熊楠の文章の中に猥談にも似た部分が突然侵入してくることは前に述べた。
「家累と老齢衰弱のため、精査を遂ぐるに由なく、久しく打ちやり置きたるもの多し。その内に必然、無類の新属と思う Phalloideae の一品あり。記憶のままに申し上ぐると、上図のごときものなり。生きた時は牛蒡の臭気あり、全体紫褐色、陰茎の前皮がむけたる形そっくりなり。インドより輸入して久しく庫中に貯えられたる綿花(わた)の塊に生えたる也」(南方熊楠「ハドリアヌスタケ」『森の思想・P.238』河出文庫)
その傾向について中沢新一はこう述べている。
「大事なのは、文章に猥談を突入させることによって、彼の文章にはつねに、なまなましい生命が侵入しているような印象があたえられる、という点だろうと思う。バフチンならば、これを熊楠の文体のもつカーニバル性と言うだろう。言葉の秩序の中に、いきなり生命の唯物論的な基底が、突入してくるのだ、このおかげで、熊楠の文章は、全体としてヘテロジニアスな構造をもつことになる。なめらかに連続する言葉の表面に、随所にちりばめられた猥談によって、たくさんの黒い穴がうがたれるようになり、その黒い穴からは、なまの生命が顔を出す」(中沢新一「動と不動のコスモロジー」『動と不動のコスモロジー・P.60』河出文庫)
もっともだと思われる。ところでハドリアヌスタケについて述べた文章の後半で、保存のためにアルコール漬けにしているとあるのだが、語注を見ると、この「酒精」に関して注釈が付されている。
「貴下は拙方に御滞在中に、この菌(〔酒精に蔵しあり、故に変色はせるものの〕全体の写生と記載は〔外部に関する限り〕十分に致して今ももちおれり)を小生立合いの上、解剖鏡検して大抵要点を控え去り、御帰礼の上、精査して命名発表下さらずや」(南方熊楠「ハドリアヌスタケ」『森の思想・P.238』河出文庫)
熊楠の実家は南方酒造という酒造会社だった。もちろん紀伊国の酒造会社は南方酒造だけではない。ほかにもある。「穴伏村」でも酒造業が営まれていた。「穴虫」(あなむし)ともいう。紀ノ川と四十八瀬川(現・穴伏川)との合流地点。今の和歌山県紀の川市穴伏。高野山への参詣者らが集まる宿場町として栄え、また紀ノ川を行き来する筏師らの宿泊施設もあった。その様相を見ると「市」の立つ場だったように思われる。宿場でもあり他の芸能民らも多く集まったようだ。川と川との合流地点というところがポイント。
「注目すべきは、寺社の門前に市が開かれた事実である。若狭の遠敷市は、国衙の市の機能も持っていたと思われるが、なにより若狭一・二宮-彦・姫神社の門前に立つ市と理解すべきであろう。また、備前国西大寺の門前には、元享二年(一三二二)、酒屋・魚商人・餅屋・莚作手・鋳物師などが、家・屋・座をもち、国衙方・地頭方双方の支配下におかれた市が立っている。この場合、家・屋を持つ酒屋・餅屋は、すでにある程度、この市に定住しているとみてよいが、莚作手・鋳物師・魚商人などは、市日に巡回してきたものと見るべきであろう。市日には、このような遍歴の商工民、さらには『芸能』民が集り、著しいにぎわいをみせたのである。南北朝末から室町初期の成立といわれている『庭訓往来』の四月の書状が、『市町興行』のさいに招きすえるべき輩として、鍛冶・番匠等々の商工民だけでなく、獅子舞・遊女・医師・陰陽師などの各種の『職人』をあげているのは、決して単なる『職人尽』ではなく、事実を反映しているうとみなくてはならない。実際、信濃の諏訪社の祭礼に、南北朝期、『道々の輩』をはじめ、『白拍子、御子、田楽、呪師、猿楽、乞食、、盲聾病痾の類ひ』が『稲麻竹葦』の如く集ったといわれ、鎌倉末期、播磨国蓑寺は、『九品念仏、管弦連歌、田楽、猿楽、呪師、クセ舞ヒ、乞食、』が近隣諸国から集り、たちまち大寺が建立された、と伝えられているのである。寺社の門前の特質は、このようなところに、鮮やかに現われている。それはやはり、戦国期のように、掟書によって明確にされているわけではないが、神仏の支配する『無主』の場であり、『無縁』の原理を潜在させた空間であった。それ故、ここには市が立ち、諸国を往反・遍歴する『無縁』の輩が集ったのである。市だけでなく、遍歴する『芸能』民は、その『芸能』を営む独自な場を持つこともあった。祗園社に属する獅子舞は、祗園社だけでなく、他の神社にも、その『芸能』を以て奉仕したとみられるが、近江をはじめ、各地に『舞場』を持っていたと思われる(『祗園執行日記』)。また『清目』を職掌とし、『乞食』をするも、和泉・伊賀をはじめ、諸国に公認された『乞庭』を保持していたのであるが、こうした『場』『庭』も、市と全く同じ特質を持っていたとみてよかろう。とすると、の『宿』、また宿場の『宿』も、また同じような場と考えて、まず間違いなかろう。この両者は、必ずしも同一視することはできないとはいえ、同じく『宿』として、きわめて類似していることは事実である」(網野善彦「<増補>無縁・苦界・楽・十三・市と宿・P.136~137」平凡社ライブラリー)
さて、なるほどそこは「市」の立つ宿場町としてたいそう賑わっていたとしても、ではしかし一体誰が酒を売っていたか。柳田國男はいう。
「酒を売る者は女であります。刀自の酒造りの早くから売るためであったことは、少しも疑いがなかった上に、古くは『日本霊異記』の中にも、すでに女が酒によって富を作った話が出ており、また和泉式部とよく似た諸国の遊行女婦の物語、たとえば加賀の菊酒の根原かと思う仏御前(ほとけごぜん)の後日譚、それから前に半分だけ申した白山(はくさん)の融(とおる)の尼などが、登山を企てて神に許されなかったという話にも、酒を造って往来の人に売ろうとしたことを伝えております」(柳田國男「女性と民間伝承・酒の話」『柳田國男全集10・P.586~587』ちくま文庫)
まず第一に、酒造りは男性でなく女性が仕切っていたという点。柳田のいうように日本霊異記にこうある。
「紀伊国(きのくに)名草郡(なくさのこほり)三上(みかみ)の村の人、薬王寺の為に、知識を率引(そちいん)して、普(あまね)く薬分を息(いら)しき。薬王寺、今は勢多寺(せたでら)と謂(い)ふ。其(そ)の薬科の物を、岡田村主(をかだのすぐり)の姑女(をばめ)の家に寄せ、酒を作り利(うまはし)を息(いら)しき」(「日本霊異記・中・寺の息利(いらしもの)の酒を賖(おきの)り用ゐて、償(つくの)はずして死に、牛と作(な)して役(つか)はれ、債(もののかひ)を償(つくの)ひし縁 第三十二・P.226」講談社学術文庫)
タイトルに「息利(いらしもの)」とある。利息付きで貸す物のこと。古代から中世にかけて、寺院が稲を農民に貸し出し、その米で酒を造らせ、造らせた酒を今度は寺院が農民に売って利潤を上げていた。というのは、当時の税金の多くは稲で納められたから。そして米からできる酒の貸し借りは通例だったからである。ここで酒造りを主導しているのは岡田村主(をかだのすぐり)ではなくその姑(しゅうとめ)である。また、有名どころでは「田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)」がいる。
「田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)は、讃岐国(さぬきのくに)美貴郡(みきのこほり)の大領(だいりやう)、外(げ)従六位上小屋県主宮手(をやのあがたぬしみやて)が妻なりき。八(やたり)の子を産み生(な)し、富貴にして宝多し。馬牛・(ぬひ)・稲銭・田畠(たはた)等有り。天年(うまれながら)に道心無く、慳貪(けんどん)にして給与すること無し。酒に水を加へて多くし、沽(う)りて多きなる直(あたひ)を取る」(「日本霊異記・下・非理を強(し)ひて以て債(もののかひ)を徴(はた)り、多(あまた)の倍(まし)を取りて、現に悪死の報(むくい)を得し縁 第二十六・P.182」講談社学術文庫)
ただの水を酒に混入させ、文字通り「水増し」の量を計算しながら利殖に励んでいる。利殖の是非はともかく、今でいう男性の「杜氏」(とじ)はもともと女性の「刀自」(とじ)から来た言葉。神の酒を造るのに奉仕した「巫女」(みこ)がその発祥である。さらに「刀自」にはもっと様々な意味と職業内容とがあった。網野善彦はいう。
「女性と家との深い関係について、保立道久は中世の家屋のなかでの塗籠(ぬりごめ)、納戸(なんど)の重要な位置づけに注目し、そこが夫婦の閨房であるとともに、財物の収納室であり、いわば『聖なる場』であったこと、女性はまさしくその管理者として『家女』『家刀自(いえとじ)』といわれたことを明らかにしている。このように、いわば家の『聖地性』の中核ともいうべき場を女性が管理していたことと、南北朝ごろまで借上(かしあげ)・土倉(どそう)といわれた金融業者に女性が多く現われることとは、間違いなく関連している。鎌倉末・南北朝初期の若狭国太良荘にも、近隣の津、小浜に本拠を持ち、『浜女房』とよばれた借上が、子息石見房覚秀とともに姿を現わし、荘内の名主や本所の東寺に『熊野御初尾物』『熊野上分物』を融通している。覚秀は熊野の山伏だったのであるが、徳治三(一三〇八)年、『日吉上分(ひえじようぶん)用途』六十貫文を融通し、山城国上桂荘の相伝手継文書を質物としてとった平氏女も借上で、この女性は延暦寺(えんりゃくじ)-山門と関わりがあったのであろう。『病草紙(やまいのぞうし)』は、『七条わたりにすむ、いえとみ食ゆたかなる』女性の借上を、太りすぎて歩くのも困難な姿に描いているが、まさしくこれは、女性の金融業者の姿を象徴的に示しており、これらの女性たちは、熊野や日吉の神々の、『聖なる神物』である『初穂(はつほ)』『上分(じようぶん)』の名目で米・銭を管理し、それを金融の資本としていたのである。そうした米銭や質物を収納した場が『土倉』であるが、鎌倉末期、尼妙円の遺領である京都の綾小路(あやのこうじ)高倉の屋地・土倉をめぐって相論したのはやはり勝智、加古女という女性であり、『祗園執行日記(ぎおんしぎようにつき)』にも康永二(一三四三)年、四条坊門富小路(とみのこうじ)の土倉『妙阿弥アネ女』の名前を見出しうる。このように『聖なる』倉庫としての土倉を管理した人々のなかにも、また女性が多かったので、保立が『中世の女性はしばしば重要な文書や資産を預けられた』事実に注目しているのは、それ自身、聖なるものに結びつく特質を、その『性』自体のなかに持っていたといえる」(「網野善彦「中世のと遊女・第2部・第一章・納戸(なんど)・土倉(どそう)の管理者としての女性・P.202~203」講談社学術文庫)
宿場町であり川の合流地点でもあることから、紀伊国穴伏の「市」もまた賑わっていたことは間違いない。そしてそこで酒を売ったのは女性であり、造るのもまた女性だった。
「酒の生産はもと女性の専業でありました。ーーー醸(かも)すという語の早い形はカムであって、大昔は我々もポリネシア人がカヴを作るように、また沖縄諸島の人が神酒(みき)を製するごとく、清き少女をして噛(か)ませ吐き出さしめたものを、酒として用いていたのであります。酵母が別の方法で得られるようになってからも、女でなくては酒を作ることができなかったのは、何か有形無形の宗教的秘密があったからであります。ーーートジは単にマダムということであって、要するに婦人が造っていた名残であります。宮廷の造酒司(みきのつかさ)などでは神の名も刀自(とじ)、酒をしこんだ大酒甕(さけがめ)の名も刀自で、大昔以来刀自がこれに参与したことを示しています」(柳田國男「女性と民間伝承・刀自の職業」『柳田國男全集10・P.584~586』ちくま文庫)
女性の聖性が保証されていた時代の「宗教的秘密」というのは、要するに「刀自」は神に支える神聖な女性でなくてはならないという意味だろう。ところで「市」自体については「日本書紀」編纂の時期すでに記録がある。
「天皇、歯田根命(はたねのみこと)をして、資財(たからもの)を露(あらは)に餌香市辺(ゑかのいちべ)の橘(たちばな)の本(もと)の土(ところ)に置(お)かしむ」(「日本書紀3・巻第十四・雄略天皇十三年三月~九月・P.70」岩波文庫)
ここで「餌香市辺(ゑかのいちべ)」とあるのは、河内国志紀郡道明寺村国府の辺りの市、という意味。大和川と石川との合流点に近い。また、「市」といっても古代の「市」は天井があるわけはなく、露店だった。定期的に開かれる大型で公認の「市」にはあらかじめ街路樹が植えられていた。万葉集に次の歌が見える。
「東(ひむがし)の市(いち)の植木(うゑき)の木垂(こだ)るまで逢(あ)はず久しみうべ恋ひにけり」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三一〇・門部王(かどべのおほきみ)・P.223」小学館)
だから「市」は人々の往来が盛んであり色々な出会いの場でもあった。さて柳田は、女性の聖性に関連して特定の名に或る意味を見出している。
「霊山の御頂上を極めんとして、許されなかったという女性の名を、加賀の白山においては融(とおる)の尼といい、越中の立山にあっては若狭国の登宇呂(とうろ)の姥といって、いずれも御山の中腹から上に、その故跡と称する巌石や樹木がありました。大和吉野の金峯山においても、やはり一人の仙女が登って行こうとして、風雨に妨げられて大いに怒り、術をもって大蛇に乗って去ったなどという話が、古い昔からありまして、その仙女の名をまた都藍尼(とらんに)伝えています。つまり今日では意味が不明にはなりましたが、この三つの山に共通した物語、ことによく似た女性の名には、何か曰くがあったようです」(柳田國男「女性と民間伝承・山に登らんとする式部」『柳田國男全集10・P.447』ちくま文庫)
交通するということ。「とおる」という言葉。第二に重要なのは、上代から中世半ばに至るまで、女性は容易に「旅する女性」になることが可能だった点。同時に職業に携わることが許されていた点。
「中世においては、その目的はさまざまであるが、『旅する女性』はわれわれが『常識的』に想像するよりもはるかに多かったものと思われる。そしてそうした旅は、鎌倉・南北朝期までは、神仏などの『聖なるもの』とのつながりによって支えられており、遍歴する職能民にせよ、一般の女性にせよ、旅姿の女性にたやすく手をかけることをはばからせるものがあったのである。また、道路、橋、津泊、市、さらには宿、寺社など、旅する人々の通る道そのものも、世俗の縁の及ばぬ、やはり『聖なる世界』とつながりを持つ場として、そこで起こったことは、その場でのみ処理し、俗界には及ぼさないとする、きわめて根深い慣習のあったことも、女性の旅を容易にしていたに相違ない」(「網野善彦「中世のと遊女・第2部・第一章・旅する女性たち・P.206」講談社学術文庫)
それら「旅する女性」らの中には網野のいう「遍歴する職能民」が大勢いたに違いない。柳田はこう述べている。
「昔の人たちの心持では、熊野比丘尼のごとき境遇にある婦人は、特に堕落するまでもなくこれを遊女と名づけてすこしも差支えがなかったのであります。遊女という語には本来は売春という意味はありませんでした。『万葉集』の頃にはこれを遊行女婦(うかれめ)と名づけていまして、九州から瀬戸内海の処々の船着き、それから北は越前の国府あたりにも、この者が来ていて歌を詠んだ話が残っています。その名称の基くところは、例の藤沢寺の遊行上人などの遊行も同じで、いわゆる一所不住で、次から次へ旅をしている女というに過ぎませぬ。日本の語に直してうかれ女と申したのも、今日の俗語の浮かれるというのとは違い、単に漂泊して定まった住所のないことです。後にこれを『あそび』といったのは、言わば一種のしゃれのごときもので、遊という漢字が一方にはまた音楽の演奏をも意味し、遊女が通例その『あそび』に長じていたために、わざと本(もと)の意を離れてこうも呼んだものかと考えます」(柳田國男「女性と民間伝承・遊行女婦」『柳田國男全集10・P.469~470』ちくま文庫)
どのような舞を舞い、どのような歌を歌ったのだろう。「市」の立つ日は祝祭の日でもある。
「ちはやぶる賀茂の社(やしろ)の姫小松(ひめこまつ)万代(よろづよ)までに色は変らじ」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・五〇一・P.202」新潮社)
というふうに、祝歌だった。
熊野に戻ってみよう。夫婦別姓について述べている箇所がある。熊野の歴史的固有性を垣間見ることができるかもしれない。
「他県は知らず、当県の古き記録を見るに、婚姻した後も、南方熊楠、南方松枝と書かずに南方熊楠、田村松枝でおし通せし例多し。これらみな、古え母系統を主として重んぜし遺風と見ゆ」(南方熊楠「ルーラル・エコノミーについて、柳田批判、その他」『南方民俗学・P.540』河出文庫)
BGM1
BGM2
BGM3
「家累と老齢衰弱のため、精査を遂ぐるに由なく、久しく打ちやり置きたるもの多し。その内に必然、無類の新属と思う Phalloideae の一品あり。記憶のままに申し上ぐると、上図のごときものなり。生きた時は牛蒡の臭気あり、全体紫褐色、陰茎の前皮がむけたる形そっくりなり。インドより輸入して久しく庫中に貯えられたる綿花(わた)の塊に生えたる也」(南方熊楠「ハドリアヌスタケ」『森の思想・P.238』河出文庫)
その傾向について中沢新一はこう述べている。
「大事なのは、文章に猥談を突入させることによって、彼の文章にはつねに、なまなましい生命が侵入しているような印象があたえられる、という点だろうと思う。バフチンならば、これを熊楠の文体のもつカーニバル性と言うだろう。言葉の秩序の中に、いきなり生命の唯物論的な基底が、突入してくるのだ、このおかげで、熊楠の文章は、全体としてヘテロジニアスな構造をもつことになる。なめらかに連続する言葉の表面に、随所にちりばめられた猥談によって、たくさんの黒い穴がうがたれるようになり、その黒い穴からは、なまの生命が顔を出す」(中沢新一「動と不動のコスモロジー」『動と不動のコスモロジー・P.60』河出文庫)
もっともだと思われる。ところでハドリアヌスタケについて述べた文章の後半で、保存のためにアルコール漬けにしているとあるのだが、語注を見ると、この「酒精」に関して注釈が付されている。
「貴下は拙方に御滞在中に、この菌(〔酒精に蔵しあり、故に変色はせるものの〕全体の写生と記載は〔外部に関する限り〕十分に致して今ももちおれり)を小生立合いの上、解剖鏡検して大抵要点を控え去り、御帰礼の上、精査して命名発表下さらずや」(南方熊楠「ハドリアヌスタケ」『森の思想・P.238』河出文庫)
熊楠の実家は南方酒造という酒造会社だった。もちろん紀伊国の酒造会社は南方酒造だけではない。ほかにもある。「穴伏村」でも酒造業が営まれていた。「穴虫」(あなむし)ともいう。紀ノ川と四十八瀬川(現・穴伏川)との合流地点。今の和歌山県紀の川市穴伏。高野山への参詣者らが集まる宿場町として栄え、また紀ノ川を行き来する筏師らの宿泊施設もあった。その様相を見ると「市」の立つ場だったように思われる。宿場でもあり他の芸能民らも多く集まったようだ。川と川との合流地点というところがポイント。
「注目すべきは、寺社の門前に市が開かれた事実である。若狭の遠敷市は、国衙の市の機能も持っていたと思われるが、なにより若狭一・二宮-彦・姫神社の門前に立つ市と理解すべきであろう。また、備前国西大寺の門前には、元享二年(一三二二)、酒屋・魚商人・餅屋・莚作手・鋳物師などが、家・屋・座をもち、国衙方・地頭方双方の支配下におかれた市が立っている。この場合、家・屋を持つ酒屋・餅屋は、すでにある程度、この市に定住しているとみてよいが、莚作手・鋳物師・魚商人などは、市日に巡回してきたものと見るべきであろう。市日には、このような遍歴の商工民、さらには『芸能』民が集り、著しいにぎわいをみせたのである。南北朝末から室町初期の成立といわれている『庭訓往来』の四月の書状が、『市町興行』のさいに招きすえるべき輩として、鍛冶・番匠等々の商工民だけでなく、獅子舞・遊女・医師・陰陽師などの各種の『職人』をあげているのは、決して単なる『職人尽』ではなく、事実を反映しているうとみなくてはならない。実際、信濃の諏訪社の祭礼に、南北朝期、『道々の輩』をはじめ、『白拍子、御子、田楽、呪師、猿楽、乞食、、盲聾病痾の類ひ』が『稲麻竹葦』の如く集ったといわれ、鎌倉末期、播磨国蓑寺は、『九品念仏、管弦連歌、田楽、猿楽、呪師、クセ舞ヒ、乞食、』が近隣諸国から集り、たちまち大寺が建立された、と伝えられているのである。寺社の門前の特質は、このようなところに、鮮やかに現われている。それはやはり、戦国期のように、掟書によって明確にされているわけではないが、神仏の支配する『無主』の場であり、『無縁』の原理を潜在させた空間であった。それ故、ここには市が立ち、諸国を往反・遍歴する『無縁』の輩が集ったのである。市だけでなく、遍歴する『芸能』民は、その『芸能』を営む独自な場を持つこともあった。祗園社に属する獅子舞は、祗園社だけでなく、他の神社にも、その『芸能』を以て奉仕したとみられるが、近江をはじめ、各地に『舞場』を持っていたと思われる(『祗園執行日記』)。また『清目』を職掌とし、『乞食』をするも、和泉・伊賀をはじめ、諸国に公認された『乞庭』を保持していたのであるが、こうした『場』『庭』も、市と全く同じ特質を持っていたとみてよかろう。とすると、の『宿』、また宿場の『宿』も、また同じような場と考えて、まず間違いなかろう。この両者は、必ずしも同一視することはできないとはいえ、同じく『宿』として、きわめて類似していることは事実である」(網野善彦「<増補>無縁・苦界・楽・十三・市と宿・P.136~137」平凡社ライブラリー)
さて、なるほどそこは「市」の立つ宿場町としてたいそう賑わっていたとしても、ではしかし一体誰が酒を売っていたか。柳田國男はいう。
「酒を売る者は女であります。刀自の酒造りの早くから売るためであったことは、少しも疑いがなかった上に、古くは『日本霊異記』の中にも、すでに女が酒によって富を作った話が出ており、また和泉式部とよく似た諸国の遊行女婦の物語、たとえば加賀の菊酒の根原かと思う仏御前(ほとけごぜん)の後日譚、それから前に半分だけ申した白山(はくさん)の融(とおる)の尼などが、登山を企てて神に許されなかったという話にも、酒を造って往来の人に売ろうとしたことを伝えております」(柳田國男「女性と民間伝承・酒の話」『柳田國男全集10・P.586~587』ちくま文庫)
まず第一に、酒造りは男性でなく女性が仕切っていたという点。柳田のいうように日本霊異記にこうある。
「紀伊国(きのくに)名草郡(なくさのこほり)三上(みかみ)の村の人、薬王寺の為に、知識を率引(そちいん)して、普(あまね)く薬分を息(いら)しき。薬王寺、今は勢多寺(せたでら)と謂(い)ふ。其(そ)の薬科の物を、岡田村主(をかだのすぐり)の姑女(をばめ)の家に寄せ、酒を作り利(うまはし)を息(いら)しき」(「日本霊異記・中・寺の息利(いらしもの)の酒を賖(おきの)り用ゐて、償(つくの)はずして死に、牛と作(な)して役(つか)はれ、債(もののかひ)を償(つくの)ひし縁 第三十二・P.226」講談社学術文庫)
タイトルに「息利(いらしもの)」とある。利息付きで貸す物のこと。古代から中世にかけて、寺院が稲を農民に貸し出し、その米で酒を造らせ、造らせた酒を今度は寺院が農民に売って利潤を上げていた。というのは、当時の税金の多くは稲で納められたから。そして米からできる酒の貸し借りは通例だったからである。ここで酒造りを主導しているのは岡田村主(をかだのすぐり)ではなくその姑(しゅうとめ)である。また、有名どころでは「田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)」がいる。
「田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)は、讃岐国(さぬきのくに)美貴郡(みきのこほり)の大領(だいりやう)、外(げ)従六位上小屋県主宮手(をやのあがたぬしみやて)が妻なりき。八(やたり)の子を産み生(な)し、富貴にして宝多し。馬牛・(ぬひ)・稲銭・田畠(たはた)等有り。天年(うまれながら)に道心無く、慳貪(けんどん)にして給与すること無し。酒に水を加へて多くし、沽(う)りて多きなる直(あたひ)を取る」(「日本霊異記・下・非理を強(し)ひて以て債(もののかひ)を徴(はた)り、多(あまた)の倍(まし)を取りて、現に悪死の報(むくい)を得し縁 第二十六・P.182」講談社学術文庫)
ただの水を酒に混入させ、文字通り「水増し」の量を計算しながら利殖に励んでいる。利殖の是非はともかく、今でいう男性の「杜氏」(とじ)はもともと女性の「刀自」(とじ)から来た言葉。神の酒を造るのに奉仕した「巫女」(みこ)がその発祥である。さらに「刀自」にはもっと様々な意味と職業内容とがあった。網野善彦はいう。
「女性と家との深い関係について、保立道久は中世の家屋のなかでの塗籠(ぬりごめ)、納戸(なんど)の重要な位置づけに注目し、そこが夫婦の閨房であるとともに、財物の収納室であり、いわば『聖なる場』であったこと、女性はまさしくその管理者として『家女』『家刀自(いえとじ)』といわれたことを明らかにしている。このように、いわば家の『聖地性』の中核ともいうべき場を女性が管理していたことと、南北朝ごろまで借上(かしあげ)・土倉(どそう)といわれた金融業者に女性が多く現われることとは、間違いなく関連している。鎌倉末・南北朝初期の若狭国太良荘にも、近隣の津、小浜に本拠を持ち、『浜女房』とよばれた借上が、子息石見房覚秀とともに姿を現わし、荘内の名主や本所の東寺に『熊野御初尾物』『熊野上分物』を融通している。覚秀は熊野の山伏だったのであるが、徳治三(一三〇八)年、『日吉上分(ひえじようぶん)用途』六十貫文を融通し、山城国上桂荘の相伝手継文書を質物としてとった平氏女も借上で、この女性は延暦寺(えんりゃくじ)-山門と関わりがあったのであろう。『病草紙(やまいのぞうし)』は、『七条わたりにすむ、いえとみ食ゆたかなる』女性の借上を、太りすぎて歩くのも困難な姿に描いているが、まさしくこれは、女性の金融業者の姿を象徴的に示しており、これらの女性たちは、熊野や日吉の神々の、『聖なる神物』である『初穂(はつほ)』『上分(じようぶん)』の名目で米・銭を管理し、それを金融の資本としていたのである。そうした米銭や質物を収納した場が『土倉』であるが、鎌倉末期、尼妙円の遺領である京都の綾小路(あやのこうじ)高倉の屋地・土倉をめぐって相論したのはやはり勝智、加古女という女性であり、『祗園執行日記(ぎおんしぎようにつき)』にも康永二(一三四三)年、四条坊門富小路(とみのこうじ)の土倉『妙阿弥アネ女』の名前を見出しうる。このように『聖なる』倉庫としての土倉を管理した人々のなかにも、また女性が多かったので、保立が『中世の女性はしばしば重要な文書や資産を預けられた』事実に注目しているのは、それ自身、聖なるものに結びつく特質を、その『性』自体のなかに持っていたといえる」(「網野善彦「中世のと遊女・第2部・第一章・納戸(なんど)・土倉(どそう)の管理者としての女性・P.202~203」講談社学術文庫)
宿場町であり川の合流地点でもあることから、紀伊国穴伏の「市」もまた賑わっていたことは間違いない。そしてそこで酒を売ったのは女性であり、造るのもまた女性だった。
「酒の生産はもと女性の専業でありました。ーーー醸(かも)すという語の早い形はカムであって、大昔は我々もポリネシア人がカヴを作るように、また沖縄諸島の人が神酒(みき)を製するごとく、清き少女をして噛(か)ませ吐き出さしめたものを、酒として用いていたのであります。酵母が別の方法で得られるようになってからも、女でなくては酒を作ることができなかったのは、何か有形無形の宗教的秘密があったからであります。ーーートジは単にマダムということであって、要するに婦人が造っていた名残であります。宮廷の造酒司(みきのつかさ)などでは神の名も刀自(とじ)、酒をしこんだ大酒甕(さけがめ)の名も刀自で、大昔以来刀自がこれに参与したことを示しています」(柳田國男「女性と民間伝承・刀自の職業」『柳田國男全集10・P.584~586』ちくま文庫)
女性の聖性が保証されていた時代の「宗教的秘密」というのは、要するに「刀自」は神に支える神聖な女性でなくてはならないという意味だろう。ところで「市」自体については「日本書紀」編纂の時期すでに記録がある。
「天皇、歯田根命(はたねのみこと)をして、資財(たからもの)を露(あらは)に餌香市辺(ゑかのいちべ)の橘(たちばな)の本(もと)の土(ところ)に置(お)かしむ」(「日本書紀3・巻第十四・雄略天皇十三年三月~九月・P.70」岩波文庫)
ここで「餌香市辺(ゑかのいちべ)」とあるのは、河内国志紀郡道明寺村国府の辺りの市、という意味。大和川と石川との合流点に近い。また、「市」といっても古代の「市」は天井があるわけはなく、露店だった。定期的に開かれる大型で公認の「市」にはあらかじめ街路樹が植えられていた。万葉集に次の歌が見える。
「東(ひむがし)の市(いち)の植木(うゑき)の木垂(こだ)るまで逢(あ)はず久しみうべ恋ひにけり」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三一〇・門部王(かどべのおほきみ)・P.223」小学館)
だから「市」は人々の往来が盛んであり色々な出会いの場でもあった。さて柳田は、女性の聖性に関連して特定の名に或る意味を見出している。
「霊山の御頂上を極めんとして、許されなかったという女性の名を、加賀の白山においては融(とおる)の尼といい、越中の立山にあっては若狭国の登宇呂(とうろ)の姥といって、いずれも御山の中腹から上に、その故跡と称する巌石や樹木がありました。大和吉野の金峯山においても、やはり一人の仙女が登って行こうとして、風雨に妨げられて大いに怒り、術をもって大蛇に乗って去ったなどという話が、古い昔からありまして、その仙女の名をまた都藍尼(とらんに)伝えています。つまり今日では意味が不明にはなりましたが、この三つの山に共通した物語、ことによく似た女性の名には、何か曰くがあったようです」(柳田國男「女性と民間伝承・山に登らんとする式部」『柳田國男全集10・P.447』ちくま文庫)
交通するということ。「とおる」という言葉。第二に重要なのは、上代から中世半ばに至るまで、女性は容易に「旅する女性」になることが可能だった点。同時に職業に携わることが許されていた点。
「中世においては、その目的はさまざまであるが、『旅する女性』はわれわれが『常識的』に想像するよりもはるかに多かったものと思われる。そしてそうした旅は、鎌倉・南北朝期までは、神仏などの『聖なるもの』とのつながりによって支えられており、遍歴する職能民にせよ、一般の女性にせよ、旅姿の女性にたやすく手をかけることをはばからせるものがあったのである。また、道路、橋、津泊、市、さらには宿、寺社など、旅する人々の通る道そのものも、世俗の縁の及ばぬ、やはり『聖なる世界』とつながりを持つ場として、そこで起こったことは、その場でのみ処理し、俗界には及ぼさないとする、きわめて根深い慣習のあったことも、女性の旅を容易にしていたに相違ない」(「網野善彦「中世のと遊女・第2部・第一章・旅する女性たち・P.206」講談社学術文庫)
それら「旅する女性」らの中には網野のいう「遍歴する職能民」が大勢いたに違いない。柳田はこう述べている。
「昔の人たちの心持では、熊野比丘尼のごとき境遇にある婦人は、特に堕落するまでもなくこれを遊女と名づけてすこしも差支えがなかったのであります。遊女という語には本来は売春という意味はありませんでした。『万葉集』の頃にはこれを遊行女婦(うかれめ)と名づけていまして、九州から瀬戸内海の処々の船着き、それから北は越前の国府あたりにも、この者が来ていて歌を詠んだ話が残っています。その名称の基くところは、例の藤沢寺の遊行上人などの遊行も同じで、いわゆる一所不住で、次から次へ旅をしている女というに過ぎませぬ。日本の語に直してうかれ女と申したのも、今日の俗語の浮かれるというのとは違い、単に漂泊して定まった住所のないことです。後にこれを『あそび』といったのは、言わば一種のしゃれのごときもので、遊という漢字が一方にはまた音楽の演奏をも意味し、遊女が通例その『あそび』に長じていたために、わざと本(もと)の意を離れてこうも呼んだものかと考えます」(柳田國男「女性と民間伝承・遊行女婦」『柳田國男全集10・P.469~470』ちくま文庫)
どのような舞を舞い、どのような歌を歌ったのだろう。「市」の立つ日は祝祭の日でもある。
「ちはやぶる賀茂の社(やしろ)の姫小松(ひめこまつ)万代(よろづよ)までに色は変らじ」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・五〇一・P.202」新潮社)
というふうに、祝歌だった。
熊野に戻ってみよう。夫婦別姓について述べている箇所がある。熊野の歴史的固有性を垣間見ることができるかもしれない。
「他県は知らず、当県の古き記録を見るに、婚姻した後も、南方熊楠、南方松枝と書かずに南方熊楠、田村松枝でおし通せし例多し。これらみな、古え母系統を主として重んぜし遺風と見ゆ」(南方熊楠「ルーラル・エコノミーについて、柳田批判、その他」『南方民俗学・P.540』河出文庫)
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