葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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6月5日の朝日新聞で紹介されたゲーリー・バース氏の書籍に対する戸谷由麻さんの書評

2024年07月25日 | 歴史探訪<市ヶ谷台・防衛省・東京裁判>

防衛省市ヶ谷記念館を考える会」春日恒男共同代表から、メールを受診しましたので転載します。

防衛省市ヶ谷記念館

防衛省敷地図(管理人が加筆)

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皆さん
6月5日の朝日新聞で紹介されたゲーリー・バース氏の本に対する戸谷さんの書評です。
戸谷さんは学術ネットに英文で発表しましたが、本会サイトのために和訳をお願いしたところ快諾していただき、先日、添付の原稿を頂戴しました。
さっそく本会サイトに掲載しましたので、ご確認ください。

https://ichigayamemorial.jimdofree.com/
春日 恒男

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PDFから文字起こしをしましたが、正確な下記のPDFでお読み下さい。

新着情報 - 防衛省「市ケ谷記念館」を考える会

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この書評は、2024年7⽉3⽇H-Diplo (H-Net network on Diplomatic History and International Affairs)に英⽂で掲載されたものに、若⼲の調整と再構成を加えた和訳です。原⽂のリンクは 
https://networks.h-net.org/group/discussions/20037116/h-diplo-review-essay-574-totani-bass-judgement-tokyo、
PDF 版はこちらhttps://issforum.org/essays/PDF/E574.pdfです。 
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Gary J. Bass. Judgment at Tokyo: World War II on Trial and the Making of Modern Asia. New York: Alfred A. 
Knopf, 2023. ISBN 9781101947104 (hardcover, $46.00); ISBN 9781101947111 (ebook). 
                 書評 


                ハワイ⼤学歴史学部 ⼾⾕由⿇ 


 極東国際軍事裁判所で実施された対⽇戦争犯罪裁判(1946−1948年)は、⽇本では「東京裁判」の名で知られる。この裁判は、⽇本現代史の重要な分岐点であり、また国際法の分野でもひとつの道標をなす。東京裁判に先⾏して、連合当局はドイツのニュルンベルク市に国際軍事裁判所を設⽴し、対独主要戦犯裁判を実施したが(1945−1946年)、連合当局はこれをモデルとし、⽇本がアジア太平洋地域において遂⾏した侵略戦争と残虐⾏為についても、極東に新たな法廷を設⽴して責任追及を試みたのである(1931年勃発の満州事変を含む)。 
 ニュルンベルク法廷と同じように東京法廷では、主に戦時下⽇本の国家指導者からなる28名が、「平和に対する犯罪」(現在ハーグに常設されている国際刑事裁判所では「侵略の犯罪」で知られる)、「戦争犯罪」、「⼈道に対する犯罪」の三種の国際犯罪について責任を問われた。被告⼈2名は開廷後まもなく病死し、1名は精神鑑定の結果裁判に不適と判断されたため、実際に裁かれたのは25名だった。東京裁判での起訴状には、ニュルンベルク法廷で適⽤された三種の国際犯罪のほかに「殺⼈罪」も含まれたが、それは東京裁判所が却下したので審査の対象にならなかった。最終的は、被告⼈1名を除く全員が、平和に対する犯罪で有罪宣告を受け、被告⼈のうち10名は戦争犯罪でも有罪と判断された。そのうち7名が絞⾸刑に処された。他の被告⼈は、有期刑ないし終⾝刑だった。【1】弁護⼈は結審後、⽶国司法が東京法廷に対して管轄権を有するとの⾒解から、数名の被告⼈を代表して⼈⾝保護令状の発給を求める嘆願書を提出したい旨を、⽶国連邦最⾼裁判所に対して訴願した。しかしそれは棄却され、まもなく7名の絞⾸刑は実施された(1948年12⽉23⽇未明)。終⾝ないし有期刑を受けた被告⼈のうち5名はスガモ刑務所で病死し、残りの受刑者は1950年代に皆釈放された。そのなかには、政界に復帰した者が若⼲あり、外務⼤⾂に再就任した重光葵(1954−1956年)はそのひとりだった。 

 対独・対⽇国際軍事裁判のうちニュルンベルク裁判は、国際正義に貢献する歴史的な裁判と当初から評価された。ニュルンベルク継続裁判(1946−1949年)⾸席検察官テルフォード・テイラーも、ニュルンベルク裁判は「拘束性を有する国際司法の原則のひとつ」と戦後⻑く認識されてきたことを、1992年刊の回想録に指摘している。【2】 それに対して東京裁判は、歴史的先例のニュルンベルク裁判の存在のため影が薄れ、国際社会では早くから忘れられてしまった。ただし、⽇本の国内政治や東アジアの国際関係の場では、東京裁判の正当性をめぐる論争が戦後から今⽇に⾄るまで展開されている。冷戦後の1990年代に⼊ると、国連決議によって新たな国際刑事裁判が進められ、新しい世代の国際判事や法学者あるいは歴史家のあいだで、第⼆次世界⼤戦後に実施された戦犯裁判を研究する動きが⾼まった。その結果、国際法史のなかで東京裁判がどう位置づけられるか、その功績と歴史的教訓が新たに論じられるようになった。 
 こうした戦後史の流れのなかで、東京裁判をあつかった次のような書物が英語圏に出現し、ニュルンベルクほどの知名度を獲得することはなくても、東京裁判に関する⼀定の知識は、⻄欧社会の読者層のあいだで⽣きつづけた。1971年刊Richard H. Minear, Victor’s Justice: The Tokyo War Crimes Trialは、東京裁判の正当性をめぐる論を⼀冊の本にとりあつかった初めての英⽂学術書である(邦訳『勝者の裁き』は1985年刊)。1988年刊Arnold C. Brackman, The Other Nuremberg: The Untold Story of the Tokyo War
Crimes Trial は、法廷記者だった著者の視点から東京審理を⽣き⽣きと再現した(邦訳『東京裁判:もうひとつのニュルンベルク』は1991年刊)。1987年刊Meirion Harries and Susie Harries, Sheathing the Sword: The Demilitarization of Japan と、ピューリツァー賞を受賞した1999年刊John Dower, Embracing Defeat:Japan in the Wake of World War II は、⽇本軍事占領期(1945−1952年)の⺠主化と⾮軍事化との関係で、東京裁判の功罪を考察した(後者の邦訳『敗北を抱きしめて』は2004年刊)。そして、本書Gary Bass, Judgment at Tokyo: World War II on Trial and the Making of Modern Asia は、⼆⼀世紀の英語圏読者層に東京裁判という歴史事件を伝えつづけるのみならず、その「歴史語り」に新たな基準を提⽰するもので注⽬される。Judgment at Tokyoの語りの⼿法には、次の四つの特⾊が指摘される。 
 
 第⼀に、本書は、戦前・戦時中の植⺠地主義体制から、将来の定かでない戦後ナショナリズム闘争に移⾏しつつあるアジアという国際関係の⽂脈を、裁判再構築の枠組みとして適⽤している。筆者によると、「本書は、東京裁判の話を、壮⼤な法廷でのドラマだけでなく、広く戦後アジアにおけるその環境も、多⾯的に物語るよう努めるもの」であり、「連合国11カ国からの検察官と裁判官を備え・・・東京裁判は戦後アジアの包括的なパノラマ」と特徴づけられるという。【3】国際関係を裁判の視座とする⼿法はすでに先例がある。【4】しかし、アジア太平洋地域における旧体制から新体制への移⾏期を時空間的に広くとらえている点が本書の特⾊である。第⼆に、本書は、東京裁判に関する歴史家や法学者あるいは国際関係の専⾨家による研究成果を⼿引きとするだけではなく、世界各国から筆者⾃⾝が収集した多くの史料や聞き取り調査を使っているのが特徴である。【5】資料の収集先は、オーストラリア、中国、フランス、インド、⽇本、オランダ、韓国、イギリス、アメリカを網羅し、集めた資料は多様で幅広い。第三に、時空間的に広い枠組みを適⽤し多様な資料を使うことにより、東京裁判という「窓」からみた移⾏期にあるアジアの状況を、本書は叙事詩的に豊かに織り描きだした。とくに筆者は、中国、インド、フィリピンを代表する検察官や判事、そして裁判当事者の⽇本⼈被告⼈が、アジアの過去・現在・未来についてどのような競合するヴィジョンをもちつつ裁判に臨んだのか、また、そうした競合する⾒解が、戦争の記憶をめぐる政治的な⾔説に今⽇までどう影響を及ぼしているのか、光を当てている。第四に、筆者は⾃らの歴史語りの技術を駆使し、法廷やその裏のドラマを⽣き⽣きと描きだし、東京裁判を⾝近な歴史事件として読者に知ってもらえるよう⼯夫している。 
 他⽅、東京裁判を「国際関係の再編成の場」とする視座には、必然的な弱点があり、⼆点がとくに指摘される。第⼀に、東京裁判の主要参加者である検察官、弁護団、そして判事らは、ニュルンベルク裁判を歴史的先例とみなし、両裁判所の最終意⾒には、法理論の最重要事項について意⾒の⼀致があるのだが、Judgment at Tokyoでは国際政治史上の裁判の意義を強調する勢い、この事実が前⾯に出てこない。そのため読者は、法理論が薄弱であったという筆者の批判が東京判決にのみ向けられるべきなのか、それとも先例にあたるニュルンベルクにも等しく挙げられるべきなのか、その判断のための⼗分な視点や論を提供されずじまいとなっている。また筆者によると、被告グループから裕仁天皇が除外されたことは東京裁判の正当性を弱めたというが、では、被告グループから重⼤な戦犯容疑者である著名なドイツ⼈医師やロケット開発の科学者らを除外したニュルンベルク裁判にも、同様の批判が展開されるべきなのかどうか、⽐較検討が望まれるところであった。【6】なお、ニュルンベルク判決と東京判決の⼀致点は、以下四つにまとめられる。(1)侵略戦争は、1928年のパリ不戦条約に結晶した国際法のもと国際犯罪を構成した、(2)共同謀議論は、平和に対する犯罪の罪状については合法的に適⽤することができる、(3)平和に対する犯罪、戦争犯罪、⼈道に対する犯罪を遂⾏した者には、国際法のもと個⼈刑事責任の原則が適⽤される、(4)「主権の⾏為」や「上官命令」の論は、有効な弁明をなさないが、「上官命令」は、量刑を定めるときに考慮されうる。【7】 これらの合意点があったことは、Judgmentat Tokyo に明記されるべきだった。 
 第⼆に、ニュルンベルク法廷では判事らが統⼀意⾒を著したが、東京裁判所では多数意⾒、⼆つの個別賛意意⾒、三つの個別反対意⾒にわかれた。【8】その経緯ついて筆者は、裁判参加者のあいだに、法・政治・イデオロギー・倫理・道徳問題について競合する意⾒があった様⼦をたどりながら叙述している。このような歴史語りは、戦後アジアにおける国際政治の状況が、東京裁判にどう影響したのかを知らせるうえでは効果的である。しかし、多数意⾒や個別意⾒に⽰された法や事実認定が付随的なとりあつかいになりがちで、東京判決が責任問題をどう解決したかの話が抜け落ちている。では、司法事件としての東京判決には、実際どのような功績や問題点が存在するのだろうか。 
 功績としては、とくに⼆つ指摘される。ひとつは、東京法廷の多数派判事はニュルンベルク原則を再認識することにより、国際正義の強化に貢献した。もうひとつは、多数派判事はその意⾒で、軍司令官のみならず軍の指揮系統に属さぬ政府の構成員も、軍部隊の遂⾏した犯罪⾏為につき個⼈責任が問われるという原則を再確認し、さらに、政府構成員に適⽤されるべき責任の基準を展開した。これは、ニュルンベルク判決にはみられない画期的な内容である。今⽇の国際刑事裁判でも、軍⼈のみならず⽂官に適⽤されるべき責任論が重視されており、この点で東京判決は、今世紀の責任論に⼀⽯を投じる司法事件といえる。【9】

 多数意⾒の問題点はさまざまあるが、最も顕著な⽋陥は、どのような法と事実認定のもとに個々の被告⼈に対する有罪あるいは無罪の判決に⾄ったのか、道理を尽くした論がほとんどの場合に⽋如している点だ。概して多数派判事は、被告⼈ひとりひとりに対する訴因をくわしく検証することを怠り、判定の多くは、受理された証拠の分析が表⾯的だったり⽭盾があったり、責任の基準の適⽤も⼀貫しない。
個⼈に対する判定⾃体が極めて短いのも、多数意⾒の特徴である(英⽂の刊⾏資料で⼀⼈当たり平均1ページ強)。1946年5⽉から1948年4⽉の約⼆年にわたる法廷での審理では、各被告⼈に対する罪状について有罪の裏づけとなりうる証拠が、検察側のみならず弁護側からも提出されていた。それにもかかわらず多数意⾒では、被告⼈25名のうち半数以上が、戦争犯罪の訴因について不問あるいは無罪となっている。【10】

 このような問題点を抱える多数意⾒と好対照をなすのは、オーストラリア代表判事兼東京裁判所裁判⻑ウィリアム・F・ウェブ卿が著した、658ページからなる判決書草稿である。【11 】ウェブ判事は公判の最終⽇に、⾃らが著した個別判決が存在したことをあきらかにし、その経緯も簡潔に明⽰している。ウェブによると、「本官は、法と事実認定へのアプローチの仕⽅について裁判所の多数派と同意することができなかった」ため、個別判決を著すことに決め、そして、「各被告⼈については、本官は⾃分の判決の380ページ以上を個⼈のケースに費やし、起訴状をめぐるいくつかの予備的な考察、被告⼈に帰せられる認識、そして処罰に関する考慮もそこに含まれる」とのことだった(アンダーラインは加筆)。【12】ウェブ判決書草稿は実際、法解釈と責任論の適⽤に⼀貫性があり、個々の被告⼈に対する証拠もくわしく検証し、その内容は、多数意⾒やその他いずれの個別賛意・反対意⾒に⽐して、はるかに優れたものだった。おそらくウェブ⾃⾝は、そのことを⾃覚していただろう。しかし、最後には多数意⾒の⽀持に転じ、判決書草稿はごく⼀部を抜粋して「裁判⻑による個別意⾒」という短い⽂章にまとめ、それのみを公表するにとどめた。なぜこのような処置に決したのかについては、今後さらなる研究の望まれるところである。  
 Judgment at Tokyoでは、判事らのあいだで公判中さまざまな意⾒の対⽴があったことや、ウェブが判決書草稿を著しながら公表しなかった事実は記すが、ウェブ判決書草稿そのものに⽰された法や事実認定にページを割くことがなく、また、判決書草稿の歴史的意義もその叙述に含まない。13  658ページに及ぶウェブ判決書草稿は、もし本書が正⾯を切ってとりあげていたならば、東京裁判の功罪を⾒極めるうえで読者にとって有益となり得た。にもかかわらず、本書がこれを副次的なとりあつかいで終えたことは、ひとつの「失われた機会」といえよう。とはいえ、次世代の作者たちが東京裁判の歴史語りを⼿がけるときがまた訪れよう。そのとき、Judgment at Tokyoの功績たる戦後アジア政治のなかの東京裁判
という「横」の⽂脈を踏まえつつ、⼆〇世紀から⼆⼀世紀へとつづく国際刑事裁判発展史の「縦」の⽂脈を重点的にとりあつかい、東京裁判が国際正義の規範形成と実践にどう貢献し、あるいはどう失敗したのか、その歴史語りを新たに提供してくれるよう期待したい。

 
⼾⾕由⿇はハワイ⼤学歴史学部教授。同⼤学図書館のWar Crimes Documentation Initiative (WCDI)共同設⽴者。主要な著書は、The Tokyo War Crimes Trial: The Pursuit of Justice in the Wake of World War II (Harvard University Asia Center, 2008), Justice in Asia and the Pacific Region, 1945–1952: Allied War Crimes
Prosecutions (Cambridge University Press, 2015), and The Tokyo War Crimes Tribunal: Law, History, and Jurisprudence (Cambridge University Press, 2018, David Cohen との共著)。⽇本語では、『東京裁判:第⼆次⼤戦後の法と正義の追求』(みすず書房、2008年)、『不確かな正義:BC級戦犯裁判の軌跡』(岩波書店、2015年)、『東京裁判「神話」の解体:パル、レーリンク、ウェブ三判事の相克』(ちくま新書、2018年)、『実証研究 東京裁判:被告の責任はいかに問われたか』(筑摩書房、2023年)。 

【1】平和に対する犯罪で無罪だった唯⼀の被告⼈は松井⽯根⼤将だが、同被告⼈は、1937年12⽉の南京陥落以降に、中⽀那⽅⾯軍の部下将兵が数週間にわたって遂⾏した残虐⾏為につき、指揮官責任論のもと有罪と判断され、絞⾸刑に処された。 

【2】Telford Taylor, The Anatomy of the Nuremberg Trials: A Personal Memoir (New York: Alfred A. Knopf, 1992), 4. テイラーは、連合国による戦犯裁判の歴史的教訓に基づいて、侵略戦争や戦争犯罪の責任の所在についてベトナム戦争時代に発⾔し、⽶国社会で⼀⽬を置かれた⼈物である。Telford Taylor, Nuremberg and Vietnam: An American Tragedy (Chicago: Quadrangle, 1970) と、 “Taylor Says by Yamashita Ruling Westmoreland May Be Guilty,” The New York Times, January 9, 1971 参照。

【3】Bass, Judgment at Tokyo, 8. 


【4】国際関係を研究の視座とする先駆的な学術書は、⽇暮吉延『東京裁判の国際関係:国際政治における権⼒と規範』(⽊鐸社、2002年)。 


【5】Judgment at Tokyoの⼿引きとなった先⾏⽂献については、Bass, Judgment at Tokyoの “Notes” (695-8ページ)と“Introduction” 脚注26(699ページ)参照。なおJudgment at Tokyoには、Nariaki Nakazato, Neonationalist Mythology in Postwar Japan: Pal’s Dissenting Judgment at the Tokyo War Crimes Tribunal (Lanham, MD: Lexington Books, 2016) になんらの⾔及がないが、これは⼿違いによると察せられる。なぜなら、Neonationalist Mythology in Postwr Japan は、東京裁判所に参加したインド代表判事の⽣い⽴ちとキャリア及びその政治思想を、英国インド領時代の史料を実証的に分析して著されたもので、インド関係の東京裁判研究には⽋かせない書だからだ。この書の元となるものは、中⾥成章『パル判事:インド・ナショナリズムと東京裁判』(岩波新書、2011年)で、東京裁判研究とくにインド関係については必読の書である。 


【6】東京裁判の正当性に関するBassの⾒解は、Judgment at Tokyoの27-29ページにみられる。ドイツ⼈の医師や科学者が⽶国当局の取り計らいで、裁かれずに⽶国へ逃れた経緯については、Annie Jacobsen, Operation Paperclip: The SecretIntelligence Program That Brought Nazi Scientists to America (New York, Boston, and London: Back Bay Books, Little, Brown and Company, 2014) にくわしい。 


【7】ニュルンベルク裁判と東京裁判に適⽤された諸原則は、そののち国連の国際法委員会で定式化されhttps://legal.un.org/ilc/texts/instruments/english/draft_articles/7_1_1950.pdf)、現在では常設国際刑事裁判所に適⽤されるローマ規程に継承されている(https://www.icc-cpi.int/sites/default/files/RSEng.pdf)。2014年には、ドイツ連邦共和国、バイエルン州、ニュルンベルク市が共同し、「国際ニュルンベルク原則アカデミー」を設⽴し、以後ニュルンベルク原則を国際社会において強化するための活動をつづけているhttps://www.nurembergacademy.org/aboutus/history/)。 


【8】ニュルンベルク裁判では四カ国から判事が任命され(イギリス、アメリカ、フランス、ソ連)、四カ国代表全員による統⼀判決が著されたものの、そのうちソ連代表判事は個別意⾒も提出した。 

【9】ただし多数意⾒は、閣僚に対して集団責任論を責任の基準として打ち出しており、この基準が妥当なのかどうか議論の余地がある。くわしくは、⼾⾕、コーエン『実証研究 東京裁判』212-244ページ参照。

【10】 戦争犯罪で不問あるいは無罪だった被告⼈は、みな平和に対する犯罪につき有罪宣告を受けた。個⼈に対する判定の原⽂は、Neil Boister and Robert Cryer, eds., Documents on the Tokyo International Military Tribunal: Charter, Indictment and Judgments (Oxford, UK: Oxford University Press, 2008), 598-626ページ参照。個⼈に対する判定の分析については、⼾⾕、コーエン『実証研究 東京裁判』第五章参照。 

【11】 ウェブ判決書草稿の原⽂は、ハワイ⼤学図書館War Crimes Documentation Initiative (WCDI) にてオンラインで読むことができる。https://manoa.hawaii.edu/wcdi/projects/webb-draft-judgment/. 12 Boister and Cryer, Documents on the Tokyo International Military Tribunal, 631.  

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