白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「波」/融合する身体2

2019年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム
ラテン語の動物への生成がある。それを実践するのはバーナードだ。

「『口にしていると語尾が左右にはねる』バーナードが言った。『尻尾をふるんだ。尻尾をばたばたさせる。群がって空気をくぐって動いていく。こっちへ行ったり、あっちへ行ったり。一緒にかたまって動いてみたり、わかれてみたり、又一緒になる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.18」角川文庫)

次もバーナード。彼は仲間のうちでだんだん特権的で一般的な貨幣と化してくるかのように見える。しかしそれもパーシバルが登場するまでに限られているが。ともかく強度において仲間たちの少しばかり高みを保持しているようにおもえる。

「『いろんなものがひどく巨きいかひどく小さい。花の茎は樫の木のように厚ぼったい。木の葉は巨大な寺院の天蓋がようだ。僕たちは巨人で、ここに横になっているが、森をふるえさすことができる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.20」角川文庫)

バーナードは「僕たちは巨人」だという。彼の想像界の中では「木の葉は」すなわち「巨大な寺院の天蓋」だ。

彼らの上から木洩れ陽が漏れ落ちて多彩に振る舞うとき、それを地肌に受けてジニーはこういう。

「『わたしの手は蛇の皮』ーーー『あなたの顔は下に網をはられた林檎の木』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.21」角川文庫)

多彩なのは木洩れ陽だろうか、それともバーナードとジニーの身体のほうだろうか。このようなときに起こっていることをニーチェは「視覚の二重性」といっている。

「《視覚の二重性》。ーーー君の足もとの水面に突然震動が生じて鱗(うろこ)状の波が走るのと同じように、人間の眼にもそういう不確実さや曖昧さが突然生じることがある。そういうときわれわれは自問する、これは戦慄だろうか?微笑だろうか?それともその両方だろうか?と」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・漂泊者とその影・二四八・P.447」ちくま学芸文庫)

ネヴィルはいう。ネヴィルはどうも堅固なものに信念を置きたがるタイプのようだ。

「僕たちはみんな、林檎の木で、通れない執念のこもった木」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.22」角川文庫)

というのは、「僕の生命の小波などは役にも立たなかった」かららしい。さぞかし悔しい経験だったのだろう。ところでローダは壮大な想像界を語る。

「『私の中から魂が抜け出せるわ。高い波の中を航海するわたしの艦隊を考えることができるわ。はげしい接触や衝突の心配はないわ。一人で白い絶壁の下を航海するんだわ。でも沈んでいく、落ちていく!あれは戸棚の隅だし、あれは子供部屋の鏡台だわ。でもそれらが拡がって長くなる。睡りの黒い羽毛の中へ沈んでいくんだわ。あつぼったい羽根がわたしの眼を圧えつけるの。暗闇の中をさまよってると拡がった花壇が見えるわ。ミセス・カンスタブルがパンパス草の隅のうしろから走ってきて、伯母さんが馬車でわたしを連れ戻しに来たって言いに来るわ。舞い上って、逃げるの。ばねの踵のついた靴をはいて木の頂へ飛び昇るの。でも玄関の扉のところにいる馬車の中へ落ちこんでいくわ。伯母さんが黄色い防止の羽根飾りをうなずかせながら坐っているわ。眼を滑かに光る大理石のようにつめたくして。ああ、夢から覚めたい!あら、衣裳箪笥があるわ。こんな海の水から逃げ出したいわ。波がどんどんわたしの上に積み重なってくるの。大きな波の肩の間でわたしをもみ洗い、向きを変えさせ、ひっくりかえされるの。手足が延びていくの。長い光の中で、長い波の中で、果しない小径の中で、人がどんどんつづいていく、つづいていく』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.25」角川文庫)

ローダのいう「高い波の中を航海するわたしの艦隊」。始めは「水を張った水盤に浮かべた花弁」に過ぎなかったのだが、しかしこの一挙性にこそ子どもたちの夢があり、ということは、子どもたちがしばしば起こしがちな残酷さの発露もある。さて、「波がどんどんわたしの上に積み重なってくるの。大きな波の肩の間でわたしをもみ洗い、向きを変えさせ、ひっくりかえされる」とある。思い出そう。ラヴクラフトが描いた夢の光景を。

「カーターは人間であり間であり、脊椎(せきつい)動物であり無脊椎動物であり、意識をもつこともありもたないこともあり、動物であり植物であった。さらに、地球上の生命と共通するものをもたず、他の惑星、他の太陽系、他の銀河、他の時空連続体の只中を法外にも動きまわるカーターたちがいた。世界から世界へ、宇宙から宇宙へと漂う、永遠の生命の胞子がいたが、そのすべてが等しくカーター自身だった。瞥見(べっけん)したもののいくつかは、はじめて夢を見るようになったとき以来、長い歳月を経ても記憶にとどめられている夢ーーーおぼろな夢、なまなましい夢、一度かぎりの夢、連続して見た夢ーーーを思いださせた。その一部には、地球上の論理では説明のつけられない、心にとり憑(つ)き、魅惑的でありながら、恐ろしいまでの馴染(なじみ)深さがあった。これが紛れもない真実であると悟ったとき、ランドルフ・カーターは至高の恐怖にとらわれ、くらめく思いがしたーーー色を失う月のもと、ふたりしてあえて忌み嫌われる古びた埋葬地に入りこみ、ただひとりだけが脱け出した、あの怖気(おぞけ)立つ夜の慄然(りつぜん)たる絶頂でさえほのめかされることもなかったような、このうえもない恐怖だった。いかなる死であれ、運命であれ、苦悩であれ、自己一体感の喪失からわきおこる不二無類の絶望をひきおこせはしない。無に没して消えうせることは安らかな忘却であるにせよ、存在感を意識しながら、その存在というものが他の存在と区別できる明確なものではないことーーーもはや自己をもってはいない存在であることーーーを知るのは、いいようもない苦悶(くもん)と恐怖の極(きわみ)にほかならない」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.132~133』創元推理文庫)

「やがて波は高さを増し、カーターの理解を深めようとして、断片となっているいまのカーターを極微の一部とする多形の実体にカーターを復帰させていた。波がカーターに告げた。宇宙のあらゆる形態はーーー四角が立方体の断面であり円が球の断面であるごとくーーー一段高い次元の類似する形態の一面が交差した結果にすぎないのだと。三次元の立方体や球は、人間が推測や夢によってしか知ることのない、四次元の類似する形態の断面ということになる。そしてこの形態も五次元の形態の断面であり、こうして次つぎと繰返していけば、原型的な無限の目眩く到達不可能な高みに達することになる」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.137~138』創元推理文庫)

ラヴクラフトの場合、SFあるいはホラーという形式を選択している。そうでなければ描くことができなかったのかもしれない。ちなみに画家のゴッホは、ラヴクラフトが小説形式で記述しているような事物と事物との関連性、いわば「不思議な関係」について、次のように述べている。

「昨日と一昨日とでガシエ嬢の肖像を描いたから、近いうち君に見せたい。ドレスはばら色、突き当りの壁は緑でオレンジ色の斑点がある。赤い絨毯(じゅうたん)にも緑の斑点があり、ピアノは濃い紫で、高さ一メートルに幅五十センチだ。僕が愉快に描いた肖像画だがーーーなかなかむつかしかった。今度は小さなオルガンに向かった所をポーズさせようと約束してくれた。君のためにも一点描くとしようーーーこの絵は細長い麦の絵と対照したらたいへんよいと思う。それで一方の画布は縦に長い桃色で、もう一方のは淡い緑と黄緑とで桃色の補色になる。しかし、まだまだ人々が互いに引き合う絵や自然の断片の一つと他の一つの間に、不思議な関係のあることを理解するまでには前途遼遠だ」(「ゴッホの手紙・下・P.272」岩波文庫)

そしてこの絵は実際に描かれた。さて、ローダが述べているような光景は延び縮みの激しい点が特徴的だ。それを数値化することはできない。ウルフが言いたかったこともここに含まれていると考えてよいようにおもう。数という名のトリック。フッサールはいっている。

「すでにガリレイのもとで、数学的な基底を与えられた理念体の世界が、われわれの日常的な生活世界に、すなわちそれだけがただ一つ現実的な世界であり、現実の知覚によって与えられ、そのつど経験され、また経験されうる世界であるところの生活世界に、すりかえられていたということは、きわめて重要なこととして注意されなければならない。このすりかえは、ただちにその後継者たち、つまり引きつづく数世紀間の物理学者たちによって相続されることになった」(フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学・P.89」中公文庫)

数学あるいは物理学によってあらゆる生活世界は可能だと考える態度である。フッサールから見ればガリレオは数学の万能性という考え方の持ち主に映って見えた。そしてこうもいう。

「物理学の、したがってまた物理学的自然の発見者ガリレイ、彼の先駆者達を無視したくないというなら、彼らの仕事を完成した発見者と言ってもよいガリレイは、《発見する天才》であると同時に《隠蔽する天才》でもあるのだ」(フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学・P.95」中公文庫)

数学や物理学がいけないと言っているわけではない。数学あるいは物理学への宗教的なまでの「信仰」は危険である。というのもそれは事物を「隠蔽する」ことができる、とフッサールは指摘する。フッサールには世界大戦に対して数学ならびに物理学が途方もない規模で貢献したことに対する反省がある。数字の万能性に対する信仰という錯覚についてはニーチェもいっていたことだが。

「《自称学問としての言語》。ーーー文化の発展に対する言語の意義は、言語において人間が他の世界に並ぶ一つの自分の世界をうちたてた、ほかの世界を土台から変えて自分がそれに君臨できるほど、それほど堅固であると考えたような一つの立脚点をうちたてた、という点にある。人間は、事物の概念や名称を《永遠の真理》であると長い期間を通じて信じてきたことによって、動物を眼下に見下ろしたあの誇りをも身につけてきたのである。じっさい彼は言語をもつことが世界の認識をもつことだと思いこんだ。言語の形成者は、自分が事物にほんの記号を与えているにすぎない、と信じるほどには謙虚でなく、むしろ彼は、事物に関する最高の知を言葉で表現したのだ、と妄想した。事実、言語は学問のための努力の第一段階なのである。ここでもまた、もっとも強い力の泉が湧きでてきた源は、《真理をみつけたという信仰》である。ずっと後になってーーー今やはじめてーーー言語を自分たちが信仰してきたためにとんでもない誤謬を流布してしまったということが、人々の意識にのぼってくる。さいわいにもあの信仰にもとづく理性の発展をふたたび逆行せしめるには、もう手遅れである。ーーー《論理学》もまた現実世界には決して相応じるもののない前提、たとえば諸事物の一致とか異なった時点における同じ事物の同一性とかいう前提にもとづいている、だがその学問は現実とは相反する信仰(そのようなものが現実世界にたしかにあるということ)によって成立したのである。《数学》に関しても事情は同様である。もしはじめから自然には決して精密な直線とかほんとうの円とか大きさの絶対的な尺度などはない、と知られていたら、数学はきっと成立していなかったであろう」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・第一章・十一・P.34~35」ちくま学芸文庫)

ローダはさらに、「私の中から魂が抜け出せるわ」と、半分はしゃぎ半分おそれる。身体から或る一定の強度が失われていく感覚。モンテーニュはそれを「各瞬間ごとに自分から抜け出て行くような」と述べた。「健康に恵まれている」にもかかわらず。

「死の想像ほどいつも私の心を占めていたものは他にない。私の生涯のもっとも放縦な時期にも、婦人たちにまじって遊んでいる私を見て、人々は何かの嫉妬か、はかない希望にひとりで思いふけっていると考えたのだが、実はそのときの私は、誰であったか、数日前、こういう宴会からの帰り道に、私と同じようにふしだらな夢想や、恋や、楽しい時のことで頭をいっぱいにしているところを、突然熱病と死に襲われた人のことを思い、同じことが私の耳もとにさし迫っているのだと考えていたのだった。こう考えたからといってべつに眉をひそめたわけではない。誰しもはじめのうちはそういう想像の痛みを感ぜずにはいられない。しかしそれをいじくり廻し、思い浮かべていると、長い間には、かならず手なずけてしまうものだ。そうでなければ、私は絶えず死の恐怖と妄想にとりつかれたことであろう。なぜなら、私くらい自分の生命を信用せず、自分の寿命を当てにしなかった者はいないからだ。私はこれまで非常に頑健でほとんど中断されたことのない健康に恵まれているけれども、その健康も長生きの希望を延ばしてはくれないし、病気もそれを縮めはしない。私は各瞬間ごとに自分から抜け出て行くような気がしている」(モンテーニュ「エセー1・P.160~161」岩波文庫)

モンテーニュはそう考えた。しかし「波」のモチーフは寄せては返す生の永劫回帰、あるいは死のイメージばかりを暗示しているだけではない。リズムとしての「波」に着目しなくてはならない。

「楽音が自然の音よりいっそう強力に作用するのは、自然が感情を表現するだけにとどまるのに対して、音楽は感情を私たちに暗示するからだ。詩の魅力はどこからくるのだろうか。詩人とは彼の心のなかで感情をイメージへ発展させ、イメージそのものをリズムに適した言葉へと生育させて、感情を読み取れるようにするひとのことだ。眼の前をこれらのイメージが通り過ぎるのを見て、私たちの方は、それらのイメージがその言わば情動的等価物であったような感情を体験することになろう。しかし、これらのイメージは、リズムの規則的な運動なしでは、私たちにとってさほど強力に理解されることはないだろう。私たちの心をあやし、眠らせたあげく、夢のなかでのように自分を忘れさせて詩人とともに考えたり見るようにさせるのは、リズムなのである」(ベルクソン「時間と自由・P.27~28」岩波文庫)

残念なのは、ローダが女性の身体という有機体の拘束から「抜け出す」ことではなく、女性の身体のまま自分自身を肯定できる社会的環境がなかったということだ。男女間格差があらかじめ設定されているところで仮に「勝利」したとしても本音で喜ぶ男性はそれほどいないようにおもわれるのだが。そうではなかったようだ。

BGM

「波」/融合する身体1

2019年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム
生成変化の主題は作品「波」において絶頂に達するかのように見える。しかし個々の「波」はそのつど一回限りのものとして世界に刻み込まれる流動的でなおかつ可動的な境界線としての波動でしかない。一回限りの瞬間的な「波」としては大変貴重だ。しかし個々の「波」はいつも寄せては返す一つの「波」へと回収される。ところが一回限りの瞬間的な「波」の波動はそれが起こったというだけですでにそこには全世界へおよぶ波動として全世界の生成変化がある。作品「波」もまた描かれた生成変化としては一つの多様体に過ぎないのかもしれない。個々の登場人物たちもそれぞれが一つずつの多様体として動き語りはするものの、同時に「抽象化された波全体」の一部分を瞬間的に閃く一つの具体的な断片でしかない。実際のところ、作品「波」は幾重にも読解可能であるだけでなく、おそらく世界中で何万何千という数の論文が発表されてきた注目作あるいは問題作ではあろう。しかし作品の何が注目でありどのように問題なのだろうか。さっそく不可解におもわれることがある。作品「波」の中には数という概念の否定が明確に立てられている。にもかかわらず作品「波」について何万何千という「数に換算される」論文が発表されてきたこと自体、小説家ウルフとしては微笑ましくも滑稽なことではあるまいか。控えめにいって、作品「波」には多次元の交錯が顕著に見られる。そしてそのような多次元性を一つの次元において、なおかつ唯一の論点に絞り込んで論じることはいつも正しいことなのか、と疑問におもわれる。むしろ正しく読むとはどういうことなのか。「波」は逆に読者にそう問いかけつつなおかつ読まれるべくして書かれている。

「『僕は茎だ』ーーー『僕は全く細い根だ』ーーー『僕の両眼は緑の葉だ』ーーー『僕は灰色のフランネルの着物を着た子供だ』ーーー『僕の眼はナイル河畔の沙漠に立つ石像の瞼のない眼だ』ーーー『僕は生垣の蔭で水松樹のように緑だ』ーーー『僕は土の真中へ根をおろしている』ーーー『身体は茎だ』ーーー」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.9~10」角川文庫)

変化におけるこの速度。ルイスの言葉なのだが、だからといって、何もルイスだけがこのような思考の速さを持っているわけではない。子どもにありがちな思い込みでもない。ルイスはなるほど「ルイス」という名を持ってはいる。しかしその運動は名前の固定性を超越する「欲望する多様体」とでもいっておこう。そしてそれは極めて情動的で直接的なものであって、けっして「何の表象〔代理〕でもない」。

「生成変化が情動そのものであり、欲動それ自体であるということ、そしてこれは何の表象〔代理〕でもない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.205」河出文庫)

ドゥルーズ&ガタリはこうもいう。

「生成変化とは、みずからが保持する形式、みずからがそれであるところの主体、みずからが所有する器官、またはみずからが果たす機能をもとにして、そこから微粒子を抽出し、抽出した微粒子のあいだに運動と静止、速さと遅さの関係を確立することなのである。そうした関係は、自分が今<なろう>としているものに最も《近い》ものであり、それによってこそ生成変化が達成されるのである。またその意味でこそ、生成変化は欲望のプロセスだといえる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.234」河出文庫)

ここで「生成変化は欲望のプロセス」とされている。ルイスの言葉における様々で急速な生成変化を見ると明らかなように、欲望は或る種の過程を「線として」経ていくことがわかる。そしてそれはドゥルーズもガタリも述べてはいないが、次のマルクスの論考がなくては見えなかったであろう資本主義社会の掟の「線にも」忠実に沿って展開しているといえる。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

同時にAでありBでありCでありDでありーーー、という無限の商品系列の戯画化だともいえるのである。そして子どもたちのあいだでは貨幣商品は出現するものの特権的で一般的な価値形態としての貨幣は現われてこない。したがって、ルイスの変態系列はいわゆる「全体的な、または展開された価値形態」として捉えることができ、またそう捉えることに何らの問題もない。

ところで、スーザンは何か悩んでいる。

「『わたしの苦しさをポケット・ハンカチーフに包みこんでしまおう。ーーー苦しみをとり出して橅の木の下の根っこに置こう。それを指にはさんでよく考えてみよう』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.11」角川文庫)

彼女の悩みは「ハンカチーフに包みこんでしま」うことができ、さらにそれは「とり出して橅の木の下の根っこに置」くこともでき、さらにそれを「指にはさんでよく考えてみ」ることもできる。スーザンは多感だ、というのではなく、スーザンは多感に《なる》と同時に反省的思考にも《なる》ということでなければならない。

スーザンは続ける。自分の眼についてだけでなく、ジニー、ローダ、バーナードの眼について語る。

「『わたしの眼は堅苦しいーーージニーの眼は散って無数の輝きになるーーーローダの眼はここらの青い花見たいーーー貴方のはあふれて一杯になるけれど、決して破れたりしない』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.13」角川文庫)

眼について触れておかねばならない。

「アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる」(ニーチェ「偶像の黄昏・P.96」ちくま学芸文庫)

「眼は光を拘束するのであり、眼それ自身が拘束された光なのである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.264」河出文庫)

それはまた「同じ強度に到達するところでは、同じ複雑さをもつ構造を通して、姿を現す」に違いない。

「諸物体の眼に見える輪郭とは、それらに対するわれわれの可能的な行動の素描なのである。したがって、視覚は、様々な程度で、きわめて多様な動物において見出される。また、それは、同じ強度に到達するところでは、同じ複雑さをもつ構造を通して、姿を現すだろう」(ベルクソン「創造的進化・P.131」ちくま学芸文庫)

間違えてはいけないことがある。たった今ベルクソンから「可能的な行動の素描」と引用し、ドゥルーズが「可能的」と述べていることは一体どういうことか、なのだが。

「われわれの知覚は、事物そのものの素描よりも、その事物に対するわれわれの可能的な行動の素描を与える。われわれが対象に見つける輪郭が示しているのは単に、その対象のうちで到達できるもの、変化させることができるものでしかない。われわれは、物質を横切って諸々の線が引かれているのを見るが、これらの線上をわれわれは移動するよう促されている」(ベルクソン「創造的進化・P.240」ちくま学芸文庫)

さらに。

「知覚とは、私たちの理解するところでは、事物に対するみずからの可能な行動を計るものであり、逆にじぶんに対して事物がおよぼすことの可能な作用を測るものにほかならない」(ベルクソン「物質と記憶・P.111」岩波文庫)

「私たちの感覚が知覚に対して有する関係は、だから、じぶんの身体の現実的行動がその可能的あるいは潜在的行動に対して有している関係とひとしい。私の身体の潜在的行動は、それ以外の諸対象にかかわり、それらの対象群にあって素描されている。その現実的な行動はじぶんの身体そのものに関係し、したがって身体のうちで描きだされているのである。すべてはかくして結局のところ、あたかも現実的行動ならびに潜在的行動が、その適用される点に、あるいはその原点へと真に回帰することをつうじて、外的イマージュが、私たちの身体によってそれを取りかこむ空間中に反射され、現実的行動はこの身体をつうじてその身体の実質の内部に留保されるかのように生起することだろう。またこのゆえにこそ、身体の表面ーーーこれが内部と外部とに共通する境界であるーーーは、知覚されると同時に感受される〔身体という〕延長のただひとつの部位なのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.112~113」岩波文庫)

と、ある。「可能的」あるいは「可能的な世界」でも構わない。重要なのは、あらかじめ先に「可能性」が存在しているわけでは何らない、ということだ。それは事後的に、いきなり出現する。たとえば、犯人が鴨川を渡ったがゆえに、その瞬間、犯人が鴨川を渡らなかった「可能性」について行動の素描を一挙に下描きすることができる。そういう理解でなければならない。

さて、「霧」が生じてくる。まるで「夢の国にいる」ようだ。もしかしてここは海の中なのではないかと疑うことができる。バーナードの言葉だ。

「『お話をしているうちにお互いに気持がしっくりしてくる。霧にかこまれて、夢の国にいるようだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.13」角川文庫)

スーザンは答える。

「『でもあなたは行っちまう、抜け去ってしまう。いろいろおしゃべりしながら上の方へ昇ってしまう』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.13~14」角川文庫)

海の中なのでは、と問うたのはなぜか。それは「おしゃべりしながら上の方へ昇ってしまう」ことができると前提されているからである。「昇って」しまえば海面に顔を出すことになるだろう。この場がたとえ子どもたちにとって、ほんのちょっとした木立ちや羊歯の生えた遊び場に過ぎないとしても。だからむしろここは海の中なのだ。バーナードはいう。地上に上がっている。

「『撃たれてしまう!かけすのように撃たれーーーやつらは僕たちを狐だと思うよ。走って!』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.13~14」角川文庫)

子どもたちは「かけす」に、「狐」に《なる》。飛んで逃げなければならない。とっとと走らなければならない。

ネヴィルはいう。バーナードとスーザンの二人を指して、「ふらふら垂れている針金、ーーーいつもからまってばかり」だと。二人は「ふらふらした針金」だ。

「『バーナードはボートをほったらかして、僕のナイフを持ったまま追いかけて行ったんだ。竜骨を切る、よく切れる奴なんだよ。あいつらはふらふら垂れている針金、ーーーいつもからまってばかりいてさ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.16~17」角川文庫)

ルイスが話題を変える。が、ルイスはまだ変化し続けている。

「『僕の根は、植木鉢の枝根のように、分け拡がって、この世界をぐるぐるまわる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.17」角川文庫)

ところで人間は、ウルフがおもっていたようにではなく、本当にそうなるかも知れない。二十一世紀に入ってからのテクノロジーの爆発的発展は、とりわけサイバネティックスの高度化はそれを可能な射程におさめつつある。サイバネティックスはルイスがいっているように言語(エクリチュール)を通して様々に生成変化していく。遺伝子操作、iPS細胞、ゲノム編集、など。これらはどれも言語(エクリチュール)の操作に関わる。人間以外の他のどんな生物にも《なる》ことができることを日々証明している。それがどのような事態なのか。デリダはかつてこういった。

「絵画書法的であれ表意書法的であれたんに文字表記の身体的動作を示すためだけでなく、また表記を可能にするものの全体を示すために、また意味する側面を越えて意味される側面自体を示すために、したがって、表記が文字的であろうとなかろうと、またたとえそれが空間内で配分するものが声の秩序とは無関係なものーーー映画書法(シネマトグラフィ)、舞踊書法(コレグラフィ)は勿論、絵画的、音楽的、彫刻的な<書法(エクリチュール)>などに至るまでーーーだとしても、表記というもの一般を惹き起し得るあらゆるものを示すために、<エクリチュール>と言われるのである。同様に、競技者の<エクリチュール>について、また次の諸分野を今日支配しているさまざまな技術に想いをいたすならば、さらにいっそう確実に、軍隊の<エクリチュール>あるいは政治の<エクリチュール>について、語ることもできるだろう。こういうことを言うのは、たんに以上の諸活動に二次的に関連している表記法の体系を記述するためだけでなく、これらの活動そのものの本質と内容を記述するためである。また、まさにこの意味において、今日生物学者は生きた細胞内の情報の最も基本的な過程に関して、エクリチュールとプロ=グラム〔前=文字〕を語るのである。けっきょく、本質的諸限界をもとうともつまいと、サイバネティックス的《プログラム》におおわれたあらゆる領域は、エクリチュールの領域であるだろう。サイバネティックスの理論は、かつて機械と人間を対立させる役割を果たしてきたあらゆる形而上学的概念ーーー魂、生命、価値、選択、記憶の概念にいたるまでーーーを自身から放逐し得ると仮定しても、自身の歴史=形而上学的所属が同様に告発されるに至るまで、文字言語(エクリチュール)、痕跡、文字あるいは文字素の概念を保有せざるを得ないであろう」(デリダ「グラマトロジーについて・上・P.27」現代思潮社)

そしてデリダが指摘したようにヘーゲルは「<エクリチュール>についての最初の思惟者」でもある。

「《記憶》としての知性は、表象一般としての知性が最初の直接的直観に対して行なう内化作用(想起作用)の諸活動と同じ諸活動を、《言葉の》直観に対して行なう。ーーー(1)あの結合(直観とそれの意味との結合)が記号なのであるが、知性はこの結合を自分のものとしながら、この内化(想起)によって《個別的な》結合を《一般的な》結合すなわち持続的な結合に高める。そしてこの一般的持続的な結合においては名前と意味とが知性に対して客観的に結合されている。知性はまたさしあたり名前である直観を《表象》にする。その結果、内容すなわち意味と記号とが同一化され、《一つの》表象になる。そして表象作用はそれの内面性において具体的であり、内容は表象作用の現存在として存在する。ーーーこれが名前を《保持する》記憶である。ーーー《名前》はこうして、《表象界》において現存し、そして効力をもっているような《事象》である。(2)《再生産的》記憶は、直観や心像なしに、名前のなかで《事象》をもち且つ認識し、また事象と共に名前をもち且つ認識する。内容が知性のなかでもっている《現実存在》としての名前は、知性のなかにある知性自身の《外面態》である。そして、知性によって作り出された直観としての名前を《内化(想起)する》とういことは、同時に《疎外する》ということであって、知性はこの疎外において自己自身の内部に自己を措定するのである。もろもろの特殊な名前の連合(連想)は、感覚する知性・表象する知性・または思惟する知性がもっているもろもろの規定の意味のなかに含まれており、知性は感覚するもの等々として自己内でこれら幾系列もの規定を経過して行くのである。ーーーライオンという名前の場合には、われわれはそのような動物の直観を必要とせず、また心像をさえ必要としない。そうではなくて、われわれが名前を《理解する》ということによって、名前は心像を欠いた単純な表象である。われわれが《思惟する》のは名前においてである」(ヘーゲル「精神哲学・下・P.144~146」岩波文庫)

「もろもろの名前の連関が意味のなかに横たわっている限り、意味と名前としての存在との結合はなお総合であり、知性は自分のこの外面態のなかで単純に自己自身に復帰していない。しかし知性は一般者であり、自分のもろもろの特殊な疎外の単純な真実態である。そして知性が自分のもろもろの特殊な疎外を完全に自己のものにするということは、意味と名前とのあの区別を廃棄することである。表象作用が行なうこの最高の内化(想起)は知性の最高の疎外であって、知性はこの疎外において自己を《存在》として措定し、名前そのものの・すなわち無意味な言葉の一致的空間として措定する。この抽象的存在であるところの自我は、主観性として同時に、種々なる名前を支配している威力であり、幾系列もの種々なる名前を自己のなかで確固としたものにし、確固とした秩序のなかで保持するところの空虚な《きずな》である。種々なる名前が単に《存在するもの》であるにすぎず、そして知性がここでは自己内でそれ自身自己のこの存在である限り、知性は《全く抽象的な主観性》としてのこの威力である。記憶においては、種々なる名前の諸系列における諸分肢は相互に全く外面的に対抗し合っており、そしてまた記憶自身もたとい主観的外面性ではあってもとにかく外面性である。《記憶》はこのために《機械的》と名づけられる」(ヘーゲル「精神哲学・下・P.149」岩波文庫)

それがどのような未来を招来するかはわからない。しかしデリダがエクリチュールといったとき、既にサイバネティックスの射程は世界中の専門家によって認識されていたはずなのだ。人間は滅びる。しかしその前に、ウルフの精神性を救っておかなければならない。そしてそのことにこそ、なお人間には可能性があるのだ。しかしウルフとは一体どのような人だったのか。どの研究者をも越えて、特にウルフに限ったことではなく、中井久夫はこう述べている。

「分裂病者の社会『復帰』の最大の壁は、社会の強迫性、いいかえれば強迫的な周囲が患者に自らを押しつけて止まないこと、である。われわれはそれを日々体験している。われわれは社会の強迫性がいかに骨がらみかを知っており、その外に反強迫性的ユートピアを建設することはおそろしく不可能だからである。ただ言いうることは、私がかつて分裂病者の治療は『心のうぶ毛』を失ってはならないといったが、実はそれこそは分裂病者の微分(回路)的認知力であり、それが摩耗してはすべてが空しいことである。少なくともそれは、分裂病者あるいは分裂病親和者から彼らが味わいうる生の喜びを奪うであろう」(中井久夫「分裂病と人類・P.33~34」東京大学出版会)

特定の芸術家に限らず、日常生活の中ではしばしばすれ違っている他者。他者とは知らずに毎日すれ違っている他者。個人差はあるにせよ、誰もが自分自身の中にも幾分かは分かち持っている他者性。そのような他者に特有とも言うべき「心のうぶ毛」とは何か。

「たまさかの治療場面で、治療者が感じる、慎みを交えたやさしさへの敏感さにあらわれているようなーーー極めて表現しにくいものであるけれどもあえて言えばーーー一種の『心のうぶ毛』あるいはデリカシーというべきものは、いったん失ったら取り戻すことがむつかしい。このことをわざわざ述べる必要があるのは、慢性分裂病状態からの離脱の途がどうも一つではないらしいからである。自然治癒力それ自体が、新しい、多少とも病的な展開を生む原動力となりうることは、自己免疫病や外傷性ショックをはじめ、身体疾患においては周知のとおりであるが、慢性分裂病状態からの離脱過程においても、一見、性格神経症、あるいは《裏返しの神経症》という意味でのいわゆる精神病質的な状態にはまり込むことが少なくない。これらは、いわば『心のうぶ毛』を喪失した状態である。『心のうぶ毛』を喪失すること自体は何も分裂病と関係があるわけではなく、そういう人は世に立ち交っている人のなかにも決して少なくないけれども、『高い感受性』をかけがえのないとりえとする分裂病圏の人にとって、この喪失の痛手はとくに大きい」(中井久夫「分裂病と人類・P.34」東京大学出版会)

あの「かけがえのないもの」、「一回きりのもの」、「反復不可能なもの」、「単独性」(個性)、それらは消滅していくだろう。そしてそれらの消滅を何ともおもわない人々によって人間は各瞬間において一回限りの貴重なものを低く侮り嘲笑すらするようになっていくに違いない。ニーチェが警告していた「一般化・凡庸化・群畜化・規格化・大きなしたたかな頽廃が・偽造が・皮相化が・薄っぺらな記号化が」世界を支配するようになるだろう。やってくるのは絶望的な退屈と変化の多い怠惰の支配の始まりであり、そしてその支配は、デリダが告発していたサイバネティックスによる「自身の歴史=形而上学的所属が同様に告発されるに至るまで」続くだろう。言うまでもなく「歴史=形而上学的所属」とはナチス・ドイツの優生思想によるホロコーストをその一例とする。「告発されるに至るまで」というのはこうだ。たとえばクローン人間は本当に人間であるのか、といった問いをクローン人間自身が問題として告発するに至るまで。ヘーゲルのいう「量の質への転化」は差し当たりまだ勘案しないという条件つきであるとしても。なぜなら、或るクローン人間と別のクローン人間との《あいだ》の量的差異は質的差異を発生させず、量的な意味に限られた再生産過程であれば両者は等価関係に入ることができる。しかし或るクローン人間と別のクローン人間との《あいだ》に設定された《貨幣価値による質的差異》が存在する場合、質的な意味での再生産は諸階級の再生産となって出現するほかない。とすれば大量のクローン人間の再生産過程が様々な質的差異の発生でもある限り、その《あいだ》で起こってくることは、どちらか一方あるいは多数の階級の絶滅を含む諸階級闘争の可能性であるほかないからである。さらにこの想定は、どのようなクローン人間をどれだけ所有しているかという、諸階級自身の価値を反映する鏡としても機能しないわけにはいかないからでもある。

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猫としてのドゥルーズ

2019年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
習慣。それは人間を賢明にするだけでなく、この上なく怠惰にする。微妙で多彩で豊穣で生産的なものをみすみす取り逃がしてしまって平気でいることがしばしばある。

「私たちが一連の鉄槌の打撃を聞くとき、それらの音は純粋感覚としての不可分のメロディーをかたちづくり、さらに私たちが動的な進行と呼んだものを引き起こす。しかし、私たちは同一の客観的原因が作用しているのを知っているので、この進行をいくつかの段階に切断し、しかもその際、それらを同一的なものと考える。そして、この同一的諸項の多様性はもはや空間における展開によるとしか考えられないので、私たちはやはりどうしても真の持続の記号的イメージである等質的時間という観念にたどり着いてしまう。一言で言えば、私たちの自我はその表面で外的世界に触れている。私たちの継起的諸感覚も、相互に溶け合ってはいるが、その原因の客観的性格をなしている相互的外在性をいくぶんかとどめている。それ故に、私たちの表面的な心理生活は等質的環境のなかで繰り広げられ、そうした表象の仕方をするのに大した努力は要らないのである。ところが、私たちが意識の深奥によりいっそう侵入していけばいくほど、この表象の記号的性格がだんだんと際立ってくる。つまり、内的自我、感じたり熱中したりする自我、熟慮したり決断したりする自我はその諸状態と変容が内的に相互浸透し合う力であるが、それらの状態を相互に分離して空間のなかで繰り拡げようとするや否や、深甚な変質を蒙るのである。だが、このより深い自我も他ならぬ表面的な自我と唯一つの同じ人格をつくりあげているのだから、必然的に同じ仕方で持続するように見える。そして、私たちの表面的な心的生活は、同じ客観的現象が繰り返されるのを常に表象しているために、相互に外在的な諸部分へと切断されるので、そのように限定された諸瞬間の方も今度は、私たちのよりいっそう人格的な意識状態の動的で不可分の進行のなかに切れ目を入れることになる。表面的自我の諸部分が等質的空間のなかに併置されることで物質的対象に確保されることになったこの相互的外在性が、こうして意識の深奥まで反響し、拡がっていく。少しづつ、私たちの諸感覚は、それらを生んだ外的原因と同じように、それぞれに分離の道をたどることになるのである。ーーー持続についての通常の考え方が純粋意識の領域への空間の漸次的侵入に基づくことをよく示しているのは、自我から等質的時間を知覚する能力を取り上げるためには、自我が調節器として使っている心的事実のより表面的な層を取り去れば十分だという事実である。夢は私たちをまさにこの状態に置くものである。というのは、眠りは身体組織の機能の働きを緩め、とりわけ自我と外的事物との交流の表面を変えるものだからである。その場合、私たちは持続を測るのではなく、感ずる。持続は量から質の状態へ戻るのだ。経過した時間の時間の数学的評価はもはやおこなわれず、混然たる本能に席を譲る。それは、あらゆる本能と同じように、ひどい間違いもするが、またときには並外れた確実さで事にあたることもある。目覚めた状態においてすら、日常の経験から、私たちは質としての持続と言わば物質化された時間とのあいだに違いがあることを知っているはずだ。前者は意識が直接に達するような持続、動物もたぶん知覚している持続である。後者は空間のなかでの展開によって量となった時間である。私がこの数行を書いているときに、隣の大時計が時刻を告げている。だが、私の耳は他に気をとられていて、すでにいくつか時を打つ音を聞いた後でしか、それに気づかない。だから、私はそれらを数えていたわけではない。それでも、注意を遡らせる努力をすれば、すでに鳴った四つの音を総計し、それらを現に聞いている音に付け加えることができる。もし自分自身に立ち返って、いましがた起こったことについて注意深く自問するなら、私は次のようなことに気づくだろう。最初の四つの音は私の耳を打ち、私の意識を動かしさえしたのだが、しかしそれらの音の一つ一つが生み出した諸感覚は、併置されずに、全体に或る固有の相を授けるような仕方で、一種の楽節をつくるような仕方で、互いのうちに溶け合っていたのだ、と。打たれた音の数を遡って推算するために、私はこの学説を思考によって再構成しようと試みた。想像力によって私は一つ、次いで二つ、次で三つと音を打った。そして、想像力が正確に四という数に到達しないかぎり、意見を求められた感性は、全体の効果が質的に異なると答えたことになる。してみると、感性は四つの音を自分の流儀で、しかも加算とはまったく別のやり方で確認していたわけであって、個々別々の項の併置のイメージを介入させてはいなかったのである。要するに、打たれた音の数は、質として知覚されるのであって、量としてではない。持続はこのように直接的意識に現れるのであり、そして拡がりから引き出された記号的表象に席を譲らないかぎり、その形態を保持するのである。ーーーしたがって、結論として、多様性の二つの形式、持続のまったく異なる二つの評価、意識的生活の二つの様相を区別することにしよう。注意深い心理学は、真の持続の延長的記号たる等質的持続の下に、その異質的な諸瞬間が相互に浸透し合う持続を見分ける。また、それは、意識的諸状態の数的多様性の下に質的多様性を、はっきり規定された諸状態にある自我の下に継起が融合と有機的一体化を含むような自我を、見分ける」(ベルクソン「時間と自由・P.150~154」岩波文庫)

習慣。そこでは一回限りの反復から差異的=微分的なものが削ぎ落とされて、逆に一般的なものに等質化される。そして人間はただ単なる単純なものに習熟するばかりだ。ドゥルーズはいう。

「習慣は、反復から、何か新しいもの、すなわち(最初は一般性として定立される)差異を《抜き取る》」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.207」河出文庫)

この「差異を《抜き取る》」という暴力。人間が反復しているのは各瞬間における一回限りの「生」だ。その各瞬間ごとにわずかずつの差異が存在するのは自明である。にもかかわらず習慣はこの「差異を《抜き取る》」。生から差異的なもの=微分的なものを平然と強奪する。常に動的である以上各瞬間ごとに違っており更新されていく人間の生であるにもかかわらず、人間は、反復によって同一化できるものしか認知しようとしない習慣に慣れてしまっている。この場合、「慣れ」=「差異を《抜き取る》」という暴力、という社会的公式が世界を支配してしまっていることは余りにも多くの人々によって主張されてきたし証明されてもきた。しかし人間は思想するにせよ、そもそも思想したいとおもっているのだろうか。むしろ何ものにもわずらわされることなくいつまでも安眠していたいというのが本音なのではないだろうか。ドゥルーズはこうもいっている。

「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本性〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.354」河出文庫)

その通り。人間は「何かショックを受けて」始めて「思考する」。言い換えれば「何かショックを受け」ない限り何も「思考」しないかもしれない。歴史的事実としてアウシュヴィッツがそうであり原爆投下がそうだった。今ではここ滋賀県において三日月知事による「大戸川ダム」凍結解除というグローバル資本経済動向無視の県行政がそうである。これらは形態においても規模においてもそれぞれ違うけれども、質において同質のイデオロギーによって貫かれている。ヘーゲルのいうように「量は質へと転化する」のだ。さらに三日月知事が悪質なのは、戦後生まれであるにもかかわらず、年齢のわりにはケインズ主義的大型公共事業への根拠なき信仰があることだ。ケインズ主義的大型公共事業はそもそも国家の基礎的インフラが整備されていない時期に限り効果を見込めるものでしかなく、その効果といっても全国民(ここでは滋賀県民)全体に行き渡るような性質を何ら有していない。著しい偏りが見られる。むしろケインズ主義的大型公共事業が威力を発揮できたのは、たとえばアメリカの自動車産業がまだまだ勃興期ならびに再編期にあったことに最たる条件があった。大型ダム建設もまたそうだ。ソ連に対する資本主義陣営の危機感があった。しかし時代はもはや二十一世紀も十九年が経過した。言い換えれば、かつてケインズ主義的大型公共事業はアメリカの自動車産業と無数の大型道路拡張整備事業と一体化されており、それはインターネットを始めとする情報通信産業の普及によりほぼ壊滅に追い込まれたという歴史的事実に問題点を探らなければならないということだ。事実、アメリカの自動車産業の衰退と大型道路整備事情との同時多発テロ的破滅は機を一にしている。ーーーそして「何かショックを受けて思考」するようになるまで、人間は実のところ、まったく驚くほどぼうっとしていたがっているというのがまさしく本当なのに違いない。その点、人間は猫と何ら異なるところはないといえよう。そしてそれは「至福」でもある。ドゥルーズは「受動的総合」といっている。

「快感とは、〔おのれのイマージュで〕満たすひとつの観照によってもたらされる感動であり、この観照それ自身のうちに、弛緩《と》縮約の事例が縮約されているのである。受動的総合という至福が存在するのだ」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.209」河出文庫)

ところが人間は、そして猫もまた、何かに「出会う」。出会ってしまう。常に既に不意打ちに巻き込まれる可能性の中を生きている。そのとき、ようやく人間は、そして猫もまた、「思考せよと強制」《される》。

「世界のなかには、思考せよと強制する何ものかが存在する。この何ものかは、基本的な《出会い》の対象であって、再認の対象ではない。ーーー出会いの対象は、所与ではなく、所与がそれによって与えられる当のものである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.372~373」河出文庫)

人間は急速に思考する=認識する「冒険的」方向へ引っ張られる。と同時に人間の生は、認識へと向かう生のための確実な地盤をさまざまな立場において占拠する確かな生でもあらねばならない。人間はこのまったく違った二方向へ同時に強烈に引っ張られる。さらに、まったく違った二方向へ同時に強烈に引っ張られることを引き受け、むしろそれをみずから欲望するということでなくてはならない。もっとも、人間も、猫もまた、できれば「受動的総合という至福」のままでいたいのではあるが。何らかの「ショック」ゆえ、「至福」は一挙に遠のいてしまう。冒険的な認識への意志と認識を確かなものにするための地盤を確保する生の欲望を欲望するほかなくなる。そのようなことを意志する人間とはどのような人間だろうか。ニーチェはいう。

「さまざまな困難が途方もなく増大してしまっているような生涯というものがある、思想家の生涯がそれである。ここでは、その生涯について何かが物語られた場合には、ひとは、注意深く、耳を傾けざるを得ない、というのは、それを聞いただけで幸福と力が溢れて来、しかも後に来たる者の生活に光が照射されるような、そうした《生の諸々の可能性》について、ここでは語られるのを聞き取り得るからである、ここでは、一切のものが、極めて発明的で、熟慮に充ち、大胆で、絶望的で、しかも充ち溢れる希望で一杯であり、あたかもいわば最も偉大なる世界周航者の旅路に似た観があって、また実際に、生の最も辺鄙なかつ最も危険の多い領域の周航と、同じような趣きをもったものだからである。このような生涯において驚嘆すべきことは、異なった方向に向かって突き進む二つの敵対的な衝動が、ここでは、いわば《一つの》軛(くびき)の下で進むように強制されているという事柄のうちにある。つまり、認識を欲する者は、人間生活が成り立っている地盤というものを、何度でも繰り返し離れ去って、不確実なるものの中へと冒険的に突き進んで行かねばならないし、また、生を欲する衝動の方は、その上に立脚できるほぼ確実な立場というものを求めて、何度でも繰り返し探索してゆかねばならない」(ニーチェ「哲学者の書・P.404~405」ちくま学芸文庫)

ところで「出会いの対象は」、「所与ではなく、所与がそれによって与えられる当のものである」とある。では、この「所与がそれによって与えられる当のもの」とは何だろう。それこそが習慣化の作業によって削ぎ落とされてしまった「差異」なのだ。

「差異は、所与そのものではなく、所与がそれによって与えられる当のものである。思考は、差異にまで進むことを、どうして回避できようか。思考は、このうえなく思考に対立しているものを、どうして思考せずに済ませることができようか。というのも、わたしたちは、同一なものに関しては、なるほど全力を傾けて思考しはするのだが、きわめてささやかな思考〔思想〕すら得ることができないからである。反対に、わたしたちは、異なるもののなかで、もっとも高度な、しかし〔経験的には〕思考されえぬ〔思いも寄らぬ〕思考を、獲得するのではなかろうか。《異なる》もののこうした抗議は、十分に意味のあることだ。たとえ、差異が、それ自体消え去ってゆくようにして、そしておのれが創造する雑多なものを一様化してゆくようにして、その雑多なもののなかへ割りふられるといった傾向があるにせよ、差異は、感覚されるべき雑多なものを与えてくれるものとして、まずはじめに感覚されなければならない。しかも差異は、雑多なものを創造するものとして、思考されなければならないのである。(わたしたちが諸能力の共通の働き〔共通感覚〕に立ち戻っているからではなく、かえって、バラバラになった諸能力が互いに拘束し合うような暴力的関係に入っているからである)。譫妄(デリール)が、良識の根底にあり、だからこそ良識は、いつでも二番手のものなのである。思考は、差異を思考せざるをえない。すなわち、絶対に思考とは異なるものでありながらも、思考する機会を提供し、思考にひとつの思考〔思想〕を与える差異、これを思考は思考せざるをえないのである」(ドゥルーズ「差異と反復・下・P.156~157」河出文庫)

おそらく思考の根底には思考以前的なありとあらゆる差異化=微分化された無数の情報の氾濫があるだけだ。身体はそれを一挙に感覚する。感覚された種々雑多で様々な情報が社会的文法化の機能によって整頓され整除され意識に上るまでのほんのわずかな瞬間に人間身体は身体全体を用いてこの文法化に参与する。ところがしかし、その根底でまず最初に差異化=微分化された無数の情報を受け止めるとき、人間の思考は一体どのような状態を生きているのだろうか。それはほかでもない、「譫妄」(せんもう)状態のうちにありながら、新しく流れ込んできた諸感覚の積極的受容と同時に差異的=微分的な諸感覚を一定の方向へ差し向ける一挙性を立ち上げる生成への速度の力だ。人間はこの力を本来、無政府的でなおかつ無目的的な力として生きる。そしてこの「速度としての力」はそもそも「譫妄」(せんもう)状態のうちにすでに宿っていたものである。だから人間の思考は始めは意識的なものでは何らなく、むしろそれは無意識的な「譫妄」(せんもう)状態のうちへと常に供給されている欲望の流れたる「器官なき身体」を力の源泉としている。

たゆとうような「至福」を目指して逆に過酷な思考へ生成していく。人間とは何と熾烈な生なのか。とはいえ、世界中のあちこちをせっせと縦断的に移動するわけではない。それでは燃費がかさむ。節約=経済(エコノミー)に背く。むしろほとんど動かないほうがよい。

「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)

遊牧民は、そして猫もまた、無駄に動きまわらない。不意に襲いかかる領土化の襲撃から逃れ去るために、常に速度としても強度としても有効な逃走線を引いていく準備ができている。とりわけ猫は無駄を避ける。領土化(敵に捕獲され従属することを強いられること)から常に高速で逃走するために有効な逃走線を一挙に下描きする能力に長けている。猫が日なたぼっこしつつ「受動的至福」を貪ることができている理由は、この「常に高速で逃走するために有効な逃走線を一挙に下描きする能力に長けている」からにほかならない。そしてそのような思考態度はドゥルーズ&ガタリによれば次のように表記される。

「脱領土化そのものにおいて再領土化する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)

そんな猫には一抹の不安はある。

「人目を引かずにいるというのは容易ならざることだ。アパートの管理人や隣人からも気づかれずに」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.249~250」河出文庫)

さて、ヴァージニア・ウルフ作品について。あの波は、波動は、揺らぎは、それにしても一体何なのだろう。課題は依然としてに残されたままだ。しかしそれにはマルクスがこう答えている。余りにも有名な格言。「人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである」。

「一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから」(マルクス「序言」『経済学批判・P.14』岩波文庫)

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「忖度」(そんたく)の構造

2019年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
まず、特定のコミュニケーションの用法に関して習得され習慣化していなければならない。それは必ずしも日本語だけとか英語だけとかに限ったものでなくてもよく、身振りなどを通してその意図が翻訳できうる言語圏におけるコミュニケーションであればどの言語でも構わない。ここでは広い意味で身体言語をも含める。

「反復される努力は、それがつねにおなじものを再生するにすぎないならば、いったいなんの役にたつというのだろう。反復がほんとうに効果を有しているとするなら、それはまず《分解し》、つぎに《ふたたび合成し》ながら、かくて身体という知性に語りかけるところにある。反復は、それがあらたにこころみられるたびごとに、ふくまれていた運動を展開し、そのつど身体の注意をあらたな細部に対して呼びおこすが、その細部はそれまでは気づかれずに生起していたものなのである。反復は身体に分割させ、分類させる。かくて身体に対して、なにが本質的なことがらであるかを強調してみせるのだ。反復は、全体的な運動のうちに一本一本、内的構造をしるしづける輪郭線を見いだしてゆく。この意味で運動は、身体がそれを理解したときに習得されたといえるのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.220~221」岩波文庫)


次にレーヴィットのいう「かれらを共感的にむすびあわせる、地下道」とその非論理性ということについて。

「或るひとびとは、その者たちの意図のいっさいに反して、たえず互いに語りあうだけでおわってしまう。他方、べつのひとびとは、『造作もなく』互いに理解しあっている。しかも、後者が前者のひとびとよりも明瞭にみずからを表現していたからではない。後者のひとびとが互いに諒解しあう方法は、かれらを共感的にむすびあわせる、地下道によるものだからである。かれらが相互に諒解しあうこの源泉によって、ひとつの語りかたが可能になる。第三者の目には、この語りかたは飛躍に充ち、論理をまったく欠くものと見えるにちがいない。だが、その語りかたは、飛躍し、論理的でなく見えるのとおなじ程度に、その者たち自身にとっては、明瞭で判明なものなのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.287」岩波文庫)


実例。

「ナターシャも夫とさし向かいになると、ただ夫婦の間にのみ見られる方法で話を始めた。つまり、推理や演繹(えんえき)や結論を無視して、あらゆる論理の法則にそむきながら、とくべつ明瞭迅速に、互いの思想を理解したり、伝えあったりしはじめたのである。ナターシャはこの方法で夫と語ることに慣れてしまったので、ピエールが論理的な考え方をする時は、かえってそれが二人の間の円満でないことを証明する、もっとも確かな徴候と考えるほどになった。ピエールが理屈っぽい調子で諄々(じゅんじゅん)と話しだす時や、また彼女までが夫の調子につりこまれて、同じようなことをはじめた時などは、それが必ず諍(いさか)いのもとになるということを、彼女はよく知っていた。

二人さしむかいになって、ナターシャがうれしそうに眼を大きく見はりながら、そっと夫のそばへより、だしぬけにすばやくその頭へ手をかけて、自分の胸へぎゅっと締めつけながら、『さあ、今こそあなたはすっかり、すっかりあたしのものよ、あたしのものよ。もう逃がしやしないから』と言った瞬間から、この論理の法則に反した会話がはじまった。実際、一時にさまざまな問題を語るということだけでも、すでに非論理的であった。そういうふうに一時にさまざまな事柄を話しても、相互の明晰な理解を妨げないのみか、かえってそれが完全な理解の確実な表徴となるのであった。

夢の中では、その夢を支配する感情のほか、すべてが不確実で、無意味で、矛盾だらけであるが、それと同様に、あらゆる理性の法則に反したこの思想交換においても、はっきり秩序だっているのは言葉ではなくして、言葉を指導する感情であった」(トルストイ「戦争と平和4・P.455~456」岩波文庫)


その反復可能性について。

「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)

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「灯台へ」/美の犯罪11

2019年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム
リリーは夫人の幻影を「いつも作り直さなければならないのだった」。

「すぐに間に割って入り、彼女をたしなめて目覚めさせるとともに、最後には強引に注意を引きつけるものだから、夫人の幻影(ヴィジョン)はいつも作り直さなければならないのだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.353」岩波文庫)

とすれば、夫人の幻影は「いつも作り直」すことができるものでもある。何度でも描き直すことができる。修正可能だ。では修正可能なのはなぜなのか。むしろ何度も修正を迫ってくるのはなぜなのか。はっきりしたヴィジョンを得ていないことによる。しかしはっきりしたヴィジョンとはこの場合どういうことをいうのか。ラカン用語から引用したい。夫人の幻影というヴィジョンをリリーが持っているとしても、その幻影(ヴィジョン)が定まらないのは現実的に定まらないというわけではない。対象「a」としての幻影(ヴィジョン)の機能がリリーの内で定まっていないからそういう修正・再修正といった無駄が生じてくる。

「新生児にならんとしている胎児を包む卵の膜が破れるごとに何かがそこから飛び散るとちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレット、薄片の場合も、これを想像することはできます。薄片、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにでも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ってしまったものと関係があるなにものかです。それがなぜかは後ですぐにお話ししましょう。それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走りまわります。ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと考えてごらんなさい。こんな性質を持ったものと、我われがどうしたら戦わないですむのかよく解りませんが、もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。この薄片、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーーー、それはリビドーです。これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押え込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルにしたがっているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象『a』について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。対象『a』はこれの代理、これに姿を与えるものにすぎません。乳房はーーー対象か自分かが曖昧なものとして、哺乳動物に特徴的なもの、たとえば胎盤と同じようにーーー個体がその誕生の時点で失った彼自身の一部、もっとも古い失われた対象を象徴することができるものを表しています。そしてその他の対象についても同じことが言えます」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.263~264」岩波書店)

「私が主体の分割あるいは疎外の機能と呼んでいるものをもっとも確かな形で打ち立ててくれるのは、欲動の再認です。では欲動は、どのようにして再認されたのでしょうか。それはこういうことからです。すなわち、主体の無意識において生起している弁証法は、何も快感の領野に、つまりめでたく、やさしく、好ましいイメージに準拠しているとはかぎらないということからです。それどころか、結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっているということが見出されたではありませんか。これらの対象は対象『a』、つまり乳房、糞、眼差し、そして声です」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.327」岩波書店)

さて、ジェイムズは父親ラムジー氏に殺意を覚える。といっても実際に父親を殺すのではなく、父親を父親たらしめている「専制的で暴君的な態度に他ならず、周囲の人に望みもしないことをさせ、思うようにしゃべる権利さえ奪ってしまう力」へ殺意を向けずにはいられない。ラムジー氏の力は息子ジェイムズに対する余りにも重々しい依存体質でしかなくなっている。それは取り扱い方次第で将来のジェイムズをめちゃくちゃに破壊してしまわないとも限らない。

「むしろそれは、本人にも気づかぬうちに覆いかぶさってくるような何かでーーーたとえば突然現れる黒い翼の凶暴な怪鳥ハルピュイアにも似て、冷たく堅いかぎ爪とくちばしを使って何度も何度も襲い掛かる(ジェイムズは子どもの頃に、そのくちばしがふくらはぎを突いた痛みをいまだに覚えていた)、かと思うとすぐに姿を消して、後には悲しげに本を読む老人の姿ばかりを残すもの。ジェイムズが息の根を止め、心臓を一突きにしたいと思ったのは、まさにそれだった。ーーーそれはすなわち専制的で暴君的な態度に他ならず、周囲の人に望みもしないことをさせ、思うようにしゃべる権利さえ奪ってしまう力なのだから」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.357」岩波文庫)

ジェイムズは注意深く回想する。

「僕の記憶の中にある最初に轢かれた足とは、一体誰の足だったのか?それが起こったのはどこだったのだろう?こうした場面には必ず背景があるものだーーーよく繁った木々や花々、差しこむ光や二、三の人影など。どうやらすべてが穏やかな庭の中での出来事だったようで、そこには憂鬱の影も見当たらなければ、両腕を振り回すような大騒ぎもない」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.359」岩波文庫)

最初は判然としない。けれども確かに思い出されることがある。「思い出すのは何かが立ち止まり、暗くのしかかってきて決して動こうとしなかったこと」。

「車輪が誰かの足を轢きつぶしたのは、この静かな世界でのことに違いなかった。思い出すのは何かが立ち止まり、暗くのしかかってきて決して動こうとしなかったこと。何かが宙空にひらめいたかと思うと、不毛ながらも鋭利な刃物のような、三日月刀のようなものが振り下ろされて、この幸福な世界の木の葉は花々までも打ちのめし、しぼませて散り果てさせたのだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.360」岩波文庫)

ラムジー氏が「振り下ろ」すと同時に子どもたちに与える社会的文法は、「鋭利な刃物のような、三日月刀のようなものが振り下ろされて、この幸福な世界の木の葉は花々までも打ちのめし、しぼませて散り果てさせ」てしまう。それがなくては人間社会で言語を駆使することはできないからだが、他方、自然界から生き生きとした生の魅力を一挙に奪い去ってしまう。子どもたちは成長段階の早いうちにすでに生の魅力的な多彩さを感じられなくなる。むしろそれを逆に言語の側から受け取るようになる。ジェイムズは身体全体で感じ取り受け止めるタイプの人間であり、だからラムジー氏が与えたような社会的文法に対して感性的に「不毛」だと反発をおぼえる。なるほどだから人々は、実にしばしばピクニックや登山や海洋クルーズに出かけたくなるのだろう。ただしそれが有効だったのは二十世紀前半までだ。ゆえに二十一世紀もすでに二十年近く過ぎて高度なテクノロジーの支配下におかれると、そのような擬似的自然回帰ですら面倒におもえてくる。ニーチェのいうように「絶望的な退屈と変化の多い怠惰」を渇望するようになる。

「ただ母のことを思い出す時には、いつも父の存在も同時に意識にのぼった。そしてその父の姿はジェイムズの後を追いかけてきて、彼の思いに影を落とし、それを震えさせたり揺さぶったりせずにはおかないのだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.363」岩波文庫)

母を思い出すといつも父をも思い出す。この同時性はスピノザ参照。

「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)

海はウルフにとってなくてはならない生の泉である。そこからあらゆる生が発生しそこへと回帰していく海というもの。永遠の象徴。

「〘一点の汚れも見えない海だわ、とリリー・ブリスコウは立ったまま入江を見渡しながら思った。一枚の絹の布地を大きく広げたみたいだ。距離って途方もない力があるものね。だってこれだけ遠ざかると、みんな海に呑み込まれてしまって永久に姿を消し、まるで周囲の自然の一部になってしまったような気がするものーーー〙」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.365」岩波文庫)

次のセンテンスでリリーは「非現実な空気と調和してい」ると感じる。彼女はときどきそのような「雰囲気に染まる」ことがある。そうした感性の持ち主だ。したがって、「或る一刻」をなす非現実な時間とまた別の「或る一刻」をなす非現実な時間との間には「習慣が事物の表面にすっかり網を張ってしまうまでの間」が割り込んでいることを知っている。習慣によって構造化された言語の「網」。その社会的文法にがんじがらめにされる《あいだ》の「ひととき」、彼女は「何か隠れていたものが不意に姿を現わすようで、生命がとてもみずみずしく感じられる」。このような繊細この上ない感受性の持ち主は精神的錯乱状態に陥ることが少なくない。しかしこのような感受性なくして彼女はない。彼女は実にしばしば引き裂かれている。

「今すべては、この早朝の静けさ、空虚さ、非現実的な空気と調和していた。時々風景はこんな雰囲気に染まることがある、と彼女はしばし手を休めて思う。細長い窓は朝日を受けてきらきらと輝き、羽毛のように淡く青い煙がゆっくりと立ちのぼるのが見えた。そう、こんなふうに非現実的な気分になることがあるわ。たとえば長い旅行から帰ってきた時や病気で床に就いていた後など、いつもの習慣が事物の表面にすっかり網を張ってしまうまでの間、これとよく似た息をのむような非現実感に見舞われることがある。何か隠れていたものが不意に姿を現わすようで、生命がとてもみずみずしく感じられるのだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.373」岩波文庫)

この「生」の「みずみずし」さ。それが感じられないところで彼女は生きていくことはできない。そしてそこにあるのはいつも「振動」であり「運動」であり「変化」である。それは宇宙総体の形態変化からけっして切り離せないものだ。

「要するに、あなたの日常的な経験にぞくする非連続的な対象をたがいにむすびつけ、ついでそれらの対象の質が有する不動な連続性を、それが占める場にあって振動へと分解してみよう。この運動のみに注目し、そのさいこの運動の背後にひろがる分割可能な空間をはなれて、その運動性だけを、すなわち、あなたの意識がじぶんじしん遂行する当の運動にあってとらえる、その分割されていない行為のみを考え、それ以上のなにものも考えないようにしてみればよい。そのばあい物質にかんして獲得されるのは一箇のヴィジョンである。そのヴィジョンは、おそらくあなたの想像力にとって厄介なものかもしれないが、しかし純粋なものである。そのヴィジョンから払拭されて胃いるのは、生の要求にもとづいてあなたが、外的知覚のただなかで物質に付けくわえたものなのである。ーーーこんどは私の意識を回復し、それとともに生の要求を回復してみよう。そのときには、遥かにとおい間隔をおいて、事物の内的歴史にぞくする莫大な時期のおのおのをそのつど飛びこえながら、ほとんど瞬間的なものといってよい眺望がとらえられてくる。その眺望はこのたびは彩色されて、そのいっそう際だった色彩のなかで凝縮されているのは、要素的なものが無限に反復され、また変化しているさまである。それはたとえば、ひとりの走者が継起的にしめす無数の姿勢が、ただひとつの象徴的な態勢へと縮約されて、それを私たちの目が近くし、芸術が再生して、その態勢がだれにとっても、疾走する人間の映像(イマージュ)となるようなものなのだ。私たちがそのときどきにじぶんの周囲に投げかける視線がとらえるものは、かくして、無数の内的な反復と進化から生まれた結果にほかならない。それらの結果は、まさにそれゆえに非連続的なものであり、だから私たちがその結果から、連続性をふたたび樹立するとすれば、それは、じぶんが空間中の『対象』に帰属させる相対運動をつうじてのことである。変化はいたるところに存在し、しかも深部に存在する。私たちは変化をそこかしこに局在化するけれども、それは表面にあってのことである。かくて私たちは物体を、質については安定していながら、同時にその位置にかんしては動いているものとして構成する。いっぽう場所のたんなる変化であっても、それがみずからのうちに凝縮しているものは、私たちの目からみれば宇宙総体の形態変化なのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.409~410」岩波文庫)

「言葉(フレーズ)なら思いつくし、ヴィジョンも浮かんでくる。それなりに美しい光景だし、美しい言葉だとも思う。だが本当につかみたいのは、神経の受ける衝動そのもの、何かになる以前のものそれ自体なのだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.376」岩波文庫)

リリーは自分が「本当につかみたいのは、神経の受ける衝動そのもの、何かになる以前のものそれ自体」だと強くおもう。「それ自体」というもの。ほとんど不可能なもの。にもかかわらず或るときゴッホは、おそらく「不可能なもの」を捕らえるに当たって、非常に的確な言葉を残している。

「いつも糸杉に心をひかれる。ひまわりを扱ったように描いてみたいのだ。まだ僕が感じているように描いたものを見たことがないのだ。線が美事で、ちょうどエジプトのオベリスクのような均衡を備えている。それにその緑の質が非常に上品なのだ。陽の照った景色のなかでは黒い斑点になるが、その黒い調子は最も興味のあるもので、正確に捕えるのがとてもむつかしいと思う。しかし、ここでは『青に対して』、もっと具体的に言えば『青の中』において見なければならない」(「ゴッホの手紙・下・P.188」岩波文庫)

リリーは半ば諦めとともにいる。

「もしインスピレーションが訪れることがあるのならその時を待つしかないのだろう。どうあがいてみても、考えることも感じることもできないような時もある。そして考えることも感じることもできないとしたら、そんな時の自分の居場所はどこにあるというのか?結局はここ、この芝生の上、この地面の上しかないだろう、とリリーは思う」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.377」岩波文庫)

ところがその姿勢には「待つこと」の大切さがある。むろんただ単に人を待つとか夏休みを待つとかいう意味ではまったくない。ニーチェは意識を鋭くするのではなくむしろ優雅に構え「筋肉を遊ばせ、意志の馬具をはずす」ことを「美」と呼んだ。

「筋肉を遊ばせ、意志の馬具をはずして立つこと、これが、崇高な者たちよ、君たちすべてにとって最も困難なことである。威力がものやわらかになって、可視の世界へ降りてくるとき、そういう下降をわたしは美と呼ぶ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第二部・崇高な者たち・P.187」中公文庫)

猫になったカーマイケル。人間世界で彼は詩人として有名になっている。だがリリーにとってはいまもずっと猫のまんまであり、おそらくカーマイケル自身も猫であり続けたいとおもっている。

「カーマイケルという名の有名人になられたわけね、と思って微笑みつつも、たとえ新聞の中ではそんな人でも、ここにいらっしゃる氏はまったく昔のまんま、人間というのは実にいろいろな姿を身にまとえるものなのだ、とつくづく思う」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.378」岩波文庫)

リリーは人間が変身するということ、生成変化を遂げていくということについて、猫のカーマイケルから学んだのだ。そんなことを考えていると、不意に「蝶番(ちょうつがい)のきしむ音」が聞こえる。

「ふいに物音がしたので客間の窓に目を向けたーーー蝶番(ちょうつがい)のきしむ音だった。穏やかな風が窓辺で遊んでいるようだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.380」岩波文庫)

蝶番(ちょうつがい)のきしみ。その場を支配している文法が脱線したりあるいは溶けて流れ去るときに必ず発生しないわけにはいかない兆候であり記号だ。リリーはラムジー夫人の回想にふける。夫人はいつも自分の美を意識することなく、むしろ周囲の注目を忘れて花や鳥に《なる》ことで美しかった。さらにリリーはこう考える。

「何かをきちんと見るには、五十対くらいの目が必要なんだろう、と彼女は考えた。いや、あの一人の女性を理解するには、五十対でも足りないくらいだ。その中には、夫人の美にまったく無反応な目も混じっていた方がいい。何より大事なのは、空気のように微細にして微妙な、ある種のひそやかな感覚だろう」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.385」岩波文庫)

ここまでくればもうリリーは夫人に囚われることはない。夫人に囚われることなく、さらには絵画手法に囚われることなく、リリー自身の夫人を描くことができる。それは多様体としての夫人を描くことにほかならない。そのための手法はすでに手に入れたも同然だ。主観をたった一つだけ設定する必要性など本当はなかったのだ。夫人自身がさまざまに生成変化する多様体だった。無数の主観に生成することができた。それは同時に主観を持たないということでもある。夫人の死によって世界に一つの《穴》が空いた。リリーに課せられた問いはそれをどのようにして《埋める》のか。あるいは《埋めずに》放置するのかというダブルバインドだった。リリーは《埋める》ほうを選んだ。夫人は唐突に死ぬことで夫人の幻影がそれをリリーに教えた。

「《主観を一つだけ》想定する必要はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい。それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている『諸細胞』の一種の《貴族政治》?もちろん、互いに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?」(ニーチェ「権力への意志・四九〇・P.34」ちくま学芸文庫)

「《肉体》と生理学とに出発点をとること。なぜか?ーーー私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(『霊魂』や『生命力』ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、『主観』は永遠的なものではないということに関しても同様である。また、闘争は命令と服従のうちにもあらわれており、権力の限界規定が流動的であることは生に属しているということに関しても同様である。共同体の個々の作業や混乱すらに関して統治者がおちいっている或る《無知》は、統治がおこなわれる諸条件のうちの一つである。要するに、私たちは、《知識の欠如》、大まかな見方、単純化し偽るはたらき、遠近法的なものに対しても、一つの評価を獲得する。しかし最も重要なのは、私たちが、支配者とその被支配者とは《同種のもの》であり、すべて感情し、意欲し、思考すると解するということーーーまた、私たちが肉体のうちに運動をみとめたり推測したりするいたるところで、その運動に属する主体的な、不可視的な生命を推論しくわえることを学んでいるということである。運動は肉眼にみえる一つの象徴的記号であり、それは、何ものかが感情され、意欲され、思考されているということを暗示する。主観が主観に《関して》直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、《偽って》解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである」(ニーチェ「権力への意志・四九二・P.35~36」ちくま学芸文庫)

リリーのもとにディオニュソス的生の感覚が戻ってくる。

「今はすべての感覚が夢うつつの境にあって、表面は凍っていても、奥の方でとても激しく動いている感じがした」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.391」岩波文庫)

BGM