白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/刀自と遍歴する遊女

2020年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠の文章の中に猥談にも似た部分が突然侵入してくることは前に述べた。

「家累と老齢衰弱のため、精査を遂ぐるに由なく、久しく打ちやり置きたるもの多し。その内に必然、無類の新属と思う Phalloideae の一品あり。記憶のままに申し上ぐると、上図のごときものなり。生きた時は牛蒡の臭気あり、全体紫褐色、陰茎の前皮がむけたる形そっくりなり。インドより輸入して久しく庫中に貯えられたる綿花(わた)の塊に生えたる也」(南方熊楠「ハドリアヌスタケ」『森の思想・P.238』河出文庫)

その傾向について中沢新一はこう述べている。

「大事なのは、文章に猥談を突入させることによって、彼の文章にはつねに、なまなましい生命が侵入しているような印象があたえられる、という点だろうと思う。バフチンならば、これを熊楠の文体のもつカーニバル性と言うだろう。言葉の秩序の中に、いきなり生命の唯物論的な基底が、突入してくるのだ、このおかげで、熊楠の文章は、全体としてヘテロジニアスな構造をもつことになる。なめらかに連続する言葉の表面に、随所にちりばめられた猥談によって、たくさんの黒い穴がうがたれるようになり、その黒い穴からは、なまの生命が顔を出す」(中沢新一「動と不動のコスモロジー」『動と不動のコスモロジー・P.60』河出文庫)

もっともだと思われる。ところでハドリアヌスタケについて述べた文章の後半で、保存のためにアルコール漬けにしているとあるのだが、語注を見ると、この「酒精」に関して注釈が付されている。

「貴下は拙方に御滞在中に、この菌(〔酒精に蔵しあり、故に変色はせるものの〕全体の写生と記載は〔外部に関する限り〕十分に致して今ももちおれり)を小生立合いの上、解剖鏡検して大抵要点を控え去り、御帰礼の上、精査して命名発表下さらずや」(南方熊楠「ハドリアヌスタケ」『森の思想・P.238』河出文庫)

熊楠の実家は南方酒造という酒造会社だった。もちろん紀伊国の酒造会社は南方酒造だけではない。ほかにもある。「穴伏村」でも酒造業が営まれていた。「穴虫」(あなむし)ともいう。紀ノ川と四十八瀬川(現・穴伏川)との合流地点。今の和歌山県紀の川市穴伏。高野山への参詣者らが集まる宿場町として栄え、また紀ノ川を行き来する筏師らの宿泊施設もあった。その様相を見ると「市」の立つ場だったように思われる。宿場でもあり他の芸能民らも多く集まったようだ。川と川との合流地点というところがポイント。

「注目すべきは、寺社の門前に市が開かれた事実である。若狭の遠敷市は、国衙の市の機能も持っていたと思われるが、なにより若狭一・二宮-彦・姫神社の門前に立つ市と理解すべきであろう。また、備前国西大寺の門前には、元享二年(一三二二)、酒屋・魚商人・餅屋・莚作手・鋳物師などが、家・屋・座をもち、国衙方・地頭方双方の支配下におかれた市が立っている。この場合、家・屋を持つ酒屋・餅屋は、すでにある程度、この市に定住しているとみてよいが、莚作手・鋳物師・魚商人などは、市日に巡回してきたものと見るべきであろう。市日には、このような遍歴の商工民、さらには『芸能』民が集り、著しいにぎわいをみせたのである。南北朝末から室町初期の成立といわれている『庭訓往来』の四月の書状が、『市町興行』のさいに招きすえるべき輩として、鍛冶・番匠等々の商工民だけでなく、獅子舞・遊女・医師・陰陽師などの各種の『職人』をあげているのは、決して単なる『職人尽』ではなく、事実を反映しているうとみなくてはならない。実際、信濃の諏訪社の祭礼に、南北朝期、『道々の輩』をはじめ、『白拍子、御子、田楽、呪師、猿楽、乞食、、盲聾病痾の類ひ』が『稲麻竹葦』の如く集ったといわれ、鎌倉末期、播磨国蓑寺は、『九品念仏、管弦連歌、田楽、猿楽、呪師、クセ舞ヒ、乞食、』が近隣諸国から集り、たちまち大寺が建立された、と伝えられているのである。寺社の門前の特質は、このようなところに、鮮やかに現われている。それはやはり、戦国期のように、掟書によって明確にされているわけではないが、神仏の支配する『無主』の場であり、『無縁』の原理を潜在させた空間であった。それ故、ここには市が立ち、諸国を往反・遍歴する『無縁』の輩が集ったのである。市だけでなく、遍歴する『芸能』民は、その『芸能』を営む独自な場を持つこともあった。祗園社に属する獅子舞は、祗園社だけでなく、他の神社にも、その『芸能』を以て奉仕したとみられるが、近江をはじめ、各地に『舞場』を持っていたと思われる(『祗園執行日記』)。また『清目』を職掌とし、『乞食』をするも、和泉・伊賀をはじめ、諸国に公認された『乞庭』を保持していたのであるが、こうした『場』『庭』も、市と全く同じ特質を持っていたとみてよかろう。とすると、の『宿』、また宿場の『宿』も、また同じような場と考えて、まず間違いなかろう。この両者は、必ずしも同一視することはできないとはいえ、同じく『宿』として、きわめて類似していることは事実である」(網野善彦「<増補>無縁・苦界・楽・十三・市と宿・P.136~137」平凡社ライブラリー)

さて、なるほどそこは「市」の立つ宿場町としてたいそう賑わっていたとしても、ではしかし一体誰が酒を売っていたか。柳田國男はいう。

「酒を売る者は女であります。刀自の酒造りの早くから売るためであったことは、少しも疑いがなかった上に、古くは『日本霊異記』の中にも、すでに女が酒によって富を作った話が出ており、また和泉式部とよく似た諸国の遊行女婦の物語、たとえば加賀の菊酒の根原かと思う仏御前(ほとけごぜん)の後日譚、それから前に半分だけ申した白山(はくさん)の融(とおる)の尼などが、登山を企てて神に許されなかったという話にも、酒を造って往来の人に売ろうとしたことを伝えております」(柳田國男「女性と民間伝承・酒の話」『柳田國男全集10・P.586~587』ちくま文庫)

まず第一に、酒造りは男性でなく女性が仕切っていたという点。柳田のいうように日本霊異記にこうある。

「紀伊国(きのくに)名草郡(なくさのこほり)三上(みかみ)の村の人、薬王寺の為に、知識を率引(そちいん)して、普(あまね)く薬分を息(いら)しき。薬王寺、今は勢多寺(せたでら)と謂(い)ふ。其(そ)の薬科の物を、岡田村主(をかだのすぐり)の姑女(をばめ)の家に寄せ、酒を作り利(うまはし)を息(いら)しき」(「日本霊異記・中・寺の息利(いらしもの)の酒を賖(おきの)り用ゐて、償(つくの)はずして死に、牛と作(な)して役(つか)はれ、債(もののかひ)を償(つくの)ひし縁 第三十二・P.226」講談社学術文庫)

タイトルに「息利(いらしもの)」とある。利息付きで貸す物のこと。古代から中世にかけて、寺院が稲を農民に貸し出し、その米で酒を造らせ、造らせた酒を今度は寺院が農民に売って利潤を上げていた。というのは、当時の税金の多くは稲で納められたから。そして米からできる酒の貸し借りは通例だったからである。ここで酒造りを主導しているのは岡田村主(をかだのすぐり)ではなくその姑(しゅうとめ)である。また、有名どころでは「田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)」がいる。

「田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)は、讃岐国(さぬきのくに)美貴郡(みきのこほり)の大領(だいりやう)、外(げ)従六位上小屋県主宮手(をやのあがたぬしみやて)が妻なりき。八(やたり)の子を産み生(な)し、富貴にして宝多し。馬牛・(ぬひ)・稲銭・田畠(たはた)等有り。天年(うまれながら)に道心無く、慳貪(けんどん)にして給与すること無し。酒に水を加へて多くし、沽(う)りて多きなる直(あたひ)を取る」(「日本霊異記・下・非理を強(し)ひて以て債(もののかひ)を徴(はた)り、多(あまた)の倍(まし)を取りて、現に悪死の報(むくい)を得し縁 第二十六・P.182」講談社学術文庫)

ただの水を酒に混入させ、文字通り「水増し」の量を計算しながら利殖に励んでいる。利殖の是非はともかく、今でいう男性の「杜氏」(とじ)はもともと女性の「刀自」(とじ)から来た言葉。神の酒を造るのに奉仕した「巫女」(みこ)がその発祥である。さらに「刀自」にはもっと様々な意味と職業内容とがあった。網野善彦はいう。

「女性と家との深い関係について、保立道久は中世の家屋のなかでの塗籠(ぬりごめ)、納戸(なんど)の重要な位置づけに注目し、そこが夫婦の閨房であるとともに、財物の収納室であり、いわば『聖なる場』であったこと、女性はまさしくその管理者として『家女』『家刀自(いえとじ)』といわれたことを明らかにしている。このように、いわば家の『聖地性』の中核ともいうべき場を女性が管理していたことと、南北朝ごろまで借上(かしあげ)・土倉(どそう)といわれた金融業者に女性が多く現われることとは、間違いなく関連している。鎌倉末・南北朝初期の若狭国太良荘にも、近隣の津、小浜に本拠を持ち、『浜女房』とよばれた借上が、子息石見房覚秀とともに姿を現わし、荘内の名主や本所の東寺に『熊野御初尾物』『熊野上分物』を融通している。覚秀は熊野の山伏だったのであるが、徳治三(一三〇八)年、『日吉上分(ひえじようぶん)用途』六十貫文を融通し、山城国上桂荘の相伝手継文書を質物としてとった平氏女も借上で、この女性は延暦寺(えんりゃくじ)-山門と関わりがあったのであろう。『病草紙(やまいのぞうし)』は、『七条わたりにすむ、いえとみ食ゆたかなる』女性の借上を、太りすぎて歩くのも困難な姿に描いているが、まさしくこれは、女性の金融業者の姿を象徴的に示しており、これらの女性たちは、熊野や日吉の神々の、『聖なる神物』である『初穂(はつほ)』『上分(じようぶん)』の名目で米・銭を管理し、それを金融の資本としていたのである。そうした米銭や質物を収納した場が『土倉』であるが、鎌倉末期、尼妙円の遺領である京都の綾小路(あやのこうじ)高倉の屋地・土倉をめぐって相論したのはやはり勝智、加古女という女性であり、『祗園執行日記(ぎおんしぎようにつき)』にも康永二(一三四三)年、四条坊門富小路(とみのこうじ)の土倉『妙阿弥アネ女』の名前を見出しうる。このように『聖なる』倉庫としての土倉を管理した人々のなかにも、また女性が多かったので、保立が『中世の女性はしばしば重要な文書や資産を預けられた』事実に注目しているのは、それ自身、聖なるものに結びつく特質を、その『性』自体のなかに持っていたといえる」(「網野善彦「中世のと遊女・第2部・第一章・納戸(なんど)・土倉(どそう)の管理者としての女性・P.202~203」講談社学術文庫)

宿場町であり川の合流地点でもあることから、紀伊国穴伏の「市」もまた賑わっていたことは間違いない。そしてそこで酒を売ったのは女性であり、造るのもまた女性だった。

「酒の生産はもと女性の専業でありました。ーーー醸(かも)すという語の早い形はカムであって、大昔は我々もポリネシア人がカヴを作るように、また沖縄諸島の人が神酒(みき)を製するごとく、清き少女をして噛(か)ませ吐き出さしめたものを、酒として用いていたのであります。酵母が別の方法で得られるようになってからも、女でなくては酒を作ることができなかったのは、何か有形無形の宗教的秘密があったからであります。ーーートジは単にマダムということであって、要するに婦人が造っていた名残であります。宮廷の造酒司(みきのつかさ)などでは神の名も刀自(とじ)、酒をしこんだ大酒甕(さけがめ)の名も刀自で、大昔以来刀自がこれに参与したことを示しています」(柳田國男「女性と民間伝承・刀自の職業」『柳田國男全集10・P.584~586』ちくま文庫)

女性の聖性が保証されていた時代の「宗教的秘密」というのは、要するに「刀自」は神に支える神聖な女性でなくてはならないという意味だろう。ところで「市」自体については「日本書紀」編纂の時期すでに記録がある。

「天皇、歯田根命(はたねのみこと)をして、資財(たからもの)を露(あらは)に餌香市辺(ゑかのいちべ)の橘(たちばな)の本(もと)の土(ところ)に置(お)かしむ」(「日本書紀3・巻第十四・雄略天皇十三年三月~九月・P.70」岩波文庫)

ここで「餌香市辺(ゑかのいちべ)」とあるのは、河内国志紀郡道明寺村国府の辺りの市、という意味。大和川と石川との合流点に近い。また、「市」といっても古代の「市」は天井があるわけはなく、露店だった。定期的に開かれる大型で公認の「市」にはあらかじめ街路樹が植えられていた。万葉集に次の歌が見える。

「東(ひむがし)の市(いち)の植木(うゑき)の木垂(こだ)るまで逢(あ)はず久しみうべ恋ひにけり」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三一〇・門部王(かどべのおほきみ)・P.223」小学館)

だから「市」は人々の往来が盛んであり色々な出会いの場でもあった。さて柳田は、女性の聖性に関連して特定の名に或る意味を見出している。

「霊山の御頂上を極めんとして、許されなかったという女性の名を、加賀の白山においては融(とおる)の尼といい、越中の立山にあっては若狭国の登宇呂(とうろ)の姥といって、いずれも御山の中腹から上に、その故跡と称する巌石や樹木がありました。大和吉野の金峯山においても、やはり一人の仙女が登って行こうとして、風雨に妨げられて大いに怒り、術をもって大蛇に乗って去ったなどという話が、古い昔からありまして、その仙女の名をまた都藍尼(とらんに)伝えています。つまり今日では意味が不明にはなりましたが、この三つの山に共通した物語、ことによく似た女性の名には、何か曰くがあったようです」(柳田國男「女性と民間伝承・山に登らんとする式部」『柳田國男全集10・P.447』ちくま文庫)

交通するということ。「とおる」という言葉。第二に重要なのは、上代から中世半ばに至るまで、女性は容易に「旅する女性」になることが可能だった点。同時に職業に携わることが許されていた点。

「中世においては、その目的はさまざまであるが、『旅する女性』はわれわれが『常識的』に想像するよりもはるかに多かったものと思われる。そしてそうした旅は、鎌倉・南北朝期までは、神仏などの『聖なるもの』とのつながりによって支えられており、遍歴する職能民にせよ、一般の女性にせよ、旅姿の女性にたやすく手をかけることをはばからせるものがあったのである。また、道路、橋、津泊、市、さらには宿、寺社など、旅する人々の通る道そのものも、世俗の縁の及ばぬ、やはり『聖なる世界』とつながりを持つ場として、そこで起こったことは、その場でのみ処理し、俗界には及ぼさないとする、きわめて根深い慣習のあったことも、女性の旅を容易にしていたに相違ない」(「網野善彦「中世のと遊女・第2部・第一章・旅する女性たち・P.206」講談社学術文庫)

それら「旅する女性」らの中には網野のいう「遍歴する職能民」が大勢いたに違いない。柳田はこう述べている。

「昔の人たちの心持では、熊野比丘尼のごとき境遇にある婦人は、特に堕落するまでもなくこれを遊女と名づけてすこしも差支えがなかったのであります。遊女という語には本来は売春という意味はありませんでした。『万葉集』の頃にはこれを遊行女婦(うかれめ)と名づけていまして、九州から瀬戸内海の処々の船着き、それから北は越前の国府あたりにも、この者が来ていて歌を詠んだ話が残っています。その名称の基くところは、例の藤沢寺の遊行上人などの遊行も同じで、いわゆる一所不住で、次から次へ旅をしている女というに過ぎませぬ。日本の語に直してうかれ女と申したのも、今日の俗語の浮かれるというのとは違い、単に漂泊して定まった住所のないことです。後にこれを『あそび』といったのは、言わば一種のしゃれのごときもので、遊という漢字が一方にはまた音楽の演奏をも意味し、遊女が通例その『あそび』に長じていたために、わざと本(もと)の意を離れてこうも呼んだものかと考えます」(柳田國男「女性と民間伝承・遊行女婦」『柳田國男全集10・P.469~470』ちくま文庫)

どのような舞を舞い、どのような歌を歌ったのだろう。「市」の立つ日は祝祭の日でもある。

「ちはやぶる賀茂の社(やしろ)の姫小松(ひめこまつ)万代(よろづよ)までに色は変らじ」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・五〇一・P.202」新潮社)

というふうに、祝歌だった。

熊野に戻ってみよう。夫婦別姓について述べている箇所がある。熊野の歴史的固有性を垣間見ることができるかもしれない。

「他県は知らず、当県の古き記録を見るに、婚姻した後も、南方熊楠、南方松枝と書かずに南方熊楠、田村松枝でおし通せし例多し。これらみな、古え母系統を主として重んぜし遺風と見ゆ」(南方熊楠「ルーラル・エコノミーについて、柳田批判、その他」『南方民俗学・P.540』河出文庫)

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熊楠による熊野案内/タニワタリ採集と男根切り

2020年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠が草木に接する時の考えは実にシンプルなもの。「この島固有の名産タニワタリ」のように希少種であることがあらかじめわかっていれば、研究用に採集する際、必ず、「杉の幼木一本買い、代りに植え返りしなり」とある。「古来タニワタリを少々とるに、必ず同数の幼木を植えしめ」ることを「習慣として」心得ていたし実践していた。そうして限られた地域にのみ見られる固有種の保存と生態系維持に尽力した。

「西牟婁郡周参見(すさみ)浦の稲積(いなづみ)島は、樹木鬱陶、蚊、蚋(ぶと)多く、とても写真をとることもならぬほど樹木多き小島なり。神島と等しく、この島神はなはだ樹を惜しむと唱えて、誰も四時以後住(とどま)るものなく、また草木をとらず、小生もこの島固有の名産タニワタリ(『植物名彙』にタニワタシAspleniumu Nidus L,)一本とりにやりしに、杉の幼木一本買い、代りに植え返りしなり。珍木アコウノキもあり。習慣として古来タニワタリを少々とるに、必ず同数の幼木を植えしめしなり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.394~395』河出文庫)

次に、或る植物の「代わり」になる別の植物、ではなく、「かけろく」の話題である。「かけろく」は「賭け事」のこと。賭け事には当然勝敗があり、勝てば何らかの金品を得ることができるが、逆に負ければ何らかの金品を差し出さねばならない。

ある日、京の三条の橋に世之介がいたところ、仕立物屋の十蔵がやって来ていう。もし十蔵が江戸・吉原の遊女「小むらさき」にふられなかったら、「木屋町(きやまち)の御下屋敷(おしもやしき)」が自分のものになる。他方、ふられた場合、十蔵は自分の「作蔵(さくざう)」=「男根」を切り落として差し出さねばならない。それが「かけろく」の内容だと。

「小むらさきさまに、あひまして、初対面から、わたくしは、ふられますまいと、智恵自慢申懸(かか)り、去(さる)御方より、二十日鼠の宇兵衛を、目付(めつけ)にあそばし、かけろくに仕。江戸へ、よね狂(ぐる)ひに、まいると申、さても気(き)な、やつかな。其かちまけはときく、身どもがふられませねば、木屋町(きやまち)の御下屋敷(おしもやしき)をもらひます筈。又負(まけ)ましたればと、顔の色青ふなして、声をふるはす、隠さずとも申せ、別(べち)の事でも御座りませぬ、ふられましたれば、命にはかまひのなきやうに、作蔵(さくざう)をきられます」(井原西鶴「好色一代男・卷八・情(なさけ)のかけろく・P.220~221」岩波文庫)

世之介にしてみれば笑うべき戯けた賭けというほかない内容だが、まずまずの趣向はあると面白がる。問題はこの場合、どちらが債権者でどちらが債務者なのか、必ず判明するシステムが採用されている点だろう。ニーチェはいう。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)

熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。

瀬田の唐橋までやって来た桂海と桂壽、そして桂海の同宿者ら。橋の柱には梅若の遺品と思われる品が掛けられたまま、梅若の姿はどこにも見えない。一同は瀬田川の岩石の間なども見逃すことなく様々なところを徐々に下流へ捜索し始める。そして「供御(グゴ)ノ瀬」(旧・滋賀県粟太郡下田上村黒津)付近まで来たとき、梅若のものと見える服装が浮いて漂っているのを発見する。ほどけた長い髪が水中の藻に絡みついて波に揺られており、その顔色はあるかなきかの様相を呈している。桂海と桂壽とは梅若のからだを抱き上げて介抱しにかかる。梅若のいない世の中など考えられもしない。だが、その言いようのない姿形に二人は神仏をごちゃまぜにして祈るしかすべがない。二人とも自分の命に代えて今一度、梅若が生きていた頃のように目を開いて欲しいと願う。

「供御(グゴ)ノ瀬ト云フ處マデ、求メ下リタレバ、セカレテトマル紅葉ハ紅(クレナイ)深キ色カト見テ、岩ノ陰ニ流レカカリタル物アルヲ、船指シ寄(ヨ)セテ見タレバ、アルモ空シキカホバセニテ、長(タケ)ナル髪流(カミナガ)レ藻(モ)ニ亂(ミダ)レカカリテ、岩越(コ)ス波ニユラレ居(イ)タルヲ、泣々(ナクナク)取(リ)上(ゲ)テ、律師ハ顔ヲ膝ニカキ乗セ、童ハ脚ヲ懐ノ中ニ抱(イダ)キテ、『ウタテシノ在様(アリサマ)ヤ。我等ヲバイカニ成レト思食(オボシメシ)テ、カカル事ハアリケルゾヤ。梵天、帝釈、天神、地祇、只我等ガ壽(イノチ)ヲ被召(メサレ)テ今一目空(ムナ)シカラヌ御カタリヲ見(ミ)セ玉へ』」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.480~481』岩波書店)

しかし懸命の救助活動も虚しくとうとう梅若のからだは遂に冷え切ってしまう。「落花枝ヲ辞(シ)」は次を参照。

「落花(らくくわ)枝(えだ)に帰(かへ)らず、破鏡(はきやう)二(ふた)たび照(て)らさず」(新日本古典文学体系「八島」『謡曲百番・P.456』岩波書店)

また「破鏡不重照、落花難上枝」(伝燈録十七)とも。

「聲モ惜(ヲ)シマズ啼(ナ)キ悲(カナ)シメドモ、落花枝ヲ辞(シ)テ二度咲(サ)ク習ナク、残月西ニ傾(イ)テ又中虚(ナカゾラ)ニカヘル事ナケレバ、濡(ヌ)レテ色コキ紅梅ノシホシホトシタル、雲ノ如クナル胸ノアタリヒエ果(ハ)テヌ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.481』岩波書店)

桂海と桂壽、そして桂海の同宿者らの脳裏には、梅若が生きていた頃の思い出がこみ上げてくる。「一度笑(エ)メバ百ノ媚(コビ)アリ」は白居易にある。

「囘眸一笑百媚生

(書き下し)眸(ひとみ)を囘(めぐら)して一笑(いつせう)すれば百媚(ひやくび)生(しやう)じ」

(現代語訳)目をうごかして笑うとたいへんな魅力が出て」(漢詩選10「長恨歌」『白居易・P.42~49』集英社)

「一度笑(エ)メバ百ノ媚(コビ)アリシ眼(マナコ)フサガリ、色變(ジ)ヌレバ、律師モ童モ跡(アト)マクラニヒレ附(フ)シテ絶(タ)エ入ル計泣(キ)沈(ミ)、同宿、下法師共ニ至(ル)マデ、苔ニ卧(シ)マロビテ、聲更ニ休(ム)時無(シ)」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.481』岩波書店)

翌日、梅若の死体は京の鳥辺野で火葬される。焼場から煙が上がっていくのが見える。その煙も絶えて一同は少しずつ帰っていく。が、律師桂海と侍童桂壽は残ったままだ。共にこのまま苔の間に埋れてしまおうかとも考える。そこでふと桂海は、梅若の残した和歌の一節「底マデ照(ラ)セ山ノ端ノ月」を思い出す。おそらくそれは梅若なきあと、もしその心があれば、永く弔ってもらえれば、という意味かと捉え、桂海はその場で墨染めの衣に着替え、洛北の岩倉(実相院、大雲寺、などがある)へ出家遁世する。一方、桂壽もまた髪の毛を剃り落とし高野山へ入山し生涯を山で過ごした。

「『底マデ照(ラ)セ山ノ端ノ月』トアリシハ、ナカラン跡ヲ弔(トブラ)ヘカシトノ爲ニテコソアレト思(ヒ)ケレバ、律師山ヘモ歸(カヘ)ラズ、ココヨリ軈(ヤガ)テコキ墨染ニ身ヲカヘテ、其遺骨ヲ頸(クビ)ニカケテ、山川ヲ斗藪(トソウ)シケルガ、後ニハ西山ノ岩蔵ト云フ處ニ庵室ヲ結ビテ、彼(カノ)後世菩提ヲ訪(トブラ)ヒ、童モ軈(ヤガ)テ髪下(シ)、高野山ニ閉ヂ篭リ遂ニ山中ヲバ出(デ)ザリケリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.481』岩波書店)

桂海はその後、瞻西(センサイ)上人として京の東山の雲居寺(うんごじ)に堂を建てて住んだらしい。和歌が得意だったようだ。

「法(のり)のため擔(にな)ふ薪(たきぎ)にことよせてやがてこの世(よ)をこりぞはてぬる」(「金葉和歌集・巻第十・六二五・瞻西聖人・P.111」岩波文庫)

「つねよりも篠屋(しのや)の軒(のき)ぞうづもるるけふは宮(みや)こに初(はつ)雪やふる」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第六・六五八・瞻西聖人・P.195」岩波書店)

「むかし見し月の光(ひかり)をしるべにてこよひや君が西(にし)へゆくらん」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第二十・一九七七・瞻西上人・P.576」岩波書店)

そのようなエピソードを持った雲居寺の堂だが応仁の乱で壊滅しもはやない。また最後の項で「徳不孤必有隣」(トクコナラズカナラズトナリアル)と、論語の引用がある。

「子曰、徳不孤、必有隣

(書き下し)子曰く、徳孤(こ)ならず、必ず隣(となり)あり。

(現代語訳)先生がいわれた。『道徳を守るものは、孤立しているように見えるがけっしてそうではない。きっとよき理解者の隣人があらわれるものだ』」(「論語・第二巻・第四・里仁篇・二五・P.108~109」中公文庫)

しかしそれが出来ていたら誰も文句は言わない。本当にいいのだが。ところが今や日本政府は孤立しがちな人々の孤立をますます深め、さらなる孤立へ追いやり批判勢力を国家的見せしめに晒し上げ、政財官を上げて一斉に集団リンチの罠に誘い込み、嗤い楽しむただ単なるごろつき政府になってしまっている。震災処理問題、拉致問題、北方領土問題、沖縄米軍基地問題など、政府自身の重大課題は棚に上げて。かつて熊楠が批判したように土地売買で儲けた金で芸者を囲い遊郭遊びを自慢して国内だけで悦ぶ明治時代の「ごろつき神主」らの内弁慶集団のような政府に。法の番人は裁判所の裁判官ではもはやない。それでもなお孤立した側の支援者は登場してくるものだ。資本主義は一方通行をけっして許さないメカニズムだからである。そうでなければすべての金融機関はいずれどんな利子も上げることはできなくなるだろう。形式的なキャッシュレス決済が幾ら可能になってもなお、同じことだが、貨幣交換はいついかなるときでも可能でなくてはならないからである。そのためには前政権時代に寄ってたかって壊してしまった様々な制度の再構築が必要になる。資本主義的金融社会の「いろは」として、資本主義はロシア革命にもかかわらずどのようにして生き延びることができたか。

「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない。こうして、《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.303~304」河出書房新社)

というふうに。

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熊楠による熊野案内/情愛と灰塵と再創造

2020年10月11日 | 日記・エッセイ・コラム
和歌山県での神社合祀反対運動は熊楠一人の孤軍奮闘というイメージが強い。実際そうだった。資金難は当然のことながら同志といっても熊楠の考える自然生態系に関心のある限られた研究者や理解者に留まらざるを得なかったからである。

「小生家内事多く、昨夜来眠らずすこぶるくたびれ、また明日は英国のリスター女史へ粘菌送るため、これから顕微鏡の画をかかざるべからず。それがすむと、野中村へ神林の老木伐採を見合わすよう勧告に、往復十七、八里を歩まねばならず。野中(のなか)、近露(ちかつゆ)の王子は、熊野九十九王子中もっとも名高きものなり。野中に一方(いっぽう)杉とて名高き大杉あり。また近露の上宮にはさらに大なる老杉あり、下宮にもあり。上宮のみは伐採されしが、他は小生抗議してのこりあり。何とか徳川侯からでも忠告してもらわんと、村人に告げてまず当分は伐木せずにあり。しかし、近日伐木すると言い来たり、すでに高原(たかはら)の塚松という大木は伐られたから、小生みずから止めにゆくなり。後援なき一個人のこととて、私費多き割に功力薄(うす)きにはこまり入り候。ーーー合祀の際、件(くだん)のごろつき神主、神体を掌に玩び、一々その対価を見積もり、公衆前に笑評せり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.423~424』河出文庫)

また合祀反対の論陣を張っていた頃から十年以上も経ってなお引き続き、人間の性の多様性に関する研究を続けている。いつものことだが、突然、玉村主膳という江戸の歌舞伎役者のエピソードが入ってくる。玉村主膳は人気絶頂の時期を過ぎるかどうかという二十歳の時、いきなり元結を切って僧侶になった。僧になったといっても美僧であって目立つ。可見(かけん)と号した。可見が役者だった頃、深く契り合った愛童がいた。名を浅之丞といった。

「世にあった時、抱えて置いた子に浅之丞といったのがあるが、優れて美しく、情も深く諸人の恋の種となった。主膳の頃これをなびかせて、外(ほか)の勤めは自然にやめて、互いに変るまいとの約束をした」(井原西鶴「江戸から尋ねて俄(にわか)坊主」『男色大鑑・P.133』角川ソフィア文庫)

思い切れない浅之丞は武蔵野の熊谷からはるばる大坂の南へ訪ねてきた。しかし可見は一夜限りの食事を用意しただけで明日には武蔵野へ帰るがよいと促す。浅之丞はいったん可見の言葉に従って去ったもののしばらくして再び姿を現わす。

「浅之丞は美しい髪を切り払っていて、『御言葉にしたがい東に帰って又参りました』という」(井原西鶴「江戸から尋ねて俄(にわか)坊主」『男色大鑑・P.134』角川ソフィア文庫)

麗しい自慢の髪の毛をすっぱり切り落として坊主頭になっていた。そこで浅之丞を含め二人の隠遁生活が始まった。同じ頃、浅之丞がここへやって来る途中の古市というところで、その旅姿をひと目見て恋情に火が付いた娘がいた。湧き起こる情念を抑えきれなくなって寺に乗り込んだ。するともう浅之丞は元結を切って僧侶になっている。それを見た娘の憤激は怖いほどだった。

「只『この人を誰が髪をおろしたの、その人を恨む』と、狂人であること疑いない」(井原西鶴「江戸から尋ねて俄(にわか)坊主」『男色大鑑・P.135~136』角川ソフィア文庫)

ところがしばらくの間、落ち着いて考えてみると、出家して草庵を結ぶのもまた一つの確かな生き方かもしれないと思い、自慢の黒髪をすっぱり切り払い、娘も僧になった。

「十四歳までわずかでも散るのさえ惜しんだ黒髪を、今日よりは道の捨草と手ずから切り払ったから、仕方なくこれも出家にして、西の方の山陰にひとつ庵(いおり)を結ぶと、明暮鉦(かね)の音ばかりであって、その後は姿を見た人もいない」(井原西鶴「江戸から尋ねて俄(にわか)坊主」『男色大鑑・P.136』角川ソフィア文庫)

玉村主膳と浅之丞とのただならぬ関係ばかりか華々しかった歌舞伎役者時代の主膳の若衆(男性同性愛)ぶりを知っている知人もだんだん訪ねてこなくなった。何年過ぎたのかもわからない。もはや二人の草庵へ向かう道も周囲の草木にまぎれて消えてしまった。二人は完全な同棲生活に入ることができたのである。その後、秋の紅葉見物に出かけた山本勘太郎という人間がたまたま法師二人だけの草庵に立ち寄ってみた。

「山本勘太郎という若衆が竜田(たつた)の紅葉を見に行って、色ばかり賞(め)でての帰りにここへ立ち寄って、哀れに殊勝に思い立って、まことにこの世は夢の夢と、これも発心の身となった」(井原西鶴「江戸から尋ねて俄(にわか)坊主」『男色大鑑・P.136』角川ソフィア文庫)

もう何年も人の来なくなった草庵で、勘太郎は何を見たのだろう。世間では夢か現(うつつ)かとときどき口にはするが、勘太郎は「まことにこの世は夢の夢」と感じ入り、前髪もまだ麗しい年頃なのだが、そんなことは抜きにしてあっさり元結を切って僧侶になった。玉村主膳を含めて都合四人が花の江戸から離れ、大坂のそのまた田んぼや林や森がだだっ広く残っている小さな里でひっそり自分の思うように生きることになった。

そんなふうに熊楠の論考はあちこちへ拡張していく。常に創造性を発揮しないではいられない流れとして多岐に渡る。例えば、ベルグソンは、「創造性」と「流れ」について次のように述べている。

「例えば映画のフィルムの上ではそうであるように、すべてが一挙に与えられないのはなぜか。この点を掘り下げれば掘り下げるほど、次のように私には思える。第一に、未来が、現在の横に与えられるのではなく、現在に《引き継いで起こる》以外にないのは、未来が現在の瞬間において完全には決定されていないからだ。第二に、この継起に占められる時間が数以外のもので、そこに据え置かれた意識にとって絶対的な価値、絶対的な実在性を持つのは、予見不可能なもの、新しいものが絶えずそこで創造されているからだ。この創造が行われるのは、おそらく、砂糖水の入ったコップのような、人為的に切り離されるこれこれのシステムにおいてではなく、そのシステムが一部をなす具体的な全体においてである。この持続は物質そのものの事実ではありえない。物質の流れをさかのぼる『生命』の持続である。それでも、それら二つの運動は互いに固く結び付いている。《それゆえ、宇宙が持続する分、創造の余地があるということである。創造は宇宙のどこかに自分の場所を見つけることができるのである》」(ベルクソン「創造的進化・第四章・P.428~429」ちくま学芸文庫)

熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。

捕われの身になっている梅若と桂壽。そこへ新しい人物が放り込まれてくる。八十歳を過ぎたと思われる翁である。梅若と桂壽とが行きがかり上、こうなった経緯に耳を傾けてくれる。翁は梅若の仕草を見つめる。

「翁此公ノ袖ヲシボリテ見ルニ、白玉カ何(ナニ)ゾト人ノ問(フ)計、涙ノ露シタダリタリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.477』岩波書店)

この歌は「伊勢物語」に類歌がある。

「白玉(しらたま)か何ぞと人の問ひしとき露とこたへて消えなましものを」(新潮日本古典修正「伊勢物語・六・在原業平・P.319」新潮社)

さて、あらまし話を聞いた翁は梅若の零した涙を一粒手に取ってころころ転がす。と、みるみる大きくなって二つに割れる。割れたものをさらに次々と転がしていくと遂に洪水になった。天狗たちも驚いて逃げ出した。その間に翁は梅若と桂壽、その他に捕われていた人々を解き放ち、京の都の神泉苑まで送り届ける。

だが二人を待っていたのは荒れ果てて残骸と化した家、さらに三井寺へ赴くと寺もほぼすべての堂宇が全壊しているありさまだった。夜になり行くあても差し当たり見当が付かない。焼け残った神羅大明神の拝殿で夜露をしのぐことにした。

「只我故(ユエ)ナル事ナレバ、サコソ神慮ニモ違(チガ)ヒ、人口ニモ落チヌラント、アサマシク覺エテ、見ルニ目モ當(ア)テラレネドモ、年久シク棲ミ馴レシ處ナレバ、軈(ヤガ)テ見捨ツルモ餘波(ナゴリ)惜シクテ、其夜ハ神羅大明神ノ御拝殿ン湖水ノ月ヲナガメテ泣キ明(アカ)シツツ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.478』岩波書店)

桂壽は生来の屈託のなさからか、この際、比叡山にいるはずの桂海律師に会ってみようと思い立つ。そこで梅若は桂壽に手紙を書いて手渡す。桂壽は力を出して山門へ向かった。しかし梅若の気持ちはもはや沈み切って浮かび上がる力がないかのようだ。

「若公今ハ只浮世ニアラヌ身トナラント、深ク思ヒ定メ玉フ心アリケレバ、ヨシヤ中々取留ムル人モナクハ、心ノ愼(ママ)ニイカナル淵河ニモ身ヲ沈メント思食(オボシメ)シテ、泣々(ナクナク)消息書キテ童ニタビケルニ、是ヲ限トハヨモ知(シ)ラジト哀ニテ遥ニ見送リテ立チ玉フ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.478』岩波書店)

手紙にはただ和歌が一首、したためられていた。

「我身サテ沈(シズミ)モ果(ハ)テバ深(フカ)キ瀬(セ)ニ底(ソコ)マデ照ラセ山ノ端(ハ)ノ月」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.479』岩波書店)

和泉式部の和歌にこうある。

「暗(くらき)より暗(くらき)道にぞ入(いり)ぬべき遥に照せ山の葉(は)の月」(「拾遺和歌集・巻第二十・一三四二・雅致女式部・P.394」岩波書店)

式部の和歌は法華経の次の部分からの引用だろう。

「從冥入於冥 永不聞佛名

(書き下し)冥(くらき)より冥(くらき)に入りて永く仏の名(みな)を聞かざりしなり。

(現代語訳)まこと、この世においては、仏たちの声は聞かれず、このすべての世界は真暗な闇である」(「法華経・中・巻第三・化城喩品・第七・P.20~21」岩波文庫)

梅若の歌はそれよりなお一層暗さを感じさせなくもない。桂壽から手紙を受け取った桂海はもしやと思ったのだろう。桂壽を先に立てて足早に石山寺方面へ向かう。途中で何人かの旅人が同じ話をしているのが耳に入った。気になったので一人の旅人に尋ねてみると、瀬田川の唐橋の辺りで若い兒(ちご)が身投げをしたのを目撃したという。そのときの服装もよく覚えている。周囲の者もびっくりして何人かが川に飛び込んで探したが見つからなかったという。

「只今勢多(タ)ノ橋ヲ渡リ候ヒツル處ニ、御年ノ程十六、七ニ見エサセ給ヒツル兒ノ、紅梅ノ小袖ニ水干ノ下(シモ)計被召(メサレ)テ候ヒツルガ、西ニ向ヒテ念佛十反(ペン)計唱ヘテ、身ヲ投(ナ)ゲサセ給ヒテ候ヒツル。餘ニ悲敷(カナシク)見参(マヒ)ラセツルニ、我等軈(ヤガ)テ水ニ入リテ取リ上(ア)ゲ参(マヒ)ラセントシ候ヒツレドモ、遂ニ見(ミ)エサセ給ヒ候ハヌ程ニ、力(チカラ)ナク罷リ過(スギ)候ナリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.479』岩波書店)

桂海は何とも言い難い苦悩でいっぱいになり、また桂壽も早く唐橋へ行ってみなくてはと、気持ちばかりが走る。

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熊楠による熊野案内/同性愛者細川政元と明治初期の学校教育

2020年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠のもとには様々な動植物が持ち込まれる。観察・判定するのに時間を要するのは当たり前としても、他にこれといった研究所のない時代と場所と、ということになると自ずから熊楠の作業は増えていった。

「折から海辺よりへんな動物を持ち来たれたる人あり、死なぬうちにといろいろ生態の観察了りて酒精に漬し、これがため時間を潰し、只今御状拝読、本状差し上げ候」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.315』河出文庫)

さらにその博学ぶりは知られているため、折々、専門外の質問にも応じている。岩田準一との往復書簡は有名だが、その中で岩田は「日本外史」にある細川政元についての同性愛関連記事について述べている。

「四年(一五〇七)、細川政元、賊の殺す所となる。三好長輝(みよしながてる)、その賊を誅(ちゅう)す。政元、素(もと)より鬼神(きしん)の説(せつ)を好み、婦人を近づけず。故(ゆえ)に以て子なし。藤原政基の子澄之(すみゆき)を養ひ、また族政春(まさはる)の子高国を養ふ。皆意(い)に中(あた)らず。更に族元勝(もとかつ)の子澄元(すみもと)を養ふ。初め頼之(よりゆき)の後(のち)、世々(よよ)管領(かんりょう)となり、上館(かみやかた)といふ。二弟詮春(のりはる)・満之(みつゆき)、世々讃岐・阿波を領し、下館(しもやかた)といふ。猶ほ関東に両上杉氏あるがごとし。政春は詮春の後なり。元勝は満之の後なり。澄元、猶ほ幼にして阿波に在り。三好之慶(ゆきよし)の子長輝これを輔(たす)く。薬師寺与次(やくしじともつぐ)・香西又六(かさいまたろく)、並に政元の家宰(かさい)たり。議(ぎ)して曰く、『管領は言行常(つね)なし。久しきこと能はざるなり。澄元、嗣(し)となり、長輝、権を執(と)らば、則ち我が輩(はい)その下に出でざる能はず。速(すみやか)に大事(だいじ)を行って、澄之を擁立(ようりつ)するに若(し)かず』と。乃ち政元の近士福井(ふくい)・戸倉(とくら)らに賂(まいな)ひ、政元を伺察(しさつ)す。この年六月、政元、斎戒(さいかい)せんとして、夜、浴室に入る。戸倉、就(つ)いてこれを刃(じん)す。近士波波伯部(ははかべ)走り救ひ、亦た刃する所となり、殊せず。阿波に奔る。香西ら乃ち澄之を丹羽より迎へて、これを立つ。義澄、制(せい)する能はず。七月、三好長輝兵を発(はつ)し、澄元を擁(よう)して京師に入る。香西、嵐山(あらしやま)に城(きず)き、これに拠り、兵を出して百百橋(どどばし)に拒ぐ。波波伯部長輝の先鋒(せんぽう)となり、戸倉に遇(あ)ひ、闘つてこれを斬る」(頼山陽「日本外史・仲・巻之九・P.114~115」岩波文庫)

熊楠はそれについて、明治十年頃の学校教師はどの教師もほとんど決まって細川政元の同性愛関係について大いに語っていたと回想する。

「政元は寵童のあるがためにややもすれば近臣等がこれに私通せずやとの疑念より人を疑うこと絶えず、戸倉も疑われたる人にて、ついに弑逆に及びしところへ来合わせたる家臣波々伯部が戸倉に切られ、後に戦場で戸倉を殺せしと、教師はほとんどみな語りおられし」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.315~316』河出文庫)

戦国時代では同性愛はむしろ当たり前だった。ヨーロッパで当たり前だったように。そして「日本外史」が書かれた江戸時代〔一八二六年(文政九年)〕にもまた武士同士の同性愛は何ら不可解なものではなかった。とはいえ「日本外史」は頼山陽独特の歴史観の上に立って書かれたものであり、その意味では確実性に問題があるとされている書物である。しかも歴史書である。にもかかわらず、わざわざ細川政元の同性愛についてしっかり書き込んでいる点を見ると、同性愛は武士のあいだで広く実践されていた抜くに抜けない歴史的事情の一つとして認めないわけにはいかない。

それはそれとして、この箇所でも顕著な、何度も繰り返されし反復される殺戮の等価性という感覚は、いったいどこから来るのか。ニーチェはいう。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)

熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。

山門(比叡山)と寺門(園城寺=三井寺)との合戦。以前から何度か合戦した両者である。これが最初というわけではない。しかし桂海律師は直情径行型なのか、今回の合戦は自分の行為が火種となって生じた合戦だと考え、自ら五百人を率いて三井寺攻めの先頭に立って戦おうとする。

「桂海律師ハ、今此濫觴(ランシヤウ)ハ併(シカシナガ)ラ我身ヨリ起(ヲコ)リシ災(ワザハヒ)ナレバ、人ヨリ先ニ一合戦ヲシ、名ヲ後記ニ留メンズル物ヲト思ヒケレバ、勝(スグ)レタル同宿、若黨五百人皆神水呑ミテ、五更ノ天ノ明(ア)ケヌ間ニ、如意越ヨリ押シ寄セタリケリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.474』岩波書店)

その五百人だが、まず「神水」を飲む。麓の日吉社の水のことだろう。そして「五更」(ごこう)には「如意越」方面から三井寺へ到着したとある。「五更」(ごこう)は「寅ノ刻」のことで、今でいう午前四時頃。「如意越」(にょいごえ)は近江から京へ抜ける山道の一つで、「小関越え」、「如意越え」、「如意ヶ嶽」、「大文字山」を経て、「銀閣寺裏/鹿ヶ谷方面」、へと出る。

比叡山三井寺ともに様々な軍事勢力が集結するわけだが、注目したいのは、その中に「千人切りノ荒讃岐」、「三町ツブテノ円月房」、と見える点。「千人切り」については前に触れた。西鶴にある。

「血書(ちかき)は、千枚(まい)かさね、土中(どちう)に突込(つきこ)み、誓紙塚(せいしつか)と名付(なつ)け、田代(たしろ)孫右衛門と、同じ供養(くやう)をする」(井原西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕・卷八・五・大往生(だいあうしやう)は女色(ちよしき)の臺(うてな)・P.305」岩波文庫)

またこうも。

「田代如風(たしろじよふう)は千人切りして津(つ)の国(くに)の大寺に石塔を立て供養をした。自分も又、衆道にもとづいて二十七年、そのいろを替え、品に好き、心覚えに書き留めていたのに、すでに千人に及んだ。これを思うに、義理を立て意地づくで契ったのは僅かである。皆、勤子(つとめこ)のため厭々(いやいや)ながら身をまかせたので、一人一人の思ったことを考えるとむごい気がする。せめては若道供養のためと思い立って、延紙(のべがみ)〔鼻紙〕で若衆千体を張り貫(ぬ)きにこしらえて、嵯峨(さが)の遊び寺へおさめて置いた。これ男好(なんこう)開山の御作である。末の世にはこの道がひろまって、開帳があるべきものではある」(井原西鶴「執念は箱入の男」『男色大鑑・P.172』角川ソフィア文庫)

《過剰-逸脱》を現わす力の持ち主であり、千人という数が正確かどうかは関係がない。大事なのは怪異というほかない無類の技術に長けた人物という意味。そして「三町ツブテノ円月房」も、その種の怪異な力を発揮する人物の一人と見ることができる。保元物語に、「三町(さんちやう)ツブテノ紀平次大夫(きへいじたいふ)」、とある。

「御曹司ノ方(かた)ヨリハ、三町(さんちやう)ツブテノ紀平次大夫(きへいじたいふ)、大矢新三郎(おほやのしんざぶろう)、二人(ににん)剉(つづい)テ、落合(おちあひ)テ、切相(きりあひ)ケリ」(新日本古典文学体系「保元物語・中・白河殿攻メ落ス事」『保元物語/平治物語/承久記・P.66』岩波書店)

「秋夜長物語」の舞台となっている合戦で三井寺側は完敗し神羅大明神だけが残った。ちなみに「秋夜長物語」はところどころで「太平記」との類似箇所が指摘されている。十四世紀成立の「太平記」にしても、江戸時代後期成立の「日本外史」にしても、歴史書というより軍記物である。そのためか、武家の棟梁としての源氏の始祖の一人源頼義の三男・源義光「新羅三郎」(しんらさぶろう)が元服した神羅大明神はあえて残した、というエピソードに仕上げられたのではと思われる。しかしそのような史実かどうかとは関係のない部分で、当時のトピックである風俗あるいは民俗は実にしばしばよく出てくる。

三井寺が灰塵に帰したという報を聞いて、梅若は奈良の大峯山の牢の中で涙する。そのとき、天狗の群れがやって来て言う。天狗にとって面白いものは「焼亡(ゼウマウ)、辻風、小喧嘩(ケンクハ)、論(ロン)ノ相撲ニ事出(イダ)シ、白川ホコノ空印事(ソラインヂ)、山門南都ノ御輿振(ミコシブリ)、五山ノ僧ノ門徒立(ダテ)」などだと。

「我等ガ面白キト思フ事ニハ、焼亡(ゼウマウ)、辻風、小喧嘩(ケンクハ)、論(ロン)ノ相撲ニ事出(イダ)シ、白川ホコノ空印事(ソラインヂ)、山門南都ノ御輿振(ミコシブリ)、五山ノ僧ノ門徒立(ダテ)、是等コソ興アル見物モ出デ来テ一風情アリト思ヒツル」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.476』岩波書店)

この中に「白川ホコノ空印事(ソラインヂ)」とある。先に「三町ツブテノ円月房」を上げた。「礫」(つぶて)と「印池」(いんじ)とは関係が近い。「平家物語」では「つぶて・いんぢ」と並列に置かれている。

「公卿(クギヤウ)・殿上人の召(め)されける勢と申(まうす)は、むかへつぶて・いんぢ、いふかひなき辻冠者原(ツヂクワジヤバラ)・乞食法師(コツジキボウシ)どもなりけり」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第八・鼓判官・P.102」岩波書店)

注釈に詳しい。「むかへつぶて」=「小石を投げ合う子供の遊びの石合戦をいうが、転じて石投げを得意とする無頼の徒。」とある。「いんぢ」=「『印』は相争う両方の陣地の境界を示す標識の意と解せられ、一定の地域の勢力範囲として他と抗争する徒党をいう。『白河の印地』と呼ばれ、京都白河の辺にたむろした徒党がとくに名高い」とある。だがそれが許されたのはなぜか。

「白川(しらかは)印地(ゐんじ)の者(もの)ども」(新日本古典文学体系「未来記」『舞の本・P.305』岩波書店)

ここでも注釈に詳しい。「白川(しらかは)印地(ゐんじ)の者(もの)ども」=「北白川の辺にたむろする声聞師、民。祭礼に山鉾をかつぎ、石礫(つぶて)を打つのを得意とする」とある。都の祭礼に関係した。一般大衆とは異なり、異類・異形の者らのことを言う。そして京の都の祭礼の折には古来、彼ら異類・異形の者らが多く参加する習いになっていた。「礫」(つぶて)を投げる風習はさらに古い。万葉集にも出てくる。「たぶて」=「つぶて」。

「たぶてにも投げ越しつべき天(あま)の川(がは)隔(へだ)てればかもあまたすべなき」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第八・一五二二・P.332」小学館)

次の文章でも「印地」(いんじ)と「礫」(つぶて)とは並列的に記されている。

「二十騎、三十騎、爰(ここ)かしこに引分(わ)け引分(わ)け、空印地(そらゐんじ)して、礫(つぶて)打(うつ)たらんには似(に)まじいぞ」(新日本古典文学体系「高館」『舞の本・P.456』岩波書店)

ところで、天狗が言ったとあるが、そもそも天狗とは何か。沙石集にこうある。

「天狗ト云(いふ)事ハ、日本ニ申傅付(まうしつたへつけ)タリ。聖教(しやうげう)ニ慥(たしか)ナル文證(もんしよう)ナシ。先徳ノ釋ニ、魔鬼(まき)ト云ヘルゾ是(コレ)ニヤト覺エ侍ル。大旨(おほむね)ハ鬼類(きるゐ)ニコソ。眞實ノ智恵ナクテ、執心偏執(しふしんへんしふ)、我相憍慢(がさうけうまん)アル者、有相(うさう)ノ行徳(ぎやうとく)アルハ、皆此道ニ入(いる)也」(日本古典文学体系「沙石集・巻七・二二・P.318」岩波書店)

とすれば、今の日本はもはや天狗だらけというほかない。

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熊楠による熊野案内/マンドラゴラを通して見える世界の古層

2020年10月07日 | 日記・エッセイ・コラム
和歌山県田辺市の浜で方術を行い生活資金を得ていた老婦がいた。ちなみのこの老婦は熊楠の知人である。

「往年この田辺近い漁村のある老婦(予知人の姑)が蔓荊(『郷土研究』五卷五号三二四頁〔南方『バマボウとハマゴウ』〕をみよ)の根本に、畸形の贅(こぶ)、自然に大黒とか恵比須とかの像とみゆるを採り帰り、禱れば予言して、福を授け給うとて、衆を集め賽銭をせしめて、警察事件が生じた」(南方熊楠「樟柳神とは何ぞ」『浄のセクソロジー・P.165』河出文庫)

方術というのは祈祷や予言のことで、それを職業とする人々を方術師と呼んだ。この老婦はそもそも神道で巫女を務める家の生まれであって、蔓荊の根に生ずる贅(こぶ)を霊験あらたかな商品として売り捌いているところを警察に咎められたらしい。

「この木の根本は浪と沙に揉まれ、往々異態の贅を生ず。予も、紀伊の国は西牟婁郡富田中村の浜で、相好円満、四具皆備の妙門形の物を獲、転輪聖王玉女宝と銘し『一切衆生の途(みち)に迷うところ、十万諸仏の身を出だすの門』と、狂雲子の詩句をその箱にかき付け、恋しきにも悲しきにも帰命頂礼しおる。かの老婦は、代々エビス卸しを務めた巫女の家に生まれたといえば、この木の贅は、古来この修方に使われたと察する」(南方熊楠「樟柳神とは何ぞ」『浄のセクソロジー・P.165~166』河出文庫)

漢方薬なら江戸時代以前から様々な品種が売られていたし民間で用いられていた。だが近代になってなお当時の科学技術では説明のつかない植物はまだまだ多く、なかでも茄子科に属するマンドレイクは次の文章で熊楠が紹介しているように世界各地で相当有名だった。

「かく根を方術に用いる植物多岐なるうち、他に挺んでて最も著名なのはマンドラゴラに極まる。これは地中海地方に二、三種、ヒマラヤ山辺に一種、合わせてただ三、四種より成る一種で、茄科に属し、紫の花さく。なかんずく古く医術、媚術と左道に用いられて過重された一種は、地中海に瀕する諸国の産で、学名マンドラゴラ・オッフィシナルム。英語でマンドレイク、独語でアルラウネ、露語でアダモヴァゴロヴァ、古ヘブリウ名ズダイム、ペルシア名ヤブルズ、アラブ名イブルッ、パレスチナ名ヤブロチャク。今座右にないから月日は分からぬが、確か明治二十九年か三十年の『ネイチュール』に、予このヤブロチャクなる名を、予未見の書で、明の方密之の『通雅』四一に引かれた『方輿勝略』に押不盧薬と音訳したと書いたはとにかく、右のペルシア名かアラブ名を、宋末・元初時代に押不盧(ヤブルウ)と音訳したは疑いを容れず。押不盧『本草』にも明の李時珍が、むかし華陀(かだ)が腸を刳(えぐ)り胃を滌(あら)うた外科施術には、こんな薬を用いたのだろう、と古人の言を引いたを読んでも、和漢の学者何ものとも分からずに過ごしたのを、予が語学と古記述を調べて、初めてマンドラゴラと定めた」(南方熊楠「樟柳神とは何ぞ」『浄のセクソロジー・P.168~169』河出文庫)

明治二十九年か三十年とあるが、正しくは一九八九年(明治三十年)、イギリスの“Nature”誌八月十三日号に“The Mandrake”と題して掲載された熊楠の学術論文。“Mandrake”(マンドレイク)の名は今の日本の高校生向けの英和辞典を見ても、催眠剤・下剤として用いられるナス科の有毒植物として載っている。多くは手術時の麻酔として使われたようだ。しかし強力な作用を持つ薬物は紀元前から性的誘惑や暗殺に利用された。

「この物は毒物で、古ギリシアより中世欧州に至るまで、患者を麻酔せしめて施術するに用い、アラブの名医アヴィセンナもその功を推奨した。またカルタゴの大将マハルバルは、酒にマンドラゴラを入れて、叛徒多人を眠らせて殺し、ジュリアス・シーザーはシリシアの海賊に捕われた時、アンドラゴラ酒もて彼らを眠らせ、難を脱れたという」(南方熊楠「樟柳神とは何ぞ」『浄のセクソロジー・P.170』河出文庫)

古代ギリシア神話に「黄金の林檎(りんご)」という謎の植物が出てくる。

「さて夜(ニュクス)は忌(いま)わしい定業(モロス)と死の命運(ケール)と死(タナトス)を生み、また眠り(ヒュブノス)夢(オネイロス)の族を生み、ついで非難(モモス)と痛ましい苦悩(オイジュス)を生んだ、暗い夜の女神がたれとひとつ床に入ることもなく、生みたもうたのだ。また名にし負う大洋(オケアノス)のかなたで、黄金の林檎(りんご)と実をつけた樹木を護る、黄昏の娘たち(ヘスペリス)たちも」(ヘシオドス「神統記・P.32~33」岩波文庫)

黄金の林檎は、しかし、愛の大女神として有名なアプロディーテと関係が深い。

「このりんごは、われわれ人間の世界で聖なる庭園をもっているアプロディテの持物であった、という」(ケレーニイ「ギリシアの神話 神々の時代・第三章・P.56」中公文庫)

その庭園にはどんな植物が収集されていたのか知るよしもないが、ケレーニイは次のようにアプロディーテの別名を列挙している。

「メライナ/メライニス」(黒い女)、「スコテイア」(暗い女)、「アンドロポス」(人殺しの女)、「アノシア」(不信心な女)、「テュンポリュコス」(埋葬する女)、「エピテュンビディア」(墓の上にいる女)、「ペルセパエッサ」(冥界の女王)など。

また、旧約聖書に「恋なすび」〔恋なす〕という食物が出てくる。文字通りナス科の植物で強力な媚薬として用いられていたことがわかる。

「ルベンは小麦の収穫の頃、出て行って野に恋なすを見つけ、それをその母レアの所に持って来た。ラケルがレアに言うには、『あなたの子の恋なすをわたしに下さい』。レアはラケルに答えて、『わたしの夫を奪っただけでは足りずに、わたしの子の恋なすまであなたはとろうとするの』と言った。ラケルが言うには、『だからあなたの子の恋なすのかわりに、今夜あの人があなたと一緒に寝るようにしましょう』。ヤゴブが夕方野から帰って来ると、レアが迎えに出て、言った、『あなたはわたしの所へ入(はい)らなければいけません。わたしはわが子の恋なすであなたを確かに雇ったのですから』。そこでその夜、彼は彼女とともに寝た。神はレアの願いを聞かれたので、彼女は身ごもって、ヤコブに五番目の子を生んだ」(「創世記・第三十章・P.87」岩波文庫)

シェイクスピア作品でもところどころに出てくる。主に殺害目的か睡眠剤として、時には食べた人間を狂気に陥れる陰謀の小道具として登場する。

「イアーゴー それ、言ったとおりだ、奴が来る!阿片(あへん)、マンドラゴラ、そのほか世にあるどんな眠り薬を飲もうが、効きっこなし、きのうまで貴様を見舞ったあの安らかな眠りは二度と訪れるものか」(シェイクスピア「オセロー・第三幕第三場・P.98」新潮文庫)

「ジュリエット 万が一にも、眼が覚めるのが早すぎたら、一つにはたまらない悪臭と、二つには、あの土から根こぎにされる曼荼羅華(まんだらげ)の悲鳴、それを耳にした人間は、そのまま狂気にあるということだが」(シェイクスピア「ロミオとジュリエット・第四幕第三場・P.173」)

この箇所の「曼荼羅華(まんだらげ)」はマンダラゴラと発音が似ているだけのことで、マンダラゴラとはまた別物。植物としての「曼荼羅華(まんだらげ)」はチョウセンアサガオ(ダツラ)を指し、その主成分はヒヨスチアチン。華岡青洲が乳癌手術の際に世界初の全身麻酔を成功させた。

「クレオパトラ マンドラゴラを飲ませておくれ。/カーミアン どうしてそのようなことを?/クレオパトラ アントニーのいないこの長い時の間を眠って過ごすために」(シェイクスピア「アントニーとクレオパトラ・第一幕第五場・P.34」新潮文庫)

さて、ひとしきりマンドラゴラ関連の話題が連続した後、唐突に、人体内部に侵入してその内側から怪異な効果を発揮する謎の生物に話題が飛ぶ。寄生虫の一種だろうと思われるがその正体には深く触れておらず、熊楠の関心もそれが医学的にどのようなものかということとはやや違った位置から述べている印象が濃い。

「人の身内に鼈生じ脳ますを鼈瘕という。支那の医書にしばしばみえる。『藩翰譜』八下にいわく、天正十三年四月十六日、丹羽長秀、切腹して死す。『これは年ごろの積聚という病に犯されて、命すでに尽きんとす。たとえ、いかなる病なりとも、わが命失わんずるは正しき敵にこそあれ、いかでその敵討たでは空しくなるべきとて、腹掻き切り腸くりだしてみるに、奇異の曲者こそ出で来たれ、形石亀のごとくに、嘴(くちばし)鷹のごとくに尖り曲がりて、背中に刀の当たりたる跡ありけれ。長秀みずから筆執りて、事の由来を記して、わが跡のことをよきに計らい給うべしと書き認(したた)め、かの腹切りたる刀に積虫添えて大臣に献る(下略)』と」(南方熊楠「樟柳神とは何ぞ」『浄のセクソロジー・P.183』河出文庫)

さらにインドの医王耆婆(ぎば)の話題へ延びていく。

「亡夫の魂が爬虫となり、その形見の衣類を『出すたびにしくしくとなく若後家』の彼処に棲んで、日夜モーたまらぬ、これはどうにもならぬと悶えしめおるを憫れみ、彼女を丸裸にして、爬虫を除き、全快せしめたので、若後家恐悦やら恥かしいやら、あれほど深い処に潜んだ虫を引き出されて、底が大分あいてきました、どうそ跡片づけに、太い棒で存分地突きを遊ばしてと、尻目で見たる麗しさ」(南方熊楠「樟柳神とは何ぞ」『浄のセクソロジー・P.184』河出文庫)

文体の効果のため、医学というより遥かに褻談に等しい。ところがそれこそが熊楠の狙いである。といっても猥褻なエピソードだから出してきたわけではない。どういうことか。中沢新一はこう述べる。

「大事なのは、文章に猥談を突入させることによって、彼の文章にはつねに、なまなましい生命が侵入しているような印象があたえられる、という点だろうと思う。バフチンならば、これを熊楠の文体のもつカーニバル性と言うだろう。言葉の秩序の中に、いきなり生命の唯物論的な基底が、突入してくるのだ、このおかげで、熊楠の文章は、全体としてヘテロジニアスな構造をもつことになる。なめらかに連続する言葉の表面に、随所にちりばめられた猥談によって、たくさんの黒い穴がうがたれるようになり、その黒い穴からは、なまの生命が顔を出す」(中沢新一「動と不動のコスモロジー」『動と不動のコスモロジー・P.60』河出文庫)

もっとも、論文のはずがいつの間にかそのような形態変化を起こし、まるで違った話題へジャンプしていくことについて、熊楠自身、大変自覚的だった。自伝的回想を述べた箇所でこう書いている。

「小生は元来はなはだしき疳積(かんしゃく)持ちにて、狂人になることを人々患(うれ)えたり。自分このことに気がつき、他人が病質を治せんとて種々遊戯に身を入るるもつまらず、宜しく遊戯同様に面白き学問より始むべしと思い、博物標本をみずから集むることにかかれり。これはなかなか面白く、また疳積など少しも起こさば、解剖等微細の研究は一つも成らず、この方法にて疳積をおさうるになれて今日まで狂人にならざりし」(南方熊楠「狂人になること、反進化論、その他」『南方民俗学・P.497』河出文庫)

熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。

梅若失踪が明らかになった。三井寺(園城寺)ではこれを一山の恥として五百人ばかりで京の都の「左府」(大臣)の邸宅へ押し寄せ責め込み、苛烈な示威のため、すべての堂宇を一挙に焼き払って引き上げた。

「御門徒ノ大衆(ダイシユ)五百余人、白昼ニ左府ノ第宅、三条京極ヘ打寄セタリ。近所ノ祇候ノ人五十余人身命ヲ軽(カロン)ジテ塞(フセ)ギ戦ヘドモ、大衆㕝トモセズ責メ入リケル間、渡殿(ワタリドノ)、釣殿(ツリドノ)、泉殿(イヅミドノ)、甍(イラカ)ヲ並ベシ玉ノ欄干(ランカン)、一宇モ不残(ノコサズ)焼キ拂フ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.473』岩波書店)

けれどもまだまだ虫のおさまらない寺門派(三井寺=園城寺)。というのは、山門(比叡山)には戒壇が設けられているが、三井寺にはない。三井寺は常々「三摩耶戒壇(サンマヤカイダン)」という真言宗の戒壇設置を要望していた。梅若を誘惑したのは山門(比叡山)の僧だという。だからここはいっそのこと、山門相手に戦闘すべく、躊躇なく、「如意越(ニヨイゴエ)ノ道、所々ヲ堀切リテ、寺中ヲ城郭(ジヤウクワク)ニ構ヘ」、三摩耶戒壇を作ってしまう。ちなみに如意ヶ嶽の山頂は今の京都市と大津市との境界線になっており、俗称「大文字山」と呼ばれているのがそれ。

「『此次(ツイデ)ヲ以テ当寺ニ三摩耶戒壇(サンマヤカイダン)ヲ立テバ、山門定メテ寄(ヨ)センズラン。是則チ地ノ利ニ次ギテ敵ヲ亡(マウ)ス媒(ナカダチ)、亦ハ邪執ヲ退ケテ戒法ヲヒロムル道(ミチ)タルベシ。天茲ニ時ヲ與(アタ)ヘタリ、暫クモ遅擬スベカラズ』トテ、一味同心の衆徒二千余人、如意越(ニヨイゴエ)ノ道、所々ヲ堀切リテ、寺中ヲ城郭(ジヤウクワク)ニ構ヘテ、三摩耶戒壇ヲゾ立テケル」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.473』岩波書店)

この動きはただちに伝わって山門もまた七万余騎の軍勢を集める。

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