ダイダラホウシという名は今でも子どもたちの間で時々聞かれる。遠い昔の話だからだろうか。遠い昔には実際にいたというのだろうか。というより、むしろ戦後日本になって逆に、ますます耳にする機会が増したように思われないだろうか。熊楠も関心を寄せてはいる。けれども柳田國男ほどのめり込んで述べてはいない。順を追ってみよう。
「大太法師より転訛して、本誌〔『東洋学雑誌』〕に見えたる、ダイダラボウシ、ダイラボッチは出でたるか。世界通有の俚伝をBenjamin Taylor,‘Storyology’,1900,p,11に列挙せる中に、『路側の巌より迸(ほとばし)る泉は、毎(つね)に某仙某聖の撃ちて出だせるところにして、丘腹の大窪はすべて巨人の足跡たり』とあるを合わせ考えるうちに、この名称を大なる人の義とせる『笑覧』の切は正見と謂うべし。再び攷うつに、『宇治拾遺』三十三章に、盗賊の大将軍大太郎の話あり。その人体軀偉大なりしより、この名を享けたるならん。ダイダラ、ダイラ、二つながら大太郎を意味するか。中古巨漢を呼ぶ俗間の綽号(あだな)と思わる。果たして然(しか)らば、大太は反って大太郎の略なり」(南方熊楠「ダイダラホウシの足跡」『南方民俗学・P.292』河出文庫)
そこで「宇治拾遺物語」を見てみる。
「昔、大太郎とて、いみじき盗人の大将軍ありけり」(「宇治拾遺物語・巻第三・一・P.76」角川文庫)
と、それだけで終わってしまいそうなイメージがなくもない。けれども熊楠はそう簡単に終わらせることのできる説話だと思ってはいない。というのは、名前が大変似ているというだけでなく、盗人は盗人でも、「いみじき」とあるように、例外的に驚異的力の持ち主として上げている点に着目すべきだからである。その意味では熊楠の関心は柳田とは別の意味で高かったと思われる。熊楠の文章を追うと「一本ダタラ」に関連する次の伝説を見ることになる。熊楠はいう。
「広畠氏知りし人の話に、伊勢の巨勢という村をはなるること三里ばかりの山、四里四方怪物ありとて人入らず。大胆なるものあり、その山に近く炭焼きし、冬になりて里に出でんとするに、妻なる者出産近づき止むを得ず小屋に止まるに、妻にわかに産す。よって医に薬もらわんとて夫走り行きぬ。帰りて見れば、小屋に血淋璃として人なし。大いに驚き鉄砲持ち、鍋の足を三つ折り鉄砲に込(こ)めて、雪上の大足跡をたずね行くに、一丈ばかりの大人ごときもの妻の髪をつかみ、吊し持ち行く。後より追いかけ三十間ばかりになりしとき、かの者ふりむき、妻を樹枝にかける。さて、この者の顔を見るや否、妻を攫み首を食い切る、と同時にかねてかかる怪物を打たんには脇を打つべしと聞きたるゆえ、脇を打ちしに大いに呻き、山岳動揺して走り去る。日暮れたるゆえ帰り見れば、生まれたる児は全く食われたりと見え、血のみあり。翌日行きて血を尋ね穴に至りしに、大いなる猴(さる)苦しみおる。それを打ち殺し、保存の法もなきゆえ尾を取り帰る。払子(ほっす)のごとき白色のものにて、はなはだ美なり」(南方熊楠「山男について、神社合祀反対の開始、その他」『南方民俗学・P.416』河出文庫)
では一本ダタラの正体はただ単に大きな「猴(さる)」だったということだろうか。そう簡単でもない。大型の猿が生息していたとするなら、少なくとも熊楠の周囲で「伊勢」に伝わるこの種の伝説だけが特化されて残されるということはなく、逆に全国津々浦々に残されているのが常識的だろう。ところが一本ダタラの場合、そうではない。だからこそ熊楠は専門外の分野であるにもかかわらずわざわざ書き残した。一方、柳田も、一本ダタラについては、熊楠から聞いたとして紹介している。
「南方熊楠(みなかたくまぐす)氏に聞いた話であるが、一本ダタラは誰もその形を見た者はいないが、しばしば積雪の上に幅一尺ばかりもある大足跡を一足ずつ、印(しる)して行った跡を見るそうだ」(柳田國男「一目小僧・二」『柳田國男全集6・P.225』ちくま文庫)
一本ダタラは、しかし、なぜ「一本」でなければならないのか。また同様に、妖怪に多い特徴として「一つ目」が上げられる。「一つ足」と「一つ目」とについて、柳田はいう。そしてとりわけそれらは「山の神」との結びつきが強い傾向に注意する必要性があると思われる。
「信州の松本平では、山神の跛者(びっこ)だと言うているという事は、平瀬麦雨(ばくう)君がこれを報ぜられた。この地方では何でも物の高低あるものを見ると、これを山の神と呼び、その極端なる適用にしてしかも普通に行われているのは、稲草の成育が肥料の加減などで著しく高低のある場合に、この田はえらく山の神ができたなどというそうである。これから推測すると、一本ダタラその他の足の一つということも、眇者(かんち)を目が一つというほど自然ではないが、やはりまた元は松本地方で考えているように、跛者を意味していたのではなかろうか。そうしてこの地方でも土佐の片足神などと同じく、山の神に上げる草履類は常に片足だけだそうである」(柳田國男「一目小僧・五」『柳田國男全集6・P.232』ちくま文庫)
次の文章で柳田は「御霊が五郎に」変わっていく必然的過程を述べている。歴史書の中に登場する実在の人物の名と混同されてきた結果を踏まえているからだが、特に残念無念のうちに非業の死を遂げた人物の名と混同されやすい。他方、その初発となったと考えられる人物の名は菅原道真であって太郎でも五郎でもないのだが、祟り神=怨霊としては一、二を争う御霊であるには違いない。なお、神代を含めると初発は菅原道真だと言えない事情が出てくるのでこの場合は省略する。ただ、もし本当に神代を含めて議論しようとすると、記紀神話に登場する「蛭子」(ヒルコ)、「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)など、怨霊化したに違いない名も勘案しなくてはいけない。そうすると話がたまらなく複雑化する。しかしここで述べられている箇所に限ってみても既に、海に流された「蛭子」(ヒルコ)、熊野で「根の国」に入った(死んだ)「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)、などに限らず、全国津々浦々で祭祀対象とされている「〔若〕王子信仰」は、暗黙の裡に怨霊の系列に含まれていると考えられてよいだろう。
「御霊が五郎に間違ったのにはなお仔細(しさい)がある。御霊は文字の示すごとくミタマであって、ひとの霊魂を意味している。我々の祖先はその中でも若くて不自然に死んだ人のミタマをことに怖れ、打ち棄てておくと人間に疫病その他の災害を加える者と考え、年々御霊会(ごりょうえ)という祭をして、なるだけ遠方へ送るように努めたが、人の力だけでは十分でないところから、ある種の神様に御霊の統御と管理とを御依頼申しておった。後世に至っても祇園(ぎおん)の牛頭(ごず)大王がその方の専門のようになってしまわれたが、古くは天神も八幡も、それぞれこの任務の一部分を御引受けなされたのである。天神は人も知るごとく、御自身がすでに御霊の有力なるものであったからもっともと思うが、八幡様の方は今の思想では何ゆえということが解らない。しかも石清水のごときは、その京都まで上(のぼ)って来られた当初の形式が、いかにもよく紫野今宮の御霊の神などと似ていたのみならず、近い頃まで厄神(やくじん)参りと称して、正月十五日にこの山の下の院へ参拝する風があったのを見ると、何か仔細のあったことと思われる。また若宮・今宮などと称して非業に死んだ勇士の霊を八幡に祭ったという例は往々にあるが、熊野や諏訪や白山などではそのような話を聞かぬのを見れば、この神に限ってよく御霊を指導して、内にはやさしく外に対しては烈しく、その厲威(れいい)を働かしめる御神徳を昔は備えられたのであろう。もししかりとすれば鎌倉の権五郎、八幡太郎の家来で左の眼を箭(や)で傷ついたという話のある人を、鎌倉の御霊で八幡様の摂社で、八幡の統御の下に立つ亡霊を祭った社の神と間違えても、必ずしも無学の致すところとは言われず、諸国の同名の社がなるほどと言ってこの説に従ったのも仕方がなかったと見ねばならぬ」(柳田國男「一目小僧・二十」『柳田國男全集6・P.264~265』ちくま文庫)
柳田は「一つ目/一つ足」を特徴とする妖怪について、いったん次のようにまとめている。神とは何かに関する。それは「過剰-逸脱」の象徴的存在でなければならなかった。だから柳田が次に語っているように「一目小僧は多くの『おばけ』と同じくーーー実は一方の目を潰された神である」。
「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統と失った昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなって、文字通りの一目に画をかくようにはなったが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく神託予言を宣明(せんみょう)することを得たので勢力が生じ、しかも多分は本能のしからしむるところ、殺すには及ばぬという託宣もしたかも知れぬ。とにかくいつの間にかそれが罷(や)んで、ただ目を潰す式だけがのこり、栗の毬(いが)や松の葉、さては箭に矧(は)いで左の目を射た麻、胡麻その他の草木に忌が掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考えた。目を一つにする手続もおいおい無用とする時代は来たが、人以外の動物に向っては大分後代までなお行われ、一方にはまた以前の御霊の片目であったことを永く記憶するので、その神が主神の統御を離れてしまって、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいことこの上なしとせざるを得なかったのである」(柳田國男「一目小僧・二十一」『柳田國男全集6・P.267~268』ちくま文庫)
巨大過ぎるもの。極少過ぎるもの。身体のどこかの箇所が数の上で多かったり逆に少なかったりするもの。それらはあるいは神として畏怖され、逆の場合、遠ざけられ遺棄致死された。そのような傾向は東アジアだけでなく、古代ギリシア、エジプト、ペルシア、小アジア、古代中国、ポリネシア、台湾、八重山群島、沖縄など、様々な土地で共通に見られ、中米などにも似た神話が残されている点を加味するとおよそ世界中に存在すると言える。神として扱われたのは特に神の声を伝える能力があるとされた児童である。だいたい思春期前半の童子・童女が一定の儀礼に則る形で共同体の普段の生活から一年ほど隔離され、「依代」(よりしろ)として用いられた。エリアーデが報告している儀式は風習として長く、アニミズムの時代から続く、ほとんどどこの村落共同体でも行われていたもののようだ。
「シャーマンになろうとする者は、奇妙な行動によって人目をひくようになる。いつも夢見がちになる、孤独を求める、森や荒地を好んで徘徊する、ヴィジョンを見る、眠りながら歌を歌う、等々である。ときには、こうした準備期はかなり激しい症状で特徴づけられる。ヤクート人のあいだでは、そうした若者は性格が狂暴になり、容易に意識を失い、森にひきこもり、木の皮を食らい、水や火の中に飛び込み、ナイフで身体に傷をつけたりする。世襲シャーマンの場合でも、シャーマン候補者が選定される前には、その者になんらかの行動の変化が見られる。祖先のシャーマンの魂が、一族中からある若者を選ぶ。すると、その若者はぼんやりした状態になり、夢見がちになり、孤独を求めるようになり、預言的なヴィジョンを見たり、ときには意識を失うほどの発作を起こす。この失神のあいだ、ブリヤート人の言うところでは、魂は精霊に拉致されて神々の宮殿に迎えられるのである。魂はそこで、祖先のシャーマンからシャーマン職の秘密や神々の姿と名前、精霊の名前とその儀礼等について教えを受ける。この最初のイニシエーションがすんで、ようやく魂は肉体に戻ることができる」(エリアーデ「世界宗教史5・P.40」ちくま学芸文庫)
この文章に「ナイフで身体に傷をつけたり」とある。そうすることであえてただ一人の童子なり童女なりを特権化するのである。この「傷」のことをスティグマ(徴=しるし)と呼ぶことは容易である。そしてスティグマ(徴=しるし)なしに神に近づくことは不可能とされる。なぜなら神はそれこそありとあらゆる大自然の生態系の威力であって、古代人は自然生態系がもたらす取り返しのつかないような種々の大災害(スティグマ)を最も恐れ敬ってきたからである。さて、「大太郎といういみじき盗の大将軍」のエピソードに戻ろう。今度は熊楠の側でなく柳田がそれを取り上げてこう述べている。「大太郎」はなぜ「タロウ」と呼ばれるのか。
「柳亭種彦の『用捨箱』(ようじゃばこ)には、大太発意(だいたぼっち)はすなわち一寸法師の反対で、これも大男をひやかした名だろうと言ってある。大太郎といういみじき盗の大将軍の話は、早く『宇治拾遺』に見えており、烏帽子(えぼし)商人の大太郎は『盛衰記』の中にもあって、いたってありふれた名だから不思議もないようだが、自分はさらに遡って、何ゆえに我々の家の惣領息子を、タロウと呼び始めたかを不思議とする。漢字が入って来てちょうど太の字と郎の字を宛ててもよくなったが、それよりも前から藤原の鎌足だの、足彦(たらしひこ)・帯姫(たらしひめ)だのという貴人の御名があったのを、まるで因(ちな)みのないものと断定することができるであろうか。筑後の高良(こうら)社の延長年間の解状(げじょう)には、大多良男(だいたらお)と大多良咩(ひめ)のこの国の二神に、従五位下を授けられたことが見え、宇佐八幡の『人聞菩薩朝記』には、豊前の猪山にも大多羅眸神を祭ってあったと述べている。少なくもその頃までは、神にこのような名があっても怪まれなかった。そうしておそらくは人類のために、射貫(いぬ)き蹴裂(けさ)きというような奇抜極まる水土の功をなし遂げた神としては、足跡はまたその宣誓の証拠として、神聖視されたものであろうと思う」(柳田國男「ダイダラ坊の足跡・太郎という神の名」『柳田國男全集6・P.491』ちくま文庫)
巨人伝説を人工的に創設することもできた。「韓非子」に記録がある。
「(1)趙王父令工、施鉤梯而縁潘吾、刻疎其上、広三尺、長五尺、而勒之曰、主父常遊於此
(書き下し)趙の主父(しゅほ)、工に令して、鉤梯(こうてい)を施して潘吾(はご)に縁(よ)じ、疎(あしあと=迹)を其の上に刻(こく)せしむ。広さ三尺、長さ五尺、而してこれに勒(ろく)して曰わく、主父常(かつ=嘗)て此(ここ)に遊ぶと。
(現代語訳)趙の主父(しゅほ=武霊帝)は工人に命じ、鉤(かぎ)のついた縄ばしごをかけて潘吾(はご)の山によじ登らせ、その頂上に人の足跡を彫りこませた。幅は三尺、長さは五尺もあって、そこに文字を刻んで『主父、かつてここに遊覧す』と書き残した。
(2)秦昭王令工、施鉤梯而上華山、以松柏之心為博、箭長八尺、棊長八寸、而勒之曰、昭王嘗与天神博於此矣
(書き下し)秦の昭王 工に令して、鉤梯を施して華山(かざん)に上り、松柏(しょうはく)の心(しん)を以て博(はく)を為(つく)らしむ。箭(せん)の長さ八尺、棊(き)の長さ八寸、而してこれに勒して曰わく、昭王嘗(かつ)て天神と此に博すと。
(現代語訳)秦の昭王は工人に命じ、鉤のついた縄ばしごをかけて華山に登らせ、〔腐りにくい〕松や柏(ひのき)の芯(しん)を使ってすごろくを作らせた。数取り棒の長さは八尺、こまの長さは八寸もあって、そこに文字を刻んで『昭王、かつて天の神とここですごろく遊びをす』と書き残した」(「韓非子3・外儲説左上・第三十二・P.49~51」岩波文庫)
これらのケースは皇帝の権力にふさわしい舞台装置をわざわざ大々的に作り上げたわけだ。それを作ることができるということがなおのこと、時の権力者の巨大さ(趙王の権威/昭王の権威)を臣民に対して示すことになった。といっても作るのは巨大な足型だけでよいのである。精霊流しのように日本の風習にも見られる。「運び去る乗物・媒体は目に見える有形のものである」ということを条件として、その上に何か大切なものが乗っていると見るのは古来、当たり前に行われてきた文化遺産である。
「害悪を小舟で送り出すという風習を考えればよいだろう。というのもこの場合、一方では害悪は目に見えない無形のものであるが、一方ではこれを運び去る乗物・媒体は目に見える有形のものである」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.257」ちくま学芸文庫)
熊楠は「紀州にはダイダラボウシなどの名なく」と言いつつ、一方でそのような形態を呈するものを指して「弁慶の足跡」と言うと述べている。
「紀州にはダイダラボウシなどの名なく、岩壁上天然の大窪人足の状を呈するものを、弁慶の足跡といい、当地近傍にも一つ二つ見受けるなり」(南方熊楠「ダイダラホウシの足跡」『南方民俗学・P.296』河出文庫)
熊楠は熊野の山の神についてたいへん熱心に考えていたところが見られる。「弁慶」へのこだわりがそもそもそれを語ってはいないだろうか。俗に「弁慶の七つ道具」というけれども、いつも決まって「七つ」揃っているわけではない。一つを「義経記」から、もう一つを「高館」から引こう。
「武蔵房は弓を持たず、四尺二寸(約1.27メートル)の柄に鶴(つる)の装飾を施(ほどこ)した太刀を持ち、岩透(いわとお)しと呼ばれる脇差(わきざし)を腰に差していた。そして猪(いのしし)の目を彫(ほ)った鉞(まさかり)と薙鎌(なぎかま)、それに熊手(くまで)を添えて舟の中に投げ入れた。そしていつも身から放さぬ一丈二尺(約3.6メートル)の棒に、筋金(すじがね)を蛭巻(ひるま)きにして尖端(せんたん)を金具で包(つつ)んだ櫟(いちい)の打ち棒を小脇に抱えて小舟に飛び乗った」(「〔現代語〕義経記・巻第四・住吉大物二ヶ所合戦のこと・P.186」勉誠出版)
「一尺八寸の打刀(うちがたな)を十文字に差(さ)すままに、箙刀(えびらがたな)、首掻(くびかき)刀、長刀(なぎなた)、小反刃(こぞりは)を少違(ちが)へ、鞍(くら)の前輪(まえわ)に締(し)め付(つ)け、弓手に熊手(くまで)ををつ取(と)つて、馬手(めて)に長刀(なぎなた)うち担(かた)げ、膝(ひざ)にて馬をぞ乗(の)つたりける」(新日本古典文学体系「高館」『舞の本・P.459』岩波書店)
これらの中で「鉞(まさかり)、薙鎌(なぎかま)、熊手(くまで)」などはとりわけ顕著に思えないだろうか。熊野のような山の民の生活において、それらは祭祀に用いられる祭具であると同時に、山岳地帯での日常生活になくてはならない重要な仕事道具だったことは論を待たないのではと思われるのである。そしてまた、祭具を取り扱う者はいつも特権的な「傷」=「スティグマ」(徴=しるし)の持ち主でなければならなかった。
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BGM3
「大太法師より転訛して、本誌〔『東洋学雑誌』〕に見えたる、ダイダラボウシ、ダイラボッチは出でたるか。世界通有の俚伝をBenjamin Taylor,‘Storyology’,1900,p,11に列挙せる中に、『路側の巌より迸(ほとばし)る泉は、毎(つね)に某仙某聖の撃ちて出だせるところにして、丘腹の大窪はすべて巨人の足跡たり』とあるを合わせ考えるうちに、この名称を大なる人の義とせる『笑覧』の切は正見と謂うべし。再び攷うつに、『宇治拾遺』三十三章に、盗賊の大将軍大太郎の話あり。その人体軀偉大なりしより、この名を享けたるならん。ダイダラ、ダイラ、二つながら大太郎を意味するか。中古巨漢を呼ぶ俗間の綽号(あだな)と思わる。果たして然(しか)らば、大太は反って大太郎の略なり」(南方熊楠「ダイダラホウシの足跡」『南方民俗学・P.292』河出文庫)
そこで「宇治拾遺物語」を見てみる。
「昔、大太郎とて、いみじき盗人の大将軍ありけり」(「宇治拾遺物語・巻第三・一・P.76」角川文庫)
と、それだけで終わってしまいそうなイメージがなくもない。けれども熊楠はそう簡単に終わらせることのできる説話だと思ってはいない。というのは、名前が大変似ているというだけでなく、盗人は盗人でも、「いみじき」とあるように、例外的に驚異的力の持ち主として上げている点に着目すべきだからである。その意味では熊楠の関心は柳田とは別の意味で高かったと思われる。熊楠の文章を追うと「一本ダタラ」に関連する次の伝説を見ることになる。熊楠はいう。
「広畠氏知りし人の話に、伊勢の巨勢という村をはなるること三里ばかりの山、四里四方怪物ありとて人入らず。大胆なるものあり、その山に近く炭焼きし、冬になりて里に出でんとするに、妻なる者出産近づき止むを得ず小屋に止まるに、妻にわかに産す。よって医に薬もらわんとて夫走り行きぬ。帰りて見れば、小屋に血淋璃として人なし。大いに驚き鉄砲持ち、鍋の足を三つ折り鉄砲に込(こ)めて、雪上の大足跡をたずね行くに、一丈ばかりの大人ごときもの妻の髪をつかみ、吊し持ち行く。後より追いかけ三十間ばかりになりしとき、かの者ふりむき、妻を樹枝にかける。さて、この者の顔を見るや否、妻を攫み首を食い切る、と同時にかねてかかる怪物を打たんには脇を打つべしと聞きたるゆえ、脇を打ちしに大いに呻き、山岳動揺して走り去る。日暮れたるゆえ帰り見れば、生まれたる児は全く食われたりと見え、血のみあり。翌日行きて血を尋ね穴に至りしに、大いなる猴(さる)苦しみおる。それを打ち殺し、保存の法もなきゆえ尾を取り帰る。払子(ほっす)のごとき白色のものにて、はなはだ美なり」(南方熊楠「山男について、神社合祀反対の開始、その他」『南方民俗学・P.416』河出文庫)
では一本ダタラの正体はただ単に大きな「猴(さる)」だったということだろうか。そう簡単でもない。大型の猿が生息していたとするなら、少なくとも熊楠の周囲で「伊勢」に伝わるこの種の伝説だけが特化されて残されるということはなく、逆に全国津々浦々に残されているのが常識的だろう。ところが一本ダタラの場合、そうではない。だからこそ熊楠は専門外の分野であるにもかかわらずわざわざ書き残した。一方、柳田も、一本ダタラについては、熊楠から聞いたとして紹介している。
「南方熊楠(みなかたくまぐす)氏に聞いた話であるが、一本ダタラは誰もその形を見た者はいないが、しばしば積雪の上に幅一尺ばかりもある大足跡を一足ずつ、印(しる)して行った跡を見るそうだ」(柳田國男「一目小僧・二」『柳田國男全集6・P.225』ちくま文庫)
一本ダタラは、しかし、なぜ「一本」でなければならないのか。また同様に、妖怪に多い特徴として「一つ目」が上げられる。「一つ足」と「一つ目」とについて、柳田はいう。そしてとりわけそれらは「山の神」との結びつきが強い傾向に注意する必要性があると思われる。
「信州の松本平では、山神の跛者(びっこ)だと言うているという事は、平瀬麦雨(ばくう)君がこれを報ぜられた。この地方では何でも物の高低あるものを見ると、これを山の神と呼び、その極端なる適用にしてしかも普通に行われているのは、稲草の成育が肥料の加減などで著しく高低のある場合に、この田はえらく山の神ができたなどというそうである。これから推測すると、一本ダタラその他の足の一つということも、眇者(かんち)を目が一つというほど自然ではないが、やはりまた元は松本地方で考えているように、跛者を意味していたのではなかろうか。そうしてこの地方でも土佐の片足神などと同じく、山の神に上げる草履類は常に片足だけだそうである」(柳田國男「一目小僧・五」『柳田國男全集6・P.232』ちくま文庫)
次の文章で柳田は「御霊が五郎に」変わっていく必然的過程を述べている。歴史書の中に登場する実在の人物の名と混同されてきた結果を踏まえているからだが、特に残念無念のうちに非業の死を遂げた人物の名と混同されやすい。他方、その初発となったと考えられる人物の名は菅原道真であって太郎でも五郎でもないのだが、祟り神=怨霊としては一、二を争う御霊であるには違いない。なお、神代を含めると初発は菅原道真だと言えない事情が出てくるのでこの場合は省略する。ただ、もし本当に神代を含めて議論しようとすると、記紀神話に登場する「蛭子」(ヒルコ)、「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)など、怨霊化したに違いない名も勘案しなくてはいけない。そうすると話がたまらなく複雑化する。しかしここで述べられている箇所に限ってみても既に、海に流された「蛭子」(ヒルコ)、熊野で「根の国」に入った(死んだ)「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)、などに限らず、全国津々浦々で祭祀対象とされている「〔若〕王子信仰」は、暗黙の裡に怨霊の系列に含まれていると考えられてよいだろう。
「御霊が五郎に間違ったのにはなお仔細(しさい)がある。御霊は文字の示すごとくミタマであって、ひとの霊魂を意味している。我々の祖先はその中でも若くて不自然に死んだ人のミタマをことに怖れ、打ち棄てておくと人間に疫病その他の災害を加える者と考え、年々御霊会(ごりょうえ)という祭をして、なるだけ遠方へ送るように努めたが、人の力だけでは十分でないところから、ある種の神様に御霊の統御と管理とを御依頼申しておった。後世に至っても祇園(ぎおん)の牛頭(ごず)大王がその方の専門のようになってしまわれたが、古くは天神も八幡も、それぞれこの任務の一部分を御引受けなされたのである。天神は人も知るごとく、御自身がすでに御霊の有力なるものであったからもっともと思うが、八幡様の方は今の思想では何ゆえということが解らない。しかも石清水のごときは、その京都まで上(のぼ)って来られた当初の形式が、いかにもよく紫野今宮の御霊の神などと似ていたのみならず、近い頃まで厄神(やくじん)参りと称して、正月十五日にこの山の下の院へ参拝する風があったのを見ると、何か仔細のあったことと思われる。また若宮・今宮などと称して非業に死んだ勇士の霊を八幡に祭ったという例は往々にあるが、熊野や諏訪や白山などではそのような話を聞かぬのを見れば、この神に限ってよく御霊を指導して、内にはやさしく外に対しては烈しく、その厲威(れいい)を働かしめる御神徳を昔は備えられたのであろう。もししかりとすれば鎌倉の権五郎、八幡太郎の家来で左の眼を箭(や)で傷ついたという話のある人を、鎌倉の御霊で八幡様の摂社で、八幡の統御の下に立つ亡霊を祭った社の神と間違えても、必ずしも無学の致すところとは言われず、諸国の同名の社がなるほどと言ってこの説に従ったのも仕方がなかったと見ねばならぬ」(柳田國男「一目小僧・二十」『柳田國男全集6・P.264~265』ちくま文庫)
柳田は「一つ目/一つ足」を特徴とする妖怪について、いったん次のようにまとめている。神とは何かに関する。それは「過剰-逸脱」の象徴的存在でなければならなかった。だから柳田が次に語っているように「一目小僧は多くの『おばけ』と同じくーーー実は一方の目を潰された神である」。
「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統と失った昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなって、文字通りの一目に画をかくようにはなったが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく神託予言を宣明(せんみょう)することを得たので勢力が生じ、しかも多分は本能のしからしむるところ、殺すには及ばぬという託宣もしたかも知れぬ。とにかくいつの間にかそれが罷(や)んで、ただ目を潰す式だけがのこり、栗の毬(いが)や松の葉、さては箭に矧(は)いで左の目を射た麻、胡麻その他の草木に忌が掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考えた。目を一つにする手続もおいおい無用とする時代は来たが、人以外の動物に向っては大分後代までなお行われ、一方にはまた以前の御霊の片目であったことを永く記憶するので、その神が主神の統御を離れてしまって、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいことこの上なしとせざるを得なかったのである」(柳田國男「一目小僧・二十一」『柳田國男全集6・P.267~268』ちくま文庫)
巨大過ぎるもの。極少過ぎるもの。身体のどこかの箇所が数の上で多かったり逆に少なかったりするもの。それらはあるいは神として畏怖され、逆の場合、遠ざけられ遺棄致死された。そのような傾向は東アジアだけでなく、古代ギリシア、エジプト、ペルシア、小アジア、古代中国、ポリネシア、台湾、八重山群島、沖縄など、様々な土地で共通に見られ、中米などにも似た神話が残されている点を加味するとおよそ世界中に存在すると言える。神として扱われたのは特に神の声を伝える能力があるとされた児童である。だいたい思春期前半の童子・童女が一定の儀礼に則る形で共同体の普段の生活から一年ほど隔離され、「依代」(よりしろ)として用いられた。エリアーデが報告している儀式は風習として長く、アニミズムの時代から続く、ほとんどどこの村落共同体でも行われていたもののようだ。
「シャーマンになろうとする者は、奇妙な行動によって人目をひくようになる。いつも夢見がちになる、孤独を求める、森や荒地を好んで徘徊する、ヴィジョンを見る、眠りながら歌を歌う、等々である。ときには、こうした準備期はかなり激しい症状で特徴づけられる。ヤクート人のあいだでは、そうした若者は性格が狂暴になり、容易に意識を失い、森にひきこもり、木の皮を食らい、水や火の中に飛び込み、ナイフで身体に傷をつけたりする。世襲シャーマンの場合でも、シャーマン候補者が選定される前には、その者になんらかの行動の変化が見られる。祖先のシャーマンの魂が、一族中からある若者を選ぶ。すると、その若者はぼんやりした状態になり、夢見がちになり、孤独を求めるようになり、預言的なヴィジョンを見たり、ときには意識を失うほどの発作を起こす。この失神のあいだ、ブリヤート人の言うところでは、魂は精霊に拉致されて神々の宮殿に迎えられるのである。魂はそこで、祖先のシャーマンからシャーマン職の秘密や神々の姿と名前、精霊の名前とその儀礼等について教えを受ける。この最初のイニシエーションがすんで、ようやく魂は肉体に戻ることができる」(エリアーデ「世界宗教史5・P.40」ちくま学芸文庫)
この文章に「ナイフで身体に傷をつけたり」とある。そうすることであえてただ一人の童子なり童女なりを特権化するのである。この「傷」のことをスティグマ(徴=しるし)と呼ぶことは容易である。そしてスティグマ(徴=しるし)なしに神に近づくことは不可能とされる。なぜなら神はそれこそありとあらゆる大自然の生態系の威力であって、古代人は自然生態系がもたらす取り返しのつかないような種々の大災害(スティグマ)を最も恐れ敬ってきたからである。さて、「大太郎といういみじき盗の大将軍」のエピソードに戻ろう。今度は熊楠の側でなく柳田がそれを取り上げてこう述べている。「大太郎」はなぜ「タロウ」と呼ばれるのか。
「柳亭種彦の『用捨箱』(ようじゃばこ)には、大太発意(だいたぼっち)はすなわち一寸法師の反対で、これも大男をひやかした名だろうと言ってある。大太郎といういみじき盗の大将軍の話は、早く『宇治拾遺』に見えており、烏帽子(えぼし)商人の大太郎は『盛衰記』の中にもあって、いたってありふれた名だから不思議もないようだが、自分はさらに遡って、何ゆえに我々の家の惣領息子を、タロウと呼び始めたかを不思議とする。漢字が入って来てちょうど太の字と郎の字を宛ててもよくなったが、それよりも前から藤原の鎌足だの、足彦(たらしひこ)・帯姫(たらしひめ)だのという貴人の御名があったのを、まるで因(ちな)みのないものと断定することができるであろうか。筑後の高良(こうら)社の延長年間の解状(げじょう)には、大多良男(だいたらお)と大多良咩(ひめ)のこの国の二神に、従五位下を授けられたことが見え、宇佐八幡の『人聞菩薩朝記』には、豊前の猪山にも大多羅眸神を祭ってあったと述べている。少なくもその頃までは、神にこのような名があっても怪まれなかった。そうしておそらくは人類のために、射貫(いぬ)き蹴裂(けさ)きというような奇抜極まる水土の功をなし遂げた神としては、足跡はまたその宣誓の証拠として、神聖視されたものであろうと思う」(柳田國男「ダイダラ坊の足跡・太郎という神の名」『柳田國男全集6・P.491』ちくま文庫)
巨人伝説を人工的に創設することもできた。「韓非子」に記録がある。
「(1)趙王父令工、施鉤梯而縁潘吾、刻疎其上、広三尺、長五尺、而勒之曰、主父常遊於此
(書き下し)趙の主父(しゅほ)、工に令して、鉤梯(こうてい)を施して潘吾(はご)に縁(よ)じ、疎(あしあと=迹)を其の上に刻(こく)せしむ。広さ三尺、長さ五尺、而してこれに勒(ろく)して曰わく、主父常(かつ=嘗)て此(ここ)に遊ぶと。
(現代語訳)趙の主父(しゅほ=武霊帝)は工人に命じ、鉤(かぎ)のついた縄ばしごをかけて潘吾(はご)の山によじ登らせ、その頂上に人の足跡を彫りこませた。幅は三尺、長さは五尺もあって、そこに文字を刻んで『主父、かつてここに遊覧す』と書き残した。
(2)秦昭王令工、施鉤梯而上華山、以松柏之心為博、箭長八尺、棊長八寸、而勒之曰、昭王嘗与天神博於此矣
(書き下し)秦の昭王 工に令して、鉤梯を施して華山(かざん)に上り、松柏(しょうはく)の心(しん)を以て博(はく)を為(つく)らしむ。箭(せん)の長さ八尺、棊(き)の長さ八寸、而してこれに勒して曰わく、昭王嘗(かつ)て天神と此に博すと。
(現代語訳)秦の昭王は工人に命じ、鉤のついた縄ばしごをかけて華山に登らせ、〔腐りにくい〕松や柏(ひのき)の芯(しん)を使ってすごろくを作らせた。数取り棒の長さは八尺、こまの長さは八寸もあって、そこに文字を刻んで『昭王、かつて天の神とここですごろく遊びをす』と書き残した」(「韓非子3・外儲説左上・第三十二・P.49~51」岩波文庫)
これらのケースは皇帝の権力にふさわしい舞台装置をわざわざ大々的に作り上げたわけだ。それを作ることができるということがなおのこと、時の権力者の巨大さ(趙王の権威/昭王の権威)を臣民に対して示すことになった。といっても作るのは巨大な足型だけでよいのである。精霊流しのように日本の風習にも見られる。「運び去る乗物・媒体は目に見える有形のものである」ということを条件として、その上に何か大切なものが乗っていると見るのは古来、当たり前に行われてきた文化遺産である。
「害悪を小舟で送り出すという風習を考えればよいだろう。というのもこの場合、一方では害悪は目に見えない無形のものであるが、一方ではこれを運び去る乗物・媒体は目に見える有形のものである」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.257」ちくま学芸文庫)
熊楠は「紀州にはダイダラボウシなどの名なく」と言いつつ、一方でそのような形態を呈するものを指して「弁慶の足跡」と言うと述べている。
「紀州にはダイダラボウシなどの名なく、岩壁上天然の大窪人足の状を呈するものを、弁慶の足跡といい、当地近傍にも一つ二つ見受けるなり」(南方熊楠「ダイダラホウシの足跡」『南方民俗学・P.296』河出文庫)
熊楠は熊野の山の神についてたいへん熱心に考えていたところが見られる。「弁慶」へのこだわりがそもそもそれを語ってはいないだろうか。俗に「弁慶の七つ道具」というけれども、いつも決まって「七つ」揃っているわけではない。一つを「義経記」から、もう一つを「高館」から引こう。
「武蔵房は弓を持たず、四尺二寸(約1.27メートル)の柄に鶴(つる)の装飾を施(ほどこ)した太刀を持ち、岩透(いわとお)しと呼ばれる脇差(わきざし)を腰に差していた。そして猪(いのしし)の目を彫(ほ)った鉞(まさかり)と薙鎌(なぎかま)、それに熊手(くまで)を添えて舟の中に投げ入れた。そしていつも身から放さぬ一丈二尺(約3.6メートル)の棒に、筋金(すじがね)を蛭巻(ひるま)きにして尖端(せんたん)を金具で包(つつ)んだ櫟(いちい)の打ち棒を小脇に抱えて小舟に飛び乗った」(「〔現代語〕義経記・巻第四・住吉大物二ヶ所合戦のこと・P.186」勉誠出版)
「一尺八寸の打刀(うちがたな)を十文字に差(さ)すままに、箙刀(えびらがたな)、首掻(くびかき)刀、長刀(なぎなた)、小反刃(こぞりは)を少違(ちが)へ、鞍(くら)の前輪(まえわ)に締(し)め付(つ)け、弓手に熊手(くまで)ををつ取(と)つて、馬手(めて)に長刀(なぎなた)うち担(かた)げ、膝(ひざ)にて馬をぞ乗(の)つたりける」(新日本古典文学体系「高館」『舞の本・P.459』岩波書店)
これらの中で「鉞(まさかり)、薙鎌(なぎかま)、熊手(くまで)」などはとりわけ顕著に思えないだろうか。熊野のような山の民の生活において、それらは祭祀に用いられる祭具であると同時に、山岳地帯での日常生活になくてはならない重要な仕事道具だったことは論を待たないのではと思われるのである。そしてまた、祭具を取り扱う者はいつも特権的な「傷」=「スティグマ」(徴=しるし)の持ち主でなければならなかった。
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