今朝の東京新聞都心版に、2日に行われた「薬王寺坂通り・銀杏坂通り・児玉坂通り」の命名式及び道路通称名板除幕式」の記事が掲載された。取材は社会部松村裕子記者である。
『新宿区は市谷薬王寺町の区道を児玉坂通りと名付け、その由来を紹介するポールを設置した。地元の薬王寺町会が命名式とポールの除幕式を催した=写真。児玉坂通りは町内の約200㍍。日露戦争で活躍した陸軍大将児玉源太郎の邸宅があったことにちなむ。ポールはステンレス製で高さ1.6㍍、15センチ四方の直方体。除幕した原克弘会長は「設置を機にいい町にしていきたい」とあいさつ。児玉大将から5代目に当たり今も町内に住む中山美奈子さん(48)は.「この地に住まいを構えて130年。身の引き締まる思い。代々住んでいきたい」と話した。区は昨年、地域の歴史と文化を伝えるため区民から通りの通称名を募集。町会は、以前から児玉坂と呼ばれており「明治期に活躍した人が町内に住んでいたのは住民の誇り」と児玉坂通りの通称を応募した。区は、児玉坂通りなど67路線の通称を決めた。既に児玉坂通りなど5路線にポールが設置され、残りは本年度中に設置される。』
命名式及び道路通称名板除幕式(右から、新宿区みどり土木部長、児玉家の三人、阪柳光春長昌寺住職、原克弘町会長、花沢信雄町会役員)
「児玉坂通り」の通称名板は下図にある「表門」前の区道に設置された。
『児玉源太郎は、明治18年ごろ、佐倉連隊から近衛局長に栄転して上京、薬王寺町の陸軍省官邸(位置不明)に入られてから町の住人となった。明治21年7月2日に、152坪9合7勺の土地を購入して邸宅を建てたのであった(以後宅地拡張)。
日露戦争時には、召集された予備兵は寺院に集められたようで、前中島象一郎会長によれば、「薬王寺町・柳町・原町・弁天町の寺々には召集された予備兵がぞくぞく集まり、毎日面会人・慰問団で混雑し、薬王寺住民も各自慰問した。6月ごろ、小雨降る朝、大歓声のもと、寺に泊っている部隊が出発した。進軍ラッパを吹奏し、各部隊が合併して大部隊を編成し、旅順に向かった。薬王寺住民・親戚・知己の万歳・歓呼の声は、天地にとどろいた。日露戦争は大勝利に終り、児玉大将が凱旋した時には、地主の高主が住民を代表して万歳を唱えたという。 薬王寺町74番地船橋家の所には、当時、牛込警察署の分署があり、イヌイの前には交番があった。明治39年9月、日露講和に不平をもつ人々は、いわゆる交番焼打ち事件として発展した。薬王寺交番も11月の夜9時ごろ焼かれた。児玉家は、表門・裏門ともに巡査10人位椅子に腰掛けて警戒に当たった。』
(了)