神社合祀により土地を転売し突如として富裕になった高級官僚らはマスコミ取材に応じて述べた。「どんな植物であろうがなかろうが、詮ずるところは金銭なき社は存置の価値なしと公言」。さらに「合祀大主張紀国造紀俊は、芸妓を妻にし樟(くす)の木などきりちらし、その銭で遊郭に籠城し、二上り新内などを作り、新聞へ投じて自慢しおる」と。高級官僚による土地転売・遊郭籠城・花柳遊びは明治・大正を通して流行した。「二上り新内」の「二上り」というのは、三味線を「二上り」(にあがり)と呼ばれる方法で調弦し、楽曲の途中から独特の情緒へ転じさせるテクニック。「二上がり新内」(にあがりしんない)はその手法で作る俗唄のこと。そもそも「二上がり新内」(にあがりしんない)は江戸時代からあったが、しかし神社合祀に伴う土地転売並びに新興資本家階級の富裕層によって行われるようになったのは維新以後。それもほとんどが維新勢力ばかりなので江戸時代に「粋」(すい・いき)とされた優雅な遊び方は土足で踏みにじられたに等しい。
「時かわり世移りて、その神主というもの、斎忌どころか、今日この国第一の神官の頭取奥五十鈴という老爺は、『和歌山新報』によるに、『たとい天鈿女(あまのうずめ)の命のごとき醜女になりとも、三日ほど真にほれられたいものだ』などと県庁で放言して、すぱすぱと煙草を官房で環に吹き、その主張とては、どんな植物であろうがなかろうが、詮ずるところは金銭なき社は存置の価値なしと公言し、また合祀大主張紀国造紀俊は、芸妓を妻にし樟(くす)の木などきりちらし、その銭で遊郭に籠城し、二上り新内などを作り、新聞へ投じて自慢しおる」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.421』河出文庫)
男性高級官僚による遊女遊びの履歴は古く、万葉集にも見える。遊女らの中で名を残す一人に「児島」(こしま)がいる。次の二首は「遊行女婦(あそびめ)」=「児島」(こしま)が高級官僚を送り出す際に歌ったもの。
「凡(おほ)ならばかもかもせむを恐(かしこ)みと振りたき袖(そで)を忍(しの)びてあるかも」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・九六五・児島・P.154」小学館)
「大和道(やまとぢ)は雲隠(くもがく)りたり然(しか)れども我(わ)が振る袖をなめしと思(も)ふな」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・九六六・児島・P.154」小学館)
「児島」(こしま)が遊女だとなぜわかるのか。次の通り。
「右、太宰師大伴卿、大納言(だいなごん)を兼任し、京に向かひて道に上(のぼ)る。この日に、馬を水城(みづき)に駐(とど)めて、府家(ふか)を顧(かへり)み望(のぞ)む。ここに、卿を送る府吏(ふり)の中(なか)に遊行女婦(あそびめ)あり、その字(あざな)を児島(こしま)と曰(い)ふ。ここに、娘子(をとめ)この別れの易(やす)きことを傷(いた)み、その会(あ)ひの難(かた)きことを嘆き、涕(なみた)を拭(のご)ひて自(みづか)ら袖を振る歌を吟(うた)ふ」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・P.154~155」小学館)
遊女を「遊行女婦(あそびめ)」と呼ぶ習いについて「和名抄」によれば「遊行女児、宇加礼女(うかれめ)、一云阿曾比(あそび)」とある。また「この別れの易(やす)きことを傷(いた)み、その会(あ)ひの難(かた)きことを嘆き」は、「遊仙窟」の「別ルルコトハ易ク、会フコトハ難シ」からの転用。
配置転換で任地を去ることになった際、高級官僚の側から馴染みの遊女へ送った返歌もある。次の二首。
「大和道(やまとぢ)の吉備(きび)の児島(こしま)を過ぎて行(い)かば筑紫(つくし)の児島(こしま)思ほえむかも」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・九六七・大納言大伴卿・P.155」小学館)
「ますらをと思へる我(われ)や水茎(みづくき)の水城(みづき)の上(うへ)に涙(なみだ)拭(のご)はむ」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・九六八・大納言大伴卿・P.155」小学館)
また、万葉集に出てくる遊行女婦(あそびめ)では「土師(はにし)」も有名。次の二首。
「垂姫の浦を漕ぎつつ今日(けふ)の日(ひ)は楽しく遊べ言ひ継(つ)ぎにせむ」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一八・四〇四七・遊行女婦(あそびめ)土師(はにし)・P.243~244」小学館)
「二上(ふたがみ)の山に隠(こも)れるほととぎす今も鳴かぬか君に聞かせむ」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一八・四〇六七・遊行女婦(あそびめ)土師(はにし)・P.250」小学館)
なお、「土師(はにし)」の「し」について、氏姓(うじ・かばね)を表わす「氏」ではないかという説も有力。さらに、「左夫流(さぶる)」という「遊行女婦(あそびめ)の字(あざな)」があった。「心さぶし」、「淋し」(さびし)、「寒し」(さむし)、との連想から「淋(さび)しさ」を癒す「遊行女婦(あそびめ)」という意味を帯びる。
「心さぶしく南風(みなみ)吹き雪消(ゆきげ)溢(はふ)りて射水川(いみづかは)流(なが)る水沫(みなわ)の寄(よ)るへなみ左夫流(さぶる)その児(こ)に紐(ひも)の緒(を)のいつがりあひてにほ鳥の二人(ふたり)並び居(ゐ)奈呉(なご)の海の奥(おき)を深めてさどはせる君が心のすべもすべなさ 左夫流(さぶる)といふは遊行女婦(あそびめ)の字(あざな)なり」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一八・四一〇六・P.270~271」小学館)
それにしても、夜となく昼となく「左夫流(さぶる)」に溺れて遊び疲れた「後姿(しりぶり)」=「出勤する後ろ姿」を他の人々にじろじろ見られていて、恥を知らないのか、という歌がある。
「里人(さとびと)の見る目恥(は)づかし左夫流児(さぶるこ)にさどはす君が宮出(みやで)後姿(しりぶり)」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一八・四一〇八・P.271」小学館)
高級官僚の妻が私用として使う馬になぜか「左夫流(さぶる)」が乗っていたりもする。公私混同のはなはだしさは今とほとんど変わらなかったのかもしれない。
「左夫流児(さぶるこ)が斎(いつ)きし殿(との)に鈴(すず)掛けぬ駅馬(はゆま)下(くだ)れり里もとどろに」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一八・四一一〇・P.272」小学館)
「児島」(こしま)、「土師」(はにし)、「左夫流(さぶる)」、だけでなく、さらに「遊行女婦(あそびめ)蒲生娘子(かまふをとめ)」も登場する。
「雪の山斎(しま)巌に植ゑたるなでしこは千代(ちよ)に咲かぬか君がかざしに」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一九・四二三二・遊行女婦(あそびめ)蒲生娘子(かまふをとめ)・P.336」小学館)
万葉集に登場する遊行女婦(あそびめ)では、差し当たり、「児島」(こしま)、「土師」(はにし)、「左夫流(さぶる)」、「蒲生娘子」(かまふをとめ)、を覚えておけば十分だろう。ただ、古代の祭祀に登場する巫女的遊女なのかそれともただ単なる「遊行女婦(あそびめ)」に過ぎないのかという点に関し、「遊女」と書いてあるだけで安易に判断できないということは「本朝文粋」に次の指摘がある。
「蓋以遊行為其名所謂以信名之也」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第九・二三八・見遊女・江以言・P.272」岩波書店)
熊楠へ戻ろう。
「新宮中の古社ことごとく合祀し、社地、社殿を公売せり。その極(きょく)鳥羽上皇に奉仕して熊野に来たり駐(とど)まりし女官が開きし古尼寺をすら、神社と称して公売せんとするに至れり。もっとも如何(いかが)に思わるるは、皇祖神武天皇を古く奉祀せる渡御前(わたるごぜん)の社をも合祀し、その跡地なる名高き滝を神官の私宅に取り込み、藪中の筍(たけのこ)を売り、その収入を私(わたくし)すと聞く」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.491』河出文庫)
呼び名だが「渡御前(わたるごぜん)」はおそらく熊楠の慣れ親しんだもの。和歌山県新宮市新宮の「渡御前社」(わたるごぜんしゃ)が正式名称。地元では広く「おわたり様」の愛称で親しまれたらしい。だが重要なのは、日本書紀の中で、まさしくその地(新宮並びに神倉山)へ神武がやってきたのはなぜか、という点にある。
「進みて紀国(きのくに)の竈山(かまやま)に到(いた)りて、五瀬命(いつせのみこと)、軍(みいくさ)に薨(かむさ)りましぬ。因りて竈山(かまやま)に葬(はぶ)りまつる。六月(みなづき)の乙未(きのとのひつじ)の朔丁巳(ついたちひのとのみのひ)に、軍(みいくさ)、名草邑(なくさのむら)に至(いた)る。即(すなは)ち名草戸畔(なくさとべ)といふ者(もの)を誅(ころ)す。遂(つひ)に狹野(さの)を越(こ)えて、熊野(くまの)の神邑(みわのむら)に到(いた)り、且(すなわ)ち天磐盾(あまのいはたて)に登(のぼ)る」(「日本書紀1・巻第三・神武天皇 即位前紀戊午年五月~六月・P.208」岩波文庫)
この箇所で言及されている「熊野(くまの)の神邑(みわのむら)」は新宮のこと。そして「天磐盾(あまのいはたて)」は神倉山を指す。神功皇后が船に乗ったまま紀州近辺をうろうろしているのと、神武があちこちの土地の神を掃討した後になおわざわざ熊野へ迂回してから都入りするというステレオタイプ。神功皇后も神武も大規模軍事行動の直後である。血まみれなのだ。ゆえにいったん熊野へ赴き「禊」(みそぎ)した後で始めて都への入城が許可される、という形式が出来上がっている。だから熊野は大和政権成立よりずっと早い段階で成立した自然信仰の一大聖地だったと考えられる。そしてそこは明治近代に入ってなお多種多様な生物の宝庫だった。だがしかし後先のことを考えない神社合祀という国策によって壊滅的打撃を受けることになった。
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「時かわり世移りて、その神主というもの、斎忌どころか、今日この国第一の神官の頭取奥五十鈴という老爺は、『和歌山新報』によるに、『たとい天鈿女(あまのうずめ)の命のごとき醜女になりとも、三日ほど真にほれられたいものだ』などと県庁で放言して、すぱすぱと煙草を官房で環に吹き、その主張とては、どんな植物であろうがなかろうが、詮ずるところは金銭なき社は存置の価値なしと公言し、また合祀大主張紀国造紀俊は、芸妓を妻にし樟(くす)の木などきりちらし、その銭で遊郭に籠城し、二上り新内などを作り、新聞へ投じて自慢しおる」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.421』河出文庫)
男性高級官僚による遊女遊びの履歴は古く、万葉集にも見える。遊女らの中で名を残す一人に「児島」(こしま)がいる。次の二首は「遊行女婦(あそびめ)」=「児島」(こしま)が高級官僚を送り出す際に歌ったもの。
「凡(おほ)ならばかもかもせむを恐(かしこ)みと振りたき袖(そで)を忍(しの)びてあるかも」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・九六五・児島・P.154」小学館)
「大和道(やまとぢ)は雲隠(くもがく)りたり然(しか)れども我(わ)が振る袖をなめしと思(も)ふな」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・九六六・児島・P.154」小学館)
「児島」(こしま)が遊女だとなぜわかるのか。次の通り。
「右、太宰師大伴卿、大納言(だいなごん)を兼任し、京に向かひて道に上(のぼ)る。この日に、馬を水城(みづき)に駐(とど)めて、府家(ふか)を顧(かへり)み望(のぞ)む。ここに、卿を送る府吏(ふり)の中(なか)に遊行女婦(あそびめ)あり、その字(あざな)を児島(こしま)と曰(い)ふ。ここに、娘子(をとめ)この別れの易(やす)きことを傷(いた)み、その会(あ)ひの難(かた)きことを嘆き、涕(なみた)を拭(のご)ひて自(みづか)ら袖を振る歌を吟(うた)ふ」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・P.154~155」小学館)
遊女を「遊行女婦(あそびめ)」と呼ぶ習いについて「和名抄」によれば「遊行女児、宇加礼女(うかれめ)、一云阿曾比(あそび)」とある。また「この別れの易(やす)きことを傷(いた)み、その会(あ)ひの難(かた)きことを嘆き」は、「遊仙窟」の「別ルルコトハ易ク、会フコトハ難シ」からの転用。
配置転換で任地を去ることになった際、高級官僚の側から馴染みの遊女へ送った返歌もある。次の二首。
「大和道(やまとぢ)の吉備(きび)の児島(こしま)を過ぎて行(い)かば筑紫(つくし)の児島(こしま)思ほえむかも」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・九六七・大納言大伴卿・P.155」小学館)
「ますらをと思へる我(われ)や水茎(みづくき)の水城(みづき)の上(うへ)に涙(なみだ)拭(のご)はむ」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・九六八・大納言大伴卿・P.155」小学館)
また、万葉集に出てくる遊行女婦(あそびめ)では「土師(はにし)」も有名。次の二首。
「垂姫の浦を漕ぎつつ今日(けふ)の日(ひ)は楽しく遊べ言ひ継(つ)ぎにせむ」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一八・四〇四七・遊行女婦(あそびめ)土師(はにし)・P.243~244」小学館)
「二上(ふたがみ)の山に隠(こも)れるほととぎす今も鳴かぬか君に聞かせむ」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一八・四〇六七・遊行女婦(あそびめ)土師(はにし)・P.250」小学館)
なお、「土師(はにし)」の「し」について、氏姓(うじ・かばね)を表わす「氏」ではないかという説も有力。さらに、「左夫流(さぶる)」という「遊行女婦(あそびめ)の字(あざな)」があった。「心さぶし」、「淋し」(さびし)、「寒し」(さむし)、との連想から「淋(さび)しさ」を癒す「遊行女婦(あそびめ)」という意味を帯びる。
「心さぶしく南風(みなみ)吹き雪消(ゆきげ)溢(はふ)りて射水川(いみづかは)流(なが)る水沫(みなわ)の寄(よ)るへなみ左夫流(さぶる)その児(こ)に紐(ひも)の緒(を)のいつがりあひてにほ鳥の二人(ふたり)並び居(ゐ)奈呉(なご)の海の奥(おき)を深めてさどはせる君が心のすべもすべなさ 左夫流(さぶる)といふは遊行女婦(あそびめ)の字(あざな)なり」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一八・四一〇六・P.270~271」小学館)
それにしても、夜となく昼となく「左夫流(さぶる)」に溺れて遊び疲れた「後姿(しりぶり)」=「出勤する後ろ姿」を他の人々にじろじろ見られていて、恥を知らないのか、という歌がある。
「里人(さとびと)の見る目恥(は)づかし左夫流児(さぶるこ)にさどはす君が宮出(みやで)後姿(しりぶり)」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一八・四一〇八・P.271」小学館)
高級官僚の妻が私用として使う馬になぜか「左夫流(さぶる)」が乗っていたりもする。公私混同のはなはだしさは今とほとんど変わらなかったのかもしれない。
「左夫流児(さぶるこ)が斎(いつ)きし殿(との)に鈴(すず)掛けぬ駅馬(はゆま)下(くだ)れり里もとどろに」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一八・四一一〇・P.272」小学館)
「児島」(こしま)、「土師」(はにし)、「左夫流(さぶる)」、だけでなく、さらに「遊行女婦(あそびめ)蒲生娘子(かまふをとめ)」も登場する。
「雪の山斎(しま)巌に植ゑたるなでしこは千代(ちよ)に咲かぬか君がかざしに」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一九・四二三二・遊行女婦(あそびめ)蒲生娘子(かまふをとめ)・P.336」小学館)
万葉集に登場する遊行女婦(あそびめ)では、差し当たり、「児島」(こしま)、「土師」(はにし)、「左夫流(さぶる)」、「蒲生娘子」(かまふをとめ)、を覚えておけば十分だろう。ただ、古代の祭祀に登場する巫女的遊女なのかそれともただ単なる「遊行女婦(あそびめ)」に過ぎないのかという点に関し、「遊女」と書いてあるだけで安易に判断できないということは「本朝文粋」に次の指摘がある。
「蓋以遊行為其名所謂以信名之也」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第九・二三八・見遊女・江以言・P.272」岩波書店)
熊楠へ戻ろう。
「新宮中の古社ことごとく合祀し、社地、社殿を公売せり。その極(きょく)鳥羽上皇に奉仕して熊野に来たり駐(とど)まりし女官が開きし古尼寺をすら、神社と称して公売せんとするに至れり。もっとも如何(いかが)に思わるるは、皇祖神武天皇を古く奉祀せる渡御前(わたるごぜん)の社をも合祀し、その跡地なる名高き滝を神官の私宅に取り込み、藪中の筍(たけのこ)を売り、その収入を私(わたくし)すと聞く」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.491』河出文庫)
呼び名だが「渡御前(わたるごぜん)」はおそらく熊楠の慣れ親しんだもの。和歌山県新宮市新宮の「渡御前社」(わたるごぜんしゃ)が正式名称。地元では広く「おわたり様」の愛称で親しまれたらしい。だが重要なのは、日本書紀の中で、まさしくその地(新宮並びに神倉山)へ神武がやってきたのはなぜか、という点にある。
「進みて紀国(きのくに)の竈山(かまやま)に到(いた)りて、五瀬命(いつせのみこと)、軍(みいくさ)に薨(かむさ)りましぬ。因りて竈山(かまやま)に葬(はぶ)りまつる。六月(みなづき)の乙未(きのとのひつじ)の朔丁巳(ついたちひのとのみのひ)に、軍(みいくさ)、名草邑(なくさのむら)に至(いた)る。即(すなは)ち名草戸畔(なくさとべ)といふ者(もの)を誅(ころ)す。遂(つひ)に狹野(さの)を越(こ)えて、熊野(くまの)の神邑(みわのむら)に到(いた)り、且(すなわ)ち天磐盾(あまのいはたて)に登(のぼ)る」(「日本書紀1・巻第三・神武天皇 即位前紀戊午年五月~六月・P.208」岩波文庫)
この箇所で言及されている「熊野(くまの)の神邑(みわのむら)」は新宮のこと。そして「天磐盾(あまのいはたて)」は神倉山を指す。神功皇后が船に乗ったまま紀州近辺をうろうろしているのと、神武があちこちの土地の神を掃討した後になおわざわざ熊野へ迂回してから都入りするというステレオタイプ。神功皇后も神武も大規模軍事行動の直後である。血まみれなのだ。ゆえにいったん熊野へ赴き「禊」(みそぎ)した後で始めて都への入城が許可される、という形式が出来上がっている。だから熊野は大和政権成立よりずっと早い段階で成立した自然信仰の一大聖地だったと考えられる。そしてそこは明治近代に入ってなお多種多様な生物の宝庫だった。だがしかし後先のことを考えない神社合祀という国策によって壊滅的打撃を受けることになった。
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