の心を収攬した二人の、彼らに厚かったところは買ってやらねばならぬと思う」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.347~348』河出文庫)

陶全姜(すえぜんぎょう)は一五五一年(天文二十年)長門の「大寧寺の変」で有名。陶晴賢(すえはるたか)と名乗っていたが、当主大内義隆を自害に追い込み義隆の子・義尊ならびに観寿丸を殺害して実質的に大内氏を壊滅させたあと、陶全姜(すえぜんぎょう)と改名。だが傀儡政権を立てたため諸方の大名から弱体化を見抜かれあちこちから攻め込まれ長くは続かなかった。しかし全姜最後の戦闘のとき大量の臣下や小姓ら男性ばかりが壮烈な戦死を遂げているため、同性同士の友愛に人一倍厚かったという伝説を残すに至った。大内義隆に寵愛された陶晴賢がなぜ謀反を起こしたか。諸説あるものの、伍子胥の場合と同じで、あまり有能とはいえない、むしろ無能というに等しい主君がだんだん堕落していく姿を見るに忍びなかったのかも知れない。義隆に寵愛されてきただけになおさらその倫落していく様子が許せず無念のあまり自害に追い込むほかなかったのだろう。ちなみに大内義尊・観寿丸の殺害は大寧寺境内ではなく同じ長門ではあるものの摩羅観音(まらかんのん)の奥で行われた。男性器そっくりの顔でお馴染みのあの観音が本尊。建物の周囲には幾つもの男性器像が林立していることでも有名。今では男性同性愛者だけでなく異性愛者で性生活の充実を願う人々が夫婦円満の祈願に訪れる。さらに精力絶倫滋養強壮を祈願する人々にも広く知られるようになった。

三好実休(みよしじっきゅう)。一五五三年(天文二十二年)阿波細川家の当主細川持隆を阿波の見性寺で自害させた。この場合も謀反なので内乱状態に陥っている隙に諸国連合によって倒れる。陶全姜(すえぜんぎょう)のケースと同じくその死に伴って多くの近臣や小姓ら男性同志が続々討死した。なお実休が持隆の夫人を強姦したという件について、今では当時の記録の誤りであることが判明している。むしろ熊楠が言いたいことは自分の「臣僚の心を収攬した」という点。相手が部下であるがゆえにこそ、とても面倒見がよく友道・友愛をもって厳しく厚く接した。茶人でもある。

「豊州(豊前守)三好実休は、名物の子茄子・三ケ月を初めて、其の外、五十種程名物所持す。実休、阿波・河内両国の主也。右之外、名物所持の人も数寄者も、京・堺に数多おれ在り。実休は、武士にて数寄者也」(「山上宗二記」『日本の茶書1・P.249』東洋文庫)

「山上宗二記」に尊敬すべき茶人として何人か列挙されている項目がある。そして武士であるとともに数寄者でもあるとして上げられているのは三好実休ただ一人。三好長慶の弟で剃髪してから物外軒実休と号した。茶の湯の師匠は武野紹鴎。だから最も初期の茶人ということになる。三日月という茶壺を所持していたことがあった。その後、三日月は織田信長の手に渡って本能寺の変で焼失する。しかし異説もあり、安土城から本能寺へ搬入された茶道具の中に三日月は入っていなかったという記録である。信長の右筆(ゆうひつ)楠長諳(くすのきちょうあん)が九州の茶人・島井宗室(しまいそうしつ)に与えた「御茶湯道具目録」の追記にそう記されているらしい。また山上宗二自身には熊楠と似たような奇人変人的気質が見られる。千宗易(利休)の弟子。なのだが、豊臣秀吉のことをあしざまに罵り、解任追放される。その後いったん助命されたものの、早雲寺の茶会で再び秀吉批判したところ、秀吉の命令により耳と鼻を削ぎ落とされ処刑された。千宗易(利休)自害より一年ほど早い。

BGM


仮面等価性19・「妻」をめぐる死刑囚

2020年09月02日 | 日記・エッセイ・コラム
驢馬との性愛を成就した上流階級の一婦人は、驢馬の姿のままのルキウスともう一度夜を過ごしたいと思う。そこでもし粗漏なく寝室の用意が整うように手配してくれるなら、ルキウスの飼育係に前回と同様の「多額の謝礼」を約束する。上流階級といってもこの地方一帯では頭一つすば抜けた「地位財産ともにすぐれて有名な一人の貴婦人」なので、ルキウスの飼育係は一方で婦人からの報酬を期待するとともに、自分の主人の前に出て驢馬のルキウスが前代未聞の芸当(人間女性との性行為)を身に付けていることを告げ、公共の見世物として儲けてみてはどうかと進言する。

同時に、その貴婦人がどのような意向を持っていたとしても上流階級に属する女性として驢馬の配偶者(妻)になることは許されなかった。そこでルキウスはその代理として選ばれた他の女性との性行為を見世物として「円形演技場」に引き出されることになる。相手は女性だが同時に「死刑囚」である。この種の処刑のシナリオは、驢馬が女性死刑囚と性行為を行なって身も世もない快楽に悶えている隙に、円形演技場内に猛獣が解き放たれて女性死刑囚は猛獣の獰猛鋭利な牙で全身を引き裂かれ内臓を喰いちぎられ死に至る、というものだ。だがルキウスとしては身体はなるほど驢馬ではあっても女性死刑囚の巻き添えになり生贄同然に猛獣の貪欲獰猛な牙の犠牲として死ぬことはまっぴら御免だと考える。

注目すべきは公開処刑の良し悪しではまったくない。ルキウスと人間女性との性行為において「地位財産ともにすぐれて有名な一人の貴婦人」と「女性死刑囚」との置き換えがすんなり可能だったのはなぜか、という点に注目しなければならない。一方で是非とも驢馬との性愛関係を望む「地位財産ともにすぐれて有名な一人の貴婦人」がいる。もう一方に在る「女性死刑囚」がいる。両者はなぜすぐさま置き換え可能な両極に立つことができたのか。それを知るには「女性死刑囚」が身に帯びるに至った過程について少しばかり知っておかないとわけがわからなくなる。この女性は「死刑囚」に登りつめる前はどこにでもいそうなありふれた一人の女性に過ぎなかった。同時にしばしば見かけるように、人一倍恵まれた想像力を発揮する頭脳と実行力とを兼ね備えていた。それゆえひょんなことから或る犯罪を犯してしまう。その瞬間、社会全体に対する債務が発生する。最初の犯罪はさらに大きな次の犯罪で覆い隠してしまわなければいともたやすく露呈してしまう。だから女性は、第二第三の、ますます残忍性を増す犯罪を繰り返していくほかなくなる。こうして社会的債務の量的大きさは徐々に増殖し出す。その債務量が結果的に「地位財産ともにすぐれて有名な一人の貴婦人」が持つ「地位財産」に匹敵する程度に達して始めて両者の置き換えが可能となるに至った。そこで始めて「地位財産ともにすぐれて有名な一人の貴婦人」=「女性死刑囚」という置き換え可能な等価性が出現する。ところでしかし、この或る一人の女性は、なぜ、どのようにして、円形演技場での公開処刑にふさわしいと考えられるような、驢馬との性行為を伴いなおかつ猛獣に喰い殺される「女性死刑囚」となったのか。

女性はどこにでもある家の平凡な妻に過ぎない。夫がいる。夫には妹がいるが、しばらくして妹は兄(妻の夫)の友人のもとへ嫁いだ。兄妹仲良く暮らしていたあいだはこの妹が夫のすぐ身近におり、すぐ身近にいるにもかかわらず夫とその妹とのあいだに性的関係があるとは思ってもいないし実際になかった。ところが夫の妹が結婚して一人の男の「妻」になるや突然、夫とその妹のあいだにもしや肉体関係があったのではないか、今なおあるのではないかという疑念の虜(とりこ)となる。「妻」という言葉が必然的にもたらす罠にはまったわけだ。自分は夫の「妻」だが、夫の妹も今では或る男性の「妻」である。或る男性の妻は別の男性の妻を葬り去らねばならない。そうではなくてはどちらが本物の「妻」というにふさわしい存在なのか区別がつかなくなる。夫はそれぞれの家の別人だとしても、むしろなおさら、ではいったい本当の「妻」は誰でなくてはならないか。それぞれの妻は個別的には個々別々の妻で結構なのであり何らの問題もない。けれども個別的な意味でいう妻ではなく普遍的な意味で指し示される妻は唯一でなくてはならない。ちなみに今の日本に限っていえば「皇后」がその位置に当たる。個別的に妻の地位は個々別々であり無数の形態があって何ら構わないわけだが、普遍的な次元ということになれば話は全然違ってくる。普遍的に同等の特権を持つ「妻」と呼ばれる女性があちこちにうようよいるということはあり得ず、なおかつ論理的に考えれば考えるほど明らかにおかしい。だから夫の妹が夫の友人の「妻」の座を得た瞬間、どちらが本物の妻というにふさわしいか、神かけて明確にされない限り事態が収集を見ることはけっしてなくなる。少なくとも古代ギリシアではそうだった。そしてこの一女性はどこにでもいる一人の妻から死刑囚へほとんど一挙に駆け上がる。

「若者の妹をあたかも寝室の恋敵(こいがたき)か情婦とみなし始め、嫉妬(しっと)に燃えてやがて呪(のろ)い憎み、ついに残酷な死の罠におとしいれようと企(くわだ)てました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.415」岩波文庫)

ヘーゲルのいう「主と僕」の関係参照。

「自己意識に対しては別の自己意識が在る。つまり自己意識は《自分の外》に出てきているのである。このことは二重の意味をもっている。《まず》自己意識は自己自身を失っている。というのは、自己意識は、自分が《他方の》もう一つの実在であることに気がつくからである。《次に》、そのため自己意識はその他者を廃棄している。というのは、自己意識は他者もまた実在であるとは見ないで、《他者》のうちに《自己自身》を見るからである。

自己意識はこの《自らの他在》を廃棄しなければならない。このことは最初の二重の意味を廃棄することであるから、それ自身第二の二重の意味である。《まず》、自己意識は《他方の》自立的な実在を廃棄することによって、《自分》が実在であることを確信することに、向って行かねばならない。そこで《次に、自己自身》を廃棄することになる。というのは、この他者は自己自身だからである。

このように、二重の意味の他在を二重の意味で廃棄することは、また、二重の意味で《自己自身》に帰ることである。というのは、《まず、自らの》他在を廃棄することによって、また自己と等しくなるゆえ、廃棄によって自己自身を取りかえすからである。だが『次に』、自己意識は他方の自己意識に自らを取りもどさせる。というのも、自己意識は自ら他方のうちにあったからである。つまり、他方のうちでのこの自らの存在を廃棄し、したがってまた他方を自由にしてやるからである。

だが、他方の自己意識と関係している自己意識のこの運動は、いま言ったように、《一方のものの行為》と考えられていた。とはいえ、一方のもののこの行為は、それ自身、《自己の行為》でありまた《他者の行為》であるという、二重の意味をもっている。なぜならば、他方もやはり独立であり、自分で完結しており、自己自身によらないであるようなものは、他方のなかには何もないからである。初めの自己意識は、さしあたり、欲求に対して在るにすぎないような対象を、相手にしているのではなく、それ自身で存在する独立な対象を相手にしているのである。それゆえ、初めの自己意識がこの対象にしかけることを、この対象が自分自身でもしかけない場合には、自己意識も自分ではその対象に対し何もしかけることはできない。だからこの動きは、端的に言って、両方の自己意識の二重の動きなのである。各々は、自分が行うことと同じことを、《他方》が行うのを見る。各々は、自分が他者に求めることを自分でやる。それゆえ、各々は、他者が同じことを行う限りでのみまた、自分の行うことを行う。起ってくるはずのことは、両方によってのみ起りうるのであるから、一方だけの行為は役に立たないであろう。

したがって、行為が二重の意味のものであるのは、《自分に対する》ものであり、また《他方に対する》ものでもあるという限りでだけのことではなく、分かたれることなく、一方の行為であるとともにまた他方の行為でもある限りでのことである。

この運動においてわれわれは、〔悟性において〕両力のたわむれとして現われた過程が、繰り返されるのを見るわけである。ただし、このここでのたわむれは意識のなかで行われる。前のたわむれの場合には、われわれにとって行われたことが、ここでは両方の極自身〔二つの自己意識〕にとって行われる。媒語〔中間〕は、両極に自ら分裂する自己意識である。各々の極は、その規定態を交換し、その対立極に絶対的に移行する。各々は、意識としてたしかに《自分の外に》出るのではあるが、その自己外存在にいながら、同時に自分にもどされたままである。つまり《自分だけで》ある。そして自らの自己外は《各々の極に対して》いる。各々はそのまま他方の意識《であり》また《ない》ということが、各々に対してある。同じように、この他方は、自分だけで〔対自的に〕あるものとしての自分を廃棄し、他者〔一方〕の自分だけでの有〔対自存在・自独存在〕においてのみ、自分だけでいることによって初めて、自分だけであるということが、各々に対してある。各々は他方にとり媒語であり、この媒語によって各々は自己を自己自身と媒介し、自己自身と結ばれる。各々は、自己にとっても他方にとっても、直接の〔無媒介の〕、自分で存在する実在であり、これは同時にこの媒介によってのみ、そのように自分だけで〔対自的で〕ある〔自分に対している〕。両方は、《互いに他方を認めて》いるものとして、互いに《認め》合っている。承認というこの純粋概念、自己意識をその統一において二重化するというこの純粋概念の過程が、自己意識にとりどういうふうに現われるかということが、ここで考察されねばならない。初めに、この過程は、両方が《等しくない》という側面を表わす、つまり、媒語が両極のなかに歩み出てくることを、両極は極としては対立しているが、一方はただ承認されるだけなのに、他方はただ承認するだけであるという形で、歩み出てくることを表わす。

自己意識は、まず、単一な自分だけの有であり、すべての《他者を自己の外》に排除することによって、自己自身と等しい。その本質と絶対的対象は自己意識にとり、《自我》である。自己意識はこの《直接態》において、言いかえれば、自分だけでの〔対自的な・自覚的な〕有という自らの《存在》において、《個別的なもの》である。自己意識に対して他者で在るものは、非本質的な対象として、否定的なものという性格をしるされた対象として存在する。しかし他方もまた自己意識である。一人の個人が一人の個人に対立して現われる。そういうふうに《そのままで》現われるが、互いの間では普通の対象のような態度をとっている。つまり、ともに《自立的な》形態であり、《生命という存在》に沈められたままの意識である。ーーーというのも、ここでは、存在する対象が自己を生命として規定したからである。ーーーそこで、これらの自立的形態、意識は、すべての直接的存在を絶滅するような、また自己自身に等しい意識という、否定的な存在であるにすぎないような、絶対的な抽象化の運動を、まだ《互いに対し》実現してはいない、言いかえれば、互いにまだ純粋な《自分だけでの有》〔対自存在〕としては、すなわち《自己》意識としては現われてはいない。各々は自己自身を確信してはいるが、他者を自分のものとして確信してはいない。それゆえ、自己についての自分自身の確信はまだ真理をもっていない。なぜならば、この真理というのは、自分自身の自分だけでの有〔対自存在〕が、自分にとり自立的な対象として、あるいは同じことであるが、対象が自己自身を純粋に確信するものとして現われる、というような真理にほかならないであろうからである。しかし、いま言ったことは、承認という概念から見て、不可能である。つまり他方が自分に対するように、自分も他方に対し、各人が自分の行為により、また他人の行為によって、自分自身で、自分だけでの有〔対自存在〕に対するというふうな、全くの抽象を敢行するのでなければ、不可能である。

だが、自己を自己意識という全くの抽象作用であると《のべる》ことが成り立つのは、自らを自己の対象的な姿の全き否定として示す点においてである。言いかえれば、いかなる一定の定在にも結びついていないこと、定在一般という一般的な個別性にも、生命にも結びついていないことを、示すことにおいてである。この叙述は、他方の行為と自己自身による行為という《二重の》行為である。だから、行為が《他方の》行為である限り、各人は他方の死を目指している。だがそこにまた、《自己自身による行為》という第二の行為もある。というのも、他人の死を目指すことは、自己の生命を賭けるということを含んでいるからである。そこで、二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの《真を確かめる》というふうに規定されている。ーーーつまり、両方は戦いにおもむかねばならない。なぜならば、ともに、《自分だけである》という自己自身の確信を、他者においてまた自分たち自身において、真理に高めねばならないからである。そこで自由を保証してもらうためには、生命を賭けねばならない。自己意識の本質は《在ること》でもなければ、現われる通りの《そのままの》姿でもなく、また生命のひろがりのなかに沈められていることでもなく、ーーーかえって自己意識には、自分にとって消え去らない契機であるようなものは、何も現にないということ、自己意識はただ《自分だけでの有》〔対自存在〕にすぎないということ、これらのことを保証してもらうためにだけ、生命を賭けるのである。敢えて生命を賭けなかった個人は、《人格》とは認められようけれども、自立的な自己意識として承認されているという真理に達してはいない。同じように、他者はもはや自分自身にほかならないと考えられるから、各人は、自分の生命を賭けるように、他者の死を目指さざるをえない。各人にとり自分の実在が他方の者として現われる。自分の実在は自分の外に在る。そこで各人は自らの自己外有を廃棄せざるをえない。他方の者は、さまざまに束縛された存在する意識である。各人は自分の他在を、純粋の自分だけでの有〔対自存在〕、つまり絶対的否定として直観しなければならない。

だがこのように死によって、真を確かめることは、そこから出てくるはずの真理をも、したがって自己自身の確信そのものをも、同じように廃棄してしまう。というのは、生命が意識の《自然的な》肯定であり、絶対な否定性のない自立性であるように、死は意識の《自然的な》否定であり、自立性のない否定であるからである。だからこの否定は、承認という求められた意味をもたないままである。死によって、両方が自らの生命を賭け、自分でも他者においても、生命を軽んじたという確信が生じているけれども、この確信は、この戦いに堪えた人々にとって生じたのではない。両方の自己意識は、この、自然的な定在である、見しらぬ本質態のうちに置かれた自分たちの意識を、廃棄する、つまり自らを廃棄する。そこで、自分だけで在ろうとする《極》としては廃棄されてしまう。だが、それとともに、対立した規定態の極に分裂する本質的な契機が、交替のたわむれから消えてしまう。そして媒語〔中間〕は死んだ統一のなかに崩壊してしまい、この統一は死んだ、ただ存在するだけの、対立していない極に分裂している。両方は意識によって互いに与えかえされ、受けかえされることなく、物として互いに無関心なままに放任し合っているだけである。両者の行為は抽象的な否定であって、廃棄されたものを《保存し》、《維持し》、その結果自らが廃棄されることに堪えて生きるような形で、《廃棄を行なう》意識の否定ではない。

以上のような経験において自己意識にとっては、純粋に自己意識と同様に生命も本質的なのだということが、この自己意識に明らかになる。直接的〔無媒介〕な自己意識においては、単一な自我が絶対的な対象である。だが、この対象はわれわれにとっては、言いかえれば、自体的には、絶対的な媒介であり、存立する自立性を本質的な契機としている。前に言った単一な統一が解体するのは、最初の経験の結果である。この解体によって、純粋の自己意識と、純粋に自分だけが有るのではなく、他方の自己意識に対して在るような意識とが、措定されている。この後の意識は、《存在する》意識もしくは《物態》という形での意識〔僕〕である。両方の契機はともに本質的である。ーーーつまり、両者は、初め等しくなく、対立しており、統一に反照〔省〕することもまだ起こっていないので、意識の二つの対立した形態として在る。一方は独立な意識であって、自分だけでの有〔対自存在〕を本質としており、他方は非独立的な意識であって、生命つまり他者のための存在を本質としている。前者は《主》であり、後者は《僕》である」(ヘーゲル「精神現象学・上・B-自己意識・四-自己意識の確信の真理・A-自己意識の自立性と非自立性 主と僕・P.219~227」平凡社ライブラリー)

兄と妹との性的関係はかつて一度もなかったし妹が結婚して以後もまるでない。ではいったい何がこの、ありもしない三角関係を実際にあるかのように浮上させたのか。第一に「妻」という言語は一つしかないにもかかわらず現実の妻は二人出現しているというパラドックス。第二に「性的欲望」の本来的無政府性。第三に姻戚関係の再編に伴う遺産相続=「貨幣」の再分配という問い、である。

BGM