靖国神社外苑の「常陸丸殉難記念碑」と「田中支隊忠魂碑」を撮影してきました
撮影した靖国神社の社頭点描
清国(中国)から鹵獲した狛犬(雄獅子)。「中国文化財返還運動の会」は、中国大連市海城(ハイチョン)の三覚寺へ返還するよう靖国神社に対して申し入れています。
雌獅子
第一鳥居奉献者名簿が掲載された鉄筒(第一鳥居と同じ太さ。)
明治11年に華族が献納した左右62基の灯籠の中で、一番目の灯籠。(最後の灯籠は、拝殿脇にあります。)
西南戦争の別動第二旅団より奉納された石灯籠
丁度、撮影している時間が白百合学園小学校の下校時間でした。
論考「生の靖国問題」から一部を掲載します。
10年前に管理人が寄稿した論考「生の靖国問題」
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普段の靖国神社は「カトリック系のお嬢様学校」といわれている白百合学園の小学生が通学のために参道を行き交い、まるで境内一面に黄色い花が咲いたように黄色いランドセルと大村益次郎の銅像、そして大鳥居がミスマッチをしている静かな境内の貯まいです。 ところが春秋の例大祭や建国記念の日などには駐車場に入れきれない真っ黒な右翼政治団体の街宣車が参道一杯に駐車し、小銃を捧げた軍服姿の男たちが軍旗、海軍旗を先頭に軍隊ラッパを吹き鳴らす行進姿は一挙に62年前に戻ったような異常空間となるのです。 昨年の8月15日午前7時41分、空には取材のヘリコプターが飛び交い騒然とした中を小泉首相は5回目の参拝をしました。リベラルな人達が忌み嫌う場所として立ち寄らないのは当然であり、私もその一人でした。靖国神社のオフィシャルガイドブックに「歌い継がれる靖国神社」があり、そこに「九段の母」の歌詞が載っています。「世は歌に連れ」と言われますがこの歌謡曲はテイチクレコードから発売され昭和14年に大ヒットしたと言われています。
1 上野駅から 九段まで
かつてしらない じれったさ
杖をたよりに 一日がかり
せがれきたぞや 会いにきた
2 空をつくよな大鳥居
こんな立派なお社に
神とまつられ もったいなさよ
母は泣けます うれしさに
3・4 (略)
東北地方から列車で上野駅に着いた母親が九段坂を登り、英霊と祀られている息子に会いに来た情景です。2番の歌詞には見事に靖国神社の歴史と役割が述べられています。
『空をつくよな大鳥居』。創建50周年記念に建立された高さ21㍍、当時は鉄板を丸め円筒にする技術が無かつたために青銅板を丸くして鋲で鉄骨に留めて建設した日本一の大鳥居です。1943(昭和18)年に老朽化のため解体され仮の鳥居となり、現在の大鳥居は戦後再建された高さ25㍍となつた三代目です。
『こんな立派なお社に』。1869(明治2)年、時の軍務官判事大村益次郎が明治政府の命により東京招魂社の敷地として選定した約2万8千坪(94.738㎡)東京ドーム二倍のひろーい、ひろーい、見渡す限りの広さがある境内です。
『神とまつられ もつたいなさよ』。天皇の赤子として差し上げた息子の命であるのに英霊として祀られ畏れ多いことでご座いまするとひれ伏すのです。
『母は泣けます うれしさに』。本来、愛する息子の戦死は母親にとつては深い悲しみであるのに光栄なこと、郷里の誇りとして半ば強制的に喜びに変換させられる情念の歌詞です。夫が戦死をした妻も同じように「帝国軍人の妻」として悲しむことを国家は許さなかったのです。私が生まれ、父が中国上海戦線に出征した年、1937(昭和12)年に、古賀政男が作曲、美ち奴が唄った歌謡曲「軍国の母」もご紹介しましょう。
1 こころ置きなく 祖国のため
名誉の戦死 頼むぞと
泪も見せず 励まして
我が子を送る 朝の駅
2 (略)
3 生きて還ると 思うなよ
白木の枢が 届いたら
出かした我が子 あつぱれと
お前を母は 褒めてやる
一方、軍隊生活に耐えられずに自殺した兵士の遺骨は、荒縄でくくられた白木の柩で遺族に渡され、又、脱走した兵士の家族は国賊、非国民として「村八分」にされ、「不忠ノ子ヲ育テマシタ罪一家一族ノ死ヲ以ッテ天皇陛下ニオ詫ビ申シ上ゲマス」と遺書を残し一家心中に追い込まれた家族もあつたと言われています。
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(了)