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靖国神社秋季例大祭レポート(其の四)

2024年10月08日 | 歴史探訪<靖国神社>

現在遊就館特別展では「靖國神社と刀剣」が開催されているが、北白川宮能久親王の遺品である指揮刀と共に、台湾でマラリアに罹って寝台の代わりとされた「仁海宮」の扉板(高さ3・3㍍)も展示されているので見学してきた。

「臣下と旧皇族は別である」靖国神社二百四十六万余柱の一座と北白川宮能久親王と宮永久王の二柱は別の一座

>靖國神社社報「靖國」10月号の紹介記事から<

「能久親王は留学中、軍事学や語学を修められ、ご帰国後も来日する国賓を多数お迎えになるなど国際的にご活躍されましたが、その一方で、明治二十八年、日清戦争講和のため締結された下関条約で、清国より割譲された台湾を平定するため近衛師団長として出征されました。
 現地では清軍の残兵などの激しい抵抗に遭いつつも、台北から南へと軍を進められますが、マラリアを発症され桃園(とうえん)市中壢(ちゅうれき)にある仁海宮にご宿泊の際、同宮の門扉を外して長椅子の上に置き、寝台の代わりとされたのがこ扉板です。
  その後ご病状が悪化し、台南にて薨去(こうきょ)されますが、親王を御祭神として祀る「台湾神宮」をはじめ約六十の神社が創建されました。また親王の御遺品が宝物として各神社に安置され、この扉板も仁海宮にて大切に保管されました。
それから約五十年後の昭和二十年、大東亜戦争終結後に台湾の神社はすべて取り壊されますが、親王の御遺品は、現地の人々が各所にて建物の屋根裏に隠すなど大切に保管しました。その後、時の流れとともに人々の記憶から消えつつあるなか、台湾からの引揚者の証言などをもとに親王御遺品の返還事業が始まります。昭和三十五年、軍帽や軍服の返還にあわせてこの扉板も北白川家に寄贈された後、遊就館に奉納されました。」

中華民国総統であった李登輝(日本名岩里政男)は2007年5月から6月に訪日し、日本兵として戦死した2歳年上の兄李登欽(日本名岩里武則)や、3万人余りの台湾人日本兵戦死者のうち26,000人が奉られている靖国神社を参拝した。その際に登輝は同神社に対し「兄の霊を守ってくれることに感謝している」と述べている。そのような台湾の日本外交の基で、「北白川宮能久親王の扉板」が返還されたと推定するが、しかし、下記「陸軍写真帖」にある「臺灣と駐支部隊」の(臺灣の蕃地行軍)の写真は、大日本帝国軍人が現地の台湾人をどの様に見下した態度であったことの証左である。

管理人はこの際に改めて、靖国神社は「清国から鹵獲した獅子一対」と「清国要塞砲」を中国に返還すべきであると提言しておく。

靖国神社は境内案内図から「清朝の狛犬」を消すぐらいなら中国に返還すべき

靖国神社遊就館展示室「日清戦争」に展示されている「清国要塞砲」について堺市中央図書館に調査依頼

天皇裕仁の写真にだけは、パラフィン紙が被せてある。

「臺灣と駐支部隊」の(臺灣の蕃地行軍)の写真は、大日本帝国軍人が現地の台湾人をどの様に見下した態度であったことの証左である。

靖国神社秋季例大祭レポート(其の一)

靖国神社秋季例大祭レポート(其の二)

靖国神社秋季例大祭レポート(其の三)

(了)

 

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