「ABC企画NEWS」第144号が配達されました。ABC企画委員会代表田中寛大東文化大学名誉教授の「歩平先生への手紙」をアップします。
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歩平先生への手紙
ーー没後七年目に思うことーー
田中 寛(ABC企画委員会代表、大東文化大学名誉教授)
歳月人を待たず。光陰矢の如し一。先生がお亡くなりになってはや7年が経ちました。齢を経るにつれ、古来言い慣わされてきた言葉では到底言い尽くせない虚しさを感じます。とりわけ、ここ数年の世界の大きな変貌の渦中にいるからでしょう。
先生の突然の死から4 年後には新型コロナ感染症が世界的に拡大し、世界で約7億人が感染、約700万人が死亡しました。このパンデミックはなぜ起きたのか一ー。その発生原因は今なお闇の中で、感染が収東しないうちにロシアによるウクライナ侵略が、そして、10月には中東でイスラエル・ハマス戦争が勃発しました。局地的とはいえ、背後に大国の思わくがある以上、世界的な現象は何も偶発的なものではなく、歴史的にも必然的な関連性があるとみるのが、歴史家の触角でもあろうと思いますが、先生が生きていらっしゃれば、どのような思いで今の世界をご覧になっているでしようか。
今、私はこれまでにない虚無感、不信感に覆われています。先生にお手紙を書くのもこうした世界史的な大変貌と無関係ではありません。いえ、大いに関係があります。ここ数年、私は人間不信に陥ってしまいました。その思いを伝えたくて今ペンを執っています。うまく言い伝えることが出来るかどうか心配ですが、率直に思いをお伝えしたいと思います。
先日、部屋の中を整理していましたら、懐かしい写真が出てきました。1990年代、先生がたびたび日本を訪れ、市民交流をされていたときのスナップ写真です。東村山市で行われた講演会です。長身の先生はスーツ姿が本当にお似合いで、独学で学ばれたとは思えない的確な日本語で講演されていました。その声は今も耳の底に残っています。まだ四十代の若さでしたね。1990年代、日本では731部隊展が全国巡回され、ついで毒ガス展が開かれました。先生は何度も日本へ足を運ばれ、大久野島の毒ガス被害者とも交流されました。
あれは2000年の5月でした。来日されたときは大抵、友人の写真家Sさんのご自宅に寄宿されていましたね。私もその日のタ刻に食事に招かれ、Sさん宅にお邪魔しました。ちょうどその日は浅草の三社祭の日でしたので、夕食前に先生と一緒に見物に行ったのを覚えています。すごい人出でした。諦めてもう帰ろうかと思っていたのですが、先生はおそらく誰よりも熱心に興味深く祭の光景を見物してらっしゃいました。日本人の庶民の姿、文化習慣などを理解したい、先生の純真な好奇心に私は胸を打たれました。先生は五感のすべてを通して目の前の現象をつぶさに観察しておられたのです。少年のような目の輝きに私は正直、圧倒されました。はじめて「大きな人」に出会った気がしました。
翌日、私は勤務先の大学に所用があり、足を延ばして吉見百穴の地下壕、そして埼玉県平和資料館に先生を案内しました。もう少し気の利いた場所をとも思いましたが、先生はぜひ見たいとおっしやり、そこでも旺盛な関心をしめされ、置かれていたパンフレットをほぼすべて持ち帰られたのです。先生は日中の歴史観の違い、展示の在り方に強い関心をもたれ、普通の参観者ならば一瞥をくれるだけで通り過ぎてしまう資料さえも大切に持ち帰られたのです。先生のそうした姿勢からはあらゆる媒体から日本を知りたい、中国に伝えたいという熱意、意志がひしと伝わってきました。先生のそうした姿はほかの中国人研究者にはみられない高潔な、謙虚さがありました。私も数多くの中国人研究者、中国人とお会いしましたが、先生のような方はなかなか思い浮かびません。目が合うとすぐに笑顔で駆け寄ってきて握手をされました。腰の低い、人間味の温かい方でした。
今では先生のお名前を知っている方も少なくなりました。あの90年代の交流を知る人も減ってきました。仕方のないことでもあります。今年は731部隊の全国巡回展示から30周年です。10年前の20周年記念では先生はじめ、多くの中国人研究者が記念行事に参加されましたね。その時の懐かしい写真もあります。まるで昨日のことのように鮮やかに思い出されます。実に和やかな交流のひとときでした。
私の胸中には多くの忘れられない中国人がいます。私が中国の湖南大学に赴任し、お世話いただいた周炎輝先生、そして同僚の先生方。私が結婚することになった妻の両親、兄弟、そして先生は忘れられない中国人の筆頭に位置しています。私も高齢者になり、もう二度と先生のような方にお会いすることはないでしょう。
思えば、先生が足しげく日本を訪問され、日本の市民と交流されていた時代は、何と生き生きしていたことでしょう。私は大学では歴史学をまなび、以後、ずっと言語研究、教育の世界に生きてきましたが、先生と出逢ってから再び歴史学徒となり、その後も戦争遺留問題、戦争責任問題を考えるようになりました。先生と出逢ってから私の学間観、人生観、中国観も大きく変わったともいえましょう。毎年、中国に滞在する時はお会いするのが楽しみでした。今ではそうした当時を懐かしく思い出さずにはいられません。先生は何と良き時代を生きられたことでしょう。今、先生が御存命であれば、過去の日本人との親密な交流をも指弾、糾弾されかねない時代になりました。学問、言論の自由が保障されない中での歴史研究を進める意味とは何カ、あげくは「漢好」との熔印を捺されかねない、そういう歪(いびつ)な時代なのです。今、それほどまでに神経が敏感な時代になってしまいました。日中の市民レベルの交流、対話がこれほど厳しい時代がこれまであったでしょうか~。
ABC企画のイベントにも積極的に参加され、その後の懇親会では私たちと中野駅の近くの居酒屋で遅くまで懇談しましたね。先生はいつも笑顔を絶やさず、接してくださいました。日中共同研究という難儀な事業にも先生は中国側の座長、責任者としてとり組まれ、任務を全うされました。先生のお人柄でなければなしえなかった事業です。しかし、その裏でどれほど日中の板挟みになって苦しまれていたことでしょう。
今、私達は当然のことのように思っていた言論の自由がいちじるしく制限され、思っていることが率直に言えない時代になりました。貝のように口を閉ざさなければならない時代。真実(信実)はどこにあるのか、わからなくなりました。毎年実施していたABC企画の中国ツアーもコロナ禍の 影響もあって実施できなくなりました。日本人と接する機会が制限されていることもあるのでしょう。
日中の交流のあり方も変わってしまいました。先生が誠意をもって進められた日中の市民、学術交流も停滞し、中国もまるで舵取りを失ってしまった船のように迷走しています。いや、そうではない、とおっしゃる方もいるでしょうが、私にはそう思えてなりません。
先生、私は分からないことが多すぎて頭がくらくらしています。戦争犯罪を追究することは確かに戦争を二度と引き起こさないための最大の「抑止」なのでしょうが、研究、調査を進めれば進めるほど、一方で憎しみを増殖するからです。歴史研究がそこでとどまっていては、研究は途中までで十分になしえたとはいえません。いや、半分もなしえたことにはならないでしよう。
そうした研究成果は対日批判の有力な証拠となるからです。ようやくふさがろうとしていた古傷をさらにこじ開け、新たな憎しみを増殖する。トラウマがいつか大きな憎しみのマグマとなって噴き出すことを恐れます。日本の戦争犯罪を追究すればするほど憎悪が増し、日本糾弾の格好の材料になるのです。研究者の研究成果が反目、攻撃の材料になる。これは歴史研究者にとって健全なことでしょうカ、私にはどうも悪利用、逆利用されているとの印象がぬぐえないのです。歴史研究はそうした方向性だけにとどまってはならない、何かが必要なはずです。私はそれを探し出す、市民に伝えることこそが歴史家の使命だと信じています。為政者に協力するためだけの研究であっていいはずがありません。人類の共同の幸せのための研究でありたいのです。憎しみを上塗りする研究では永遠に憎しみから解放されません。こういう悪循環を先生はどうお考えでしようか。
多くの、いやほとんどの歴史研究者は過去の史実、私の周りでも戦争犯罪を告発し、真相を探究しています。私にはできないこ、とばかりです。そして、晴に落ちないのは、彼らの真剣な活動が自国政府を攻撃し、反省を求め続け、一方の外部の、虎視耽々と世界覇権を狙う国家へは全く向けられないというジレンマ、矛盾です。これは歴史研究者として、真理を追究するものとして、道半ばではないでしょうカ、研究した成果、調査報告をその国へ提供するとなれば、その国にとってこれほど好都合なことはありません。その一方で、自国民がこれほど熱心に歴史事実を告発し、他国に情報を提供することに感謝と同時に、不思議な違和感を覚えるのも事実ではないでしょうか。
当事国でそうした歴史追究をするとなれば、直ちに人権を奪われ、拘東され、歴史研究の自由をはく奪されることでしよう。
価値観の異なる国同士の交流は、ますます困難になっていく気がします。思っていることが自由に言えない時代、世界になってしまいました。平和を享受し続けた日本では、「国防」、「安全保障」という言葉さえもまるで禁句のようになってしまいました。
今夏、私は妻と4 年ぶりに中国に「里帰り」しました。測充の手続きは何かと条件が多く、苦労しました。かつての時代が懐かしく思われました。滞在中も、宿泊場所からは自由に外出することもなく、また中国人と会うことに神経を遣いました。相手方にも迷惑をかけるのでは、との思いもあったからです。これから、日本と中国はどう向き合えばよいのか、先生と交流した人たちも高齢者となり、次世代の後継者はご くごく少数です。 私達のABC企画委員会のメンバーも高齢化が進み、後継者が育たないまま、「終活」を迎えようとしています。正直、いつまで続けられるか、自信がありません。
かつて日中の市民交流に熱心に参画した人たちはほとんど高齢化し、若い人たちも参加しなく養りました。あの90代から十年前ぐらいまでの日中の交流を知る人も少なくなりました。先生のお名前を知らない人たちも多くなりました。中国に対する見方も激変したように思います。残された時間、私は自由に中国と往来し、有意義な交流ができるものと楽しみにしていました。私のこうした悩みは私だけのものではないでしょう。いや、そうではないという人たちがいるでしょう。認識の違いといえばそれまでですが、私は身近に中国人と接している以上、どうしてもこれまで述べた思いを拭い去ることができないでいます。
久し振りのお手紙なのに、悩み事ばかりを書いてすみません。先生とはもっと未来志向の話をすべきでした。何だか沈んだ感じになって申し訳ありません。今度書く時は希望に満ちた明朗な文面にしたいと思います。私よりももっともっと悩み苦しんでいる人たちがいることを考えると、私達はその人たちとこそ連帯しなければならないと強く感じます。この手紙はそういう人たちを鼓舞する意味でも書きました。先生はきっとわかってくださると思います。
いや、きっとまたよくなりますよ。そう言って明るくふるまう先生の笑顔を思い浮かべています。どうか私達を見守っていてください。長文になりましたので、今日はここで失礼します。
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2003年3月19日新宿区家の光会館で開催された、「シンポジウム 毒ガスの完全廃絶を求めて ~悪魔の連鎖を断ち切ろう~」
右からパネラーの中央大学吉見義明教授、歩平先生
懇親会場
(了)