薬王寺町会が発刊した「市谷薬王寺町誌」に陸軍大将児玉源太郎についての記述と資料がある。著者は薬王寺町11番地に住んでいた元新宿区立牛込仲之小学校長で郷土研究家の故芳賀善次郎氏である。
『児玉源太郎は、明治18年ごろ、佐倉連隊から近衛局長に栄転して上京、薬王寺町の陸軍省官邸(位置不明)に入られてから町の住人となった。明治21年7月2日に、152坪9合7勺の土地を購入して邸宅を建てたのであった(以後宅地拡張)。
日露戦争時には、召集された予備兵は寺院に集められたようで、前中島象一郎会長によれば、「薬王寺町・柳町・原町・弁天町の寺々には召集された予備兵がぞくぞく集まり、毎日面会人・慰問団で混雑し、薬王寺住民も各自慰問した。6月ごろ、小雨降る朝、大歓声のもと、寺に泊っている部隊が出発した。進軍ラッパを吹奏し、各部隊が合併して大部隊を編成し、旅順に向かった。薬王寺住民・親戚・知己の万歳・歓呼の声は、天地にとどろいた。日露戦争は大勝利に終り、児玉大将が凱旋した時には、地主の高主が住民を代表して万歳を唱えたという。 薬王寺町74番地船橋家の所には、当時、牛込警察署の分署があり、イヌイの前には交番があった。明治39年9月、日露講和に不平をもつ人々は、いわゆる交番焼打ち事件として発展した。薬王寺交番も11月の夜9時ごろ焼かれた。児玉家は、表門・裏門ともに巡査10人位椅子に腰掛けて警戒に当たった。』
「児玉坂通り」の通称名板は下図にある「表門」前の区道に設置された。