白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠と生態系/自害に至る深情

2020年09月28日 | 日記・エッセイ・コラム
神社合祀に伴う廃止ではなく玉置神社のように移転ということなら、条件付きで認めてもいいと熊楠はいう。その条件に、「移転して社地をば十分広げ置くならば」、そして「現在の樹木を一本なりとも伐らぬよう」、という二点を上げている。

「玉置神社移転の件は、他日社地をかの例の煙突多き製造所とか下宿屋とか不浄極まるものに蚕食せられぬ一方便として、移転して社地をば十分広げ置くならば宜しからんと存じ候。前日雑賀氏より聞きしは、玉置山はもと今の地にあらう、今度移さんとする地にありしを、いろいろの災難で当分今の地に移せしなりとか(拙妻も左様にいう)。ただし、移すことは移すとして、それがために現在の樹木を一本なりとも伐らぬよう願いたい。小生、熊野植物精査西牟婁郡の分の基点は、実にこの闘鶏社の神林にて、言わば一坪ごとに奇異貴重の植物があるなり」(南方熊楠「粘菌の複合・菌学に関する南方先生の書簡」『森の思想・P.216』河出文庫)

熊楠が世界で最初に発見した粘菌の多くは、ほかでもない「闘鶏神社」の境内、正確に言えば、その裏山の鬱蒼たる森に自生している種だった。何千年何万年に及ぶのか想像もつかないが、遥か昔から熊野の生態系を維持してきた種々雑多な粘菌は神社の背後に拡がる広大な森林をその生存の条件とし、また森林を存続させてきた生態系の円環の一つだった。神社というものは、その起源から言えば、まず森があって森そのものに対する自然信仰があり、それがためにそこに祠を作って祀ったのが時系列的事実である。神体は神社の建築ではなく、多くはその背後に広がる奥深い森林だった。今でも奈良県の三輪山のように、神社が先にあるわけではなく、本尊は神体山そのものであって、便宜上事後的に遥拝所を整えたというのがその名残りだ。

ところで「雑賀氏」というのは雑賀貞次郎のこと。長年、熊楠の弟子だった。柳田國男は東京にいる中央官僚でもあったため、紀州までわざわざ出かけて行ってフィールドワークする時間を惜しんだ。そのぶん、紀州に残る様々な民俗学的資料は雑賀貞次郎から提供されたものに頼っていた。次のように紀州に残る少年の「神隠し伝説」などは、柳田の代表作でもある「山の人生」に収録されたため雑賀貞次郎の名とともに紹介されることになったもの。

「紀州西牟婁(にしむろ)郡上三栖(みす)の米作という人は、神に隠されて二昼夜してから還って来たが、その間に神に連れられ空中を飛行し、諸処の山谷を経廻っていたと語った。食物はどうしたかと問うと、握り飯や餅菓子などたべた。まだ袂(たもと)に残っているというので、出させてみるに皆柴の葉であった。今から九十年ほど前の事である。また同じ郡岩田の万歳という者も、三日目に宮の山の笹原の中で寝ているのを発見したが、甚だしく酒臭かった。神に連れられて摂津(せっつ)の西ノ宮に行き、盆の十三日の晩、多勢の集まって飲む席にまじって飲んだといった。これは六十何年前のことで、ともに宇井可道翁の『璞屋(ぼくおく)随筆』の中に載せられてあるという(雑賀〔さいが〕貞次郎君報)」(柳田國男「山の人生・今も少年の往々にして神に隠さるる事」『柳田國男全集4・P.107』ちくま文庫)

アープレーイユス「黄金の驢馬」でプシューケーが「諸処の山谷を経廻」り、様々な試練を乗り越え冥界から戻ってきて、すべてのイニシエーションを終えたとき、クピードーとプシューケーとの婚礼の席が設けられる。その様子は次のように神々が集まる祝祭(「多勢の集まって飲む席」)として描かれている。

「一番の上席には花婿がプシューケーを傍らにひきつけて席を占めますと、同様にユーピテルもお妃のユーノーともども腰をかけ、また順ぐりにすべての神様方も席におつきになります。そのとき仙酒(ネクタル)の盃を、これはつまり神様方の葡萄酒(ぶどうしゅ)にあたるのですが、ユーピテルはいつもの酒つぎのお小姓のあの野山にいた少年(こども)が、他の神々へはまた酒神(リーベル)が酌(く)んでは差し、ウルカーヌスがお料理の世話をいたしますと、季節女神(ホーラエ)は薔薇やいろいろな花びらでそこらじゅうを紅(くれない)に照りかがやかしますし、優美神女(グラーティアエ)はにおいのよい薫香をあたりに撒(ま)き散らし、伎芸神女(ムーサエ)はまた朗々と歌を唄いあげる、アポローンが七絃琴(キタラ)を奏(かな)でますと、ウェヌスも妙(たえ)な音楽に姿(なり)美しく舞いつれて踊り、その地方(じかた)には手順を決めて伎芸神女(ムーサエ)が群を作って歌を唄ったり笛を吹いたりすれば、羊人(サテュロス)や若い牧神(パーン)は笙(しょう)を鳴らして合わせます」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.241」岩波文庫)

この種の慣習に出てくる祝祭の場は、日本に移ると「西ノ宮」になる。次のように。

「神のめでたく験(げん)ずるは 金剛蔵王(こんがうざわう) ははわう大菩薩 西宮(にしのみや) 祇園天神(ぎおんてんじん) 大将軍(たいしやうぐん) 日吉山王(ひえさんわう) 賀茂上下(かもじやうげ)」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・二四九・P.109~110」新潮社)

また「金剛蔵王(こんがうざわう)」は奈良県吉野の金峯山寺にある金剛蔵王像が有名だが、吉野という枠に嵌め込んでしまうより、修験道の霊場として名高い大峰山一帯を含め熊野との中間地帯と見たほうがより一層深く意味をつかみやすいだろうと思われる。吉野、熊野、伊勢は、山岳地帯で繋がっているのであり、アニミズム的な山岳信仰を通して古代から王家の禊(みそぎ)の場として崇められてきたからである。そしてこの種の信仰は古く東アジアの諸列島に王家というものが出現する遥か以前から人々が既に始めていた自然崇拝である。さらに「西宮(にしのみや)」は、今の西宮神社境内にある南宮神社を指していると考えられる。古くは「浜の南宮」と呼ばれたことからわかるように山地と海運との境界地点にあり、流通・軍事ともに要衝だった。また、ここでいう「祇園天神(ぎおんてんじん)」について、京都・八坂神社と言ってしまうと余りにも意味が拡張され過ぎてしまい、わけがわからなくなるため、厳密に「牛頭天王」(ごずてんのう)を指すと見るのがよい。牛頭天王は言うまでもなく牛を本尊とし疫病を司る神として信仰されてきた。先史時代から牛なしに民衆の生活はなく、しかし牛がいると疫病の蔓延は覚悟しなければならない。牛頭天王はそのようなパルマコン(医薬/毒薬)としての両義性の象徴と言える。

ところで熊楠と柳田とでは山神においても山人においても最後まで意見の一致を見ることはなかった。それはそれで構わない。むしろ異なる立場で研究しているにもかかわらず、いきなり意見の一致を見るような場合こそ極めて例外的だろう。それより両者の間に生じている社会的立場の差異が、両者の見解の相違を鮮明にするのであって、その逆ではない。例えば、熊楠のオコゼ論。柳田によればこうなる。

「南方氏が熊野山中の奇草を得んがために山神とオコジの贈を約せられしは一場の佳話なりといえども、そのオコゼは果して山神の所望に応ずべき長一寸のハナオコゼなりしや否や。自分は山神とともに少なからず懸念を抱きつつあり。また海人が山神を祀りオコゼをこれに貢することはすこぶる注意すべきことなり。おそらくはこの信仰は『山島に拠りて居をなせる』日本のごとき国にあらざれば起るまじきものにてことに紀州のごとき海に臨みて高山ある地方には似つかわしき伝説なり」(柳田國男「山神とオコゼ」「柳田国男全集4・P.429」ちくま文庫)

さて、この九月二十六日、北海道・旭岳で初冠雪を観測したとのこと。降雪を見て、人々は何を思うだろうか。例えば、伊賀の国守の小姓・山脇笹之介の嫉妬の物語はどうか。

笹之介は小姓というばかりでなく頭のいい美少年としても有名なだけあって男性同性愛(衆道)に長けていた。その相手・判葉右衛門の浮気を許すことができず、かといって今後ずっと和解するつもりがないわけではない。そこで和解のための酒席と寝床とを設けた上で、訪ねてきた葉右衛門を一度、降雪の中でさんざん嬲(なぶ)ってやれと思い実際にあれこれ嬲っていた。降り出した雪は急速にぐんぐん積もってくる。そのうち葉右衛門は余りの寒気のため死んでしまう。笹之介は慌てる。

「降り出しより積りそうな気配の雪となり、はじめのうちは袖を払っていたが、梢の古びた桐梧(あおぎり)の陰も、雪のやどりのたよりならぬから、段々耐えがたくなり、肺臓より常の声も出ず、『やれ、今死ぬるわ』とどなると、内では小坊主相手に笑い声を出して、『まだ思いざしの酒のぬくみもさめないでしょう』と二階座敷からいう。『そういったって何の心もないことなのだ。これにこりぬということはない。この後は若衆の足あとも通らぬつもりだ』と詫びても、なおその言葉をきらい、『それならその二腰をこちらへお渡し下さい』と受取り、又指さしてあざけり、『着物袴(はかま)をおぬぎなさい』と丸裸にして、『ついでのことに解髪(さばきがみ)になって』という。これもいやというわけに行かぬのですぐに形をかえると、梵字(ぼんじ)を書いた紙を放って、『額に当てなさい』という。今は息たえだえに、悲しいことに身にふるえが出て、まことに幽霊声になり、その後は手をあげておがむより外はない。笹之介は小鼓をうって、『ああら、有難の御とむらいや』などと謡い出して下をのぞくと、葉右衛門目ばたきせわしく立ちすくんでおり、死ぬらしいので驚き、印籠(いんろう)あける間にも、脈がだめになっていたから、同じ枕に腹かききって、一瞬の夢となった」(井原西鶴「嬲(なぶり)ころする袖の雪」『男色大鑑・P.81~82』角川ソフィア文庫)

葉右衛門の死を見届けるや笹之介は自ら切腹して果てた。当時の同性愛は白い雪を赤い血で染め上げるほかないほど苛烈な深さと厚みとを見せて止まない。

BGM